『緋弾のアリア:洛中の蜘蛛は平穏(お茶)を愛す』 作:トート
「さあ、遠山はん。お茶が冷めないうちに、静かな朝の時間をいただきましょか」
シオリは再び目を細め、はんなりと笑うのだった。
◇
それからまた、数日の時が流れた。
東京武偵高校の日常は、相変わらず騒がしく、そして硝煙の匂いに満ちていた。
キンジとアリアの奇妙な同居生活は、毎朝の怒鳴り声と悲鳴から始まり、シオリが淹れる温かいお茶によって辛うじて平和が保たれるという、奇妙な均衡を保っている。
しかし、その平穏を切り裂く刃は、確実に彼らのすぐ近くまで迫っていた。
季節外れの冷たい雨が、お台場の街を白く煙らせていた日の午後。
武偵高の敷地内、生徒たちが放課後の自習や訓練に勤しむ中、学園の正門を潜る一つの異質な影があった。
色素の薄い金髪を、雨に濡らすこともなく、傘も差さずに歩く長身の人影。
仕立ての良い漆黒の衣服を纏い、その腰には細身の、しかし圧倒的な冷気を放つ一振りの西洋剣(レイピア)が下げられている。
その人物が歩くたびに、アスファルトに溜まった雨水が、チリチリと不気味な音を立てて『凍りついて』いった。
イ・ウー最高幹部――魔剣のデュランダル。
彼女の目的はただ一つ、組織を裏切って日本へと逃亡した神崎・H・アリアの回収。
あるいは、そのアリアの周囲にいるとされる、目障りな羽虫どもの排除。
超自然的な「超能力(異能)」を操る本物の怪物が、ついに武偵高の敷地内へと、堂々と足を踏みに入れたのだ。
「……おや」
その時、校舎の2階、特殊捜査科の資料室の窓辺に佇んでいたシオリが、ほうじ茶の湯呑みを手に持ったまま、ほんの僅かに目を細めた。
知覚能力――【糸鳴り】。
雨滴が地面に落ちる微細な振動。それが、お台場の全域に張り巡らされたシオリの鋼糸を通じて、彼の脳内へと立体的な異変を告げていた。
正門から入ってきたその人物の周囲だけ、雨粒の落ちる速度が異常に遅い。
いや、遅いのではない。落ちてくる雨粒が、その人物の数メートル手前で瞬時に凍りつき、微細な氷の結晶となって空気中に霧散しているのだ。
(心拍数は、まるで冬の氷河のように極めて低く、一定。……全身の筋肉が、周囲の熱量を吸い上げるための奇妙な回路として機能しておす。……なるほど、これが噂の『魔剣』はんの正体どすか。ただの武芸者ではおへんな)
シオリの糸目の奥で、深みのある銀色の瞳が冷徹に煌めいた。
実力を隠したAランク武偵として、普段ならこんな面倒な怪物には関わらない。
だが、その氷の足跡は、確実にキンジとアリアのいる「探偵科の校舎」へと向かっている。
自分の愛する平穏な日常、お茶を飲む静かな時間を邪魔されることは、椥辻家の末裔として、どうしても見過ごすわけにはいかなかった。
「せっかくの宇治茶が、凍りついてしまったら美味しくおへんさかいに……」
シオリは湯呑みを机に置くと、懐からチタン製の京扇子をすっと取り出した。
いつもの穏やかな笑顔を浮かべたまま、パタパタと軽快な草履の音を立てて、彼は雨の降る校庭へと向かって歩き出した。
◇
「――見つけたわ、アリア。私の可愛い、迷子の小鳥さん」
探偵科校舎の1階ロビー。
雨宿りをしていたアリアと、彼女に付き合わされていたキンジの前に、その人物は突如として姿を現した。
漆黒の衣を纏った金髪の麗人――デュランダルが、冷たい微笑を浮かべてアリアを見つめている。
彼女の登場とともに、ロビーのガラス窓が一斉に真っ白く結露し、室内の温度が急激に氷点下へと叩き落とされた。
「デュ、デュランダル……っ!? なんで、あんたがここに……!」
アリアの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
ロンドン武偵局にいた頃から、その絶対的な強さを知っているからこその恐怖。
アリアは弾かれたように腰のガバメントを抜き放ち、銃口をかつての組織の上官へと向けた。
「大人しく、ロンドンへ戻りなさい。さもなければ、この私の魔剣が、あなたのその美しいツインテールを凍らせて、木端微塵に砕くことになるわ」
デュランダルが腰のレイピアの柄に手をかける。
その瞬間、ロビーの床一面が、まるでガラスの霜が奔るように一瞬で白く凍りついた。
キンジは通常状態でありながらも、その圧倒的な死の気配に身体を硬直させ、奥歯をガタガタと震わせる。
「く、クソッ……。なんだよ、この寒さは……っ!」
「キンジ、下がってなさい! こいつは、あんたの手におえる相手じゃないわ!」
アリアが叫び、引き金を引こうとしたその瞬間。
凍りついたロビーの自動ドアが、ガラガラと場違いにのんびりとした音を立てて開いた。
「これこれ、アリアはん。そんなに殺気立ってはると、せっかくの防弾制服が冷え切ってしまいますえ?」
「あんた……! ちょっとシオリ、遅いのよ! 私の奴隷(パートナー)のくせに、私を待たせるなんていい度胸じゃない!」
アリアが銃口をデュランダルに向けたまま、ツインテールを跳ねさせて叫んだ。
その言葉にはいつもの怒りが混じっているが、同時に、この規格外の糸目の少年が来てくれたことへの、絶対的な信頼と安堵が隠しきれずに滲み出ていた。
デュランダルは、新しく現れた糸目の少年をジロリと一瞥すると、その美しい眉を僅かにひそめた。
自分の操る絶対的な異能――周囲の分子運動を停止させる「氷結」の領域。
その領域の中にありながら、この少年は一切の体温を奪われることなく、いつもの穏やかな笑顔のまま佇んでいるのだ。
『……ふん。武偵高の羽虫が、もう一匹。アリア、それがあなたの新しい下僕(サーバント)かしら? その程度の扇子で、私の剣を防げると思っているの?』
デュランダルが冷酷に言い放ち、ついにその魔剣を鞘から引き抜いた。
刹那、ロビーの空気が激しく凍結し、無数の鋭利な「氷の破片」が空間に顕現、シオリとアリアたち目がけて一斉に射出された。
音を置き去りにする、氷結の嵐。
しかし。
シオリの十本の指が、まるで見えない糸を弾くように、超高速で虚空を踊った。
キキキキキキィィィィィン――ッ!!!
白い霧の中に、一瞬だけ銀色の巨大な幾何学模様が浮かび上がった。
シオリが両手から放った数千本の『鋼糸・微塵』が、アリアたちの目の前で完璧な防護の網を編み上げていたのだ。
椥辻家が誇る絶対防御陣――【蜘蛛の巣】。
デュランダルが放った鋭利な氷の刃は、シオリの糸の束に激突した瞬間、その強靭な摩擦熱と切断力によって、一瞬にしてただの「冷たい水霧」へと解体され、床へと力なく滴り落ちた。
衣服の端一つ、髪の毛一筋すら、シオリの防壁を突破することはできない。
「布切れ……ではおへんどす。僕の可愛い蜘蛛たちが、少しばかりお節介を焼かせていただきましたわ。それにアリアはん、僕を勝手に奴隷扱いにさはるのは、少し困りますなぁ」
シオリはいつもの穏やかな糸目の笑顔のまま、はんなりと首を傾げてみせた。
アリアの身内びいきな態度に苦笑しつつも、彼の立ち姿には一片の隙もない。
東京武偵高校のロビーを舞台に、氷結の異能を操るイ・ウーの最高幹部と、平安の昔から闇を間引いてきた京の隠密が、ついに正面からその火花を散らしたのだった。
『……私の氷結を無効化した? 神崎・H・アリア、あなたがただの羽虫を連れているとは思わなかったけれど……その男、少しばかり毛並みが違うようね』
デュランダルは冷酷な美貌に、初めて僅かな不快の色を浮かべた。
彼女の操る異能は、周囲の分子運動を強制的に停止させ、あらゆる物質を凍土へと変える絶対の凍結。
それなのに、眼前に佇む糸目の少年――椥辻糸織の周囲だけは、冷気がまるで意思を持つかのように避けて通っている。
否、避けているのではない。シオリの十本の指先から放たれた『鋼糸・微塵』が、超高速の微振動によって凄まじい「摩擦熱」を空間に生み出し、迫り来る冷気を力ずくで相殺し続けているのだ。
「毛並みやなんて、そんな大層なものはおへん。ただ、お台場の冷え込みが少しばかり酷うおすさかい、暖を取らせていただいているだけでおす」
シオリはいつもの穏やかな笑顔のまま、はんなりとした都弁で応じた。
右手で優雅に弄ばれるチタン製の京扇子は、一片の霜すら帯びていない。
そのシオリの超然とした態度に、デュランダルの漆黒の衣が激しく揺れた。
『その余裕が、いつまで持つかしら――砕け散りなさい!』
デュランダルが腰のレイピアを天へと掲げた瞬間、ロビーの天井から無数の巨大なツララが顕現した。
それは一本一千キログラムを超える、物理的な質量を持った氷の巨杭。
彼女が剣を振り下ろすと同時に、重力を置き去りにするほどの猛烈な速度で、シオリとアリア、そしてキンジの頭上へと一斉に降り注いだ。
「危ないっ!!」
通常状態のキンジがその圧倒的な質量に絶望の悲鳴を上げる。
アリアも即座にガバメントの銃口を上空へと向けたが、その神速の連射をもってしても、この数の巨大な氷の塊をすべて撃ち砕くことは不可能だった。
しかし、シオリの十本の指は、まるで見えないチェンバロの鍵盤を叩くように、超高速で、そして美しく虚空を踊った。
キキキキキキキキィィィィィン――ッ!!!
お台場の直線道路で大型ドローンを、深夜のコンテナヤードで軍用ヘリを解体した、椥辻家流暗殺術の真骨頂。
シオリの指先から放たれた数万本の鋼糸が、頭上の空間を完全に覆い尽くすほどの、巨大な銀色の「蜘蛛の網」を瞬時に編み上げた。
椥辻家が誇る絶対防御陣――【蜘蛛の巣】。
ドガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!
凄まじい衝撃音がロビーに響き渡る。
しかし、降り注いだ巨大な氷の巨杭は、シオリの張った鋼糸の網に接触した瞬間、摩擦熱によって一瞬で溶かされ、同時に『微塵』の圧倒的な切断力によって、コンマ数ミリ単位の微細な氷の粒子へと一瞬にして解体された。
ロビーに降り注いだのは、凶悪な質量兵器ではなく、まるで初雪のように美しい、ただの白い粉雪だった。
「……嘘、でしょ……?」
アリアの大きな瞳が、言葉を失って凝視する。
最高幹部であるデュランダルの本気の広範囲攻撃を、この糸目の少年は、またしても汗一つかかずに、ただの「お節介」で完全に無力化してみせたのだ。
『馬鹿な……っ! 私の氷結の巨杭を、何もない空間で全て切り刻んだというの……!?』
デュランダルの冷酷な顔が、初めて驚愕と恐怖に歪んだ。
目には見えない。しかし、確かにそこに存在する、触れるものすべてを切り裂く死の糸の存在。
彼女がその驚異の本質を理解し、後退しようとしたその時。
「――僕の可愛い蜘蛛たちの網に飛び込んできておいて、手ぶらで帰らはるのは、少しばかり行儀が悪いおすえ?」
シオリの声が、すぐ真横から聞こえた。
『な――っ!?』
デュランダルが弾かれたように横を向く。
いつの間に移動したのか。
シオリは草履の音一つ立てず、彼女の僅か二歩手前の距離にまで、音もなく肉薄していた。
その糸目の奥にある、深みのある銀色の瞳が、獲物を捕らえた蜘蛛のように冷徹に、そして美しく輝いている。
シオリが左手の指先をクイクイと小さく動かした。
ギチ、ギチギチ……。
『が……あ、あぐっ……!?』
デュランダルは息を詰まらせ、その場に縫い付けられた。
彼女の手首、足首、そして腰回りに、いつの間にか幾重にも絡みついていた極細の鋼糸。
シオリが頭上の氷を解体したまさにその一瞬の隙に、床の霜を伝わせて、彼女の足元から全身へと糸の網を這わせていたのだ。
動けば動くほど、糸が衣服を切り裂き、その白い皮膚に鋭利な痛みを刻み込んでいく。
「勝負あり、どすえ。魔剣のデュランダルはん」
シオリは畳んだ扇子をデュランダルの細い首筋へとそっと添え、はんなりと微笑んでみせた。
その立ち姿には、一片の殺気すら流れていない。だからこそ、底の知れない怪物の凄みが、ロビーの全域を支配していた。