『緋弾のアリア:洛中の蜘蛛は平穏(お茶)を愛す』 作:トート
「勝負あり、どすえ。魔剣のデュランダルはん」
シオリは畳んだ扇子をデュランダルの細い首筋へとそっと添え、はんなりと微笑んでみせた。
その立ち姿には、一片の殺気すら流れていない。だからこそ、底の知れない怪物の凄みが、ロビーの全域を支配していた。
『……く、あ……っ! この私が、武偵高の、名もなき羽虫ごときに……っ!』
デュランダルは屈辱にその美貌を歪め、細い喉を鳴らした。
彼女はイ・ウーの最高幹部。世界の裏社会で数々の英雄を葬ってきた絶対の魔剣。それが、刀剣すら持たない東洋の少年の前に、指一本動かせぬまま完全に無力化されている。その事実が、彼女の誇りを激しく踏みにじっていた。
しかし、超自然の異能を操る怪物の底力は、シオリの想定をも僅かに上回っていた。
『神崎・H・アリア……! あなたを連れ戻せないのなら、私はこの学園ごと、あなたを氷河の底へと沈めるわ……!』
デュランダルが狂気を孕んだ声で絶叫した瞬間、彼女の身体から、先ほどとは比較にならないほどの「絶対零度の光」が爆発的に溢れ出した。
異能の強制暴走。
彼女は自身の命を削ることで、分子運動を停止させる領域をロビー全体、ひいては探偵科の校舎全体へと一気に拡大させようとしていたのだ。
ピキピキピキピキピキィィィィィン――ッ!!!
ロビーの床、壁、天井のすべてが、一瞬にして数センチメートルもの厚い氷の壁へと変貌していく。
空気中の水分すらも凍りつき、呼吸をするだけで肺が凍傷を起こすほどの、絶対的な死の世界。
シオリの『鋼糸・微塵』の超高速振動による摩擦熱をもってしても、この空間全体を包み込む暴走エネルギーをすべて相殺しきるには、ほんの僅かに熱量が足りない。
「チッ……。これはまた、えらい大がかりな心中を企てはる……」
シオリの銀色の瞳が、初めて鋭く細められた。
彼の手首から放たれた糸が、アリアとキンジを巻き込まないように球体の防壁を急ピッチで編み上げていくが、デュランダルの放つ氷結の波紋は、その防壁をも外側から強引に凍らせて停止させようとしていた。
アリアはあまりの寒さに唇を紫に震わせ、ガバメントを握る指先の感覚を失いかけていた。
そのアリアの華奢な肩が、恐怖と寒さで小さく震える。
その瞬間だった。
アリアの背後にいた遠山キンジの脳内で、何かが決定的に「パチン」と弾け飛んだ。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――ッ!!!
キンジの心臓が、限界を遥かに超越した猛烈なビートを刻み始める。
全身の血管を奔る、沸騰するような熱。
視界のすべてがスローモーションへと変化し、室内の温度を奪い去っていく絶対零度の光の波紋すらも、今のキンジの脳内では「止まって」見えていた。
自身の性染色体が女性の刺激を受けることで、脳内に特殊な脳内物質が分泌され、全身体能力が通常の数十倍へと跳ね上がる、絶対の戦闘モード。
――【ヒステリアモード】。
「――下がっていろ、アリア。これ以上、お前を寒がらせるわけにはいかないからな」
低く、甘く、そして世界のすべてを支配するような絶対的な自信に満ちた声。
キンジは一歩前に踏み出すと、凍りついた床の上を滑るように走り出した。普段の無気力な彼からは想像もつかない、神速の身のこなし。
腰のホルダーからベレッタM92Fが引き抜かれ、その銃口がデュランダルの心臓へと一瞬で向けられる。
(おや……。遠山はん、また一段と良い男になりはって)
シオリはキンジの生体反応が爆発的に跳ね上がったことを【糸鳴り】で察知し、その細い目の奥でほくそ笑んだ。
最高の舞台は整った。
平穏を愛する二人の現地主人公による、怪物を屠るための刹那の共闘。
「遠山はん、あのお嬢さんの氷結の核(コア)は、掲げられたレイピアの柄の宝石にありますえ!」
「わかっているさ、椥辻。お前が作ったその道を、俺が撃ち抜く!」
キンジは走りながら、ベレッタの引き金を一切の躊躇なく引き絞った。
タン、タン、タン、タン――ッ!!
放たれた9ミリ弾は、デュランダルが放つ絶対零度の障壁を突き破り、その中心へと突き進んでいく。
しかし、暴走する冷気の渦は凄まじく、弾丸の表面が瞬時に凍りつき、その運動エネルギーが急激に奪われていく。このままでは、弾丸が標的に届く前に失速して床へと落ちる。
だが、彼らの間には、お節介な暗殺者の紡ぐ糸があった。
「僕の糸の道を、通りなはれ!」
シオリの十本の指が、虚空で凄まじい軌跡を描いた。
シュウウウウウウウ――ッ!!!
キンジが放った弾丸の軌道に沿うように、シオリの放った数十本の『鋼糸・微塵』が、超高速の振動を保ったまま「一本の真空の筒」を空間に編み上げたのだ。
外側の絶対零度の冷気を完全に遮断し、内部の摩擦熱によって空気の抵抗すらゼロにした、シオリにしか作れない絶対の弾道。
キンジの放った弾丸は、シオリが作ったその銀色の筒の中を潜り抜けることで、凍りつくどころかさらに加速し、超音速のキリとなってデュランダルの元へと肉薄した。
『な……っ!? 私の凍結を、弾丸が突き抜けて……!?』
デュランダルが絶叫する。
次の瞬間、キンジの放った一発目の弾丸が、デュランダルが掲げていた西洋剣(レイピア)の柄に嵌め込まれた、青い魔力の宝石へと正確無比に直撃した。
パキィィィィィィン――ッ!!!
鼓膜を突き刺すような、澄んだ破壊音がロビーに響き渡る。
異能の暴走を制御していた核が砕け散った瞬間、ロビーを包み込んでいた圧倒的な冷気の波紋が、まるで魔法が解けたかのように霧散し、ただの暖かい空気へと戻っていった。
床や壁を覆っていた氷が音を立てて溶け出し、水滴となって床へと滴り落ちる。
「……はぁ。終わったな、デュランダル」
キンジは硝煙の立ち上るベレッタを流れるような動作で回し、ホルダーへと収めた。その立ち姿は、傷ついたアリアを守り抜いた、完璧な騎士のそれだった。
「う、嘘……。最高幹部の異能を、二人で、一瞬で……」
後ろで見守っていたアリアは、腰が抜けそうになるのを必死に堪えながら、二人の少年の背中を凝視していた。
急激に王者の風格を纏ったキンジと、はんなりとした笑みのまま空間を支配していたシオリ。
この二人が揃った時、世界最強の犯罪組織「イ・ウー」の幹部すら、ただの羽虫のようにあしらわれてしまう。その圧倒的な現実が、アリアの胸を激しく高鳴らせていた。
『あ……あ、あり得ないわ……! この私の絶対零度の領域を、武偵高の子供たちが打ち破るなんて……っ!』
デュランダルは砕け散った宝石の破片を呆然と見つめ、その場に膝を突いた。
核を破壊された彼女の身体からは、先ほどまでの圧倒的な冷気の覇気が完全に消失している。
しかし、彼女の誇りはまだ死んでいなかった。満身創痍の身体を震わせながら、なおも手元に残った細身の剣身(ブレード)を握り直し、シオリへと向けて突き出そうとした。
「往生際が悪いお人は、お茶の味が苦くなってしまいますえ」
シオリはいつもの穏やかな糸目の笑顔のまま、右手の五本の指を、まるであやとりの糸を結ぶように滑らかに交差させた。
チッ、チチチッ――。
デュランダルが剣を振るうよりも早く、彼女のレイピアの剣身に、幾重にも巻き付いていた極細の鋼糸『微塵』が一斉に締め上げられた。
シオリが指先を小さく弾いた瞬間。
パキパキパキパキ、パァンッ!!!
凄まじい硬度を誇っていたはずの魔剣の刀身が、まるで脆いガラス細工のように、数十個の破片へと綺麗に切断され、アスファルトの床へと虚しく転がった。
椥辻家の暗殺術。それは、相手の武器の分子結合の隙間にまで糸を滑り込ませ、物理的に「解体」する絶対の切断術である。
『剣が……私の、デュランダルが……木端微塵に……』
手元に残った柄だけを握り締め、イ・ウーの最高幹部は完全に戦意を喪失した。
生まれて初めて味わう、圧倒的なまでの敗北感。
アリアという「迷子の小鳥」を回収しにきたはずが、東京の地には、世界最強の犯罪組織すら容易にねじ伏せる二人の怪物が潜んでいたのだ。
ウーウーウーウー――ッ!!!
その時、校舎の遥か彼方から、武偵高の警備班や教師たちが駆けつけてくるサイレンの音が不穏に響き渡った。
ロビーでのこれほどの大規模な戦闘だ。学園の運営陣が気づかないはずがない。
「……おや。騒がしい大人たちが、お出ましどすな。遠山はん、アリアはん。僕らはそろそろ、ただの生徒に戻らなあきまへんえ?」
シオリは十本の指を制服の袖口へと音もなく収めると、何事もなかったかのように穏やかに微笑んだ。
知覚能力――【糸鳴り】。
シオリが床に走らせた糸が、駆けつけてくる教師たちの距離を正確に数値化していた。到着まで、あと残り45秒。
シオリは左手の扇子を優雅に一閃させると、空間に張り巡らせていたすべての『鋼糸・微塵』を急ピッチで振動させた。
その摩擦熱によって、ロビーの床や壁に残っていた戦闘の痕跡――デュランダルが凍らせた水滴や硝煙の臭いが、一瞬にしてすべて水蒸気へと変えられ、換気口の向こうへと綺麗に消し去られていく。
プロの暗殺者としての、完璧な事後処理(証拠隠滅)。
「待ちなさい、デュランダル! あんたをこのまま逃がすわけには――」
アリアがガバメントを構え直して歩み出そうとしたが、シオリはその前にすっと立ち塞がり、はんなりと首を傾げた。
「これこれ、アリアはん。これ以上騒ぎを大きくしたら、特殊課の先生方に大目玉を食らってしまいますわ。あの魔剣はんも、もう二度とお台場の朝を汚しには来はらへんでしょ?」
シオリの細められた瞼の奥から、一瞬だけ、底の知れない銀色の眼光がデュランダルへと注がれた。
『次、僕らの平穏を邪魔するなら、その時は命をおいていきなはれ』
その無言の警告を正しく理解したデュランダルは、屈辱に唇を噛み締めながらも、漆黒の衣を翻すと、割れたガラス窓の向こうの雨夜へと、霧のように姿を消していった。
「あ……待ちなさいってば!」
アリアが悔しそうに叫んだ、まさにその瞬間。
ピピピピピッ、とキンジの防弾制服のポケットから、空気を読まない通信機の呼び出し音がけたたましく鳴り響いた。
「……あ、俺だ」
キンジが不機嫌そうに通信機を取り出す。画面に表示されていたのは、武偵高の教務課からの「最終通告」だった。
『遠山キンジ君。先日の襲撃事件のレポートが未提出のため、このままでは本当に留年が確定します』という冷酷な機械音声。
その内容を聞いた瞬間、キンジを包んでいた王者のような覇気が、急激に萎むように完全に消失した。
「あ……嘘だろ……。レポートの締め切り、今日だったのかよ……っ!?」
さっきまで魔剣を相手に神速の銃撃を披露していた色男はどこへやら、キンジは頭を抱えてその場にガックリと崩れ落ちてしまった。普段の冴えない、やる気のない「ヘタレのキンジ」への完全な逆戻りである。
「ちょっと、あんた急にどうしたのよ! 気持ち悪いわね!」
アリアが信じられないといった顔でキンジを見下ろす。
「……ふふ。遠山はん、またいつものお顔に戻りはりましたな。安心いたしましたわ」
シオリはそれを見て、クスリと楽しそうに微笑んだ。
やはり自分には、この騒がしくもどこか抜けている日常の風景が一番似合っている。
◇
それから数時間後。
すっかり雨の上がった夕暮れ時、男子寮の遠山キンジの部屋には、再び香ばしいお茶の香りが漂っていた。
畳の上には、シオリが淹れた温かいほうじ茶の湯呑みが三つと、お詫びとして持参した京都名物の八ツ橋が並べられている。
「……はぁ。俺の平穏な一般高校への転校計画が、また一歩遠のいた……」
キンジは座卓に突っ伏したまま、死んだ魚のような目で湯呑みを見つめていた。シオリの手助け(お節介)によってレポートは何とか形になったものの、アリアという嵐が部屋に居座る現状が変わるわけではない。
「何よ、私の奴隷(パートナー)になれるんだから、むしろ光栄に思いなさい! それにしても……」
アリアは八ツ橋を美味しそうに頬張りながらも、座卓の向こうで優雅にお茶を啜っているシオリをジロリと睨みつけた。
「ちょっとシオリ。あんた、今日の戦いだって、絶対にただのAランクの動きじゃなかったわ。私の目に狂いはないんだから、白状しなさい!」
アリアがツインテールを跳ねさせてシオリに詰め寄る。
彼女の中でのシオリへの評価は、もはや「得体の知れない化け物」から「全幅の信頼を置ける身内の怪物」へと変わっていた。だからこそ、自分の奴隷として、その実力のすべてを把握しておきたいのだ。
「隠すやなんて、滅相もない。僕はただ、お隣同士、仲良くお茶を飲みたいだけの、お節介な蜘蛛にすぎまへんえ?」
シオリは上品に制服の袖を口元に当て、はんなりと笑ってみせた。
いつも通りの、底の知れない糸目の笑顔。
世界最強の犯罪組織「イ・ウー」、そしてこれから迫り来るであろう新たなる刺客の影。
それらの脅威がどれほどこの街を脅かそうとも、シオリの張る目に見えない蜘蛛の糸は、この騒がしくも愛おしい二人の日常を、裏からどこまでも冷徹に、そして優雅に守り抜く。
「さあ、遠山はん、アリアはん。お茶が冷めないうちに、静かな夕暮れの時間をいただきましょか」
シオリは再び目を細め、はんなりと笑うのだった。