『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』 作:悲劇のキャラに救済を
雷の音がした。
空を裂くような轟きではない。
もっと近い。
胸の奥で鳴る、心音のような雷だった。
「……っ」
息を吸った瞬間、肺に入ってきた空気が違った。
湿った風。
海の匂い。
どこか甘い花の香り。
それから、身体の奥を流れる、ぞっとするほど濃い力。
目を開ける。
知らない天井があった。
木と紙で組まれた、古い和風の部屋。
障子の向こうから、淡い光が差し込んでいる。
身体を起こそうとして、違和感に固まった。
長い髪が肩から流れ落ちる。
視界の端で、紫の髪が揺れた。
腕が細い。
指が白い。
胸元にかかる布の感触も、腰へ落ちる髪の重さも、何もかもが自分の知っているものではなかった。
「……は?」
声が出た。
自分のものではない声だった。
柔らかく、澄んでいて、耳に残る。
男だったはずだ。
少なくとも、昨日までは。
いや、昨日。
本当に昨日だったのか。
仕事帰り。
スマホの画面。
疲れ切った身体。
コンビニの明かり。
胸を掴まれるような痛み。
そこから先が、ない。
代わりに、頭の奥へ別の記憶が流れ込んでくる。
稲妻。
神。
雷。
民。
妹。
影。
そして――眞。
「眞様?」
障子の向こうから声がした。
びくりと肩が跳ねる。
こちらの反応を怪しんだのか、襖の外の気配が少し揺れた。
「お目覚めでしょうか。御身に障りはございませんか」
眞様。
今、そう呼ばれた。
雷電眞。
脳裏に浮かんだ名前を、息を殺して反芻する。
稲妻。
雷電将軍。
雷電影。
そして、雷電眞。
死んだはずの、初代雷神。
「……大丈夫です」
返事は自然に出た。
自分の口から出たとは思えないほど、穏やかな声だった。
襖の外の気配が安堵する。
「それは何よりでございます。影様も、先ほどよりお待ちに」
影。
その名を聞いた瞬間、心臓が強く鳴った。
いや、違う。
心臓ではない。
雷だ。
身体の奥で、雷が小さく震えた。
「影が……?」
「はい。眞様のお目覚めを、ずっと」
言葉が喉で詰まる。
影。
雷電影。
雷電眞の妹。
武を担い、姉の影武者として戦い、やがて姉を失い、五百年もの間、永遠に縋る神。
知っている。
知っているはずだった。
画面の向こうで見た。
雷電将軍として立つ彼女を。
冷たく、強く、揺るがない神として。
けれど、その奥にいた影は、ずっと失っていた。
姉を。
友を。
稲妻の過去を。
大切なものを、あまりにも多く。
指先が震えた。
この身体は雷電眞のものだ。
なら。
この先に待っている未来も、知っている。
大いなる災い。
黒く濁った空。
裂けた大地。
壊れていく国。
消える白狐。
狂わされる鬼。
戻らない天狗。
そして、雷電眞の死。
「……通してください」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「かしこまりました」
襖が開く。
光が差し込む。
そこに、彼女がいた。
紫の髪。
凛とした立ち姿。
まだ、こちらの知る雷電将軍よりも若く見える。
けれど、目は鋭い。
武人の目だった。
こちらを見た瞬間、彼女の表情がほんの少しだけ緩む。
「眞」
その一言で、胸が詰まった。
眞。
たった一つの名前。
それだけで、雷電眞という存在が、この世界にしっかり根を下ろしていたことが分かってしまう。
彼女にとって、自分は主君であり、半身であり、姉なのだ。
遠い神ではない。
手の届く場所にいる、たった一人の姉なのだ。
「影」
名前を呼ぶ。
影は静かに近づいてきた。
「気分は」
「平気です。少し、夢見が悪かっただけ」
言ってから、自分の言葉に嫌な汗が滲む。
夢。
そうだ。
あれが夢なら、どれほどよかったか。
眞が死ぬ未来も。
影が一心浄土に閉じこもる未来も。
人々の願いが奪われる未来も。
稲妻が停滞する未来も。
すべてただの夢なら、どれほど楽だったか。
けれど、この身体が教えてくる。
ここは本物だ。
目の前の影も。
この空気も。
胸の奥で鳴る雷も。
すべて本物だ。
「顔色がよくない」
影が距離を詰める。
迷いのない動きだった。
こちらの前で足を止め、じっと目を見る。
その距離の近さに、一瞬だけ戸惑う。
妹。
そう思うより先に、雷電眞の身体がその存在を受け入れていた。
影は、近くにいて当然の存在。
背中を預ける相手。
剣であり、半身であり、家族。
「何かあったのですか」
影の声は静かだった。
けれど、その奥に鋭さがある。
隠し事を見抜こうとする目。
ああ、そうか。
この子は鈍くない。
むしろ、誰よりも近いから気づく。
今の自分が、少しだけ雷電眞と違うことに。
「……本当に、少し夢を見ただけです」
「夢」
「ええ。悪い夢」
影は黙った。
その沈黙が、重い。
こちらを責めるわけではない。
ただ、待っている。
眞が話すなら聞く。
話さないなら、無理には聞かない。
そういう沈黙だった。
それが余計に苦しかった。
この子は、未来でずっと待つことになる。
帰ってこない姉を。
消えた友を。
変わっていく稲妻を。
戻らない時間を。
ずっと。
ずっと。
「影」
「はい」
「こちらへ」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
影は一瞬だけ目を瞬かせる。
けれど、素直に近づいてきた。
手を伸ばす。
紫の髪に触れる。
影の身体が小さく固まった。
そういうことをされ慣れていないのかもしれない。
あるいは、今の眞が急にそんなことをしたから驚いたのかもしれない。
指先に、髪の柔らかさが伝わる。
生きている。
当たり前のことなのに、それが痛いほど胸に刺さった。
「眞?」
「……何でもありません」
嘘だ。
何でもなくなんてない。
自分は知っている。
この子が泣けないほど強くなってしまう未来を。
この子が、人の願いを恐れる未来を。
変化を嫌い、永遠に縋り、姉が愛したはずの一瞬一瞬を閉じ込めようとする未来を。
その原因の一つが、自分の死であることを。
雷電眞の死。
それは、すでに知っている物語の中で、変えられない過去として語られていた。
けれど。
今、ここに自分がいる。
この身体で。
この時代に。
この妹の前に。
なら、まだ終わっていない。
「影」
「はい」
「あなたは、強いですね」
影の眉が少し動く。
「それが私の役目です」
「役目だけではありません」
言葉を選ぶ。
雷電眞なら、どう言うだろう。
穏やかに。
柔らかく。
けれど、芯を持って。
「あなたは、私の大切な妹です」
影が息を呑んだ。
ほんのわずか。
でも、確かに。
「……急にどうしたのです」
「夢見が悪かったから、少し弱くなっているのかもしれません」
「眞が弱いなど」
「弱いですよ」
思わず笑った。
その笑みは、少しだけ震えていたと思う。
「私は、あなたほど強くありません」
「それは違います」
影は即答した。
あまりにも迷いがなかった。
「眞は、私よりもずっと強い」
「武では、あなたの方が上でしょう」
「それだけが強さではありません」
影の声が、少し低くなる。
「私は斬ることしかできません。敵を退け、障害を払い、眞の道を開く。それが私の役目です」
真っ直ぐな言葉。
真っ直ぐすぎて、痛い。
「けれど眞は、人を見ています。国を見ています。私が斬った先に何を残すべきかを、いつも考えている」
影は目を伏せた。
「だから、私は眞の影でいい」
その言葉に、喉の奥が焼けた。
違う。
違うんだ、影。
あなたは影なんかじゃない。
そう言いたかった。
けれど、今ここで言葉を重ねても、きっと届かない。
この時代の影は、自分の在り方をそう定めている。
眞のために戦う剣。
眞の影。
それが誇りであり、居場所なのだ。
だからこそ、眞を失った時に壊れる。
自分の中心を失うから。
「……では、私も覚えておきます」
「何をですか」
「あなたが道を開いてくれるなら、私はその先に、ちゃんと残すものを選ばなければならないということ」
影がこちらを見る。
少しだけ、表情が和らいだ。
「眞らしい言葉です」
胸が痛む。
らしい。
そう言われるたびに、怖くなる。
自分は雷電眞ではない。
雷電眞の記憶を持ち、雷電眞の身体にいて、雷電眞として呼ばれている。
けれど中身には、前世の自分がいる。
男として生き、疲れ切って死んだはずの自分が。
この世界を、物語として知っていた自分が。
それでも。
目の前の影は、自分を眞と呼ぶ。
なら、逃げられない。
雷電眞として生きるしかない。
少なくとも、この子を守ると決めた以上は。
「影」
「はい」
「今日は、少し外を歩きましょう」
「身体は」
「大丈夫です。あなたも一緒に」
「分かりました」
影は短く答えた。
けれど、その声は先ほどより少し柔らかかった。
部屋を出る。
廊下の向こう、光が眩しい。
外には、古い稲妻が広がっていた。
まだ自分が知る稲妻とは違う。
鎖国令もない。
目狩り令もない。
雷電将軍の人形もいない。
ただ、神と妖と人が混ざり合いながら生きている国。
海風が吹いた。
遠くで笑い声が聞こえる。
空には、紫がかった雲が薄く流れていた。
美しい国だった。
だから、怖くなった。
この美しさが失われることを知っている。
この穏やかな時間が、いつか血と雷と黒い災厄に呑まれることを知っている。
狐斎宮が消える。
千代が狂う。
笹百合がいなくなる。
影が、失う。
眞が、死ぬ。
知っている名前が、未来の喪失として頭に並ぶ。
吐き気がした。
でも、立ち止まらない。
影が隣にいる。
こちらを見ている。
「眞」
「何ですか」
「やはり、今日は少し遠い」
足が止まりかけた。
影は前を向いたまま、静かに言った。
「ここにいながら、どこか別のものを見ているようです」
本当に、鋭い。
この子に隠し事をするのは、きっと楽ではない。
けれど、それでも隠さなければならないことがある。
未来を知っているなどと言えない。
この国が壊れるなどと言えない。
あなたが五百年苦しむなど、言えるはずがない。
そう思った。
けれど。
本当に、それでいいのか。
何も言わないまま。
何も残さないまま。
いつか自分が消えた時、影はどうなる。
また、この子は待つのではないか。
言葉もなく。
理由もなく。
ただ、失ったものの前で立ち尽くすのではないか。
それは、違う。
隠すことと、置き去りにすることは同じではない。
話せないことがある。
けれど、何も話さなくていい理由にはならない。
「影」
「はい」
「少しだけ、話してもいいですか」
影がこちらを向いた。
驚きは一瞬だけだった。
すぐに、真剣な目になる。
「聞きます」
その言葉だけで、少しだけ救われた。
でも、同時に怖くなる。
何を言えばいい。
どこまでなら許される。
カーンルイア。
天理。
未来。
死。
その名を口にしようとした瞬間、喉の奥に細い雷が走った。
違う。
これは身体の反応ではない。
もっと外側。
地面の下を流れる何かが、こちらの言葉を聞こうとしているような感覚。
地脈。
記録。
世界そのものの耳。
ぞっとした。
具体的な名を出せば、刻まれる。
刻まれれば、固定される。
変えようとした未来が、逃げ道を失う。
そんな直感があった。
「……すべては、話せません」
影の表情は変わらない。
ただ、少しだけ目が細くなった。
「なぜ」
「話せないからです。あなたを信じていないからではありません」
そこだけは、すぐに言わなければいけないと思った。
影の手が、かすかに動いた。
「眞」
「本当です。私は、あなたを信じています。誰よりも」
海風が吹く。
薄紫の髪が揺れる。
影は黙って聞いていた。
「でも、言葉にすると、世界に刻まれてしまうものがある。まだ形になっていないはずの災いを、私の言葉が呼び寄せてしまうかもしれない」
「災い」
「ええ」
そこまでなら言える。
名は出さない。
場所も出さない。
誰が死ぬとも言わない。
ただ、輪郭だけを渡す。
「いつか、大きな災いが来ます。稲妻だけではありません。多くの国が傷つき、多くのものが失われる」
影の目が鋭くなる。
「敵ですか」
「敵と呼べるものもいるでしょう。けれど、剣で斬れば終わるものばかりではありません」
「ならば、なおさら備えるべきです」
「だから、備えます」
影が一歩近づいた。
「私も行きます」
あまりにも当然のように言う。
眞が向かうなら、自分も行く。
眞が戦うなら、自分も戦う。
その覚悟が、言葉より先に伝わってくる。
胸が痛かった。
「ええ。きっと、あなたの力を借ります」
「ならば――」
「でも、影」
遮る。
影が止まる。
「もし、その災いの中で、私があなたの前から消えることがあっても」
影の呼吸が止まった。
空気が変わる。
先ほどまで穏やかだった雷の気配が、わずかに硬くなった。
「何を言っているのです」
「今は、悪い夢を見たのだと思ってください」
「夢なら、忘れればいい」
「忘れられない夢もあります」
影の目が揺れる。
それは怒りではない。
恐れに近かった。
この時代の影は、まだ失っていない。
けれど、失うことを知らないわけではない。
神であっても、戦いの中にいる。
何かが消えることの意味くらい、分かっている。
「眞は、消えません」
「そうならないようにします」
「違う」
影の声が少し強くなった。
「私が、そうさせない」
真っ直ぐな言葉。
頼もしい。
あまりにも頼もしくて、泣きそうになった。
でも、だからこそ言わなければならない。
「影」
「……はい」
「私を守るために、あなた自身を止めないで」
「意味が分かりません」
「今は、それでいいです」
「よくありません」
影が即座に返す。
その反応が、少しだけ妹らしくて、眞は小さく笑ってしまった。
影の眉がわずかに寄る。
「笑うところではありません」
「すみません。でも、嬉しかったのです」
「嬉しい?」
「あなたが、私の言葉に怒ってくれたから」
影は黙った。
眞は手を伸ばす。
今度は髪ではなく、影の手を取った。
武人の手だった。
細く見えて、硬い。
剣を握る手。
ずっと眞のために戦ってきた手。
「もし、私がいなくなる日が来ても」
「眞」
「聞いて」
影の言葉を、今度はこちらが止める。
影は唇を閉じた。
その目には、納得できないという色がはっきり浮かんでいた。
それでも、聞いてくれる。
やはり、この子は優しい。
「私のために、時を止めないで」
影の指先が震えた。
「私のために、人の願いを恐れないで」
そこまで言った瞬間、胸の奥で雷が軋んだ。
言いすぎたかもしれない。
でも、止めなかった。
「私が愛する稲妻は、変わっていく稲妻です。人が生き、願い、迷い、進んでいく国です。たとえ私がそばにいなくても、その歩みを止めないで」
影は答えない。
答えられないのだと思う。
当然だ。
今の影には意味が分からない。
何も起きていない。
誰も死んでいない。
稲妻はまだ、目の前で笑っている。
そんな時に、姉が突然、消えた後の話をしている。
意味が分からない方が自然だった。
「……なぜ、そんなことを言うのです」
影の声は、先ほどより低かった。
「そんな未来は来ません」
「来ないようにします」
「ならば、なぜ言うのです」
その問いは、痛かった。
眞は少しだけ目を伏せる。
変なプライドはいらない。
強がりもいらない。
完璧な神のふりをして、妹を遠ざける必要もない。
なら、言えることは一つだった。
「怖いからです」
影が息を呑んだ。
「私は、怖い。あなたを残してしまうことが。あなたが、私のいない場所で立ち止まってしまうことが。あなたに何も残せないまま、消えてしまうことが」
言葉にした瞬間、胸が軽くなった。
同時に、苦しくなった。
雷電眞としては、弱すぎる言葉かもしれない。
けれど今の自分には、これが本心だった。
「だから、今のうちに伝えておきたいのです」
影の手を握る力を、少しだけ強める。
「私は、あなたを信じています。あなたが私の影で終わらないことを。あなた自身の目で稲妻を見て、あなた自身の足で進んでくれることを」
「私は……」
影の声が揺れた。
「私は、眞の影です」
「ええ」
否定しない。
今、真正面から否定すれば、この子の誇りを傷つける。
「けれど、それだけではありません」
影がこちらを見る。
「あなたは、影です。でも、影だけではない。私の妹で、私の半身で、私がいなくても稲妻を見ることができる人です」
「眞がいない稲妻など」
「影」
静かに呼ぶ。
影は言葉を止めた。
「今は、分からなくていい。怒ってもいい。納得できなくてもいい。ただ、覚えていて」
海風が二人の間を抜けていく。
遠くで誰かが笑っている。
この世界は、まだ何も知らない。
「私は、何も残さず消える姉にはなりません」
影の瞳が揺れた。
「すべては話せない。けれど、何も話さずに置いていくつもりもありません。約束します」
「……約束」
「ええ。あなたと私の約束です」
影はしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
怒っているのかもしれない。
困惑しているのかもしれない。
あるいは、どちらもか。
けれど、やがて影は小さく息を吐いた。
「分かりません」
「ええ」
「納得もしていません」
「はい」
「それでも、眞がそこまで言うなら、覚えておきます」
胸の奥が熱くなる。
「ありがとう、影」
「ただし」
影の声が硬くなる。
「眞が消えるなど、私は認めません」
その言葉が、あまりにも影らしくて。
眞は今度こそ、自然に笑った。
「ええ。私も、認めるつもりはありません」
「ならば、いい」
影はそう言って、ようやく手を離そうとした。
けれど、眞は離さなかった。
影が不思議そうに見る。
「もう少しだけ」
「……眞」
「弱くなっているのでしょう?」
自分で言って、少しだけ笑う。
影は呆れたように目を伏せた。
けれど、手を振りほどくことはしなかった。
その優しさが痛い。
その温かさが怖い。
失いたくない。
ただ、それだけだった。
空を見上げる。
雷雲はない。
けれど、この身体の奥には雷がある。
神の力。
死ぬはずだった神の身体。
未来を知る魂。
全部が、今ここにある。
なら、使う。
どんなに怖くても。
どれだけ重くても。
この世界が画面の向こうの物語ではなくなった以上、見ているだけではいられない。
まずは生き残る。
雷電眞は死なない。
いや。
正確には、死んだことにしなければならない日が来るのかもしれない。
影が雷神になる歴史。
稲妻が歩む流れ。
神櫻。
天理。
大いなる災い。
それらを壊さずに、救えるものを救う方法を探す。
今はまだ何も分からない。
けれど、決めた。
私は、死なない。
影を、ひとりにはしない。
そして、たとえ姿を隠す日が来ても。
何も残さずに、置いていくことだけはしない。
「影」
「はい」
「帰ったら、お茶にしましょう」
「……それは、今でなければならないことですか」
「今だからです」
影は少し考えたあと、小さく頷いた。
「では、付き合います」
「ええ」
風が吹く。
古い稲妻の空の下、二人分の足音が並んだ。
未来はまだ遠い。
災いも。
厄災も。
死も。
今はまだ、遠い。
けれど、確かに近づいている。
だからこそ、私はこの一瞬を忘れない。
影が隣にいる。
稲妻がまだ笑っている。
雷電眞は、まだ死んでいない。
なら、ここから変える。
誰にも知られず。
何も壊さず。
それでも、確かに。
私はこの世界で、最初の嘘をつく準備を始めた。
けれど、その嘘の中に。
影へ残した約束だけは、混ぜないと決めた。