『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第10話 名を残さず、想いを残す

 

 

 森の奥には、音があった。

 

 葉擦れ。

 

 水の流れ。

 

 小さな獣が枝を踏む音。

 

 遠くで鳴く鳥の声。

 

 そして、そのすべてのさらに奥で、何かが静かに脈打っている。

 

 地面の下。

 

 木々の根のさらに先。

 

 見えない場所で、世界が呼吸しているような音。

 

 眞は、それを聞いていた。

 

 耳ではない。

 

 胸の奥で。

 

 雷の気配とは違う。

 

 岩の重さとも、塵の軽さとも違う。

 

 草と記録。

 

 生と記憶。

 

 世界に残るものと、世界からこぼれるもの。

 

 それらが、森全体に薄く広がっている。

 

「緊張していますか?」

 

 大慈樹王が問うた。

 

 声は柔らかい。

 

 けれど、森の奥から聞こえるような深さがある。

 

「しています」

 

 眞は正直に答えた。

 

「隠さないのですね」

 

「隠すと、だいたい見抜かれますから」

 

 帰終が小さく笑った。

 

「良い傾向ね」

 

「稲妻でも同じことを言われました」

 

「あなたの周りは、よく見ている人が多いのね」

 

「ええ」

 

 眞は頷いた。

 

 影。

 

 狐斎宮。

 

 千代。

 

 笹百合。

 

 皆が、眞の背中を見ている。

 

 見てくれている。

 

 だから、一人で背負わずにいられる。

 

 けれど、それでも。

 

 この場所は怖かった。

 

 世界樹。

 

 その名を知っている。

 

 それがどれほど大きな意味を持つのかも、知っている。

 

 世界の記録。

 

 記憶の改変。

 

 忘却。

 

 存在の抹消。

 

 そこに触れるということは、ただの封印術や結界術とは違う。

 

 下手をすれば、救うための道が、誰かを最初からいなかったことにしてしまう。

 

 それが怖い。

 

 大慈樹王は、そんな眞を見て静かに微笑んだ。

 

「怖がることは悪いことではありません」

 

「昨日から、そればかり言われています」

 

「それだけ、あなたが怖がりながら進んでいるということでしょう」

 

 モラクスが低く言う。

 

「怖れのない契約は脆い。代償を見ない者ほど、軽く結び、軽く破る」

 

 帰終が首を傾げる。

 

「あなた、最近そればかりね」

 

「事実だ」

 

「ええ、事実。でも少し説教臭いわ」

 

「必要な説教だ」

 

「岩らしいわね」

 

 二人のやり取りに、眞は少しだけ息を吐いた。

 

 重い場面でも、帰終は帰終だった。

 

 それが救いだった。

 

 大慈樹王は、眞が抱えていた匣へ視線を落とす。

 

「始めましょうか」

 

 眞は頷き、布包みを開いた。

 

 淡い塵を宿した小さな球。

 

 まだ名もない匣。

 

 帰終の塵。

 

 モラクスの契約。

 

 眞の雷。

 

 そこに、これから大慈樹王の知恵が加わる。

 

 四柱の力を借りるには、あまりにも小さな器だった。

 

 けれど、その小ささが重要なのだと、帰終は言った。

 

 大きな器は、世界に見つかりやすい。

 

 強すぎる封印は、封じたものの形を歪める。

 

 逃がすなら、小さく。

 

 残すなら、細く。

 

 けれど、切れないように。

 

「まずは、何を入れるかね」

 

 帰終が言った。

 

「名前は駄目。死も駄目。具体的な未来も駄目。なら、入れられるものはかなり限られる」

 

「想い」

 

 大慈樹王が静かに言った。

 

「まずは、それがよいでしょう」

 

「想い、ですか」

 

「はい。名より軽く、記録より柔らかく、それでいて方向を持つもの」

 

 大慈樹王は手を伸ばし、森の葉を一枚取った。

 

 小さな葉だった。

 

 朝露を含み、淡く光っている。

 

「この葉に、私の想いを一つ込めます」

 

「大慈樹王の?」

 

「ええ。ごく小さなものです。森を傷つけないように」

 

 彼女は葉を両手で包んだ。

 

 すると、葉脈に淡い緑の光が走る。

 

 強い力ではない。

 

 誰かを圧倒する神威でもない。

 

 ただ、静かで、温かいもの。

 

 眞には、それが何なのか、すぐには分からなかった。

 

 けれど、胸の奥が少しだけ柔らかくなる。

 

 懐かしいような。

 

 誰かに頭を撫でられたような。

 

 暗い場所で、小さな灯りを見つけたような。

 

「何を込めたのですか」

 

 帰終が問う。

 

 大慈樹王は微笑む。

 

「迷子が、帰り道を見つけられますように」

 

 その言葉に、眞の胸が小さく震えた。

 

 迷子。

 

 自分もそうかもしれない。

 

 雷電眞になった自分。

 

 前世と今世の間で揺れる自分。

 

 未来を知りながら、どこへ向かえばいいのか分からない自分。

 

 それから、もっと先にいる者たち。

 

 世界から外れるかもしれない者。

 

 死んだことにされる者。

 

 忘れられる者。

 

 彼らもきっと、迷子になる。

 

 なら、必要なのは棺ではない。

 

 帰り道だ。

 

「入れてみましょう」

 

 帰終が匣を固定する。

 

 モラクスが指先を動かすと、薄い岩の紋様が匣の表面に浮かんだ。

 

 契約の線。

 

 開く条件を定めるための、まだ未完成の輪。

 

 眞は息を整え、雷を細く通す。

 

 外からの干渉を断つ。

 

 遮る。

 

 けれど、閉じ込めすぎない。

 

 匣の中に、帰るための隙間を残す。

 

 大慈樹王が葉を匣へ近づけた。

 

 葉は形を失わない。

 

 けれど、そこに込められた想いだけが、淡い緑の粒となって匣の内側へ流れ込む。

 

 塵がそれを受け止める。

 

 雷が周囲を包む。

 

 岩の契約が輪郭を与える。

 

 緑の光が、内側でゆっくりと揺れた。

 

「安定しているわ」

 

 帰終が囁く。

 

 眞は息を止めた。

 

 確かに、先ほどまでの実験とは違う。

 

 文字を入れた時のように、どこかへ伸びようとしない。

 

 地脈へ沈まない。

 

 世界樹へ強く引かれもしない。

 

 ただ、小さな灯りのように、匣の内側で揺れている。

 

「名がないからです」

 

 大慈樹王が言った。

 

「名がないものは、世界の記録に強く結びつきません。けれど、想いには方向があります」

 

「方向」

 

「はい。この想いは、迷子へ向かう。帰り道を求める者へ向かう。だから、名がなくても届く可能性がある」

 

 モラクスが匣を見つめる。

 

「契約で開く条件を定めれば、誰に届くかをある程度絞れるか」

 

「ええ。ただし、絞りすぎれば名に近づきます」

 

 大慈樹王は静かに言う。

 

「“誰に”を強く定めすぎてはいけません。“どんな時に”へ寄せるのです」

 

 眞はゆっくり頷いた。

 

「影が読む言葉なら、影の名を刻むのではなく」

 

「影が立ち止まりそうになった時。稲妻が閉じようとした時。帰る道が必要になった時」

 

 大慈樹王が続ける。

 

「そういう条件の方が、世界には見つかりにくいでしょう」

 

 胸が熱くなる。

 

 見えた。

 

 少しだけ。

 

 影へ残す言葉の形が。

 

 “雷電影へ”と刻むのではない。

 

 “私の半身が、過去に足を取られた時へ”。

 

 そんな形なら。

 

 世界に名を掴ませず、影へ届くかもしれない。

 

「でも」

 

 帰終が顎に手を当てる。

 

「想いだけでは、魂や存在の核は逃がせないわね」

 

「はい」

 

 大慈樹王は頷く。

 

「想いは灯りです。魂は、もっと重い。存在の輪郭は、さらに重い」

 

「では、これは最初の灯り」

 

 眞が言う。

 

 大慈樹王は微笑んだ。

 

「そうです。帰るための灯り」

 

 匣の中で、緑の光が静かに揺れる。

 

 眞はそれを見つめた。

 

 棺ではない。

 

 閉じ込めるための箱でもない。

 

 これは、灯りだ。

 

 迷子が帰るための、小さな光。

 

 その時だった。

 

 匣の中の光が、わずかに震えた。

 

 眞は反射的に雷を強めようとする。

 

 しかし、大慈樹王が手で制した。

 

「強めないで」

 

「でも」

 

「今は、世界樹が触れようとしているのではありません」

 

 眞は動きを止めた。

 

 光は震えている。

 

 けれど、不安定というより、何かを探しているようだった。

 

「これは、想いが帰る方向を探しているだけです」

 

「方向を」

 

「ええ。眞、あなたが触れてください」

 

「私が?」

 

「あなたは、少し世界の記録から外れています」

 

 その言葉に、空気が変わった。

 

 帰終が眞を見る。

 

 モラクスの視線も鋭くなる。

 

 眞は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

「それは」

 

「責めているのではありません」

 

 大慈樹王の声は変わらず優しい。

 

「あなたの魂は、この世界に完全には馴染んでいない。雷電眞でありながら、雷電眞だけではない。だから、世界樹はあなたを記録しきれていない」

 

 眞は喉を鳴らした。

 

 言われた。

 

 はっきりと。

 

 雷電眞でありながら、雷電眞だけではない。

 

 前世の自分。

 

 外から来た魂。

 

 この世界の記録から、少し外れた存在。

 

 隠していたものが、言葉になった。

 

 でも、不思議と地脈は反応しなかった。

 

 世界樹も、眞を縛るようには動かなかった。

 

 大慈樹王が、意図的に言葉を柔らかくしているのだと分かった。

 

 名を与えない。

 

 断定しすぎない。

 

 ただ、輪郭だけを示す。

 

 まるで、眞が影にしてきたように。

 

「怖いですか」

 

 大慈樹王が問う。

 

「……はい」

 

「それでも、これは力になります」

 

「力」

 

「世界から少し外れているからこそ、世界に残せないものを覚えていられるかもしれない」

 

 眞の胸が強く鳴った。

 

 覚えていられる。

 

 大慈樹王を。

 

 帰終を。

 

 世界から外れた者を。

 

 世界樹が忘れても。

 

 地脈が沈めても。

 

 自分だけは、覚えていられるかもしれない。

 

 それは救いに見えた。

 

 同時に、呪いにも見えた。

 

 誰も覚えていない喪失を、自分だけが抱える。

 

 誰にも共有できない名を、自分だけが知り続ける。

 

 それは、どれほど孤独なのだろう。

 

「眞」

 

 帰終の声がした。

 

 柔らかい声だった。

 

「嫌なら、今はやめてもいいわ」

 

 その一言に、眞は思わず帰終を見た。

 

 帰終は真剣だった。

 

 実験の興味より、眞の意思を優先している。

 

 勝手に救わない。

 

 選ばせる。

 

 彼女は、自分にも同じことを返してくれている。

 

 眞は小さく笑った。

 

「大丈夫です」

 

「無理は」

 

「無理なら、止めてくれる人たちがいます」

 

 影。

 

 狐斎宮。

 

 千代。

 

 笹百合。

 

 そして今は、帰終たちも。

 

「だから、触れます」

 

 眞は匣へ手を伸ばした。

 

 指先が、淡い光に触れる。

 

 その瞬間。

 

 森の音が、遠くなった。

 

 代わりに、何かが胸の奥へ流れ込んでくる。

 

 言葉ではない。

 

 映像でもない。

 

 ただ、感覚だった。

 

 深い森で迷う小さな足音。

 

 暗い木々の間。

 

 どちらへ行けばいいか分からない不安。

 

 その先に灯る、小さな緑の光。

 

 帰っておいで。

 

 そう呼ぶ声。

 

 誰の声でもない。

 

 けれど、確かに温かい。

 

 涙が出そうになった。

 

「……届きました」

 

 眞は呟いた。

 

 大慈樹王が頷く。

 

「あなたが、方向を受け取った」

 

「これは、記録ではありませんね」

 

「はい」

 

「でも、残っている」

 

「想いですから」

 

 大慈樹王は微笑んだ。

 

「想いは、世界の記録ほど強くありません。でも、強すぎないからこそ、隙間を通れます」

 

 眞は匣を見つめた。

 

 中の光は、先ほどより安定している。

 

 小さく、けれど確かに。

 

 そこにある。

 

「名を残さず、想いを残す」

 

 眞は呟いた。

 

「存在を隠し、帰る方向を残す」

 

 モラクスが言う。

 

「それが、この匣の基礎になるな」

 

 帰終が図面を広げる。

 

「外殻は塵。開く条件は契約。遮断は雷。そして、方向は草の記録に触れすぎない程度に留める」

 

「触れすぎない程度、というのが難しいですね」

 

 眞が言うと、帰終は笑った。

 

「難しいから面白いのよ」

 

「帰終」

 

 モラクスが低く呼ぶ。

 

「分かっているわ。面白いだけで進めない」

 

「ならいい」

 

 帰終は少しだけ舌を出すように笑った。

 

 その仕草があまりにも自然で、眞の胸がまた痛んだ。

 

 この笑顔も、守りたい。

 

 でも、勝手には救わない。

 

 選ばせる。

 

 その線を忘れない。

 

 実験は、そこから何度も続いた。

 

 葉に込めた想い。

 

 水滴に留めた祈り。

 

 帰終が作った小さな機巧に宿る命令。

 

 モラクスが定めた簡単な契約。

 

 眞の雷で外から切り離し、大慈樹王が世界樹への触れ方を調整する。

 

 成功するものもあった。

 

 失敗するものもあった。

 

 名に近づきすぎれば、世界樹へ引かれる。

 

 情報を削りすぎれば、何も残らない。

 

 想いが強すぎれば、匣の中で歪む。

 

 契約が固すぎれば、開くべき時に開かない。

 

 難しい。

 

 ひどく難しい。

 

 けれど、道はあった。

 

 細く、危うく、少しでも間違えれば消えてしまうような道。

 

 それでも、確かに。

 

 日が傾く頃、帰終は机代わりの平たい石に突っ伏した。

 

「疲れたわ」

 

「神も突っ伏すのですね」

 

 眞が言うと、帰終は顔だけを上げる。

 

「神だって疲れるわよ。特に、世界の根っこ相手に繊細な作業をするとね」

 

 大慈樹王がくすりと笑う。

 

「休憩にしましょう」

 

 森の中で、四柱は静かに腰を下ろした。

 

 不思議な光景だった。

 

 稲妻の雷神。

 

 璃月の岩王。

 

 塵の魔神。

 

 草の神。

 

 それぞれの国を背負う存在が、森の奥で一つの匣を囲んでいる。

 

 その匣の中には、まだ世界を救う力などない。

 

 ただ、小さな想いを残せるだけ。

 

 それでも、眞には大きな一歩に思えた。

 

「大慈樹王」

 

 眞は静かに呼んだ。

 

「はい」

 

「あなたは、忘れられることを怖いと思いますか」

 

 帰終が顔を上げた。

 

 モラクスも眞を見る。

 

 踏み込みすぎたかもしれない。

 

 そう思った。

 

 けれど、大慈樹王は怒らなかった。

 

 森の方へ視線を向け、少しだけ目を細める。

 

「怖いですよ」

 

 彼女は静かに言った。

 

「とても」

 

 その答えは、素直だった。

 

 神らしい超然としたものではない。

 

 一人の存在としての、正直な言葉。

 

「忘れられるというのは、死とは違います。死ねば、誰かが悲しむ。誰かが覚えている。残されたものが、痛みとしてその人を持ち続ける」

 

 葉が揺れる。

 

「でも、忘れられるというのは、その痛みすら残らないということです」

 

 眞は何も言えなかった。

 

「誰かのために消えたとしても、その誰かは、なぜ救われたのか分からない。誰を失ったのかも知らない。感謝も、涙も、悼みもない」

 

 大慈樹王は微笑んだ。

 

 けれど、その笑みは少しだけ寂しかった。

 

「それでも、そうするしかない時があるのかもしれません」

 

「そんなのは」

 

 眞は言いかけて、止まる。

 

 否定したかった。

 

 そんな救いは間違っていると。

 

 誰かが完全に忘れられていいはずがないと。

 

 けれど、大慈樹王の目を見て、その言葉は出なかった。

 

 彼女は、分かっている。

 

 分かったうえで、言っている。

 

 世界を守るために、忘却が必要になる時がある。

 

 それを誰よりも知っている。

 

「それでも」

 

 眞は拳を握った。

 

「私は、あなたを覚えていたい」

 

 大慈樹王が眞を見る。

 

「たとえ世界が忘れても。誰も覚えていなくても。私だけでも、あなたを覚えていたい」

 

 その言葉は、救いではないかもしれない。

 

 傲慢かもしれない。

 

 本人が選ぶ忘却を、眞が勝手に拒んでいるだけかもしれない。

 

 それでも、言わずにはいられなかった。

 

 大慈樹王は長く黙っていた。

 

 そして、静かに笑った。

 

「やはり、あなたは困った雷神です」

 

「すみません」

 

「謝ることではありません」

 

 彼女は眞へ手を伸ばした。

 

 その手が、眞の手の上にそっと重なる。

 

「もし、いつか私が忘れられることを選ぶなら」

 

 胸が軋む。

 

 その言い方は、あまりにも具体的だった。

 

 けれど、世界は反応しない。

 

 大慈樹王が言葉を選んでいるからだ。

 

「その時、あなたが私を覚えていてくれるなら。それは、とても怖くて、とても温かいことですね」

 

「怖い?」

 

「ええ。忘れられる覚悟をした者に、覚えている人が残るのは、少し怖い」

 

 大慈樹王は小さく笑う。

 

「でも、温かい」

 

 眞は唇を噛んだ。

 

 泣きそうだった。

 

 この神を、忘れさせたくない。

 

 けれど、勝手に忘却を奪ってもいけない。

 

 その矛盾が、胸の奥で絡まる。

 

「では、約束ではなく」

 

 大慈樹王は言った。

 

「願いとして、受け取っておきます」

 

「願い」

 

「はい。私が選ぶ時を奪わないために。あなたが背負いすぎないために」

 

 帰終が静かに頷いた。

 

「いい言い方ね」

 

 モラクスも低く言う。

 

「契約ではなく、願いか」

 

「契約にするには、まだ早いでしょう?」

 

 大慈樹王は微笑む。

 

 眞は深く息を吐いた。

 

「分かりました」

 

 約束ではない。

 

 契約でもない。

 

 願い。

 

 それなら、縛らない。

 

 それなら、押しつけない。

 

 けれど、消えない。

 

「私は、あなたを覚えていたい」

 

 眞はもう一度、静かに言った。

 

「これは、私の願いです」

 

 大慈樹王は頷いた。

 

「受け取りました」

 

 夕暮れの森は、金と緑に染まっていた。

 

 匣の中には、小さな光が残っている。

 

 名はない。

 

 誰のものかも分からない。

 

 けれど、そこには確かに想いがある。

 

 迷子が、帰り道を見つけられますように。

 

 それだけの小さな灯り。

 

 眞はその光を見つめながら、胸の奥で一つの形を掴んでいた。

 

 死を偽るだけでは足りない。

 

 存在を隠すだけでも足りない。

 

 名を残せば世界に捕まる。

 

 名を消せば忘れられる。

 

 なら、名ではなく想いを残す。

 

 存在ではなく、帰る方向を残す。

 

 帰る方向があれば、いつか誰かが辿れる。

 

 たとえ世界が名を忘れても。

 

 たとえ記録が塗り替わっても。

 

 想いだけは、隙間を通る。

 

 その夜、眞は大慈樹王のもとに残り、匣の調整を続けた。

 

 帰終は眠気と戦いながら図面を直し、モラクスは黙って契約の線を検討していた。

 

 大慈樹王は、世界樹へ繋がる流れを細く整える。

 

 眞は雷を通し続けた。

 

 閉じるためではない。

 

 守るために。

 

 遮るためではない。

 

 帰る道を残すために。

 

 やがて、匣の内側に小さな光が定着した。

 

 緑でもあり、紫でもあり、金でもあり、塵のように淡い色でもある。

 

 四つの力が混ざっている。

 

 けれど、どれか一つに染まってはいない。

 

 帰終が眠そうな目でそれを見て、ぽつりと言った。

 

「灯みたいね」

 

「灯」

 

 眞は繰り返す。

 

「ええ。匣というより、迷子のための灯」

 

 大慈樹王が微笑む。

 

「よい名ですね」

 

 モラクスが静かに頷いた。

 

「名を与えるには早いが、仮の呼び名としては悪くない」

 

 帰終は少しだけ得意そうにした。

 

「でしょう?」

 

 眞は匣の中の光を見つめた。

 

 灯。

 

 棺ではなく。

 

 匣ですらなく。

 

 帰るための灯。

 

「では、今はそう呼びましょう」

 

 眞は静かに言った。

 

「名ではなく、願いとして」

 

 灯は、答えるように淡く揺れた。

 

 その光を見ながら、眞は思う。

 

 影へ。

 

 帰終へ。

 

 狐斎宮へ。

 

 千代へ。

 

 笹百合へ。

 

 大慈樹王へ。

 

 そして、いつか世界から外れるかもしれない誰かへ。

 

 必ず、帰る方向を残す。

 

 世界に名を奪われても。

 

 歴史に死を刻まれても。

 

 誰かがその灯を見つけられるように。

 

 眞は胸の奥の雷を静かに整えた。

 

 恐怖は消えない。

 

 でも、進む理由は増えた。

 

 名を残さず、想いを残す。

 

 死を閉じず、帰る道を残す。

 

 それが、この匣の最初の答えだった。

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