『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第11話 業を抱く者たち

 

 

 璃月へ戻る道中、森の匂いが少しずつ薄れていった。

 

 濡れた葉、深い土、世界の根が脈打つような静けさ。それらが背後へ遠ざかり、代わりに岩の重さが近づいてくる。

 

 璃月の大地は、やはり動かない。山はそこにあり、岩はそこにあり、風に削られながらも沈黙している。その静けさが、今は少しだけありがたかった。

 

 スメールで得たものは、大きすぎた。

 

 名を残さず、想いを残す。存在を隠し、帰る方向を残す。それは希望だった。けれど同時に、恐ろしい答えでもあった。

 

 名を残せば世界に捕まる。名を消せば忘れられる。だから、その間に細い灯を置く。

 

 あまりにも繊細で、あまりにも危うい道。

 

 眞は胸元の包みに手を添えた。中には、まだ正式な名を持たない小さな匣がある。帰終が仮に“灯”と呼んだもの。

 

 迷子のための灯。

 

 大慈樹王が込めた小さな想いが、そこに残っている。

 

 迷子が、帰り道を見つけられますように。

 

 それだけの願い。名ではない。記録でもない。けれど確かに、残っている。

 

「眞」

 

 隣を歩く帰終が声をかけた。

 

「また難しい顔をしているわ」

 

「考え事をしていました」

 

「でしょうね。あなたは考え事をしていない時の方が珍しいもの」

 

「そこまでですか」

 

「ええ。たぶん影さんも苦労しているでしょうね」

 

 影の名が出た瞬間、胸が少しだけ温かくなった。同時に、痛くもなる。

 

 稲妻に戻ったら、また話さなければならない。世界樹のこと。名を残せないこと。忘れられる痛みのこと。大慈樹王のこと。

 

 全部は言えない。けれど、何も言わずに戻ることはもうできない。

 

「帰終」

 

「なあに?」

 

「私は、また影を困らせると思います」

 

「でしょうね」

 

 即答だった。

 

 眞は思わず帰終を見る。

 

「否定してくれないのですね」

 

「だって、困らせるでしょう?」

 

「……はい」

 

「でも、困らせることと、傷つけることは同じではないわ」

 

 帰終は岩道の先を見ながら言った。

 

「話せるところまで話す。選べるところは選ばせる。止めてもらうところは止めてもらう。あなたはそれを覚えたでしょう」

 

「覚えたつもりです」

 

「なら、まずはそれで十分」

 

 帰終は軽く笑う。

 

「完全な正解を持って帰ろうとするから、あなたは重くなるのよ」

 

「完全な正解が欲しいです」

 

「欲張りね」

 

「そうですね」

 

 眞は小さく笑った。

 

 自覚はある。

 

 帰終を救いたい。影を傷つけたくない。狐斎宮を消したくない。千代を狂わせたくない。笹百合を死なせたくない。大慈樹王を忘れさせたくない。

 

 全部欲しい。

 

 全部、救いたい。

 

 けれど、世界はそんなに優しくない。救いには形があり、代償があり、同意が必要で、残された者の痛みもある。

 

 それを知った今でも、願いは消えない。

 

 むしろ、強くなっていた。

 

 モラクスは少し前を歩いていた。その背は変わらず静かで、揺るがない。だが、彼もまた、何かを考えているようだった。

 

 スメールで聞いた言葉。

 

 世界樹。忘却。名ではなく想い。

 

 契約の神である彼にとっても、無視できるものではないのだろう。

 

「そろそろ、会わせておくべきかもしれない」

 

 モラクスが不意に言った。

 

 眞は顔を上げる。

 

「誰にですか」

 

「夜叉だ」

 

 帰終の表情が少しだけ引き締まった。

 

 夜叉。

 

 その言葉だけで、眞の中の記憶がざわめいた。

 

 璃月の夜叉。魔神の残滓、怨念、穢れと戦い続ける者たち。戦いの果てに、業を抱え、狂い、壊れ、消えていく守護者たち。

 

 そして、未来にただ一人残る少年。

 

 眞は、思わず胸元の灯へ手を添えた。

 

 その小さな動きを、帰終は見逃さなかった。

 

「……また、放っておけない顔をしているわ」

 

 問いではなかった。

 

 確信に近い、静かな言葉だった。

 

 眞はすぐには答えられなかった。夜叉たちがどうなるのか。誰が壊れ、誰が消え、誰が残るのか。その名を口にすれば、世界が聞くかもしれない。

 

 けれど、何もない顔もできなかった。

 

「……多くが、苦しみます」

 

 ようやく、それだけを言った。

 

 帰終の表情から、いつもの軽さが消える。

 

「戦いで?」

 

「戦いだけではありません」

 

 眞は首を振った。

 

「戦った後に、残るものに」

 

 モラクスの瞳が、わずかに沈んだ。

 

「業か」

 

「はい」

 

 眞は頷いた。

 

「だから、会わせてください。救えるかは分かりません。でも、知らないまま、何もしない選択はしたくありません」

 

 モラクスはしばらく黙っていた。

 

 それから、静かに頷く。

 

「よかろう」

 

 夜叉たちと会ったのは、璃月の奥地だった。

 

 人里から離れた岩場。風が強く、空気が乾いている。そこには戦いの痕が残っていた。

 

 砕けた岩。黒く焼けた地面。かすかに残る淀んだ気配。

 

 ただの魔物の気配ではない。もっと重い。

 

 恨み、怨嗟、消えきらない叫び。それらが、岩の隙間に沈んでいる。

 

 眞は、思わず眉を寄せた。

 

「気分が悪い?」

 

 帰終が小さく問う。

 

「少し」

 

「無理はしないで」

 

「大丈夫です」

 

 言ってから、眞は少しだけ口を閉じた。

 

 大丈夫。

 

 その言葉を軽く使うなと、何度も言われている。影にも。帰終にも。狐斎宮にも。

 

「……まだ、歩けます」

 

「その言い方も危ないけれど、さっきよりはましね」

 

 帰終の声は柔らかかった。だが、その目は真剣に眞を見ていた。

 

 モラクスが前へ進む。

 

 その気配に応じるように、岩場の奥から複数の影が現れた。

 

 眞は息を呑んだ。

 

 大柄な夜叉。肩に重い気配を纏いながらも、どこか朗らかな目をした者。浮舎。

 

 炎のような気配を宿す女性。応達。

 

 水のように静かな女性。伐難。

 

 土と金属の重さを持つ男性。弥怒。

 

 そして、少し離れた場所に立つ、若い少年の姿。

 

 鋭い目。細い身体。けれど、その身に宿る力は澄んでいる。

 

 魈。

 

 いや、この時代の彼が、その名をどれほど自分のものとして受け取っているのかは分からない。ただ、眞の記憶は彼をそう呼んだ。

 

 未来に、ただ一人残る夜叉。孤独に戦い続け、業障に苦しみながらも、人を守り続ける存在。

 

 まだ、ここにいる。

 

 仲間たちと共に。

 

 まだ一人ではない。

 

「帝君」

 

 大柄な夜叉が頭を下げる。

 

 その声には力があった。

 

「お呼びでしょうか」

 

「客人を連れてきた」

 

 モラクスが言う。

 

「稲妻の雷神、雷電眞。塵の魔神帰終は知っているな」

 

「もちろん」

 

 浮舎と思しき夜叉は豪快に笑った。

 

「帰終様には、以前から妙な道具を押しつけられている」

 

「押しつけていないわ。試してもらっているの」

 

「爆発したぞ」

 

「それは失敗作ね」

 

「失敗作を渡したのか」

 

「役に立つかと思って」

 

 帰終が悪びれずに言う。

 

 夜叉たちの間に、少しだけ笑いが広がった。

 

 その空気に、眞は胸が締めつけられる。

 

 明るい。

 

 彼らはまだ、笑っている。戦いの中にいながら、穢れに触れながら、それでも仲間と笑っている。

 

 だからこそ、胸元の灯が小さく揺れた。

 

 眞自身の指も、かすかに震えた。

 

 モラクスは眞を見る。

 

「彼らが夜叉だ」

 

 眞は静かに頭を下げた。

 

「雷電眞です。突然の訪問をお許しください」

 

 浮舎が少し驚いたように目を丸くする。

 

「神が我らに頭を下げるとは」

 

「力を借りたいのはこちらですから」

 

「力?」

 

 応達が鋭く反応する。

 

 眞は言葉を選ぶ。

 

「あなた方が戦っているものについて、知りたいのです」

 

 空気が変わった。

 

 笑いが消える。

 

 夜叉たちの目が、それぞれに鋭くなる。ただの客人を見る目ではない。戦場へ踏み込む者を見る目。

 

「知って、どうする」

 

 弥怒が問う。

 

「消せるものなら消したい。消せないものなら、帰る道を残したい」

 

「帰る道?」

 

 伐難が静かに聞き返す。

 

 眞は胸元から包みを取り出した。

 

 灯。

 

 まだ小さな匣。

 

 その中には、大慈樹王が込めた想いが淡く揺れている。

 

 迷子が、帰り道を見つけられますように。

 

「これは、傷を治すものではありません」

 

 眞は正直に言った。

 

「業を消すものでもない。死をなかったことにするものでもない」

 

「では、何だ」

 

 魈が初めて口を開いた。

 

 声は若い。けれど、鋭い。

 

 眞は彼を見る。

 

「迷った時に、帰る方向を残すものです」

 

 魈は眉を寄せた。

 

「抽象的だな」

 

「はい。まだ、その程度のものです」

 

 眞は否定しない。

 

「万能ではありません。あなた方を救えるかも分からない。むしろ、分からないことの方が多い」

 

「なら、なぜ来た」

 

 魈の問いはまっすぐだった。

 

 眞は逃げなかった。

 

「分からないまま、何もしないのが嫌だったからです」

 

 夜叉たちが黙る。

 

「あなた方が何と戦っているのか。何を背負っているのか。それを知らずに、救うなどと言うのは傲慢です。だから、まず知りに来ました」

 

「救う」

 

 応達が低く呟く。

 

「神はよく、それを言う」

 

 その言葉には、少しだけ棘があった。

 

 モラクスは何も言わない。

 

 眞も受け止める。

 

「救うと言いながら、戦場へ送り出す」

 

「はい」

 

「守ると言いながら、穢れを浴びるのは我らだ」

 

「はい」

 

 帰終が何か言いかけたが、眞は視線で止めた。

 

 これは、聞かなければならない言葉だ。

 

 夜叉たちの痛み。彼らの本音。それを聞かずに、灯を差し出してはいけない。

 

「だからこそ、あなた方の同意なく何かをするつもりはありません」

 

 応達の目がわずかに動いた。

 

「同意?」

 

「はい。勝手に救うことはしません」

 

 帰終との約束。影との契約。それを思い出しながら、眞は言った。

 

「私が作ろうとしている道は、誰かの名や存在に触れるかもしれない。魂や記憶に触れるかもしれない。だから、本人が望まないなら使いません」

 

 浮舎が腕を組む。

 

「妙な神だな」

 

「よく言われます」

 

「帝君」

 

 浮舎はモラクスを見る。

 

「この雷神は、信じていいのか」

 

 モラクスは少しも迷わなかった。

 

「少なくとも、軽くはない」

 

「それは褒めているのか?」

 

「褒めている」

 

 帰終が小さく笑った。

 

「モラクス流の褒め言葉よ」

 

 夜叉たちの空気が、少しだけ緩む。

 

 だが、魈だけは眞をじっと見ていた。

 

「お前は、我らの先を知っているのか」

 

 その問いに、眞の呼吸が止まった。

 

 静寂。

 

 岩場の風が、強く吹いた。

 

 誰も口を挟まない。モラクスも。帰終も。夜叉たちも。眞だけを見ている。

 

 答えを間違えれば、何かが決まる。名前と死を結びつけてはいけない。けれど、嘘をついてはいけない。

 

 眞は、ゆっくりと口を開いた。

 

「あなた方の進む道が、決して軽くないことを知っています」

 

 魈の目が細くなる。

 

「それだけか」

 

「それだけしか、言えません」

 

「言えないのか」

 

「はい」

 

「なぜ」

 

「言葉にすると、世界がそれを記録してしまうかもしれないから」

 

 魈は黙った。

 

 若い顔に似合わないほど深い目で、眞を見る。

 

「なら、お前の言葉は信用できない」

 

「そうですね」

 

 眞は頷いた。

 

 夜叉たちが少し動揺する。

 

 魈も、わずかに目を見開いた。

 

「私はすべてを話せません。だから、完全に信用しろとは言えません」

 

 眞は灯を両手で持つ。

 

「ただ、見てください。試して、疑って、必要ないと思えば拒んでください。それでもいい」

 

「拒めば」

 

「何もしません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 魈はしばらく眞を見ていた。

 

 やがて、視線を灯へ落とす。

 

「試すだけなら」

 

「魈」

 

 浮舎が低く呼ぶ。

 

 魈は振り向かない。

 

「危険なら、私が壊す」

 

 眞は胸が痛んだ。

 

 この子は、そういう子だ。

 

 自分を試しに使う。自分が危険を受ける。それが最も効率的だと、本気で思っている。

 

「一人では試しません」

 

 眞は言った。

 

 魈の目がこちらを向く。

 

「あなた一人には、背負わせません」

 

 空気が止まった。

 

 帰終が静かに眞を見た。

 

 モラクスも、何も言わない。

 

「試すなら、私も触れます。帰終も、モラクスも見ている。あなたの仲間もいる」

 

「足手まといだ」

 

「かもしれません」

 

「なら」

 

「それでも、一人にはしません」

 

 眞は譲らなかった。

 

「一人で背負わせない。それが私の最初の決まりです」

 

 魈は不快そうに眉を寄せた。

 

 けれど、反論はしなかった。

 

 浮舎が大きく息を吐く。

 

「頑固な神だ」

 

「それも、よく言われます」

 

「誰にだ?」

 

「妹に」

 

 そう答えると、帰終が少し笑った。夜叉たちも、少しだけ表情を緩める。

 

 魈だけは、まだ険しい顔だった。だが、拒絶はしなかった。

 

 実験は、岩場の奥にある静かな場所で行われた。

 

 強い穢れは避ける。

 

 まずは、夜叉たちが日々触れている業の残り香。戦いの後、魂に貼りつくように残る淀み。それを灯がどう受け止めるかを見る。

 

 魈は中央に立った。

 

 眞はその隣。帰終は少し離れ、灯の変化を見る。モラクスは岩の契約で周囲を囲む。浮舎たちは、さらに外側で見守っていた。

 

「無理を感じたら、すぐに止めます」

 

 眞が言うと、魈は短く返した。

 

「必要ない」

 

「必要あります」

 

「……」

 

「あなたが必要ないと言っても、止めます」

 

 魈は目を細める。

 

「面倒な神だ」

 

「はい」

 

 認めると、彼は少しだけ困ったような顔をした。

 

 眞は灯を開く。

 

 内側の光が、淡く揺れる。

 

 大慈樹王の想い。迷子のための灯。

 

 それが、夜叉の業に触れた瞬間、光が歪んだ。

 

 緑が黒く濁りかける。

 

 眞は息を呑んだ。

 

 重い。

 

 ただの穢れではない。

 

 声がする。

 

 恨み。怒り。悲鳴。かつて討たれたものの残滓。魔神の名残。

 

 人では受け止めきれない、古い怨念。

 

 それが、魈の周囲に薄くまとわりついている。

 

 まだ浅い。未来の彼が背負うものに比べれば、きっと小さい。それでも、眞には十分すぎるほど重かった。

 

「眞」

 

 帰終の声。

 

「無理しないで」

 

「大丈夫」

 

 そう答えかけて、止める。

 

 大丈夫という言葉を、軽く使うなと何度も言われている。

 

「……まだ、続けられます」

 

「そういう言い方も危ないわね」

 

 帰終の声は少し険しかった。

 

 魈が低く言う。

 

「だから、足手まといだと」

 

「黙って」

 

 眞は思わず言った。

 

 魈が目を見開く。

 

 眞も、自分で驚いた。

 

 けれど、止まらなかった。

 

「あなたはすぐ、自分だけで背負おうとする」

 

「何を知っている」

 

「全部は知りません」

 

 眞は灯を支えながら言う。

 

「でも、それが危ういことは知っています」

 

 灯の中の光が、黒に押される。

 

 眞は雷を細く通す。

 

 業を消すのではない。押し返すのでもない。その中に、一本だけ道を作る。

 

 帰る方向。

 

 沈みきらないための灯。

 

 黒い淀みの中で、緑の光が小さく瞬いた。

 

 魈の息が止まる。

 

 彼の目が、わずかに揺れた。

 

「今のは」

 

 眞が問う前に、魈が呟いた。

 

「……音が、遠くなった」

 

「音?」

 

「叫び声のようなものが、少しだけ」

 

 浮舎が表情を変える。

 

 応達も、伐難も、弥怒も、息を呑んだ。

 

 眞は灯を見る。光はまだ歪んでいる。黒い淀みを消せたわけではない。ただ、その中に小さな隙間ができている。

 

「消えてはいません」

 

 眞は言った。

 

「でも、少しだけ距離を取れている」

 

 モラクスが静かに頷く。

 

「業を祓うのではなく、業と自我の間に灯を置いたか」

 

「おそらく」

 

 帰終が息を吐く。

 

「危険だけど、意味はあるわね」

 

 魈は自分の手を見ていた。

 

 何かを確かめるように。

 

 長い沈黙のあと、彼は小さく言った。

 

「少し、静かだ」

 

 その一言に、眞の胸が締めつけられた。

 

 少し。

 

 本当に少しだけ。

 

 業を消したわけではない。救えたわけでもない。ただ、叫び声が少し遠くなった。

 

 それだけ。

 

 でも、それだけでも大きい。

 

 眞は、そう思った。

 

「止めます」

 

 眞は言った。

 

 魈が顔を上げる。

 

「まだ」

 

「今日はここまでです」

 

「私はまだ耐えられる」

 

「だからです」

 

 眞は灯を閉じる。

 

 光が静かに収まる。

 

 黒い淀みも、ゆっくりと薄くなる。

 

「耐えられるから続ける、では駄目です」

 

 魈は不満そうだった。

 

 だが、モラクスが静かに言った。

 

「従え」

 

「……はい」

 

 魈は短く答えた。

 

 その声に悔しさが混じっている。

 

 眞はそれを聞いて、少しだけ安堵した。

 

 悔しがれる。

 

 まだ、この子は自分の痛みを無視しきっていない。

 

 なら、まだ間に合う。

 

 実験の後、夜叉たちはしばらく灯について話していた。

 

 浮舎は腕を組み、難しい顔をしている。

 

「業は消えない。だが、距離を取れる」

 

「つまり、休める可能性があるということね」

 

 伐難が静かに言う。

 

 応達は灯を見つめていた。

 

「休む、か。我らには縁遠い言葉だな」

 

「だからこそ必要だ」

 

 弥怒が低く言った。

 

「いつか、必要になる」

 

 眞は黙って聞いていた。

 

 彼らは分かっている。

 

 自分たちが危うい道を歩いていることを。戦い続ければ、いつか壊れるかもしれないことを。それでも、止まれないことを。

 

 璃月を守るために。

 

 モラクスの契約のもとに。

 

 人々を守るために。

 

 その姿が、稲妻の仲間たちと重なる。

 

 狐斎宮。千代。笹百合。

 

 皆、守るために自分を差し出せる者たちだ。

 

 だからこそ、生き残る道が必要なのだ。

 

 魈は少し離れた場所にいた。

 

 一人で岩に腰掛け、空を見ている。

 

 眞は迷った末に、近づいた。

 

「隣、いいですか」

 

「好きにしろ」

 

 許可なのか突き放しているのか分からない返事だった。

 

 眞は少し距離を空けて座る。

 

 しばらく、二人とも話さなかった。

 

 風が強い。

 

 岩場の下には、遠く人里の灯りが見える。

 

「さっきは、すみません」

 

 眞が言うと、魈は横目で見る。

 

「何が」

 

「黙って、と言ったこと」

 

「事実だ」

 

「え?」

 

「私は、すぐ一人で背負おうとするのだろう」

 

 眞は言葉を失った。

 

 魈は表情を変えない。

 

「お前が言った」

 

「怒っていないのですか」

 

「怒る理由がない」

 

 彼は静かに言った。

 

「ただ、不快ではあった」

 

「それは、怒っているのでは」

 

「違う」

 

 少しだけ、影に似ていると思った。

 

 真っ直ぐで、不器用で、自分の感情に名前をつけるのが得意ではない。

 

「不快だったのは、図星だったからですか」

 

 言った瞬間、魈の目が鋭くなる。

 

 失敗したかもしれない。

 

 そう思ったが、彼は斬りかかってはこなかった。

 

「お前は、言いにくいことを言う神だな」

 

「よく言われます」

 

「誰に」

 

「妹に」

 

「……また妹か」

 

 魈は少しだけ呆れたように言った。

 

 眞は笑う。

 

「大切な妹です」

 

「そうか」

 

「あなたには、兄弟のような方々がいますね」

 

 魈は少し黙った。

 

 視線が、夜叉たちのいる方へ向く。

 

「仲間だ」

 

「はい」

 

「兄弟という言い方は、よく分からない」

 

「でも、大切ですか」

 

 魈は答えなかった。

 

 けれど、その沈黙が答えだった。

 

 眞は静かに言う。

 

「なら、覚えていてください」

 

「何を」

 

「あなたが一人で背負えば、彼らはきっと怒ります」

 

 魈の目がわずかに揺れる。

 

「迷惑をかけるよりは」

 

「迷惑をかけられない方が、つらいこともあります」

 

 影の顔が浮かぶ。

 

 もし眞が何も話さず消えたら。

 

 影はきっと、迷惑をかけられることすらできないまま、喪失だけを抱える。

 

 それは、残酷だ。

 

「私は、あなた方をまだよく知りません」

 

 眞は続ける。

 

「だから、勝手なことを言っているかもしれない。でも、少なくとも今日見た限り、あなたの仲間は、あなたを一人にしたいとは思っていない」

 

 魈は黙っていた。

 

 遠くで、浮舎の笑い声が聞こえる。帰終が何かを言い、夜叉たちが反応している。その賑やかさが、岩場に柔らかく響いた。

 

「……うるさい連中だ」

 

 魈が小さく言った。

 

「でも、嫌ではない」

 

 眞は微笑んだ。

 

「なら、その音を覚えていてください」

 

「音?」

 

「業の声が近くなった時、その音へ帰れるように」

 

 魈は眞を見る。

 

「それが、灯か」

 

「はい」

 

 眞は胸元の匣へ手を添えた。

 

「名を残さなくても、想いは残せます。記録できなくても、帰る方向は残せる」

 

「私は、そういうものを信じていない」

 

「今は、それでいいです」

 

 魈が眉を寄せる。

 

「いいのか」

 

「はい。信じろと言うつもりはありません。必要になった時、少し思い出してくれれば」

 

「覚えていればな」

 

「では、忘れにくいように何度も言います」

 

「面倒だ」

 

「よく言われます」

 

 魈は少しだけ、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 笑ったのかどうかは分からない。

 

 けれど、さっきよりも険しさは薄かった。

 

 夜が深くなった頃、眞たちはモラクスのもとへ戻った。

 

 帰終は灯の記録をまとめ、モラクスは契約の線を見直している。

 

 浮舎たちは交代で休むことになった。

 

 それだけでも、彼らにとっては珍しいことだったらしい。応達が不満そうにしていたが、浮舎が「雷神殿の言う通り、今日は試しだ」と笑って押し切った。

 

 眞はその光景を見て、少しだけ安堵した。

 

 小さい。

 

 本当に小さな変化だ。

 

 けれど、夜叉たちが休むという選択をした。それだけでも、未来へ伸びる糸になるかもしれない。

 

「眞」

 

 帰終が声をかける。

 

「今日の結果、どう見る?」

 

「業は消せません」

 

「ええ」

 

「灯は、治療ではありません。封印でもない。けれど、業と本人の間に少しだけ距離を作れる」

 

「帰る方向を示す、か」

 

 モラクスが言う。

 

 眞は頷いた。

 

「夜叉たちには、灯だけでは足りません。休む仕組み、交代する契約、穢れを分散する術、そして仲間の声を残す方法が必要です」

 

 帰終が図面に線を書き込む。

 

「匣を個人に持たせるより、拠点に置く方がいいかもしれないわね」

 

「拠点?」

 

「ええ。業が強まった時に戻る場所。音、想い、契約、休息。全部をまとめる場所」

 

 眞の中で、稲妻の影向山に整え始めた霊地の結界場が浮かぶ。

 

 帰る場所。

 

 稲妻にも必要だ。

 

 璃月にも必要だ。

 

 強い者が、一人で壊れないための場所。

 

「灯の社」

 

 眞は呟いた。

 

「社?」

 

 帰終が目を上げる。

 

「稲妻では、そういう形が馴染みます。けれど璃月なら、洞天や祠の方がいいかもしれません」

 

 モラクスが頷く。

 

「夜叉が戻るための祠か」

 

「はい。業を消すのではなく、遠ざけるための場所。仲間の声や想いを灯として残す場所」

 

 帰終が微笑んだ。

 

「いいわね。棺よりずっといい」

 

「棺にはしません」

 

 眞は静かに言った。

 

「絶対に」

 

 その言葉に、帰終は少しだけ眞を見る。

 

 何かを察したのだろう。

 

 けれど、何も言わなかった。

 

 モラクスは夜叉たちの方へ目を向ける。

 

「彼らに必要なのは、死なぬための術だけではない。壊れぬための仕組みか」

 

「はい」

 

「なら、作る価値はある」

 

 その言葉は短い。

 

 だが、重かった。

 

 モラクスが価値を認めた。それは、この取り組みが璃月の中で形を持つということだ。

 

 未来が、少しだけ揺れた気がした。

 

 眞は胸に手を当てる。

 

 変えた分だけ、どこかに揺れが出る。それを忘れてはいけない。夜叉を救おうとして、別の何かを壊してはいけない。

 

 だが、何もしない理由にもできない。

 

「モラクス」

 

「何だ」

 

「これも、契約にできますか」

 

「何を定める」

 

「夜叉たちが、一人で業を抱え込まないこと。限界を越える前に戻ること。仲間が戻れない時は、迎えに行くこと」

 

 帰終が静かに頷く。

 

「いいわね」

 

 モラクスは少し考えた。

 

「強制すれば、彼らの戦いを鈍らせる」

 

「はい」

 

「だが、選択肢として定めるなら」

 

「選択肢」

 

「戻る権利だ」

 

 その言葉に、眞は目を見開いた。

 

 戻る権利。

 

 それは、稲妻で作っている退く道にも通じる。退くことは敗北ではない。戻ることは弱さではない。

 

 生き残るための権利。

 

 守り続けるための契約。

 

「それがいいです」

 

 眞は言った。

 

「彼らに、戻る権利を」

 

 モラクスは頷いた。

 

「考えておこう」

 

 その夜、眞は一人で眠れなかった。

 

 璃月の宿の窓から、遠い山々が見える。外は静かだ。だが、耳の奥にはまだ、業の声が残っていた。

 

 叫び。怒り。悲鳴。

 

 魈が聞いているもの。

 

 夜叉たちが、戦いのたびに近づいているもの。

 

 眞は灯を手に取る。

 

 中の光は、少しだけ黒を含んでいた。業に触れた名残だ。完全に澄んではいない。

 

 それでも、灯は消えていない。

 

 眞はその光を見つめ、静かに呟く。

 

「消せない痛みもある」

 

 狐斎宮の穢れ。千代の未来。笹百合の戦。帰終の喪失。大慈樹王の忘却。夜叉たちの業。

 

 すべてを綺麗に消せるわけではない。なかったことにはできない。痛みは残る。傷も残る。

 

 それでも、帰る道なら作れるかもしれない。

 

 叫びの中で、自分の名を見失わないための灯。

 

 忘却の中で、想いだけを辿るための灯。

 

 死を偽った先で、戻るための灯。

 

 眞は目を閉じる。

 

 影の声が、胸の奥で蘇る。

 

 ――戻るためのものにしてください。

 

「します」

 

 誰もいない部屋で、眞は答えた。

 

「必ず」

 

 灯が、小さく揺れた。

 

 まるで、その約束を聞いたかのように。

 

 翌朝、魈が眞を訪ねてきた。

 

 まだ空が白む前だった。彼は扉の前に立ち、少しだけ気まずそうにしていた。

 

「どうしました?」

 

「昨日の灯」

 

「はい」

 

「……また試すなら、呼べ」

 

 眞は瞬きをした。

 

「いいのですか」

 

「勘違いするな。信じたわけではない」

 

「はい」

 

「ただ」

 

 魈は少しだけ視線を逸らした。

 

「少し静かだった」

 

 その言葉に、眞は胸が熱くなる。

 

「はい」

 

「だから、試す価値はある」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

 魈は短く息を吐く。

 

「一人では試さない」

 

 眞は静かに笑った。

 

「約束できますか」

 

「……努力する」

 

「それでも十分です」

 

 魈は少し不満そうに眉を寄せた。

 

 その顔が、少しだけ影に似ていて、眞はまた笑いそうになる。

 

「何だ」

 

「いいえ。何でもありません」

 

「変な神だ」

 

「よく言われます」

 

 魈はそれ以上何も言わず、背を向けた。

 

 けれど、去り際に小さく言う。

 

「浮舎たちにも、話しておく」

 

 眞は目を細めた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいらない」

 

 そう言って、彼は朝靄の中へ消えていった。

 

 眞は扉の前で、しばらく立っていた。

 

 小さな変化。

 

 ほんの少しの静けさ。

 

 一人では試さないという努力。

 

 それだけ。

 

 けれど、それが未来を変える最初の一歩になるかもしれない。

 

 眞は灯を胸に抱く。

 

 業を消すことはできない。

 

 けれど、業の中で帰る方向を示すことはできる。

 

 それが分かった。

 

 なら、次は稲妻だ。

 

 狐斎宮の穢れ。千代の未来。笹百合の戦。そして、影。

 

 眞は朝の空を見上げた。

 

 璃月の山の向こうに、稲妻の海がある。

 

 帰る場所がある。

 

 見せなければならないものがある。

 

 話さなければならないことがある。

 

 完全な答えではない。

 

 それでも、灯は少しずつ形になっている。

 

 棺ではなく。

 

 帰り道として。

 

 眞は静かに息を吐き、歩き出した。

 

 失われるはずだった者たちを、ただ保存するのではない。

 

 彼らが自分で帰れるように。

 

 そのための灯を、もっと強くしなければならない。

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