『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第12話 帰る場所の灯

 

 

 稲妻の海は、近づくほどに雷の匂いが濃くなる。

 

 潮風に混じる湿った紫電の気配。空の端にたまる薄い雲。波が船腹を叩くたび、胸の奥の雷も小さく応える。

 

 帰ってきた。

 

 眞は甲板に立ち、遠くに見える島影を見つめていた。

 

 璃月の岩、スメールの森、夜叉たちの業、大慈樹王の言葉。帰終の匣、モラクスの契約。それらがまだ胸の中で重なっている。

 

 旅に出るたび、戻る時の荷物が増えていく。

 

 持ち帰るものは、答えだけではない。痛み、迷い、誰かの願い、誰かの傷。そして、まだ形になりきらない灯。

 

 眞は胸元の包みに手を添えた。

 

 布越しに、小さな温度がある。中にある灯は、以前よりも少し変わっていた。

 

 大慈樹王の想い。帰終の塵。モラクスの契約。眞の雷。そこに、夜叉の業に触れた黒い名残が、ほんの薄く混じっている。

 

 澄み切った光ではない。

 

 けれど、消えてもいない。

 

 汚れたから終わりではない。痛みに触れてなお、灯り続けている。そのことが、眞には大切に思えた。

 

「眞様」

 

 船員の声がした。

 

「間もなく港へ着きます」

 

「ありがとう」

 

 眞は頷く。

 

 顔を上げると、港に人影が見えた。紫の髪。まっすぐな姿勢。影だ。

 

 その隣に、狐斎宮。少し後ろに千代と笹百合。

 

 いつもの顔ぶれ。いつもの場所。

 

 それだけで、胸が温かくなった。

 

 帰る場所がある。ただそれだけのことが、これほど心を支えるのだと、眞は旅に出るたび思い知らされる。

 

 船が桟橋に寄る。板が渡される。

 

 眞が降りるより早く、影が一歩前へ出た。

 

「眞」

 

「影」

 

 名前を呼び合う。

 

 影の目はすぐに眞の全身を確認した。

 

「怪我は」

 

「ありません」

 

「無茶は」

 

「しました」

 

 影の眉が動いた。

 

 眞はすぐに続ける。

 

「ですが、隠しません」

 

「……それは、よろしい」

 

 影は少しだけ複雑そうに言った。

 

 怒りたい。けれど、隠さず言ったことは評価したい。その二つが混ざった顔だった。

 

 眞は少し笑いそうになったが、堪えた。ここで笑えば、たぶん怒られる。

 

「ただいま、影」

 

「おかえりなさい、眞」

 

 短い言葉。

 

 それだけで、戻ってきた実感が胸に落ちた。

 

 狐斎宮が扇で口元を隠す。

 

「眞様、おかえりなさいませ。今回は油揚げではなく、何を拾ってこられました?」

 

「拾ってきたわけではありません」

 

「背負ってきた?」

 

「……否定しにくいですね」

 

「でしょう」

 

 狐斎宮は笑っていた。けれど、その目は眞の胸元を見ている。灯の気配に気づいているのだろう。

 

 千代は腕を組み、豪快に笑った。

 

「顔つきが変わったな」

 

「そうですか」

 

「ああ。前より疲れている」

 

「そこですか」

 

「だが、前より腹が据わっている」

 

 千代はにやりとする。

 

「良い旅だったらしい」

 

「良い、だけではありませんでした」

 

「なら、なお良い」

 

 眞は苦笑した。

 

 千代らしい。苦しいものを苦しいまま受け止めて、それでも前に進ませる言い方だ。

 

 笹百合は静かに頭を下げた。

 

「留守中の報告があります。退避路の整備、帰還合図の試験、天狗衆の巡回配置、いずれも進めております」

 

「帰還合図?」

 

 眞はその言葉に反応した。

 

 笹百合が頷く。

 

「影様の提案です。退却という言葉では、兵の中に抵抗が生まれます。ですので、“帰還”としました」

 

 眞は影を見る。

 

 影は少しだけ視線を逸らした。

 

「退くことは、逃げることではないのでしょう」

 

「ええ」

 

「なら、戻るための合図でいい」

 

 胸が温かくなる。

 

 眞がいない間に、影は進めてくれていた。ただ守っていたのではない。自分の言葉で、自分の判断で、仕組みを変えていた。

 

「とても良いと思います」

 

「……そうですか」

 

「はい」

 

 影は少しだけ目を伏せた。

 

 褒められ慣れていない顔だった。

 

 狐斎宮が楽しげに扇を揺らす。

 

「影様、眞様がいない間、ずっと真剣に考えておいででしたよ」

 

「斎宮」

 

「わらわは事実を」

 

「言わなくていい事実もあります」

 

「照れておいでで?」

 

「違います」

 

 即答だった。

 

 眞は笑ってしまった。

 

 影がこちらを見る。

 

「眞」

 

「すみません」

 

「笑うところですか」

 

「少し」

 

「……眞も、帰ってくるとすぐこうです」

 

 不満そうな声。けれど、その奥に安堵が混じっている。

 

 眞はその声を、大切に胸へしまった。

 

 夜。

 

 眞は神域の一室で、皆に旅の報告をした。

 

 もちろん、すべてではない。

 

 世界樹の細部。大慈樹王の未来。夜叉たちの名と行く末。そこまでは言えない。

 

 けれど、話せることは増えていた。

 

 隠すためではなく、共有するために言葉を選ぶ。それが大切だと、今は分かる。

 

 机の上には、灯が置かれていた。

 

 淡い光。緑。紫。金。塵のような薄い輝き。そこに、ほんの少し黒い揺らぎが混じっている。

 

 影はその光をじっと見ていた。

 

「以前より、色が違います」

 

「業に触れました」

 

 眞が言うと、千代が眉を上げた。

 

「業?」

 

「戦いの後に残るものです。怨念、穢れ、叫び。そういうものが、戦う者の内側に貼りつくことがある」

 

 部屋の空気が少し重くなる。

 

 笹百合が静かに目を伏せた。千代も笑わなかった。

 

 影は、眞を見る。

 

「それは、斬れますか」

 

「斬れないものもあります」

 

 眞は正直に答えた。

 

「斬れば終わる敵もいる。でも、斬った後に残る声もある」

 

「声」

 

「はい。怒りや恨み、消えきらない痛み。そういうものが、戦った者を内側から削ることがある」

 

 影の手が、膝の上でわずかに握られた。

 

 影は戦う者だ。斬る者だ。だから、その言葉は他人事ではない。

 

「灯は、それを消せるのですか」

 

「いいえ」

 

 眞は首を振った。

 

「消せません」

 

 はっきり言う。

 

 万能ではない。救済の道具ではない。その誤解だけは、最初から潰しておかなければならない。

 

「灯ができるのは、痛みと自分の間に少しだけ距離を作ることです」

 

「距離」

 

 狐斎宮が静かに呟く。

 

「穢れを祓うのではなく、沈みきらないための隙間を作る、ということですか」

 

「近いです」

 

 眞は頷く。

 

「叫びの中で、自分がどこにいるのか分からなくなる。その時に、帰る方向を残す」

 

 千代が腕を組んだ。

 

「つまり、迷子札か」

 

「かなり大雑把ですが、間違ってはいません」

 

「なら分かりやすい」

 

 千代は頷いた。

 

「戦場で迷ったら、戻るための目印がいる。業とやらも同じなのだろう」

 

 眞は少し驚いた。

 

 千代は感覚で本質に近いところを掴む。豪快に見えて、戦う者の勘がある。

 

「そうです」

 

「なら、持たせればいい」

 

「ただし、持つだけでは駄目です」

 

 眞は灯を見る。

 

「戻る場所が必要です。迎えに行く者も必要です。一人で灯を抱えていても、沈む時は沈む」

 

 影が静かに言う。

 

「だから、帰還合図」

 

「はい」

 

「帰る場所と、戻る権利」

 

 眞は影を見る。

 

「璃月でも、同じ話になりました」

 

「……そうですか」

 

 影は少しだけ目を伏せた。

 

 自分が進めていたことが、遠い国でも同じ意味を持った。それを噛みしめているようだった。

 

 笹百合が口を開く。

 

「では、天狗衆の合図にも灯の考えを入れられます。視覚だけでなく、音も必要でしょう」

 

「音?」

 

「はい。戦場では視界が遮られることがあります。笛、鳴鏑、太鼓。帰る方向を音で知らせる」

 

 眞の胸が小さく震えた。

 

 魈へ言った言葉を思い出す。

 

 仲間の音を覚えていてください。

 

 業の声が近くなった時、その音へ帰れるように。

 

「とても良いです」

 

 笹百合は静かに頷く。

 

「ならば整えます。帰還の合図は、恥ではない。戻る権利であると、天狗衆にも伝えます」

 

「お願いします」

 

 狐斎宮は灯を見つめたまま、口元の笑みを消していた。

 

「眞様」

 

「はい」

 

「その灯、影向山の霊地で試してみても?」

 

 影の目が鋭くなる。

 

「斎宮」

 

「危険は承知しています」

 

 狐斎宮は静かに言った。

 

「ですが、稲妻の穢れは璃月の業とは違います。鳴神の霊脈に近い場所で、灯がどう揺れるかを見ておくべきです」

 

「一人ではさせません」

 

 眞はすぐに言った。

 

 狐斎宮が少し笑う。

 

「言われると思いました」

 

「なら、言わせないでください」

 

「眞様も少し、影様に似てきましたね」

 

「そうですか?」

 

「ええ。止め方がまっすぐです」

 

 影が横でわずかに反応した。

 

 眞は小さく笑う。

 

「では、明日。影、斎宮、千代、笹百合。全員で確認しましょう」

 

「わたしもか?」

 

 千代が問う。

 

「もちろん」

 

「穢れを見るのに、鬼が役立つか?」

 

「役立ちます」

 

 眞は千代を見る。

 

「あなたにも、帰る場所を知っていてほしい」

 

 千代の表情が一瞬止まった。

 

 それから、豪快に笑う。

 

「なら、行こう」

 

 翌朝。

 

 影向山の霊地には、まだ朝霧が残っていた。

 

 木々の間を、淡い光が通る。この場所は、いつ来ても不思議な気配がある。

 

 稲妻の記憶。願い。穢れ。まだ形になっていないものまで、霊脈の周りに薄く漂っているようだった。

 

 眞は灯を両手で持った。

 

 影は隣。狐斎宮は正面。千代と笹百合は少し離れて周囲を見ている。

 

「まずは、ごく薄い穢れから」

 

 狐斎宮が言った。

 

「昨夜、神職が祓いきれずに残したものがあります。危険は低いですが、性質を見るには十分です」

 

「無理はしないでください」

 

「眞様も」

 

「はい」

 

 言われてしまった。

 

 眞は苦笑し、灯を開いた。

 

 淡い光が、朝霧の中へ広がる。

 

 狐斎宮が袖を振る。

 

 白い紙片が空へ舞い、霊脈の淀みに沈んでいた黒い靄をほんの少しだけ呼び出した。

 

 それは小さな穢れだった。

 

 人の不安。小さな恨み。祈りそこねた願い。そうしたものが絡まった、弱い淀み。

 

 だが、灯に触れた瞬間、光が震えた。

 

 璃月の業とは違う。

 

 叫びではない。もっと湿っている。

 

 言葉にならない未練。置いていかないで。忘れないで。見つけて。

 

 そんな声にならない声が、朝霧の中で揺れた。

 

 眞は息を呑む。

 

 狐斎宮の表情も変わった。

 

「これは……」

 

「穢れというより、迷いに近い」

 

 笹百合が静かに言う。

 

 狐斎宮は頷いた。

 

「この霊地は多くを受け止めます。けれど、受け止めたものがすべて綺麗に流れるわけではない。小さな迷いが、霊脈に絡むこともある」

 

 灯の中の光が揺れる。

 

 黒ではない。濁った灰色。

 

 その中に、大慈樹王の緑の光が細く通った。

 

 迷子が、帰り道を見つけられますように。

 

 すると、灰色の靄がわずかにほどけた。

 

 消えたわけではない。だが、絡まりが緩む。

 

 狐斎宮がすぐに祝詞を重ねる。千代が周囲の空気を払うように一歩踏み出す。笹百合が風を通す。影は雷を細く走らせ、靄が外へ散りすぎないように境界を作った。

 

 眞は灯を支える。

 

 一人ではない。

 

 誰か一人が背負うのではなく、それぞれの力で流れを作る。

 

 その瞬間、眞は見た。

 

 灯は、単体で救うものではない。

 

 帰る方向を示す。けれど、呼ぶ声が必要だ。迎えに行く手が必要だ。通す道が必要だ。残された者たちが共に作る場所が必要だ。

 

 灰色の靄が、ゆっくりと薄れていく。

 

 完全に消えたわけではない。だが、鳴神の霊脈に絡んでいたものは、少しずつ流れ始めていた。

 

「……成功、ですか」

 

 影が問う。

 

「半分は」

 

 眞は答えた。

 

「半分?」

 

「灯だけでは無理でした。でも、皆が一緒なら流せた」

 

 狐斎宮が静かに頷く。

 

「それが答えかもしれませんね」

 

「はい」

 

 眞は灯を見つめた。

 

「灯は、誰かを一人で救うものではない。誰かを一人にしないための目印です」

 

 千代が笑った。

 

「なら、分かりやすい」

 

「本当に?」

 

「ああ。迷ったら、灯を見る。誰かが迷ったら、迎えに行く。戻ったら飯を食う」

 

「最後が千代らしいですね」

 

「大事だぞ」

 

 千代は真顔で言った。

 

「戻っても、何もなければまた迷う。飯でも酒でも、笑い声でもいい。戻る場所には、戻った後が必要だ」

 

 その言葉に、眞は胸を打たれた。

 

 戻った後。

 

 そうだ。

 

 帰る方向だけでは足りない。戻ってきた者を迎える日常が必要だ。

 

 茶。食事。笑い声。小言。訓練。油揚げ。

 

 そういうものがあって初めて、帰る場所になる。

 

「千代」

 

「何だ」

 

「今の、とても大事です」

 

「そうか?」

 

「はい」

 

 千代は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。

 

「なら覚えておけ」

 

「覚えます」

 

 狐斎宮が扇で口元を隠す。

 

「戻る場所には、油揚げも必要ですね」

 

「それは斎宮が食べたいだけでは」

 

「戻った者に振る舞うためです」

 

「本当に?」

 

「半分は」

 

 眞は笑った。

 

 影も、ほんの少しだけ目元を緩めていた。その小さな温度が、眞には何より大切に思えた。

 

 だが、その直後だった。

 

 霊地の奥で、かすかに何かが軋んだ。

 

 ほんの一瞬。

 

 眞の胸元の灯が、強く震えた。

 

 影が即座に刀へ手をかける。千代の気配が鋭くなる。笹百合が空を見上げた。

 

 狐斎宮は、鳴神の霊脈の奥を見つめている。

 

「今のは」

 

 眞が問う。

 

 狐斎宮の顔から、笑みが消えていた。

 

「深いところの穢れではありません」

 

「では」

 

「まだ形になっていないもの」

 

 その言葉に、眞の背筋が冷える。

 

「未来から染みてきたような、嫌な気配でした」

 

 未来。

 

 その言葉は、誰も口にしなかった。

 

 けれど、眞には分かった。

 

 この霊地は、ただ今を受け止めるだけの場所ではない。

 

 いつか、過去と未来に深く関わる場所になる。

 

 その奥に、まだ来ていない災いの影が、ほんの少しだけ滲んだのかもしれない。

 

 眞は灯を握る。

 

 灯は震えている。怖がっているようにも、呼ばれているようにも見えた。

 

「眞」

 

 影が低く呼ぶ。

 

「はい」

 

「顔色が悪い」

 

「……少し、嫌なものを感じました」

 

「言えますか」

 

 その問いに、眞はすぐ答えられなかった。

 

 言えない。まだ、言えない。

 

 具体的にすれば、世界が聞く。霊脈が聞く。未来が固定される。

 

「今は、まだ」

 

 眞は苦しく答えた。

 

 影は目を細めた。けれど、責めなかった。

 

「なら、今言えることを」

 

 その言葉が、胸に染みた。

 

 影は待ってくれている。でも、ただ待つだけではない。言えるところまで求めてくれる。

 

 眞は息を整えた。

 

「この場所は、いずれ大きな意味を持ちます」

 

「影向山の霊地が?」

 

「はい。穢れ、記憶、時間、願い。そうしたものが、ここに集まるかもしれない」

 

 狐斎宮は黙って聞いていた。

 

「だから、ここを一人に任せてはいけません」

 

 眞は狐斎宮を見る。

 

「斎宮」

 

「はい」

 

「あなた一人で、この霊地を背負わないでください」

 

 狐斎宮の表情が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「……眞様は時々、本当に逃げ場のないことをおっしゃる」

 

「すみません」

 

「謝るところではありません」

 

 狐斎宮は扇を閉じる。

 

「承知しました。わらわ一人では背負わない。神職、妖、雷神、鬼、天狗。使えるものは全部使います」

 

「全部」

 

「ええ。眞様がおっしゃったので」

 

 少しだけ意地悪な言い方。けれど、その奥に本気があった。

 

 眞は安堵した。

 

「お願いします」

 

「ただし」

 

 狐斎宮は眞を見る。

 

「眞様もです」

 

「私も?」

 

「はい。未来だの、灯だの、死を偽るだの、重いものを一人で抱える癖があるようですから」

 

 千代が頷く。

 

「それはそうだな」

 

 笹百合も静かに言う。

 

「同意します」

 

 影は言わずもがな、という顔をしている。

 

 眞は少しだけ肩を落とした。

 

「皆で責めますね」

 

「責めているのではありません」

 

 影が言った。

 

「止めています」

 

 その言葉に、眞は何も返せなかった。

 

 止めてくれる。

 

 約束通りに。

 

 それが、これほど心強いとは思わなかった。

 

 その日の夕方、眞たちは神域に戻った。

 

 灯の実験記録は笹百合が整理し、狐斎宮が神職向けの手順に落とし込み、千代が鬼衆向けに「迷ったら戻れ、戻ったら食え」という雑な標語にしようとして影に止められた。

 

「分かりやすいだろう」

 

「雑すぎます」

 

「意味は通る」

 

「通ればよいものではありません」

 

 影の真面目な声に、千代が笑う。

 

 狐斎宮はその横で、油揚げを食べながら眺めていた。笹百合は真剣に筆を走らせている。

 

 眞はその光景を見ながら、胸が温かくなった。

 

 戻る場所。

 

 ここだ。

 

 こういう場所だ。

 

 声があって、小言があって、笑いがあって。誰かが雑な案を出し、誰かが止め、誰かが面白がり、誰かが記録する。

 

 これがあるから、帰ってこられる。

 

 灯が示すのは、この場所へ続く方向なのだ。

 

 夜。

 

 眞は影と二人で縁側に座っていた。

 

 庭には虫の声。遠くに海の音。

 

 影向山の霊地で試した灯は、机の上で静かに揺れている。

 

 影はそれを見つめていた。

 

「眞」

 

「はい」

 

「灯は、消せないものを消すための道具ではないのですね」

 

「はい」

 

「痛みをなくすものでもない」

 

「はい」

 

「なら、残ります」

 

 影の声は静かだった。

 

「穢れも。業も。傷も。喪失も」

 

 眞は頷いた。

 

「残ります」

 

「それでも、帰る道を作る」

 

「はい」

 

 影は少し黙った。

 

 それから、ぽつりと言った。

 

「少し、分かりました」

 

「何がですか」

 

「眞が、死を偽ると言った意味です」

 

 眞の胸が強く鳴る。

 

 影は灯から目を離さない。

 

「死を消すのではない。なかったことにするのでもない。残る傷を軽んじるのでもない。ただ、その先に帰る道を作る」

 

「……はい」

 

「私は、やはり嫌です」

 

「はい」

 

「眞が消えるなど、許したくない」

 

「はい」

 

「けれど」

 

 影は眞を見る。

 

「もし、眞が迷うなら、私が呼びます」

 

 息が止まった。

 

「眞がどこへ沈んでも。何を背負っても。死んだことになっても。戻る道があるなら、私は呼びます」

 

 影の声は、揺れていなかった。

 

 強く、静かで、まっすぐだった。

 

「だから、眞も呼んでください」

 

「私が?」

 

「はい」

 

「あなたを?」

 

「私が迷った時は」

 

 影は少しだけ視線を落とした。

 

「眞が呼んでください」

 

 眞は、すぐに答えられなかった。

 

 影が、自分が迷う可能性を口にした。

 

 以前の影なら、言わなかったかもしれない。

 

 私は斬るだけだ。

 

 私は眞の影だ。

 

 そう言って、迷いを認めなかったかもしれない。

 

 けれど今、影は言った。

 

 自分が迷った時は、呼んでほしいと。

 

 それは、影が自分自身を見始めている証だった。

 

「呼びます」

 

 眞は静かに言った。

 

「必ず」

 

「約束です」

 

「はい。約束です」

 

 影は小さく頷いた。

 

 灯が、机の上で淡く揺れる。

 

 まるで、その約束を覚えるように。

 

 夜風が二人の間を通る。

 

 眞は影の横顔を見つめた。

 

 この子を、ひとりにはしない。

 

 その誓いは変わらない。

 

 けれど、少しだけ形が変わった。

 

 ひとりにしないとは、ずっと隣にいることだけではない。迷った時に呼ぶこと。戻れる場所を残すこと。痛みを消せなくても、帰る方向を示すこと。

 

 それもまた、ひとりにしないということなのだ。

 

 眞は灯を見つめる。

 

 黒い揺らぎを抱いたまま、それでも消えない小さな光。

 

 完全ではない。綺麗でもない。けれど、今の眞にはそれでよかった。

 

 消せない痛みがある。

 

 忘れられない喪失がある。

 

 なかったことにしてはいけない傷がある。

 

 それでも、帰る場所は作れる。戻る声は残せる。

 

 眞は静かに手を伸ばし、灯に触れた。

 

 胸の奥で雷が鳴る。

 

 怖さは消えない。むしろ、進むほど増えている。

 

 けれど、それでも歩ける。

 

 戻る場所があるから。呼んでくれる声があるから。そして、自分も呼ぶと約束したから。

 

「影」

 

「はい」

 

「明日から、灯の社を作りましょう」

 

「影向山の霊地に?」

 

「はい。小さくていい。誰かが迷った時、戻る方向を思い出せる場所を」

 

「分かりました」

 

 影は静かに頷く。

 

「私も手伝います」

 

「ありがとう」

 

「何度でも受け取ります」

 

 眞は微笑んだ。

 

 夜の稲妻に、虫の声が響いている。遠くで波が鳴っている。

 

 灯は、静かに揺れている。

 

 棺ではなく。

 

 封じる匣でもなく。

 

 誰かが帰るための、小さな目印として。

 

 その光は、稲妻の夜に初めて根を下ろした。

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