『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第13話 鬼が帰る場所

 

 

 灯の社は、小さな場所から始まった。

 

 鳴神の霊脈に近すぎず、けれど離れすぎない場所。朝の光が木々の隙間から落ち、風が通り、海の音がかすかに届く丘。眞はそこに立ち、地面へ視線を落としていた。

 

 土は柔らかい。けれど、その下を流れる霊脈は深い。影向山の霊気が、薄く、静かに流れている。

 

 ここなら、穢れを受け止めすぎない。ここなら、呼び声も届く。眞はそう感じた。

 

「この辺りですね」

 

 隣で狐斎宮が頷いた。

 

「ええ。鳴神の霊脈に近すぎれば、灯そのものが奥へ引かれます。遠すぎれば、迷った者へ声が届かない。ここなら、ちょうどよいでしょう」

 

「社としては小さく始めたいです」

 

「大きくすると目立ちますものね」

 

「はい」

 

「それに、大きな場所は人を安心させますが、時に頼りすぎる」

 

 狐斎宮は地面へ視線を落とす。

 

「最初は、小さく。けれど、必ず戻れる場所として」

 

「ええ」

 

 眞は胸元の灯に触れた。

 

 まだ正式な名はない。帰終が“灯”と呼んだ、小さな匣。今は、その言葉が一番近い。

 

 迷子のための灯。

 

 死を閉じる棺ではなく、誰かが帰るための目印。それを、稲妻の地に根づかせる。

 

「眞」

 

 影の声がした。

 

 振り返ると、影が数枚の木札を持って立っていた。

 

「これでよいですか」

 

 木札には、短い言葉が刻まれていた。

 

 ――帰ることは、敗けではない。

 

 ――迷った者を、一人にしない。

 

 ――呼ぶ声を、恥じない。

 

 眞はそれを見つめ、胸が温かくなった。

 

「とてもいいです」

 

「……そうですか」

 

 影は少しだけ視線を逸らす。

 

「笹百合と相談しました。天狗衆の合図と合わせるなら、言葉も短い方がよいと」

 

「影が考えたのですか」

 

「一人ではありません」

 

「でも、あなたも考えてくれた」

 

「眞が任せたので」

 

「ありがとう」

 

 影は小さく息を吐いた。

 

「また礼ですか」

 

「何度でも言います」

 

「なら、何度でも受け取ります」

 

 そのやり取りを聞いていた狐斎宮が、扇で口元を隠した。

 

「あらあら。ずいぶん慣れてきましたね、影様」

 

「斎宮」

 

「何も言っておりません」

 

「言っています」

 

「目で?」

 

「全体で」

 

 狐斎宮は楽しそうに笑った。眞も少しだけ笑う。

 

 そこへ、重い足音が近づいてきた。

 

「おーい、木材はここでいいのか!」

 

 千代だった。肩に太い木材を担ぎ、まるで細い枝でも運ぶように軽々と歩いてくる。その後ろで、鬼衆が慌ててついてきていた。

 

「千代、そんなに一度に運ばなくても」

 

「一度で済むなら、その方が早いだろう」

 

「社の木材です。雑に扱わないでください」

 

「雑には扱っていない。強く扱っているだけだ」

 

「それを雑と言うのです」

 

 影が即座に返した。

 

 千代は豪快に笑う。

 

「相変わらず細かいな、影」

 

「必要なことです」

 

「まあいい。眞、どこに置く?」

 

「こちらへ。ありがとうございます、千代」

 

「礼はいらん」

 

 千代は木材を置くと、ぐるりと周囲を見回した。

 

「しかし、小さいな」

 

「最初は小さくていいのです」

 

「もっと大きく作ればいいだろう。迷った者が戻る場所なら、目立つ方がいい」

 

「目立つ灯は、敵にも見つかります」

 

 狐斎宮が言った。

 

「それに、帰る場所は大きさだけで決まるものではありません」

 

「そういうものか?」

 

「そういうものです」

 

 千代は腕を組み、しばらく考えるように唸った。

 

「なら、飯を置く場所は?」

 

「飯?」

 

 影が眉を寄せる。

 

「戻ってきた者に食わせるのだろう」

 

「千代」

 

「何だ。大事だと言ったはずだ。戻った後に何もなければ、また迷う」

 

 その言葉に、眞は少し驚いた。

 

 千代は本気だった。ただ食べたいだけではない。彼女なりに、帰る場所の意味を考えている。

 

 狐斎宮がゆっくりと扇を揺らした。

 

「では、供物台を少し広めにしましょうか」

 

「油揚げも置けますね」

 

「眞様、それは良い案です」

 

「斎宮が食べる前提ではありません」

 

「失礼な。半分だけです」

 

「半分は食べるんですね」

 

 狐斎宮は笑う。千代も笑う。影は呆れている。

 

 笹百合は少し離れた場所で、木札の配置を真剣に確認していた。

 

 眞はその光景を見つめた。

 

 これだ。

 

 これが、戻る場所だ。

 

 神聖さだけではない。厳粛な祈りだけでもない。誰かの軽口、誰かの小言、食べ物の話、作業の手順。そういう何でもないものがあるから、人は帰ってこられる。

 

 灯は、それを指し示すだけでいい。

 

 帰ってきた先にある温度は、こうして皆で作るものなのだ。

 

 社作りは、思ったより賑やかに進んだ。

 

 笹百合は天狗衆と共に周囲の木々へ目印を仕込み、帰還合図の音がどう響くかを確かめていた。短い笛の音。低い太鼓。風に乗る鳴鏑。それぞれの音が森の中を通り、霊地の木々に触れて返ってくる。

 

 影はその音を聞きながら、配置を調整していた。

 

「この音は鋭すぎます。戦場なら敵にも伝わる」

 

「では、低く響かせます」

 

 笹百合が応じる。

 

「ただ、低すぎると海風に消されます」

 

「なら、二つ重ねましょう。近くにいる者へは笛。遠くにいる者へは鳴鏑。最後の帰還合図に太鼓」

 

「承知しました」

 

 影はもう、ただ眞の隣に立つだけではなかった。

 

 自分の目で、稲妻を見る。自分の言葉で、道を整える。その姿を見るたび、眞の胸は温かくなる。

 

 同時に、少しだけ苦しくもなる。

 

 この子を置いていくかもしれない未来がある。その可能性は、消えない。けれど、今の影はただ置いていかれるだけの子ではない。

 

 道を守ると言った。

 

 呼ぶと言った。

 

 それは確かに、未来へ向かう光だった。

 

「眞様」

 

 狐斎宮が声をかけた。

 

「灯を置く場所、決めましょう」

 

「はい」

 

 小さな社の中央。

 

 まだ屋根も仮組みのままだが、内側には石で作った台座が置かれていた。霊脈から直接力を引かず、しかし風と音が通る位置。そこに、灯を置く。

 

 眞は布をほどいた。

 

 淡い光が、木の香りの中に広がる。

 

 千代が興味深そうに覗き込んだ。

 

「相変わらず、小さいな」

 

「小さいからいいのです」

 

「強いのか?」

 

「強いというより、消えにくい」

 

「なるほど。しぶといのだな」

 

「……そう言うと急に鬼っぽく聞こえますね」

 

「良いことだ」

 

 千代は満足げに頷いた。

 

 眞は灯を台座に置いた。

 

 その瞬間、光がふわりと揺れた。影向山の霊気に触れたのだろう。緑と紫と金の光が混ざり合い、そこに薄い黒の揺らぎが走る。

 

 狐斎宮が目を細める。

 

「深くは沈んでいません」

 

「よかった」

 

「ですが、霊地そのものが灯を見ていますね」

 

「見ている?」

 

「ええ。興味を持っている、と言えばよいでしょうか」

 

 影向山の霊地が灯を見ている。

 

 その表現に、眞は背筋が少し冷たくなった。

 

 この場所は、ただの霊地ではない。今はまだ名を持たない。ただ静かに霊脈が流れる場所だ。けれど眞は、いつかここが稲妻の根幹に関わる場所になることを知っている。

 

 その霊地が、灯に反応している。

 

 それは良いことなのか。

 

 危ういことなのか。

 

 まだ分からない。

 

「怖い顔をしています」

 

 影が言った。

 

「少し、考えていました」

 

「またですか」

 

「はい」

 

「今言えることは」

 

 眞は影を見た。

 

 影はもう、その聞き方を覚えている。全部を問わない。けれど、何も言わないことも許さない。

 

 眞は静かに息を吸った。

 

「この灯は、鳴神の霊脈と深く繋げすぎてはいけません」

 

「理由は?」

 

「この霊地は、多くを受け止めすぎる可能性があります。灯までその中に沈めば、帰る方向ではなく、受け止める器になってしまうかもしれない」

 

 狐斎宮が頷く。

 

「灯は、霊脈に絡ませない。あくまで近くに置く。寄り添わせるだけ」

 

「はい」

 

「では、結界を二重にしましょう」

 

 狐斎宮は社の周囲へ白い紙垂を配置する。

 

「内側は灯を守るため。外側は霊脈から引かれすぎないため。流れを通すが、沈めない」

 

「できますか」

 

「一人では難しいですね」

 

 狐斎宮はわざとらしく眞を見た。

 

 眞は苦笑する。

 

「言いたいことは分かりました」

 

「なら結構」

 

「私も手伝います」

 

 影が言った。

 

「雷の境界なら、私にも張れます」

 

「では、眞様と影様で内側を。わらわが外側を。笹百合殿は音の通り道を塞がぬよう調整してください。千代殿は」

 

「わたしは?」

 

「木材を押さえてください」

 

「力仕事か」

 

「一番重要です」

 

「よし、任せろ」

 

 千代は胸を張った。

 

 役割が決まると、場の空気が整った。

 

 眞は灯に雷を通す。影がその雷を受け、細く、静かな境界へ整える。狐斎宮が白辰の力で外側に結界を張る。笹百合が風を読み、音の抜け道を作る。千代が社の柱を支え、揺れを抑える。

 

 一人ではない。

 

 誰か一人が抱えるのではない。

 

 それぞれが少しずつ支える。

 

 その形そのものが、灯の社だった。

 

 やがて、灯の光が落ち着いた。

 

 台座の上で、小さく、静かに揺れている。

 

 眞は息を吐いた。

 

「できた、のでしょうか」

 

「形にはなりました」

 

 狐斎宮が言う。

 

「まだ試しながら育てる必要がありますが」

 

「育てる」

 

「社とは、そういうものです。建てれば完成ではありません。祈り、手入れし、使い、直す。そうして場になる」

 

 眞は頷いた。

 

 灯も同じだ。

 

 作れば終わりではない。誰かが帰り、誰かが呼び、誰かが守る。そうして初めて、帰る場所になる。

 

 千代が社を眺めながら、腕を組んだ。

 

「よし。では試すか」

 

「何をですか」

 

 影が即座に警戒する。

 

「帰る練習だ」

 

「今ですか」

 

「今だ」

 

 千代は当然のように言った。

 

「作ったなら使ってみるべきだろう」

 

「危険です」

 

「危険が小さいうちに試すのだ」

 

 影が反論しようとしたが、そこで少し止まった。

 

 理屈としては、間違っていない。眞も同じことを考えた。危険が大きくなってから初めて使う方が危ない。

 

 ただし、誰で試すかは問題だ。

 

「私がやる」

 

 千代が言った。

 

 眞は予想していた。

 

 だから、すぐに首を振る。

 

「一人では駄目です」

 

「分かっている。皆で見るのだろう」

 

「千代」

 

「眞」

 

 千代はまっすぐ眞を見た。

 

 豪快な笑みはない。鬼の武人の目だった。

 

「わたしは、戦場で前に出る。穢れだの業だのが鬼にも絡むなら、早めに知っておいた方がいい」

 

「……」

 

「それに、お前はわたしにも帰る場所を知ってほしいと言った」

 

「はい」

 

「なら、知る」

 

 眞は言葉を失った。

 

 千代は豪快だが、軽くはない。自分に必要だと分かれば、迷わず踏み込む。それが頼もしくて、怖い。

 

「分かりました」

 

 眞は頷いた。

 

「ただし、少しでも異常があれば止めます」

 

「いいぞ」

 

「影も止めます」

 

「分かった」

 

「斎宮も止めます」

 

「構わん」

 

「千代自身も、嫌だと思ったら止めると言ってください」

 

 千代は少しだけ目を丸くした。

 

「わたしが?」

 

「はい」

 

「わたしは耐えられるぞ」

 

「耐えられるから続ける、では駄目です」

 

 魈へ言った言葉が、そのまま出た。

 

 千代はしばらく眞を見ていた。

 

 そして、にやりと笑う。

 

「分かった。嫌なら嫌と言う」

 

「約束です」

 

「ああ」

 

 千代は社の前に立った。

 

 鬼の気配が、空気を震わせる。

 

 強い。

 

 純粋な力。戦うための肉体と魂。その内側にある熱が、灯に触れる。

 

 最初は何も起きなかった。

 

 千代は首を傾げる。

 

「何も感じんぞ」

 

「焦らないでください」

 

 狐斎宮が言う。

 

「灯は敵ではありません。無理に反応させるものではない」

 

 千代は目を閉じた。

 

 珍しく静かだった。

 

 その瞬間、灯がほんの少し赤く揺れた。

 

 鬼の血。戦いの熱。守るための昂り。それに灯が触れている。

 

 眞は慎重に見守った。

 

 赤い光は強い。けれど、濁ってはいない。千代の気性そのもののように、まっすぐで熱い。

 

 しかし、次の瞬間。

 

 灯の奥に、黒い筋が走った。

 

 眞の背筋が凍る。

 

 それは、璃月の業とも違う。影向山の霊地に滞る穢れとも違う。もっと鋭い。

 

 内側から噛みつくような、黒い衝動。

 

 千代の眉がわずかに動いた。

 

「千代?」

 

 眞が呼ぶ。

 

 千代は答えない。

 

 拳が、ぎゅっと握られる。

 

 赤い光の中で、黒い筋が太くなる。

 

 影が一歩踏み出した。

 

「千代」

 

 狐斎宮も扇を構える。

 

 笹百合が鳴鏑に手をかける。

 

 眞は灯へ雷を通した。

 

「千代、戻ってください」

 

「……」

 

「千代」

 

 返事がない。

 

 千代の呼吸が荒くなる。その口元に、笑みのようなものが浮かんだ。

 

 けれど、それはいつもの豪快な笑みではない。戦場で敵を前にした時の、猛る笑み。いや、それよりも、もっと危うい。

 

「まだだ」

 

 千代が低く言った。

 

「まだ、退くほどではない」

 

「千代」

 

「鬼は、退かん」

 

 その言葉が、重く響いた。

 

 眞は胸が痛んだ。

 

 やはり、そこだ。

 

 千代にとって、退くことは弱さに近い。鬼としての誇り。武人としての矜持。守るために前へ出る本能。

 

 それが、黒い筋に触れている。

 

 いつか、この誇りが穢れに歪められたら。いつか、退けない強さが、戻れない呪いになったら。

 

「違います」

 

 眞は言った。

 

 千代の前へ一歩出る。

 

 影が止めようとしたが、眞は首を振った。

 

「千代。帰ることは、弱さではありません」

 

「……」

 

「鬼が退かないなら、言い方を変えます」

 

 眞は灯を支えながら、千代を見た。

 

「帰ってください」

 

 千代の眉が動いた。

 

「退くのではなく。逃げるのでもなく。帰って、また笑って、また食べて、また戦うために」

 

 灯の光が揺れる。

 

 黒い筋が、わずかに止まった。

 

「千代」

 

 今度は影が呼んだ。

 

 声は静かだった。

 

「戻れ」

 

 短い言葉。

 

 命令のようで、呼び声でもあった。

 

 千代の指が震えた。

 

「影……?」

 

「戻れ。ここは、帰る場所だ」

 

 笹百合が鳴鏑を放った。

 

 高すぎず、低すぎない音。森を抜け、影向山の木々に触れ、社へ戻ってくる。

 

 狐斎宮が祝詞を重ねる。

 

「迷いしものよ、道を違えず。帰るべき声を聞きなさい」

 

 眞は灯に雷を通した。

 

 押し返すのではない。縛るのでもない。千代が自分で戻るための道を、光で示す。

 

 赤い光の中で、黒い筋が震えた。

 

 千代の奥で、何かが吠えたような気がした。

 

 もっと戦え。退くな。斬れ。壊せ。

 

 そんな声。

 

 けれど、その向こう側で、千代自身の声がした。

 

「……腹が、減った」

 

 眞は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

 千代が目を開ける。

 

 いつもの目だった。

 

 少し荒い呼吸のまま、彼女は眉を寄せる。

 

「戻ったら、飯を食うのだったな」

 

 眞の胸から力が抜けた。

 

 影も、わずかに息を吐く。狐斎宮が扇を下げた。笹百合も構えを解く。

 

 千代は頭を振り、灯を見る。

 

「今のは、何だ」

 

「分かりません」

 

 眞は正直に答えた。

 

「けれど、危ういものです」

 

「わたしの中のものか?」

 

「おそらく、あなたの強さに触れたものです」

 

「強さに?」

 

「はい。退かない強さ。前へ出る誇り。守るための怒り。それは大切なものです。でも、何かに歪められれば、戻れなくなるかもしれない」

 

 千代は黙った。

 

 いつものように笑い飛ばさなかった。それが、眞には少し怖かった。

 

「千代」

 

「眞」

 

 千代は灯を見つめたまま言う。

 

「今の声は、わたしの声に似ていた」

 

 胸が冷える。

 

「もっと戦えと。退くなと。壊せと。そう言っていた」

 

「……はい」

 

「だが、少し違った」

 

 千代は拳を開く。

 

「わたしは戦うのが好きだ。強い相手も好きだ。だが、壊すためだけに戦いたいわけではない」

 

 眞は静かに頷く。

 

「はい」

 

「なら、戻る場所は必要だな」

 

 千代は顔を上げた。

 

 その目には、いつもの強さが戻っていた。

 

「わたしがわたしでなくなりそうな時、戻る場所がいる」

 

「はい」

 

「眞」

 

「はい」

 

「その時は、殴ってでも戻せ」

 

 影が即座に言った。

 

「殴る前に呼びます」

 

「呼んで戻らなければ?」

 

「その時は、止めます」

 

「どう止める」

 

 影は少しだけ考えた。

 

「斬らずに、叩き伏せます」

 

 千代は豪快に笑った。

 

「いいぞ。それでこそ影だ」

 

「褒められている気がしません」

 

「褒めている」

 

 先ほどまでの重さが、少しだけ緩む。

 

 眞はそのやり取りを聞きながら、胸を撫で下ろした。

 

 戻ってきた。

 

 千代は戻ってきた。

 

 灯だけではない。影の声、笹百合の音、狐斎宮の祝詞、千代自身の「戻ったら飯を食う」という感覚。その全部が、千代を戻した。

 

 やはり、灯は一人で救うものではない。

 

 帰る場所を照らすだけ。

 

 戻るのは、本人で。

 

 呼ぶのは、周りの者たちだ。

 

 その日の夜。

 

 灯の社には、ささやかな供物が置かれた。

 

 狐斎宮の油揚げ。千代が持ってきた握り飯。笹百合が整えた清水。影が刻んだ木札。眞が灯した雷の結界。

 

 小さなものばかりだった。

 

 けれど、それでよかった。

 

 戻る場所は、大仰でなくていい。帰ってきた時に、誰かが差し出すものがある。それだけでいい。

 

 千代は握り飯を一つ手に取り、口に入れた。

 

「うまい」

 

「供物を先に食べないでください」

 

 影が言う。

 

「戻ってきた者に食わせるためだろう。わたしは戻ってきた」

 

「理屈としては間違っていませんが」

 

「ならいい」

 

 千代は満足そうにもう一つ取ろうとして、影に止められた。

 

 狐斎宮は油揚げを守るようにそっと自分側へ寄せている。

 

 笹百合はそれを見て、静かにため息をついた。

 

 眞は笑った。

 

 笑えた。

 

 怖かった。

 

 千代の内側に走った黒い筋。

 

 あれが何なのか、はっきりとは分からない。

 

 けれど、眞の記憶は知っている。

 

 千代はいつか、穢れに呑まれ、影と敵対する。

 

 その未来を、絶対に来させたくない。

 

 だが、今日分かった。

 

 千代を救うには、穢れを防ぐだけでは足りない。彼女が彼女自身へ帰るための場所がいる。

 

 鬼としての誇りを否定せず、戦う喜びを奪わず、それでも、壊すだけの衝動へ落ちないように。

 

 呼び戻す声がいる。

 

「眞」

 

 千代が不意に言った。

 

「はい」

 

「今日は、嫌だった」

 

 その言葉に、眞は静かに目を見開いた。

 

 千代は灯を見ている。

 

「嫌な声だった。わたしに似ているのに、わたしではない声だ」

 

「……はい」

 

「だから、次も試す」

 

「千代」

 

「放っておけば、いつか戦場で来るかもしれん。なら、ここで知る」

 

 千代は眞を見る。

 

「ただし、一人ではやらん」

 

 眞の胸が熱くなった。

 

「はい」

 

「嫌なら、嫌と言う」

 

「はい」

 

「戻ったら、飯を食う」

 

「はい」

 

「それでいいな」

 

 眞はゆっくり頷いた。

 

「それで、いいです」

 

 影も頷く。

 

「私も見ます」

 

 狐斎宮が扇を揺らす。

 

「わらわも。穢れが絡むなら、狐の領分です」

 

 笹百合が静かに言う。

 

「音の道も整えます」

 

 千代は皆を見渡し、にやりと笑った。

 

「なんだ。大所帯だな」

 

「一人にしないと言いましたから」

 

 眞が言うと、千代は少しだけ照れたように鼻を鳴らした。

 

「なら、仕方ない」

 

 夜風が吹く。

 

 灯の社の小さな屋根が、かすかに鳴る。台座の上で、灯が揺れている。

 

 緑。紫。金。塵の淡さ。そして、ほんの少しの黒。

 

 それでも、光は消えない。

 

 眞はその光を見つめ、静かに息を吸った。

 

 帰る場所が、ひとつ形になった。

 

 まだ小さい。まだ危うい。未来の大きな災いを防ぐには、あまりにも頼りない。

 

 それでも、今日、千代は戻った。

 

 鬼は退かない。

 

 けれど、鬼も帰れる。

 

 その事実は、きっと未来へ届く。

 

 眞は影を見る。

 

 影もまた、灯を見ていた。

 

「影」

 

「はい」

 

「今日は、ありがとう」

 

「何度でも受け取ります」

 

「ええ」

 

 眞は微笑んだ。

 

 灯の社に、初めて夜が降りる。

 

 そこには、戦勝の祈りはなかった。死を美化する言葉もなかった。

 

 ただ、戻るための灯がある。

 

 迷った者を呼ぶ声がある。

 

 戻ってきた者に差し出す飯がある。

 

 それでいい。

 

 それがいい。

 

 眞は灯に向かって、小さく祈った。

 

 どうか、この光が届きますように。

 

 未来で、誰かが自分を見失いそうになった時。

 

 帰ることを思い出せるように。

 

 そして、いつか。

 

 自分自身が帰るべき道を見失った時も。

 

 この場所から、誰かが呼んでくれるように。

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