『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第14話 天狗が帰る空

 

 

 空にも、道がある。

 

 笹百合はそう言った。

 

 人が歩く道とは違う。土に刻まれた道でも、石を敷いた道でもない。風の流れ、雲の高さ、海から上がる湿気、山肌に当たって跳ねる空気、鳥の声が遠ざかる方角。

 

 天狗衆は、それらを読み、空に見えない道を作るのだという。

 

「だから、帰還の合図も地上だけに置いては足りません」

 

 笹百合は地図ではなく、空を見上げていた。

 

 影向山の霊地から少し離れた高台に、天狗衆が集まっている。まだ朝の空気は冷たく、海風は穏やかだった。

 

 眞は笹百合の隣で、彼の視線を追った。

 

 空は広い。

 

 稲妻の空は、どこか紫を含んでいる。雷を孕んだ雲が遠くにあり、海からの風が枝を揺らしていた。

 

「空にも、帰る道が必要なのですね」

 

「はい」

 

 笹百合は静かに頷いた。

 

「地上の者は、道を見て戻れます。ですが空を行く者は、風の読みを誤れば戻る場所を失います。戦場ならなおさらです」

 

「視界が悪ければ、合図も見えない」

 

「はい。だから音が要ります」

 

 笹百合が手を上げる。

 

 離れた場所にいた天狗が、短い笛を吹いた。高すぎない音。けれど、空へよく通る。

 

 次に、別の天狗が鳴鏑を放つ。矢は空を裂き、ひゅう、と独特の音を残して山の方へ飛んだ。

 

 最後に、低い太鼓が一つ鳴る。地面から、胸の奥へ響く音だった。

 

 笛。鳴鏑。太鼓。

 

 三つの音が重なり、空と地上を繋ぐ。

 

 眞は胸元の灯へ手を添えた。

 

 灯は静かに揺れている。昨日、千代が戻った場所。鬼が帰る場所。今日は、空を行く者たちへ、その意味を渡す日だった。

 

「いい音ですね」

 

「まだ調整が必要です」

 

 笹百合は即答した。

 

「笛は近距離用。鳴鏑は中距離。太鼓は最後の帰還確認。ですが、風向きによっては鳴鏑が流れます。雷雨が来れば笛は消される。太鼓は地上へ届きますが、空高くにいる者には弱い」

 

「完璧にはならない?」

 

「はい」

 

「だから複数用意する」

 

「はい」

 

 眞は小さく頷いた。

 

 笹百合は真面目だ。とても真面目で、細かい。けれど、その細かさは人を守るためのものだ。

 

 彼が空を見る目には、常に部下の姿がある。どの風なら飛べるか。どこで迷うか。誰が戻れなくなるか。彼はそれを考えている。

 

 だからこそ、危うい。

 

 こういう者ほど、最後まで残る。全員が戻るまで、自分だけは帰らない。そう決めてしまう。

 

「笹百合」

 

「はい」

 

「あなた自身の帰還合図は、誰が出しますか」

 

 笹百合の動きが、わずかに止まった。

 

 それは、ほとんど見えないほど小さな反応だった。けれど、眞には分かった。隣にいた影も、同じように目を細める。

 

「私は、最後に戻ります」

 

 笹百合は静かに答えた。

 

「天狗衆の将ですから」

 

「最後に戻る者にも、合図は必要です」

 

「私には不要です」

 

 即答だった。

 

 ああ、やはり、と思った。

 

 千代が「鬼は退かない」と言ったように、笹百合は「将は最後に戻る」と思っている。それは責任だ。美しい誇りだ。けれど、同時に、戻れなくなる理由にもなる。

 

「不要ではありません」

 

 眞は静かに言った。

 

「必要です」

 

「眞様」

 

「最後に戻る者が、戻る道を失えばどうなりますか」

 

「……」

 

「将が戻らなければ、次の指示を出す者がいなくなる。残された者が、次にどう飛べばよいか分からなくなる」

 

 笹百合は黙った。

 

 影が一歩前に出る。

 

「笹百合。帰還命令は、部下にだけ出すものではありません」

 

「影様」

 

「眞は、私にも同じことを言いました」

 

 影の声は淡々としている。けれど、その奥に確かな重みがあった。

 

「守る者が戻らなければ、守られた者は次に迷う」

 

 笹百合は目を伏せた。

 

 納得していないわけではない。だが、自分に適用するには抵抗がある。それが分かる沈黙だった。

 

 狐斎宮が扇を揺らしながら近づいてきた。

 

「笹百合殿は、真面目すぎますね」

 

「斎宮様に言われるとは」

 

「あら。わらわはいつでも真面目です」

 

「油揚げを食べながらですか」

 

「真面目に食べています」

 

 笹百合はかすかに息を吐いた。

 

 笑ったのか、呆れたのか分からない。けれど、少し空気が緩んだ。

 

 狐斎宮はその隙間へ、柔らかく言葉を差し込む。

 

「帰ることは、部下を置いていくことではありません。次に迎えに行くための支度です」

 

「……支度」

 

「ええ。空は広い。見失った者を探すにも、戻る者がいなければ始まりません」

 

 笹百合は空を見た。

 

 天狗衆が訓練を始めている。数名が空へ上がり、笛と鳴鏑を頼りに旋回する。地上では、影が合図の位置を確認している。

 

 千代は木の柱を担ぎ、太鼓を吊るす台を作っていた。

 

「なぜ、わたしが太鼓台を作っている」

 

「一番安定しますから」

 

 影が即答する。

 

「褒めているのか」

 

「褒めています」

 

「ならよし」

 

 千代は満足げに柱を立てる。

 

 昨日、灯の前で黒い衝動に触れたとは思えないほど、いつもの千代だった。

 

 けれど、眞は知っている。

 

 何も終わっていない。千代の中には、あの黒い筋がある。

 

 それと同じように、笹百合の中にもきっと、危ういものがある。最後まで残るという誇り。それがいつか、死地に踏みとどまる鎖になるかもしれない。

 

「笹百合」

 

 眞は彼を見た。

 

「今日は、あなた自身が戻る訓練もします」

 

「私が?」

 

「はい」

 

「部下の前で、ですか」

 

「部下の前だからです」

 

 笹百合は眉を動かした。

 

「将が戻る姿を見せれば、部下も戻りやすくなります」

 

 眞は続ける。

 

「あなたが戻ることを恥じなければ、天狗衆も戻ることを恥じなくなる」

 

 笹百合はすぐには答えなかった。

 

 その視線は空へ向いている。遠くを飛ぶ天狗たち。彼らの姿を、笹百合はずっと追っていた。

 

「……分かりました」

 

 やがて、彼は静かに言った。

 

「試します」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、私が戻ることで隊列が乱れるなら、即座に中止します」

 

「もちろん」

 

 笹百合は本当に真面目だ。

 

 それが少し嬉しくて、少し不安だった。

 

 訓練は、最初は順調だった。

 

 天狗衆は三隊に分かれ、それぞれ別の高さを飛ぶ。低空。中空。雲に近い高空。

 

 笛は低空へ、鳴鏑は中空へ、太鼓は地上全体へ。

 

 そして、灯の社に置かれた灯が、微かにその音へ反応する。

 

 音そのものを記録しているわけではない。そこに込められた「戻れ」という意図に、灯が反応している。

 

 眞は社の前に立ち、その揺れを見ていた。

 

「音に想いが乗っている」

 

 狐斎宮が言った。

 

「笛は近い者へ。鳴鏑は遠い者へ。太鼓は迷った者へ。面白いですね」

 

「灯は、それを拾えるようです」

 

「なら、音はただの合図ではありません」

 

「はい」

 

 眞は頷く。

 

「帰る方向を思い出すための声です」

 

 その時、空で鳴鏑が一つ鳴った。

 

 中空の隊が旋回し、低い位置へ戻ってくる。次に笛。低空の隊が社の方角へ向かう。

 

 最後に、太鼓。

 

 地上の者たちが、戻る道を空ける。

 

 訓練としては、悪くない。

 

 笹百合は最後に高空へ上がっていた。彼は周囲の天狗たちが戻るのを確認し、最後に自分も戻る。

 

 その予定だった。

 

 眞は空を見上げる。

 

 笹百合の姿は小さい。けれど、彼の飛び方はよく分かった。無駄がない。風を読み、羽のように軽く、刃のように鋭い。

 

 まさに天狗の将だった。

 

 その時、海側から風が変わった。

 

 眞は最初、ただの風向きの変化だと思った。だが、狐斎宮が扇を止める。影が刀へ手をかける。笹百合の部下の一人が、空でわずかに揺れた。

 

「風が巻いています」

 

 影が言った。

 

「訓練を中止します」

 

 眞は即座に判断した。

 

「笛を」

 

 笛が鳴る。

 

 低空の天狗はすぐに戻る。

 

「鳴鏑」

 

 鳴鏑が空を裂く。

 

 中空の隊も戻り始める。だが、高空の一人が風に煽られた。

 

 若い天狗だった。

 

 身体が大きく傾き、隊列から外れる。

 

 笹百合が即座に動いた。

 

 彼は迷わず上へ向かい、若い天狗の側へ飛んだ。

 

「笹百合!」

 

 眞が叫ぶより早く、影が太鼓を叩くよう合図した。

 

 低い音が鳴る。

 

 帰還の合図。

 

 だが、笹百合は戻らない。

 

 若い天狗を風の外へ押し出し、自分が巻いた風の中心へ入る。

 

「笹百合殿!」

 

 狐斎宮の声が鋭くなる。

 

 千代が太鼓台から飛び降りる。

 

「まずいな」

 

「空へは届きません」

 

 影が歯を食いしばる。

 

 眞は灯を掴んだ。

 

 灯が震えている。風に反応しているのではない。笹百合の意識に反応している。

 

 戻れ。

 

 戻れ。

 

 音は届いている。けれど、笹百合自身が戻ることを選んでいない。

 

 部下を押し出す。自分は残る。全員が戻るまで、自分は戻らない。

 

 それが、笹百合の中の道なのだ。

 

「笹百合」

 

 眞は灯に雷を通した。

 

 音に乗せる。ただの命令ではなく、呼び声として。

 

「戻ってください」

 

 声は空へ届かない。けれど、灯が揺れる。

 

 笹百合の姿が、風の中で一瞬だけ止まった。

 

 若い天狗は何とか隊へ戻る。しかし、笹百合はさらに高く押し上げられた。

 

 海側の雲が暗い。小さな雷が、その中で光った。

 

 眞の胸が冷える。

 

 これは大きな災いではない。未来を決めるような戦ではない。ただの訓練中の突風だ。

 

 けれど、こういう小さな瞬間が、人を奪う。最後まで残る者は、こういう風に帰る道を失う。

 

「影」

 

「はい」

 

「雷の道を作ります」

 

「私も」

 

「斎宮」

 

「風を散らします」

 

「千代」

 

「太鼓を鳴らし続ければいいんだな」

 

「はい」

 

「任せろ」

 

 千代が太鼓の前に立つ。

 

 腕を振り下ろす。

 

 低い音が、地面を震わせた。

 

 一度。二度。三度。

 

 帰れ。

 

 戻れ。

 

 ここに道がある。

 

 その音に、笹百合の部下たちが顔を上げる。

 

 彼らも声を上げた。

 

「将!」

 

「笹百合様!」

 

「戻ってください!」

 

 狐斎宮が祝詞を風に乗せる。

 

 影が雷を細く走らせ、空へ向かう一本の線を作る。

 

 眞は灯を掲げた。

 

 灯の中の光が、音と声と雷を拾う。

 

 緑、紫、金。

 

 そして、天狗衆の声が混ざる。

 

 名ではない。記録ではない。ただ、帰ってきてほしいという想い。

 

 その想いが、灯を通って空へ伸びた。

 

 風の中で、笹百合の目が見開かれたように見えた。

 

 彼は一瞬、何かを聞いた。

 

 太鼓か。部下の声か。灯の呼び声か。

 

 分からない。けれど、彼の身体が、わずかに向きを変えた。

 

 戻る方へ。

 

 笹百合は風を斬るように身を翻した。

 

 だが、まだ足りない。

 

 巻いた風が彼を引く。

 

 千代が太鼓を叩く。

 

「戻れ、天狗!」

 

 影が叫ぶ。

 

「笹百合、戻れ!」

 

 その声は、命令だった。同時に、願いだった。

 

 笹百合が、風の中で唇を噛む。

 

 そして、彼は初めて、部下より先に地上へ向けて降りた。

 

 それは一瞬の判断だった。風に逆らいすぎず、雷の線に沿い、鳴鏑の音へ身を預ける。

 

 天狗の将は、帰還の合図に従った。

 

 地上へ降り立った瞬間、膝がわずかに沈んだ。

 

 影が駆け寄る。

 

 眞もすぐに灯を閉じた。

 

「笹百合!」

 

「……問題ありません」

 

 笹百合は息を整えながら答えた。

 

 けれど、肩が上下している。平気ではない。それでも、立っている。

 

 若い天狗が地面へ膝をついた。

 

「申し訳ありません、将。自分が」

 

「謝罪は後だ」

 

 笹百合の声は少し荒い。

 

 だが、怒ってはいなかった。

 

「戻れたな」

 

「……はい」

 

「なら、まず息を整えろ」

 

 若い天狗は目を見開いた。

 

 笹百合自身も、自分の言葉に少し驚いたようだった。

 

 眞はその横顔を見た。

 

 戻れたな。

 

 その言葉を、笹百合が部下に言った。

 

 生きて帰ったことを、まず認めた。

 

 それは小さな変化だった。けれど、大きい。

 

「笹百合」

 

 眞が呼ぶ。

 

「はい」

 

「あなたも、戻りました」

 

 笹百合は静かに眞を見る。

 

 その目には、まだ整理しきれない感情があった。

 

 悔しさ。戸惑い。安堵。そして、ほんの少しの恥。

 

「……私は、最後まで残るべきでした」

 

「本当に?」

 

 影が問う。

 

 笹百合は言葉を止めた。

 

 影は続ける。

 

「あなたが戻ったから、部下たちはあなたの指示を聞けます。あなたが戻ったから、次の風を読めます。あなたが戻ったから、次の訓練を直せます」

 

「……」

 

「将が帰ることは、部下を捨てることではありません」

 

 影の声はまっすぐだった。

 

「次に守るためです」

 

 眞は影を見た。

 

 影が、それを言っている。

 

 最初は退くことに戸惑っていた影が、眞の言葉を受け取り、自分の言葉で笹百合へ渡している。

 

 胸が熱くなる。

 

 笹百合は長く黙っていた。

 

 やがて、深く息を吐く。

 

「……悔しいものですね」

 

「はい」

 

 眞は頷いた。

 

「戻ることは、簡単ではありません」

 

「恥ではないと言われても、胸がざわつく」

 

「それでも、戻りました」

 

「はい」

 

「なら、それを天狗衆に見せてください」

 

 笹百合は眞を見る。

 

「将も戻る。戻って、次を考える。それを、あなたが見せてください」

 

 笹百合は空を見上げた。

 

 風は少しずつ落ち着いている。天狗衆は全員、地上に戻っていた。

 

 誰も失われていない。

 

 その事実が、今は何より重かった。

 

「承知しました」

 

 笹百合は静かに言った。

 

「天狗衆に、帰還の権利を定めます」

 

「権利」

 

「はい。戻ることを恥としない。合図を受けた者は戻る。将も例外ではない」

 

 影が頷く。

 

「よいと思います」

 

 千代が太鼓の前で笑った。

 

「つまり、戻ってまた飛べ、ということだな」

 

「その通りです」

 

 笹百合は少しだけ目を細めた。

 

「戻って、また飛ぶ」

 

 その言葉に、眞は小さく息を吐いた。

 

 戻ることは終わりではない。次に飛ぶための準備だ。天狗にとって、それはきっと大切な言葉になる。

 

 訓練の後、灯の社には新しい木札が増えた。

 

 笹百合が自ら刻んだものだった。

 

 ――戻る空を、恥じるな。

 

 文字は整っていた。

 

 だが、最後の一画だけ、少し強く刻まれている。笹百合の迷いと決意が、そこに残っているようだった。

 

 眞はその木札を見つめた。

 

「いい言葉ですね」

 

「まだ、慣れません」

 

 笹百合は正直に言った。

 

「ですが、必要だと理解しました」

 

「それで十分です」

 

「眞様」

 

「はい」

 

「本当に、死なずに守れるのでしょうか」

 

 その問いは、静かだった。

 

 誰かを責めるものではない。ただ、天狗の将としての疑問だった。

 

 眞はすぐには答えられなかった。

 

 死なずに守れるのか。そんな保証はない。死ななければ守れない場面も、きっとある。生き残る道を作っても、すべてを救えるわけではない。

 

「分かりません」

 

 眞は正直に答えた。

 

「死なずにすべてを守れるとは、言えません」

 

 笹百合は静かに聞いていた。

 

「けれど、死ななければ守れないと最初から決めたくはありません」

 

 眞は木札へ視線を向ける。

 

「死ぬ覚悟は、強い。けれど、生きて戻る覚悟も、同じくらい強いと思います」

 

「生きて戻る覚悟」

 

「はい」

 

 笹百合は、その言葉を何度か心の中で繰り返すように沈黙した。

 

 やがて、深く頭を下げる。

 

「覚えておきます」

 

「お願いします」

 

「それと」

 

 笹百合は少しだけ視線を上げた。

 

「今日、戻れと呼ばれた時、最初に聞こえたのは太鼓でした」

 

「千代の?」

 

「はい」

 

 遠くで千代が「わたしの太鼓はよく響くだろう」と自慢している。影が「力任せでした」と返している。狐斎宮がその横で油揚げを供物台に並べていた。

 

「その後に、部下の声が聞こえました」

 

「はい」

 

「最後に、灯が見えた」

 

 笹百合は灯を見た。

 

「順番が、逆ではないのですね」

 

「逆?」

 

「灯が最初に救うのではない。誰かの声があって、灯がそれを道にする」

 

 眞は目を見開いた。

 

 それは、眞が感じていたことそのものだった。

 

 灯は一人で救うものではない。

 

 声を道にするもの。想いを帰る方向に変えるもの。

 

「……その通りだと思います」

 

 眞は静かに言った。

 

「なら、声を絶やしてはいけませんね」

 

 笹百合は空を見上げた。

 

「天狗衆には、声を上げることも教えます。将を呼ぶことも、仲間を呼ぶことも、恥ではないと」

 

 眞の胸が熱くなった。

 

「はい」

 

 その日の夕方、灯の社では小さな食事が用意された。

 

 昨日よりも少し多い握り飯。狐斎宮が守る油揚げ。千代が持ってきた干し肉。笹百合が用意した清水。影が黙々と並べる木札。

 

 天狗衆の若い者たちも、遠慮がちに社の前へ来ていた。

 

 笹百合は彼らの前に立った。

 

 姿勢はいつも通りまっすぐだったが、声には少しだけ違う響きがあった。

 

「今日より、帰還の合図を正式に定める」

 

 天狗衆が静かに聞く。

 

「合図を受けた者は戻れ。迷った者は声を上げろ。仲間の声を聞いた者は、恥じずに迎えに行け」

 

 笹百合は一度、言葉を切った。

 

「将も、例外ではない」

 

 天狗衆の間に、小さなざわめきが起きた。

 

 笹百合は揺れなかった。

 

「戻る空を、恥じるな。戻って、また飛べ」

 

 眞はその言葉を、胸に刻んだ。

 

 戻って、また飛べ。

 

 それが、天狗衆の灯になる。

 

 影が隣で静かに呟いた。

 

「いい言葉です」

 

「はい」

 

 千代が少し不満そうに言う。

 

「わたしの“戻ったら飯を食え”も採用していいと思うが」

 

「それは鬼衆向けにしてください」

 

 影が返す。

 

「よし、では鬼衆に広める」

 

「本当に広めるのですか」

 

「分かりやすいだろう」

 

 狐斎宮が笑う。

 

「では狐衆には“戻ったら油揚げ”で」

 

「斎宮、それは私欲です」

 

「半分だけです」

 

「残り半分も怪しい」

 

 笑い声が、社の前に広がった。

 

 天狗衆の緊張も、少しずつほどけていく。

 

 眞はその光景を見ていた。

 

 灯が、静かに揺れている。

 

 太鼓の音。部下の声。影の命令。笹百合の決意。

 

 それらを受け取って、今日の灯は少しだけ澄んでいるように見えた。

 

 夜。

 

 社の前に残ったのは、眞と影だけだった。

 

 空には雲が薄く広がり、その隙間から星が見える。風は穏やかだった。昼間の突風が嘘のように、静かな夜だった。

 

「眞」

 

「はい」

 

「今日は、笹百合が戻りました」

 

「はい」

 

「千代も、戻りました」

 

「はい」

 

「次は、誰ですか」

 

 影の問いに、眞はすぐに答えられなかった。

 

 次。

 

 狐斎宮。影向山の霊地。穢れ。あるいは、もっと遠い未来。

 

 救いたい者は多い。けれど、順番を間違えれば、何かを壊す。

 

 眞は灯を見つめる。

 

「次は、斎宮かもしれません」

 

 影の表情がわずかに引き締まる。

 

「穢れですか」

 

「はい。今日、影向山の霊地で感じたもの。灯が見たもの。斎宮は、きっと深く関わります」

 

「また、一人にしない」

 

「ええ」

 

 眞は頷いた。

 

「絶対に」

 

 影はしばらく黙っていた。

 

 そして、静かに言った。

 

「なら、私も見ます」

 

「はい」

 

「斎宮も、千代も、笹百合も。眞も」

 

 眞は影を見る。

 

「私も?」

 

「当然です」

 

 影の声は揺れない。

 

「眞は、すぐ自分を外します」

 

 痛いところを突かれた。

 

 眞は苦笑する。

 

「皆に言われます」

 

「言われても直らないから、何度でも言います」

 

「……はい」

 

 影は灯を見つめる。

 

「戻る空を、恥じるな」

 

「ええ」

 

「眞にも、必要な言葉です」

 

 眞は息を呑んだ。

 

 影はこちらを見ない。けれど、その言葉はまっすぐ眞へ届いた。

 

「眞も、戻ってください」

 

 何度目か分からない約束。

 

 それでも、毎回重い。

 

 眞は静かに頷いた。

 

「戻ります」

 

「約束です」

 

「はい」

 

 灯が、社の中で淡く揺れた。

 

 鬼が帰る場所。

 

 天狗が帰る空。

 

 少しずつ、稲妻に戻る道が増えている。

 

 まだ小さい。まだ脆い。未来の大きな災いには、きっと足りない。

 

 けれど、今日、笹百合は戻った。

 

 将も戻ると、天狗衆に示した。

 

 それは、確かに未来を変える一歩だった。

 

 眞は夜空を見上げる。

 

 空にも道がある。

 

 笹百合はそう言った。

 

 なら、きっと。

 

 死んだことになった者にも。

 

 忘れられた者にも。

 

 穢れに沈みかけた者にも。

 

 帰る道は作れる。

 

 眞は灯の前で、静かに祈った。

 

 どうか、この音が届きますように。

 

 未来の空で、誰かが帰る方角を見失った時。

 

 笛が。

 

 鳴鏑が。

 

 太鼓が。

 

 そして、誰かの声が。

 

 その人を呼び戻してくれるように。

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