『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』 作:悲劇のキャラに救済を
第3話 雷神になる前の姉妹
影の訓練は、優しくなかった。
「もう一度」
「……はい」
「雷が先に出ています。身体が遅い」
「はい」
「それから、足運びが乱れています」
「はい」
「あと、無理に笑わなくていいです」
「それは訓練に関係ありますか」
「あります」
即答だった。眞は思わず黙った。
庭の中央。玉砂利の上に立ち、指先に細い雷を纏わせる。朝の空気は澄んでいたが、身体はすでに重い。
神の身体なのに、疲れる。正確には、肉体が疲れているのではない。神の力と、自分の感覚が噛み合っていない。
雷電眞の身体は雷を知っている。この身に流れる力も、稲妻という国に満ちる気配も、本来ならば呼吸のように扱えるはずだった。
けれど、今の自分は違う。
前世の感覚が邪魔をする。力を出そうとすると、頭で考えてしまう。雷を握ろうとして、雷に弾かれる。
影はそれを見逃さなかった。
「眞」
「はい」
「力を掴もうとしないでください」
「掴まない?」
「雷は握るものではありません。通すものです」
影はそう言って、片手を上げた。
何の構えもない。ただ、指先を軽く開いただけ。次の瞬間、紫電が走った。
細く、美しく、まるで糸のような雷。それは庭に置かれた石灯籠の先を撫で、火花一つ散らさずに消えた。
眞は息を呑む。
綺麗だった。斬るための雷ではない。荒れ狂う力でもない。制御された、静かな雷。
「……あなた、やっぱり器用ですね」
「眞に言われるとは思いませんでした」
「褒めています」
「分かっています」
影は淡々と返す。けれど、ほんの少しだけ目元が柔らかい。褒められて嬉しくないわけではないらしい。
そのことに気づいて、眞は少し笑った。
「今、また無理に笑いました」
「違います。これは自然な笑みです」
「そうですか」
「疑っていますね」
「少し」
影は隠さない。そういうところが、少し面白い。
まだ出会って間もないような気がするのに、雷電眞の記憶は影の癖を覚えている。不満な時の沈黙。嬉しさを隠す時の目線。心配を怒りに変える時の声。どれも、近すぎるほど近い。
だからこそ、この子に嘘を重ねる未来が怖かった。
「もう一度」
影の声に、眞は意識を戻す。
「雷を通す。握らない」
「ええ」
目を閉じる。胸の奥にある雷を探る。
そこにあるのは、ただの元素力ではなかった。神としての力。稲妻という国に結びついた、太く深い流れ。
それは自分のもののはずなのに、まだ遠い。自分の身体なのに、身体ではないような違和感。その奥で、前世の記憶がざわつく。
男だった自分。
疲れ切って死んだ自分。
画面越しにこの世界を見ていた自分。
それらを無理に押し込めようとして、雷が跳ねた。
「違います」
影の声。
「消そうとしないでください」
「……っ」
「眞の中にあるなら、それも眞の一部です」
その言葉に、息が止まった。
影は、こちらの事情を知らない。知らないはずなのに、なぜ、そんな言葉を言うのか。
「影」
「はい」
「今のは」
「雷が乱れる時、眞は何かを押し殺そうとしているように見えます」
影は静かに言った。
「それでは、流れません」
胸が痛む。
やはり、影は鋭い。何も知らないまま、核心の近くに触れてくる。
眞は小さく息を吐いた。
消そうとしない。押し殺さない。
自分は雷電眞ではない。でも、雷電眞として生きると決めた。
なら、前世の自分をなかったことにしてはいけない。その記憶も、恐怖も、知識も。全部抱えたまま、雷電眞として立つ。
目を開ける。
指先に雷を通す。
今度は、握らない。胸の奥から手の先へ。血が巡るように。息が流れるように。
紫電が、細く灯った。
影のものほど美しくはない。けれど、先ほどよりもずっと静かだった。
「できた」
思わず声が漏れた。
影がわずかに頷く。
「今のは、よかった」
「あなたに褒められると、少し照れますね」
「眞は、褒められ慣れているでしょう」
「そうでもありません」
少なくとも、前世の自分は。
そう言いかけて、飲み込む。影は不思議そうにこちらを見る。
その時だった。
庭の外から、軽い拍手が聞こえた。
「いやあ、朝から仲睦まじいことで」
女の声だった。柔らかく、よく通る。けれど、その奥に人をからかうような響きがある。
影の表情が、わずかに固くなった。
「斎宮」
「おや、怖い顔。わらわはただ、雷神様方の麗しき朝稽古を見物していただけですよ」
白い影が、庭の端に現れた。
白髪。
狐の気配。
神職の衣。
その姿を見た瞬間、眞の呼吸が一拍遅れた。
狐斎宮。
白辰の狐。
稲妻の記憶に深く刻まれた存在。
のちに黒い災厄に呑まれ、身体も記憶も穢れへと砕かれる白狐。
会ってしまった。
生きている。
目の前で、笑っている。
「眞様?」
狐斎宮が首を傾げる。
ほんの一瞬、彼女の目が細くなった。笑っているのに、見られている。ただの軽口ではない。こちらの動揺を、確かに拾われた。
「……おはようございます、斎宮」
「はい、おはようございます。どうやら今朝は、ずいぶんと雷の機嫌がよろしいようで」
「訓練をしていました」
「それは見れば分かりますとも。けれど、影様が眞様に稽古をつけるとは、珍しい」
狐斎宮は口元を袖で隠す。
「明日は槍でも降るのでしょうか」
「斎宮」
影の声が低くなる。
「冗談です」
「あなたの冗談は長い」
「長生きの狐ですから」
飄々と返す。影はわずかに眉を寄せた。
この距離感。軽口を叩く狐斎宮。真面目に受ける影。それを眺める眞。
記憶の中にもある光景だった。けれど、今は違う。これは回想ではない。失われた過去でもない。
まだ、ここにある日常だ。
狐斎宮はこちらへ歩いてくると、眞の顔を覗き込んだ。
「して、眞様」
「はい」
「昨夜から少し、顔色が変わりましたね」
心臓が鳴る。
影がこちらを見る。狐斎宮は笑っている。けれど、その目は笑っていない。
「悪い夢を見まして」
「ほう。夢」
「ええ」
「夢にしては、ずいぶんと重いものをお持ちのように見えます」
「斎宮」
影が一歩前へ出る。
狐斎宮は軽く手を振った。
「怒らないでくださいな。わらわは心配しているのですよ」
「心配なら、からかわない」
「からかわずに心配などしたら、わらわらしくないでしょう」
「開き直らないでください」
二人のやり取りに、眞は思わず小さく笑った。
狐斎宮がこちらを見る。
「あら」
「何ですか」
「今の笑みは、自然でしたね」
眞は固まった。
影まで頷いた。
「そうですね」
「影まで」
「今のは自然でした」
「二人して観察しないでください」
言った瞬間、狐斎宮が楽しそうに目を細めた。
「よかった」
「え?」
「少しだけ、いつもの眞様に戻られた」
胸がきゅっと痛む。
いつもの眞。
その言葉は、優しいのに刺さる。
自分はいつもの雷電眞ではない。でも、彼女たちにとっては、そうでなければならない。
眞は視線を落としかけた。
その前に、狐斎宮が袖の中から小さな包みを取り出す。
「ところで、稽古もよいですが、朝餉はまだでしょう」
「まだです」
「でしょうね。影様は稽古を始めると時間を忘れる」
「私は忘れていません」
「では、眞様に茶も菓子も出さず雷を走らせていたのは、意図的に?」
「……それは」
影が言葉に詰まった。
珍しい。
狐斎宮は勝ち誇ったように包みを開く。中には、薄く色づいた油揚げのようなものが入っていた。
甘辛い匂い。
狐斎宮はそれを一つ摘まみ、満足げに頷く。
「油揚げです」
「あなたが食べたいだけでは」
「もちろん」
「もちろんなんですね」
「美味しいものを共に食す。これもまた平和の務めです」
影は明らかに呆れていた。けれど、止めはしない。
狐斎宮は眞に一つ差し出した。
「眞様もどうぞ」
「ありがとうございます」
受け取る。口に運ぶ。
甘い。油の香ばしさと、じゅわりと染みた味が広がる。
前世でも知っているようで、少し違う味。稲妻の味。この時代の味。
「……美味しい」
「でしょう?」
狐斎宮が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、眞はまた胸が痛くなる。
この人も、消える。
笑って油揚げを差し出してくる白狐が、いつか穢れに呑まれる。身体も、記憶も、言葉も、バラバラに砕かれてしまう。
そんな未来を、知っている。
知っていて、今この味を受け取っている。
喉が詰まった。
「眞様?」
狐斎宮が呼ぶ。
眞は笑った。
今度は、少し失敗した。
狐斎宮の目が細くなる。影も気づいた。
まずい。
そう思った時、庭の向こうから大きな声が響いた。
「おーい! 朝から何をしている!」
空気が一気に変わった。
力強い足音。遠慮のない気配。白と赤の衣を揺らし、二本の角を持つ女が庭に入ってくる。
御輿千代。
鬼の武人。
豪快で、美しく、強い。
そして、いつか深き罪に穢され、影へ刃を向ける運命を持つ者。
千代は眞たちを見るなり、満面の笑みを浮かべた。
「なんだ、楽しそうではないか。わたしも混ぜろ」
「千代。ここは神域です。少しは静かに」
影が言う。
千代は豪快に笑った。
「神域だからこそ、賑やかな方がよいだろう。静かすぎる場所には、ろくなものが寄ってこない」
「理屈になっていません」
「理屈など狐に任せておけばいい」
「そこでわらわに振りますか」
狐斎宮が肩をすくめる。
千代は構わず近づいてきた。そのまま、眞の顔をじっと見る。
「眞」
「はい」
「顔色が悪いぞ」
「皆に言われますね」
「そりゃあ、悪いからな」
遠慮がない。
だが、不思議と嫌ではない。千代の言葉には裏がない。真っ直ぐで、温かい。
「飯を食え。寝ろ。動け。悩みはそれからだ」
「豪快な処方ですね」
「だいたいのことはそれで何とかなる」
「ならないこともあります」
「その時は斬る」
「あなたもですか」
思わず影を見る。
影は静かに頷いた。
「斬るべきものなら」
「……似ていますね、あなたたち」
「似ていない」
「似ておらん」
二人が同時に答えた。
狐斎宮が吹き出した。
眞も笑った。今度は、本当に自然に。
朝の光の中で。
影がいて。
狐斎宮がいて。
千代がいる。
失われるはずの光景が、目の前で賑やかに息をしている。
その事実が、あまりにも眩しかった。
「何を笑っている」
千代が不思議そうに首を傾げる。
「いいえ。ただ、楽しくて」
「ならよし」
千代は満足そうに頷き、狐斎宮の包みに手を伸ばした。
「あ、それはわらわの油揚げ」
「皆で食うのだろう?」
「限度があります」
「狐は細かいな」
「鬼が大雑把すぎるのです」
二人が軽口を交わす。影は呆れたように見ている。けれど、その目元は少し柔らかい。
これが、稲妻の昔。
まだ誰も欠けていない稲妻。
雷神が二人で、狐が笑い、鬼が騒ぎ、天狗が空を守っている時代。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが強く軋んだ。
守りたい。
自分一人が死なないだけでは足りない。
この人たちを、失わせたくない。
「そういえば、笹百合は?」
影が尋ねる。
千代は油揚げを頬張りながら答えた。
「空だ。朝から天狗衆を連れて巡回している」
「またですか」
「真面目なやつだからな」
「あなたも少しは見習っては」
「わたしは真面目だぞ」
「どこがです」
影と千代のやり取りに、狐斎宮が口を挟む。
「笹百合殿は、昼過ぎには戻ると言っていましたよ。眞様に報告があるとか」
「私に?」
「海の向こうの動きについて、と」
海の向こう。
その言葉で、眞の中の記憶が反応した。
オロバシ。
海祇。
戦。
笹百合の死。
まだ先のことかもしれない。けれど、もう種はある。未来は突然落ちてくるわけではない。
こうして、日常の中に小さく混ざっている。
気づかないだけで。
「眞?」
影の声。
眞ははっとする。
また遠くを見ていた。
「……大丈夫です」
「その言葉は、あまり信用できません」
「手厳しいですね」
「眞が隠すからです」
まっすぐ返されて、言葉に詰まる。
狐斎宮の目が、わずかに動いた。千代も油揚げを飲み込み、こちらを見る。
「何だ。隠し事か?」
「大したことでは」
「眞」
影の声が重なる。
逃げられない。
眞は小さく息を吐いた。
ここで全ては話せない。でも、何も話さないと決めたわけではない。
影には、すでに少し伝えた。なら、ここでも。言える範囲で。
「少し、嫌な予感がしているだけです」
狐斎宮が笑みを消した。
千代も真顔になる。
影は、静かにこちらを見ていた。
「嫌な予感?」
「ええ」
眞は庭の向こうへ視線を向ける。風が吹く。木の葉が揺れる。
「この平穏が、ずっと続くわけではないのだと」
空気が、少しだけ沈んだ。
千代が腕を組む。
「それはそうだろう。世はまだ荒れている。敵も多い」
「ええ」
「だが、だからこそ我らがいる」
千代は笑った。
力強く。何の曇りもなく。
「鬼も、狐も、天狗も、人も。もちろん、雷神もな」
狐斎宮が扇で口元を隠す。
「わらわを戦力に数えるとは、鬼らしい雑さですね」
「お前は強いだろう」
「強い狐は、爪を見せないものです」
「油揚げへの執着は隠せていないぞ」
「それとこれとは別です」
二人のやり取りに、少し空気が緩む。
けれど影だけは、眞を見続けていた。
約束を覚えている目だった。
すべては話せない。でも、何も残さず消えない。影はその言葉を、もう忘れていない。
「眞」
「はい」
「その予感について、私にできることは」
「あります」
今度は迷わず言えた。
「強くいてください」
「それは、いつも通りです」
「それだけではありません」
眞は影を見て、それから狐斎宮と千代も見た。
「皆で、稲妻に残る道を作りたい」
「残る道?」
狐斎宮が反応する。
「戦う道ではなく。守る道。退く道。隠す道。繋ぐ道」
千代が眉を上げる。
「眞。お前らしいが、ずいぶん慎重だな」
「慎重すぎるくらいでいいのです」
「敵を迎え撃つだけでは足りんと?」
「足りない時が来るかもしれません」
千代は笑わなかった。腕を組み、じっと眞を見る。
「なるほど」
「千代?」
「いや。眞がそこまで言うなら、何かあるのだろうと思ってな」
あっさりと。
あまりにもあっさりと信じられて、眞は言葉を失った。
千代は当然のように続ける。
「で、何をすればいい」
「……信じるのですか」
「眞が言うならな」
胸が痛む。
まただ。信頼が痛い。
雷電眞が積み重ねてきたものを、自分が受け取っている。その重みから逃げてはいけない。
狐斎宮も静かに頷いた。
「わらわも異論はありません。眞様が“道”と言う時は、たいてい誰かを逃がす時ですから」
「私は、そんなに分かりやすいですか」
「ええ、とても」
「……そうですか」
眞は少しだけ笑った。
影はまだ黙っている。
だから、こちらから言う。
「影」
「はい」
「あなたには、まず私を止める役をお願いします」
「またそれですか」
「ええ」
「私は、眞を止めるより守りたい」
「だからこそです」
影が言葉を止める。
「守るというのは、私の言葉に従うことだけではありません。私が間違えた時、私を止めることも守ることです」
影は不満そうだった。
けれど、今回はすぐ否定しなかった。
狐斎宮が面白そうに目を細める。千代はにやりと笑った。
「いいじゃないか、影。眞が暴走したら、お前が止めろ」
「眞は暴走しません」
「昨日から様子がおかしいのだろう?」
「それは」
「なら、見てやれ」
千代の声は軽い。けれど、その奥には武人の勘がある。
「守りたいなら、目を逸らすな」
影は黙った。
それから、ゆっくりと頷く。
「……分かりました」
眞は息を吐いた。
小さな一歩。でも、大事な一歩だった。
影が、眞をただ守るだけではなく、見て、止める役を受け入れた。
それはいつか、影自身が自分の道を選ぶための最初の種になる。
「それで」
狐斎宮が扇を閉じる。
「守る道、退く道、隠す道、繋ぐ道。具体的には?」
「影向山の霊地を中心に、避難と浄化を兼ねた結界を作りたいのです」
口にした瞬間、胸の奥で雷が小さく軋んだ。
影向山。
鳴神の古い霊脈が通る場所。
まだこの時代では、ただ霊験のある山として知られている場所。
けれど眞は知っている。
いつかそこは、稲妻の過去と未来を繋ぐ要になる。
だからこそ、今から土台を作りたい。
「妖、人、神職、武人。それぞれが役割を持ち、有事の時には稲妻の民を逃がせる場所。さらに、穢れを溜め込まず流せる仕組み」
「穢れ、ですか」
狐斎宮の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「ええ」
眞は彼女を見た。
「斎宮。あなたの力が必要になります」
狐斎宮はしばらく眞を見つめていた。
からかいの色が消えている。
白辰の狐として。
鳴神の霊脈を守るものとして。
彼女は、眞の言葉の奥にあるものを探っていた。
「……穢れを相手取るのは、狐の務めでもあります」
「危険です」
「承知しています」
「だから、あなた一人には背負わせません」
狐斎宮の目がわずかに見開かれた。
眞は続ける。
「絶対に」
それは、未来を知る者としての叫びだった。
狐斎宮を一人で穢れの中へ行かせない。
その身体も記憶も、砕かせない。
狐斎宮は、少しだけ黙った。
それから、いつものように笑った。けれどその笑みは、さっきより柔らかかった。
「眞様は、今日は本当に不思議なことばかりおっしゃる」
「すみません」
「いいえ」
狐斎宮は静かに頭を下げた。
「そのお心、確かに受け取りました」
千代が腰に手を当てる。
「なら、わたしは戦う道だな」
「守る道です」
「戦って守る道だ」
「……まあ、そうですね」
千代は満足げに頷く。
「影、後で手合わせだ」
「なぜ」
「眞が守る道を作るなら、我らは強くならねばならん」
「それは同意します」
「なら決まりだ」
影は少しだけ考え、頷いた。
「分かりました」
「よし!」
千代が笑う。
狐斎宮がため息をつく。
「結局、最後は手合わせですか」
「身体を動かすと腹が減る。腹が減れば飯が美味い」
「鬼の理屈ですね」
「良い理屈だろう」
眞は笑った。
この空気が好きだと思った。
雷電眞の記憶ではなく。
今の自分の心で、そう思った。
この人たちを失いたくない。
影だけではない。
狐斎宮も。
千代も。
まだ会っていない笹百合も。
稲妻に生きる妖も人も。
守りたい。
そう願った瞬間、胸の奥の雷が静かに鳴った。
それは、先ほどまでの不安定な雷ではなかった。
少しだけ、身体に馴染んだ気がした。
昼過ぎ。
笹百合は、本当に空から戻ってきた。
翼を持つわけではない。けれど、天狗の身のこなしは、まるで風を踏んでいるようだった。
黒い羽飾り。
凛とした立ち姿。
静かな目。
笹百合は庭へ降り立つと、眞と影に深く頭を下げた。
「眞様。影様。戻りました」
「ご苦労様です、笹百合」
「はっ」
その声は硬い。けれど、冷たいわけではない。
忠義の人。
そんな印象だった。
彼もまた、未来で失われる。
オロバシとの戦で。
稲妻のために。
影の記憶から、また一人消えていく。
眞は息を整えた。
今は泣く場面ではない。
この人はまだ生きている。なら、未来の死ではなく、今の彼を見るべきだ。
「海の動きについて報告があると聞きました」
「はい。海祇方面に不穏な動きが見られます。ただ、直ちに戦となるものではありません」
海祇。
オロバシ。
また胸が軋む。
影が横目でこちらを見た。
気づかれている。
眞は小さく頷き、言葉を促した。
「続けてください」
「はっ。民の間には不安もあります。東の浜辺でも魔物が出たと聞きました。海沿いの守りを厚くすべきかと」
「そうですね」
眞は少し考える。
今までなら、きっと雷電眞として自然に指示を出していたのだろう。けれど今は、一つひとつ確認するしかない。
地図。
民の位置。
避難路。
守るべき場所。
笹百合の部隊。
千代の武。
狐斎宮の結界。
影の剣。
それらを繋ぐ。
戦うだけではなく、逃がすために。
「笹百合。海沿いの村に、避難路を整えましょう」
「避難路、ですか」
「ええ。戦う前提だけでなく、民が退ける道を」
笹百合は一瞬だけ意外そうにした。
けれど、すぐに頭を下げる。
「承知しました」
「それと、影向山の霊地へ繋がる道も確認してください。今後、有事の際に民と妖が共に退ける場所を整えます」
狐斎宮が黙ってこちらを見ている。
千代は腕を組んで頷く。
影は、静かに聞いていた。
笹百合は少しだけ目を伏せる。
「妖と人が共に、ですか」
「難しいですか」
「難しいでしょう」
正直な返答だった。
「ですが、必要ならば整えます」
「ありがとう」
「礼には及びません。稲妻のためです」
その言葉が、重かった。
皆、稲妻のために生きている。
だからこそ、稲妻のために死んでしまう。
その尊さを否定したくはない。でも、死ななくていいなら。死なせずに済むなら。その道を探したい。
「稲妻のために、生き残る道も作りましょう」
自然に言葉が出た。
その場にいた全員が、眞を見た。
眞は逃げなかった。
「死んで守るだけが、忠義ではありません。残って支えることも、同じくらい大切です」
笹百合の目がわずかに揺れる。
千代が静かになる。
狐斎宮が扇を下ろす。
影は、眞を見ていた。
その視線には、朝の約束が残っている。
私のために、時を止めないで。
私のために、人の願いを恐れないで。
私は、何も残さず消える姉にはなりません。
まだ全部は伝えられない。
けれど、少しずつなら。
この人たちと、未来へ向かう準備ができる。
笹百合が深く頭を下げた。
「承知しました。生き残る道を、整えます」
眞は頷く。
その瞬間、心の奥で何かが決まった。
これが最初だ。
狐斎宮を残す道。
千代を穢れから遠ざける道。
笹百合を死地に置き去りにしない道。
影を孤独にしない道。
すべてはまだ小さい。
未来を変えるには、あまりにも細い糸かもしれない。
けれど、糸は繋げば道になる。
道になれば、誰かが歩ける。
夕方。
空は茜色に染まっていた。
訓練場では、影と千代が向き合っている。狐斎宮は油揚げの残りをつまみながら見物していた。笹百合は少し離れた場所で、部下に何かを指示している。
眞は縁側に座り、その光景を見ていた。
影が踏み込む。
千代が受ける。
雷と鬼の力がぶつかり、空気が震える。
狐斎宮が楽しそうに笑う。
笹百合が呆れたようにため息をつく。
どこかで人の笑い声がする。
稲妻が、生きている。
「眞様」
狐斎宮が隣に座った。
「隣、よろしいですか」
「もう座っていますよ」
「許しを得る前に座るのも狐の特権です」
「初めて聞きました」
「今作りました」
眞は小さく笑う。
狐斎宮はしばらく訓練場を見ていた。
そして、ぽつりと言う。
「今日の眞様は、別人のようで、やはり眞様ですね」
心臓が跳ねた。
狐斎宮はこちらを見ない。
「……どういう意味ですか」
「言葉通りです」
扇がゆっくり開く。
「何かが変わった。でも、根は変わっていない。民を見て、影様を案じ、失われるものを恐れている」
狐斎宮はそこで、ようやく眞を見た。
「なら、わらわはそれでよいと思います」
言葉が出なかった。
この白狐は、どこまで気づいているのだろう。
分からない。けれど、今はその言葉が温かかった。
「斎宮」
「はい」
「いつか、あなたにも話したいことがあります」
「今ではなく?」
「今は、まだ」
「では、待ちましょう」
あっさりと狐斎宮は言った。
「狐は待つのも得意です」
「本当に?」
「時と場合によります」
「正直ですね」
「嘘は得意ですが、眞様にはあまりつきたくありませんので」
胸が痛む。
こちらは、いつか大きな嘘をつく。
死んだことにする。
生きていることを隠す。
それがどれほど残酷か、もう分かり始めている。
でも、だからこそ。
嘘の中にも、約束を残さなければならない。
「斎宮」
「はい」
「もし、私が間違えそうになったら」
「止めればよろしいのでしょう?」
眞は目を見開いた。
狐斎宮は笑う。
「影様だけに背負わせるのは、少々酷ですから」
「……あなたは、本当に」
「美しい狐でしょう」
「そこではありません」
狐斎宮は楽しそうに笑った。
その笑い声が、夕暮れの庭に溶けていく。
失わせたくない。
何度も思う。
この笑い声を。
この景色を。
この日常を。
守りたい。
影と千代の打ち合いが止まる。千代が笑いながら何かを言い、影が真面目な顔で返す。笹百合が二人を見て、静かに首を振る。
狐斎宮が油揚げをもう一つ差し出してくる。
眞はそれを受け取った。
甘辛い味が、口の中に広がる。
いつか、この味を思い出す日が来るのだろう。
遠い未来で。
狐面を被って。
死んだはずの雷神として。
それでも、その時に悔やむだけの自分ではいたくない。
今、ここから始める。
生き残る道を。
残すための嘘ではなく、生かすための準備を。
眞は夕暮れの空を見上げた。
紫の雲が流れている。
雷は鳴っていない。
けれど、胸の奥には確かに雷があった。
恐怖ではない。
誓いでもある。
そして、少しだけ希望だった。
雷神になる前の姉妹。
失われる前の友。
まだ笑っている稲妻。
この一瞬を、忘れない。
忘れないまま、未来へ持っていく。
たとえ世界が、それを許さないとしても。