『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第3話 雷神になる前の姉妹

 

 

第3話 雷神になる前の姉妹

 

 影の訓練は、優しくなかった。

 

「もう一度」

 

「……はい」

 

「雷が先に出ています。身体が遅い」

 

「はい」

 

「それから、足運びが乱れています」

 

「はい」

 

「あと、無理に笑わなくていいです」

 

「それは訓練に関係ありますか」

 

「あります」

 

 即答だった。眞は思わず黙った。

 

 庭の中央。玉砂利の上に立ち、指先に細い雷を纏わせる。朝の空気は澄んでいたが、身体はすでに重い。

 

 神の身体なのに、疲れる。正確には、肉体が疲れているのではない。神の力と、自分の感覚が噛み合っていない。

 

 雷電眞の身体は雷を知っている。この身に流れる力も、稲妻という国に満ちる気配も、本来ならば呼吸のように扱えるはずだった。

 

 けれど、今の自分は違う。

 

 前世の感覚が邪魔をする。力を出そうとすると、頭で考えてしまう。雷を握ろうとして、雷に弾かれる。

 

 影はそれを見逃さなかった。

 

「眞」

 

「はい」

 

「力を掴もうとしないでください」

 

「掴まない?」

 

「雷は握るものではありません。通すものです」

 

 影はそう言って、片手を上げた。

 

 何の構えもない。ただ、指先を軽く開いただけ。次の瞬間、紫電が走った。

 

 細く、美しく、まるで糸のような雷。それは庭に置かれた石灯籠の先を撫で、火花一つ散らさずに消えた。

 

 眞は息を呑む。

 

 綺麗だった。斬るための雷ではない。荒れ狂う力でもない。制御された、静かな雷。

 

「……あなた、やっぱり器用ですね」

 

「眞に言われるとは思いませんでした」

 

「褒めています」

 

「分かっています」

 

 影は淡々と返す。けれど、ほんの少しだけ目元が柔らかい。褒められて嬉しくないわけではないらしい。

 

 そのことに気づいて、眞は少し笑った。

 

「今、また無理に笑いました」

 

「違います。これは自然な笑みです」

 

「そうですか」

 

「疑っていますね」

 

「少し」

 

 影は隠さない。そういうところが、少し面白い。

 

 まだ出会って間もないような気がするのに、雷電眞の記憶は影の癖を覚えている。不満な時の沈黙。嬉しさを隠す時の目線。心配を怒りに変える時の声。どれも、近すぎるほど近い。

 

 だからこそ、この子に嘘を重ねる未来が怖かった。

 

「もう一度」

 

 影の声に、眞は意識を戻す。

 

「雷を通す。握らない」

 

「ええ」

 

 目を閉じる。胸の奥にある雷を探る。

 

 そこにあるのは、ただの元素力ではなかった。神としての力。稲妻という国に結びついた、太く深い流れ。

 

 それは自分のもののはずなのに、まだ遠い。自分の身体なのに、身体ではないような違和感。その奥で、前世の記憶がざわつく。

 

 男だった自分。

 

 疲れ切って死んだ自分。

 

 画面越しにこの世界を見ていた自分。

 

 それらを無理に押し込めようとして、雷が跳ねた。

 

「違います」

 

 影の声。

 

「消そうとしないでください」

 

「……っ」

 

「眞の中にあるなら、それも眞の一部です」

 

 その言葉に、息が止まった。

 

 影は、こちらの事情を知らない。知らないはずなのに、なぜ、そんな言葉を言うのか。

 

「影」

 

「はい」

 

「今のは」

 

「雷が乱れる時、眞は何かを押し殺そうとしているように見えます」

 

 影は静かに言った。

 

「それでは、流れません」

 

 胸が痛む。

 

 やはり、影は鋭い。何も知らないまま、核心の近くに触れてくる。

 

 眞は小さく息を吐いた。

 

 消そうとしない。押し殺さない。

 

 自分は雷電眞ではない。でも、雷電眞として生きると決めた。

 

 なら、前世の自分をなかったことにしてはいけない。その記憶も、恐怖も、知識も。全部抱えたまま、雷電眞として立つ。

 

 目を開ける。

 

 指先に雷を通す。

 

 今度は、握らない。胸の奥から手の先へ。血が巡るように。息が流れるように。

 

 紫電が、細く灯った。

 

 影のものほど美しくはない。けれど、先ほどよりもずっと静かだった。

 

「できた」

 

 思わず声が漏れた。

 

 影がわずかに頷く。

 

「今のは、よかった」

 

「あなたに褒められると、少し照れますね」

 

「眞は、褒められ慣れているでしょう」

 

「そうでもありません」

 

 少なくとも、前世の自分は。

 

 そう言いかけて、飲み込む。影は不思議そうにこちらを見る。

 

 その時だった。

 

 庭の外から、軽い拍手が聞こえた。

 

「いやあ、朝から仲睦まじいことで」

 

 女の声だった。柔らかく、よく通る。けれど、その奥に人をからかうような響きがある。

 

 影の表情が、わずかに固くなった。

 

「斎宮」

 

「おや、怖い顔。わらわはただ、雷神様方の麗しき朝稽古を見物していただけですよ」

 

 白い影が、庭の端に現れた。

 

 白髪。

 

 狐の気配。

 

 神職の衣。

 

 その姿を見た瞬間、眞の呼吸が一拍遅れた。

 

 狐斎宮。

 

 白辰の狐。

 

 稲妻の記憶に深く刻まれた存在。

 

 のちに黒い災厄に呑まれ、身体も記憶も穢れへと砕かれる白狐。

 

 会ってしまった。

 

 生きている。

 

 目の前で、笑っている。

 

「眞様?」

 

 狐斎宮が首を傾げる。

 

 ほんの一瞬、彼女の目が細くなった。笑っているのに、見られている。ただの軽口ではない。こちらの動揺を、確かに拾われた。

 

「……おはようございます、斎宮」

 

「はい、おはようございます。どうやら今朝は、ずいぶんと雷の機嫌がよろしいようで」

 

「訓練をしていました」

 

「それは見れば分かりますとも。けれど、影様が眞様に稽古をつけるとは、珍しい」

 

 狐斎宮は口元を袖で隠す。

 

「明日は槍でも降るのでしょうか」

 

「斎宮」

 

 影の声が低くなる。

 

「冗談です」

 

「あなたの冗談は長い」

 

「長生きの狐ですから」

 

 飄々と返す。影はわずかに眉を寄せた。

 

 この距離感。軽口を叩く狐斎宮。真面目に受ける影。それを眺める眞。

 

 記憶の中にもある光景だった。けれど、今は違う。これは回想ではない。失われた過去でもない。

 

 まだ、ここにある日常だ。

 

 狐斎宮はこちらへ歩いてくると、眞の顔を覗き込んだ。

 

「して、眞様」

 

「はい」

 

「昨夜から少し、顔色が変わりましたね」

 

 心臓が鳴る。

 

 影がこちらを見る。狐斎宮は笑っている。けれど、その目は笑っていない。

 

「悪い夢を見まして」

 

「ほう。夢」

 

「ええ」

 

「夢にしては、ずいぶんと重いものをお持ちのように見えます」

 

「斎宮」

 

 影が一歩前へ出る。

 

 狐斎宮は軽く手を振った。

 

「怒らないでくださいな。わらわは心配しているのですよ」

 

「心配なら、からかわない」

 

「からかわずに心配などしたら、わらわらしくないでしょう」

 

「開き直らないでください」

 

 二人のやり取りに、眞は思わず小さく笑った。

 

 狐斎宮がこちらを見る。

 

「あら」

 

「何ですか」

 

「今の笑みは、自然でしたね」

 

 眞は固まった。

 

 影まで頷いた。

 

「そうですね」

 

「影まで」

 

「今のは自然でした」

 

「二人して観察しないでください」

 

 言った瞬間、狐斎宮が楽しそうに目を細めた。

 

「よかった」

 

「え?」

 

「少しだけ、いつもの眞様に戻られた」

 

 胸がきゅっと痛む。

 

 いつもの眞。

 

 その言葉は、優しいのに刺さる。

 

 自分はいつもの雷電眞ではない。でも、彼女たちにとっては、そうでなければならない。

 

 眞は視線を落としかけた。

 

 その前に、狐斎宮が袖の中から小さな包みを取り出す。

 

「ところで、稽古もよいですが、朝餉はまだでしょう」

 

「まだです」

 

「でしょうね。影様は稽古を始めると時間を忘れる」

 

「私は忘れていません」

 

「では、眞様に茶も菓子も出さず雷を走らせていたのは、意図的に?」

 

「……それは」

 

 影が言葉に詰まった。

 

 珍しい。

 

 狐斎宮は勝ち誇ったように包みを開く。中には、薄く色づいた油揚げのようなものが入っていた。

 

 甘辛い匂い。

 

 狐斎宮はそれを一つ摘まみ、満足げに頷く。

 

「油揚げです」

 

「あなたが食べたいだけでは」

 

「もちろん」

 

「もちろんなんですね」

 

「美味しいものを共に食す。これもまた平和の務めです」

 

 影は明らかに呆れていた。けれど、止めはしない。

 

 狐斎宮は眞に一つ差し出した。

 

「眞様もどうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 受け取る。口に運ぶ。

 

 甘い。油の香ばしさと、じゅわりと染みた味が広がる。

 

 前世でも知っているようで、少し違う味。稲妻の味。この時代の味。

 

「……美味しい」

 

「でしょう?」

 

 狐斎宮が嬉しそうに笑った。

 

 その笑顔を見て、眞はまた胸が痛くなる。

 

 この人も、消える。

 

 笑って油揚げを差し出してくる白狐が、いつか穢れに呑まれる。身体も、記憶も、言葉も、バラバラに砕かれてしまう。

 

 そんな未来を、知っている。

 

 知っていて、今この味を受け取っている。

 

 喉が詰まった。

 

「眞様?」

 

 狐斎宮が呼ぶ。

 

 眞は笑った。

 

 今度は、少し失敗した。

 

 狐斎宮の目が細くなる。影も気づいた。

 

 まずい。

 

 そう思った時、庭の向こうから大きな声が響いた。

 

「おーい! 朝から何をしている!」

 

 空気が一気に変わった。

 

 力強い足音。遠慮のない気配。白と赤の衣を揺らし、二本の角を持つ女が庭に入ってくる。

 

 御輿千代。

 

 鬼の武人。

 

 豪快で、美しく、強い。

 

 そして、いつか深き罪に穢され、影へ刃を向ける運命を持つ者。

 

 千代は眞たちを見るなり、満面の笑みを浮かべた。

 

「なんだ、楽しそうではないか。わたしも混ぜろ」

 

「千代。ここは神域です。少しは静かに」

 

 影が言う。

 

 千代は豪快に笑った。

 

「神域だからこそ、賑やかな方がよいだろう。静かすぎる場所には、ろくなものが寄ってこない」

 

「理屈になっていません」

 

「理屈など狐に任せておけばいい」

 

「そこでわらわに振りますか」

 

 狐斎宮が肩をすくめる。

 

 千代は構わず近づいてきた。そのまま、眞の顔をじっと見る。

 

「眞」

 

「はい」

 

「顔色が悪いぞ」

 

「皆に言われますね」

 

「そりゃあ、悪いからな」

 

 遠慮がない。

 

 だが、不思議と嫌ではない。千代の言葉には裏がない。真っ直ぐで、温かい。

 

「飯を食え。寝ろ。動け。悩みはそれからだ」

 

「豪快な処方ですね」

 

「だいたいのことはそれで何とかなる」

 

「ならないこともあります」

 

「その時は斬る」

 

「あなたもですか」

 

 思わず影を見る。

 

 影は静かに頷いた。

 

「斬るべきものなら」

 

「……似ていますね、あなたたち」

 

「似ていない」

 

「似ておらん」

 

 二人が同時に答えた。

 

 狐斎宮が吹き出した。

 

 眞も笑った。今度は、本当に自然に。

 

 朝の光の中で。

 

 影がいて。

 

 狐斎宮がいて。

 

 千代がいる。

 

 失われるはずの光景が、目の前で賑やかに息をしている。

 

 その事実が、あまりにも眩しかった。

 

「何を笑っている」

 

 千代が不思議そうに首を傾げる。

 

「いいえ。ただ、楽しくて」

 

「ならよし」

 

 千代は満足そうに頷き、狐斎宮の包みに手を伸ばした。

 

「あ、それはわらわの油揚げ」

 

「皆で食うのだろう?」

 

「限度があります」

 

「狐は細かいな」

 

「鬼が大雑把すぎるのです」

 

 二人が軽口を交わす。影は呆れたように見ている。けれど、その目元は少し柔らかい。

 

 これが、稲妻の昔。

 

 まだ誰も欠けていない稲妻。

 

 雷神が二人で、狐が笑い、鬼が騒ぎ、天狗が空を守っている時代。

 

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが強く軋んだ。

 

 守りたい。

 

 自分一人が死なないだけでは足りない。

 

 この人たちを、失わせたくない。

 

「そういえば、笹百合は?」

 

 影が尋ねる。

 

 千代は油揚げを頬張りながら答えた。

 

「空だ。朝から天狗衆を連れて巡回している」

 

「またですか」

 

「真面目なやつだからな」

 

「あなたも少しは見習っては」

 

「わたしは真面目だぞ」

 

「どこがです」

 

 影と千代のやり取りに、狐斎宮が口を挟む。

 

「笹百合殿は、昼過ぎには戻ると言っていましたよ。眞様に報告があるとか」

 

「私に?」

 

「海の向こうの動きについて、と」

 

 海の向こう。

 

 その言葉で、眞の中の記憶が反応した。

 

 オロバシ。

 

 海祇。

 

 戦。

 

 笹百合の死。

 

 まだ先のことかもしれない。けれど、もう種はある。未来は突然落ちてくるわけではない。

 

 こうして、日常の中に小さく混ざっている。

 

 気づかないだけで。

 

「眞?」

 

 影の声。

 

 眞ははっとする。

 

 また遠くを見ていた。

 

「……大丈夫です」

 

「その言葉は、あまり信用できません」

 

「手厳しいですね」

 

「眞が隠すからです」

 

 まっすぐ返されて、言葉に詰まる。

 

 狐斎宮の目が、わずかに動いた。千代も油揚げを飲み込み、こちらを見る。

 

「何だ。隠し事か?」

 

「大したことでは」

 

「眞」

 

 影の声が重なる。

 

 逃げられない。

 

 眞は小さく息を吐いた。

 

 ここで全ては話せない。でも、何も話さないと決めたわけではない。

 

 影には、すでに少し伝えた。なら、ここでも。言える範囲で。

 

「少し、嫌な予感がしているだけです」

 

 狐斎宮が笑みを消した。

 

 千代も真顔になる。

 

 影は、静かにこちらを見ていた。

 

「嫌な予感?」

 

「ええ」

 

 眞は庭の向こうへ視線を向ける。風が吹く。木の葉が揺れる。

 

「この平穏が、ずっと続くわけではないのだと」

 

 空気が、少しだけ沈んだ。

 

 千代が腕を組む。

 

「それはそうだろう。世はまだ荒れている。敵も多い」

 

「ええ」

 

「だが、だからこそ我らがいる」

 

 千代は笑った。

 

 力強く。何の曇りもなく。

 

「鬼も、狐も、天狗も、人も。もちろん、雷神もな」

 

 狐斎宮が扇で口元を隠す。

 

「わらわを戦力に数えるとは、鬼らしい雑さですね」

 

「お前は強いだろう」

 

「強い狐は、爪を見せないものです」

 

「油揚げへの執着は隠せていないぞ」

 

「それとこれとは別です」

 

 二人のやり取りに、少し空気が緩む。

 

 けれど影だけは、眞を見続けていた。

 

 約束を覚えている目だった。

 

 すべては話せない。でも、何も残さず消えない。影はその言葉を、もう忘れていない。

 

「眞」

 

「はい」

 

「その予感について、私にできることは」

 

「あります」

 

 今度は迷わず言えた。

 

「強くいてください」

 

「それは、いつも通りです」

 

「それだけではありません」

 

 眞は影を見て、それから狐斎宮と千代も見た。

 

「皆で、稲妻に残る道を作りたい」

 

「残る道?」

 

 狐斎宮が反応する。

 

「戦う道ではなく。守る道。退く道。隠す道。繋ぐ道」

 

 千代が眉を上げる。

 

「眞。お前らしいが、ずいぶん慎重だな」

 

「慎重すぎるくらいでいいのです」

 

「敵を迎え撃つだけでは足りんと?」

 

「足りない時が来るかもしれません」

 

 千代は笑わなかった。腕を組み、じっと眞を見る。

 

「なるほど」

 

「千代?」

 

「いや。眞がそこまで言うなら、何かあるのだろうと思ってな」

 

 あっさりと。

 

 あまりにもあっさりと信じられて、眞は言葉を失った。

 

 千代は当然のように続ける。

 

「で、何をすればいい」

 

「……信じるのですか」

 

「眞が言うならな」

 

 胸が痛む。

 

 まただ。信頼が痛い。

 

 雷電眞が積み重ねてきたものを、自分が受け取っている。その重みから逃げてはいけない。

 

 狐斎宮も静かに頷いた。

 

「わらわも異論はありません。眞様が“道”と言う時は、たいてい誰かを逃がす時ですから」

 

「私は、そんなに分かりやすいですか」

 

「ええ、とても」

 

「……そうですか」

 

 眞は少しだけ笑った。

 

 影はまだ黙っている。

 

 だから、こちらから言う。

 

「影」

 

「はい」

 

「あなたには、まず私を止める役をお願いします」

 

「またそれですか」

 

「ええ」

 

「私は、眞を止めるより守りたい」

 

「だからこそです」

 

 影が言葉を止める。

 

「守るというのは、私の言葉に従うことだけではありません。私が間違えた時、私を止めることも守ることです」

 

 影は不満そうだった。

 

 けれど、今回はすぐ否定しなかった。

 

 狐斎宮が面白そうに目を細める。千代はにやりと笑った。

 

「いいじゃないか、影。眞が暴走したら、お前が止めろ」

 

「眞は暴走しません」

 

「昨日から様子がおかしいのだろう?」

 

「それは」

 

「なら、見てやれ」

 

 千代の声は軽い。けれど、その奥には武人の勘がある。

 

「守りたいなら、目を逸らすな」

 

 影は黙った。

 

 それから、ゆっくりと頷く。

 

「……分かりました」

 

 眞は息を吐いた。

 

 小さな一歩。でも、大事な一歩だった。

 

 影が、眞をただ守るだけではなく、見て、止める役を受け入れた。

 

 それはいつか、影自身が自分の道を選ぶための最初の種になる。

 

「それで」

 

 狐斎宮が扇を閉じる。

 

「守る道、退く道、隠す道、繋ぐ道。具体的には?」

 

「影向山の霊地を中心に、避難と浄化を兼ねた結界を作りたいのです」

 

 口にした瞬間、胸の奥で雷が小さく軋んだ。

 

 影向山。

 

 鳴神の古い霊脈が通る場所。

 

 まだこの時代では、ただ霊験のある山として知られている場所。

 

 けれど眞は知っている。

 

 いつかそこは、稲妻の過去と未来を繋ぐ要になる。

 

 だからこそ、今から土台を作りたい。

 

「妖、人、神職、武人。それぞれが役割を持ち、有事の時には稲妻の民を逃がせる場所。さらに、穢れを溜め込まず流せる仕組み」

 

「穢れ、ですか」

 

 狐斎宮の声が、ほんの少しだけ低くなった。

 

「ええ」

 

 眞は彼女を見た。

 

「斎宮。あなたの力が必要になります」

 

 狐斎宮はしばらく眞を見つめていた。

 

 からかいの色が消えている。

 

 白辰の狐として。

 

 鳴神の霊脈を守るものとして。

 

 彼女は、眞の言葉の奥にあるものを探っていた。

 

「……穢れを相手取るのは、狐の務めでもあります」

 

「危険です」

 

「承知しています」

 

「だから、あなた一人には背負わせません」

 

 狐斎宮の目がわずかに見開かれた。

 

 眞は続ける。

 

「絶対に」

 

 それは、未来を知る者としての叫びだった。

 

 狐斎宮を一人で穢れの中へ行かせない。

 

 その身体も記憶も、砕かせない。

 

 狐斎宮は、少しだけ黙った。

 

 それから、いつものように笑った。けれどその笑みは、さっきより柔らかかった。

 

「眞様は、今日は本当に不思議なことばかりおっしゃる」

 

「すみません」

 

「いいえ」

 

 狐斎宮は静かに頭を下げた。

 

「そのお心、確かに受け取りました」

 

 千代が腰に手を当てる。

 

「なら、わたしは戦う道だな」

 

「守る道です」

 

「戦って守る道だ」

 

「……まあ、そうですね」

 

 千代は満足げに頷く。

 

「影、後で手合わせだ」

 

「なぜ」

 

「眞が守る道を作るなら、我らは強くならねばならん」

 

「それは同意します」

 

「なら決まりだ」

 

 影は少しだけ考え、頷いた。

 

「分かりました」

 

「よし!」

 

 千代が笑う。

 

 狐斎宮がため息をつく。

 

「結局、最後は手合わせですか」

 

「身体を動かすと腹が減る。腹が減れば飯が美味い」

 

「鬼の理屈ですね」

 

「良い理屈だろう」

 

 眞は笑った。

 

 この空気が好きだと思った。

 

 雷電眞の記憶ではなく。

 

 今の自分の心で、そう思った。

 

 この人たちを失いたくない。

 

 影だけではない。

 

 狐斎宮も。

 

 千代も。

 

 まだ会っていない笹百合も。

 

 稲妻に生きる妖も人も。

 

 守りたい。

 

 そう願った瞬間、胸の奥の雷が静かに鳴った。

 

 それは、先ほどまでの不安定な雷ではなかった。

 

 少しだけ、身体に馴染んだ気がした。

 

 昼過ぎ。

 

 笹百合は、本当に空から戻ってきた。

 

 翼を持つわけではない。けれど、天狗の身のこなしは、まるで風を踏んでいるようだった。

 

 黒い羽飾り。

 

 凛とした立ち姿。

 

 静かな目。

 

 笹百合は庭へ降り立つと、眞と影に深く頭を下げた。

 

「眞様。影様。戻りました」

 

「ご苦労様です、笹百合」

 

「はっ」

 

 その声は硬い。けれど、冷たいわけではない。

 

 忠義の人。

 

 そんな印象だった。

 

 彼もまた、未来で失われる。

 

 オロバシとの戦で。

 

 稲妻のために。

 

 影の記憶から、また一人消えていく。

 

 眞は息を整えた。

 

 今は泣く場面ではない。

 

 この人はまだ生きている。なら、未来の死ではなく、今の彼を見るべきだ。

 

「海の動きについて報告があると聞きました」

 

「はい。海祇方面に不穏な動きが見られます。ただ、直ちに戦となるものではありません」

 

 海祇。

 

 オロバシ。

 

 また胸が軋む。

 

 影が横目でこちらを見た。

 

 気づかれている。

 

 眞は小さく頷き、言葉を促した。

 

「続けてください」

 

「はっ。民の間には不安もあります。東の浜辺でも魔物が出たと聞きました。海沿いの守りを厚くすべきかと」

 

「そうですね」

 

 眞は少し考える。

 

 今までなら、きっと雷電眞として自然に指示を出していたのだろう。けれど今は、一つひとつ確認するしかない。

 

 地図。

 

 民の位置。

 

 避難路。

 

 守るべき場所。

 

 笹百合の部隊。

 

 千代の武。

 

 狐斎宮の結界。

 

 影の剣。

 

 それらを繋ぐ。

 

 戦うだけではなく、逃がすために。

 

「笹百合。海沿いの村に、避難路を整えましょう」

 

「避難路、ですか」

 

「ええ。戦う前提だけでなく、民が退ける道を」

 

 笹百合は一瞬だけ意外そうにした。

 

 けれど、すぐに頭を下げる。

 

「承知しました」

 

「それと、影向山の霊地へ繋がる道も確認してください。今後、有事の際に民と妖が共に退ける場所を整えます」

 

 狐斎宮が黙ってこちらを見ている。

 

 千代は腕を組んで頷く。

 

 影は、静かに聞いていた。

 

 笹百合は少しだけ目を伏せる。

 

「妖と人が共に、ですか」

 

「難しいですか」

 

「難しいでしょう」

 

 正直な返答だった。

 

「ですが、必要ならば整えます」

 

「ありがとう」

 

「礼には及びません。稲妻のためです」

 

 その言葉が、重かった。

 

 皆、稲妻のために生きている。

 

 だからこそ、稲妻のために死んでしまう。

 

 その尊さを否定したくはない。でも、死ななくていいなら。死なせずに済むなら。その道を探したい。

 

「稲妻のために、生き残る道も作りましょう」

 

 自然に言葉が出た。

 

 その場にいた全員が、眞を見た。

 

 眞は逃げなかった。

 

「死んで守るだけが、忠義ではありません。残って支えることも、同じくらい大切です」

 

 笹百合の目がわずかに揺れる。

 

 千代が静かになる。

 

 狐斎宮が扇を下ろす。

 

 影は、眞を見ていた。

 

 その視線には、朝の約束が残っている。

 

 私のために、時を止めないで。

 

 私のために、人の願いを恐れないで。

 

 私は、何も残さず消える姉にはなりません。

 

 まだ全部は伝えられない。

 

 けれど、少しずつなら。

 

 この人たちと、未来へ向かう準備ができる。

 

 笹百合が深く頭を下げた。

 

「承知しました。生き残る道を、整えます」

 

 眞は頷く。

 

 その瞬間、心の奥で何かが決まった。

 

 これが最初だ。

 

 狐斎宮を残す道。

 

 千代を穢れから遠ざける道。

 

 笹百合を死地に置き去りにしない道。

 

 影を孤独にしない道。

 

 すべてはまだ小さい。

 

 未来を変えるには、あまりにも細い糸かもしれない。

 

 けれど、糸は繋げば道になる。

 

 道になれば、誰かが歩ける。

 

 夕方。

 

 空は茜色に染まっていた。

 

 訓練場では、影と千代が向き合っている。狐斎宮は油揚げの残りをつまみながら見物していた。笹百合は少し離れた場所で、部下に何かを指示している。

 

 眞は縁側に座り、その光景を見ていた。

 

 影が踏み込む。

 

 千代が受ける。

 

 雷と鬼の力がぶつかり、空気が震える。

 

 狐斎宮が楽しそうに笑う。

 

 笹百合が呆れたようにため息をつく。

 

 どこかで人の笑い声がする。

 

 稲妻が、生きている。

 

「眞様」

 

 狐斎宮が隣に座った。

 

「隣、よろしいですか」

 

「もう座っていますよ」

 

「許しを得る前に座るのも狐の特権です」

 

「初めて聞きました」

 

「今作りました」

 

 眞は小さく笑う。

 

 狐斎宮はしばらく訓練場を見ていた。

 

 そして、ぽつりと言う。

 

「今日の眞様は、別人のようで、やはり眞様ですね」

 

 心臓が跳ねた。

 

 狐斎宮はこちらを見ない。

 

「……どういう意味ですか」

 

「言葉通りです」

 

 扇がゆっくり開く。

 

「何かが変わった。でも、根は変わっていない。民を見て、影様を案じ、失われるものを恐れている」

 

 狐斎宮はそこで、ようやく眞を見た。

 

「なら、わらわはそれでよいと思います」

 

 言葉が出なかった。

 

 この白狐は、どこまで気づいているのだろう。

 

 分からない。けれど、今はその言葉が温かかった。

 

「斎宮」

 

「はい」

 

「いつか、あなたにも話したいことがあります」

 

「今ではなく?」

 

「今は、まだ」

 

「では、待ちましょう」

 

 あっさりと狐斎宮は言った。

 

「狐は待つのも得意です」

 

「本当に?」

 

「時と場合によります」

 

「正直ですね」

 

「嘘は得意ですが、眞様にはあまりつきたくありませんので」

 

 胸が痛む。

 

 こちらは、いつか大きな嘘をつく。

 

 死んだことにする。

 

 生きていることを隠す。

 

 それがどれほど残酷か、もう分かり始めている。

 

 でも、だからこそ。

 

 嘘の中にも、約束を残さなければならない。

 

「斎宮」

 

「はい」

 

「もし、私が間違えそうになったら」

 

「止めればよろしいのでしょう?」

 

 眞は目を見開いた。

 

 狐斎宮は笑う。

 

「影様だけに背負わせるのは、少々酷ですから」

 

「……あなたは、本当に」

 

「美しい狐でしょう」

 

「そこではありません」

 

 狐斎宮は楽しそうに笑った。

 

 その笑い声が、夕暮れの庭に溶けていく。

 

 失わせたくない。

 

 何度も思う。

 

 この笑い声を。

 

 この景色を。

 

 この日常を。

 

 守りたい。

 

 影と千代の打ち合いが止まる。千代が笑いながら何かを言い、影が真面目な顔で返す。笹百合が二人を見て、静かに首を振る。

 

 狐斎宮が油揚げをもう一つ差し出してくる。

 

 眞はそれを受け取った。

 

 甘辛い味が、口の中に広がる。

 

 いつか、この味を思い出す日が来るのだろう。

 

 遠い未来で。

 

 狐面を被って。

 

 死んだはずの雷神として。

 

 それでも、その時に悔やむだけの自分ではいたくない。

 

 今、ここから始める。

 

 生き残る道を。

 

 残すための嘘ではなく、生かすための準備を。

 

 眞は夕暮れの空を見上げた。

 

 紫の雲が流れている。

 

 雷は鳴っていない。

 

 けれど、胸の奥には確かに雷があった。

 

 恐怖ではない。

 

 誓いでもある。

 

 そして、少しだけ希望だった。

 

 雷神になる前の姉妹。

 

 失われる前の友。

 

 まだ笑っている稲妻。

 

 この一瞬を、忘れない。

 

 忘れないまま、未来へ持っていく。

 

 たとえ世界が、それを許さないとしても。

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