『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第4話 書けない未来

 

 

 夜の稲妻は、静かだった。

 

 昼間の喧騒が嘘のように消え、庭には虫の声だけが落ちている。薄い雲の向こうで、月が霞んでいた。障子を閉めても、海の匂いはわずかに残る。

 

 潮の気配。濡れた土の匂い。遠くで揺れる木々の音。そのすべてを聞きながら、眞は机の前に座っていた。

 

 筆を取る。

 

 白い紙を前に置く。

 

 墨を含ませた穂先が、わずかに震えた。

 

「……書ける範囲だけ」

 

 小さく呟く。

 

 誰に聞かせるでもない。自分へ言い聞かせるための言葉だった。

 

 未来を知っている。

 

 それは、あまりにも強い。同時に、あまりにも危うい。

 

 記憶は曖昧なところもある。細かな年月までは覚えていない。ただ、大きな出来事と、失われる者の名は覚えている。

 

 覚えてしまっている。

 

 忘れようとしても、忘れられない。

 

 狐斎宮。

 

 御輿千代。

 

 笹百合。

 

 帰終。

 

 前草神。

 

 夜叉たち。

 

 そして、雷電眞。

 

 名前が浮かぶたび、胸の奥が冷たくなる。

 

 誰かの人生が、自分の中では“失われる予定”として並んでいる。それが気持ち悪かった。失礼だと思った。

 

 彼らはまだ生きている。

 

 笑い、話し、食べ、怒り、歩いている。なのに、自分だけが未来の墓標を見ている。

 

「……違う」

 

 眞は首を振った。

 

 墓標ではない。

 

 救うための手がかりだ。

 

 そう思わなければ、耐えられない。

 

 まずは書く。

 

 記憶を整理する。

 

 何を変えるべきか。何を変えてはいけないのか。そうしなければ、いずれ自分は混乱する。

 

 筆先を紙へ落とした。

 

 最初に書く名は、決めていた。

 

 狐斎宮。

 

 そう書こうとした瞬間だった。

 

 指先が痺れた。

 

「……っ」

 

 筆が止まる。

 

 墨の黒が、紙の上で不自然に滲んだ。

 

 書いたのは、まだ一画だけ。けれど、その一画がまるで傷口のように広がっていく。

 

 黒い墨が、紙の繊維へ沈む。

 

 沈む。

 

 沈んでいく。

 

 紙の下へ。机の下へ。床の下へ。地面の奥へ。

 

 眞は息を呑んだ。

 

 何かが、聞いている。

 

 人ではない。神でもない。もっと広く、もっと深いもの。

 

 この土地そのものに流れる記録。

 

 地脈。

 

 その名が頭に浮かんだ瞬間、雷が胸の奥で軋んだ。

 

 まずい。

 

 これは、書いてはいけない。

 

 反射的に紙を掴む。破ろうとした。

 

 しかし、指先が紙へ触れるより早く、墨の一画がじわりと光った。

 

 黒いはずの墨が、紫に滲む。

 

 雷ではない。

 

 もっと不吉な光。

 

 書こうとした名が、まだ形になる前に、世界へ潜ろうとしている。

 

「駄目」

 

 眞は低く呟いた。

 

 指先に雷を灯す。

 

 紙ごと焼き切る。

 

 火ではなく、雷で。

 

 音もなく紫電が走り、紙が灰になった。

 

 その瞬間、床下から伸びていたような気配が途切れる。

 

 部屋に、静寂が戻った。

 

 眞は動けなかった。

 

 手に残った灰が、指の間から落ちる。

 

 たった一画。

 

 名前にすらなっていない。

 

 それだけで、世界が聞き耳を立てた。

 

「……そういうこと」

 

 声が震れていた。

 

 未来を言葉にしてはいけない。

 

 少なくとも、具体的な名と死を結びつけてはいけない。

 

 言葉は記録になる。記録は地脈に沈む。地脈に沈めば、世界はそれを“起きるもの”として認識するかもしれない。

 

 避けたい未来を、逆に固定してしまう。

 

 そんな直感があった。

 

 だから、影に話そうとした時も喉が軋んだのだ。

 

 具体的な名を出そうとした瞬間、世界がこちらを向いた。

 

 話せない。

 

 書けない。

 

 残せない。

 

 少なくとも、普通の方法では。

 

「本当に、厄介ですね……」

 

 眞は机に手をついた。

 

 怖い。

 

 未来を知っていることが、これほど怖いとは思わなかった。

 

 知識があれば救えると思っていた。準備すれば変えられると思っていた。けれど、世界はそんなに甘くない。

 

 未来を知ること自体が、未来を縛る鎖になる。

 

 なら、どうする。

 

 何も書けないのか。

 

 何も伝えられないのか。

 

 ただ一人で抱えろというのか。

 

 それは違う。

 

 昨日、影に約束した。

 

 何も残さず消える姉にはならないと。

 

 なら、方法を探す。

 

 名を書けないなら、役割を書く。死を書けないなら、避けるべき状況を書く。未来そのものではなく、備えとして残す。

 

 眞は新しい紙を取り出した。

 

 今度は深く息を吸う。

 

 筆を取る。

 

 書く。

 

 ――穢れを一人に背負わせない。

 

 今度は、紙は沈まなかった。

 

 墨は墨のまま、白い紙の上に残った。

 

 眞は息を吐く。

 

 続ける。

 

 ――強き者ほど、退く道を持たせる。

 

 これも大丈夫。

 

 ――守る者を、孤独にしない。

 

 墨は静かに乾いていく。

 

 書ける。

 

 名前ではなく、原則なら書ける。

 

 未来の死ではなく、守るための考えなら残せる。

 

 眞は筆を握る手に力を込めた。

 

 なら、ここからだ。

 

 直接未来を記録できないなら、未来を避けるための“仕組み”を書く。

 

 狐斎宮を救う、と書くのではない。

 

 穢れを単独で受け止めさせない、と書く。

 

 千代を狂わせない、と書くのではない。

 

 外から入る穢れを、肉体と魂から切り離す術を作る、と書く。

 

 笹百合を死なせない、と書くのではない。

 

 天狗衆に退却権限を与え、殿を一人に任せない、と書く。

 

 影を壊さない、と書くのではない。

 

 雷神の座を一人だけに背負わせない、と書く。

 

 言い換える。

 

 隠す。

 

 ぼかす。

 

 けれど、逃げない。

 

 眞は筆を走らせた。

 

 墨の音だけが部屋に響く。

 

 言葉が増えるたび、少しだけ息がしやすくなる。

 

 未来そのものは書けない。でも、未来へ向かう準備は書ける。

 

 それだけでも、救いだった。

 

 どれほど経ったのか。

 

 蝋燭が短くなった頃、襖の向こうで気配が止まった。

 

「眞」

 

 影の声だった。

 

 眞は筆を止める。

 

「起きていたのですか」

 

「それはこちらの言葉です」

 

 影は襖を開けずに答えた。

 

 入ってこない。

 

 眞が許すまで待っている。

 

 その距離感が、少しありがたかった。

 

「入ってください」

 

 襖が開く。

 

 影は夜着ではなく、簡素な衣をまとっていた。

 

 眠っていた様子はない。おそらく、こちらの気配を感じて来たのだろう。

 

 影の目が机の上へ向く。

 

 燃え残った灰。

 

 積まれた紙。

 

 いくつもの書きつけ。

 

 そして、まだ乾いていない墨。

 

「何をしていたのです」

 

「備えを」

 

「この時間に?」

 

「思いついた時に書いておかないと、忘れてしまいますから」

 

「眞は忘れません」

 

 即答だった。

 

 その信頼が痛い。

 

 忘れないから、苦しいのだ。

 

 眞は笑おうとして、やめた。

 

 影は、その変化にも気づいたのだろう。眉をわずかに寄せる。

 

「何かありましたか」

 

「少しだけ、分かりました」

 

「何が」

 

「言葉にできないことがある理由です」

 

 影は黙った。

 

 昨日の約束を思い出したのだろう。

 

 眞は机の上の灰を指先で集めた。

 

「未来の名を、そのまま書こうとしました」

 

 影の目が鋭くなる。

 

「未来の名?」

 

「ええ。誰に何が起こるか。私が恐れていることを、書き残そうとしたのです」

 

「書けたのですか」

 

「いいえ」

 

 眞は首を振る。

 

「書く前に、世界が聞こうとしました」

 

 影の表情が変わった。

 

 ようやく、ただの悪夢ではないと実感したのかもしれない。

 

「世界が」

 

「地の下に流れる記録。地脈、と言えばいいのでしょうか。そこへ、言葉が沈みかけました」

 

「危険なのですか」

 

「おそらく」

 

 眞は灰を見つめる。

 

「具体的な未来を言葉にすれば、それはただの記録ではなくなる。世界に刻まれ、起きるべきものとして固定されるかもしれません」

 

 影は静かに聞いていた。

 

 眉間にわずかな皺がある。

 

 理解しようとしてくれている。

 

 疑っていない。

 

 それが、また胸にくる。

 

「なら、なおさら私に言うべきでは」

 

「言えば、あなたを縛るかもしれない」

 

「縛る?」

 

「あなたが知れば、あなたは必ず動くでしょう。私を守るために。誰かを守るために。けれど、その行動すら、未来の一部として世界に利用されるかもしれない」

 

 影の手が、わずかに握られる。

 

「では、何もできないと?」

 

「いいえ」

 

 眞は乾いた紙を一枚、影に差し出した。

 

 そこには、未来の名はない。

 

 死の記録もない。

 

 ただ、いくつもの原則が書かれている。

 

 影はそれを受け取った。

 

「……穢れを一人に背負わせない」

 

 声に出して読む。

 

「強き者ほど、退く道を持たせる」

 

 影の視線が止まる。

 

「守る者を、孤独にしない」

 

 その一文を読んだ時、影の指が止まった。

 

 眞は何も言わなかった。

 

 影も、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、影は紙を静かに机へ戻す。

 

「これは、未来ではないのですか」

 

「未来を避けるための備えです」

 

「同じでは」

 

「違います」

 

 眞は静かに言った。

 

「誰が死ぬ、とは書けません。でも、誰かを死なせないための道なら書ける」

 

 影の目が揺れる。

 

「私は、あなたに全部は話せません。けれど、あなたと一緒に準備することはできます」

 

「……私と」

 

「ええ」

 

 眞は影を見る。

 

「これは、一人で抱えるものではありません」

 

 その言葉を、自分にも言い聞かせる。

 

 すべては話せない。

 

 それでも、一人で抱える必要はない。

 

 それを忘れたら、きっと駄目になる。

 

 変な意地や、神としての見栄で抱え込めば、それこそ影を裏切ることになる。

 

「影。明日から、この備えを少しずつ形にします」

 

「何をすればいいですか」

 

「まずは、退く訓練を」

 

 影が固まった。

 

「退く、訓練」

 

「はい」

 

「戦う訓練ではなく?」

 

「戦う訓練もします。でも、退く訓練も必要です」

 

 影は信じられないものを見るような顔をした。

 

 無理もない。

 

 この時代の影にとって、退くことは敗北に近いのだろう。

 

 眞の影として、道を開く者として。彼女は、前へ出ることしか考えていない。

 

「影」

 

「……はい」

 

「強い者ほど、退けなくなる」

 

「私は退けます」

 

「本当に?」

 

 影は答えようとして、止まった。

 

 自分でも思い当たるのだろう。

 

 この子は退けない。

 

 眞を守るためなら、最後まで残る。眞が行けと言っても、おそらく残る。

 

 それが影だ。

 

 だからこそ、今から変えなければならない。

 

「退くことは、逃げることではありません。次に守るために、生き残ることです」

 

 影は俯いた。

 

「……難しい」

 

「でしょうね」

 

「眞を置いては退けません」

 

「私もあなたを置いて退きたくありません」

 

 影が顔を上げる。

 

 眞は微笑んだ。

 

「だから、互いに置いていかない方法を考えるのです」

 

 影の表情が少しだけ緩んだ。

 

 完全に納得したわけではない。

 

 でも、拒絶でもない。

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「分かろうとします」

 

 眞は小さく笑った。

 

「それで十分です」

 

 影は机の上の紙をもう一度見る。

 

 そこに書かれた言葉を、目で追っている。

 

 その目は真剣だった。

 

 未来の詳細は知らない。

 

 けれど、眞が何かを恐れ、何かに備えようとしていることは受け取ってくれている。

 

 それだけで、少しだけ心が軽くなった。

 

 その翌朝。

 

 眞は、小さな実験をすることにした。

 

 大きな未来は動かせない。

 

 なら、小さな未来はどうか。

 

 未来を知っているからといって、すべての出来事を覚えているわけではない。けれど、雷電眞の記憶の中に、一つだけ近い出来事があった。

 

 今日の夕刻、北の見張り台で若い兵が足を滑らせる。

 

 命に関わるほどではない。だが、足を折り、しばらく任務を離れることになる。

 

 眞にとっては、些細な記憶。

 

 雷電眞が見舞いへ行き、兵が恐縮しながら笑った。そんな断片。

 

 それを防げるか試す。

 

 命ではない。歴史の大きな流れにも関わらない。けれど、未来を変えられるかを見るには十分だった。

 

「北の見張り台を?」

 

 笹百合は、眞の指示を静かに聞いていた。

 

「ええ。昨夜、雨が降りました。足場が緩んでいるかもしれません」

 

「確認は行わせています」

 

「念のため、今日だけ交代を早めてください。それと、若い者を一人にしないように」

 

 笹百合は一瞬だけ不思議そうにした。

 

 だが、すぐに頷く。

 

「承知しました」

 

「理由を聞かないのですか」

 

「眞様が念のためと言われるなら、十分です」

 

 まただ。

 

 信じられる。

 

 そのたびに、胸が重くなる。

 

 でも、今回はその信頼に甘える。

 

「ありがとう、笹百合」

 

「もったいなきお言葉」

 

 笹百合が去る。

 

 影は隣でこちらを見ていた。

 

「今のも、備えですか」

 

「ええ。小さな備えです」

 

「何か起こるのですか」

 

「起こらないようにしたいのです」

 

 影はそれ以上聞かなかった。

 

 ただ、黙って隣に立つ。

 

 その沈黙が、少し心強かった。

 

 夕刻。

 

 北の見張り台から報告が届いた。

 

 足場の一部が雨で崩れかけていたこと。

 

 交代を早めたため、兵は落ちずに済んだこと。

 

 ただし、補修に向かった別の兵が軽く手を切ったこと。

 

 命に別状はない。

 

 傷も浅い。

 

 それでも、眞は報告を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。

 

 変わった。

 

 未来は変わった。

 

 若い兵は足を折らなかった。けれど、別の誰かが手を切った。

 

 小さな歪み。

 

 ほとんど無視できる程度の変化。でも、確かに代わりの傷が生まれた。

 

「眞」

 

 影が声をかける。

 

 眞は報告書を握ったまま、立ち尽くしていた。

 

「成功、したのですよね」

 

「……ええ」

 

「なら、なぜその顔を」

 

「変えられる」

 

「はい」

 

「でも、変えた分だけ、どこかに揺れが出る」

 

 影は報告書を見る。

 

「この傷のことですか」

 

「おそらく」

 

「浅い傷です」

 

「ええ。今回は」

 

 今回は。

 

 その言葉が、部屋の中に重く落ちた。

 

 もし、これが命だったら。

 

 一人を救った代わりに、別の一人が死ぬのだろうか。あるいは、もっと大きな災いになるのだろうか。

 

 未来は変えられる。

 

 でも、何の代償もなく変えられるわけではない。

 

 なら、力任せに救ってはいけない。

 

 ただ死を避けるだけでは、別の死が生まれるかもしれない。

 

 歴史を殴って変えるのではなく、歴史が納得する形に逃がす必要がある。

 

「……死を、なくすのではなく」

 

 眞は呟く。

 

 影がこちらを見る。

 

「何ですか」

 

「失われるはずだったものを、そのまま消すのでは駄目なのかもしれません」

 

「どういう意味です」

 

「世界が“失った”と認識する流れは残す。でも、本当に失わせない方法を探す」

 

 自分で言いながら、雷が胸の奥で鳴った。

 

 それだ。

 

 帰終。

 

 雷電眞。

 

 前草神。

 

 狐斎宮。

 

 完全に死を消せば、歴史が歪む。

 

 けれど、世界が死を記録し、表の歴史が進むなら。

 

 その裏で、魂や記憶や存在を逃がすことはできるかもしれない。

 

 死亡を否定するのではなく、死亡を偽る。

 

 喪失を表に置き、命を裏へ逃がす。

 

 残酷だ。

 

 ひどい方法だ。

 

 残された者は傷つく。

 

 それでも、完全な死よりは。

 

 取り返しのつかない消滅よりは。

 

「眞?」

 

 影の声が近い。

 

 眞ははっとする。

 

 また、遠くを見ていた。

 

 だが、今度は逃げなかった。

 

「影」

 

「はい」

 

「もし、いつか私が大きな嘘をつくことになったら」

 

 影の目が鋭くなる。

 

「また、その話ですか」

 

「ええ」

 

「私は、その話が嫌いです」

 

「知っています」

 

「なら、なぜ」

 

「大切だからです」

 

 影は唇を引き結んだ。

 

 怒っている。

 

 でも、聞いてくれる。

 

 眞はその優しさに甘えすぎないよう、言葉を選ぶ。

 

「私は、あなたを騙したいわけではありません」

 

「嘘をつくのに?」

 

「ええ」

 

 矛盾している。

 

 自分でもそう思う。

 

 けれど、言わなければならない。

 

「誰かを生かすために、世界にだけ嘘をつかなければならない時が来るかもしれません」

 

「世界にだけ」

 

「人には、傷を残すかもしれない。あなたにも」

 

 影の表情が硬くなる。

 

「それでも?」

 

「それでも、本当に失わせないために」

 

 影はしばらく黙っていた。

 

 部屋の外で、風が鳴る。

 

 長い沈黙。

 

 やがて、影は低く言った。

 

「私は、眞が傷つく嘘を選ぶことを好みません」

 

「はい」

 

「私が傷つく嘘なら、なおさらです」

 

「……はい」

 

「ですが」

 

 影は眞を見る。

 

「眞が本当に誰かを救うために選ぶのなら、私は止める前に理由を聞きます」

 

 胸が熱くなった。

 

 止めない、ではない。

 

 信じる、でもない。

 

 理由を聞く。

 

 それは、今の影が差し出せる精一杯の歩み寄りだった。

 

「ありがとう、影」

 

「礼は不要です」

 

「それでも」

 

「眞は、すぐ礼を言う」

 

「駄目ですか」

 

「……駄目ではありません」

 

 影は少しだけ視線を逸らした。

 

 その仕草に、眞は微笑む。

 

 未来はまだ暗い。

 

 分からないことばかりだ。

 

 言葉にできないことも多い。

 

 でも、一人ではない。

 

 少なくとも、完全には。

 

 夜になり、眞は再び机の前に座った。

 

 今度は、名前を書かない。

 

 死も書かない。

 

 ただ、原則を書く。

 

 守るための道。

 

 退くための道。

 

 偽るための道。

 

 繋ぐための道。

 

 書きながら、眞は自分の中で一つの形を掴みかけていた。

 

 歴史を真正面から壊すのではない。

 

 世界が求める喪失を、別の形で満たす。

 

 誰かの死を、表向きだけ成立させる。

 

 魂を。

 

 記憶を。

 

 存在の核を。

 

 別の場所へ逃がす。

 

 そんな方法が、どこかにあるはずだ。

 

 稲妻だけでは足りない。

 

 眞の権能だけでも足りない。

 

 必要なのは、契約。

 

 器。

 

 記録。

 

 穢れを流す術。

 

 魂を守る術。

 

 そして、死を死として世界に納得させる術。

 

「璃月……」

 

 自然に、その名がこぼれた。

 

 岩の神。

 

 契約の神。

 

 そして、塵の魔神。

 

 帰終。

 

 彼女の名を、紙には書かない。

 

 けれど、心の中には浮かぶ。

 

 次に救うべき者。

 

 そして、自分自身の未来を変える鍵。

 

 眞は筆を置いた。

 

 窓の外には、月が出ている。

 

 稲妻の夜は静かだ。

 

 だが、その静けさの下で、未来へ続く糸がかすかに震えている。

 

 変えられる。

 

 けれど、雑には変えられない。

 

 救える。

 

 けれど、ただ手を伸ばすだけでは足りない。

 

 なら、学ぶしかない。

 

 繋がるしかない。

 

 稲妻の外へ出るしかない。

 

 眞は目を閉じた。

 

 狐斎宮の笑い声。

 

 千代の豪快な声。

 

 笹百合の静かな忠義。

 

 影の真っ直ぐな瞳。

 

 そのすべてが、胸の中にある。

 

 未来に死ぬ者たち。

 

 そう呼びたくはない。

 

 彼らはまだ、生きている。

 

 生きているなら、未来はまだ決まっていない。

 

 決まっていないのなら。

 

 たとえ世界が聞き耳を立てていようと。

 

 たとえ言葉が未来を縛るとしても。

 

 抜け道を探す。

 

 救うための嘘を。

 

 生き残るための道を。

 

 眞は新しい紙に、最後の一文を書いた。

 

 ――死を否定するな。死を越える道を作れ。

 

 墨は沈まなかった。

 

 雷も鳴らなかった。

 

 ただ、静かに紙の上で乾いていく。

 

 眞はその文字を見つめ、深く息を吐いた。

 

 行こう。

 

 璃月へ。

 

 まだ会ったことのない、死ぬはずの魔神に会いに。

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