『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』 作:悲劇のキャラに救済を
翌朝、眞は地図を広げていた。
稲妻の島々。
海岸線。
村。
社。
山道。
神櫻へ続く古い参道。
そこに、いくつもの細い線を引いていく。
墨ではない。
雷で焼きつけるように、淡い紫の光を紙の上に残す。
名前は書かない。
死も書かない。
けれど、道なら描ける。
逃げる道。
守る道。
隠す道。
繋ぐ道。
そして、失わせないための道。
「眞」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
影だ。
「朝から、またそれですか」
「ええ」
「寝ましたか」
「少し」
「少し」
影の声が低くなる。
眞は筆を止めた。
「怒っています?」
「怒ってはいません」
「では」
「不満です」
「正直ですね」
「眞が隠すからです」
影は隣に座った。
地図を見る。
その目つきが、すぐに武人のものへ変わる。
「これは、避難路ですか」
「はい」
「こちらの道は狭い。老人や子どもが通るには向きません」
「では、広げましょう」
「広げるには、人手が必要です」
「人手なら集めます」
「理由は」
「祭礼の道を整える、と」
影がこちらを見た。
「嘘ですね」
「半分は本当です」
「半分は嘘」
「ええ」
眞は地図へ視線を落とす。
「人々に、まだ来ていない災いを告げることはできません。けれど、備えは必要です」
「だから、祭礼の準備という名目で道を整える」
「はい」
「眞は、嘘が増えました」
その言葉は、静かだった。
責める声ではない。
けれど、胸に刺さる。
「……そうですね」
眞は否定しなかった。
否定できなかった。
実際、嘘は増えている。
未来を知っていること。
死の運命を知っていること。
世界が言葉を聞いていること。
そして、いつか自分も大きな嘘をつくかもしれないこと。
「影」
「はい」
「私は、嘘をつかずに済むなら、その方がいいと思っています」
「分かっています」
「でも、全部を正直に言えば守れるかというと、そうではない」
「それも、分かろうとしています」
分かる、ではない。
分かろうとしている。
その言い方が、影らしかった。
眞は小さく笑う。
「ありがとう」
「また礼を言う」
「言いたいので」
「……眞は、変わりました」
影は地図を見たまま呟いた。
胸が鳴る。
「悪い方に?」
「分かりません」
影は正直に言った。
「以前の眞も、民のためによく考えていました。けれど、今の眞は、もっと切迫している」
「切迫」
「まるで、何かがすぐそこまで来ているように見える」
その通りだった。
まだ遠い。
けれど、近い。
魔神戦争も。
海祇との争いも。
笹百合の死も。
帰終の死も。
五百年前の大災厄も。
時の流れとしては遠いのに、眞の胸の中ではすでに迫っている。
未来を知っているとは、そういうことだった。
まだ誰も泣いていないのに、泣き声だけが聞こえる。
まだ誰も死んでいないのに、墓標だけが見える。
「怖いのです」
眞は言った。
影がこちらを見る。
「また、そう言うのですか」
「ええ。何度でも言います」
眞は地図へ指を置いた。
「私は怖い。稲妻を失うことが。あなたを失うことが。斎宮を、千代を、笹百合を、民を、守れると思い上がって、結局何も残せないことが」
影は何も言わなかった。
ただ、眞の言葉を聞いていた。
「だから、備えます」
紫の線を、もう一本引く。
「怖いからこそ、手を動かします」
「……それは」
影は少しだけ目を伏せた。
「眞らしいです」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
らしい。
その一言に、まだ慣れない。
でも、逃げなくてもいいと思えるようになってきた。
この身体にいる自分が選んだ言葉を、影が眞らしいと言ってくれる。
なら、それを嘘だけにはしたくない。
「影」
「はい」
「この道、あなたならどう守りますか」
影はすぐに地図を覗き込んだ。
ためらいはない。
相談されたことを、少し嬉しく思っているようにも見えた。
「ここに兵を置くべきです。ただし、見張りではなく誘導役として」
「誘導役」
「敵が来た時、民は恐慌します。剣を持つ者が前にいるだけで、人はそちらを見る。道を知る者が立っているだけで、流れができます」
「なるほど」
「ただ、この位置は危険です。最後まで残る役目になります」
「最後まで残らせない方法は?」
「二重に置きます。前の者が民を流し、後ろの者が交代の合図を出す。合図が出たら必ず退く」
「必ず?」
「必ずです」
影は強く言った。
「退くと決めた者が退かなければ、後ろが崩れます」
眞は思わず影を見た。
影は地図を見ている。
自分の言葉に、自分で気づいていない顔だった。
退くことは逃げではない。
次に守るための行動。
少しずつ、影の中にその考えが入っている。
それが嬉しかった。
「影」
「何ですか」
「今の考え、とても良いです」
「……普通の判断です」
「いいえ。大事な判断です」
影は少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
褒められ慣れていない。
いや、眞から褒められること自体はあったのだろう。
けれど、今のように正面から認められると、やはり弱いらしい。
「続けてください」
「はい」
二人で地図を見る。
眞が道を引く。
影が守り方を考える。
時折、意見がぶつかる。
眞は民を逃がす道を優先し、影は守る者の配置を優先する。
けれど、どちらも同じものを見ていた。
生き残る道。
死んで守るのではなく、生きて支えるための道。
それを、二人で作っていた。
昼過ぎには、狐斎宮が呼ばれた。
彼女は扇で口元を隠しながら、広げられた地図をじっと見つめる。
「眞様」
「はい」
「これは、祭礼の準備にしては少々物々しいですね」
「そう見えますか」
「はい。神職と妖の結界位置まで細かく指定されておりますから」
「では、祭礼と防災を兼ねた準備ということに」
「物は言いようですね」
狐斎宮は楽しそうに笑った。
けれど、その目は真剣だった。
「穢れを流す道も入っていますね」
「必要になると思います」
「予感ですか」
「ええ」
「眞様の予感は、最近重い」
「すみません」
「責めているわけではありません」
狐斎宮は地図の神櫻周辺を指差した。
「ここに溜めるのは危険です。神櫻は受け止められますが、受け止め続ければ根が傷みます」
「なら、流す道が必要ですね」
「ええ。海へ流すだけでは戻ってくる。地中へ流せば地脈に触れる」
地脈。
眞の指が止まる。
狐斎宮は、それを見逃さなかった。
「やはり、地脈が関わっていますか」
「……まだ、はっきりとは」
「眞様」
狐斎宮の声が柔らかくなる。
「全部を聞くつもりはありません。けれど、わらわに穢れの道を任せるなら、危ういものの気配くらいは教えてください」
誠実な要求だった。
隠し事を責めるのではない。
ただ、自分の役割に必要な分だけは知りたいと言っている。
眞は頷いた。
「地脈に、言葉や記録が沈む感覚がありました」
影が少し反応する。
昨夜の話を思い出したのだろう。
「特定の名や、特定の未来を残そうとすると、世界がそれを聞く」
狐斎宮の表情が消えた。
千年を生きる狐の顔だった。
「それは、厄介ですね」
「はい」
「つまり、災いを避けるために災いの名を呼べば、かえって呼び寄せるかもしれない」
「そう考えています」
「ならば、名を避け、形をぼかし、道だけを作る」
狐斎宮は扇を閉じた。
「眞様らしい、面倒なやり方です」
「褒めています?」
「もちろん」
「今のは褒め言葉でしたか」
「狐の褒め言葉は分かりにくいのです」
少しだけ空気が緩む。
だが、狐斎宮はすぐに地図へ視線を戻した。
「穢れを受け止める役は、一人にしない方がよいでしょう」
「はい。絶対に」
眞の返答が強すぎたのか、狐斎宮が目を上げる。
眞は視線を逸らさなかった。
「絶対に、一人にはしません」
狐斎宮は、しばらく眞を見ていた。
そして、静かに笑った。
「では、そうしましょう」
「斎宮」
「はい」
「あなた自身も、逃げる道を持ってください」
「狐は逃げ足が速いですよ」
「冗談ではなく」
「分かっています」
狐斎宮は珍しく、茶化さなかった。
「わらわも、生き残る道を作ります」
その一言だけで、眞は少し救われた気がした。
夕方には、千代と笹百合も加わった。
千代は地図を見るなり、腕を組んで唸る。
「細かいな」
「あなたはまず、そう言うと思いました」
「だが悪くない」
千代は意外にも真剣だった。
海岸線を指差し、村の位置を確認し、退避路の幅や見張りの位置に意見を出す。
豪快に見えて、戦場を見る目は鋭い。
「ここは駄目だ」
「理由は?」
「敵が来たら詰まる。民が押し合って転ぶ」
「では、どうします」
「道を二つに分ける。片方は老人と子ども、もう片方は荷を持つ者。混ぜると遅い」
眞は頷き、地図に線を足す。
「それから、鬼衆をここに置く」
「前線ですか」
「いや、背負うためだ」
「背負う?」
「歩けぬ者を背負って走る。鬼ならできる」
その言葉に、眞は手を止めた。
千代は当然のように続ける。
「戦うだけが役目ではあるまい。生きて逃がすなら、力はそう使えばいい」
胸が熱くなる。
眞が言おうとしていたことを、千代は千代の言葉で理解していた。
「……ありがとう、千代」
「礼はいらん。面白いからやる」
「面白い?」
「死ぬための戦より、生き残るための戦の方が難しい」
千代はにやりと笑う。
「腕が鳴る」
その隣で、笹百合は静かに地図を見ていた。
「天狗衆は上から誘導できます」
「空から?」
「はい。煙、旗、鳴鏑。複数の合図を用意すれば、地上の混乱を抑えられるでしょう」
「退く合図も?」
「もちろんです」
笹百合は当然のように答えた。
「殿を一人に任せない。そういう方針であれば、天狗衆にも徹底します」
眞は笹百合を見た。
真面目で、静かで、忠義に厚い天狗。
彼はきっと、命じれば最後まで残る。
命じなくても、必要だと思えば残る。
だからこそ、今この言葉が必要だった。
「笹百合」
「はい」
「あなたもです」
「私も?」
「最後まで残る判断を、一人でしないでください」
笹百合の目がわずかに揺れた。
「私は、将です」
「だからこそです」
眞は静かに言った。
「将が死ねば、残された者が迷います。生きて帰り、次の指示を出すことも役目です」
「しかし」
「命を捨てる覚悟は尊い。けれど、命を残す覚悟も同じくらい重い」
笹百合は黙った。
千代も、狐斎宮も、影も、何も言わなかった。
風が庭を抜ける。
夕暮れの光が、地図の上に落ちている。
やがて笹百合は、深く頭を下げた。
「承知しました。生きて帰ることを、命令として受け取ります」
眞は頷いた。
「お願いします」
その一言が、未来に届くかは分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
日が落ちる頃、地図は紫の線でいっぱいになっていた。
避難路。
結界位置。
誘導役。
退く合図。
穢れを流す道。
神櫻へ繋ぐ道。
それは、戦の地図ではなかった。
生き残るための地図だった。
千代は満足そうに伸びをする。
「よし、飯だな」
「あなたは本当にぶれませんね」
狐斎宮が呆れる。
「腹が減っては守れん」
「正論のように聞こえるのが悔しいですね」
「正論だからな」
千代が笑う。
笹百合も、わずかに口元を緩めた。
影は黙って地図を見ている。
眞はその横顔を見た。
「影」
「はい」
「どう思いますか」
「まだ足りません」
即答だった。
「そうですね」
「けれど、何もないよりはずっといい」
「ええ」
「眞」
影は地図から目を離さずに言った。
「私は、あなたが何を恐れているのか、まだ分かりません」
「はい」
「ですが、これが民を守る道なら、私は協力します」
眞の胸が静かに震えた。
「ありがとう」
「また礼を言う」
「言います」
影は少しだけ息を吐く。
「なら、私は何度でも受け取ります」
その言葉が、あまりにも優しかった。
眞はすぐに返事ができなかった。
夜。
皆が帰った後も、眞は一人で地図を見ていた。
部屋には燭台の灯りだけがある。
紫の線が、淡く浮かび上がっている。
できることは増えた。
けれど、足りない。
道は作れる。
結界も作れる。
退く仕組みも作れる。
だが、死そのものを越える方法はまだない。
世界が求める喪失を、どうやって騙すのか。
死んだと記録させながら、本当に失わせない方法。
それには、稲妻の力だけでは足りない。
契約がいる。
器がいる。
記録を避ける知恵がいる。
穢れを流す術も、魂を守る術もいる。
脳裏に、璃月の山々が浮かぶ。
岩の神。
契約の神。
そして、塵の魔神。
帰終。
その名を紙には書けない。
けれど、行かなければならない。
彼女は、死ぬ。
このままなら。
魔神戦争の中で。
モラクスの隣から消える。
璃月の歴史に、大きな喪失として刻まれる。
もし、彼女を救えるなら。
もし、死を偽る方法を作れるなら。
それはやがて、眞自身にも使える。
狐斎宮にも。
千代にも。
笹百合にも。
そして、影を孤独にしないためにも。
「……璃月へ行きます」
小さく呟いた。
その瞬間、襖の外で気配が動いた。
「眞」
影だった。
眞は驚かなかった。
むしろ、来ると思っていたのかもしれない。
「聞いていましたか」
「最後だけ」
影は襖を開ける。
月明かりが差し込む。
「璃月へ行くのですか」
「ええ」
「なぜ」
「会いたい神がいます」
「岩の神ですか」
「それと、もう一人」
影はすぐに気づいたようだった。
「その者も、あなたが恐れている未来に関わるのですね」
「……はい」
嘘はつかない。
言えないことはある。
けれど、言えるところでは嘘をつかない。
それが、眞が自分に課した線だった。
「危険ですか」
「今すぐではありません」
「では、なぜ今行くのです」
「今でなければ、間に合わないかもしれないから」
影は黙った。
眞も黙った。
静かな夜だった。
遠くで波の音がする。
やがて影は言った。
「私も行きます」
「駄目です」
即答した。
影の目が鋭くなる。
「なぜ」
「稲妻を空けられません」
「眞は空ける」
「私は交渉に行くのです。あなたには、この地図を形にしてほしい」
「それは他の者でも」
「影でなければ駄目です」
影が言葉を止める。
眞はまっすぐに見た。
「これは、あなたにも作ってほしい道です。私が戻るまで、あなたが中心になって進めてください」
「私が」
「はい」
「眞の代わりに?」
「いいえ」
眞は首を振る。
「あなた自身として」
影の瞳が揺れた。
「眞は、またそう言う」
「何度でも言います」
「……私は」
影は一度、言葉を飲み込んだ。
そして、静かに問い直す。
「眞は、戻りますか」
その問いが、胸に刺さった。
戻りますか。
今は、ただ璃月へ行くだけ。
けれど影の中には、昨日からの言葉が残っている。
眞が消えるかもしれない話。
大きな嘘の話。
世界にだけ嘘をつく話。
だから、怖いのだ。
置いていかれることが。
眞は立ち上がり、影の前へ歩いた。
「戻ります」
「本当に」
「本当に」
「約束ですか」
「約束です」
影はじっと眞を見た。
嘘を見抜こうとしている。
眞はその視線から逃げなかった。
今は嘘ではない。
璃月からは戻る。
今は、まだ。
影はやがて小さく頷いた。
「分かりました」
「ありがとう」
「ただし」
「はい」
「帰ってきたら、全部ではなくても、話せることを話してください」
眞は目を見開いた。
影の声は静かだった。
けれど、強い。
「私は、眞のすべてを知ることはできないのでしょう」
「……影」
「ですが、何も知らないまま守ることもできません」
その言葉に、眞は胸を打たれた。
影が、変わり始めている。
ただ眞の影として従うのではなく、知ろうとしている。
自分の目で、守ろうとしている。
それが嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。
「分かりました」
眞は頷く。
「戻ったら、話せることを話します」
「約束です」
「ええ。約束です」
影はようやく、少しだけ表情を緩めた。
「では、稲妻は私が見ます」
「お願いします」
「眞」
「はい」
「無茶はしないでください」
眞は微笑む。
「あなたに言われるとは」
「眞が言ったことです」
「そうでしたね」
「守ってください」
影の声は、真剣だった。
眞は静かに頷く。
「守ります」
その夜、眞は旅支度を始めた。
派手な供は連れない。
表向きは、稲妻の外との調停と見聞。
実際には、未来を変えるための旅。
死を越える道を探す旅。
机の上には、完成しかけた地図がある。
稲妻を残すための道。
そして、眞がつき始めた小さな嘘の証。
眞はその地図へ手を置いた。
嘘は嫌いだ。
隠し事も苦しい。
けれど、何もせずに失うくらいなら。
この手が汚れることも、背負わなければならない。
ただし。
大切な者への約束だけは、嘘にしない。
影へ戻る。
話せることを話す。
それだけは守る。
夜明け前。
稲妻の港に、薄い霧が立っていた。
船が静かに揺れている。
見送りは少ない。
影。
狐斎宮。
千代。
笹百合。
それだけで十分だった。
「土産は油揚げで」
「璃月に油揚げはあるのでしょうか」
狐斎宮が真顔で言う。
「探してきます」
「さすが眞様」
千代が笑う。
「無事に帰れよ」
「ええ」
「強そうな奴がいたら呼べ」
「呼びません」
「なぜだ」
「遊びに行くのではありません」
千代は不満そうだった。
笹百合は静かに頭を下げる。
「道の整備は進めておきます」
「お願いします」
「生き残る道を、必ず」
その言葉に、眞は頷いた。
最後に、影を見る。
影は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
眞も見返した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
短い言葉。
けれど、そこには確かな約束があった。
戻る。
待つ。
ただ待つのではなく、それぞれの場所で進む。
船が岸を離れる。
稲妻の港が少しずつ遠ざかる。
影の姿が、小さくなる。
それでも、眞は目を逸らさなかった。
やがて霧が港を隠す。
稲妻の影が見えなくなる。
眞は前を向いた。
海の向こう。
岩の国、璃月。
そこには、まだ生きている死者がいる。
死ぬはずの魔神がいる。
そしてきっと、死を偽るための最初の鍵がある。
眞は胸の奥の雷に触れるように、そっと手を握った。
私は戻る。
その約束を、雷に刻む。
そして。
今度こそ、失わせないための嘘を探しに行く。