『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第6話 璃月の岩王と塵の魔神

 

 

 璃月の大地は、稲妻とはまるで違っていた。

 

 海から見えた最初の印象は、岩だった。空へ突き出す山々。霧に沈む峰。黄金色の陽光を受け、静かに輝く崖。

 

 稲妻の海が雷を孕んだ紫なら、璃月の大地は沈黙した金だった。

 

 重く、深く、動かない。だが、死んでいるわけではない。岩の下には確かに息づくものがある。

 

 鉱脈。水脈。人の営み。契約の気配。

 

 船を降りた瞬間、眞はそれを感じた。

 

 この国はまだ完成していない。人の国としても、神の国としても。けれど、土台はすでにある。

 

 重く、強く、揺るがない土台が。

 

「ここが、璃月……」

 

 呟いた声は、潮風に混ざって消えた。

 

 表向きは稲妻の神としての見聞だった。外へ渡った雷神が、他国の神と交わり、今後の争いを避けるために言葉を交わす。そういう名目である。

 

 もちろん、それは嘘ではない。

 

 ただ、すべてでもない。

 

 眞が本当に求めているものは、もっと別にある。

 

 死を越える道。

 

 世界に失われたと認識させながら、その奥で命を残す方法。

 

 稲妻だけでは見つからなかった答え。それを探すために、眞は海を越えた。

 

 案内に立つ璃月の兵は、眞へ深く頭を下げる。

 

「雷の神よ。岩王帝君がお待ちです」

 

「ありがとうございます」

 

 自然に答える。

 

 稲妻では“眞様”と呼ばれることが多い。けれどここでは、雷の神。

 

 その呼び名が、少しだけ遠かった。

 

 雷電眞ではなく、稲妻の雷神として見られている。その距離が、今はありがたい。ここでは、眞を深く知る者は少ない。

 

 影のように見抜く者も、狐斎宮のように笑いながら刺してくる者もいない。

 

 少しだけ、息ができる。

 

 そう思った。

 

 だが、その考えはすぐに甘かったと分かることになる。

 

 帰離集へ続く道は、人で賑わっていた。

 

 商人。職人。兵士。子どもを連れた母親。荷を引く者。石材を運ぶ者。それぞれが慌ただしく動いている。

 

 稲妻の神域とは違う。ここには、生活の音が濃かった。

 

 槌の音。人の声。鍋の湯が沸く音。遠くで誰かが笑う声。

 

 そして、その中心にあるのは、神の威光というよりも、人と神が共に築こうとしている熱だった。

 

「……すごい」

 

 思わず声が漏れる。

 

 まだ荒い。まだ未完成。それでも、ここには未来へ向かう力がある。

 

 稲妻で作ろうとしている“生き残る道”とは、少し違う。

 

 璃月は、築いている。

 

 残すためではなく、積み上げるために。

 

 その光景を見て、胸の奥が少し熱くなった。

 

 だが同時に、冷たい記憶が浮かぶ。

 

 この場所は、いつか失われる。

 

 帰離集。

 

 塵の魔神。

 

 帰終。

 

 その名前が心に浮かんだ瞬間、眞は指先を握った。

 

 紙には書けない。

 

 口にもできない。

 

 けれど、心の中で思うだけなら、まだ世界は聞いてこない。

 

 今のところは。

 

 案内役が足を止めた。

 

「こちらです」

 

 広い石造りの広場。

 

 そこに、二柱の存在がいた。

 

 一人は、背の高い男。

 

 黄金の瞳。

 

 落ち着いた佇まい。

 

 武器を構えているわけではないのに、その身には山のような圧がある。

 

 岩王帝君。

 

 モラクス。

 

 まだ、後の世の客卿ではない。神として、魔神として、大地に立つ存在。

 

 そして、その隣にいたのは、少女のようにも、若い女性のようにも見える魔神だった。

 

 柔らかな気配。

 

 知性を宿す瞳。

 

 どこか悪戯っぽい口元。

 

 けれど、その身に纏う力は細かく、深く、広い。

 

 塵。

 

 風に舞い、隙間に入り込み、形を変え、どこまでも広がるもの。

 

 帰終。

 

 塵の魔神。

 

 生きている。

 

 その事実だけで、眞の喉が詰まった。

 

「よく来た、稲妻の雷神」

 

 モラクスが口を開いた。

 

 声は低く、静かだった。その一言だけで、広場の空気が落ち着く。

 

「遠路、感謝する」

 

「こちらこそ、お招きいただき感謝します。岩の神」

 

 眞は礼を返す。

 

 雷電眞として。

 

 稲妻の雷神として。

 

 けれど、視線はどうしても隣の帰終へ向いてしまう。

 

 帰終はそれに気づいたように、にこりと笑った。

 

「そんなに見つめられると、少し照れてしまうわね」

 

「……失礼しました」

 

「いいのよ。遠い稲妻の神に興味を持たれるなんて、光栄だもの」

 

 軽やかな声だった。

 

 知っている。

 

 この明るさが、いつか記憶の中だけになることを。

 

 この笑みが、岩王の隣から消えることを。

 

 眞は呼吸を整えた。

 

 今ここで崩れてはいけない。

 

 帰終を未来の喪失として見てはいけない。

 

 彼女はまだ、生きている。

 

 目の前で笑っている。

 

「雷電眞です」

 

「帰終よ。塵の魔神、と呼ばれることもあるわ」

 

 帰終は柔らかく名乗った。

 

「こちらはモラクス。見ての通り、少し堅いけれど、とても頼りになる岩の神」

 

「帰終」

 

 モラクスが静かにたしなめる。

 

「事実でしょう?」

 

「客人の前だ」

 

「客人だからこそ、最初に言っておいた方がいいわ。岩は堅いものだって」

 

 帰終は悪びれない。

 

 モラクスはわずかに目を伏せる。

 

 呆れているのか。

 

 慣れているのか。

 

 たぶん、両方なのだろう。

 

 そのやり取りが、あまりにも自然だった。

 

 眞はまた胸が痛くなる。

 

 モラクスの隣に帰終がいる。

 

 それは、この時代では当たり前の光景なのだ。

 

 けれど未来では、当たり前ではなくなる。

 

「稲妻では、海沿いの結界と退避路を整えていると聞いた」

 

 モラクスが言った。

 

 眞は表情を整える。

 

「耳が早いですね」

 

「交易に関わる情報は、自然と入る」

 

「防衛のための準備です。まだ形にし始めたばかりですが」

 

「戦の準備ではなく?」

 

「戦も含みます。でも、それだけではありません」

 

 眞は少しだけ言葉を選ぶ。

 

「私は、守る者にも退く道が必要だと思っています」

 

 帰終の目が少し輝いた。

 

「へえ」

 

「強い者ほど、最後まで残ろうとする。神も、妖も、武人も、将も。だから、最初から退くための仕組みを作っておきたい」

 

「面白いわね」

 

 帰終は身を乗り出した。

 

「普通、神は守るために前へ出ることを考えるものだけど。あなたは、守るために退くことを考えている」

 

「死んで守るだけが、道ではありませんから」

 

 その瞬間、モラクスの目が少しだけ鋭くなった。

 

 帰終も、笑みを保ったまま黙る。

 

 眞は自分の言葉が重く響いたことに気づいた。

 

 この時代は、魔神戦争のただ中だ。

 

 死んで守る。

 

 命を捧げる。

 

 それは、決して遠い話ではない。

 

 むしろ彼らの足元に常にあるものだ。

 

「稲妻の雷神は、優しいのね」

 

 帰終が静かに言った。

 

「優しいかは、分かりません」

 

「どうして?」

 

「私は、怖いだけかもしれません」

 

 また言った。

 

 怖い。

 

 最近、何度も口にしている。

 

 神らしくない言葉。

 

 けれど、嘘ではない。

 

 帰終は目を細める。

 

「怖いから、守る準備をするの?」

 

「はい」

 

「怖いから、逃げ道を作る?」

 

「はい」

 

「怖いから、死なせない方法を探す?」

 

 眞は息を止めた。

 

 帰終の声は柔らかい。

 

 だが、言葉は核心に近かった。

 

 隣で、モラクスも黙ってこちらを見ている。

 

 この二柱は、やはり侮れない。

 

 眞はゆっくりと頷いた。

 

「……はい」

 

 帰終は笑った。

 

 今度の笑みは、先ほどよりも優しい。

 

「なら、それは優しさでいいと思うわ」

 

「そうでしょうか」

 

「ええ。怖いのに目を逸らさないなら、それは十分に優しさよ」

 

 言葉が胸に染みた。

 

 稲妻では、影が眞を信じてくれる。狐斎宮が待ってくれる。千代が笑って受け止める。笹百合が命令として受け取る。

 

 そして璃月で、帰終は怖さを優しさと呼んだ。

 

 まだ会ったばかりなのに。

 

 この人は、そう言えるのだ。

 

 だからこそ、失われた時の穴は大きいのだろう。

 

 眞は視線を落としかけて、堪えた。

 

「立ち話もなんだ。場所を移そう」

 

 モラクスが言う。

 

「帰終、お前も来るか」

 

「もちろん。雷神様の話、面白そうだもの」

 

「面白い話かは分かりませんが」

 

「大丈夫。面白くするのは得意よ」

 

 帰終は軽やかに笑った。

 

 案内されたのは、帰離集の奥にある建物だった。

 

 石と木で組まれた、実用的な場所。だが、部屋の中には見慣れない装置がいくつも置かれていた。

 

 歯車。

 

 小さな球体。

 

 風を受けて回る羽根。

 

 水を吸い上げる筒。

 

 塵のように細かな光を纏う箱。

 

 眞は思わず足を止めた。

 

「これは」

 

「試作品よ」

 

 帰終が嬉しそうに言う。

 

「農具、防衛装置、記録具、あと失敗作がいくつか」

 

「失敗作も置いているのですか」

 

「失敗したものほど、後で役に立つことがあるでしょう?」

 

 帰終は当然のように言った。

 

 眞はその言葉に、思わず笑った。

 

「いい考えですね」

 

「でしょう?」

 

 帰終は誇らしげに胸を張る。

 

 モラクスは席に着きながら、静かに言う。

 

「この者は、失敗作を捨てない」

 

「言い方」

 

「事実だ」

 

「私は可能性を保存しているの」

 

 帰終はそう言って、机の上の小さな球体を指で弾いた。

 

 球体が転がり、淡い光を放つ。

 

 中に、細かな塵の粒が舞っていた。

 

 眞はその光に目を奪われる。

 

「記録具ですか」

 

「ええ。まだ安定しないけど、音や映像を塵に留められないかと思って」

 

 心臓が跳ねた。

 

 記録。

 

 塵に留める。

 

 地脈ではなく、世界の外でもなく、魔神の権能で作られた器に。

 

 それは、眞が求めているものに近かった。

 

 名を紙に書けば、世界が聞く。

 

 だが、帰終の器なら。

 

 世界に沈めず、情報を閉じ込められるかもしれない。

 

 眞は球体を見つめたまま、声を抑える。

 

「これは、地脈に触れますか」

 

 帰終の笑みが消えた。

 

 モラクスの視線も、眞に向く。

 

「……面白いことを聞くのね」

 

「すみません」

 

「いいえ。大事な問いよ」

 

 帰終は球体を手に取った。

 

「今のところ、地脈に直接繋ぐつもりはないわ。地脈は便利だけれど、あまりにも広すぎる。記録したいもの以外まで混ざるし、混ざったものは取り出す時に歪む」

 

「歪む」

 

「記録は、ただ残ればいいわけではないの。誰が、どんな意図で、何を残したか。その形を保たないと、後の人を惑わせる」

 

 眞は息を忘れた。

 

 欲しかった言葉だった。

 

 地脈に任せれば、記録は残る。しかし、それは世界の記録になる。個人の意図や願いは、薄れ、混ざり、変質する。

 

 それでは駄目だ。

 

 影に残す言葉も。

 

 救うための手がかりも。

 

 世界に飲み込まれず、誰かへ届く形で残さなければならない。

 

「帰終」

 

 モラクスが低く呼ぶ。

 

 帰終は頷く。

 

「分かっているわ」

 

 彼女は眞へ向き直った。

 

「雷電眞。あなたは、何を記録したいの?」

 

 眞はすぐに答えられなかった。

 

 何を。

 

 未来。

 

 喪失。

 

 避けたい運命。

 

 影への言葉。

 

 救済の手順。

 

 世界に知られたくない真実。

 

 全部だ。

 

 全部、記録したい。

 

 でも、全部は言えない。

 

 言えば、世界が聞く。

 

 眞はゆっくりと口を開いた。

 

「失われるかもしれないものを、世界に沈めずに残す方法を探しています」

 

 帰終は黙って聞いている。

 

「言葉にすれば、地脈に落ちる。地脈に落ちれば、私の意図から離れる。だから、閉じた器が欲しい」

 

「誰かに渡すため?」

 

「はい」

 

「誰に?」

 

 影。

 

 そう言いかけて、止める。

 

 名は出せる。

 

 影の名そのものは危険ではない。

 

 けれど、この場で言うと、あまりにも心の奥を見せることになる。

 

 眞は少しだけ笑った。

 

「大切な人に」

 

 帰終は、それ以上聞かなかった。

 

 ただ、柔らかく頷く。

 

「いいわ。そういうものなら、作る意味がある」

 

「帰終」

 

 モラクスが静かに言う。

 

「安請け合いではないのか」

 

「あなたはいつもそう。まず危険を考える」

 

「危険はある」

 

「ええ。だから、考える価値がある」

 

 帰終は球体を指先で転がす。

 

「閉じた記録器。地脈に沈めず、魔神の力で封じる。条件を満たした時だけ開く……うん、理屈の上ではできるかもしれない」

 

「危険も大きい」

 

 モラクスが静かに言った。

 

「記録とは、ただ閉じ込めればよいものではない。残す相手、開く時、開いた後に背負うもの。そのすべてを定めねば、器は災いになる」

 

「分かっているわ」

 

 帰終は、机の上の小さな球体を指先で押さえた。

 

 その中で、淡い塵がゆっくりと渦を巻く。

 

「だから、名前はまだつけない」

 

「名前を?」

 

「名前を与えれば、役割が定まってしまうもの。これはまだ、記録を残す器なのか、想いを閉じる箱なのか、それとも死を欺くための棺なのかも分からない」

 

 棺。

 

 その言葉に、眞の胸が小さく軋んだ。

 

 帰終は眞を見る。

 

 柔らかな目だった。

 

 けれど、そこに軽さはなかった。

 

「雷電眞。あなたが求めているものは、便利な道具ではないわ。誰かを救うためのものかもしれない。でも同時に、誰かに喪失を信じさせるものでもある」

 

「……はい」

 

「なら、慎重に作りましょう。軽く名を与えるには、少し重すぎる」

 

 モラクスが頷いた。

 

「契約も同じだ。名を持つものは、形を持つ。形を持つものは、代償を持つ」

 

 帰終は小さく笑った。

 

「だから今は、ただの“匣”でいい」

 

「匣」

 

「ええ。何を入れるかは、これから決めるの」

 

 眞は、机の上の小さな球体を見つめた。

 

 閉じられた塵。

 

 世界に沈まない記録。

 

 まだ名を持たない、未完成の器。

 

 それは、希望に見えた。

 

 同時に、ひどく残酷なものにも見えた。

 

 その時、モラクスが眞を見た。

 

「雷電眞」

 

「はい」

 

「君は、まだ起きていない喪失を見ているな」

 

 胸が止まった。

 

 部屋の空気が、音を失う。

 

 帰終も、球体を手にしたまま黙った。

 

 モラクスの黄金の瞳は静かだった。

 

 責めるでもない。

 

 探るでもない。

 

 ただ、事実を見ている。

 

 岩がそこにあると認めるように。

 

「……なぜ、そう思うのですか」

 

「君の言葉には、すでに悼みが混じっている」

 

 悼み。

 

 その一言に、胸の奥を掴まれた。

 

「まだ生きている者へ向けるには、早すぎる悼みだ」

 

 眞は何も言えなかった。

 

 言い返せなかった。

 

 その通りだった。

 

 影を見る時も。

 

 狐斎宮を見る時も。

 

 千代を見る時も。

 

 笹百合を見る時も。

 

 そして今、帰終を見る時も。

 

 自分は未来の喪失を重ねている。

 

 生きている彼らへ、すでに悼みを向けている。

 

 それは失礼だ。

 

 分かっている。

 

 それでも、止められない。

 

「……私は」

 

 声がかすれた。

 

「私は、失うことが怖いのです」

 

「それは先ほど聞いた」

 

「はい」

 

「だが、恐れ方が違う」

 

 モラクスは静かに続けた。

 

「普通、人はまだ見ぬ災いを恐れる。君は、すでに見たものを恐れている」

 

 心臓が雷のように鳴る。

 

 この岩の神は、本当に鋭い。

 

 世界の耳とは違う。

 

 地脈の記録とも違う。

 

 ただ、目の前の存在を見ている。

 

 それだけで、眞の隠したものへ近づいてくる。

 

 眞は呼吸を整えた。

 

 ここで嘘を重ねるべきではない。

 

 すべては言えない。

 

 けれど、誠実であるべきだ。

 

「モラクス」

 

 名を呼ぶ。

 

 その名には、重みがあった。

 

「私は、すべてを話せません」

 

「だろうな」

 

「話せない理由もあります。言葉にすれば、世界に刻まれる危険がある」

 

 モラクスの目がわずかに細くなる。

 

 帰終も真剣な顔になった。

 

「だが、助けを求めている」

 

「はい」

 

「誰を救いたい」

 

 眞は、帰終を見た。

 

 帰終が瞬きをする。

 

 言えない。

 

 あなたです。

 

 そう言えたなら、どれほど楽だろう。

 

 けれど、言えない。

 

 言葉にすれば、世界が聞く。

 

 彼女の喪失を固定するかもしれない。

 

 だから、眞は言い換えた。

 

「失われるべきではない者を」

 

 モラクスは黙っていた。

 

 帰終も、何かを察したように目を伏せる。

 

「……そして、いつか私自身も」

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で雷が小さく軋んだ。

 

 だが、地脈が聞いている感覚はない。

 

 まだ大丈夫。

 

 名前も、時も、場所も言っていない。

 

 輪郭だけ。

 

 それなら、まだ言える。

 

「私は、死をなくしたいわけではありません」

 

 眞は続ける。

 

「死を否定すれば、世界が歪む。失われるはずだったものを無理に残せば、別の何かが失われるかもしれない」

 

「試したのね」

 

 帰終が言った。

 

 眞は頷く。

 

「小さな未来を変えました。救えたものはあります。でも、別の場所に小さな傷が生まれた」

 

「均衡」

 

 モラクスが呟く。

 

「ええ。だから、ただ死を消すのでは駄目なのだと思います」

 

 眞は指先を握る。

 

「世界には喪失を認識させる。けれど、本当に大切な核だけを逃がす。魂でも、記憶でも、存在でも。何かを」

 

 帰終の目が、まっすぐ眞を捉えた。

 

「つまり、死を偽る方法」

 

 言葉が落ちた。

 

 静かに。

 

 けれど、確かに。

 

 死を偽る。

 

 眞はその言葉を聞いて、身体の奥が震えるのを感じた。

 

 自分の中で曖昧だったものに、形が与えられた。

 

「……はい」

 

 頷く。

 

「私は、それを探しています」

 

 モラクスは目を閉じた。

 

 帰終は球体を机に置き、両手を組む。

 

 しばらく、誰も話さなかった。

 

 やがてモラクスが口を開く。

 

「それは危険な道だ」

 

「分かっています」

 

「死を偽るということは、残された者に本物の喪失を背負わせることでもある」

 

 その言葉は、まっすぐ眞の胸を刺した。

 

 影。

 

 真っ先に浮かんだのは、影の顔だった。

 

 自分が死んだことにすれば、影は傷つく。

 

 たとえ本当に死んでいなくても。

 

 たとえ後で戻る道を残しても。

 

 その瞬間、影は失う。

 

 それは本物の傷だ。

 

「……はい」

 

「それでも選ぶか」

 

 眞はすぐには答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 選びたくない。

 

 影を傷つけたくない。

 

 誰にも嘘をつきたくない。

 

 でも、完全な死よりは。

 

 永遠に失うよりは。

 

 戻れる嘘の方がいい。

 

 少なくとも、そう信じたい。

 

「選ばずに済む方法を探します」

 

 眞は言った。

 

「でも、選ばなければ誰かが完全に失われるのなら、その時は選びます」

 

 モラクスは眞を見た。

 

 長い沈黙。

 

 やがて、彼は静かに頷いた。

 

「覚悟はあるようだ」

 

「覚悟など、まだ」

 

「怖いと言えるなら十分だ」

 

 意外な言葉だった。

 

 眞が目を上げると、モラクスは淡々と続ける。

 

「怖さを知らぬ者は、契約の重みを軽んじる。恐れを持つ者の方が、まだ誠実だ」

 

 帰終が笑った。

 

「ほら、モラクスもあなたを褒めているわ」

 

「私は事実を述べた」

 

「それを褒め言葉と言うのよ」

 

 この二人のやり取りに、眞は少しだけ肩の力が抜けた。

 

 重い話をしているのに。

 

 死を偽るなどという、ろくでもない方法を話しているのに。

 

 帰終がいるだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。

 

 だから、失わせたくない。

 

 この人を。

 

 この空気を。

 

 モラクスの隣にある、この柔らかい塵の光を。

 

「雷電眞」

 

 帰終が呼ぶ。

 

「はい」

 

「あなたの匣、作ってみるわ」

 

「本当に?」

 

「ええ。ただし、簡単にはいかない」

 

 帰終は机の上に転がる小さな球体へ視線を落とした。

 

「雷の力で外からの干渉を断ち、岩の契約で開く条件を定め、塵で中身の形を保つ。理屈だけなら道はある。でも、少しでも均衡を間違えれば、匣は記録を守る器ではなく、記録を閉じ込めて腐らせる棺になる」

 

 棺。

 

 その言葉が、また眞の胸を軋ませた。

 

 だが、目を逸らさなかった。

 

「それでも、必要です」

 

「でしょうね」

 

 帰終は小さく頷いた。

 

「だから、急がない。名もつけない。役割も決めきらない。まずは、何を入れても壊れない器を考える」

 

 モラクスが静かに言う。

 

「私も契約の観点から見る。開く条件を誤れば、残された者をさらに縛ることになる」

 

「ありがとうございます」

 

「礼はまだ早い」

 

 モラクスは目を細めた。

 

「契約は、結んだ後に重さを持つ」

 

 眞は深く頷いた。

 

 それは、影との約束にも似ていた。

 

 戻る。

 

 話せることを話す。

 

 何も残さず消えない。

 

 口にした時は小さな約束でも、未来では命綱になる。

 

 軽く扱っていいものではない。

 

 その後、三柱は夜まで話し合った。

 

 地脈に触れない記録器。

 

 開封条件。

 

 契約による封。

 

 雷による遮断。

 

 塵による保存。

 

 まだ机上の空論だった。

 

 だが、可能性はあった。

 

 眞はその一つひとつを聞きながら、胸の奥で形が固まっていくのを感じていた。

 

 これだ。

 

 影への言葉を残すなら、この形がいる。

 

 未来の名を書けないなら、開く条件を曖昧にすればいい。

 

 特定の時ではなく、特定の心の状態。

 

 たとえば、影が立ち止まりそうになった時。

 

 稲妻が永遠に閉じようとした時。

 

 その時にだけ開く記録器。

 

 そんなものが作れたら。

 

 眞は、何も残さず消える姉にはならずに済む。

 

 そして、もっと先には。

 

 魂や記憶を封じる器へ応用できるかもしれない。

 

 帰終を救う器。

 

 自分を救う器。

 

 狐斎宮を、千代を、誰かを完全に失わせないための器。

 

 夜が更けた頃、帰終は部屋の窓を開けた。

 

 外には、帰離集の灯りが広がっていた。

 

 人々の家。

 

 小さな炎。

 

 作業を続ける者の声。

 

 笑い声。

 

 眞はその光景を見つめる。

 

「綺麗でしょう」

 

 帰終が言った。

 

「はい」

 

「まだまだ未完成だけどね」

 

「だから綺麗なのかもしれません」

 

「いいことを言うわね」

 

 帰終は嬉しそうに笑う。

 

「モラクスは完成した強さを持っている。私は、未完成のものが好き。人も、街も、仕組みも。まだ変われるものは、見ていて飽きないもの」

 

 眞は黙って聞いていた。

 

「あなたの稲妻も、そう?」

 

「……はい」

 

 眞はゆっくり頷く。

 

「私の稲妻も、変わっていく国です。そうであってほしい」

 

「なら、大切にしないとね」

 

「ええ」

 

「止めてしまわないように」

 

 その言葉に、眞は息を呑んだ。

 

 帰終は何気なく言ったのだろう。

 

 けれど、それは影へ伝えた願いと重なった。

 

 私のために、時を止めないで。

 

 私のために、人の願いを恐れないで。

 

 変わっていく稲妻であってほしい。

 

「……はい」

 

 声が少し震えた。

 

 帰終はそれに気づいたが、何も聞かなかった。

 

 代わりに、机の上の試作球を眞へ渡す。

 

「これはまだ失敗作だけど、持っていって」

 

「よいのですか」

 

「ええ。失敗作は、後で役に立つことがあるから」

 

 眞はそれを受け取った。

 

 小さな塵の球。

 

 淡く光る器。

 

 まだ何も保存できない、未完成の可能性。

 

 それが、今はとても重かった。

 

「ありがとう、帰終」

 

「どういたしまして、雷電眞」

 

 帰終は笑う。

 

「また来て。次はもっと面白いものを作っておくから」

 

 眞は喉の奥が詰まった。

 

 また来て。

 

 その言葉が、あまりにも何気なくて。

 

 だからこそ、痛かった。

 

「ええ」

 

 眞は頷く。

 

「必ず、また来ます」

 

 その言葉は、約束だった。

 

 影へのものとは違う。

 

 けれど、同じくらい重い。

 

 この人を失わせない。

 

 まだ方法は分からない。

 

 完全な答えもない。

 

 でも、今日見つけた。

 

 匣。

 

 契約。

 

 塵。

 

 そして、死を偽るという発想。

 

 帰終を救う道は、ここから始まる。

 

 夜の帰離集で、眞は一人、宿の窓辺に立っていた。

 

 手の中には、帰終から渡された小さな球がある。

 

 未完成の記録器。

 

 失敗作。

 

 可能性。

 

 外では、人の灯りが揺れている。

 

 この街も、いつか失われる。

 

 今のままでは。

 

 帰終も、いつか失われる。

 

 今のままでは。

 

 だが、今のままにしなければいい。

 

 歴史を壊さず。

 

 世界に気づかれず。

 

 それでも、本当に大切な核を逃がす。

 

 眞は球を握った。

 

 影。

 

 狐斎宮。

 

 千代。

 

 笹百合。

 

 帰終。

 

 そして、まだ見ぬ救うべき者たち。

 

 未来に死ぬ者たちなどと、もう呼ばない。

 

 彼らは、未来へ連れていく者たちだ。

 

 眞は夜空を見上げる。

 

 璃月の空には、稲妻とは違う星が広がっているように見えた。

 

 遠く離れた稲妻で、影は今も道を作っているだろうか。

 

 眞が戻るという約束を、覚えているだろうか。

 

 覚えているに決まっている。

 

 影は、そういう子だ。

 

「私は戻る」

 

 小さく呟く。

 

 稲妻へ。

 

 影のもとへ。

 

 けれどその前に。

 

 この璃月で、もう少しだけ見なければならない。

 

 帰終という魔神を。

 

 モラクスという神を。

 

 そして、この国に迫る喪失の形を。

 

 眞は目を閉じた。

 

 胸の奥で雷が静かに鳴る。

 

 それは恐怖ではなかった。

 

 誓いでもあり、始まりでもあった。

 

 死を偽る道。

 

 それはきっと、優しい道ではない。

 

 残酷で、苦しくて、誰かを傷つける。

 

 それでも、完全に失うよりはいい。

 

 そう信じるために。

 

 眞は、まず帰終を救うと決めた。

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