『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第7話 救える命と、救ってはいけない歴史

 

 

 帰離集の朝は、音が多かった。

 

 まだ日が高く昇る前から、槌の音が響いている。

 

 石を削る音。

 

 木材を運ぶ声。

 

 畑へ向かう人々の足音。

 

 子どもたちの笑い声。

 

 稲妻の神域に満ちていた静けさとは違う。

 

 ここには、生活そのものが息づいていた。

 

 眞は宿の窓辺に立ち、その光景を眺めていた。

 

 手の中には、小さな球がある。

 

 帰終から渡された、未完成の記録器。

 

 まだ何も残せない。

 

 まだ名前もない。

 

 ただの匣。

 

 けれど、その中には確かに可能性があった。

 

 世界に沈まない記録。

 

 地脈に飲まれない言葉。

 

 いつか影へ届くかもしれない想い。

 

 そして、もっと先には。

 

 死を偽るための器。

 

「……重いですね」

 

 小さく呟く。

 

 軽いはずの球が、手のひらに沈むようだった。

 

 帰終は言った。

 

 これは、記録を残す器なのか。

 

 想いを閉じる箱なのか。

 

 それとも、死を欺くための棺なのかも分からない、と。

 

 棺。

 

 その言葉が、胸の奥に残っている。

 

 自分が探しているものは、救済の道具などという綺麗なものではない。

 

 誰かに、喪失を信じさせるもの。

 

 残された者へ、本物の傷を残すもの。

 

 影の顔が浮かぶ。

 

 戻ると約束した。

 

 話せることは話すと約束した。

 

 それでも、いつか自分はその約束の上に、もっと大きな嘘を重ねるかもしれない。

 

 死んだことにする。

 

 消えたことにする。

 

 世界にも、稲妻にも、影にも。

 

 そう思うだけで、吐き気がした。

 

 だが。

 

 もし、それで完全な死を避けられるなら。

 

 もし、それで狐斎宮を、千代を、笹百合を、帰終を、未来へ連れていけるなら。

 

 その嘘を選ばずにいられるだろうか。

 

 答えは、まだ出ない。

 

 出せるはずもない。

 

「雷電眞」

 

 背後から声がした。

 

 振り返ると、帰終が扉の外に立っていた。

 

 朝の光を受けて、淡い髪が揺れている。

 

 その手には、いくつかの巻物と、小さな工具のようなものが抱えられていた。

 

「おはよう。眠れた?」

 

「少しだけ」

 

「少しだけ、ね」

 

 帰終は苦笑した。

 

「それは眠れていないと言うのよ」

 

「稲妻でも、似たようなことを言われました」

 

「でしょうね。あなたの周りは、苦労していそう」

 

 軽く言いながら、帰終は部屋へ入ってくる。

 

 遠慮がないわけではない。

 

 ただ、距離の詰め方が自然だった。

 

 相手を警戒させず、自分も無理に踏み込まない。

 

 柔らかい。

 

 だが、鈍くはない。

 

 昨日から、それは何度も感じていた。

 

 帰終は机の上に巻物を広げる。

 

 そこには、いくつもの図面が描かれていた。

 

 球体。

 

 箱。

 

 環。

 

 幾重にも重なる封。

 

 そして、中央に空白。

 

「昨日の匣の案よ」

 

「もう?」

 

「眠れなかったから」

 

「人のことを言えないのでは」

 

「私は考えていたの。あなたは悩んでいた。違うでしょう?」

 

 帰終はそう言って笑った。

 

 返せない。

 

 確かにその通りだった。

 

「この中央の空白は?」

 

「入れるものを決めていないから空けているの」

 

「記録ではなく?」

 

「記録だけとは限らないでしょう」

 

 帰終の指先が、図面の中央をなぞる。

 

「声。記憶。願い。契約。魂の欠片。存在の輪郭。何を入れるかによって、匣の形は変わる」

 

 眞は息を呑む。

 

 魂の欠片。

 

 存在の輪郭。

 

 昨日、自分が口にしたものへ、帰終はもう手を伸ばしている。

 

「危険では」

 

「危険よ」

 

 即答だった。

 

 帰終は笑わなかった。

 

「だから、今日は外へ行きましょう」

 

「外へ?」

 

「帰離集を見てほしいの」

 

 眞は瞬きをした。

 

「匣の話ではなく?」

 

「匣の話をするために、帰離集を見てほしいの」

 

 帰終は巻物を閉じる。

 

「あなたは、死を偽る方法を探している。でも、その前に知るべきことがあるわ」

 

「知るべきこと」

 

「何を失わせるのか」

 

 言葉が、静かに落ちた。

 

 帰終は眞をまっすぐ見ていた。

 

「命を救うことだけを考えるなら、たぶん方法はある。難しいけれど、道はあると思う。けれど、死を偽るということは、その人がいた場所に空白を作るということよ」

 

 眞は答えられなかった。

 

「だから、その空白が何を壊すのか。何を守るのか。それを見ないまま、匣を作ってはいけない」

 

 帰終の声は優しかった。

 

 けれど、甘くはなかった。

 

「行きましょう、雷電眞。私の国を見て」

 

 帰離集は、生きていた。

 

 帰終と共に歩くと、それがよく分かった。

 

 人々は彼女を見つけるたびに声をかける。

 

「帰終様、この水車の調子が」

 

「見せて。ああ、ここの噛み合わせね。油を差すだけでは駄目。歯を少し削って」

 

「帰終様、昨日教えていただいた種の間隔ですが」

 

「広げすぎると土地が余るわ。けれど詰めすぎれば根が弱る。そうね、手のひら一つ分だけ広げてみて」

 

「帰終様! これ、できました!」

 

「あら、上手。昨日よりずっと真っ直ぐ」

 

 帰終は一人ひとりに応える。

 

 神としての威厳を前に出すのではなく、隣に立つように。

 

 導く。

 

 教える。

 

 直す。

 

 褒める。

 

 人々も、ただ崇めるだけではない。

 

 頼り、笑い、相談し、時には自分の考えを言う。

 

 眞は、その光景に胸を締めつけられた。

 

 これが帰終の国。

 

 これが彼女の居場所。

 

 ただモラクスの隣にいる魔神ではない。

 

 彼女自身が、人々の暮らしに深く根を張っている。

 

 もし、帰終がいなくなれば。

 

 この声の行き先が消える。

 

 この相談の相手が消える。

 

 この街の柔らかな知恵が、ぽっかり抜け落ちる。

 

 それでも歴史は進むのだろう。

 

 人々は南へ移り、別の港を築き、モラクスは岩王として立ち続ける。

 

 璃月は残る。

 

 けれど、帰離集は失われる。

 

 帰終のいた時間は、過去になる。

 

「見ている顔が、つらそうね」

 

 帰終が言った。

 

 二人は畑の端に立っていた。

 

 遠くで人々が水路を掘っている。

 

 眞は苦笑した。

 

「分かりますか」

 

「分かるわ。あなた、隠すのが下手だもの」

 

「稲妻では、もう少し上手だったと思うのですが」

 

「それは周りが優しかったのね」

 

 帰終はさらりと言った。

 

 たぶん、半分は本気だ。

 

「ここが、私の守りたいものよ」

 

 帰終は帰離集を見渡した。

 

「未完成で、騒がしくて、すぐ壊れて、直すところばかりで。それでも、皆が明日を作ろうとしている」

 

「……はい」

 

「もし私が消えたら、この場所はどうなると思う?」

 

 心臓が跳ねた。

 

 眞は帰終を見る。

 

 彼女は笑っていなかった。

 

「なぜ、それを」

 

「あなたの目が、私を見るたびにそう言っているから」

 

 風が吹く。

 

 畑の土の匂いがする。

 

 人々の声が遠くから届く。

 

「あなたが救いたい“失われるべきではない者”。それは私でしょう?」

 

 眞の喉が詰まった。

 

 世界が聞いている。

 

 そんな感覚は、まだない。

 

 だが、言葉が形を持ちすぎている。

 

 肯定すれば、何かが定まってしまう気がした。

 

「……はいとは、言えません」

 

 やっと、それだけを答えた。

 

 帰終は小さく頷いた。

 

「でしょうね」

 

「でも」

 

 眞は拳を握る。

 

「違うとも、言えません」

 

 帰終は目を伏せた。

 

 怖がる様子はなかった。

 

 怒る様子もない。

 

 ただ、静かに受け止めている。

 

「そう」

 

 彼女はそれだけ言った。

 

「私は、消えるのね」

 

「その言葉は」

 

「分かっているわ。はっきり言わない方がいいのでしょう?」

 

 帰終は空を見上げる。

 

「でも、輪郭くらいは見える。あなたは、未来の喪失を知っている。モラクスもそれを見抜いた。あなたは私を見て、悲しんでいる。なら、答えは多くない」

 

 眞は何も言えなかった。

 

 帰終は賢い。

 

 優しいだけではない。

 

 その知性が、眞の隠しているものを少しずつ照らしていく。

 

「雷電眞」

 

「はい」

 

「私を救うと、この場所はどうなる?」

 

 その問いは、昨日からずっと眞の中にあった。

 

 帰終が生き残る。

 

 では、その先は?

 

 帰終が表舞台に残れば、帰離集の運命は変わる。

 

 モラクスの選択も変わる。

 

 人々が南へ移る理由も、時期も、意味も変わる。

 

 璃月港は生まれるのか。

 

 岩王帝君は、今と同じ神になるのか。

 

 人の国としての璃月は、同じ道を歩めるのか。

 

 分からない。

 

 分からないが、変わりすぎることだけは分かる。

 

「……大きく、変わります」

 

 眞は答えた。

 

「おそらく、璃月の未来そのものが」

 

「そうでしょうね」

 

 帰終は静かに言った。

 

「私がいることで守れるものもある。けれど、私がいることで生まれないものもある」

 

「そんな言い方は」

 

「事実よ」

 

 帰終の声は穏やかだった。

 

「人は、失って初めて変わることがある。神も同じ。モラクスも、きっとそう」

 

 胸が痛む。

 

 モラクス。

 

 後に鍾離として人の世を歩く神。

 

 契約の神。

 

 璃月を人へ返す神。

 

 その長い歩みの中に、帰終の喪失があるのなら。

 

 彼女を完全に救うことは、その歩みを奪うことになるのかもしれない。

 

「それでも」

 

 眞は声を絞る。

 

「それでも、死んでいい理由にはなりません」

 

 帰終が眞を見る。

 

「誰かの成長のために、誰かが失われていいなんて、私は思いたくない」

 

 影の顔が浮かぶ。

 

 眞の死で、影は変わる。

 

 だが、その変化はあまりに痛ましい。

 

 喪失が人を変えるのは事実だ。

 

 しかし、喪失を肯定する理由にはならない。

 

「私は、未来を大きく壊したくない。でも、あなたを失わせたくもない」

 

 眞は帰終を見た。

 

「わがままです」

 

「そうね」

 

 帰終はあっさり頷いた。

 

「とてもわがまま」

 

「……はい」

 

「でも、嫌いではないわ」

 

 帰終は柔らかく笑った。

 

「神なんて、みんな少しくらいわがままよ。土地を守りたい。民を導きたい。友を失いたくない。そういうわがままに力が伴ってしまうから、世界は時々大きく揺れる」

 

「私は、揺らしたくありません」

 

「だから難しいのね」

 

 帰終は歩き出した。

 

 眞も隣を歩く。

 

「表の歴史を大きく変えない。けれど、本当に失わせない。そのためには、私が“いなくなる”必要がある」

 

 眞は足を止めかけた。

 

 帰終は振り返らない。

 

「帰終」

 

「その名で呼ばれる私は、いつか消える。帰離集の人々からも、モラクスの隣からも、歴史の表からも」

 

「……まだ、決めるには早いです」

 

「もちろん。今すぐ決めるつもりはないわ」

 

 帰終は振り返り、少しだけ悪戯っぽく笑った。

 

「でも、考えることはできるでしょう?」

 

 その笑顔が眩しかった。

 

 強い。

 

 帰終は、柔らかいだけの神ではない。

 

 自分が消える可能性を前にしても、考えようとする。

 

 守るために。

 

 未来を壊さないために。

 

「あなたは、怖くないのですか」

 

 眞は思わず聞いた。

 

「怖いわ」

 

 帰終は即答した。

 

「怖いに決まっているでしょう。私は死にたくないもの」

 

 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。

 

「ここが好き。人々が好き。モラクスと作っているこの未完成な国が好き。まだ試したい発明も、教えたいことも、見たい未来もたくさんある」

 

 帰終は胸に手を当てる。

 

「だから、死にたくない」

 

 眞は息を止めた。

 

 その言葉が、胸に深く刺さった。

 

 死にたくない。

 

 救済対象としてではなく、未来の死者としてではなく、一人の生きている神として、帰終がそう言った。

 

「……はい」

 

「でもね、雷電眞」

 

 帰終の声が静かになる。

 

「生きたいからこそ、ただ残ればいいとは思わない」

 

「ただ残るだけでは」

 

「ええ。私が残ることで、この国が歪むなら。それはきっと、私が愛したものとは違う」

 

 風が、二人の間を通り抜けた。

 

 遠くで、子どもが帰終の名を呼んでいる。

 

 彼女はそちらへ手を振った。

 

 笑顔で。

 

 眞はその横顔を見つめた。

 

 生きたいと言った口で。

 

 残るだけではいけないと言う。

 

 それがどれほど強いことか、分かってしまう。

 

「だから、匣が必要なのですね」

 

 眞は言った。

 

「おそらくね」

 

 帰終は頷く。

 

「命だけではない。名も、役割も、居場所も、表に残すものと裏へ逃がすものを分ける必要がある」

 

「残酷です」

 

「ええ。とても」

 

「帰終は、それでも」

 

「まだ決めていないわ」

 

 帰終はそこで、少しだけ笑った。

 

「でも、逃げずに考えると決めたの」

 

 その日の夕方、眞はモラクスのもとへ呼ばれた。

 

 彼は帰離集を見下ろす高台に立っていた。

 

 夕陽に照らされ、岩の輪郭が金色に染まっている。

 

 帰終の姿はない。

 

 モラクスだけだった。

 

「帰終と話したか」

 

「はい」

 

「察したようだな」

 

「……はい」

 

 隠す意味はなかった。

 

 モラクスは帰終の賢さを知っている。

 

 彼女が気づくことも、予想していたのだろう。

 

「彼女は強い」

 

 モラクスは静かに言った。

 

「ええ」

 

「だが、力の強さではない」

 

「分かります」

 

 眞は帰離集を見下ろした。

 

 小さな灯りが、ひとつ、またひとつと点っていく。

 

「あの人は、自分がいなくなった後のことまで考えられる」

 

「そうだ」

 

「だからこそ、苦しいです」

 

「だろうな」

 

 モラクスの返答は短い。

 

 けれど、冷たくはなかった。

 

「モラクス」

 

「何だ」

 

「もし、帰終を救えるとして」

 

 言葉を選ぶ。

 

 死。

 

 未来。

 

 具体的な結末。

 

 それらを避けて、輪郭だけを伝える。

 

「表の歴史から、彼女が消えなければならないとしたら。あなたは、それを受け入れられますか」

 

 空気が重くなった。

 

 モラクスはすぐには答えなかった。

 

 黄金の瞳が、帰離集を見つめている。

 

 人々の灯り。

 

 帰終が愛した未完成の街。

 

 しばらくして、彼は口を開いた。

 

「受け入れる、という言葉は軽い」

 

「……はい」

 

「失えば痛む。偽りであっても、失ったと認識するなら痛みは本物だ」

 

 眞の胸が軋む。

 

「それでも、完全に失うよりはよいのか」

 

 モラクスは問いを返すように言った。

 

「それは、まだ分からん」

 

 眞は彼を見る。

 

「分からない、と言うのですね」

 

「神とて、すべてを知るわけではない」

 

 モラクスの声は静かだった。

 

「私は契約の神だ。結ばれたもの、交わされたもの、背負うべき代償を重んじる。だが、まだ結ばれていない未来の痛みまでは測れん」

 

「では」

 

「だから、今は急がない」

 

 モラクスは眞を見た。

 

「帰終が言ったはずだ。名を与えれば役割が定まる。契約も同じだ。早すぎる契約は、可能性を縛る」

 

 眞は頷いた。

 

 急ぎたい。

 

 早く救う方法を作りたい。

 

 しかし、焦ってはいけない。

 

 焦れば、救済が呪いになる。

 

「雷電眞」

 

「はい」

 

「君は、帰終を救いたいのか」

 

「はい」

 

 今度は、迷わなかった。

 

 世界が聞いている気配はない。

 

 救いたい。

 

 その願いだけなら、言ってもいい。

 

「璃月の歴史を壊したいわけではありません。でも、帰終を救いたい」

 

「なら、その二つを両立させる道を探せ」

 

「はい」

 

「ただし、忘れるな」

 

 モラクスの声が、少しだけ低くなる。

 

「誰かを救うための嘘は、必ず誰かに傷を残す。その傷を軽んじる者に、死を偽る資格はない」

 

 影。

 

 また、真っ先に浮かんだ。

 

 眞は深く息を吸った。

 

「忘れません」

 

「本当にか」

 

「忘れそうになったら、影が止めてくれます」

 

 口にしてから、少しだけ驚いた。

 

 自然にそう言えた。

 

 影は稲妻にいる。

 

 ここにはいない。

 

 それでも、眞の中ではもう、影が自分を止める存在になっている。

 

 モラクスはわずかに目を細めた。

 

「良い半身を持ったな」

 

「はい」

 

 眞は静かに頷いた。

 

「私には、もったいないほど」

 

 その夜、三柱は再び集まった。

 

 机の上には、帰終の図面が広がっている。

 

 昨日より線が増えていた。

 

 中央の空白は、そのまま残っている。

 

 帰終はそこを指差した。

 

「この匣に、何を入れるかはまだ決めない」

 

「はい」

 

「でも、目的は少し見えたわ」

 

 帰終は眞を見る。

 

「これは、死を否定するためのものではない。死の形を変えるためのもの」

 

 モラクスが続ける。

 

「表には喪失を残す。だが、核を逃がす」

 

「その核が魂なのか、記憶なのか、存在の輪郭なのかは、これから確かめる必要があるわ」

 

 帰終は図面の端に、細い線を書き足す。

 

「ただ、一つ条件がある」

 

「条件?」

 

「本人の同意」

 

 眞は瞬きをした。

 

 帰終は真剣な目で言う。

 

「勝手に救ってはいけない。命を残すことも、名を隠すことも、居場所を奪うことも、その人の人生を変える。たとえ死を避けるためでも、本人の意思を無視したら、それは救いではなく保存よ」

 

 眞の胸に、深く刺さった。

 

 本人の同意。

 

 当たり前のこと。

 

 けれど、未来を知る者は忘れやすい。

 

 救えるから救う。

 

 死ぬはずだから助ける。

 

 その考えは、簡単に相手の選択を奪う。

 

「……はい」

 

「あなたは優しい。でも、未来を知っている分、危うい」

 

 帰終は言った。

 

「相手がまだ知らない痛みを、あなたはもう知っている。だから先回りできる。でも、先回りしすぎると、その人が選ぶ時間まで奪ってしまう」

 

 影のことを言われているようだった。

 

 狐斎宮。

 

 千代。

 

 笹百合。

 

 帰終。

 

 これから救おうとする全員に当てはまる。

 

「私は、奪いたくありません」

 

「なら、覚えておいて」

 

 帰終は柔らかく微笑んだ。

 

「救うなら、選ばせること」

 

 眞は深く頷いた。

 

「覚えます」

 

 モラクスは図面を見下ろす。

 

「では、最初の方針を定める」

 

 空気が引き締まった。

 

「匣は、地脈に沈めない。名を与えない。本人の同意なく用いない。表の歴史を大きく変えぬため、使用時には契約を伴う」

 

 帰終が頷く。

 

「そして、匣に入れるものは、これから実験する」

 

「実験台は?」

 

 眞が尋ねると、帰終は小さく笑った。

 

「まずは私の失敗作たちね」

 

「失敗作」

 

「記録具、塵の人形、壊れた機巧。魂を入れる前に、記憶や命令がどれだけ形を保てるか見ないと」

 

 少しだけ帰終らしい明るさが戻る。

 

 眞はほっとした。

 

 重い話ばかりでは、この人らしさまで消えてしまう気がしていたから。

 

「それと、雷電眞」

 

「はい」

 

「あなたにも手伝ってもらうわ。雷の遮断が必要だから」

 

「もちろんです」

 

「あと、稲妻の話も聞かせて」

 

「稲妻の?」

 

「あなたが守りたいものを知らないと、匣の形が見えないもの」

 

 眞は少し考え、頷いた。

 

「では、影の話を」

 

 帰終の目が柔らかくなる。

 

「大切な人?」

 

「はい」

 

 今度は、迷わず言えた。

 

「私の妹です」

 

 その夜、眞は影のことを話した。

 

 全部ではない。

 

 未来の悲劇も、死も、永遠も、具体的なことは口にしない。

 

 ただ、今の影を話した。

 

 不器用なこと。

 

 真っ直ぐなこと。

 

 剣しかないと言いながら、本当はよく周りを見ていること。

 

 褒めると困ること。

 

 茶を淹れ直してくれること。

 

 退く訓練に戸惑いながらも、覚えようとしてくれたこと。

 

 帰終は楽しそうに聞いていた。

 

 モラクスも黙っていたが、時折目元が少し和らいだ。

 

「いい妹ね」

 

 帰終が言う。

 

「はい」

 

 眞は頷いた。

 

「だから、置いていきたくありません」

 

 言ってから、胸が痛んだ。

 

 置いていきたくない。

 

 でも、いつか置いていく形を選ぶかもしれない。

 

 帰終は、その痛みに気づいたようだった。

 

「なら、戻る道も作りましょう」

 

「戻る道」

 

「ええ」

 

 帰終は中央の空白を指した。

 

「匣は、隠すだけでは駄目。いつか開くためのものにしなければ」

 

 その言葉が、部屋に静かに響いた。

 

 隠すだけではない。

 

 戻るための匣。

 

 喪失を信じさせるだけではない。

 

 再び届くための器。

 

 眞は手のひらを握った。

 

 そうだ。

 

 自分が作りたいのは、棺ではない。

 

 棺の形をした、帰り道だ。

 

 翌朝。

 

 眞は帰離集を発つ準備を始めた。

 

 まだ璃月でやるべきことはある。

 

 けれど、稲妻へ戻る約束もある。

 

 一度帰り、影に話せることを話さなければならない。

 

 港へ向かう前、帰終が小さな包みを渡してきた。

 

 中には、あの未完成の球と、折りたたまれた小さな図面が入っていた。

 

「持っていて」

 

「よいのですか」

 

「ええ。あなたが持っていた方が、雷の力に馴染むかもしれない」

 

 帰終は少しだけ笑う。

 

「ただし、無理に使わないこと。まだ匣ですらない、ただの可能性だから」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

 帰終は眞を見た。

 

「私のこと、勝手に救わないでね」

 

 眞は息を止めた。

 

 帰終は笑っていた。

 

 でも、その目は真剣だった。

 

「救うなら、私にも選ばせて」

 

 眞は深く頷く。

 

「約束します」

 

「よろしい」

 

 帰終は満足げに頷いた。

 

 モラクスは少し離れたところに立っていた。

 

「稲妻へ戻るのか」

 

「はい。約束があります」

 

「なら、守るといい」

 

「ええ」

 

「次に来る時は、より重い話になるだろう」

 

「分かっています」

 

「ならば、軽い約束はするな」

 

 眞は頷いた。

 

「はい」

 

 帰終が横から口を挟む。

 

「でも、また来る約束くらいはしてほしいわ」

 

 モラクスが彼女を見る。

 

「それは軽い約束ではない」

 

「あら、そう?」

 

「そうだ」

 

 帰終は少しだけ目を丸くし、それから笑った。

 

 眞も笑った。

 

 この二人のやり取りを見ていると、胸が痛くなる。

 

 けれど、痛みだけではない。

 

 守りたいと思う。

 

 未来へ繋ぎたいと思う。

 

「また来ます」

 

 眞は言った。

 

 今度は、はっきりと。

 

「必ず」

 

 帰終は微笑んだ。

 

「待っているわ」

 

 船が璃月を離れる。

 

 帰離集の灯りが遠ざかっていく。

 

 眞は甲板に立ち、包みを胸に抱いた。

 

 未完成の球。

 

 図面。

 

 名もない匣の始まり。

 

 そして、帰終との約束。

 

 勝手に救わない。

 

 救うなら、選ばせる。

 

 それは眞にとって、重い楔になった。

 

 未来を知っているからといって、相手の人生を自分のもののように扱ってはいけない。

 

 どれだけ救いたくても。

 

 どれだけ失いたくなくても。

 

 選ぶのは、その人自身だ。

 

 影にも、同じだ。

 

 自分の嘘で傷つけるなら。

 

 その前に、話せることを話す。

 

 選べるものは選ばせる。

 

 止める役を、ちゃんと渡す。

 

 稲妻の影が、海の向こうに近づいてくる。

 

 眞は胸の奥の雷を感じた。

 

 戻る。

 

 影のもとへ。

 

 そして話す。

 

 全部ではない。

 

 それでも、今よりもう少し。

 

 死を偽る道は、残酷だ。

 

 けれど、棺で終わらせない。

 

 いつか開く匣にする。

 

 戻るための嘘にする。

 

 そのために、まずは影へ。

 

 眞は海風の中で、静かに目を閉じた。

 

 帰終を救う道は見え始めた。

 

 だが、それは同時に。

 

 影を傷つける未来の輪郭でもあった。

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