『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』 作:悲劇のキャラに救済を
稲妻の海が見えた。
紫を帯びた雲。
濡れた風。
遠くに霞む島影。
璃月の岩山とは違う、雷の気配を含んだ空。
それを見た瞬間、眞はようやく息を吐いた。
帰ってきた。
そう思った。
ほんの数日離れただけだ。
それなのに、胸の奥がひどく落ち着かなかった。
璃月で見たものが、まだ身体に残っている。
帰離集の灯り。
モラクスの黄金の瞳。
帰終の笑み。
名もない匣。
死を偽るという言葉。
そして、帰終が言った一言。
――私のこと、勝手に救わないでね。
その言葉は、ずっと胸に刺さっていた。
救うなら、選ばせる。
当たり前のことのはずだった。
けれど、未来を知る自分には、その当たり前がひどく難しい。
死ぬと知っている。
失うと知っている。
だから先に手を伸ばしたくなる。
相手がまだ知らない痛みを、相手より先に奪い取りたくなる。
だが、それは救いではない。
勝手に命を保管することと、救うことは違う。
その違いを、帰終は眞に突きつけた。
船が港へ近づく。
桟橋に、人影があった。
紫の髪。
静かな立ち姿。
遠くからでも分かる。
影だ。
眞は思わず、胸元の包みを握った。
約束した。
戻ると。
話せることを話すと。
何も残さず消える姉にはならないと。
だから、戻ってきた。
船が岸に着く。
板が渡される前に、影が一歩前へ出た。
その顔に大きな変化はない。
けれど、眞には分かった。
待っていた顔だ。
ただ立っていただけではない。
ずっと気配を張り、海の向こうを見ていた顔だった。
「眞」
「影」
名前を呼ぶ。
たったそれだけで、胸が詰まった。
影は眞を上から下まで見る。
「怪我は」
「ありません」
「無茶は」
「……少しはしました」
影の目が細くなる。
「眞」
「でも、約束は守りました。戻りました」
影は何かを言いかけて、飲み込んだ。
怒りたいのだろう。
問い詰めたいのだろう。
けれど、まずは戻ったことを受け止めてくれている。
それが分かって、眞は少しだけ笑った。
「ただいま、影」
影の表情が、ほんのわずかに揺れた。
「……おかえりなさい、眞」
その一言だけで、海を越えた疲れが少し溶けた。
港には、狐斎宮と千代、笹百合もいた。
狐斎宮は扇で口元を隠しながら、いつものように笑っている。
「眞様、おかえりなさいませ。璃月の油揚げは見つかりましたか?」
「まず聞くことがそれですか」
「重要です」
千代が豪快に笑う。
「無事ならよし。強い奴はいたか?」
「いました」
「ほう」
「でも、あなたを呼ぶような相手ではありません」
「なぜだ」
「話し合いに行ったので」
千代はつまらなさそうに腕を組んだ。
「岩の神と殴り合う機会など、そうそうないだろうに」
「作らなくていい機会です」
笹百合は静かに頭を下げた。
「避難路の整備は進めています。影様の指示で、退却合図も各部隊に試験導入しました」
眞は影を見る。
影は視線を逸らさなかった。
「進めてくれたのですね」
「眞が任せたので」
「ありがとう」
「礼は後でいいです」
影の声は静かだった。
「まず、話を」
眞は頷いた。
「はい」
その夜、眞は影を私室へ招いた。
他の者は入れなかった。
狐斎宮には、後で話すとだけ伝えた。
彼女は何も聞かず、ただ一言だけ残した。
「影様に話す時は、嘘を少なめに」
眞は苦笑した。
痛いところを突かれた。
部屋には、灯りが一つ。
机の上には、璃月から持ち帰った包み。
影は正面に座り、静かにそれを見ていた。
「それが、璃月で得たものですか」
「ええ」
眞は包みを開いた。
中から、小さな球が現れる。
淡い塵が、内側でゆっくりと渦を巻いている。
まだ名を持たない。
まだ役割も定まっていない。
ただの可能性。
匣の始まり。
影はそれを見つめた。
「これは」
「記録を、世界に沈めず残すための器です」
「地脈に触れない?」
「そのためのものです。まだ未完成ですが」
影は目を細める。
「誰が作ったのですか」
「璃月の塵の魔神。帰終」
「塵の魔神」
「ええ。そして、岩の神モラクスも関わっています」
影はしばらく黙っていた。
帰終。
モラクス。
その名の重みを測っているのだろう。
「眞が会いたいと言っていた者ですね」
「はい」
「その者も、眞が恐れている未来に関わる」
「……はい」
影の指が、膝の上でわずかに動いた。
問い詰めたい。
けれど、待っている。
それが分かる。
眞は息を整えた。
ここでまた逃げてはいけない。
全部は話せない。
だが、話せることはある。
「影」
「はい」
「私は、死を避ける方法を探していました」
影の目が鋭くなる。
「眞の?」
「私だけではありません」
「なら、誰の」
「失いたくない人たちの」
影はすぐに言葉を返さなかった。
その沈黙が痛い。
眞は続ける。
「けれど、璃月で分かりました。ただ命を残せばいいわけではないと」
「どういうことです」
「誰かが生き残ることで、変わりすぎる未来があります。誰かがいることで生まれない道があります。死を消せば、別のどこかに傷が生まれるかもしれない」
「だから、死を受け入れるのですか」
影の声が低くなった。
「違います」
眞は即座に言った。
「死を肯定するつもりはありません。誰かの成長のために、誰かが失われていいとは思わない」
影の目が、少しだけ揺れる。
「でも、死をただ否定することもできない。世界が認識する喪失を、完全に消せば、別の形で歪みが出る」
眞は机の上の匣へ手を添えた。
「だから、探しているのです。表には喪失を残しながら、本当に大切な核だけを逃がす方法を」
影はその言葉を飲み込むように黙った。
やがて、低く問う。
「それは、死を偽るということですか」
眞は目を閉じかけた。
影は、そこまで辿り着いた。
なら、もう逃げられない。
「はい」
影の気配が硬くなる。
部屋の空気が、わずかに重くなった。
「眞は、それを使うつもりなのですか」
「誰かを完全に失わないために、必要なら」
「誰か、ではなく」
影の声が、わずかに震えた。
「眞自身に」
眞は答えられなかった。
その沈黙が、答えだった。
影は立ち上がらなかった。
声を荒げることもしなかった。
ただ、静かに息を吸った。
その静けさが、怒りよりも怖かった。
「眞」
「はい」
「私は、その話が嫌いです」
「……はい」
「眞が消えるかもしれない話も。眞が死を偽るかもしれない話も。私を残して、世界に嘘をつく話も。全部、嫌いです」
まっすぐな言葉だった。
眞は受け止めるしかなかった。
「はい」
「それでも、話してくれていることは分かります」
影は机の上の匣を見る。
「以前の眞なら、きっともっと綺麗に隠した」
胸が痛む。
「今の眞は、隠すのが下手です」
「……よく言われます」
「でも、下手なまま話している」
影は眞を見る。
「だから、聞きます」
その言葉に、眞の胸が熱くなった。
影は怒っている。
納得していない。
それでも、聞くと言ってくれている。
「ありがとう、影」
「礼はいりません」
「言わせてください」
「……今だけです」
眞は小さく笑った。
その笑みは、少しだけ震えていた。
「璃月で、帰終に言われました」
「何を」
「勝手に救わないで、と」
影の眉が動く。
「勝手に」
「ええ。救うなら、本人にも選ばせてほしいと」
眞は影を見た。
「私は、その言葉を忘れてはいけないと思っています」
影は黙っていた。
「未来を知っていると、先に手を伸ばしたくなる。相手が知らないまま、その人の運命を変えたくなる。けれど、それは相手の選択を奪うことかもしれない」
「……眞は」
影がゆっくり口を開く。
「私にも、選ばせるつもりですか」
「はい」
「眞が消えるかもしれない未来を?」
「できる限り」
「できる限り」
影はその言葉を繰り返した。
少しだけ刺のある声だった。
「すべては話せないから?」
「はい」
「世界に刻まれるから?」
「はい」
「なら、私は全部を選べない」
眞は息を呑んだ。
その通りだった。
影に選ばせる。
そう言いながら、全部は渡せない。
それは不完全な選択だ。
都合のいい誠実さかもしれない。
「……そうです」
眞は逃げなかった。
「私は、あなたに完全な選択肢を渡せない」
影の瞳が揺れる。
「それでも、何も渡さないよりはいいと思っています。私の都合かもしれません。あなたを傷つけるかもしれません。それでも、私はあなたに何も知らせず置いていく姉にはなりたくない」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
灯りが揺れる。
匣の中の塵が、淡く光る。
影は長く黙っていた。
そして、静かに言った。
「眞は、ずるい」
その言葉に、胸が刺された。
「はい」
「怖いと言う。信じていると言う。選ばせると言う。でも、全部は渡せないと言う」
「はい」
「それでは、私は怒りきれません」
眞は顔を上げた。
影は悔しそうな顔をしていた。
こんな影の表情を、初めて見た気がした。
「怒っていいのですよ」
「怒っています」
「はい」
「でも、眞が私を軽んじていないことも分かります」
影は匣へ視線を落とす。
「だから、余計に腹が立つ」
眞は小さく息を吐いた。
泣きたいような、笑いたいような気持ちだった。
影は怒ってくれている。
眞が消える話を嫌だと言ってくれている。
それでも、眞の言葉を聞こうとしてくれている。
「影」
「何ですか」
「私は、あなたに止めてほしい」
影の目が鋭くなる。
「死を偽ることを?」
「それも含めて」
眞は頷いた。
「私が、誰かを勝手に救おうとしたら。相手の選択を奪いそうになったら。嘘の傷を軽く見そうになったら。止めてください」
「私に、眞を止めろと」
「はい」
「何度も言いますが、私は眞を守りたい」
「だからです」
眞は影を見つめた。
「私を守るというのは、私の命だけを守ることではありません。私が間違えないように止めることも、私を守ることです」
影は唇を引き結んだ。
きっと、まだ納得していない。
それでも。
以前なら即座に否定しただろう言葉を、今の影は考えてくれている。
「……分かろうとします」
やがて影は言った。
「まだ、分かるとは言えません」
「それでいいです」
「でも、眞がその匣を棺にしようとするなら」
影の声が、少しだけ強くなる。
「私は止めます」
眞は目を見開いた。
影は匣を見ていた。
「隠すためだけのものなら、壊します。眞が戻らないためのものなら、斬ります」
その言葉が、胸に響いた。
「……影」
「戻るためのものにしてください」
影は眞を見た。
「眞が言ったのでしょう。何も残さず消える姉にはならないと」
「はい」
「なら、死を偽るとしても、戻る道を残してください」
眞は息を吸った。
帰終と同じことを、影も言った。
棺で終わらせない。
隠すだけにしない。
いつか開くための匣にする。
戻るための嘘にする。
胸の奥で、雷が静かに鳴る。
「約束します」
眞は言った。
「この匣は、棺では終わらせません」
「約束です」
「はい。約束です」
影はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、すぐに問い直す。
「それで、眞は何をするつもりですか」
「まずは、匣を完成させるための条件を探します」
「稲妻で?」
「稲妻と璃月で」
「また行くのですか」
「はい」
影の眉が寄る。
眞はすぐに続けた。
「でも、今回は何も言わずに行きません。行く理由も、戻る時期も、話せる範囲で共有します」
「私も行く」
「影」
「言うと思ったでしょう」
「思いました」
影は少しだけ不満そうにする。
「では、答えも同じですか」
「今回は、稲妻に残ってほしい」
「理由は」
「この道を、あなたに育ててほしいから」
眞は机の横に置いた稲妻の地図を広げた。
避難路。
結界。
退却合図。
守る者が生き残るための仕組み。
影が進めてくれたもの。
「これは、私だけの備えではありません。あなたが見て、あなたが直し、あなたが動かして初めて意味があります」
影は地図を見る。
その目が、静かに揺れた。
「眞は、私を稲妻に残したいのですか」
「残したいのではありません」
眞は首を振る。
「あなたに、稲妻を見ていてほしいのです」
「眞の代わりに」
「いいえ」
この言葉は、もう何度も言った。
けれど、何度でも言う。
「あなた自身として」
影は地図を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「分かりました」
「ありがとう」
「ただし、次に璃月へ行く時は、私に詳細を残してください」
「もちろん」
「それと、帰ってきたら必ず報告を」
「はい」
「怪我をしたら隠さない」
「……はい」
「無茶をしたら言う」
「それは自白制ですか」
「はい」
即答だった。
眞は思わず笑ってしまった。
影は真面目な顔のままだ。
けれど、先ほどまでの硬さは少し和らいでいた。
「分かりました。無茶をしたら、できるだけ言います」
「できるだけ?」
「必ず言います」
「よろしい」
影は小さく頷いた。
その様子が少しだけ可愛くて、眞はまた笑いそうになった。
けれど、笑わなかった。
今は、もう一つだけ伝えることがある。
「影」
「はい」
「私は、あなたへ残す言葉を作りたい」
影の目がこちらを向く。
「言葉?」
「はい。この匣が完成したら、いつかあなたへ届く言葉を入れたい」
「今、言えばいい」
「今言えることは、今言います」
眞は静かに答えた。
「でも、今は言えないこともある。未来の私でなければ言えないこともある。だから、それを残す方法を作りたい」
「私が、それを読む時は」
影の声が低くなる。
「眞がそばにいない時ですか」
眞は答えに迷った。
迷ったが、嘘はつかなかった。
「おそらく」
影は目を伏せた。
「嫌です」
「はい」
「それでも、何もないよりはいい」
その言葉に、眞は胸が詰まる。
「……はい」
「なら、作ってください」
影は言った。
「ただし、私が読む前に、眞が直接戻ってくる方が先です」
眞は笑った。
今度は、自然に。
「ええ。そうします」
その夜、眞は初めて“契約”を書いた。
璃月の正式な契約ではない。
岩の神の前で交わすものでもない。
だが、自分の心を縛るための約束だった。
紙に具体的な未来は書かない。
名前も、死も、時も書かない。
ただ、原則だけを書く。
一つ。
匣は、地脈に沈めない。
一つ。
匣は、本人の同意なく用いない。
一つ。
喪失を信じる者の傷を、軽んじない。
一つ。
隠すためだけに閉じない。
一つ。
必ず、開く道を残す。
眞は筆を止めた。
墨は沈まなかった。
地脈も反応しない。
これは未来の記録ではない。
眞自身への戒めだ。
それなら、世界は聞かない。
影は隣で、それを見ていた。
「これが、契約ですか」
「まだ契約とは呼べないかもしれません」
「でも、眞は守るのでしょう」
「はい」
「なら、私にとっては契約です」
影はそう言って、筆を取った。
眞は驚く。
「影?」
「私も書きます」
「何を」
「眞を止める条件を」
影は少し考え、紙の下に短く書いた。
――眞が戻る道を捨てるなら、私はそれを斬る。
力強い字だった。
まっすぐで、迷いがない。
眞はその文字を見つめ、胸の奥が震えた。
「……厳しいですね」
「当然です」
「でも、助かります」
「助けるために書きました」
影は筆を置く。
「眞」
「はい」
「これは、私と眞の契約です」
眞は小さく頷いた。
「はい」
「世界に向けたものではありません」
「ええ」
「私たちのものです」
その言葉が、深く胸に落ちた。
世界に嘘をつくかもしれない。
歴史に喪失を信じさせるかもしれない。
それでも、この契約だけは世界のものではない。
眞と影の間にあるものだ。
嘘に混ぜてはいけない、たった一つの芯。
眞は紙へ手を置いた。
影も、同じように手を置く。
二つの手。
雷神と、その影。
姉と、妹。
まだ失われていない一瞬。
「影」
「はい」
「私は、死にません」
影の目が揺れた。
「死んだことにする日が来るかもしれません。でも、本当に死ぬつもりはありません」
「……はい」
「戻る道を作ります」
「はい」
「あなたのもとへ、戻ります」
影は一度、目を閉じた。
そして、静かに頷く。
「なら、私は待つだけではいません」
眞は息を止めた。
「眞が戻る道を作るなら、私はその道を残します。稲妻を閉じず、道を潰さず、眞が戻れる場所を守ります」
その言葉は、眞が求めていたものだった。
ただ待つ影ではない。
ただ失う影ではない。
自分の足で稲妻を見て、自分の意思で道を守る影。
その芽が、今ここにあった。
「ありがとう、影」
「何度でも受け取ると言いました」
「では、何度でも言います」
「……好きにしてください」
影は少しだけ視線を逸らした。
その耳元が、ほんのわずかに赤い気がした。
眞は気づかないふりをした。
その後、狐斎宮にも匣の話をした。
もちろん、すべてではない。
けれど、穢れを一人に背負わせないための器。
地脈に沈めない記録。
いつか誰かを救うかもしれない道。
そこまでは話した。
狐斎宮は扇を閉じ、長い時間黙っていた。
「眞様」
「はい」
「その匣、狐に預けるには少し重すぎますね」
「預けるつもりはまだありません」
「まだ?」
狐斎宮が笑う。
「いずれ、わらわにも役目が来るのでしょう」
「……来るかもしれません」
「では、その時は相談してください」
狐斎宮は眞を見る。
「勝手に背負われると、狐は拗ねます」
「気をつけます」
「本当に?」
「本当に」
「影様にも同じことを言われていそうですね」
「言われました」
狐斎宮は楽しそうに笑った。
けれど、その笑みの奥には、確かな覚悟があった。
「なら、わらわも一つだけ」
「何でしょう」
「穢れを一人に背負わせないと言ったのは、眞様です」
「はい」
「眞様ご自身も、その“一人”に含めてくださいね」
眞は言葉に詰まった。
狐斎宮はやはり鋭い。
眞が他者を救うことばかり考えて、自分を外しがちなことに気づいている。
「……はい」
「よろしい」
狐斎宮は満足そうに頷いた。
千代には、もっと簡単に伝えた。
死なないための道を作っている。
戦って守るだけではなく、生き残って支える道を増やしたい。
そう言うと、千代は腕を組んで笑った。
「つまり、しぶとく生きろということだな」
「かなり大雑把ですが、間違ってはいません」
「分かった。なら、しぶとく生きる」
あっさりと。
眞が拍子抜けするほど、あっさりと千代は受け入れた。
「それでいいのですか」
「眞がそう言うならな」
「疑わないのですか」
「疑う必要があるなら、影や狐が疑うだろう。わたしは、必要な時に動けばいい」
千代は豪快だ。
けれど、無神経ではない。
自分の役割を分かっている。
「ただし」
「はい」
「一人で死地に行くなよ、眞」
その言葉に、眞は目を見開いた。
千代は笑っている。
でも、目は真剣だった。
「そういう顔をしている時がある」
「……気をつけます」
「気をつけるでは足りん」
「では、約束します」
「よし」
千代は満足そうに頷いた。
笹百合には、退却命令と生還の契約を改めて確認した。
彼は何も茶化さず、深く頭を下げた。
「生きて帰ること。それを任務として受け取ります」
「お願いします」
「眞様も」
笹百合が静かに言った。
「我々に命じたことを、どうかご自身にも」
まただ。
皆が、眞自身を約束の中へ引き戻してくる。
影が。
狐斎宮が。
千代が。
笹百合が。
眞が一人で背負おうとするたび、その背中を掴んでくれる。
それが嬉しかった。
そして、怖かった。
この人たちを失いたくないという思いが、どんどん強くなる。
その思いが強くなればなるほど、いつかつく嘘も大きくなる。
それでも、もう引き返せなかった。
数日後。
稲妻の神域には、新しい決まりが生まれた。
戦時の退避路。
守備隊の交代規則。
殿を一人にしない命令。
穢れを分散するための神職と妖の連携。
神櫻周辺の避難結界。
どれも、まだ小さい。
まだ形だけのものも多い。
けれど、確かに始まった。
稲妻は少しずつ、生き残るための道を持ち始めていた。
夜。
眞は一人、神櫻の近くに立っていた。
まだ未来の記憶で知る姿とは違う。
けれど、そこには確かに神聖な気配があった。
時間。
記憶。
穢れ。
願い。
いくつものものが絡み合う場所。
眞は胸元から、名もない匣を取り出す。
淡い塵が、内側で静かに揺れている。
「あなたは、棺ではありません」
小さく呟く。
「いつか、帰るための道になる」
匣は答えない。
ただ、淡く光るだけ。
眞は目を閉じた。
璃月で帰終が笑っている。
モラクスが静かに見ている。
稲妻で影が地図を見つめている。
狐斎宮が扇を揺らしている。
千代が笑っている。
笹百合が頭を下げている。
皆、生きている。
まだ生きている。
だから、未来はまだ決まっていない。
死を偽る契約。
それは、世界を欺くためのものではない。
本当に失わせないための、苦い約束だ。
眞は匣を胸に抱いた。
死なない。
死んだことにしても、戻る。
誰かを救う時は、選ばせる。
傷を軽んじない。
嘘を、棺で終わらせない。
そのすべてを、自分の雷に刻む。
遠くで足音がした。
振り返らなくても分かる。
影だ。
「眞」
「影」
「ここにいると思いました」
「よく分かりましたね」
「分かります」
短い返事。
それだけで、なぜか心が落ち着いた。
影は隣に立つ。
二人で、神櫻を見上げた。
「眞」
「はい」
「その匣が完成したら、最初に私に見せてください」
「ええ」
「それから」
影は少しだけ間を置いた。
「私が止めるべき時も、教えてください」
「教えられる範囲で」
「また、それですか」
「はい」
「……分かりました。なら、教えられない時は、私が勝手に見つけます」
眞は思わず笑った。
「頼もしいですね」
「眞が隠すからです」
「そうですね」
影は眞を見た。
「でも、今の眞は、隠しても戻ってきます」
その言葉に、眞の胸が温かくなる。
「はい」
「なら、私はそこを信じます」
眞は、すぐには答えられなかった。
信じる。
影がそう言ってくれたことが、あまりにも重かった。
「ありがとう、影」
「何度でも受け取ります」
影は、少しだけ得意そうに言った。
眞は今度こそ笑った。
夜風が吹いた。
神櫻の枝が、静かに揺れる。
この木がいつか、過去と未来を繋ぐ場所になることを、眞は知っている。
その時、自分はここにいるのか。
影の隣に立っていられるのか。
それはまだ分からない。
けれど、決めたことがある。
死ぬ未来を、ただ拒むのではない。
死んだことにしてでも、戻る道を作る。
嘘をつくのなら、棺ではなく、帰り道にする。
隣で、影が静かに神櫻を見上げていた。
眞はその横顔を見つめる。
この子を、ひとりにはしない。
たとえ世界に嘘をついても。
この約束だけは、嘘にしない。