『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』   作:悲劇のキャラに救済を

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第9話 世界に残せない名

 

 

 稲妻の朝は、少しずつ変わり始めていた。

 

 神域へ続く道には、新しい石が敷かれている。海辺の村から山へ抜ける細道は、荷車が通れるほど広げられた。影向山の霊地近くには、神職と妖が共に使う小さな結界場が作られつつある。

 

 まだ、誰もそれを“災厄への備え”とは呼ばない。

 

 表向きは、祭礼の道。巡礼の安全を守るための整備。海辺の魔物被害に備えた防災。そういう名目だった。

 

 嘘ではない。

 

 けれど、すべてでもない。

 

 眞はその道を歩きながら、胸の奥にある重さを感じていた。少しずつ、嘘が形になっている。人を守るための嘘。未来を変えるための嘘。そして、いつか自分自身が使うかもしれない嘘。

 

 それでも、今はその道を止めるわけにはいかなかった。

 

「眞」

 

 隣を歩く影が、静かに声をかける。

 

「足元」

 

「あ」

 

 眞は立ち止まった。

 

 あと半歩で、敷かれたばかりの石の隙間に足を取られるところだった。影が小さく息を吐く。

 

「考え事をしながら歩かないでください」

 

「すみません」

 

「眞は最近、謝ることが増えました」

 

「それだけ助けられているということです」

 

「そういう言い方をすると、怒りにくい」

 

 影は少し不満そうに言った。

 

 その声に、眞は小さく笑う。

 

 以前より、影は言葉を返してくれるようになった。ただ黙って従うのではなく、不満も疑問も口にする。それが嬉しかった。

 

 影自身は、たぶん気づいていない。

 

 けれど、眞には分かる。

 

 少しずつ、影は“眞の影”だけではなくなっている。自分の目で見て、自分の言葉で問い、自分の判断で、眞を止めようとしてくれる。その変化は小さい。

 

 けれど、確かだった。

 

「眞」

 

「はい」

 

「匣の調子は」

 

 眞は胸元へ手を当てた。

 

 小さな布包みの中に、璃月から持ち帰った未完成の球が入っている。淡い塵の器。帰終が作り、モラクスが契約の目で見た、まだ名もない匣。

 

「まだ、安定しません」

 

「雷を通しても?」

 

「通すだけならできます。けれど、中に入れたものを“世界に沈めない”ところまでは不確かです」

 

「地脈が反応するのですか」

 

「地脈は避けられています」

 

 眞は少しだけ眉を寄せた。

 

「でも、別の何かに触れそうになる」

 

「別の何か」

 

「世界の、もっと深い記録」

 

 影は黙った。

 

 眞も、それ以上はすぐに言えなかった。

 

 地脈ではない。けれど、記録に関わるもの。帰終の匣は、言葉や記憶を地脈へ沈めず閉じ込めることができるかもしれない。

 

 だが、実験を重ねるうちに分かってきた。

 

 記録は地脈だけにあるわけではない。もっと大きな根。世界そのものが、何かを覚えている。

 

 名を残す。

 

 存在を記す。

 

 起きたことを繋ぐ。

 

 そんな巨大な仕組みが、どこかにある。

 

 それに触れないまま、死を偽ることはできない。

 

「だから、また出るのですね」

 

 影が言った。

 

 眞は足を止める。

 

「分かりますか」

 

「分かります」

 

 影は前を向いたまま答えた。

 

「眞が最近、東ではなく西の空を見るようになった」

 

「……よく見ていますね」

 

「見ると決めたので」

 

 その一言に、眞の胸が少し熱くなる。

 

 見ると決めた。

 

 守るために。

 

 止めるために。

 

 信じるために。

 

 影は、本当に変わり始めている。

 

「行き先は」

 

「璃月を経由して、その先へ」

 

「その先」

 

「草木と知恵の国。世界の記録に近い神がいると聞きました」

 

 影の目が少し細くなる。

 

「その神も、眞の恐れている未来に関わるのですか」

 

 眞はすぐには答えなかった。

 

 大慈樹王。

 

 前草神。

 

 世界樹を守り、やがて禁忌知識に蝕まれ、自らの存在を世界から消す神。

 

 名前を口にするだけで、胸の奥がひりつく。

 

 未来の死。

 

 いや、死よりも重い。

 

 忘却。

 

 存在そのものが、世界から消える。

 

 誰も覚えていられない。

 

 その恐ろしさを、眞は知っている。

 

 だが、影にはまだ言えない。

 

「関わります」

 

 眞は短く答えた。

 

「深く?」

 

「おそらく、とても深く」

 

 影は少しだけ目を伏せた。怒らなかった。ただ、静かに息を吐く。

 

「戻る時期は」

 

「璃月で帰終とモラクスに会い、その後、草の神へ面会を求めます。長くても一月以内には戻るつもりです」

 

「つもり」

 

「戻ります」

 

「はい」

 

 影は眞を見た。

 

「戻るなら、私は待つだけではありません」

 

「分かっています」

 

「稲妻の道を進めます。匣に関わる実験記録は、斎宮にも見せます。退く訓練も続けます」

 

「頼もしいですね」

 

「眞がそうしろと言った」

 

「ええ。でも、あなたが選んでくれている」

 

 影は少しだけ視線を逸らした。

 

「……行く前に、匣を見せてください」

 

「はい」

 

 その夜、眞は影と狐斎宮を前に、匣の実験を見せた。

 

 小さな紙片。

 

 そこには、未来に関わる名は書かない。ただ一文だけ。

 

 ――戻るための道。

 

 眞はそれを匣の前に置き、雷を細く通した。

 

 帰終の塵が淡く光る。紙片の墨が、ふわりと浮いた。文字が粒になり、塵と混ざる。匣の内側で、紫と金の細い光が渦を巻いた。

 

 影が息を呑む。

 

 狐斎宮も、珍しく黙っていた。

 

 眞は慎重に雷を弱める。外からの干渉を断ち、内側の記録を保つ。璃月で帰終と考えた理屈。モラクスが示した契約の形。それらを、稲妻の雷で包む。

 

 光はしばらく安定していた。

 

 だが、次の瞬間。

 

 匣の中の文字が、ふっと揺らいだ。

 

 沈むのではない。

 

 上へ伸びるように、どこかへ繋がりかける。

 

 眞は即座に雷を強めた。

 

 光が途切れる。文字は崩れ、ただの塵へ戻った。

 

 部屋に静寂が落ちる。

 

「今のは」

 

 影が低く問う。

 

「地脈ではありません」

 

 眞は匣を見つめたまま答えた。

 

「下へ沈む感覚ではなかった。上でも、外でもない。もっと、根のようなものへ繋がる感覚」

 

 狐斎宮が扇を閉じる。

 

「世界の根、ですか」

 

「おそらく」

 

「それは、狐の結界だけでは避けきれませんね」

 

「はい」

 

 眞は匣を布に戻した。

 

 手の中に、まだかすかな震えが残っている。

 

「だから、行きます。記録を司るもの。あるいは、記録に最も近い神に会う必要がある」

 

 狐斎宮はしばらく眞を見ていた。

 

 やがて、ふっと笑う。

 

「眞様」

 

「はい」

 

「また重いものを拾いに行く顔をしています」

 

「拾いに行くわけでは」

 

「では、背負いに?」

 

 返事に詰まる。

 

 狐斎宮はやはり容赦がない。けれど、そこには温かさがある。

 

「一つだけ」

 

「何でしょう」

 

「世界の記録に近い相手なら、眞様の隠し事も見えやすいでしょう。無理に隠し通そうとすれば、かえって危うい」

 

「……はい」

 

「話せないことは、話せないと言う。知られたくないことは、知られたくないと言う。嘘を重ねるより、その方が狐は好みです」

 

「狐は、ですか」

 

「影様もでしょう」

 

 影は黙っていた。けれど、否定はしなかった。

 

 眞は頷く。

 

「覚えておきます」

 

「それと」

 

 狐斎宮は匣へ視線を向けた。

 

「もし、その神が忘れられることを知る神なら」

 

 眞の心臓が跳ねた。

 

 狐斎宮の目は、静かだった。

 

「眞様は、きっと放っておけませんね」

 

「斎宮」

 

「図星ですか」

 

「……あなたは本当に鋭い」

 

「狐ですから」

 

 軽く言っている。

 

 けれど、眞には分かった。

 

 狐斎宮は何も知らないまま、かなり近い場所を嗅ぎ取っている。世界から忘れられる神。その輪郭を。

 

「眞」

 

 影が呼ぶ。

 

「はい」

 

「その神を救いたいのですか」

 

 眞はゆっくり息を吸った。

 

 答えは、もう分かっている。

 

「救いたいです」

 

「まだ会っていないのに」

 

「はい」

 

「未来で失われるから?」

 

「それだけではありません」

 

 眞は匣を見た。

 

「失われることを知っていて、何もしない自分ではいたくないから」

 

 影はその答えを聞いて、しばらく黙っていた。

 

「分かりました」

 

「影」

 

「私は、ここで眞が戻る場所を守ります」

 

 影の声は静かだった。

 

「だから、眞も戻ってください」

 

「はい」

 

「そして、勝手に救わない」

 

「はい」

 

「その神にも、選ばせる」

 

「はい」

 

「眞自身も、約束の中に入れる」

 

 眞は小さく笑った。

 

「斎宮と同じことを言いますね」

 

「必要なことです」

 

「ええ」

 

 眞は頷いた。

 

「必ず」

 

 旅立ちは、数日後だった。

 

 今度は、前よりも準備が整っていた。

 

 稲妻側には影がいる。狐斎宮が結界を見てくれる。千代は退避路の実地訓練を面白がりながらも進めている。笹百合は天狗衆の合図を整えている。

 

 眞がいない間も、稲妻は止まらない。

 

 それが嬉しかった。

 

 少しだけ、怖くもあった。

 

 自分がいなくても進む稲妻。

 

 それは、本来望んでいたものだ。けれど同時に、自分がいつか本当に姿を消す未来の予行のようにも思えた。

 

 港で、影はいつものように立っていた。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 短い言葉。

 

 けれど、以前とは違う。

 

 ただ見送るのではない。互いにやるべきことを持っている。互いに戻る道を意識している。それが分かる。

 

「影」

 

「はい」

 

「私は戻ります」

 

「知っています」

 

「それでも、言います」

 

「では、私も聞きます」

 

 眞は微笑んだ。

 

「戻ります」

 

 影は静かに頷いた。

 

「待つだけではなく、道を守ります」

 

 その言葉を胸に、眞は船へ乗った。

 

 海が稲妻を遠ざける。だが、今回は前ほど不安ではなかった。

 

 背中に、戻る場所がある。それを影が守ってくれている。だから、前を向ける。

 

 璃月へ着くと、帰終はすでに眞を待っていた。

 

 相変わらず、机の上には図面と失敗作が散らかっている。モラクスは少し離れた場所で、それを静かに眺めていた。

 

「おかえりなさい、雷電眞」

 

「ただいま、でよいのでしょうか」

 

「一度来たなら、次からはそうでしょう?」

 

 帰終は笑った。

 

 その言葉が、少しだけ胸に沁みた。

 

 ただいま。

 

 帰る場所が一つ増えるというのは、嬉しい。だが、それだけ別れの痛みも増える。

 

「匣は?」

 

 帰終がすぐに問う。

 

 眞は包みを開き、未完成の球を見せた。

 

「地脈は避けられました。でも、別の記録に触れます」

 

 帰終の目が鋭くなる。

 

「別の記録」

 

「根のようなものです。下へ沈むのではなく、世界の大きな仕組みに触れようとする」

 

 モラクスが低く言った。

 

「世界樹か」

 

 その言葉に、眞の胸が鳴った。

 

 世界樹。

 

 名前を聞いただけで、奥底の記憶がざわつく。

 

 スメール。

 

 大慈樹王。

 

 ナヒーダ。

 

 禁忌知識。

 

 忘却。

 

 世界改変。

 

 そのすべてが、遠い雷鳴のように脳裏で響いた。

 

 帰終は腕を組む。

 

「やはり、そこへ行き着くのね」

 

「知っているのですか」

 

「詳しくはないわ。でも、世界の記録に関わる巨大な樹の話は聞いたことがある。草の神の領域よ」

 

「会いに行きます」

 

 眞が言うと、帰終は少しだけ眉を上げた。

 

「もう決めている顔ね」

 

「はい」

 

「危険よ。記録に近い神なら、あなたの内側にあるものを見抜くかもしれない」

 

「斎宮にも同じことを言われました」

 

「なら、いい狐ね」

 

「ええ」

 

 帰終は少し笑い、それから真剣な表情に戻った。

 

「私も行くわ」

 

「え?」

 

「匣の問題でしょう。なら、作り手の一人として見る必要がある」

 

 モラクスが静かに口を開く。

 

「帰終」

 

「反対?」

 

「危険はある」

 

「でも必要でしょう?」

 

「……そうだな」

 

 モラクスは眞を見る。

 

「私も同行しよう」

 

「モラクスも?」

 

「世界樹と契約は性質が違う。だが、記録と契約はどちらも“残すもの”だ。見ておく価値がある」

 

 眞は二柱を見た。

 

 まさか、共に行くことになるとは思っていなかった。けれど、心強い。同時に、少し怖い。

 

 この二人が前草神と出会う。帰終が、いつか世界から忘れられる神と向き合う。そこには、きっと重い意味が生まれる。

 

「行きましょう」

 

 帰終は明るく言った。

 

「世界の根っこに用があるなら、迷っている暇はないわ」

 

「軽く言いますね」

 

「軽く言わないと、足が重くなるもの」

 

 眞は少しだけ笑った。

 

 その通りかもしれない。重い話ばかりを重い顔で抱えていたら、歩けなくなる。

 

 だから帰終は笑う。笑いながら、重いものをちゃんと見ている。それが彼女の強さなのだろう。

 

 スメールへ向かう道は、長かった。

 

 璃月の岩山を越え、緑の気配が濃くなるにつれ、空気が変わる。湿った土。深い葉の匂い。見たことのない花。聞いたことのない鳥の声。

 

 稲妻とも璃月とも違う。

 

 ここは、知恵と森の国。

 

 世界の根に近い場所。

 

 眞は進むほどに、胸の奥がざわつくのを感じた。

 

 匣が反応している。

 

 布に包んでいても分かる。内側の塵が、微かに震えている。

 

 帰終も気づいたのだろう。

 

「近いわね」

 

「はい」

 

 モラクスは周囲を見渡している。

 

「地脈の気配とは異なる。だが、確かに記録の流れがある」

 

「世界は、こんなにも何かを覚えているのですね」

 

 眞が言うと、帰終は静かに頷いた。

 

「覚えているから、忘れることもできるのよ」

 

 その言葉に、眞は息を呑んだ。

 

 覚えているから、忘れることもできる。

 

 それは、これから会う神の運命そのものに聞こえた。

 

 森の奥。

 

 巨大な樹の影が見えた。

 

 ただ大きいだけではない。その根が、見えない世界の奥まで伸びているような感覚。葉擦れの音が、まるで誰かの囁きのように聞こえる。

 

 近づくほど、眞の中の記憶が揺れた。

 

 書けない名。

 

 消える存在。

 

 誰も覚えていられない神。

 

 その中心に、彼女はいた。

 

 小さな姿。

 

 けれど、森全体がその存在に呼吸を合わせている。

 

 柔らかな緑の気配。

 

 深い知恵。

 

 そして、底知れない疲労のような静けさ。

 

 草の神。

 

 大慈樹王。

 

 彼女は眞たちを見ると、穏やかに微笑んだ。

 

「遠い国から、よく来てくれました」

 

 声は静かだった。けれど、頭の奥に直接触れるような響きがあった。

 

 眞は一歩前へ出る。

 

「稲妻の雷神、雷電眞です」

 

「知っています」

 

 大慈樹王はそう言った。

 

 眞の胸が跳ねる。

 

「岩の神モラクス。塵の魔神帰終。そして、雷の神でありながら、雷だけでは説明できない魂を持つ方」

 

 空気が止まった。

 

 帰終が眞を見る。

 

 モラクスの瞳が鋭くなる。

 

 眞は、言葉を失った。

 

 雷だけでは説明できない魂。

 

 それは、眞の中にある前世のことを指しているのか。それとも、未来知識のことか。あるいは、その両方か。

 

 大慈樹王は責めるような顔をしていなかった。ただ、静かに見ている。

 

「安心してください。私はあなたを暴くために言ったのではありません」

 

「……では、なぜ」

 

「あなた自身が、自分を隠しすぎて苦しくなっているように見えたから」

 

 眞は唇を噛んだ。

 

 狐斎宮の言葉を思い出す。

 

 話せないことは、話せないと言う。知られたくないことは、知られたくないと言う。嘘を重ねるより、その方がいい。

 

 眞は深く息を吸った。

 

「私は、すべてを話せません」

 

「はい」

 

「知られたくないこともあります」

 

「はい」

 

「それでも、助けが必要です」

 

 大慈樹王は穏やかに頷いた。

 

「そのために来たのでしょう。世界樹に触れずに、記録を残す方法を探しに」

 

 帰終が小さく息を呑む。

 

「そこまで分かるの?」

 

「匣が震えています」

 

 大慈樹王は眞の胸元を見る。

 

「その中にあるものは、地脈からは逃れようとしている。でも、世界樹からは逃れられていない」

 

 眞は包みを開いた。

 

 匣が淡く光っている。森の中で見ると、その光はひどく頼りなく見えた。

 

「これは、誰かを救うためのものですか」

 

 大慈樹王が問う。

 

 眞は頷く。

 

「はい」

 

「誰かを隠すため?」

 

「はい」

 

「いつか、戻すため?」

 

「……はい」

 

 大慈樹王の目が少しだけ柔らかくなる。

 

「なら、棺にしてはいけませんね」

 

 また、その言葉だった。

 

 帰終。

 

 影。

 

 そして、大慈樹王。

 

 皆が同じ場所を指している。

 

 隠すだけでは駄目。閉じるだけでは駄目。戻るための道でなければならない。

 

「世界樹は、テイワットの多くを記録します」

 

 大慈樹王はゆっくりと言った。

 

「人の記憶。歴史の流れ。存在の痕跡。けれど、それは完璧ではありません。記録されるものもあれば、記録されないものもある。記録されたからこそ、変わってしまうものもある」

 

「世界樹から、存在を隠せますか」

 

 眞は問う。

 

 大慈樹王はすぐには答えなかった。

 

 森の葉が揺れる。

 

 遠くで鳥が鳴く。

 

「隠すことはできます」

 

 やがて彼女は言った。

 

「しかし、それは救いとは限りません」

 

「なぜ」

 

「世界に記録されないということは、世界から支えられないということでもあるからです」

 

 その言葉は、静かに重かった。

 

「名を隠せば、追われにくくなる。死を偽れば、運命から外れられるかもしれない。けれど、同時に、誰かに覚えてもらう道も細くなる」

 

 眞の胸が軋む。

 

 影。

 

 帰終。

 

 狐斎宮。

 

 千代。

 

 笹百合。

 

 誰かを救うために世界から隠す。だが、隠しすぎれば、その人は誰にも覚えられなくなる。

 

「忘れられる、ということですか」

 

「そうです」

 

 大慈樹王は静かに頷く。

 

「救うなら、忘れられる覚悟も必要になります」

 

 その言葉は、眞の胸に深く刺さった。

 

 死を偽る。

 

 魂を逃がす。

 

 存在を隠す。

 

 それだけなら、まだ救いに見えた。

 

 しかし、その先には忘却がある。

 

 世界から外れるということは、世界に覚えてもらえないということ。

 

 誰かの名を守るために、誰かの名を消すことになるかもしれない。

 

 眞は匣を握った。

 

「それでも」

 

 声が震えた。

 

「完全に失われるよりは」

 

「はい」

 

 大慈樹王は遮らなかった。

 

「そう思う気持ちも、分かります」

 

 彼女の声は優しかった。けれど、どこか遠かった。まるで、自分自身にも言い聞かせているように。

 

「けれど、雷電眞。忘れられることは、死より軽いとは限りません」

 

 眞は何も言えなかった。

 

 大慈樹王は森の奥を見上げる。

 

「誰にも覚えられず、誰の物語にも残らず、ただ世界のために消える。そういう救いも、時にはあります」

 

 その横顔を見た瞬間、眞は悟った。

 

 この神は、まだ知らないはずだ。自分の未来を。けれど、もうどこかで分かっている。

 

 世界の記録に近いからこそ。

 

 誰よりも、忘却の意味を知っている。

 

「あなたは」

 

 眞は言いかけて、止めた。

 

 言えない。

 

 言ってはいけない。

 

 あなたはいつか、世界から消える。

 

 そんな言葉を口にしたら、何が固定されるか分からない。

 

 大慈樹王は、眞を見た。

 

「言わなくていいのです」

 

「……」

 

「あなたの目に、すでに答えがあります」

 

 胸が苦しくなる。

 

 まただ。

 

 眞は、まだ生きている者へ悼みを向けている。

 

 帰終の時と同じ。

 

 いや、それ以上に重い。

 

 この神は、死ぬのではない。

 

 忘れられる。

 

 世界から、名ごと消える。

 

「私は」

 

 眞は声を絞る。

 

「あなたも、救いたい」

 

 大慈樹王は、静かに目を見開いた。

 

 帰終が息を呑む。

 

 モラクスは何も言わない。

 

 森が、少しだけ静かになった。

 

「まだ、何も知りません。すべては話せません。けれど、私はあなたを見捨てたくない」

 

 眞は頭を下げなかった。逃げなかった。ただ、大慈樹王を見つめた。

 

「救えるかは分かりません。救うことが正しいのかも、まだ分かりません。あなた自身が望むかも分かりません。だから、勝手にはしません」

 

 帰終との約束を思い出す。

 

 影との契約を思い出す。

 

 勝手に救わない。

 

 選ばせる。

 

 傷を軽んじない。

 

「でも、もし選ぶ時が来たら。あなたにも、忘れられる以外の道を見せたい」

 

 大慈樹王は長い間、黙っていた。

 

 風が吹く。

 

 葉が揺れる。

 

 世界樹に繋がる森が、遠い記憶のようにざわめく。

 

 やがて、彼女は微笑んだ。

 

 その笑みは、ひどく優しかった。

 

「あなたは、困った雷神ですね」

 

「よく言われます」

 

「そうでしょうね」

 

 大慈樹王は眞の匣へ手を伸ばした。触れるか触れないかの距離で、指を止める。

 

「この匣には、まだ世界樹へ繋がる隙間があります。完全に遮断するのではなく、記録される部分と、されない部分を分ける必要がある」

 

「分ける?」

 

「はい。すべてを隠せば、忘れられる。すべてを残せば、運命に捕まる。だから、名ではなく、想いを残す。存在ではなく、帰る方向を残す」

 

 眞の胸が震えた。

 

 名ではなく、想い。

 

 存在ではなく、帰る方向。

 

 それは、眞が探していた答えに近かった。

 

「できますか」

 

「一人では無理です」

 

 大慈樹王は帰終とモラクスを見る。

 

「塵の器、岩の契約、雷の遮断。そして、草の記録。四つが揃えば、可能性はあります」

 

 帰終の目が輝いた。

 

「面白くなってきたわね」

 

「帰終」

 

 モラクスが静かに呼ぶ。

 

「分かっているわ。危険でしょう?」

 

「極めて」

 

「でも、必要でしょう?」

 

「……そうだな」

 

 そのやり取りに、大慈樹王が小さく笑った。

 

「よい友を持っていますね、雷電眞」

 

 眞は三柱を見た。

 

 帰終。

 

 モラクス。

 

 大慈樹王。

 

 未来で、それぞれに重すぎる喪失を背負う存在たち。

 

 その三柱が、今ここにいる。

 

 自分の前に。

 

 まだ誰も失われていない時間に。

 

「はい」

 

 眞は頷いた。

 

「本当に」

 

 森の奥で、世界の根が静かに揺れている。

 

 匣はまだ未完成だ。

 

 死を偽る道も、まだ形になっていない。

 

 だが、ひとつ分かった。

 

 救うとは、ただ隠すことではない。

 

 生かすとは、ただ残すことではない。

 

 忘れられる痛みも。

 

 残された者の傷も。

 

 選ぶ者の意思も。

 

 すべてを見なければならない。

 

 その上で、道を作る。

 

 棺ではなく。

 

 帰り道を。

 

 大慈樹王は眞を見つめ、静かに言った。

 

「では、始めましょう」

 

 その声に、森が応えるように揺れた。

 

「世界に残せない名を、どうすれば想いとして残せるのか」

 

 眞は匣を抱きしめる。

 

 胸の奥で、雷が鳴った。

 

 恐怖ではない。

 

 約束だった。

 

 忘れさせない。

 

 たとえ世界が名を奪っても。

 

 帰る方向だけは、必ず残す。

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