『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』 作:悲劇のキャラに救済を
稲妻の朝は、少しずつ変わり始めていた。
神域へ続く道には、新しい石が敷かれている。海辺の村から山へ抜ける細道は、荷車が通れるほど広げられた。影向山の霊地近くには、神職と妖が共に使う小さな結界場が作られつつある。
まだ、誰もそれを“災厄への備え”とは呼ばない。
表向きは、祭礼の道。巡礼の安全を守るための整備。海辺の魔物被害に備えた防災。そういう名目だった。
嘘ではない。
けれど、すべてでもない。
眞はその道を歩きながら、胸の奥にある重さを感じていた。少しずつ、嘘が形になっている。人を守るための嘘。未来を変えるための嘘。そして、いつか自分自身が使うかもしれない嘘。
それでも、今はその道を止めるわけにはいかなかった。
「眞」
隣を歩く影が、静かに声をかける。
「足元」
「あ」
眞は立ち止まった。
あと半歩で、敷かれたばかりの石の隙間に足を取られるところだった。影が小さく息を吐く。
「考え事をしながら歩かないでください」
「すみません」
「眞は最近、謝ることが増えました」
「それだけ助けられているということです」
「そういう言い方をすると、怒りにくい」
影は少し不満そうに言った。
その声に、眞は小さく笑う。
以前より、影は言葉を返してくれるようになった。ただ黙って従うのではなく、不満も疑問も口にする。それが嬉しかった。
影自身は、たぶん気づいていない。
けれど、眞には分かる。
少しずつ、影は“眞の影”だけではなくなっている。自分の目で見て、自分の言葉で問い、自分の判断で、眞を止めようとしてくれる。その変化は小さい。
けれど、確かだった。
「眞」
「はい」
「匣の調子は」
眞は胸元へ手を当てた。
小さな布包みの中に、璃月から持ち帰った未完成の球が入っている。淡い塵の器。帰終が作り、モラクスが契約の目で見た、まだ名もない匣。
「まだ、安定しません」
「雷を通しても?」
「通すだけならできます。けれど、中に入れたものを“世界に沈めない”ところまでは不確かです」
「地脈が反応するのですか」
「地脈は避けられています」
眞は少しだけ眉を寄せた。
「でも、別の何かに触れそうになる」
「別の何か」
「世界の、もっと深い記録」
影は黙った。
眞も、それ以上はすぐに言えなかった。
地脈ではない。けれど、記録に関わるもの。帰終の匣は、言葉や記憶を地脈へ沈めず閉じ込めることができるかもしれない。
だが、実験を重ねるうちに分かってきた。
記録は地脈だけにあるわけではない。もっと大きな根。世界そのものが、何かを覚えている。
名を残す。
存在を記す。
起きたことを繋ぐ。
そんな巨大な仕組みが、どこかにある。
それに触れないまま、死を偽ることはできない。
「だから、また出るのですね」
影が言った。
眞は足を止める。
「分かりますか」
「分かります」
影は前を向いたまま答えた。
「眞が最近、東ではなく西の空を見るようになった」
「……よく見ていますね」
「見ると決めたので」
その一言に、眞の胸が少し熱くなる。
見ると決めた。
守るために。
止めるために。
信じるために。
影は、本当に変わり始めている。
「行き先は」
「璃月を経由して、その先へ」
「その先」
「草木と知恵の国。世界の記録に近い神がいると聞きました」
影の目が少し細くなる。
「その神も、眞の恐れている未来に関わるのですか」
眞はすぐには答えなかった。
大慈樹王。
前草神。
世界樹を守り、やがて禁忌知識に蝕まれ、自らの存在を世界から消す神。
名前を口にするだけで、胸の奥がひりつく。
未来の死。
いや、死よりも重い。
忘却。
存在そのものが、世界から消える。
誰も覚えていられない。
その恐ろしさを、眞は知っている。
だが、影にはまだ言えない。
「関わります」
眞は短く答えた。
「深く?」
「おそらく、とても深く」
影は少しだけ目を伏せた。怒らなかった。ただ、静かに息を吐く。
「戻る時期は」
「璃月で帰終とモラクスに会い、その後、草の神へ面会を求めます。長くても一月以内には戻るつもりです」
「つもり」
「戻ります」
「はい」
影は眞を見た。
「戻るなら、私は待つだけではありません」
「分かっています」
「稲妻の道を進めます。匣に関わる実験記録は、斎宮にも見せます。退く訓練も続けます」
「頼もしいですね」
「眞がそうしろと言った」
「ええ。でも、あなたが選んでくれている」
影は少しだけ視線を逸らした。
「……行く前に、匣を見せてください」
「はい」
その夜、眞は影と狐斎宮を前に、匣の実験を見せた。
小さな紙片。
そこには、未来に関わる名は書かない。ただ一文だけ。
――戻るための道。
眞はそれを匣の前に置き、雷を細く通した。
帰終の塵が淡く光る。紙片の墨が、ふわりと浮いた。文字が粒になり、塵と混ざる。匣の内側で、紫と金の細い光が渦を巻いた。
影が息を呑む。
狐斎宮も、珍しく黙っていた。
眞は慎重に雷を弱める。外からの干渉を断ち、内側の記録を保つ。璃月で帰終と考えた理屈。モラクスが示した契約の形。それらを、稲妻の雷で包む。
光はしばらく安定していた。
だが、次の瞬間。
匣の中の文字が、ふっと揺らいだ。
沈むのではない。
上へ伸びるように、どこかへ繋がりかける。
眞は即座に雷を強めた。
光が途切れる。文字は崩れ、ただの塵へ戻った。
部屋に静寂が落ちる。
「今のは」
影が低く問う。
「地脈ではありません」
眞は匣を見つめたまま答えた。
「下へ沈む感覚ではなかった。上でも、外でもない。もっと、根のようなものへ繋がる感覚」
狐斎宮が扇を閉じる。
「世界の根、ですか」
「おそらく」
「それは、狐の結界だけでは避けきれませんね」
「はい」
眞は匣を布に戻した。
手の中に、まだかすかな震えが残っている。
「だから、行きます。記録を司るもの。あるいは、記録に最も近い神に会う必要がある」
狐斎宮はしばらく眞を見ていた。
やがて、ふっと笑う。
「眞様」
「はい」
「また重いものを拾いに行く顔をしています」
「拾いに行くわけでは」
「では、背負いに?」
返事に詰まる。
狐斎宮はやはり容赦がない。けれど、そこには温かさがある。
「一つだけ」
「何でしょう」
「世界の記録に近い相手なら、眞様の隠し事も見えやすいでしょう。無理に隠し通そうとすれば、かえって危うい」
「……はい」
「話せないことは、話せないと言う。知られたくないことは、知られたくないと言う。嘘を重ねるより、その方が狐は好みです」
「狐は、ですか」
「影様もでしょう」
影は黙っていた。けれど、否定はしなかった。
眞は頷く。
「覚えておきます」
「それと」
狐斎宮は匣へ視線を向けた。
「もし、その神が忘れられることを知る神なら」
眞の心臓が跳ねた。
狐斎宮の目は、静かだった。
「眞様は、きっと放っておけませんね」
「斎宮」
「図星ですか」
「……あなたは本当に鋭い」
「狐ですから」
軽く言っている。
けれど、眞には分かった。
狐斎宮は何も知らないまま、かなり近い場所を嗅ぎ取っている。世界から忘れられる神。その輪郭を。
「眞」
影が呼ぶ。
「はい」
「その神を救いたいのですか」
眞はゆっくり息を吸った。
答えは、もう分かっている。
「救いたいです」
「まだ会っていないのに」
「はい」
「未来で失われるから?」
「それだけではありません」
眞は匣を見た。
「失われることを知っていて、何もしない自分ではいたくないから」
影はその答えを聞いて、しばらく黙っていた。
「分かりました」
「影」
「私は、ここで眞が戻る場所を守ります」
影の声は静かだった。
「だから、眞も戻ってください」
「はい」
「そして、勝手に救わない」
「はい」
「その神にも、選ばせる」
「はい」
「眞自身も、約束の中に入れる」
眞は小さく笑った。
「斎宮と同じことを言いますね」
「必要なことです」
「ええ」
眞は頷いた。
「必ず」
旅立ちは、数日後だった。
今度は、前よりも準備が整っていた。
稲妻側には影がいる。狐斎宮が結界を見てくれる。千代は退避路の実地訓練を面白がりながらも進めている。笹百合は天狗衆の合図を整えている。
眞がいない間も、稲妻は止まらない。
それが嬉しかった。
少しだけ、怖くもあった。
自分がいなくても進む稲妻。
それは、本来望んでいたものだ。けれど同時に、自分がいつか本当に姿を消す未来の予行のようにも思えた。
港で、影はいつものように立っていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
短い言葉。
けれど、以前とは違う。
ただ見送るのではない。互いにやるべきことを持っている。互いに戻る道を意識している。それが分かる。
「影」
「はい」
「私は戻ります」
「知っています」
「それでも、言います」
「では、私も聞きます」
眞は微笑んだ。
「戻ります」
影は静かに頷いた。
「待つだけではなく、道を守ります」
その言葉を胸に、眞は船へ乗った。
海が稲妻を遠ざける。だが、今回は前ほど不安ではなかった。
背中に、戻る場所がある。それを影が守ってくれている。だから、前を向ける。
璃月へ着くと、帰終はすでに眞を待っていた。
相変わらず、机の上には図面と失敗作が散らかっている。モラクスは少し離れた場所で、それを静かに眺めていた。
「おかえりなさい、雷電眞」
「ただいま、でよいのでしょうか」
「一度来たなら、次からはそうでしょう?」
帰終は笑った。
その言葉が、少しだけ胸に沁みた。
ただいま。
帰る場所が一つ増えるというのは、嬉しい。だが、それだけ別れの痛みも増える。
「匣は?」
帰終がすぐに問う。
眞は包みを開き、未完成の球を見せた。
「地脈は避けられました。でも、別の記録に触れます」
帰終の目が鋭くなる。
「別の記録」
「根のようなものです。下へ沈むのではなく、世界の大きな仕組みに触れようとする」
モラクスが低く言った。
「世界樹か」
その言葉に、眞の胸が鳴った。
世界樹。
名前を聞いただけで、奥底の記憶がざわつく。
スメール。
大慈樹王。
ナヒーダ。
禁忌知識。
忘却。
世界改変。
そのすべてが、遠い雷鳴のように脳裏で響いた。
帰終は腕を組む。
「やはり、そこへ行き着くのね」
「知っているのですか」
「詳しくはないわ。でも、世界の記録に関わる巨大な樹の話は聞いたことがある。草の神の領域よ」
「会いに行きます」
眞が言うと、帰終は少しだけ眉を上げた。
「もう決めている顔ね」
「はい」
「危険よ。記録に近い神なら、あなたの内側にあるものを見抜くかもしれない」
「斎宮にも同じことを言われました」
「なら、いい狐ね」
「ええ」
帰終は少し笑い、それから真剣な表情に戻った。
「私も行くわ」
「え?」
「匣の問題でしょう。なら、作り手の一人として見る必要がある」
モラクスが静かに口を開く。
「帰終」
「反対?」
「危険はある」
「でも必要でしょう?」
「……そうだな」
モラクスは眞を見る。
「私も同行しよう」
「モラクスも?」
「世界樹と契約は性質が違う。だが、記録と契約はどちらも“残すもの”だ。見ておく価値がある」
眞は二柱を見た。
まさか、共に行くことになるとは思っていなかった。けれど、心強い。同時に、少し怖い。
この二人が前草神と出会う。帰終が、いつか世界から忘れられる神と向き合う。そこには、きっと重い意味が生まれる。
「行きましょう」
帰終は明るく言った。
「世界の根っこに用があるなら、迷っている暇はないわ」
「軽く言いますね」
「軽く言わないと、足が重くなるもの」
眞は少しだけ笑った。
その通りかもしれない。重い話ばかりを重い顔で抱えていたら、歩けなくなる。
だから帰終は笑う。笑いながら、重いものをちゃんと見ている。それが彼女の強さなのだろう。
スメールへ向かう道は、長かった。
璃月の岩山を越え、緑の気配が濃くなるにつれ、空気が変わる。湿った土。深い葉の匂い。見たことのない花。聞いたことのない鳥の声。
稲妻とも璃月とも違う。
ここは、知恵と森の国。
世界の根に近い場所。
眞は進むほどに、胸の奥がざわつくのを感じた。
匣が反応している。
布に包んでいても分かる。内側の塵が、微かに震えている。
帰終も気づいたのだろう。
「近いわね」
「はい」
モラクスは周囲を見渡している。
「地脈の気配とは異なる。だが、確かに記録の流れがある」
「世界は、こんなにも何かを覚えているのですね」
眞が言うと、帰終は静かに頷いた。
「覚えているから、忘れることもできるのよ」
その言葉に、眞は息を呑んだ。
覚えているから、忘れることもできる。
それは、これから会う神の運命そのものに聞こえた。
森の奥。
巨大な樹の影が見えた。
ただ大きいだけではない。その根が、見えない世界の奥まで伸びているような感覚。葉擦れの音が、まるで誰かの囁きのように聞こえる。
近づくほど、眞の中の記憶が揺れた。
書けない名。
消える存在。
誰も覚えていられない神。
その中心に、彼女はいた。
小さな姿。
けれど、森全体がその存在に呼吸を合わせている。
柔らかな緑の気配。
深い知恵。
そして、底知れない疲労のような静けさ。
草の神。
大慈樹王。
彼女は眞たちを見ると、穏やかに微笑んだ。
「遠い国から、よく来てくれました」
声は静かだった。けれど、頭の奥に直接触れるような響きがあった。
眞は一歩前へ出る。
「稲妻の雷神、雷電眞です」
「知っています」
大慈樹王はそう言った。
眞の胸が跳ねる。
「岩の神モラクス。塵の魔神帰終。そして、雷の神でありながら、雷だけでは説明できない魂を持つ方」
空気が止まった。
帰終が眞を見る。
モラクスの瞳が鋭くなる。
眞は、言葉を失った。
雷だけでは説明できない魂。
それは、眞の中にある前世のことを指しているのか。それとも、未来知識のことか。あるいは、その両方か。
大慈樹王は責めるような顔をしていなかった。ただ、静かに見ている。
「安心してください。私はあなたを暴くために言ったのではありません」
「……では、なぜ」
「あなた自身が、自分を隠しすぎて苦しくなっているように見えたから」
眞は唇を噛んだ。
狐斎宮の言葉を思い出す。
話せないことは、話せないと言う。知られたくないことは、知られたくないと言う。嘘を重ねるより、その方がいい。
眞は深く息を吸った。
「私は、すべてを話せません」
「はい」
「知られたくないこともあります」
「はい」
「それでも、助けが必要です」
大慈樹王は穏やかに頷いた。
「そのために来たのでしょう。世界樹に触れずに、記録を残す方法を探しに」
帰終が小さく息を呑む。
「そこまで分かるの?」
「匣が震えています」
大慈樹王は眞の胸元を見る。
「その中にあるものは、地脈からは逃れようとしている。でも、世界樹からは逃れられていない」
眞は包みを開いた。
匣が淡く光っている。森の中で見ると、その光はひどく頼りなく見えた。
「これは、誰かを救うためのものですか」
大慈樹王が問う。
眞は頷く。
「はい」
「誰かを隠すため?」
「はい」
「いつか、戻すため?」
「……はい」
大慈樹王の目が少しだけ柔らかくなる。
「なら、棺にしてはいけませんね」
また、その言葉だった。
帰終。
影。
そして、大慈樹王。
皆が同じ場所を指している。
隠すだけでは駄目。閉じるだけでは駄目。戻るための道でなければならない。
「世界樹は、テイワットの多くを記録します」
大慈樹王はゆっくりと言った。
「人の記憶。歴史の流れ。存在の痕跡。けれど、それは完璧ではありません。記録されるものもあれば、記録されないものもある。記録されたからこそ、変わってしまうものもある」
「世界樹から、存在を隠せますか」
眞は問う。
大慈樹王はすぐには答えなかった。
森の葉が揺れる。
遠くで鳥が鳴く。
「隠すことはできます」
やがて彼女は言った。
「しかし、それは救いとは限りません」
「なぜ」
「世界に記録されないということは、世界から支えられないということでもあるからです」
その言葉は、静かに重かった。
「名を隠せば、追われにくくなる。死を偽れば、運命から外れられるかもしれない。けれど、同時に、誰かに覚えてもらう道も細くなる」
眞の胸が軋む。
影。
帰終。
狐斎宮。
千代。
笹百合。
誰かを救うために世界から隠す。だが、隠しすぎれば、その人は誰にも覚えられなくなる。
「忘れられる、ということですか」
「そうです」
大慈樹王は静かに頷く。
「救うなら、忘れられる覚悟も必要になります」
その言葉は、眞の胸に深く刺さった。
死を偽る。
魂を逃がす。
存在を隠す。
それだけなら、まだ救いに見えた。
しかし、その先には忘却がある。
世界から外れるということは、世界に覚えてもらえないということ。
誰かの名を守るために、誰かの名を消すことになるかもしれない。
眞は匣を握った。
「それでも」
声が震えた。
「完全に失われるよりは」
「はい」
大慈樹王は遮らなかった。
「そう思う気持ちも、分かります」
彼女の声は優しかった。けれど、どこか遠かった。まるで、自分自身にも言い聞かせているように。
「けれど、雷電眞。忘れられることは、死より軽いとは限りません」
眞は何も言えなかった。
大慈樹王は森の奥を見上げる。
「誰にも覚えられず、誰の物語にも残らず、ただ世界のために消える。そういう救いも、時にはあります」
その横顔を見た瞬間、眞は悟った。
この神は、まだ知らないはずだ。自分の未来を。けれど、もうどこかで分かっている。
世界の記録に近いからこそ。
誰よりも、忘却の意味を知っている。
「あなたは」
眞は言いかけて、止めた。
言えない。
言ってはいけない。
あなたはいつか、世界から消える。
そんな言葉を口にしたら、何が固定されるか分からない。
大慈樹王は、眞を見た。
「言わなくていいのです」
「……」
「あなたの目に、すでに答えがあります」
胸が苦しくなる。
まただ。
眞は、まだ生きている者へ悼みを向けている。
帰終の時と同じ。
いや、それ以上に重い。
この神は、死ぬのではない。
忘れられる。
世界から、名ごと消える。
「私は」
眞は声を絞る。
「あなたも、救いたい」
大慈樹王は、静かに目を見開いた。
帰終が息を呑む。
モラクスは何も言わない。
森が、少しだけ静かになった。
「まだ、何も知りません。すべては話せません。けれど、私はあなたを見捨てたくない」
眞は頭を下げなかった。逃げなかった。ただ、大慈樹王を見つめた。
「救えるかは分かりません。救うことが正しいのかも、まだ分かりません。あなた自身が望むかも分かりません。だから、勝手にはしません」
帰終との約束を思い出す。
影との契約を思い出す。
勝手に救わない。
選ばせる。
傷を軽んじない。
「でも、もし選ぶ時が来たら。あなたにも、忘れられる以外の道を見せたい」
大慈樹王は長い間、黙っていた。
風が吹く。
葉が揺れる。
世界樹に繋がる森が、遠い記憶のようにざわめく。
やがて、彼女は微笑んだ。
その笑みは、ひどく優しかった。
「あなたは、困った雷神ですね」
「よく言われます」
「そうでしょうね」
大慈樹王は眞の匣へ手を伸ばした。触れるか触れないかの距離で、指を止める。
「この匣には、まだ世界樹へ繋がる隙間があります。完全に遮断するのではなく、記録される部分と、されない部分を分ける必要がある」
「分ける?」
「はい。すべてを隠せば、忘れられる。すべてを残せば、運命に捕まる。だから、名ではなく、想いを残す。存在ではなく、帰る方向を残す」
眞の胸が震えた。
名ではなく、想い。
存在ではなく、帰る方向。
それは、眞が探していた答えに近かった。
「できますか」
「一人では無理です」
大慈樹王は帰終とモラクスを見る。
「塵の器、岩の契約、雷の遮断。そして、草の記録。四つが揃えば、可能性はあります」
帰終の目が輝いた。
「面白くなってきたわね」
「帰終」
モラクスが静かに呼ぶ。
「分かっているわ。危険でしょう?」
「極めて」
「でも、必要でしょう?」
「……そうだな」
そのやり取りに、大慈樹王が小さく笑った。
「よい友を持っていますね、雷電眞」
眞は三柱を見た。
帰終。
モラクス。
大慈樹王。
未来で、それぞれに重すぎる喪失を背負う存在たち。
その三柱が、今ここにいる。
自分の前に。
まだ誰も失われていない時間に。
「はい」
眞は頷いた。
「本当に」
森の奥で、世界の根が静かに揺れている。
匣はまだ未完成だ。
死を偽る道も、まだ形になっていない。
だが、ひとつ分かった。
救うとは、ただ隠すことではない。
生かすとは、ただ残すことではない。
忘れられる痛みも。
残された者の傷も。
選ぶ者の意思も。
すべてを見なければならない。
その上で、道を作る。
棺ではなく。
帰り道を。
大慈樹王は眞を見つめ、静かに言った。
「では、始めましょう」
その声に、森が応えるように揺れた。
「世界に残せない名を、どうすれば想いとして残せるのか」
眞は匣を抱きしめる。
胸の奥で、雷が鳴った。
恐怖ではない。
約束だった。
忘れさせない。
たとえ世界が名を奪っても。
帰る方向だけは、必ず残す。