新たな被害者は深夜に発見された。
これまでと同様に見るも無残な死体となった者の名はミーシャ・エレイン。齢にして僅か十歳の少女であった。
発見の切っ掛けとなったのは被害者の祖母であるライエ・エレインの悲痛な叫び声を耳にした、ちょうど付近を巡回していた不蝕金鎖の構成員が駆けつけた事にある。構成員が駆けつけると、そこには思わず鼻背に皺が寄るほどの死臭と血臭が淀んだ血の惨状があった。
想像しうるあらゆる冒涜的な行為の粋を集めたような死体に覆いかぶさり、憚らず泣き伏す老婆は既に正気を失い、半乱狂になっていた。駆け寄って声をかけても反応を示さず、しきりに忘我のままに何事かを呟き続けるだけでまともな反応が返ってこない始末。
この時になって支給された呼子笛が初めて役立った。火急を知らせる笛の音に誘われ不蝕金鎖のみならず、羽狩りもまたこの現場へと駆けつけた。もともと黒羽を見かけたもしくは襲われた時ように手配されたものだから、誰が吹こうと両勢力が集結するのは当たり前のことだ。
「こりゃ酷ェ、黒羽はオズさん並にいたぶるのが好きらしい」
不蝕金鎖の一人が目を覆いたくなる惨状を目の当たりにし、その心内を正直に漏らした。オズを引き合いに出され、当然本人が黙っている筈もなく……
「くだらねえ事言ってねぇで、さっさと片付けるぞ! サイ、若いの数人連れて周囲を歩哨しろ。何かあったらすぐに笛を吹け」
「わかりました――お前ら! 身ィ引き締めていくぞ!」
サイと呼ばれた不蝕金鎖の男が一歩前に出てその場の仲間たちに檄を飛ばし、数人の部下を引き連れて街路に消える。走り去る乱雑な靴音に紛れて、規則正しい行進の如き軍靴の響きが頭角を現し蹂躙してくる。
副隊長のラング・スクロープを先頭に羽狩りたちが続々と現れた。防疫局に属する証たる葡萄鼠と膝下まである前掛けのような中央を通る純白のコートを着こみ、左腕に腕章をつけた隊員たちは、腰に佩いた剣を鳴らし立ち止まる。隊長のフィオネの姿はない。ちょうど詰所に居なかったのだろうか、この中で次に位の高いラングが右腕を水平に上げ横に薙ぐ。
「散れっ、牢獄民は散れッ! 防疫局だ、捜査の邪魔をするな!」
現れるなり横言を唱えられ、不蝕金鎖の面々は横取りにも等しいその行為に眉根が寄る。いち早く現場に駆けつけたのは彼らで、しかも不蝕金鎖の構成員が呼び笛を吹かなければこうも早く発見する事は出来なかったと思われる。それも当然の態度で労うべき者達を見下すこの男は何様なのか。
人として見ていない、より下位の生物を見るような嘲弄の視線を向けるラングに、オズも黙っているのが拷問のように思えた。ここで彼に反駁するのはいともたやすい。しかしオズはジークより『なるべく友好的な関係を結びたい』という彼らの上に立つ貴族の意見に、少なくとも好意的な反応を見せている。こんな場所で諍いを交え、頭の意向を台無しにするような真似は、オズには出来なかった。
そんな彼らの便宜上代表のカイムが、フィオネと共に駆けつけたのは、湧水のように溢れ出る暴言混じりの皮肉を喉元まで出かかり胃袋まで嚥下したときだった。
「オズ、黒羽か!?」
「カイムさんお早い到着で。ええ、現場にこの羽根が落ちてました、まず間違いなくその可能性が高いでしょう」
「クソッ出遅れたか。俺は黒羽を追って周囲を探す、フィオネはどうする?」
苦々しく吐き捨て振り返れば、同じく眉間に皺寄せるフィオネが沈痛な面持ちで遺体を見下ろしていた。
「えっ? あ、ああ私も黒羽を追う。ラング、ここの指揮は副隊長に預けるが……くれぐれも不蝕金鎖の人たちとの諍いを起こすんじゃないぞ。特に、先程のような放言は以後控えてもらおう」
「はっ、隊長がそうおっしゃるのでしたら」
「それじゃあ向かおうカイム」
「ああ、前に情報にあったスラム街の方を重点的に捜索した方がよさそうだ」
現場に残された証拠品の羽根を仕舞いフィオネはカイムと共に、黒羽の捜索に出向かう。遺体発見から既に十数分は経過している。まず黒羽の後ろ姿すら拝むのは困難を極めるだろうが、だからといって仕方ないと断ずることは出来ない。対策も間に合わないままに新たな被害者を出してしまったいま、彼女の尻には火が灯り始めているのだから。
二人は犯人の逃亡先をこの先にあるスラム街に目星をつけたのか、迷うことなく西に進路をとって走り出す。瞬く間に大気に混じる雰囲気ががらりと変わり、重厚な空気が漂い始める。覚悟無き者を容赦なく追い剥ぐスラムは、人が一人死んだ程度で変化するほど繊細ではなく、荒廃した家々が軒を連ねている。
スラムの街路を駆けながら道すがら路傍に蹲る浮浪者たちに目撃情報がないかを訊く。見立ては空振りに、誰に訊ねてもそれらしき人物を見かけたという答えは無かった。
「どうなってんだ、黒羽は空でも飛んでとんずらしたのか」
「噂程度ではそんな話もあったが、まさか本当に飛行する羽つきなんている筈が……」
「……うちの人間が、前にそれらしき奴が空を飛んでいたってのを見た奴が居る。今回のヤマ、どんな馬鹿らしい話が上がっても一蹴するにしても、話半分ぐらいは耳に入れといた方が良いかもしれないぞ」
発見者は当然、アウルムである。ジークを介して情報をやり取りしているカイムは、時折アウルムから寄越される情報を頼りに、これまで捜索をしていた。肝心の姿はここ数日見ていないが、もし彼が黒羽に遭遇していたとしても、後れを取るとは万が一にも思えない。
「もう少し奥の方を捜索してみよう、もしかしたらここらへんに奴のねぐらがあるかもしれない」
「ああ、かまわない」
犯人の姿もなく切り上げてしまっては前回の二の舞だ。これ以上の失態は羽狩りの沽券にも、フィオネの信念にも泥を塗ってしまう。それを承知しているのか、彼女は眉間に縦皺を刻みながら一寸先の闇を見据えた。――そのときだった。
「――ッ!? フィオネ!」
「……?」
視界いっぱいの闇の中、時の止まったような景色の中の一部分だけがぬるりと歪んだ。瞬間、フィオネの背後に大翼を広げたナニカが降り立っていた。
数秒先の悲惨な未来を幻視して急くようにカイムの喉を衝いて警告の声が奔る。ナニカは片方だけ異様に永い右腕を水平に上る。まるで死神の鎌のようなそれは、恐ろしく危険な雰囲気を宿し明らかにフィオネの頭部を狙う軌道を描く。悲鳴のような風切り音が軋みを上げ、一線が弧を描く。
“クソッ! 間に合わない!”
カイムが前のめりに駆けだす。いつの間に抜いたのか、フィオネの身体目掛けて伸ばす手の反対には無反射加工のナイフが握られている。襲撃者に向けて投擲しようにも、彼の位置からではフィオネが射線上に立っているせいで難しい。無理を承知で敢行すれば、あるいは僅かな可能性が敵を穿つかもしれない。しかしそれ以上にフィオネの命をカイム自らが奪ってしまう可能性の方が、大幅に多い。
一刹那にも満たない瞬刻のなか考えを巡らせ、自らの瞬発力を頼りにカイムは精一杯手を伸ばす。フィオネの腰を掴んだその手は、幸いにも敵より先んじる事が出来た。
だが敵の一閃はフィオネの首筋まで目と鼻の先だった。
間に合わない――自責に歪む顔貌で、藁にもすがるように駄目元で彼女の身体を引き寄せる。寸刻の後カイムの耳朶を震わせたのは肉を裂く、鈍く、そしてどこまでも無慈悲な血の臭いだった。
「グゥウウッ……!」
果たしてそれはフィオネの断末魔だったのだろうか。それにしては些か、およそ淑女の呈をなす彼女の声とは思えぬ野蛮さが色濃い。慣性に従って引き寄せた体を抱き、無くなったであろう彼女の頭部を眇め見て、カイムは当惑したように数秒だけ固まってしまった。
「生きてる……な、どう見ても」
「言うに事欠いてそれか、お前はもっと言葉使いを……いや、いまは止そう。ありがとう助かった」
清澄な響きで感謝の意を伝える彼女は、見紛うことなく緊張に引き攣りながらも損なわぬ美貌を未だ携えていた。彼女の身が健在ならば、カイムが耳にした呻き声はなんだったのだろうか。答えは考えるまでもなく目の前に提示されていた。
幽鬼の如き出で立ちで右腕をだらりと下げている敵は、カイムらが血眼になって追い続けていた“黒羽”に相違なかった。地獄の晩餐じみた料理を振る舞ってきた彼が、いまその調理道具たる腕に一筋の鮮血を垂らしている。源泉は彼の上腕三頭筋部分に深く突き刺さっている一振りのナイフから溢れていた。
窮地を救ったそのナイフに、カイムは見覚えがあった。光もなく飛来したそれは、間違いなく彼自身と同じ無反射加工が施された物だ。夜闇に紛れる術として見出されたこの技術を利用しているのは、彼が知る限りでは二人しかいない。
元暗殺者であるカイムと――いまもなお続けている現役の暗殺者たるアウルムしかいない。
「いったん体勢を立て直すぞ」
「どうして、黒羽が目の前に居るんだぞ? ここで奴を捕縛しなくては、これまで被害に遭った住民へ顔向けが出来ない!」
「死んだ人間とどうやって対面するって言うんだ、死者を偲んで自分まで同類になっちゃ元も子もない! それに逃げるわけじゃない、二人で相手取るには難しい相手だ。一定の――あいつの腕が届かない間合いまで下がってから笛を吹くんだ」
「死生観について述べたい事はあるが、確かにいまは黒羽が先決。その提案に乗ろう」
どこかでこの逼迫した状況を静観しているだろうアウルムに思いを馳せ、カイムは黒羽との距離を空ける。アウルムが居るのならもし黒羽を見失ってもすぐさま居場所を知る事が出来る筈。彼の疾風の如き脚力を知っているカイムは、それを視野に入れての行動を取った。
腰に佩いたもう一本のナイフを引き抜き、双刀の構えで敵を見定める。傍らのフィオネもまた同じように剣を抜き、由緒正しき壮麗な構えを執る。対する黒羽は腕に突き刺さったナイフを小さな棘でも刺さったかのように難なく抜き捨て、暗く深い洞のような死相漂う目線を二人に向ける。
黒羽の武装は一見して皆無。注視すべきはフィオネの首を刈り取ろうとした脅威の右腕。通常人間の腕は、股下辺りまでと相場が決まっている人体の常識であるが、極稀にそれよりも長い人間というのは確かに存在する。しかし黒羽の両腕は、それら“例外”よりなお“例外”の長さを誇っていた。股下で留まらず膝まで届く両腕は、前膊の部分が獣じみた体毛に覆われ、幾多の生き血を啜り赤黒く変色していた。指先は歪に、鋭利な刃物じみた形をしていた。
どれだけの数を手に掛けてきたのかを過たず理解したカイムは、即座に笛を吹き鳴らそうと呼子笛を口に咥えた。が、援軍を呼びかける高音の号令は鳴り響かない。
「どうしたカイム、何故鳴らさない?」
「前言撤回だ。笛は鳴らさず二人で仕留める」
口元から呼子笛を離し慮外な事を口走るカイムに、フィオネが黒羽への警戒の視線もそぞろに眉を上げた。明らかに怒気を宿した瞳ではあったが、それとは裏腹に彼女の口から出た声は冷静そのものだった。
「なるほど、犠牲者を増やさない為……か。見直したぞカイム、他者を慮り勇猛に立ち振る舞う姿、称賛に値する」
「勘違いするな、不蝕金鎖から被害を出したくないだけだ。そうなったらジークは間違いなく、黒羽を捉えるんじゃなくて“駆除”する方向へと転換する」
「捕獲を命じられている以上、それを見過ごすことは出来ない。なおさら二人でやるしかないようだな」
短く嘆息をしフィオネは黒羽に視線を“戻した”。一時の会話の為に視線を外していたのを思い出し、はっとなった瞬間、彼女の前に漆黒の風が巻き上がった。
音を置き去りにした豪腕が鼻先に奔った。間一髪躱せたのは、運以外の何物でもない。完全なる不意打ちに鼻白み、フィオネは手に持った物がなんであるかを忘却したように、剣先は動かない。間断なく黒羽が腕を振るうのを懸念したカイムが、振りぬいた状態の黒羽に対して双剣を奔らせる。無反射加工されたナイフは闇と合一し、風を切る音と共に標的目掛けて疾駆する。
常人であれば目を瞠る速度の剣捌きを、こともなげに躱し黒羽が距離を空ける。カイムの間合いの外まで下がった黒羽に、一筋の月明かりが一瞬差し込む。全貌こそ看破出来なかったが、それは間違いなく男の体躯で、男の顔をしていた。
危機を逃れ慄くのではなく毅然とした面持ちを崩さず見据えていたフィオネが、月明かりが差した瞬間、懐かしむような悼むような情の混じった表情を覗かせた。
「そんな……まさか……」
自問する言葉が切っ掛けとなったのか、意外な事に黒羽はカイムとフィオネから踵を返しスラムの最奥へと風の如き速さで逃げて行った。
「なっ、待て――ッ!」
黒羽にとって優性とも思える逼迫した状況をあっさりと投げ捨てた相手に対し、驚愕を露わにしたカイムは、それでもすかさず敵の後ろ姿から視線を外さずに追いかけた。地の利はこちらにあるのは明らか、相手が何処に向かっていようと、どの道を辿ろうと先行して待ち構える事すら出来ると――そう思い込んでいたのは誤りだった。瞬く間に悍ましき漆黒の双翼を背負いし羽つきは、カイムの速力を凌駕して視界の外へと消え失せていた。
「話に聞いた通り、こりゃバケモノじみてる……」
人間相手であれば背中に追いつく自信もあった。愕然と口を衝いた言葉は、なんの見栄もへったくれもない混じり気ゼロの本音であった。いくら気力を振り絞ろうと、あれ相手の鬼ごっこでは勝ち目が見えない。
諦めるほかになくなったカイムは、アウルムが追っていると信じて先の見通せない深淵から視線を離した。襲撃現場から遠く離れ、そういえばフィオネを置いて行ってしまったと思い出しながら、カイムは二刀のナイフを鞘に納める事なく警戒しながら未明の空の下を歩いて行った。
※
全てを見下ろす神の如き視点をもって観察し続ける事数時間。ことの“仕組み”を理解したアウルムは煙草を咥え燐寸の火を点けた。
黒羽という殺人鬼によって繰り広げられた殺人には二通りの“結果”が残されていた。一つは酸鼻を極める死体の凄惨さ。そしてもう一つは、羽つきの死体があがるときのみ、その死体には趣向の手が入っているという事実。前者は思索するまでもなく獣に食い散らされたように、法則性も規則性も、まして余計な感慨などなく処理された肉辺だ。しいて言うならば、その殺しは“殺しそのもの”を悦楽とし啜るような行為に等しい。対して後者の殺しには紛れもなく確固たる意志の許に動いているという思念が、まざまざと見て取れた。羽つきを殺すに至るまでの拷問方法やその死体の惨状は、人間の手でも作り出すことの出来るいわば既製品に過ぎない。
このまるで性質の違った二つのパターンを照らし合わせ思考し、今回の“事”をしかと監視していたアウルムの脳裏にある一つの答えが導かれる。
“なるほど、羽狩りも一枚岩というわけじゃないんだな”
正しく在れと自らに科し、また同組織の者達にも指導する女隊長を思い、冷たく嘲るような笑みを浮かべて屋根から別の屋根へと飛び上がる。凍てついた湖面のような瞳は、逃すことなく先までカイムとフィオネの二人と戦っていた黒羽の後ろ姿を追っている。
初めてまともに見た敵の底力は、驚愕に値し、人間の可能性を示した。――否、人間を捨てなければこの域までは到達出来ないのだと証明された。
屋根の稜線を蹴り上げながら翼をはためかせ短く飛翔を繰り返す黒羽に、全速力で追い縋るアウルムの額には一筋の疲労の雫が浮かんでいた。いくら常人を越えた脚力が自慢といっても、あくまでそれは人間に照らし合わせた場合にのみ限る。けしてその実力はバケモノに匹敵するとは限らないのだ。己にも翼があれば、あんなふうに飛ぶことも叶うのだろうかと、無い物をねだる子供のような思考が去来し、アウルムはかぶりを振って追跡を続けた。
ほどなくして黒羽の脚はとある牢獄の最奥にある家屋にて止まった。度重なる地震によって街としての形骸を欠落させたその区域は、屋根が落ち壁が崩れ人の住まう地としての資格を落としてしまっている。生きた人の姿は無く、あったとしてもそれはもう魂を失った屍でしかないだろう。飢餓の果てに辿り着いた最果ての地まで追跡したアウルムは、慣れたように呼吸を殺し、足音を消失させ黒羽の居る家屋へと近づく。
「――ウッ――チガウ、ワタ、しは……――」
短刀の投擲圏内まで近づいたところで、ふいに耳に入ってきたのは男の自責に苛むような呻き声だった。繰り返すがこの地区に生きた人間はアウルムを除いて存在しない。であるなら、この声は自ずとバケモノと畏怖される黒羽としか考えられない。
「――コロシたくない。カエルんダ――フィ……ネに――」
苦悶に喘ぐ声に狂気を飾るようにして、がりがりと壁を削る音が聞こえる。以前、スラムを捜索していたときに見つけた棲家の一つに、この麻薬中毒者が発作的に行いそうな爪痕が残っていたのを思い出す。思い出して、アウルムは確信を得た。
――奴こそが“本物”の黒羽なのだと。
音もなく短刀を懐より引き抜き、即座に対応出来るよう体勢を整える。言葉を発した以上、敵がただのバケモノでないのはわかったが、だからといって呵責することなどありえず、ゆっくりと、それでいて素早くアウルムは背後より忍び迫る。十数年の年月をかけて愚直に研鑽された技術を賭して、
万事損なうことなく組み立てられた必殺の工程は、しかし血の断末魔を聞くに能わず、空虚な金属音を奏でて失敗に終わった。
「チッ、バケモノの分際で足掻くつもりかよ」
「――あガァ、まタ……ダ、ダメだ……にゲ――」
短刀を受け止めた腕が信じられない様子ですぐに手放し告げる黒羽の風情は、どこか哀訴の色を宿していた。が、すぐさま一転し彼の気配が濃密に膨れ上がる。さっきまでまともに会話をしようと必死になっていた顔貌は身を潜め、そこに居るのは一個の殺人鬼としての羽つきでしかない。
遠く深い洞の双眸を向け黒羽がアウルムと対峙する。
一撃の元に仕留めきれなかった。――軽く舌打ちをし、アウルムはいまの装備がなんであるかを瞬時に脳内で再確認し、その武器の貧困さに再度舌打ちをした。必殺の間合いにて失敗した短刀が右手に一本。それとは別に懐に隠し持ったのが三本に――これは先ほどフィオネを救うのに使用してしまった為に一本減ってしまっている――ブーツに隠した短刀が二本。毒は痺れ薬と遅効性の死に至る毒薬のみ。後残っているのは、頑丈な金属糸を縒り合わせたロープのついた三日月型の鎌。
ニホントウをお頭に預けたのが不味かった。深追いしたあげく、功を焦っての襲撃が失敗になったいま、尻尾を巻いて逃げ帰るわけにもいかない。
アウルムの思案を余所に、理性を無くした黒羽が豪腕を振るう。目にも留まらぬ速度が駆け抜け、振りぬいた軌跡をたどるように颶風が駆け抜ける。カイムがついぞ見きれなかった速度の攻撃を、なんなく躱して懐へと潜り込む。
腰を低くし短刀が地を這う。人間らしからぬ数々の行動を起こしている相手に通用するかはわからない。無為に終わればそのままこっちが命を散らせてしまう。それでも駆ける価値はあると踏んで、アウルムは手の空いたもう一方の手で懐より短刀を取り出し、両端より剣筋を這わせる。
「――りゃッ!!」
交差する剣線は、左右より奔り黒羽の足首を切り裂いた。
「――――ッ!」
例えバケモノと言えど痛覚は存在するらしく、苦痛に口元が歪み、潜り込んだアウルムを潰さんとばかりに振り下ろされようとしていた腕が空を薙ぐに終わる。後ずさりたたらを踏むも、右足首は元の長さよりも短く切られ、上手くバランスを取る事が出来ず、黒羽はそのまま背後の壁に背をぶつけてしまう。
それらの様子を見咎め、アウルムが陰惨な笑みを覗かせる。さしものバケモノとしても刃を阻むほどの肌や筋肉を持っているわけではないと確信し、相手がバケモノに値しないと判断した彼は、既に黒羽に対する不透明な面全てを無視することにした。相手が刀剣類で害する事が出来る以上、それは彼にとってニンゲンとさして変わり映えしない存在だ。よって、例えどれだけの膂力と常識はずれの速度を持っていようと――既に片足を奪った為、それも難しいと思われる――警戒するに達しても、恐れるに届きえない。
殺す。ただ無為な命を摘み取る。それのみに没頭する。刃を握る両手はその為に、振るう両腕はその為に、起点となる双肩は何処までもしなやかに。下肢は獲物を追い詰める為だけに存在し、双眸は獲物を逃さぬ為だけに動員する。
アウルムの意識の隙間を縫うように、片足首を失いながらも黒羽は凄烈なる両腕を鎌鼬のように振るい、意思も意味もなく命諸共に同義として刈り取る死神の鎌が振るわれる。視界の外より襲い掛かるケモノの如き腕がアウルムの左半身に迫り、予見してすらいなかったその攻撃を、彼は無謀にも反射のみで短剣を差し込み防ごうとする。
不味いッ――と思ったときにはもう遅かった。肉食獣にも勝るとも劣らぬ爪牙が短剣に衝突し、あっけなく刀身を粉々にしてしまう。刀としての意義を失った短刀の空々しい破砕音を聞きながら、彼は次の瞬間に訪れる激痛と衝撃に備え歯を食いしばった。
「――がっ!」
何かが木端に砕けるような音が体の内より響き渡り、その痛刻に顔を歪めながら、衝撃の外へと向かって大きく飛びのいた。左から打たれれば自ずと右へと飛んでいく。威力を殺し、被害を最小にとどめるにはそれしか他に方法が無かった。
視界が白く明滅し、鼓膜が甲高い超音波を届けながら、口腔で血の味を占め、鼻腔が鉄分のつんとした臭いを衝く。散々に散らばりかけた意識を繋ぎ止め、アウルムはいたちっぺとも言わんばかりにまだ無事な右手で残る三本の短刀を投擲した。一刀目を虫を払うようにして叩き落とされ、続く二刀目までも返す手で振り落とされる。――が、その柄に沿うようにして切っ先の続く三刀目が二刀目の陰より出でて、黒羽の脇腹へと突き刺さる。同時に、頭上から降ってくる物体に反応し破壊すると、なにやら正体不明の液体が彼の全身に浴びせられる。
その様を見届けて苦痛に掠れた表情でざまあみろと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべ、アウルムはスラムの闇に紛れた。
残る武装は鎌とブーツ内に仕込んだ短刀二振りのみ。暗殺者としての思考回路は、これ以上の接敵は不可と断じている。いくら“仕込み”がすんだからといって深追いをすれば、或いは食い破られる可能性もある。相手がニンゲンに似た何かと判じてはいても、空を飛ぶさまを忘れていない彼の脳内では、飛行を戦闘のプロセスに組み込まれたら危うい状況になると危惧している。なにより――黒羽によって与えられた傷は思った以上に深く、一瞬の油断が招いたツケの重さが悔恨の重圧を増す。
武器が足りない。偵察程度の装備しか備えていない今の自分では、あの黒羽を殺しきる存在になりえない。暗殺者たらんとす自分が、その本懐を――意味を模索する術を失っては沽券に係わる。ここで急いて命を散らせば、全てが無為のままに帰結してしまう。
左腕が痛む。まるで肩先からすべてが消失したような喪失感と、ありえない幻肢痛が思考を際限なく遮る。こんな負傷を追うのは初めてだ。改めて黒羽の持つ埒外な膂力を身を持って思い知る。だが、ただでは終わらない。一度狙った首を落とすことなく死ぬことは、暗殺者には許されていない。
『まーたそんな固い事言ってんのかアウルよぉ。ガキの時分からそんな凝り固まった考え方してたら、大人になってから苦労するぞ。遊びの一つも知らないでいると、いざっていう時の役に立たねえんだから。
――なに? 自分には必要ないだぁ? アホぬかせ! 石のように硬くなってちゃ、水にはなれねえぞ。もっと笑え! もっと泣け! もっともっと激烈に怒れ! ありのままに生きろ!』
かつて、不蝕金鎖がまだジークではなく、先代のボルツが頭だった頃、こうして彼はいつものように感情を殺しているアウルムに教育していたのを思い出す。そう、あの頃はまだ磊落に大笑する頭が健在で、牢獄の情勢こそ今よりもずっと悪かったが
、それでも何物にも代えがたい愉悦がそこにはあった。
誰よりも笑い、誰よりも泣き、誰よりも激怒していた彼は……もうこの世にはいない。いまや娼館の浴槽を元に作られた墓の下で眠って、もう目覚めない。誰もが恩義を感じている彼に、直接的な恩返しをする事は誰であろうと叶わないのだ。ただ彼に恩を返すことが出来たとしたら、それは牢獄の治安を改善し、恒久的平和の地へと作り変える事だろう。少なくとも、ジークは先代の意思を受け継いでいる。
だから、その障害となるべき黒羽は排除しなくてはならない。決して善意のみで作られる道だけが、正しいとは限らない。血塗られた荒涼の道であっても、上を歩く者が快しとするならば、それは間違いなく正しいのだ。
間断なく痛む左腕を抑えながら、慙愧に身を震わせ奥歯を食いしばりアウルムは夜闇の中、業腹ながら撤退を余儀なくされた。
未明の空の下、リリウムの客足は黒羽事件の影響もあってかそこそこと言った次第で、ジークの吸う葉巻の数は増す一方だった。
紫煙に燻された室内で胡乱げな眼差しをした彼が見るのは、数枚の報告書。そこにはオズの手によって書き記された――その顔貌とは縁遠いほど達筆な字で書かれた――書類には、これまでの黒羽事件についての被害や現場の惨状、その他すべての備考を添えてある。毎度の事ながら彼の仕事ぶりに感心し、先代から続く忠誠心に感嘆しながら紫煙を吐き出す。背後の窓が不用心に開いたのはその瞬間だった。
「わり、お頭……ちょいと邪魔するよ」
遠慮がちに開かれた窓に襲撃者が来たのかと警戒しながら振り返り見据えると、姿を現したのはアウルムだった。窓から覗かせた顔には憔悴の色が滲み、額にも玉のような汗を滲ませている。
「アウルムッ!? お前ッ、その腕はどうした!?」
「情けねえ……ドジっちまった。あの野郎、思った以上にやりやがる。すまんが、手当するのにここ……貸してくれ」
「構いやしねぇよそんな事。いま医者を呼んで……そうだ、下にいまエリスが来てる。――おい誰か居ないか!?」
部屋に入るなりソファーに全体重を預け今にも瞼が落ちそうなアウルムに、心痛な声で部下を呼び出す。すぐさま駆けつけた若い下っ端がアウルムの存在に瞠目したが、ジークの切迫した面持ちに冷静さを強いられ佇まいを直した。
「すぐに医者を呼べ! いまなら下にエリスが居るだろ、彼女をすぐに呼んで来い!」
「へいっ! わかりました!」
急き立てる下知を受け屹然と背筋を伸ばし、下っ端が慌ただしく部屋を出て行く。開け放たれたままの扉は、窓から入ってきた気流に流され紫煙が吐き出されている。血塗れのアウルムが凭れるソファーは、その風光明媚な品位を下賤な赤によって穢され、調律された完璧な空間を凌辱し続けている。
目に見えてわかる傷の重さに、すぐさま処置をしなければと判じたジークは掠れた呼吸を繰り返すアウルムの衣服を脱がす。何をするにもまず患部がどうなっているのかを見ないには始まらない。左腕を抑えているのを見たところ、傷はそこにあると踏んで服を脱がすのではなく切り裂くしか他無いと、抽斗からナイフを取り出し作業を進める。
「こりゃ酷ェ、猛獣とでも格闘してきたのかよお前は」
「はっ……猛獣ならどんなに良いか。殺意に従順で知能が低いって点じゃ……ま、あながち……間違っちゃねえ、な」
「それだけ減らず口が叩けるなら大丈夫だ。タイミングがよかったな、いまエリスが来てるんだ、もうすぐ駆けつけてくるだろ」
「それはまた、ぞっとしないな。あいつに面倒みさせたら……後で何されるかわかったもんじゃ……」
そこまで言い切って体力が切れたのか、声を出すのもやめ浅い呼吸を繰り返すのに専念し始めた。
牢獄が生まれてからこのかた、彼がこうも傷ついた姿を晒すのはジークには初めての事だった。先代ボルツの息子として不蝕金鎖に所属していたジークが初めて会った頃から、彼は既に完成された暗殺者であった。殺すという行為に呵責なく首を落とし続け、彼の正体を知る者は畏怖の念を懐かずにはいられない。そんなアウルムが深手を負う程の相手である黒羽とは、もしや本当にバケモノなのでは。姿もわからぬ相手に思いを馳せ、ジークはエリスが来るのを今か今かと首を長くして待ち続けた。
開け放たれたままの扉からエリスが医療道具の入った箱を持って現れた。彼女はいつもと変わらぬ古井戸のような本心を覗わせぬ瞳で窮状を把握し、すぐさまアウルムの傍へと近づいた。
「……酷い傷ね、猛獣にでも襲われたの彼?」
「その下りはもう二番煎じだ。済まないが治療を頼む、報酬は弾む」
「報酬はいつも通りでいい。それより、腕が折れてる可能性があるから、添え木になるような物をお願い。それと血を拭く為のタオルも、勿論清潔なやつ」
例え厭う相手だろうと、患者であれば誰だろうとエリスにとっては同じなのか、負傷者がアウルムと知っても顔色一つ変えず的確に指示を出し始める。言われるがままに粗方の道具を集め、エリスの処置が始まる。
「出血量に比べて怪我の度合いは重くないのが幸いね、ただ、この左腕……最悪の場合、二ヶ月はこのままかもしれないわよ」
「そんなに酷いのか?」
「ただ折れてるなら良いけど、もしかしたら砕けてるかもしれないわ。そうなったら、後遺症の覚悟もしとかないと」
どのように骨が折れているかなど、切り開いて見なければわからない。牢獄のみならず、ノーヴァス・アイテルに置いての医療は然程進歩しておらず、骨折などの人体内部の診断はそれを診る医者の慧眼に掛かっている。エリスの目から診るに粉砕骨折の可能性も危惧されるアウルムは、だが青褪めながらも剽げた仕草で微笑した。
「俺は治るのが早いんだ、二週間もあれば……何とかなる」
「馬鹿なこと言ってないで、あんたは大人しくしてて」
起き上がろうとしたアウルムの額を突いて再びソファーで横にさせる。着々と処置の進むのを他人事のように眺めながら、アウルムはふと思い出したように「あっ」と声を漏らした。
「そう言えば、カイムに伝えておいて欲しい事があるんだ」
「なに?」
「エリスじゃない、お頭に言ってるんだ」
「あっそう」
途端に負傷した左腕に激痛が奔ったが、アウルムは努めて声を上げないように歯を食いしばりながら精悍な面持ちでいるジークを見上げた。脳裏に思い浮かぶ今夜起きた出来事の全てをまとめ、必要な部分のみを抜粋する作業を行い、カイムに必要な情報を取捨選択する。上手く行けば、明日の内にでも黒羽事件の全てが解決されるかもしれない。
「羽狩りの中に他人の服着て我が物顔で歩いてる奴が居る。少ない手がかりを全てだと思うな、とでも言っといてくれ」
「……なるほど、羽狩りも一枚岩とはいかねえもんだ。牢獄じゃなくとも、こと組織には良くある厄介事だな」
「あと、本命には印をつけておいた。飛び切りのきっつい印をな、今頃、奴は落とそうと躍起になってるだろうよ。明日にでも、ケリをつけるからそこのニホントウ返してくれ」
そもそも怪我を負ったのも少なく頼りない装備で挑んだのが敗因でもあった。よってアウルムは今度こそ万全とはいかずとも、虎の子のニホントウを持たなくては始まらないと判断した。普通ならば止めるべきなのだろうが、ジークはそんな様子もなく
、寧ろわかっていたように破顔し部屋の隅に立てかけてあったニホントウを傍に置いた。
「ちょっと待って、この怪我で明日にでも動くつもり? 馬鹿じゃないの、死にたいなら治療する意味がないんだけど。止めて良い? 死んでいいから」
「……お頭」
代わりに代弁してくれと目配せし、アウルムはそれっきり剣呑な眼差しを向けるエリスから逃れるように天井に視線を移した。
「アウルムなら大丈夫だ。だからエリス、治療を続けてくれ」
「いやよ、別に私、アウルムが死んだって良いもの」
「アウルムの窮地を救ったとカイムが知ったら、あいつもお前の事見直すぜきっと」
「すぐにでも動けるようにしてあげる」
カイムが絡むと驚くほどにあっさり引き受けるなと、呆然としながらアウルムは治療が終わるのを待ち続けた。時刻は既に夜半を大きく過ぎ、後二、三時間もすればそれが白くなってしまう。今夜もまたアイリスとの約束を破る羽目になってしまう。しかもその上、このような隠し切れない傷まで残って。
どのような言い訳なら納得がいくのかを思索していると、窓の外は次第に明るくなり始めていた。作業が終わりエリスが無表情のまま部屋を立ち去ると、アウルムは用意された替えの服に着替えた。エリスの施した治療は精確で、やはり彼の左腕は折れていた。左上腕部を折ってしまったせいで、戦闘の幅は大きく狭まったが、それでもこの傷を負わせた黒羽に負ける気は全くしなかった。背中に背負った大太刀の存在は、左腕に添えられた添え木の存在を忘れるほどの重みで、確かな己の命を背負っているにも似た感覚がある。
出血の塞がった傷口を見やり、ふと煙草を吸おうと思い至り懐に手を入れると、そこには何もなかった。そのときになってアウルムが負傷したとき、その流血によって胸元は血濡れになり、煙草は駄目になってしまったのを思い出した。
「すまんお頭、悪いんだが煙草持ってない?」
「ほら、せめてもの見舞いの品だ。足りない分は報酬に上乗せしておく。せいぜいアイリスの機嫌を損ねず頑張ってくれよ、お前が居なくなったら、俺は夜も眠れなくなっちまう」
投げ渡された煙草を右手で受け取り、一本だけ出して咥え、器用に燐寸の火を点け一気に吸い上げる。紫煙が一気に肺の中に侵入し、脳内に刺激をもたらす。冴え渡った思考はジークの僅かな眦の下がる瞬間を見逃さなかった。
「ベルナドは大人しいのか?」
「それが、おかしいぐらいにあっさり引っ込んだ。まるで今回の事は遊びに過ぎないって風で、考えが理解できん」
「なら幸いだな、いま抗争になったら正直面倒だ。俺は片腕、相手の手勢は大勢。その趨勢は明らかに風錆寄りだ。金によって得た力ってのも、あながち馬鹿には出来ない」
「だが、俺はあいつの金の使い方が気に入らない。仲間が死んでも、棺桶すらつくらず懸賞金を上乗せするような男だ。あいつなりに部下は大事にしてるんだろうが……まあいい、いずれ決着をつける日が来るさ」
ジークの個人的見解はアウルムの価値観に照らし合わせるに値しない。ただ懸念すべきは、ベルナドの背後にいるかもしれない女の存在だ。
ガウが本当に奴の背後に居るのだとしたら、この怪我のまま相手取るには難しい。アウルムにとっては黒羽よりも遥かに警戒すべき相手だ。何故なら彼女はその実力だけではなく、まともな策略を編み出す思考力を持つ可能性がある。あれだけの優れた暗殺者なら、策謀の一つや二つ思いつくだろう。彼女に比べたら黒羽など恐れる必要もない。獣同然の思考に殺意を塗りつぶした彼の行動は、全てが殺人衝動から発しており、辻褄など合わせることなくやりたい事をやっているに過ぎない。
「明日にでも黒羽の件はカタを着ける。ただ……」
命令の捕縛という前提条件を、もしかしたら逸脱する可能性を考慮して、アウルムは口を噤んだ。
この場合、殺してしまったら失敗という事になるのだろうか。これまで殺しが最終目的だった為に、生きたまま達成というのは初めてだ。細かい所が決まっていない。
「……殺したら、駄目なのか?」
“仕込み”をしてしまった以上、黒羽に待ち受ける道の終着点は死しかありえない。子供が親に玩具をねだるように問いかけられ、ジークは吸っていた葉巻を口腔内の紫煙と共に吹き出した。
「ごほっ、別にかまいやしないさ。お前がここまでの傷を負ったんだ、お前以外じゃ死人を出す羽目になるかもしれん。そうなるなら、悪いが羽狩りには涙を呑んでもらうさ。こちとら慈善事業で命まで投げうるつもりもないんでな」
「それが聞けて安心した。なら迷わず――殺す事が出来る」
決然と告げジークの私室を後にする。階下に降りると受付にいるさっきの下っ端が傷の具合を心配したが、麻酔が効いているので問題ないとしか返さなかった。今夜はもう、ヴィノレタに寄る暇さえない。
未明の空は朝焼け間際の乳白色に染まり、冷たい風が傷口を凍てつかせる。気のせいか、風に乗って牢獄には似つかわしくない香水の香りが鼻腔に掠め、ふいにその香りを纏う者の末路を想像した。
間抜けを踏むだろうその者は、知らぬ間に誘いに乗って吊り上げられるだろう。既に周りは囲われているとも知らず、自らの行いがその首を絞めるのだとも知らずに。
麻酔が切れかかり疼痛が蘇り始めた頃、ようやっと自宅へとたどり着いたアウルムは、毎晩帰っているにも拘らず久方ぶりの帰宅のような気がして思えなかった。鍵を開錠して扉を開き、静かに廊下を通り抜け寝室へと向かうと、案の定ベッドの上には寝ずにいたのか重たげな瞼を必死に持ち上げながら半眼でいるアイリスが座っていた。徒然と待ち人が現れるのを待っていたのだろうか、だとしたら忠犬よりなお勝る忍耐力だ。
「遅い……」
「悪い、ちょっと面倒事があってな」
剽げて肩を竦めベッドまで歩みよると、それまで微睡みの中を遊泳していた彼女の瞳が見開かれた。
「その怪我、どうしたの?」
そう言ってアウルムに掴みかかる彼女はいつもの斜に構えた態度を投げ捨て、急迫した声音を露わにしていた。およそアイリスらしからぬ態度に、自分がそれ程思われているのかと、文字通り痛み入り彼女の冷えた髪の毛を梳いた。
「なに、ちょーっとお茶目してな。心配いらない、二週間もすれば元通りだ」
「嘘。アウルなにか隠してる」
「本当だよ、アイリスの手料理を毎日食べればそれぐらいで治るさ」
無論、アイリスの示す言葉の意味は違ってはいると、アウルムも理解している。ただ、それを話すにはまだ早すぎる気がして、アウルムは逃げの一手をとるしかなかった。
あくまで恍けるアウルムに呆れたのか、彼の頭を撫でる手を掃いアイリスは憮然と溜息を吐いた。秘匿しているのは明らかだが、それを問い質してもアウルムが白状する保障はない。いつもふざけた態度をとっているのに、こう言った時ばかりは頑なになるのがアウルムだ。
「……ばか」
もう一度、今度は深くアウルムの香りを吸い込むように深呼吸し、アイリスは深く溜息を吐いた。
感情表現が不器用な彼女は、こう言った憎まれ口を叩く事でしか胸に秘めた思いを吐き出すことが出来ない。だから彼女の罵倒は秘め隠した感慨の原石であり、口を衝く声音は原石を研磨するに等しい行為なのだ。同棲生活を送るよりずっと以前に、彼女がそういう人間なんだと深く理解しているアウルムにとって、それは聞きなれた――しかしそれでもなおなによりも喜ばしい罵言なのだ。
矮躯に秘めた様々な苦労を慮り、アウルムはそっと優しく抱き寄せる。体より発する暖かな香りは、長時間ベッドの上にいた証左であり、彼女が己を待ち続けている姿を思い浮かべ、自然と抱きしめる右腕に力が入る。胸元で苦しさから声を漏らすが、聞き入れずにベッドへと横倒れになる。左腕に気を遣い、右側からしっかりと横になる。
思い通りにされるのが気に入らないのか、アイリスは小さな抵抗として胸を叩くが、それも彼にとっては赤子がじゃれている程度にしか感じられず、抵抗虚しく主導権をアウルムに握られる夜となった。
翌日、起き抜けに居間の椅子に腰かけると、アウルムの目の前に並ぶ料理の品々が普段より豪勢なのを見て、怪我も忘れて再び熱烈な感謝を行動によってしめした。最終的に一頻り満足したアウルムの背に投げかけられた言葉は、「三日間お預け」という腹に据えかねた刃物の如き雰囲気を宿したアイリスの宣言だった。