真円の月が上る夜闇の空、猖獗極まるスラムの最奥にて黒く歪な影が蠢いていた。堰きつくような呻き声と、血痰でも吐いているかのような音。苦しみ身悶える者が、老朽化と相次ぐ地震の被害によって半壊した家屋内にいた。
片方の足首を失ったその者は、しかし気にした様子もなく先の無い足首を立てて蹲っている。例え足が無くなろうと、長さはそれほど変わらないのだから問題ない。まるでそんな無茶な考えを持っているかのように、傷口から流れる鮮血を顧みる事もない。
この身は既にヒトに非ず。故にこの程度の傷に苛まれる身ではない。なのに彼は息も絶え絶えに口腔から胃液を流して、四肢を痙攣させている。これはいったいどういう事なのだろうか。必殺を誇る両腕に籠る力は愚か、立って歩くのさえ不便するこの身体はどうしてしまったのだ。その上、鼻腔を衝く刺激臭まで立ちこめている。洗い流そうとしても、血で流そうとしても落ちない。
脳裏に過ぎるのは一人の男。あの漆黒の外套を身に纏い、恐るべき俊敏性と隠密性を兼ね備えた暗殺者のような男。我が豪腕の悉くを躱しきり、その身に苦痛を刻み込めたのはたったの一度のみ。どす黒い情念に塗りつぶされた己を恐れることなく果敢に殺そうとしてきたあの男は、いまどうしているだろうか。靄のかかった記憶が定かであるなら、彼の左腕は間違いなくこの手で壊した。であるなら、再戦は叶わぬだろう。例え挑んでこようとも、互いに負傷した身。衝突の後に待っているのは醜い泥仕合しかありえない。
体内を駆け巡る血液と体組織が食い破られるような激痛に、背中から生える大翼が過剰反応し大気を叩く。男の身体を、えも言えぬ違和感が残り続ける。
「――フィ、お……ガ……ァ、ネ……――」
弱り切った身体の内側を何かが食い破るような幻覚が迸り、脳細胞の働きが徐々に弱まっていく。――おかげで、男は一時的に深淵の深き底に沈む記憶の箱が開かれた。
こうしてバケモノになる前の自分は、間違いなく人間であったと断言できる。そして、毎夜繰り返される殺人は望んだものではない、とも。全てはこの頭の中から鐘のように鳴り響き急くような声が、体を支配しているという事。
“――殺せ”
思えばそれは悪魔の囁きなのかもしれない。己と寸分違わぬ声音でありながら、命ずる言葉は己が決して実行しない忌むべき行為だ。
“――血を浴びろ”
粘性の泥のような意識が自我を塗りつぶさんと溢れ出るが、体がいう事を利かないのが幸いし、殺人衝動に駆られながらも動く事は叶わない。体内の血管を一本一本丁寧に引き抜かれるような痛みと寒気がするが、それでも男はヒトを殺さずに済んでいるのを安堵していた。
そうだ、これ以上罪を重ねてはいけない。ヒトを殺す為にこんな場所まで逃げ延びた訳じゃない。自分には伝えなくてはならないことがあるのだ。なぜこのような体になってしまったのか、それにまつわる真実を……
辻褄を失った記憶が蘇り、ある夜の街路の光景を映し出す。眼前に映る流麗な髪を伸ばした少女の後ろ姿。その頭部を、他でもないこの腕で刈り取ろうとしてしまった。運よく最悪の事態にならなかったが、こっちを見るその毅然としながら使命に燃える瞳が、彼にはとても痛ましかった。その信念を捧げる旗は、彼女が崇拝するには値しないハリボテなのだと、理解してしまったから。伝えなくてはいけない、彼女にこの真実を。この身体を。――己が何者であるのかをあの幼かった妹に。
唐突に喉元が熱くなり何かがこみ上げる。
「ガッ――ェ……ッ!」
気が付けば床には血だまりが出来ていた。源泉は、間違いなく男の口腔より吐き出されていた。
数か所を短刀によって刻まれてはいても、どこも重傷という部類には入らない。ただ一か所だけ、強いて挙げるならば脇腹付近の小さな刺傷と、患部に広がる変色した肌の色。毒々しい色で侵食するそれは、次第に男の身体全体に広がり続けていた。
傷を受けてからまる一日。始めは何とも無かったのに、いまでは動くのにも苦痛を伴う。
似たような苦痛を受けた事がある。――あれは何処だっただろうか。怪しげな実験室。人心を持たず、倫理を凌辱するヒトビト。四肢を固定され、隠密を科せられたような胡乱な灯が照らす室内。黒い……背中に生える翼のような黒い粉。
記憶はそこで強制的にシャットダウンされた。男は寸前の記憶を失い、その隙をまっていたと言わんばかりに悪意の泥が意識を塗りつぶす。
常識を食い破り。倫理を逸し。呵責を沈め。条理を不条理に覆される。
“――殺すのだ”
男の脳裏に再び浪々と謳うような声がした。
“――その崇高なる力を持ってして、破壊せよ、蹂躙せよ!”
底より伸ばされる手が彼を掴み、囁く。殺せと、その身を血で染め血で洗い流せと。今度こそ、抵抗は出来なかった。
朽ちるのを待つばかりだった死に体に未知なる場所から力が湧き上がる。しかし、それをもってしても全盛の半分程度しか動員出来ない。――十分だ。
今夜。この夜を再び肉片という血色の花を散華する場に変転せしめよう。
廃屋より這い出て、漆黒の翼を広げ――黒羽は今宵の獲物を求めて夜の牢獄へと飛び出した。満月の下、光を浴びながら飛翔する姿はさながら堕天した天使の風情。いくら月に近づこうと、その光が翼を焼く事はない。夜は、彼を味方している。
※
不蝕金鎖の城でもある高級娼館リリウムの私室にて、お頭が葉巻を呑みながらボスとしての厳めしい面持ちをしている中、カイム・アストレアはいつものように冷めた表情で豪奢なソファーに腰掛けていた。
昨晩、アウルムが黒羽と戦闘した際に負傷したという事案を聞いたときには、彼の実力を信頼していたカイムには信じられないという一念で頭が埋まっていた。自身よりも苛烈に、そして洗練された技術を誇るアウルムがまさか左腕を破壊されるとは思ってもみなかった。それほどに黒羽が強いのだと、昨夜対面した際に人間離れした膂力と俊敏さを目の当たりにしたいま、カイムはそれが嘘だと断ずることが出来なかった。
或いはあの夜、あのまま追跡を止めずに続けていたら彼は助かっただろうか。――否、足手まといになりいま以上の怪我をアウルムに負わせていたかもしれない。
はたしてそんな相手をまともな被害も出さずに捕縛する事が出来るのだろうか。組織内で最強だと信じて已まない暗殺者が敗北したのだ。並みの構成員が出会えば、それは即ち死を意味してしまう。
「アウルムの事だが、本人は二週間もすれば治ると嘯いていた事だし、ここはあいつを信用しよう。エリスは無理に決まってるって言ってたが、あいつの回復力は半端じゃない、あながち強がりってわけでもないだろ。
それよりも重要なのは……お前を呼んだのは、その負傷者からの伝言を伝える為だ」
「伝言? アウルがか?」
「ああ、といってもあいつの言葉を直接伝えても意味は無いだろ。随分と婉曲な言い回しだったからな」
もったいぶるように淡々と語るジーク。紫煙をくゆらせる彼はそう言って、手元の短くなった葉巻を灰皿に消し潰した。
「だが奴はそれでカイムには伝わると言っていた、だからあえてそのままの言葉を伝える」
言い切って佇まいを直し、幾人もの部下の命を支える両腕を組んで、ジークは先を続ける。
「“羽狩りの中に他人の服着て我が物顔で歩いてる奴が居る。少ない手がかりを全てだと思うな”。それがあいつからお前への言伝だ。それと、“本命”への仕込みは済んだそうだ。今頃奴はその発する臭いに鼻を曲げてるだろうよ。
どうだ、その意味お前なら誤解なくわかるだろ?」
「……よくわかった。これで最近感じていた違和感が拭われた気分だ。サンキュー、いまからでもフィオネと打ち合わせをしてくる」
後ろ髪引かれる違和感の正体を解いたカイムは、負傷したと聞くアウルムに無言で感謝する。彼のこの言葉が無ければ、ずっと“勘違い”をしたままだったかもしれない。この事件の仕組みを理解したいま、すぐにでも行動に移さなくてはならない。カイムは柔らかいソファーから腰を上げ、部屋を後にする。
「ところで、アウルの怪我は酷いのか?」
「主治医に聞いた方が早くて精確だと思うぜ、何だったら顔を見せてやれよ。お前の女だろ」
「身請けしたのは事実だが、あいつは俺のじゃないと何度も言ってるだろ。エリスには自由に生きて欲しいんだ。なにも俺にこだわって人生をふいにする必要もない」
古井戸のような何もない空虚な瞳。彼女には負い目がある。だからカイムは彼女にありったけの幸福な人生を望む。それだけが、カイムの足元を炙り続ける呵責を和らげられるから。出来る事なら、アウルム関連でエリスの許へ訪ねるのは遠慮したいのだが――大抵が不機嫌になるから――そうも言ってられない。事件が粗方片付いたら明日にでも訪ねようと決める。
「またそれか、あんま餌をやらないままってのも考え物だぜ。飴に飢えた女は怖いぞ、何をしでかすかわかったもんじゃない」
「経験談か? それとも……」
「助言だよ。俺からお前への、な」
涼しい顔で微笑し新しい葉巻の吸い口をナイフで切り落とし、燐寸で火を点けるジーク。助言はカイムのみならず、エリスの事を思っての事でもあるのだろう。だからカイムは一蹴するのではなく、胸の内に留めて部屋を出た。
地階に降りて受付で帳簿をつけている下っ端に見送られリリウムを出ると、空は夕焼け色に染まっていた。牢獄はノーヴァス・アイテルでは一番下位に地盤がある為、この夕焼けは思ったよりも早く顔を隠してしまう。峻厳な竪壁に囲まれた牢獄での夕焼けとは、束の間の平穏でしかないのかもしれない。カイムはそんな茜色の空を見上げ、フィオネの居るだろう関所内にある羽狩りの詰所へと足を進めた。
いつになっても改善されない劣悪な景色を見送りながら、脳内ではアウルムの残した伝言を反芻させる。彼の婉曲な言い分を聞く限り――長年アウルムと共に仕事をしていたころからの癖などを鑑みると、やはり自分は欺かれていたのだと実感する。違和感こそそこかしこに転がっていた。ただ、カイムがそれを路傍の石と見做して一顧だにしなかったのが原因だ。今更ながらに己の浅慮さに歯痒い気持ちが湧き上がる。
あんな男に出しぬかれていたなんて。――これ以上ない悔恨をこめて舌打ちをし、もう一つの案件について考えを巡らす。
臭いをつけたとアウルムは遠回しに言っていた。という事は“本命”を探し出すのはそれ程苦労しないという事だ。ならまずは“臭い”ではなく“香り”を振り撒いている者を追い詰めよう。いつだったかフィオネの潜伏用の服を見繕い関所前広場に訪れた際に交わした言葉を思い出す。
『牢獄のような、下賤な臭いが体については叶わないからな。それに、これは“臭い”ではなく“香り”というんだ。覚えておくといい』
「
過去に対して皮肉を込めて呟くカイム。悠然に語った者に対する嫌悪で眉間に縦皺が生じ、されど足は速度を落とさず、むしろ早くケリをつけたいと言う焦りに足早になる。影を大きく縦に伸ばしながら、彼は牢獄の境界線まで急いだ。
フィオネを訪ねて詰所に寄ると、そこには誂えたように彼女一人しか姿が無かった。羽狩りの詰所というぐらいだから、常に数人が常駐していると思い込んでいたカイムはこれを好機と思うも、これから彼女に話す案件を思うとそう易々と耳が立ちそうなこの場では話せない。
よって以前訪ねた彼女の自宅へと再び赴く事を提案するしかなかった。初めは警戒するような不穏な表情を覗かせていたが、カイムの真摯な説得を聞くや、思った以上にあっさり彼女は了承した。この掌返しには辟易したが、物事がスムーズに進むのならと、カイムは違和感を一蹴し彼女の後に続いて下層にある自宅へと向かった。
「ここに来るのは何度目だったか」
「まだ二度目だろうが、あんまり変な冗談を言うのは止してくれ。噂でも流れたらどうするつもりだ」
「別にどうもしない。言いたい奴には好きに言わせればいいだろ」
牢獄でも有数の権力者でも無ければ住まう事が出来ないだろうフィオネの自宅の居間に通され、カイムはさして内装を気にした様子もなく中央の椅子へと腰掛けた。
テーブルを挟んで向かい側にフィオネが座る。彼女のプライベートを知らないカイムは、その鉄仮面の如き硬い表情がいつも続いているのか、などと益体も無い事を考え、すぐさまかぶりを振った。いまはそれよりも重要な話をしなくてはならない。
「それで、大事な話とはいったいどういうものなんだ? なにか黒羽についてそっちの組織が掴んだのか?」
「“黒羽”ね。まああながち間違っちゃいないな、蓑の名前は……」
「ん……? どういうことだ?」
「なんでもない、下らない事さ。と、話しをしよう」
今は勿体ぶった言葉で煙に巻く時間ではない。カイムはテーブルに肘を立て頬杖をついて横目にフィオネを納め口を開く。
「――――――」
「――なっ、そんな馬鹿なっ!」
「――――――」
「しっ、しかし……ッ!」
「――――――」
「……確かに、お前の言うとおりだ。わたしも気になる事があった。だから大事な話と言われ、真っ先にこの事が頭に思い浮かんだ」
沈鬱な面持ちで俯くフィオネは、前もって懸念していた疑念を露わにしていた。彼女とて間抜けではない、部下を率いる者として選ばれた人間なのだ。頭が無能では手足は腐って落ちるだけだ、その点をカイムはよく理解しているので、フィオネの苦悩を少なからず斟酌出来た。
「実行するなら今夜しかない」
「どうするつもりだ? 犯人が分かったからといって、簡単に尻尾を出すような男ではないぞ奴は」
すらりと手入れの行き届いた長髪から覗く怜悧な瞳。嘲り、侮る言動を憚らずに振る舞う男の姿を思い浮かべて、確かに、とカイムは同意した。犯人を追いつめるにはそれなりに言い逃れ出来ない状況を作らなくてはならない。それこそ逃れようもない現行犯で。
思索を巡らし顎に手を当てるカイム。どうすれば吊り上げる事ができるか。――そのときカイムの脳裏に先程言葉を交わしたジークの言葉が蘇った。
「……餌を撒く」
「餌……?」
「相手は羽つきを殺して回ってるんだ、だから――」
湯水の如く溢れる策が口を衝く。
フィオネとの打ち合わせが終わる頃には、外の夕日も傾いていた。牢獄ではもう夜の帳が降りている頃だろう。
※
牢獄に似つかわしくない芳香を漂わせながら、防疫局強制執行部特別被災地区隊の副隊長たる男――ラング・スクロープは詰所の窓辺から朝焼けの空を眺め高品質の紅茶を口にしていた。
鼻腔をくすぐる香しい紅茶の香りはまさしく己に相応しいと、満足げに喉を潤し満足げに口元を緩ませる。ティータイムを満喫するには相応しくない雑多な職場ではあるが、彼はこの時間が嫌いではなかった。というのも、窓から眼下に広がる牢獄の風景を見下ろすにはこの詰所は最適だからだ。
身分証明も出来ない貧民を物理的位置から見下ろすのは気分が良い。彼ら牢獄民には決して届きえない関所からの風景は、さながら地獄に喘ぐ人々を嘲る天壌の神々の如き愉悦をもたらす。
休憩時間を緩やかに過ごすラングとは打って変わって詰所ないは慌ただしい。昨晩の黒羽による殺人が尾を引いているのだろう。またも目をつけていた羽つきをむざむざ殺されたのだ。その所業は彼ら防疫局に対する挑戦的な冒涜とも取れる。が、ラングはそれにも拘らず心穏やかな気分だった。
凛然と下知を下す隊長の辣腕を眺めながら、紅茶を啜る口元に嘲りの歪みが刻まれる。ラング以外には見咎められないよう、紅茶のカップで隠された口元は、嗜虐の色さえうかがえる。
ラングにとって隊長のフィオネは、一言で言うなら融通の利かない優秀な女という印象を懐く。あの若さで隊長を務める彼女は、ラングの目からみても確かに優秀だ。そのお堅い性格さえ高潔な精神を宿している示唆に思える。だが唯一、彼女に対して相容れない点がある。牢獄民の人権を尊重する言動を常々口にするフィオネにはラングも納得がいかなかった。
彼らは虐げられるべき下民。決して王国の守るべき秩序と平穏の対象となる民草には含まれない外様だ。下層より隔絶されし土地が、それを十二分に表している。
牢獄民を嘲るラングだが、しかしそれ以上に許せない存在が彼の中には確固として存在している。それが、いまここで彼が紅茶を飲んでいる証だ。
ふいに、身に纏う香水の香りを嗅ぎながらラングはある人物の事を思い出した。この香りが何を意味しているのか。誰が常用している代物なのかを看破した人物を。この牢獄に降りてから“二人”にも嗅ぎ分けられた。露見されて困る物でもないが、今後の活動に支障が出る恐れもある。いずれにしても、排除しなくてはならない。
次の夜を待ち遠しく思いながら、カップ内で揺らぐ紅茶を飲み干し、ラングは職務に戻った。
※
夕方の内に作戦を立て終えたフィオネは、その足で牢獄へとカイムと共に降り立った。既に辺りは暗くなり、夜の賑わいを見せ始めていた。
儚げなランプの灯りが立ち並ぶ娼館街を抜け、彼女はスラム近辺の物陰へと身を潜める。他の周辺にも、彼女の部下である防疫局の隊員たちが少数ではあるが身を潜めている。それらの場所はいずれも予めカイムが指定した場所であった。フィオネの自宅にて広げられた不蝕金鎖の持つ牢獄の詳細な地図、それを再び広げて組み立てた場所である。
今度こそ黒羽を追い詰める為の布陣。――しかしそれにしてはフィオネの表情は芳しくない。というのも彼女はこの作戦にまるきり乗り気というわけでもないからだ。
己の職務には寸分の疑いなく誇りを持って取り組んできた彼女は、カイムより告げられた仮説を信じられなかった。――否、全否定出来るわけじゃなかった。彼の言い分はどう見ても正論であり、反駁の意を示すには隙が狭すぎた。それだけじゃなく、フィオネ自身もまた、思い当たる節を秘め隠していた負い目からこの作戦を却下出来なかった。
いまからしようとしている行為は、これまでの自分に刃を向けるに等しい。どこまでも清廉に、正しく在れと自らに重く科した生き様が無力であったと断罪するのと同義だ。自然と剣の柄を握る手に力が籠る。願わくば思い過ごし出会って欲しいと、そう希うしか今の彼女には出来なかった。
剣を握っていると思い起こされるのは幼少の記憶。彼女がまだ背丈も低く、しかしいまよりも志も向上心も高かった幼少期。自分と同じく防疫局の隊長であった兄に剣を教わっていた思い出が蘇る。厳しい人物ではあったが、彼女にいつでも愛情を持って接してくれた自慢の兄。剣に秀で頭脳にも秀でた彼は、フィオネが防疫局に勤めた頃から隊長であった。誉れ高かった。兄の話しをするとき、彼女はいつだって鼻が高い気持ちでいっぱいだった。だから、そんな優秀で尊敬する兄が殉職したときは悲しみを懐かずには、涙を堪える事が出来なかった。――いや、兄は死体を挙げられていない。忽然と姿を消したのだ。それこそ煙のように。
“クーガー兄さん……”
人生の指針ともいうべき兄の名を呪文のように呟いて、フィオネは己の揺らぐ信念の心をしっかりと固定する。正しく在れ、厳しくあれ、清廉にして潔白な使命を帯びるこの身は、ノーヴァス・アイテルの国民全てを救うための職務に従事る崇高なる走狗。
だからもう、フィオネはこれから何が起ころうと気に留めぬよう、覚悟を固めた。
眼前に佇む家屋を凝然と眺める。フィオネが監視するこの家の中には、一人の羽つきが住んでいる。――という情報だ。
冷え込み始めた風に肩を縮めながら待つこと数十分。今夜は現れないのではと、半ば諦めと安堵が同居した溜息を吐こうとした瞬間、家屋の扉が開いた。中から一人の男が背中に膨らみを作って現れた。あれが件の人物であろう。男は警戒を露わにして左右を見渡し、人目が無いのに安堵すると人気の少ないスラムの方へと足を進めた。――その瞬間だった。
「…………」
幽鬼の如く現れたのはシルエット越しにもわかるような大きな翼の輪郭。月明かりが逆光になって顔が良く見えないが、それは紛れもなく黒羽と思わしき人物だった。――だからこそ姿を見咎めた瞬間、フィオネは哀感が湧き上がるのを抑えられなかった。
ああ、何という事だろう。何故このような事をしてしまうのだ。堰を切って溢れ出るのは己に対する無力感と、“信頼を裏切られた”という虚無感。かくも無常な情念は火種として燻っていた怒りを鎮火する水となり、フィオネの胸を冷たいものが流れていく。あるいはそれは、諦観ともいうべきか。
隣で身を潜めるカイムの表情を窺う。さぞ幼い頃は少女と間違えられただろう中性的な顔立ちを残す彼の横顔は、どんな感情も移さず、平時と変わらぬ淡々とした面容をしていた。そんな彼の思惑通り、敵は“餌”に掛かった。こうなってはもう言い逃れは出来ないだろう。
恐れ慄くように後ずさりする背中を膨らませた男に向けて、影は凶刃を煌めかせる。――その瞬間を待っていたとばかりに、隣に控えていたカイムが呼子笛を口に咥えた。
※
断続的に続く痛痒は黒羽の身体を際限なく痛めつけていた。肢体に鞭を打ってスラム近辺を彷徨う彼は、洞穴のような双眸で標的を探し求める。
人間たちに思い知らせてやれと、我々の悲しみを肉体に刻み込めと、崇高なる神罰を下すのだと早鐘のように責め立てる声に従って彷徨う事数十分、鉄球でもひているのではと思うほど覚束ない足取りで月夜の街路を歩いていると、そこには一人の男が不安そうな面持ちでしきりに左右に首を振って歩いていた。――羽つきだ。
穢れし黒の翼を仕舞っている男の動きは忙しない。なにやら逃げるようなその仕草には余裕と言うものが一切感じられず、切羽詰まっているようにも見える。殺意と怒りに塗りつぶされなければ、あるいはこの身は彼を助けたかもしれない。しかし、いまは話が別だ。
“――殺せ”
そうだ、殺せ。思い知らせるのだ。あの恐怖に粟立つ四肢を引き裂き、断末魔の悲鳴を上げる口に手を突っ込み、顎から上を毟り取れ。その腹腔を割いて内臓を掻き乱せ。蹂躙しろ。
衝動が黒羽の総身を駆け巡り、脳髄に集約し、それぞれの肢体へと命令信号を発する。神経細胞に微弱な電気が発生し、蝕まれ満身創痍な身体に一時的に力が宿る。
“――人間どもを全て殺し尽くせ!”
既に自我は深き水底に閉じ込められ、軋む右腕が人外の膂力を持って、まるで死神の鎌の如くもたげる。背後より吹き付ける夜風を受けながら翼が震える。言い伝えにある天使とは似通っていても、清廉とは程遠い漆黒が神話を汚穢に染め上げる。――あえて名称付けるならその翼は穢翼とも呼ぶべきか。
右足首より下を無くした不揃いな両脚で音もなく歩み寄り、男の前までの距離を詰める。そのとき男の視線がこちらに気が付き、不安で濁った瞳が瞠若した。不安よりなお強大な恐怖によって上塗りされた瞳は濡れそぼり、眦に悲愴な雫が溢れてゆく。
後ずさりする男を前にして黒羽は強靭な右腕を掲げる。人間の肉体などいとも容易く粉砕する凶刃が月明かりに照らされ、怪しく光を反射する。洞のような深い闇の双眸の奥底で、赤く剣呑な光が灯り、黒羽が駆けだした。
霧がかる意識の中、恐怖に引き攣る男の声を聞きながら。それとは別の、呼子笛の甲高いどこか遠くで響くような音が聞こえたような気がした。
※
凶刃が煌めいた瞬間を冷静に見つめながら、カイムは瞬時に呼子笛を咥えて大きく吹き鳴らした。本来なら発見、もしくは危険を訴え援軍を呼ぶために使われるこの笛が、いまこの場でだけは作戦の開始を告げる合図となって夜空に響き渡った。
甲高い呼子笛の音が自身の耳をも劈き、あまりの大音量の高音にさしもの敵も驚愕を露わにしているのがシルエット越しではあるが見受けられた。動揺したように凶刃が揺らぎ、男に振り下ろされんとしたそれは、相手を見失し役目を果たせぬままに終わってしまった。この一瞬の硬直を見計らって、被害者となりかけた男が――異様に膨らんだ背中に手を入れ、折り畳んだ網を敵目掛けて投擲した。
「――ぐわ……ッ!」
「掛かったぞ!」
苦渋に満ち満ちた声を聞き、カイムは声を張って仲間達を呼び寄せる。周囲には羽狩りのみならず、カイムを筆頭にした不蝕金鎖の構成員も多く潜んでいて、カイムの合図に呼応して気合の入った声を上げて敵目掛けて駆けて行った。
傍らで固唾を呑む音がした。見ればフィオネが悲痛な面持ちで剣の柄を握っていた。
「……フィオネ、行くぞ」
「わかっている……我らも続け! 防疫局の威信をかけて決して逃すな!」
真っ直ぐな、彼女の性分のように真っ直ぐな両刃の直刀を抜き、月に照らされた白刃を天高く突き上げる。それはまるで己の感情を棚上げする仕草にも見え、カイムは彼女の胸に巣食う悲愴な感慨を思い目を逸らした。これ以上の犠牲を出すわけにもいかないから。
男の投げた網がもがき蠢く。特別頑丈というわけではないが、足を止める為に隅々には重石を付けてある。だから逃れるには網自体を破壊しなくてはならない。――よって、敵が白刃を煌めかせたのを見ても、カイムはなんの驚きもしなかった。
このぐらいの手なら誰だって考える。網を切り裂いた後は一目散に逃げるだろう。だか、そうはさせない。
懐より取り出した短刀を構える。普段は無反射加工のナイフしか使わない彼だが、決してそれだけしか使えないわけじゃない。アウルムより様々な暗殺にまつわる技術と心得の薫陶を受けたカイムは、勿論投擲術だって使いこなせる。他でもない一番扱いの上手い人から教わったのだ。短刀が己の手から放たれた瞬間の軌跡を見て、カイムは必中を確信した。
「――ぐっ!」
カイムの放った短刀は足首を突き刺した。腱を断ち切られた激痛に呻き声を上げ、敵はその場でつんのめり大きく転倒した。なまじっか全力で走ったのだろうか、その転びようは喜劇じみていた。
両組織の街路を蹴る靴音が標的へと詰め寄る。横転した標的にもう逃れる術は無かった。
取り囲むようにして整列し、その人の壁の隙間から静かにフィオネが現れる。右手には羽狩りに支給された共通の剣があり、光を反射して敵の姿が露わになる。
「まさかお前が黒羽とはな…………ラング副隊長」
「…………」
糺す声は静謐に、けれどどこまでも冷然としてフィオネの口を衝いた。
「なにか弁解する言葉はあるか」
「これは捜査の一種です」
「捜査……だと?」
「はい。黒羽を炙り出す為の偽装で、奴自身をおびき寄せるための囮捜査です」
浪々と語る空言だと、カイムは聞いてて失笑を漏らしそうになった。
暗闇で黒羽だと勘違いするようなラングの出で立ちは、なるほど確かに捜査と言い切っても説得力があるかもしれない。しかし……
「お前はさっき、罪もない者に対してその手に握る剣を振り下ろそうとした。それも、捜査の内だと……そう言い張るつもりか?」
「隊長にはお分かりいただけない、と?」
「当たり前だッ!」
足の腱を切られ起き上がれず地面に這いつくばるラングに向けて、彼と同じ剣を持って向けるフィオネ。その怒号は彼に対しての怒りか、それともラングの行為を過去に許容してきた羽狩りの形態にか。いずれにせよカイムには無関係な感情だ。
「武器を奪え」
「まさか本当に私が黒羽だと、そんな妄言を信じるつもりなのですか?」
隊員たちによって武装解除され、もはや抵抗の余地すらなくなったにも拘らず、ラングの声にはまだ余裕がある。この場を切り抜けるという自信の表れだろうか、だとしたら些か楽観視しすぎている。
いくらフィオネの詰め方が甘くとも、その後ろに控えているのは牢獄でも秘め事を吐かせるのに長けた、いずれも専門家とも言うべき猛者共だ。羽狩りの追求を逃れたところで、身柄が不蝕金鎖に渡ればラングの五体は満足に返される保証もない。
「その扮装に使っている黒い羽根。それは防疫局で補完している黒羽の物だな」
「まさか、これは他の羽つきが落とした代物を集めて作ったものです。なにの間違いでしょう」
「そうか、なら……」
フィオネが歩み寄りラングの背中に付いている仮初めの翼から一枚の羽根を毟り取る。手に取った羽根を隈なく観察し、付け根の部分を彼に見せつける。
「この羽根には私が回収して保管する際に付けた印が入っている。これはどういうことだ? 拾って集めた物なら、こんな印はついていない筈だろう」
「…………毟った際にあなたが自分のとすり替えた可能性だってあります」
「いい加減にしろ! どんなに能弁だろうと、もう逃れる事は出来ないんだぞ!」
このままでは埒が明かない。フィオネがどれだけ逃れ得ぬ証拠を突きつけようと、ラングは何処までも言い逃れを続けるだろう。互いに目線の合わない尋問に意味などない。カイムは一向に進まない事態を憂慮し、溜息をもらして二人の許へと歩み寄った。
彼女では甘すぎる。清廉にして高潔な生き様と、それに比類する辣腕は認めよう。隊長としての格におさまるだけの器もあるのだろう。だが、決定的に甘すぎる。冷酷さが足りない。自らの部下という色眼鏡が、未だに取れていない。だから彼女は逃げ道をラングに開拓されてしまうのだ。
「もういいフィオネ、お前じゃ朝が来たってこいつを観念させることなんか出来はしない。俺が変わろう」
「いや、これは我々防疫局の怠慢が招いた結果。身内の恥にはしかと責任を背負わなくてはならない」
「そんなものは後でやってくれ。こいつが黒羽だってお前“が”言うなら、そりゃ俺たちにとっても同じだ。共同捜査の間は、対等の筈だ。
悪いけど時間の無駄はしたくない、単刀直入に行こう。でないと……こいつの身体に毒が回って死ぬぞ」
「――なッ!?」
毒という単語を聞いてフィオネだけでなく、当事者のラングまで当惑した面持ちを浮かべた。が、構わずカイムは話を続ける。
「万が一に備えて俺の短刀には毒を塗布してあってな、遅効性とはいえ、これは強烈だ」
「ふんっ、どうせ嘘に決まっている。牢獄民はどこのどいつも低能ばかりだな」
嘲弄するラングに、しかしカイムは淡々と毒の成分を彼に言い含める。
「知り合いの医者にいつも用意させてる特別性でな、こいつは傷一つ追うだけでも血液を巡ってあっという間に体中を侵しつくす毒だ。時間が経過するに連れ、全身に回った毒が活性化し段々と痺れてくるんだ」
「その程度の脅しが、まさか私に通用するとでも」
「痺れが始まると、真っ先に機能を停止するのは肺気管支だ。こいつが止まると、地上に居ながらにして溺れ死ぬっていう飛び切り苦しい死にざまを晒すんだ。
苦しいぞ、こいつが始まるとみんな空気を求めて口を何度も必死に開閉するんだ。それはもう滑稽にな。で、最後に糞尿を垂れ流しながら死んでくんだ」
「……う……うそ、だ」
訥々と毒の成分を騙られ見る見るうちにラングの顔色が青褪めていく。唇辺りが痺れはじめたのか、小刻みに痙攣を始めている。その様を見ていたフィオネが、はたしてどんな顔をしているのか、カイムには見る事が出来なかった。
「別にこのままでいいって言うなら、そうしてやる。俺たちは捕まえたいわけじゃない。“殺しさえ止まれば”なんだって良いんだ。あとは、お前に殺された奴らの遺族にでも受け渡して好きにしてもらうのも良い。どうする?」
「わ、わかっ……た。みとめる、私がやった……だから解毒剤を」
「……そうか、ならくれてやる」
ついに白状したラングの口に経口摂取型の解毒剤を流し込む。遅効性の毒のわりに解毒剤は即効性で、ラングの全身に亘る痙攣はあっという間に収まった。血に染まる足首を立て、床に座り込んで両手を開いたり握ったりを繰り返し、痺れが取れたのを確信し、安堵したように小さく鼻で息を吹いた。
「カイムっ、毒を使うなんて聞いていなかったぞ!? 危うく本当に死んでしまったらどうするつもりだ」
「そうがなるな、毒と言っても、こいつに使ったのはただの痺れ薬だ」
「えっ?」
「なっ……たばかったな!」
そう、カイムが実際に塗布していたのは痺れ薬で、先程説明したような種類の毒は持っていない。実際にアウルムが過去に使用したのを見たため詳しく説明出来たが、その毒の威力をカイムは本当の意味で知らない。
騙された事が堪えたのか、ラングはそれきり観念したように黙然としている。あっけにとられたフィオネは、気を取り直しかぶりを振ってラングに向き直った。
「何故、殺した?」
「羽つきを殺したいからですよ、この世界から全て」
「ほう、戻り内規に定められた喚問を行う前に理由を聞こうか? 防疫局の人間であるお前が、なぜ羽つきを殺すのかをな!」
「奴らは天使様を冒涜する悪しき存在。あってはならない卑俗な者に過ぎません、ですから私はこの身を持って天使様に代わって手ずからに誅罰を下すのです」
カイムはその時になってようやく思い出した。彼の身体から漂わせている香りの正体。それは厳密には香水ではなく、教会の儀式などで用いられる聖水だった。羽つきを天使様を模した冒涜せしまがい物という考えを持っている、この国最大の宗教だ。煮え滾る情念に駆られるようにラングは顔をしかめ、続けて語る。
「私の母は聖教会の敬虔な信者だった。聖職者より清らかで、慈愛に溢れ、人々に愛され尊敬される方で、勿論この私も母を愛していました」
思い出を語る口が、母を愛す声が次第に憤怒へと染まり溢れ出る。
「ある日、防疫局に追われていた羽つきを母が匿いました。それ自体は良いのです、母がやる事に私は文句などありません。――しかし、奴らは匿われた途端に本性をあらわしやがった。寄ってたかって母を凌辱したんです! 泣き叫び、必死に抵抗する美しい母の首を絞め、『俺たちは天使様の遣いなんだ』などと嘲笑しながらのたまい、色褪せていく母を犯し続けた!」
「…………ラング」
怒気を吐き出すように憤然と訴えかけるラングに、フィオネは駆ける言葉が見つからないのか悼むように眉根を寄せて名前を呼ぶことしか出来ない。だからといって、情状酌量の余地があるわけじゃない。ラングの身の上を有り余って彼女の怒りは激しい。
「お前が、あの少女を惨殺した……」
「ええ、そうです。あれもまた忌むべき存在。たとえ年端も行かぬ少女だろうと、それは変わりません」
昨晩見つかった幼い少女の酸鼻な現場を思い出しているのか、フィオネの握る拳に血が混じり始めた。
自身が理想とする羽狩りのあり方を覆すような所業。国を救うための防疫局に、まさか彼のような殺人鬼が混じっていようとは。保護するどころか、殺戮の幇助をしていたかもしれない事実に、他の隊員たちの顔色も悪くなる。
「そのとき私は気づきました、血に染まる羽つきを見下ろし、暖かな笑顔を向ける事のなくなった母を悼みながらね。
私は、羽つきを殺す為に生まれてきた……それが、私の生まれた意味なんだと」
「お前は、復讐のために防疫局に入り、羽化病罹患者を殺し続けたのか?」
悲しみに眉が歪みながら、強く握られた拳が怒りを露わにしている。様々な気持ちが綯交ぜになって問いかけるフィオネに、ラングは至極普通な表情で鼻を鳴らし答える。それこそ酒場で注文を尋ねられ答えるかのように。
「復讐? まさか。羽つきを滅ぼし、この街を救うためですよ」
こういう風に勘違いする奴は牢獄には珍しくない。自分こそ選ばれし者だと信じて疑わず、身の丈以上の大仰な事をやってのけようと空回りする。これならまだ快楽殺人者のほうが扱いやすい。呆れたカイムは、もうラングに対して何かをしようと言う気にもならなかった。
「その為に、偽装として一般人まで手に掛けていたか?」
「私が誅するのは羽つきのみ。それ以外は、“本物”の黒羽がやった事でしょう」
「なッ!? では、お前は!?」
「ええ、違います。これは本当です。まあ、名前は借りましたがね」
驚愕するフィオネ。しかしカイムはこの事実を前もって知っていた。アウルムの伝言で、黒羽の名前を隠れ蓑にしている者が居ると言うのを聞き、予てより羽つきが死んだ際によく感じた違和感――決まって羽狩りが目星をつけた罹患者が殺されるというのに対し、内部の者が犯行に及んでいると踏んだ。それをフィオネに話をしたのが、夕方の事。
始めのうち彼女は部下を疑う真似に反駁していたが、それも次第に思い当たる節があり渋々ながら同意したに至る。ただ肝心の真犯人については、一切述べなかった。カイムやフィオネが手を出さずとも、もう一人、独自に動いている者がカタをつけると信頼しているからだ。
「フィオネ、そいつが便乗犯だってのは知っている」
「なぜそれを先に言わなかった、カイム?」
「うまく説明しきる自信が無かったんだ。とにかく、真犯人については問題ない。多分だが、もうおそらくケリが着く――」
咎めるような眼差しを向けるフィオネに弁解していた瞬間、遠くの空より風に乗って渡ってきた笛の音が、この場に居たすべての人間の耳に届いた。羽狩りが支給した呼子笛。今作戦以外の、正式な用途は黒羽の発見、もしくはそれに関連する身の危険のさいに吹かれるもの。
誰もがその音色に意識を奪わた。――だから、ラングが逃げる隙があったとしたら、その瞬間しか考えられない。
「――どけっ!」
「ま、ラング! 待てッ!」
一瞬の隙を突いて人垣を押しのけ、すれ違いざまに剣を奪って、役に立たない片足側で剣を杖代わりにして走り去ったラング。
追うべきか逡巡した後、カイムは不蝕金鎖の面々に追走を命じ、笛の鳴ったスラム街へと走る。ラングなどどうでもいい、いくら逃げようともあの怪我ではどの道そう遠くまでは逃げられまい。背後でフィオネが部下相手に、同じようにラングの追走を命じ、追いかけてくる。
「黒羽の事はとりあえず置いておく。少なくともカイム、お前のお蔭でラングを白状させることが出来たんだから」
「……気にするな。こっちも仕事なんだ」
ラングの裏切りが堪えているのか、彼女の固い口調からは憔悴したような感を覚えた。無理も無い、信頼した部下に手酷く裏切られたのだ。清廉で実直な彼女が絶えられるものではないのかもしれない。ただ、牢獄ではそう珍しくもないと、カイムは思いながらより一層走る速度を上げた。
※
運悪く出くわした羽つきの男は、アウルム・アーラの目の前で魂を喪い、肉片となって周囲の湿度を上げ、スラムの臭いをさらに強めるだけだった。少なくとも、その程度の感慨しかアウルムには湧かなかった。
助ける事も出来たが、理由がない。どの道、羽化病に罹患していては長くない。助ける義理も、正義の心もある筈がなく、だから彼は己の為だけに普段と向きを変えて背負ったニホントウを右手で抜き放った。月夜に妖しく輝き、波立つ刀身の煌めきは魔的なまでの美しさを誇っている。
男が死ぬ間際に呼子笛の音を耳にしたから、恐らくはカイムが便乗犯を取り押さえに掛かったのだろうと把握し、右腕の筋力を総動員させて黒羽に向かって構える。
「よぉ、昨日ぶりだな」
「…………」
返事はない。元より期待してもいない。彼の胸にあるのは唯一つ――この相手を斬り捨てるという覚悟のみ。
「――ッ!」
十歩以上あった距離を一気に詰め手に持ったニホントウを、まずは馬鹿正直に横一線に薙ぎ払う。手になじんだ波紋が大気を切り裂き、音も無く黒羽の胴体目掛け疾走する。が、敵は当然のように瞬時に後退し間合いの外へと飛びのく。すかさず追撃の左切り上げ。これも回避。手首を返し刃を反転させ返す刀での袈裟切りも、黒羽の刃物のような手によって柄付近で止められてしまう。
いかなニホントウと言えど、触れる物悉くを断ち切るわけではない。尋常じゃない切れ味はむしろ、持ち主の技量によって問われる。故に、アウルムが斬ろうとした場所以外の部分で受けられると、当然のようにただの刀へと意味合いを落としてしまう。
刀には物打ちという部分があり、刀身の中央よりやや切っ先に寄ったこの部分が実際に物を最も断つ部分である。逆に、柄に近い部分では遠心力も得られずに満足に物を斬る事が出来ないのだ。
柄付近で抑えられているのを見咎め、アウルムは期を逃したと判じ舌打ちをしながら背後へと飛びのき距離を空ける。――筈だった。
鈍い金属音を立てて離れるアウルムに向かって、恐れることなく黒羽が翼を広げて突進してくる。ニホントウの切れ味に慄くだけの理性もないのかと、瞠目しながらなおも猛然と迫り来る黒羽の右腕が軋みを上げる。
“チッ、毒を喰らってこれだけ動けるのか……!”
まさに予想の範疇外だった。轟然と唸りを上げて迫る豪腕を回避できたのは、ひとえにアウルムの反応速度の速さゆえだろう。間一髪、飛びのいたアウルムの鼻先を黒羽の爪先が掠め過ぎる。
右腕の旋風が空振りに終わると、続けざまに左が旋風を巻き起こす。アウルムの剣術が静なるものなら、黒羽の豪腕はまさしく動なる攻撃であろう。
苛烈な猛攻を回避し続け、時にニホントウで受けるも、切断には至らない。人間を逸脱した埒外な膂力が受ける刀身を弾き、切断に至るプロセスを強制的に中断させているのだ。最早、人間の取れる手段ではない。黒羽の身体は、どこまでも人間離れしているのだ。――だから、アウルムはまる一日時間を空けたのだ。
「…………!?」
「ようやく効いてきたか。どれだけ頑丈な体をしてるんだお前は、お陰で死にかけた」
一撃一撃が必殺の威力を宿す豪腕が、襲ってこない。アウルムは嘆息し、時が停止したように動かなくなった黒羽の胸を蹴り、倒した。
アウルムが使ったのは毒だ、それも飛び切り強力な物を短刀に塗布したのが、昨晩の苦し紛れの三連続投擲の短刀である。あの時点で普通のやり方では勝ち目が薄いと――少なくとも左腕が使えなくなったと判じたあの時――判じ、アウルムは毒による手段を選んだ。勝てないほどのバケモノなら、勝てるまでのレベルに下げる。それが彼の執った手段だった。
「動けないだろ、神経が死滅し始めたんだろ。よくわからんが、とにかく――お前はあと少しで死ぬという事だ」
「…………」
依然として洞のようだった黒羽の双眸に、僅かな光が灯った。それは恐怖か、それとも焦燥。いずれにせよ、アウルムが初めて見た黒羽の人間らしい反応だった。
辛うじて動く乾燥した唇を開き、奥より乱杭歯を覗かせ喘ぐように声を出す。理性も知性も失われているとばっかり思われた彼は、さっきまでの暴力的な雰囲気もなりを潜めている。
「ぁ……あぁ、う……」
「なにか言いたい事でもあるのか? 末期の言葉だ、せめて最後くらい人間らしい言葉で話せ」
「わた、し……わたしは、伝え……なきゃ……」
一言づつ形にする度、彼の双眸に理性の光が灯り始める。どうして今更になって理性を発露させたのか理解できないが、アウルムは気にする事無く黒羽の言葉に耳を傾けた。あわよくば、この者からも意味を問う事が出来るのかもしれないと、方針を変更するほどに。
「わたしは、くーがー……シルヴァリア。もと、防疫局、隊長……だ」
「そうか、クーガー・シルヴァリアというのか。名前があったのだな。それにしても、シルヴァリアか……同じ姓の女が防疫局の隊長になっていたな」
喋る毎にコツを掴み始めたのかクーガーと自らを名乗る異形の羽つきは、アウルムの挙げたフィオネの事をきくや、弱弱しく光るだけだった双眸が見開き、強い意志を灯した。
「フィオネを、知って、いるのか? なら頼む……あの子に、最後に会わせてくれ。……それが叶わぬ、なら、せめて……伝えて欲しい。ことがある」
「聞こう」
「治癒院は……実験の為の施設、だ。羽化病罹患者を隔離する……あの場所、は……全員殺されている」
「なるほど、それを伝えればいいのか?」
黒羽から語られた真実は信ずるに値するか、アウルム一人の判断では真実なのだろうと思えた。死に際の言葉が荒唐無稽な言葉を連ねる者が多いのも事実だが、この男の瞳や眉の高さ、視線の見る先を鑑みて嘘はないを判じられた。だとしたら、羽つきの送られる治癒院は単なる隔離施設ではなく、実験品を処分する屠殺場という事になる。牢獄民が知ったら暴動が起きそうな事実に、しかしアウルムの心は一切の動揺もない。
「お前は、実験の成れの果てか」
「そうだ、私は……とある実験施設から起きた火災に、乗じて……それから、うぅ……記憶が、断片的でしかない」
「理解した。その伝言、間違いなく受け取った」
真摯に頷くと、黒羽は安堵したように灰色の肌を緩め、穏やかな表情が浮かんだ。
「よかった……これ、でもう……逝ける」
「あとは、お前が……妹の前で話す事だ」
「え……?」
困惑の声を無視し、アウルムは懐から予めジークから受け取っていた呼子笛を吹き鳴らす。不蝕金鎖と羽狩りを呼び寄せる笛の音は甲高く、遠くの空にまで広がっていった。これで一時間もしない内に誰かが此処に掛けつけて来るだろう。
時間的にはカイムが順次問題なく事を進めていたら、まずカイムとフィオネが真っ先に駆けつけるだろう。他の隊員に便乗犯を任せて。昨晩の彼らの戦いを屋根上より観察していたので、彼らは黒羽の恐ろしさを誤解なく理解している。だから、被害を増やさないように二人で来るはず。そう踏んでアウルムは笛を吹いた。
「妹に、合わせて……くれるの、か……?」
「会いたいんだろう? なら、合わせてやる。もうしばらくすれば、きっと駆けつけるだろ。お前の身体も、それまではもつ筈だ」
朗らかに微笑するアウルム。妹に会えるのが嬉しいのか、強面を通り越してバケモノの様相を呈する顔貌をした黒羽の双眸から、一筋の涙が流れる。
“ヒトじゃなくなっても、涙は流すのか”
「あり、がとう。名も知らぬ、君……感謝しても……しきれ、ない……」
「気にするな――これは“賭け”なんだから」
「どう、いう――」
「こういう、意味だ」
朗らかな表情が一転し、冷然とした表情のままアウルムは右腕を振るった。手に持ったままのニホントウが煌めき、刀身が彼の四肢を神速の速さで駆け抜ける。最後に再び胸を蹴ると、黒羽の身体は四肢を落として無力に地面の上に仰臥した。
「がぁ、あああああっ!」
「まだ痛みは残ってたのか、運がないなお前も」
あれほど強靭で恐ろしかった豪腕も、風よりも早いと思えた速度を蹴り出す足も、持ち主を喪いただのパーツとなって黒羽の傍らに虚しく転がる。彼が件の黒羽であるとわかるように、その背中の大きな翼だけは切り取らなかった。
切断面から止めどなく流れる鮮血が、街路に溢れ、やがて血河となってアウルムの足元まで流れてくる。
「な、なぜ……」
「そのまま安らかに死なせるわけないだろ。俺はお前を殺しに来たんだ、なら、意味のある殺しをする。それだけだ」
冷たく淡々と告げるアウルムの顔貌は、床に転がるかつてのバケモノよりも、更に陰惨な雰囲気を纏っていた。彼の本質を感じ取ったのか、黒羽の仄暗い瞳の奥に正体不明な恐怖の色が宿る。
「さて、妹が来るまで生きられるか。死んだらそこまで、生きてたら……使命を重んじて遺言を残すか、俺の事を語るのか。はてさて、どっちだろうか」
「きみ……は、なに……が目的、なん……だ?」
「意味が知りたいだけだ。生きる意味、生まれた意味……お前が死に際に何を大事にするのか、それを見て俺はお前の意味を見出し、奪い取って糧にする。たったそれだけだ」
「く……るっ、て……る……お前」
「よく言われる」
意味を与えて殺すのはやめた。自我が蘇った以上、死にゆく命は有効活用する他に手はない。少なくともアウルムはそう判断し、己が命題の為に彼の命を弄ぶ。快楽なく、愉悦なく、あらゆる喜悦の感情など萌芽する事のない凍てついた心のままに。
「じゃあな――悔いて死ね」
二人分の足音を耳にして、アウルムはその場から飛び上がり立ち去る。気配を断ち、音を殺し、完全に闇と同化したまま彼は妹の来訪を待ち続けた。
※
喉の裂けそうな悲鳴を耳にして走るフィオネが角を曲がった先に、黒羽は居た。
再び出会った敵の姿は、以前のような恐ろしさは愚か、バケモノとはいえまともな姿をしてはいなかった。
「あれは……」
カイムが考え込むように呟いたが、そんなのはもうフィオネの耳に届かなかった。
見覚えのある長髪、痩せ細り肌が変色し、印象もがらりと変わってしまったがこの月明かりで見間違えるはずも無かった。四肢を失い仰臥する黒羽は――他でもない彼女の兄、クーガー・シルヴァリアだった。
「兄さん――ッ!」
信じられなかった。忽然と姿を消し殉職扱いになっていた兄が、まさかバケモノとなって舞い戻ってくるとは。こみ上げる喜びが、駆け寄った瞬間に悲愴な刃となってフィオネの胸に深く突き刺さる。
変わり果てたその姿は、無惨な形での再会となった。すぐさま駆け寄って兄の許で膝をつく。
「私です兄さん、フィオネです! しっかりしてくださいっ!」
「……ふぃ、おか。久しい、な……立派になっ、た」
「ああ、そんな……兄さん。嫌だ、せっかくまた会えたのに……いったい誰が……!?」
穏やかに微笑む顔は例え変貌しようと忘れる筈も無い。いつだって厳しく、だけども優しかった誇り高き兄の笑顔。剣の修業が上手く行かないときの、優しい慰めの声。彼女が忘れるわけがない。
止めどなく流れ出る血液は留まるところを知らず、酒樽に横穴を開けたように流れ出ている。彼の内包する命諸共に。
「フィオ、伝えたいこと、が……ある、心して聞いてくれ」
「それよりも先に治療を! このままでは兄さんがッ!」
「まてフィオネ、話しを聞いた方が良い。どのみちもう、助からない」
傷口を止血しようと伸ばした手を、背後から伸びたカイムの手によって遮られる。どうあっても助けたいと希うフィオネには、それが兄の命を奪う魔手のようにさえ思えた。
助からないのなんて見ればわかる。いったいどれだけの隊員の死を見て来たか。どれだけの死を目の当たりにしたか。言いたい事はわかっている、それでも……
「離してくれカイムっ、まだ間に合う! きっと、まだ……」
「いい、んだ……もう長くない。いますぐにでも、この身体は朽ちる。……だか、ら、せめて……使命を、意味を果たさしてくれ」
「兄……さん。……わかりました」
佇まいを直し心して最後の言葉を耳にする。ラングの裏切りに精神は疲弊してはいるが、兄の最期の言葉なら、まだフィオネは耐えられる。固唾を呑んでそのときをフィオネはジッと待った。
やがて、蝋燭の火も消せないほど弱弱しい息遣いから、命を削りながら掠れた声が聞こえ始める。
「治癒院は、実験施設……羽化病罹患者は、みな、実験の……果てに、殺される……」
「……ッ!? そん、な……」
呼吸が止まる。実験施設? 殺される? いったい何を言っているのだ兄は。
信じられない言葉は、フィオネの感情を無視して続く。
「不審に、思った……私は、治癒院に乗り込み……実験に……施設が、火災によって……とう、ぼう……」
「にいさん……それは、じゃあ私は……」
「忘れるな、フィオ……剣の意味は、振られる者によって……変わる。お前が……剣を、振るのだ……決して、剣に振られるな」
最後が近いのか。兄の言葉は辻褄を失い始めている。
「家に、シルヴァリアに囚われずに……いき、ロ。なにが正しいの……か、自分の、目で……見極めて、な」
「兄さん? 駄目です目を開けてくださいっ! 兄さんッ! 誰です!? 兄さんをこんな姿にしたのは誰なんです!?」
それは最早憎しみだった。死にゆく兄の最期の言葉は、最後まで彼女を慮る言葉ばかりで、それがまた彼女の心を打ちのめす。
治癒院が実験施設なら、羽化病罹患者が殺されるなら、我々はいったい何のために今までを……保護の名目が聞いて呆れる! 結局はラングと変わらない、殺人の幇助ではないか!
ならばせめて兄をこのような姿にしたものを、同じようにしなければフィオネの心が耐えられなかった。部下に裏切られ、崇高だと、憎まれることこそあれ救うための仕事だと信じていた防疫局が、単なる殺人の斡旋とはなんと滑稽なことか。
「教えてくださいっ! 誰なんです!? にいさんッ!」
「そ、れは……」
「兄さんっ!?」
「……いや、よそ……う。さらば……だ、フィオ……」
言いかけ逡巡したその間は、何を思ったのか。幾人もの血を流したクーガーは、犯人を語ることなく、静かに息を引き取った。
死相は怪我の具合とは裏腹に、穏やかなものであった。
「うそ……うそだ、嫌だ……兄さん、兄さん――にいさん!」
これ以上耐えるのは、不可能だった。こみ上げる悲しみの想念が許容量を大幅に越えて、フィオネの眦より滂沱と溢れ出る。
遅すぎたのだ、何もかも。自分が間に合わかったがために、兄は無念のまま逝ってしまった。部下をもっとしっかり従えていれば、或いはこの場に居合わせ助ける事が出来たかもしれないのに。どうして? 自分のせい?
そうだ、悪いのは己。力の至らぬ自身の招いた悲劇。履き違えた正義を得意気に語り、心酔し、強要した。
ならば罪は、ここにある。
「……許さない」
「フィオネ……」
「カイム、私は……兄さんをこんな目に遭わせた者を、決して許さない!」
そうだ罪は此処に、罰は仇にこそ相応しい。
だからいまは、この耐え難き奈落のような悲しみに涙しよう。
澎湃と涙を流すフィオネを照らす月明かり。その直上にて、下手人のアウルムは眼下の光景を鑑賞し鼻白む。
「また、意味もなく死んだ……か」
双方に満足する答えを得られぬまま、長い夜は生き死になど斟酌せずに続く。