牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

13 / 22
外伝:アイリスの日常

 アイリスの一日は観察に始まる。

 朝を告げるノーヴァス・アイテルの鐘が鳴り響く音で目覚め、ゆっくりと体を起こし小さな口を開けて欠伸を漏らす。長年夜の仕事をしていたせいか未だに朝には慣れない。夜型だった体内時計はそう簡単には修正出来ず、このまま起こした身体を再び布団へと預けたくなる欲求もある。

 しかしアイリスにはやることがある。

 強制される毎日だった生活は終わったが、だからこそ自発的に決めた事は守ろうという決心が彼女を睡魔の誘いから遠ざける。自由意思に基づいた日課は自身の主の寝姿を観察することから始まる。

 アイリスが惜しみながら押しのけた睡眠を隣で貪るアウルムの寝姿は、実際の年齢よりも幼い印象を懐く。決して彼が子供っぽいという事を言いたいのではない――言葉にはしないが否定しない――が、それにしても曇りの無い寝顔をしている。警戒の色など微塵も感じられない弛緩したそれは、しかし微笑ましく思えど腕に巻かれた白い包帯によって現実に引き戻される。

 

「……いたそう」

 

 仕事で油断し負った怪我。折った腕は未だに回復の兆候が見られない。

 どのような仕事で負傷したのか、初めて見たときに驚愕したアイリスは即座に問い詰めたが明確な答えが帰ってくることは無かった。いつものように何でもないような顔で煙に巻かれる。そのことには不満などない。彼に詰問した所で素直な返事がもらえると考えるほど、彼女は楽観的な思考回路をしていないのだから。

 牢獄ではこの程度の怪我は珍しくない。むしろごくありふれた日常と言っても過言ではない。躊躇いなく生きるために暴力を行使する者たちが跋扈するこの地区での骨折など、親が同情を引く為に子供に負わせる怪我の最たるものだ。

 痛々しい姿の子供を、牢獄の実情をあまり知らぬ下層民などの前に放ち同情を引かせ、その善意に付け込む。力と権力と金が全ての世界で、なにも持たない子供とはそういった役割に使う以外に生かす価値もないのだ。自身の食い扶持すらまともに得られず親に寄生しなくては生きられない子供は、命を繋ぐ対価に痛みの甘受と在りもしない親の愛情を盲信するしかない。荷物でしかない子供は、そうやって歪みを抱えたまま育ち、ますます牢獄民の倫理観はねじれてゆく。

 添え木と一緒に包帯で巻かれている腕を一撫でし、アイリスは寝室を後にした。

 骨折をしてから夜明けの鐘が七つ鳴った。アウルムの担当医を渋々請けているエリスは彼の怪我の完治には時間を要すると聞いている。ならばまだあの真白い包帯が汚れで黒ずむまでは解かれることはない筈。本人が言うには二週間もすれば治ると豪語していたが、どうにも信じられない。

 居間の一角にあるキッチンへと立ち、朝食を作る為に調理道具を並べていると、もはや日課になりつつあるドアを叩く音が聞こえてきた。来客の性格をあらわすような控えめな、未だ眠る家主を起こすまいという気遣いが感じられるノックがされ、アイリスは冷たい廊下を通り玄関先へと迎えにいった。

 

「おはようございますアイリスちゃん」

「おはようティア」

 

 扉の向こう側に立つティアは朝日を背にしながら、負けないぐらいの明るい笑顔で挨拶をした。

 

「ちょうど準備が終わった所、良いタイミング」

「わわっ、それじゃあもう少し早く来た方が良かったですね」

「なぜ?」

「だって、ちょっとでも遅れたら、遅刻になってしまいます」

 

 タイミングの良さを褒めたつもりだったが、彼女にしてみればそれは皮肉に聞こえたらしく、申し訳なさそうに目を伏せてしまった。

 そもそも軒先でのっけから悄然としている彼女には非など存在しない。例え遅刻をしたとしても、アイリスにはそれを心から責める資格など在りはしないのだ。料理を教わりたいと申し出たのはアイリスの方からであって、ティアは望まれてそれを請けたに過ぎない。であるなら、多少の遅刻をしてもお願いした側であるアイリスが図々しくも責める謂れもない。

 

「気にしなくていい、別に怒ってる訳じゃない。頼んでるのはコッチだから怒るわけがない」

「でもでも、遅刻はいけない事ですから、やっぱり明日からはもっと気をつけます」

 

 ぐっと両手を握って意気込むティアを見てアイリスは内心で不思議に思う。

 この牢獄でどうしてこうも生真面目に真っ直ぐな性根を保ち続けていられるのだろうかと。一度腐れば、タガを失えばあっさりと堕落していく環境で、彼女は何処までも正直に、だけど環境に適応しつつある。それがアイリスには珍しく思えた。

 曇りなき眼を中てられ寝耳に水だったアイリスは返事もそぞろに、ティアに背を向け無言でキッチンへと促した。

 自分もティアのように素直で真っ直ぐだったら、もっとアウルムは喜ぶだろうか。でも考えたところで詮無い事だ。自分という器の中身はもう別の物で満たされてしまった。泥水に沢山の葡萄酒を注いだところで泥水には変わりない。後に付いてくる彼女に満ちたいっぱいの葡萄酒が、少し羨ましくなった。

 

 

 ティアと共に料理をするこの時間は嫌いではなかった。こうして調理道具を持って真っ当な食事を作るという行為は、これまで無かった行為で、それだけで滲み出た自己嫌悪を洗い流せる。

 

「トマトソースを煮込む時間には気を付けてくださいね、あまりやりすぎるのも駄目です」

「わかった」

「あと、この時間を使って他の料理も並行して作ってしまいましょう。そうした方が時間の短縮になるんですよ」

「ん……」

 

 ヴィノレタで料理を教わっているティアの指示は的確で、過去に召使いの身分だったというのも納得出来るものだった。

 毎日欠かさず作っているとはいえ、アイリスはまだ初心者の域を脱していない。だから横からかけられる指摘の数々を受けながらも手を動かすのは一苦労だ。理解しながら実行する。この作業が意外と困難なアイリスは、同時にティアの言葉に返事をするのも億劫になって、いつの間にか一音のみを口にするだけで、最終的には無言になってしまった。

 火加減に注意しながら焦がさないように、トマトを煮込んだ鍋を時折かき混ぜ、白パンを切り分ける。包丁を扱うのは慣れてきたのか、初めてのときよりは危なっかしさが薄れている。

 

「そういえば、アウルムさんはまだ寝てるんですか? そろそろお料理が完成するのに」

「放っておいてもいい。そのうち匂いに気付いて起きてくる」

 

 犬猫のような言いようだが、案の定寝室から物音が聞こえてきた。アウルムが起きたのだろう。

 程なくして居間に彼女ら以外の人間が一人増えた。眠たげな眼に締まらない表情で、背筋を丸めながらアウルムが姿を見せた。

 

「おはようさん。毎日毎日、感心するほどの早起きだなぁ」

「おはようございますアウルムさん」

「よぉティア、いつもありがとな。近所とはいえこう毎日じゃお前も面倒だろ」

「そんなことありません、アイリスちゃんと毎日楽しくお話も出来てわたしは楽しいですから」

 

 欠伸をしながらティアを労うアウルムは感心した様子で何度か頷いた。傍目にそれはティアの謙遜に感慨深くなっているのだろうという印象を懐くが、鍋のスープを掻き回すアイリスには単にまだ彼が眠りから完全に覚めず、うつらうつらとしているだけだと理解していた。

 

「わたしたちが早いんじゃなくて、アウルが起きるの遅いだけ」

「ははっ、アイリスは厳しいなぁ」

 

 憎まれ口に苦笑いを浮かべるアウルムに、アイリスはつい口を衝いてしまった己を内省した。

 こうして真っ当な生活を送れるようになったのは彼のおかげだ。その事実を、ふとした瞬間にいつも忘却してしまう。こうして切り分けられた白パンも、彼の仕事の報酬によって得られる糧なのだ。当初は身請け金に殆ど費やしてしまい、食べる者も石のように固い黒パンばかりだったが、いまでは安定して牢獄では貴重な柔らかい白パンを食べる事が出来るのに、どうしてそれを自分が責められようか。

 身請けされた立場は忘れろと、アウルムは初日に言った。大恩を懐くべき、服従するのが同然の相手にそう言われ、慣れない感覚もあった。しかし他でもないアウルムがそう言うのだ、アイリスとて彼相手に平身低頭というのもどうにもむず痒い。だから彼の申し出はあらゆる意味で立場を忘れられる恰好の機会だった。けれど――だからこそアイリスは囚われる。

 立場を取っ払ったいま、対等に彼の隣に立つなら、朝の挨拶もしない内に皮肉を漏らすのではなく、寛容な心で自分こそが彼を労うべきなのではと。

 

「アウル、こっち」

 

 だから、せめて失言を取り戻そう。

 アイリスは完成した料理をティアに預け、アウルムに歩みより手を伸ばす。身長差のある両者は、その双方が共に歩み寄らなければ決して届きはしない。だからアウルムも彼女の意図を察したのか、膝を曲げて屈みアイリスと視線の高さを合わせる。

 以前、リリウムに居た頃にクローディアから聞いたことがある。女には三種類のキスがあると。

 一つは偽りの意味を込めて、二つに友愛の意味を、そして三つ目に……最愛の意味を相手に受け取ってもらう為の。これまでアイリスは商売として、逃れられぬ定めと諦め偽りの行為でしかそれを知らなかった。それ以外のキスをしたとしても、彼女には同性に対してキスをする気には仕事以外ではなれなかった。だから、彼にするのは三番目でありたいと、寝起きで高くなった体温を頬に触れ感じながらアイリスは思った。

 

「わっ、わっ……ま、またですか……」

 

 後ろで慌てたようなティアの声が聞こえるが、気にしない。呼びつけておいて毎回見せつけるのもアレかと思うが、彼女には慣れてもらわなくては。

 これから先、彼が拒まぬ限り続けていくつもりなのだから。

 愛を知らず、恋という芽に水をやり続ける彼女は、何度目かもわからなくなった口づけをしてアウルムの朝を迎えた。

 

 

 ※

 

 

「おおっ、今日はまたいつにも増して飯が美味いな!」

「ティアに教わったおかげ」

「そんな、アイリスちゃんが頑張ったからですよ」

 

 朝食の出来は好評で、アウルムも絶賛しながら心なしかいつもより勢いよく食べているように見える。

 きっと彼女一人ではこうも早く上達の芽を見せなかっただろう。功労者であるティアには感謝をしてもしきれない。豪快に食事をし続けるアウルムに満足し、視線をティアへと向けると、さっきとは打って変わって人知れず表情を硬くしていた。

 

「ティア、どうかした?」

「えっ、なにがですか、わたし変な事してました?」

「浮かない顔してた。なにか悩み事でもありそうな、そんな顔」

 

 他ならぬ自分自身が意外そうに目を丸くした。

 

「悩み事なんて何もないですよ、事件も終わって平和になりましたし、毎日が楽しいですし」

「そう……」

 

 “事件”という単語に反応して、思わずアイリスの表情に影が差す。横目には不自由そうに動かぬよう固定されたアウルムの左腕がある。

 詳しい経緯こそ知らぬが、彼の怪我がティアの言った事件に関連しているのは火を見るよりも明らかだ。解決こそすれ残された爪痕は、未だに癒えていない。なにも特別騒ぎ立てるような事ではないとはわかっている。牢獄とは、そういう場所なのだ。

 

「アウルは、今日も食べたらエリスの所に行くでしょ」

 

 定期健診の為に主治医であるエリスの許へと赴くのは、怪我人であるアウルムの義務だ。不蝕金鎖でも御用達の彼女の診察を受けるのは、ジークにも言われている事だけあって無視するわけにもいかない。それをアウルムも理解しているのだろうが、料理を口に運びながらも彼の表情は芳しくない。

 

「いやぁー、今日ぐらい行かなくても良いんじゃないか? ほら、この通り治りかけてるわけだし」

 

 空々しい語調で左腕を振るいながらアウルムは明後日の方向に視線をそらした。明らかに行きたくないというのを言外に語っているのはアイリスにも、日の浅いティアにも理解出来た。

 

「そんなにエリスさんの所に行くの、嫌なんですか?」

「なに言ってんだ、俺は嫌だなんて言ってないだろ。別に怖くないし、エリスが怪我人の俺に何かするんじゃないかなんて、これっぽっちも思ってないぞ。

 だいたい単なる骨折なんだ、そう何回も何回も言った所で何も変わらないだろ。時期が来たら治る、その時にもう一回行けば事足りるんだ、態々顔を見せてあいつの忙しい合間のひと時を潰すような事をするのも悪いだろ? そうは思わないかティア?」

「えっ、あ、そう……なのかな」

「そうに決まってる。ティアだって想像してみろ、エリスのキツイ視線が忙しさも相まって更に厳しくなるんだぞ。あいつは牢獄でも貴重な女医だ。その人気は天井知らずで、下心満載の男共はこぞってエリスに見てもらおうと怪我をする。ウンザリしたくなる環境に、行ってみろ、あいつの八つ当たりの対象になる様を想像してみろ」

「うっ……すごく、行きたくなくなりました」

「だろッ!」

 

 いかにして行きたくないのか、その理由をつらつらと並べ立てるアウルムに丸め込まれ、ティアまでもが健診否定派に鞍替えしてしまった。

 確かにエリスならやりそうではあると、否定出来ないアイリスではあるが、それ以前に彼女は医者なのだ。患者相手にそんな真似などする筈もない。――というのは彼女の見解で、アイリスは知らない。エリスがアウルムを敵視している、という真実を。

 他者の事情など与り知らぬアイリスは溜息を一つ漏らした。

 

「だめ、ちゃんと診察を受ける」

「で、でもよぉ……別に異変もなにもないんだから行かなくても良いんじゃねえか?」

「そうですよアイリスちゃん、本人が嫌だと言ってるんですし、ここは意を汲み取っても……」

「うるさい黙れダボ共」

 

 語気こそ荒くはないが、静かに揺れる水面のような声の水底に、得体のしれない恐怖を感じ取った二人はあっさりと口を噤んで引き下がった。

 医者が怖いから行かないなんてふざけてる。臆病風に吹かれて完治が遅れては仕様がない。そもそも、これはアウルの頭であるジークにも言われたことなのだ。それを子供のダダで逃れようなんて甘えは、許さない。

 

「いいから早く行く。でないと今夜の食事は無しにする」

「あの……アイリス、怒ってるのか? だったら――」

「行け」

『は、はいっ!』

 

 素早い動作で席を立ち、食べ終わった食器を流し台に片付けると、一目散にアウルムは家を飛び出した。――その背中をティアもまた追っていた。

 

「どうしてティアも行くの」

 

 覇気に気圧されたティアもまた勢いのままに飛び出してしまったのを、呆然としながら呟いたアイリスは、一先ず食事を終わらせようと白パンを頬張った。

 品質の良い小麦の香りと柔らかい触感は、噛み締めるたびに過去を想起させるが、いまはもう惜しい気持ちはなかった。過去を振り返るよりも魅力的な、先の明るい未来が開けたのだから。

 

 

 食器も洗い、あらかたの家事を終えてしまったアイリスは手持無沙汰となってしまい、とりあえずベッドに腰掛けた。

 退屈とは違う暇にすることがないというのは、これまで無かったことだ。娼婦時代は暇があれば呆けたように時間を潰したり、アウルムとチェスをしたりとなんだかんだいって何かをして暇を満喫していた。だがいまはもうリリウムではない場所に居る。あそこから連れ出してくれたアウルムも、言われるままにエリスの許へと言ったきり戻ってこない。

 なにか用事でも出来たのだろうか。アウルムの帰りを待っても一向にその気配を感じられなかったアイリスは、待ち続けるのを諦めて立ち上がった。

 どうせ時間を無為に消費するぐらいなら、予てより考えていた事を実行に移そう。身請けされて以来、なかなか顔を出せなかったリリウムに行こう。この時間ならクローディアやリサもちょうど目覚めた頃だろう。

 クローゼットを開け服を選ぶ。地味な普段着から、肢体を隠す用途とは思えない透過率の服まである中から普通の普段着を取り出す。余談だが、この新居に移り住むまでクローゼットなんてものは無かった。寝泊まり出来れば十分、という意味だけを残した前住居にそんな物は不必要だったのだろう。もとよりアイリスの所有する衣服なんてものは身体が透けて見えるほど薄いベビードールしかなかった為、必要とも思ってなかった。

 しかし経済状況に余裕が持てるようになったアウルムから数着の衣服を買い与えられた為に、いまでは重宝している。クロークにある服の大半は彼女の物だった。

 服を着替え簡単な戸締りをして家を出る。相変わらず饐えた臭いが漂う牢獄は、復興の兆しなど見せず、天に上る太陽から隠れるように大きな日蔭が差している。娼館街を北に歩き、リリウムへと向かう。こうして一人で歩くのは久し振りで、隣を見上げても肩越しに覗く呑気な面構えの男が居ないというのは、少し違和感を覚えた。

“思った以上に染まってる”

 リリウムでの日常が非日常になりつつ、なり替わるように染まりつつあるこの日常は、嫌いではなかった。

 

 古巣……と言うほど離れて月日がたったとは思えない娼館リリウムの前に立ち、アイリスはその全景を観察するように見上げた。

 血の繋がらぬ姉妹が沢山住む家であり、決して独り立ち出来ない檻とばかりに思えたリリウムは、こうして首元の拘束を解かれたいまとなってはなにやら遠い場所のようにも見えた。見慣れない初めての店へと入るような、そんな感傷的な気持ちが湧く。

 でも、このまま帰るのも負けた気がして癪だ。アイリスはふん、と鼻を鳴らしていつも通りの居丈高な姿勢で扉を開いた。気負う必要も、気圧される理由もないのだ。ならいつも通りにすればいい、勝手知ったる店なのだから。

 

「ん……? アイリスか、なにしに来たんだ?」

 

 扉を開けて彼女を迎えたのは眉間に皺を寄せているオズだった。てっきり営業時間も守らない客が乗り込んできた世間知らずを教育してやろうと思っていたような、そんな険しさだったが、顔見知りだとわかるなり剣呑な雰囲気は霧散した。

 後ろ手に扉を閉め、緩慢な動作でオズに視線を向けると、抑揚のない声でアイリスは答えた。

 

「クロとリサに会いに来た」

「なんだって急に」

「いけない?」

 

 オズとしては身請けされた娼婦が再び元の娼館に訪れるなんて思ってなかったのか、訝しげに理由を問うが、アイリスとしては家族に会いに来た――ただそれだけだ。

 

「今の時間ならまだ暇でしょ、それに二人も起きてる筈」

 

 元ここの娼婦だからわかる事実を並べると、オズも納得したのか――それとも諦めたのか――眉間を揉んで奥の方を指さした。その先にあるのは娼婦たちの寝泊まりする相部屋。つまりアイリスが通る事を許容したのだ。

 

「まあ別に、お前を止める理由もないな。折角顔を出しに来たんだ、後でジークさんに顔でも見せるといい。きっと色々と話しもあるだろう」

「そっちは後にする。ボスの話しは長くなりそうだから」

「否定はしない。二人には今夜もたっぷり仕事があるから、あまり連れまわすような事はするなよ」

「ん……」

 

 そんな事、言われなくてもわかってる。背を向け帳面をつけるオズに内心でそう返しながら、二人が居るだろう部屋へと向かう。アイリスが抜けた事によってあの相部屋はいまどうなっているだろうか。だれか別の子が入っただろうか、それとも新しい娼婦が来て、その子が入っただろうか。そんな想像を膨らませながら、アイリスは錆びついたノブを回した。

 木と金属の軋む音を立てながら開いた扉の隙間から体を入れると、能天気な声と共に軽い衝撃が身体に奔った。

 

「はっやーアイリス! 久しぶり~、元気してた?」

 

 耳元から聞こえるくすぐったくなるような声の持ち主たるリサが飛びついてきたのだ。扉を開けて数秒。前もって来訪を予期してなければ出来ない芸当だ。そんな超反応をいつ身に着けたのか、疑問に思いながらもアイリスはうんざりした表情を露わにした。

 

「リサ重い……豚みたいな身体になった?」

「ブタッ!? ブタとな!? あたしそんなに太ってないから、太れるような場所じゃないの知ってるじゃん!」

「冗談。でも重いからさっさとドケ」

 

 娼婦は痩せる事はあっても太る事はない。衛生面ですらコストを切り詰めている娼館が、太るほどの食事を娼婦に与えるわけもなく、それほどの量を外で食べても結果として客が離れるリスクがある。ごくまれにそういったふくよかな女性を好む客もいるが、そんなニッチな層のみを相手にはやっていけない。そもそも、女性にとって“太る”というのは禁句なのだ。

 それでもたまに痩せすぎて悩みを持つ娼婦も居た。太るのも悪いが、痩せすぎて肋骨などが浮かび上がっては、それはそれで相手を萎えさせるのだ。アイリスも、その一人だった。

 

「あれっ、もしかしてアイリス太った?」

 

 だから、邪険に扱うように押しのけたリサの口から漏れた言葉は、アイリスにとっては暴言たりえない。

 食生活が改善されたのが原因だろうと、そう答えようとしたとき、リサの立つ向こう側で微笑みを携えるクローディアと目が合った。

 

「きっとアウルム様が良いのを沢山食べさせてくれてるんでしょう、良い殿方に身請けされましたねアイリス」

「……クロ、久しぶり」

 

 なんとなく高笑いするアウルムの姿が脳裏に浮かび、素直に首肯しかねたアイリスは照れくさそうに挨拶をして誤魔化した。

 自分だけ身請けされた事実に関しての負い目は――なかった。もとよりそのような懸念はリリウムを出る前に話し合い曝け出して消化済みなのだ。だからこそアイリスはいつもと変わらず、服装こそ以前と変われどそれでも変わらぬやり取りを噛み締める。

 

「あ~、照れてる。アイリスったら照れてるよクロ姉」

「まあいけませんよリサ、こういうのは口に出しては。折角貴重な反応を見せてくれたのだから、もう少し愛でていたかったのに」

「愛でる? 悪いけど、あたしはソッチのケはないから、やるならクロ姉だけにしてね」

 

 嫌悪の色を滲ませながら吐いた言葉はリサの表情をより一層際立たせていた。困ったように寄った眉根の溝は深く、上半身を逸らした身体をクローディアから遠ざける。いくら娼婦と言えど、苦手なプレイは存在する。それがたまたまリサにはそう言ったモノだっただけ。

 仕事としてソレを注文されたことはよくあった。現に目の前に立つ一人の同僚と一人の元同僚と一緒に貴族の屋敷に赴いた時なんかは、そういった行為を実際にしていた。しかしそれはあくまで仕事なのだ。個人の趣味と照らし合わせたとき、それはリサとしては出来ればシたくない分類の行為であった。

 そんなリサの隠さぬ心情を察したのか、クローディアが頬に手を当て陰日向に咲く花のような、陰をもちながらも悠然とした慈愛の笑みを持って返した。

 

「なにを勘違いしているのです。“愛でる”と言っても、そういった意味ではありませんよ」

「えっ他に意味があるの?」

「はい、もちろんあります」

「そうなんだ知らなかったなー。ま、娼婦(あたし)には別の意味なんて必要ないし、知らなくてもいいやっ」

 

 頭のネジが何個か無くしてしまった彼女らしい、実に能天気な応対は懐かしくあり、だからこそアイリスの口を衝いた言葉は流水の如く自然に流れ出た。

 

「リサの脳みそは相変わらず」

「ちょっとー! 久しぶりに会ったってのに、どうして早々にあたしを詰るのさ」

「あいさつ」

 

 そうとしか言いようが無かった。もともと彼女は饒舌とは言い難い性分なために、必要以上に言語化するようなことはなかった。長い付き合いであるリサにもそれは重々承知であろう。そしてそんなアイリスが言語化する言葉が殊更辛辣なのも。

 

「そっかあいさつか、そうだよねアイリスはいつも“こう”だったよね」

 

 アイリスに対する懐いた印象を誤解なく思い出したリサは、納得いった表情で頷き受け入れた。

 渇いた砂に水を掛けたようなその吸収力はリサの持ち味だろうと、アイリスは好意的に思い過去に住んでいたときと変わらぬ指定席へと腰を下ろした。世辞にも心地よいとは思えない指定席だったベッドは、出て行ったときと変わらずにシーツが綺麗になっていた。どうやらアイリスが出てから新たな入居者は現れなかったようだ。

 

「でさ、アウルムとはどうなの? さ・い・き・ん」

「……ゲス」

 

 締まりのない緩んだ表情でそう問いかけてくるリサを一言でバッサリと切り捨てたアイリス。……が彼女を射抜く刺客は一人ではなかった。

 

「その話、わたくしも伺いたいですわ」

 

 こんなことを聞くのはリサだけかと思っていたアイリスにとって、このクローディアの言葉は想像だにしていなかった。まさか彼女がこのような話題に乗るとは――そう半ば戦慄を懐いたが、すぐに納得がいってしまった。

 思えばクローディアという女性は、外見こそたおやかで自身の体から漂う花の香りの如くしとやかな印象を懐くが、その内面は外見とは遠く離れている。それをすっかり失念していたのは、この部屋の住人としての資格と自覚を失ったからだろうか。

 

「そんなに面白い話じゃない」

「それはあたしらが判断するのさ、ていうかあたしはもう楽しくなってきたよっ」

「語り手と聞き手の評価に差異があるのは常識。別に楽しくなくてもいいのよ、わたくしはここを出てから貴女がどんな生活をしているのかが聞きたいのですから」

「……わかった。なら話す」

 

 近況を知りたい。そう優しい声音で語るクローディアからは好奇心だけではないのを感じられた。それは記憶の奥底にあるもう顔も霞む母親のようで、遠く離れた家族を案ずるような実感があった。だからだろうか、アイリスはさっきまでとは真逆にアウルムとの生活を話したいという気持ちが芽生え始めていた。

 ベッドに沈んだ臀部を軽く上げ、もう一度座りなおしてからアイリスは口を開いた。

 

「アウルの今住んでる家は知ってる?」

「ええ、知ってますよ」

「あれでしょ、カイムの家から近いんでしょ? あたし何度もお使いに行ってるからわかるよ」

 

 得意げに語るリサは、この娼館に君臨するジークの命でよくカイムを呼び出す連絡員をしている。アイリスとアウルムが越した後も通っているのはその口ぶりから察せられるが、それならなぜ顔を出さないのか、とも思ったがなんてことはない。彼女がカイムの家に行く時は、ジークに命じられたときか、ごく個人的な他人にしられたくない相談事をするときだけなのだ。そんな場面で態々リサが顔を見せにくるとは思えない。……もしくは単に忘れているだけか。アイリスとしては後者の線が濃厚に思えた。

 

「それは引っ越した後の家。その前はすごくボロい家に住んでた」

「ボロい、家……?」

「石みたいに硬いベッドと物を置くだけで壊れそうなテーブルしかなかった」

 

 包み隠さず真実を打ち明けると、二人はしばしの間黙りこくった。アイリスの言葉を反復したクローディアは、意外だったのか戸惑いを隠せていない。

 

「えっ、でもアウルムってアイリスを身請けしたぐらいだから、お金持ってたでしょ。なのになんでそんな家に住んでたの? もしかして、ものすっごいケチとか?」

「いいえ、きっとそれはないと思います。あの方はお金の〝使い方”をよくご存じです。きっとそれは……」

 

 言いさしてクローディアの眼差しがアイリスへと向く。

 

「アイリスを身請けするため……なのでしょう」

 

 どこまでも愚直な彼の人となりを知っているクローディアだからこそたどり着いた答えは的を射ていた。そしてそれは、同じように――否、それ以上に彼を知っているアイリスも理解していた。心のどこかで理解していた。

 あの廃屋とも形容できる節約の極地とも言える家は、アイリスへの執着が形を成したもの。そう考えると自分があの家と同等なのかと、眉を顰めたくもなる。

 

「そのあと引っ越して、それからの生活はまともだった」

「最近すごく働いてたもんねアウルったら。自分で怠け者とか言っときながらさ」

「それだけアイリスが大事なのでしょう。愛されてて羨ましいわ」

「……それはどうでもいい」

 

 なんとなく照れくさい気持ちになってアイリスは目を伏せた。

 感情の起伏が乏しい彼女の表情は、顔見知りであろうと見抜くのは難しい。ましてはその心情を受け取ることすら。

 しかし、ここにいる二人は家族を称する人物。家族であるならばそんな彼女の仕草が照れ隠しであることは一目瞭然。

 

「やぁ~ん! アイリスったら照れてる~、かわいいんだからぁ~!」

「…………」

「いけませんリサ、口にしてはアイリスがますます意固地になりますよ」

 

 もうなっていると、口にはせずに目と態度で訴える。

 ひとしきり身悶えたリサは、呼吸を整えると目尻に涙を浮かべながら笑みを作りながら取り繕うように「あ、そうだっ」と話を切り出した。

 

「でさ、アウルとの性活はどうなのさ、そこんとこ詳しく聞きたいなぁ」

「……? 別に普通、食事作って掃除洗濯するだけ」

「違うってば、あたしが聞きたいのはその生活じゃなくて――」

「……言ってる意味がわからない」

 

 回りくどい彼女の言葉は的を射てないように思えた。日常生活の内容を求めるような質問に、ただそのままの説明をしたことの何が違うのか。

 アイリスの疑問はリサではなく、静観していたクローディアの口から説かれた。

 

「この子が言ってるのは、アウルム様との夜の生活の事よアイリス」

「そぉそぉ、クロ姉の言うとおりッ! さっきからあたしはそう言ってるじゃん。アイリスだっておぼこってわけじゃないんだからわかると思ったのに、意外とニブチンだったんだね」

「……」

 

 なるほどそういう意味での性活か。アイリスの中で形作っていた疑問の塊が、これによって見事に粉砕された。その衝撃の余波は身体にまでおよび、半眼だった瞳が見開かれ小さな口が呆れたように半開きになった。

 そう呆れたのだ。二人の真の目的がこれだと確信した瞬間、アイリスは呆れてしまった。話題の下世話ぐあいにではない。既に知っている筈の話題を掘り返す事の無意味さに呆れていたのだ。

 元より彼女らは娼婦。であるなら遊び人であるアウルムの相手も当然経験がある。それは夜ごと訪れる娼婦たちの集まりでたまに話題に上っていた事からアイリスも知っている。身請けされる以前は、アウルムが話題に出る度、なぜ自分は指名されないのかと理由もわからず不満を懐いたこともあった。今にして思えば、それは所謂嫉妬にも似た独占欲なのだとアイリスにも理解できた。

 だから、その話題に関してはあまり口にしたくなかった。――のだが、

 

「何もちゃかすつもりなんかないのよ。わたくし達はただ、もしあなたに悩む事があるなら力になりたいってだけなの。だからアイリス……よかったら話してくれないかしら」

 

 と、クローディアに言われ、乗り気でなかった方へと傾いていた針は大きく弧を描いて反対へと傾いてしまった。

 悩み。そう、この単語がアイリスの気まぐれを引き起こす重要な要因であった。毎朝顔を合わせているティアには相談出来ない、勿論アウルムになど論外の悩みがアイリスにはあった。思いなおせばこの状況は、その悩みを解消する絶好の好機ではないか。幸いな事に彼女たちは前の自分と同じ職業の現役、退いてからそう月日が経ったわけではないがそれでも自分で解決策を考えるより得策だろうと、その気になってきたアイリスは益々好意的解釈をし始めた。

 

「それじゃ一つだけ、聞きたい……相談したい事がある」

 

 一旦間をおいて、それからアイリスは口にした。

 

「アウルのが――大きすぎる」

「あぁ~それわかる! おっきいよね」

「確かに、あの方のサイズは一般男性のそれよりも上回ってますね」

 

 ナニを指しての大きさなのか、娼婦たちは態々明確な言葉にするまでもなく理解し同意した。もしこの場にティアが居たら赤面しただろうが、ここに居るのは娼婦と元娼婦。そのような恥じらいなど欠片も無く、また口にする躊躇いも存在しなかった。

 

「そっか、アイリスの身体にはちょっと大きすぎるよね、アレ」

 

 形状を思い起こすかのように中空に視線をやり、しみじみとリサが呟いた。――と、なにやら思いついたのか唐突に手を叩いて視線をアイリスへと向けた。

 

「それならお尻を使えばいいんじゃない!? ほら、クロ姉なんかは得意分野だし。それならアイリスでも」

「知ってたんだリサ」

「うんこの間、ちょっとね……カイムに教えてもらったんだ」

 

 無邪気に、だがほのかに頬を朱色に染めながら答えたリサ。

 カイムに教わったという事は、つまりはそう言う事で、となれば彼はティアとエリスがありながら……。

 

「やっぱりカイムは節操無し」

「あら、それならアウルム様も負けてないですよ。あの方も、相当ここで“御遊び”に興じておりましたから」

「いまはもうそんな事ない」

 

 心配などする必要もない。アイリスは自信をもってそう断言した。

 

「それってアウルを信頼してるってこと? わ~なんかもうメロメロって感じじゃん、あたしもあやかりたいなぁ~」

「カイムで我慢したほうがいい、身の為」

 

 静かに決然と告げる。

 アイリスが向ける視線の鋭利さに気が付いたリサは、言ってはいけない冗談に分類されることを本能で学びすぐさまその軽口を閉ざした。一歩離れた位置で、そのやり取りを見ていたクローディアが楽しそうに微笑んでいた。

 外の雰囲気が変わったのを感じたのは、ちょうどそんなときだった。

 娼館街の人口密度が増加したのを示唆する喧騒の音が、アイリスの耳にも入ってきた。それは聞きなれた過去の日常を想起させる音色。即ち、彼女たちの“仕事”が始まる合図であった。

 

「もうこんな時間なのね、それではリサお喋りは此処までです。今夜のご奉仕の時間よ」

「ホントだ全然気が付かなかったよ、あたし今日は予約もないから外で声かけなきゃ」

 

 立ち上がる彼女らをベッドに座るアイリスは見上げる。昔の彼女であれば、ここで二人と同じような感慨を懐きながら億劫そうに腰を上げるのだが――。

 

「そんじゃあアイリス、また今度ねっ。次はヴィノレタで一緒にご飯でも食べようよ」

「その時は、わたくしが奢りましょう。ではアイリス、またいらしてね」

 

 遅れて腰を上げたアイリスの頭を撫で、クローディアは約束した。次の機会を。

 実感はここにきてようやく、アイリスの立ち上がったタイミングと同様に遅れて訪れた。

“ああ、わたしはもうこの二人とは違う――いや、娼婦としての自分とはもう違うんだ”

 理解は雪解けの熱を持ってアイリスの総身に沁み渡った。いまこの瞬間までのアイリスは新たな日常を、客観的に模倣してただこなしていただけに過ぎなかった。普通の生活、普通の日常とはきっとこうだと、知識と記憶と観察の果てに算出したアルゴリズムに従っていただけ。云わば意図という糸に縛られた人形にも等しかったのだ。

 娼婦である事に諦観を覚えていたアイリスは、唐突に解放されたが故に慣れてなかった。まだ心のどこかで夢を見ているような感覚で、いつかは覚めてしまうのではという不安が予防線を生んだ。それが今日までのアイリスだった。

 ――だが。

 

「うん、また……“会いに行く”」

 

 立場を正しく理解したアイリスは、僅かに口角を上げて応えた。

 失った日常は、しかし無くならずに拠り所として在り続ける。

 道を違えようと己から行動すれば再び交わるのを知って、アイリスはイマを真摯な気持ちで受け入れた。

 

 

 ※

 

 

 茜色に傾く空模様は終末を漂わせる不安の色合いでいつまでも在り続ける。細やかな活気で湧いてきた娼館街を歩きながら、アイリスは考えた。

 真っ当に行って帰ればもうアウルムは帰宅している時頃だろう。無人の自宅に帰った彼は、果たして自分の不在に気が付き何を思うだろうか。ここが下層であれば心配する必要はないだろう、日はまだ上っているし、人通りだってある。しかしここは牢獄。いつなんどきに不条理が降りかかるかわかったものではない。

 ここはアウルムを安心させるためにも早く帰宅しようと、アイリスは心なしか歩く速度を上げた。

 空の色に曝された人々の間を縫って進むと、ふと視界の端に見慣れた店があるのが目に入った。――言い訳をするなら、魔が差したのだろう。

 気が付けばアイリスは街路ではなく店内へと足を進め、あろうことか席にまで着いていた。自分の身の丈では若干座るのに苦労するカウンターの席――アイリスが滅多に座らない――に着き、気持ち背を伸ばして彼女を迎えた店主へと目を向ける。

 

「いらっしゃい、珍しいわねアイリスが一人で来るなんて。何かあったのかしら?」

「特に理由は無い。しいて言うなら、気まぐれ」

 

 「まっ」と驚いた声を上げ店主――メルトはとても嬉しそうな面持ちで両肘を一段高いカウンターに置いて前かがみになった。自然と、彼女が持ってアイリスが持ちえない双丘が形を変えてその存在感を濃密にした。

 

「気まぐれで来てくれるなんて嬉しいわ」

「どうして?」

「だってそれって馴染みの店って思ってくれるようなものじゃない。わたしとしてはアイリスにそう思ってもらうと、とっても嬉しいわ」

 

 そういうものなのかと、アイリスは笑みを浮かべるメルトに釈然としない表情をしながら押し黙るしかなかった。結局の所、彼女に何を問うた所で似たような答えに行きつくのだろう。

 いつもなら背を向けているテーブル席に座るアイリスは、慣れないカウンター席から見える景色を珍しく思い眺めると、突拍子のない行動が伴う結果に思い至ってメルトに視線を戻せなくなってしまった。

 

「どうしたの? そんなそっぽ向かれるとお姉ちゃん悲しいな~」

「…………」

 

 冗談とも本気とも取れる声色で呼びかけられるが、アイリスは振り向かない。というのもいまの時間はもうじき夕食時になる頃。つまりアイリスは家に帰って夕飯の支度をしなくてはならないのだ。

 強要された仕事ではないが、それでもこれも自発的に決め始めた事。投げ出すには自分勝手すぎる。

 帰ろう――そう思っても一度ヴィノレタに入ってしまっては難しい。気まぐれに訪れ何も注文しないままに店を出るのは、冷やかしにも等しい。ましてやメルトは自分の来店を喜び歓迎している。笑顔の彼女を前に面と向かって「やっぱり帰る」なんて言葉は劇薬と同等で、無責任という水で喉の奥まで流し込む行為に等しい。

 ではどうするか。

 アイリスは暫くの間、頭を捻って悩み、答えを出した。

 

「――料理を持ち帰りたい」

 

 今夜はヴィノレタの料理にしよう。

 

「お持ち帰り? 良いわよ別に、いまは暇だし直ぐに作っちゃうけど、何がいい?」

「鳥肉を使ったヤツで」

 

 記憶が正しければその料理はアウルムがヴィノレタでも特に気に入っている料理だった筈。それを覚えていたアイリスは迷わずに注文した。

 注文を受けたメルトは料理を作る為にカウンターに背を向けた。独特の香りが漂う店内は客の数もアイリス以外にはなく、静謐な空気が充満している。あと数時間もすれば酒を求めた客で犇めく空間は、云わば嵐の前の静けさにも似ていた。

 手慣れた動きを魅せるメルトの背中を眺めながらアイリスは考える。

 彼女もまた自分と同じで身請けされた元娼婦。しかも身請けしたのは《不蝕金鎖》の先代頭のボルツだ。およそ娼婦の中では考えられないほどのシンデレラストーリーを歩んできた彼女は、どんな思いで今日までを生きてきたのだろう。疑問は一度芽が出ると際限なく成長し、天高くまで背丈を伸ばし続けた。

 前ならこんな感傷に浸る事も、他者を気に掛けることも無かった。ましてや他人の意見を参考に生き方の路線を修正するなんて事もあり得なかった。

“何かが変わった……”

 変化の予兆は前々から感じていた。リリウムでそれも確信へと変わった。抵抗なく受け入れる事も出来た。だから――こんな日常も悪くないと思えた。

 

「おまたせー、メルト特製鳥煮込みよっ」

「ありがとう」

 

 片手で料理を受け取りながらもう片方の手で銅貨を数枚手渡す。現在仕事をしていないアイリスの収入源は生活費のみ。

 異常な程の倹約っぷりを見せていたアウルムも、目的のアイリスを身請けしたら元通りになり浪費癖を遺憾なく発揮した。だからある程度生活収入が安定した所でアイリスはアウルムの財布の紐を握った。何故なら――

 

「最近アウルの姿を見ないけど、元気してる?」

「怪我は治ってないけど元気。今日はエリスの所に行ってる」

「この間までしょっちゅう飲みに来てたんだけどねぇ、めっきり来なくなったからどうしたのかと思ったけど、アイリスの調子を見るにいつも通りみたいね安心したわ」

 

 ヴィノレタでの豪遊が目に余ったからだ。毎回毎回来るたび行くたび飲むたびに店内に居合わせた客の分まで支払い、お祭り騒ぎの乱痴気騒ぎ。呆れたアイリスはアウルムを叱りつけ豪遊に回数制限を掛けた。放っておけば明日食べる食べ物を買う金すらなくなると予期したが故の応急措置だった。

 

「アウルの金遣いが荒いから制限したせいだと思う」

「あ~、確かにそうね。ウチとしては良い事だから考えてなかったけど、よく考えたら使いすぎ……よね。あまりにもいつも通りだから感覚がマヒしちゃってたみたい」

「いつも通り? どういうことメルト」

「だってあの子の金遣いの荒さは今に始まった事じゃないし、昔っからある金は使いこむ性質なのよアウルは。アイリスを身請けするって決めてたらしい時期は、やけにケチになってたから心配してたぐらいよ。逆にわたしからしたら倹約化なアウルの方が違和感よね。砂を撒くようにお金をばら撒くような人なんだから」

 

 朗々とアウルムについて語るメルトは実に楽しそうだった。過去を語り振り返りながら彼女にとってなにか良い思い出と、記憶の中で再開でもしたのだろうか。語り聞かせる彼女の姿は、意外にも歳不相応な乙女のようでアイリスは目を丸くした。

 アウルムの過去については人づてではあるが、ある程度知っている。アイリスの前で見せる一面はごく一部の、その中でも特に珍しい部分であったという事も。浪費癖に関しては隠しても居なかったし気にもしていなかった。だから彼の家を見たときは逆に驚いた。ああ見えてとんでもない倹約家なのではと。

 

「ま、あまり責めないであげてね。アウルも悪気があるわけじゃないし、アイリスをないがしろにしてるわけでもないと思うから」

「わかってるし別に怒ってもない、少し責めたけど」

「アイリスに責められてしょげるアウルか……想像すると微笑ましいわね」

 

 放埓に生きてきたアウルムの尻に敷かれている場面でも想像したのか、メルトは口に手を当てて笑った。

 

「メルトは身請けされたとき、何を考えた?」

「また唐突ね、そんなこと聞くって事は何か悩みでもあるのかしら?」

「…………」

 

 冷静な声音で問うメルトの瞳がアイリスを映し出す。未知への探求心を備えた子供のような瞳が映っていた。

 ただ知りたかった。メルトはどんな思いを懐いてこの店を切り盛りしたのか、身請けされた娼婦はどんな態度と心持ちでいれば良いのか。模倣するのではなく己の中で噛み砕いて一つの知識として蓄えたいがためにアイリスは問うた。

 しばらくの間沈黙が流れた。どんな言葉で答えればいいのかを考えあぐねているような、そんな表情で瞼を閉じるメルト。外からは人々の喧騒が目立ち始め、胡乱な光が灯り始めた。どこかで剣呑な音が聞こえたとき、メルトは瞼を開いた。

 

「そうね、しいて言うなら感謝……かしら」

「かん……しゃ?」

「そう感謝。牢獄に住んでると忘れがちになる言葉だけど、とても大事な言葉。この感情は決して忘れてはいけない、大事な想いだと思うの」

 

 身請けされた事に喜ぶ前に、まずは感謝を。それはとても当たり前で、だからこそ忘れがちな善意の言葉。悪意の吹き溜まりたる牢獄には無縁の、天使様相手に祈る教会の人間ぐらいしかしないだろう言葉。

 

「アイリスは身請けされてから、一度でもアウルに口にした? “ありがとう”って」

「……してない」

 

 だって身請けされるというのは娼婦の意思で決まることではない。娼婦とは商品であり、意思を持った肉人形のようなモノ。時折境遇に嘆いて心を壊したり、開き直って客を貶めるような人間も出るが、結局の所みんな分け隔てなく奴隷なのだ。どんなに高潔な矜持と貴い意思を持っていようと、世間では奴隷と何ら変わりないのだ。

 だからそんな思考すらアイリスの中では無意識の内に忘却していた。遠い過去に、まだ男を知らない純粋でいられた頃は頻繁に口にしていた言葉。それを今になってアイリスはようやく取り戻した気分だった。

 

「なら帰ったら口にしてみるといいわ」

「……うん」

 

 外はもう夜が始まろうとしていた。急いで彼の元へと帰らねば。

 アイリスはメルトの作った料理を手に取り席を立った。店の扉に手を掛け、ふと思い立って足を止めた。

 

「どうしたの? なにか忘れ物でもあったかしら?」

 

 忘れ物。ある意味では確かに忘れ物だろう。

 背中越しにメルトへと視線を向け、アイリスは素っ気なく、けれど情感を籠めて口にする。

 

「――ありがとう」

 

 初めてはアウルムにと思ったが、教えてくれたメルトをないがしろにするのも筋が通らないと思いアイリスは口にした。

 投げかけられたメルトは瞠目し、カウンターに手を突いた姿勢のまま硬直していた。態々正気を戻すと、何かと鬱陶しくなりそうな予感がし、そのままにしてアイリスは店を出た。

 肌を撫でる風は日中よりも冷え込んでおり、料理が冷めないうちに帰らねばと、自然と足並みは早くなった。

 

 

 今日一日で沢山の事を知って思い出したような気がアイリスはした。

 忘れた感情があった。思い知った立場があった。変わってしまった価値観があった。――けれど変わらぬ関係があった。

 血や汚物、得体のしれない物で汚れた石畳を進みアイリスは自宅へと到着した。既に窓からは明かりが漏れていた。人の存在する証。アウルムはもう帰宅しているのだろう。今の今まで彼女の帰りを待っていたのかと思うと、申し訳ない気持ちもある。もしかしたら――まず考えられないが――こっ酷く叱られるかもしれない。そうなったら謝罪は必要だ。

 でも、今夜は謝罪よりも何よりも先に、伝えたい言葉があった。感情とは生もので鮮度が命だ。思い立ったが吉日、芽生えた思いは熱いうちに吐き出さなくては双方共に効果が薄れてしまう。だからこの扉を開けたらすぐに伝えよう。

 木の軋む音を連れ添ってアイリスは玄関を跨いだ。――たった数時間の再開なのに、向かえた顔は酷く懐かしく思えた。

 

「おかえりアイリス、楽しかったか?」

 

 責めるのでもなく、所在と問うのでもない。信頼を感じさせる言葉で迎えられた。

 楽しかった。変容した世界は変わらずとも違った印象を懐き、大事な人達は変わらぬまま迎えてくれた。それに、忘れていた日常も思い出せた。

 語り始めれば言葉は尽きないが、まずはこの言葉を――。

 自発的に決めた事は守ろうと決めているアイリスは、僅かに口角を上げ、目尻を下げ、ありったけの想いを口にした。

 

 

 

 

 ――そして、アイリスの一日は感謝に終わった。




すごくお待たせしました。待たせた結果が外伝ですみません。
とんでもなく難産だったのに、出来たのは起伏のない退屈な日常の話。
アイリスは大好きだけど、性格が掴みづらくて難しい。

追記:一部会話文章修正。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。