グレン・ハワードはしがないクスリの売人である。
性格は典型的な牢獄民と同様、他者を陥れる事になんの呵責も懐かない、冷酷とは違う現実的な思考回路をしている。
収入は不安定で先の見えないその日暮らし。通常、一パック銀貨二枚と割高ではあるクスリを買う
顧客は飯の種であって、他人である。彼らを相手にクスリを渡す度に「これは体を壊すから絶対に摂取しないように」などと忠告する大間抜けが何処にいようか。握りしめた金さえもらえればグレンはそれで良かった。――だから風錆という組織からの誘いがあった時も、稼ぎが増えると単純に喜びしかしなかった。
牢獄を二分する組織の片割れ、片や牢獄が生まれたときから存在している《不蝕金鎖》
もう一方は不蝕金鎖より分かたれた《風錆》
その風錆に入れるのだ、彼の生活は安定したも同然だった。
――故に。
※
アイリスには少し出かけてくると、それと今夜はカイムの家に泊まれと簡潔かつ簡素な声音で告げ、答えも聞かずに家を出た。
巻き込みたくはなかった。いつかこんな日が来るのではと危惧していた事が、ついに魔手となりて首を絞めようと背後から迫ることは覚悟していた。初めて人を殺したときから予見していた。
ガウに根城を知られたということはつまり――文にも書かれていたとおり、まさしく“そのとおり”なのだ。
直接自宅の玄関先に射られた矢文。それは彼女がいつでも訪れる事が出来るという証左であり、同時にアイリスの命を握ったも同然なのだ。当然アウルムにとってアイリスは掛け替えのない存在だ。よって彼女の安全を生贄に捧げることなんて、再び大崩落が起きようとも出来ない、出来るわけがない。だがその反面で、これは当たり前に訪れる“あるがままの摂理”なのでは、と己の中に潜む何かが説得するように呼びかける声が聞こえる。
だってそうだろう。どこまでいってもアウルム・アーラは暗殺者だ。人の四肢を斬り、絶望と恐怖に彩られた今際の顔を睥睨しながら首を落とす。そういった外道の愚物、葡萄酒の底に沈殿した澱のような人間だ。憎まれて当然、恨まれより卑劣な意趣返しをされるのはむしろ当たり前の帰結。壁に投げた石が跳ね返って来ただけの事。
あるがままを受け入れるアウルムは、これもまた受け入れるしかない。条件反射のように、脊髄反射のようにある条件下で唾液を分泌する犬のように受け入れてしまう。
月明かりが翳る朧夜の下を全速力でひた走ること数分、いつしかアウルムを取り巻いていた景色はがらりと毛色を変えて、牢獄の中でも特に人の営みが感じられない廃墟群の一帯へと足を踏み入れていた。
朽ち果て打ち捨てられた建物の隙間を通る夜風の嘶き。それはまるで失われた過去の栄華を悼む亡霊たちの哭き声にも聞こえる。
悲劇があった。覆す事の出来ない嘆きがあった。
不退転の精神を持つお伽噺の勇者がその場に在ろうと救えぬ現実という暗い影。現象として起きた大崩落の跡地は生命の息吹が絶え、芽吹く可能性すら底の見通せぬ奈落の混沌へと引きずり落とされてしまった。
朽ちた瓦礫を踏み砕き足を止める。聴覚や嗅覚、そして視覚を鋭敏にさせ自分以外の人間の気配を探るが、それらしい反応は感じられない。ガウ程の実力者にして狂人であればその気配を見落とすことなどまずありえない。なのにアウルムの知覚できる範囲には彼女の一端すら察知する事が出来なかった。
“遠方に身を潜めている? いや奴の性格上それを考慮するには根拠が少なすぎる。一度目こそ“らしい”やり方で接触してきたが、一度やったからこそ、次は悦び勇んで姿を晒す筈……それにしては……”
ガウの人物像に関して知ることは少ない。寧ろ知っている事を一つ一つ箇条書きしたところで片手にも満たない程度しか知らない。性別が女で自分と同じ殺し屋で、殺人に快楽を抽出している。その程度しか知りえない。もとより彼女の事について知的好奇心は湧き上がるわけもなかった。アウルム・アーラにとってガウは単なる厄介な敵に過ぎない。よって次に出会えば即首を刎ねるだけだ。
一方で彼の探求に筋道を立ててくれるかもしれないという可能性も感じられる。同じ生まれた意味を求め、殺し続ける彼女をこの手で殺せば……あるいは何かしらの答えを得られるのかもしれないと。
指定された地点に立って――ガウを誘い出そうと――無防備に立ち尽くすが、待てども死臭を纏ったようなコートに身を包んだ姿は現れない。こうしている間もアウルムの中では焦燥めいた感情がじりじりと足裏を焦がす思いを募らせていた。
吹けば掻き消えてしまう紫煙のような少女が網膜に張り付くような幻視をしてしまう。自覚をした瞬間、アウルムは自信を苛む焦燥の源泉がアイリスにあると理解した。――同時に、取り返しのつかない失態を犯してしまったと。
「くそッ! やられた!」
迂闊だったとしか言いようがない。悪態は全て自分を罰する為に費やした。
即座に煙草に火を点け、大きく煙を肺に吸い込みながら走り出す。今は一分一秒たりとも無駄遣いしてはいけない。
紫煙を吐き出しながら全速力で自宅へと走りながら紫煙を吐き出し、脳内のスイッチが切り替わるのを実感しつつ思考を最適化かつ高速化させる。考えるのは当然、アウルムの手に忌々しくも乱暴に握られたガウからの招待状。
“よく考えればすぐにわかる事じゃねえかッ、あの女が個人で今まで一度も不蝕金鎖の目にかすりもしないで殺しを続けられるわけがない。間違いなくケツを持ってる組織が居るに決まってる。しかもこの時期――よりによって防戦に回りつつある今を狙っての招待状という名目の囮”
確証を持てなかったからこそ仕事時の己に成り変わって思索したのは誤りじゃなかった。だからこそ、ますますアウルムは己を呪った。
不蝕金鎖のトップであるジークの懐刀である自分を、こんな僻地へと遠ざけて喜ぶ人間なんて一人しかいない。そしてその為に使われた名前が動きようのない証左。――ガウは風錆に身を寄せている。
「ベルナドの野郎……本気って事か」
黒羽の件なんて単なる前哨戦にもならない前座に過ぎない。ベルナドはずっと待っていたのだ、決して途切れぬ凝固な組織力を持つ不蝕金鎖に亀裂を入れる隙を。ジークの首を取る隙を。決して生まれる筈の無かった隙間を作ってしまったこの時を。弱点など存在しないと思われていたアウルムの弱みが出来る瞬間を。
ありえないと思われた二つの事象が符合する日を……星が頭上に降ってくるような確率にも等しいその瞬間だけを狙っていたのだ。
悪魔的な執念を持つベルナドがほくそ笑む光景が目に浮かんだ。怒りはあったが、それも自分に費やした。代わりに芽吹いたのはベルナドへの純粋な称賛だった。このような狂人にもまねできない真似をやってのけた彼に対して、アウルムは初めて敵として認識を改めた。
本気で……本気でベルナドは――
「不蝕金鎖を潰すつもりだな」
※
仕事の内容は至極簡単なものだった。
数日の間休むことなく毎晩のようにリリウムに通いつめ、ただ一人だけの娼婦を指名し続け常連になりクスリを与える。それだけの簡単な仕事だった。支払われる報酬は金貨五十枚。これは成功した暁にボス直々に支払われることが約束されていた。
金貨五十枚もあればこの腐った牢獄の中でも有数の金持ちとしての生活を送ることが出来る。鈍く輝く黄金の威光はグレンの心を突き動かすには十分な妖光だった。たとえ彼でなくともよかっただろう、牢獄民なら誰だって金貨の輝きには目が眩むのは必須。こんな幸運が舞い込んできた現実に、グレンは捨てたもんでもないと思うようになっていた。
いまこうして自分に組み伏せられながら嬌声を上げる娼婦を抱いて金が貰えるのだ。これ以上の、文字通り“美味しい”仕事はないだろう。
数ある中から選んだ娼婦はシェラという名前の特出するもののない、ごく一般的にありふれた娼婦だった。とは言っても娼館街でもトップの娼館であるリリウムの娼婦なだけあって、グレンが今まで抱いた娼婦の誰よりも清潔ではあった。娼婦にかける金の額がそのまま娼館のランクに反映されるのは、牢獄では当たり前に持っている価値観である。よって見たところ中堅どころのシェラでさえ身だしなみが整っているのは嬉しい誤算だった。
仕事とはいえどうせ抱くなら良い女の方が良いに決まっている。余すところなくシェラの肢体を舐り、今夜もまたグレンはシェラの身体を堪能した。
こうして情事の後に彼女を抱き寄せながら煙草を吸うのは何度目になるだろうか。あとどれくらいこの女を抱けば報酬は支払われるだろうか。あとどれくらい……。
「そう言えば、俺がやったクスリはまだ残ってるのか?」
前回彼女の部屋を訪れた時、去り際に渡した置き土産を数個渡したのを思い出したグレンは何気なく問いかけた。もしなくなってしまったのなら、いま持っている分を再び渡さなくては、と思いながらシェラの様子を窺う。
「…………」
さっきまで悦んでいたとは思えないほど切羽詰まったような打って変わった表情でシェラは俯いた。
もしかして全て使ったんだろうか、だとしても元々風錆から渡された物だからグレンの懐に直接の痛手は一切ない。むしろ使い込んで依存性が高くなってるなら好都合だ。女がクスリを使うよう信用を得るために色々と甘言を弄した甲斐があるというものだ。心中を察したというようなやにさがった面持ちでグレンは肩を抱き寄せ唇を耳に寄せる。情事の後だけあって熱っぽい体温が唇にまとわりつくが、気にはならない。
「別に全部使って怒りはしないよ。あれは俺が君の為にあげた物なんだ、なんならまだ持ってるからもっと……」
「違うの」
「えっ? 違う、何が違うんだ?」
予想していた答えの一つではあった。言い訳紛いにまず否定するかもしれないとも思っていた。けど、彼女の口からもれた声色はやけに硬質だ。殻に籠ったまま独り言を垂れ流す廃人のように、誰に向けていっているのか把握できない。そんな悪寒めいた寒気が背筋を撫でるような声色だった。
シェラの顔がグレンに向けられる。官能に蕩けていた瞳は、まるで水源の枯れた井戸のようだった。
「使ったんじゃないの、取られたの」
「取られた……って、それ、まさか」
嫌な予感がする。途轍もなく嫌な予感がグレンの体内を駆け巡った。
一息ついて吐き出された娼婦の言葉は、まるで死刑宣告を受けるような気分だった。
「ボスにばれたの、それで貴方が来たら逃がすなって。……だから」
嫌な予感は見事、嫌な現実へと変貌した。リリウムを経営している組織を知らない者は居ない。いたとしたらそれは相当なモグリか死人だけだ。
《不蝕金鎖》それはグレンがここを利用するにあたって必要な知識の一つだった。風錆から持ちかけられた仕事とはつまり、不蝕金鎖の内部に潜り込み麻薬をばら撒く事にあった。当然、不蝕金鎖は麻薬の流通を固く禁じている。それがよりにもよって組織のボスの城でばら撒かれたのだ、自分が気に入っている寝室に汚水をぶちまけるにも等しい所業をして許されるわけがない。良くて腕の一本。最悪――もう日の目を見る事は叶わないだろう。
ただの売人と言えどグレンもそこまでわかって呑気でいられるほど馬鹿ではない。逃げるべきだ、今すぐにでも。しかしそれを目の前のこの女は許すのだろうか。――いや、逃がしてくれる筈。
これまで単なるお遊びで睦言を交わし続けてきたわけではない。この娼婦は完全に自分に好意が向いているに決まっている。証拠に、彼女は自身の口から“逃がすな”と言われている事をグレンに明かしてくれた。つまり――
「逃げて、今すぐに。時間を稼ぐから、その間にそこから逃げて」
さながら舞台女優のような大袈裟な発音でシェラは窓を指さした。指先が微かに震えているのは逃がしてしまった後の処遇を恐れてだろうか、それとも……麻薬の禁断症状だろうか。いずれにせよグレンにはどちらでもよかった。生きてこの娼館から出て風錆の許へと戻れば金貨五十枚が待っていると、そう思えばこの絶望的な状況にも光が差すだろう。
だからだろうか。グレンは少しでもこの女が自分を生かす時間を伸ばしてくれるよう、発破をかける事にした。
「俺だけ逃げるなんて、そんなこと出来るわけないだろ。その後のお前はどうなる? そんな真似は出来ない。だから、一緒に逃げよう」
「ありがとう、でもわたしなら大丈夫。だから早くっ、もうすぐ奴らがこの部屋に来るわ。その前にッ」
感極まったように胸に手を当てたのもつかの間、シェラは窓を静かに開けると己の裸体を隠していたシーツをベッドの脚に結び、その反対側を窓の外へと垂らした。命綱としては頼りないが、ここは三階、そのぐらいの高さから降りるぐらいであればもつだろう。
窓枠に手を掛け、最後に置き土産を渡そうと思いつきグレンは懐へと手を忍ばせた。取り出されたのは勿論、三角に折り畳まれた紙片。中身はこれまで渡して来たものと同じ麻薬。少し質が良くないのか、微かに黒色混じりで灰色っぽいがクスリには違いない。グレンはそれをシェラに手渡し窓から身を乗り出した。
「早くっ」
「わ、わかった」
ふと魔が差したのか、思っても居なかった言葉がグレンの口を衝いた。
「必ず迎えにいくッ」
まるで人形劇などに使われるありきたりな恋人達の逃避行を描いた一場面のよう。言ってしまった後で彼自身、呆れて頭を抱えたくなったが、女には見事芯を捉えたかのような反応を示した。
「ええ、必ずよ」
結ばれる事を許されなかった二人の、始まりの夜。そんな御伽噺でも思い出していたのか、シェラの表情は益々芝居がかったものになっていった。
これ以上の長いはグレンの命に係わる。はっとなって彼女から視線をそらし、飛び降りるようにシーツを使って降りる。と、見上げれば彼女はまだこちらを見下ろしていた。
これでもう彼女と会う事もないだろう。そう思うと情にも似た名残惜しい気持ちがこみ上げてくる。それもそうだろう、グレンは毎夜の如くシェラを抱き続け、籠絡するための演技とはいえ何度も甘い言葉を囁き続けてきたのだ。頭では仕事だと割り切っても、感情が多少なりとも彼女を求めていた。もしこの仕事が満足いく結果に終わったなら、そして、彼女が存命していたら、いつかまた――。
ありえない妄執を振り払うように視線を下げて再び見上げる。そこにはもう、ありふれた娼婦が一人悲劇に酔いしれているようにしか見えなかった。
目が覚めたようなグレンの行動をシェラは合図かと思ったのか、同じように頷いた。それが二人を物理的に遠ざける切っ掛けになった。
視界の悪い夜道を縫うようにして走り出したグレンを、シェラはいつまでも見送っていた――かったのだが、突如背後の扉から鳴るけたたましいノックによって現実へと引き戻された。数分足らずで破られたあまりにも脆いバリケードは、彼女の意思の脆さを物語るようにあっさりと瓦解した。
リリウムは表向き三階建ての構造をした娼館である。牢獄の関所より十数キロ南下した一帯の娼館街でも一番の高級娼館であり、娼館街を牛耳る不蝕金鎖の根城でもあるのは周知の事実だ。
欲望渦巻く暴力の坩堝ともいえる牢獄でも大きな影響力と発言力、そして勢力を持つ不蝕金鎖が何故その根城を堂々と明かすのか。それは先代であるボルツ・グラードが関係している。《大崩落》によって人並みの生活を送れなくなった牢獄民を救うべく結託し物資の流通を確立したボルツは、牢獄民の全てを己の家族と称した。それは劣悪極まる環境である地で生き抜くには牢獄民が助け合わなければならないから。そして、その家族たちに自分の住む家を教えない奴の何処を信用する、という言によって彼らの根城は明るみにされている。
切っ掛けこそそうであるが、現頭であるジークが言うなれば『隠れ潜んでる奴の何処を頼りにする』と答えるだろう。娼館街を牛耳る組織が臆病風に吹かれたと噂が流れれば、瞬く間に他勢力によって縄張りは食い散らかされるだろう。支配者ならば腰を据えよ、つまりはそう言うことなのだ。
と、表向き堂々としたリリウムではあるが、実は内部の人間でなければ知らない秘密のスペースが存在している。
外の通りから見れば三階建てに見える建物であるが、実際の所内部は複雑になっている。今夜ジークが訪れた場所もまた、そういった表向きには明かされていない秘密の部屋だった。
一階の待合室ロビーを通り抜け娼婦たちが寝泊まりする部屋が続く廊下を通り過ぎ、最近になって新しくした娼婦たちが使用する風呂場の隣、何もない物置部屋の一角、僅かに黒カビの生えた床の下。ある手順で開けると、地下まで続くようになっている。他にも地下まで続く階段は存在するが、ここは特に血なまぐさい所業を行うのに適した場所となっている。
石造りの階段を一段一段、革靴が地面を叩く音を響かせながら降りると、熟れた柿のような色の明かりがジークを迎えた。同時に、鼻腔を衝く血と排泄物の咽た臭いがその場の凄惨さを物語っている。
「仕込みはどうだ、何か吐いたか?」
「これはお頭、わざわざおいでになるとは。仕込みは上々です、もう簡単に吐きますよ」
七メートル四方の箱の中のような広さのそこは、ジークを迎えたオズの部屋とも恐れられている場所だった。つまりはオズの趣向に最適化された拷問部屋である。
全方位を石に囲まれた地下はいくら悲鳴を上げても外へと漏れる事のない、外界と遮断された別世界とも言えよう。壁には人類が思いつく限りの拷問器具から、なんでもない日用品まで数多くの種類が取り揃えられている。長い事オズと共にいるジークにも、何個かは一体どのような用途で使われるのか見当がつかない代物まで存在している。特に衣類などにひっつく植物など持ち込んで何に使うと言うのだろうか。用途を考えても詮無い事、ジークですら引くような方法がきっとオズにはあるのだろう。
拷問部屋と揶揄されるここに招待された男は、先程までこの建物の三階で娼婦と遊んでいたグレン・ハワードその人だった。
幾人もの生血を啜ったかのように――実際に吸ったのだろう――毒々しい黒色にまみれた拷問用の椅子に拘束された彼は、ジークが来るまでにどれほどの責め苦を受けたのか目に見えて理解できるほど痛々しい姿になっていた。項垂れている頭をオズが乱暴に掴みあげ顔を上げると、血の気が失せ憔悴しきったように青褪めていた。生気の感じられない瞳は虚ろで、眼球はジークを映しているも視界に入っていないかのように無感だ。
「シェラの奴が窓から逃がしやがったんですが、ちょうどいらしてたカイムさんが捕まえてくれまして助かりましたよ」
「そうか、カイムには礼をやらんとな。でだ――」
なんてことない日常の会話をするように滔々と話しながら、一歩前へとジークが詰め寄った。ここにきてようやくグレンは目の前に人がいる事を認識したらしく、焦点があったのか、また、目の前の人物がいったい誰なのかを理解しますます恐怖にその面貌が染まっていった。
「お前につけられた首輪はどこのだ、飼い主はどこのどいつだ?」
絶対者という立場から問われた質問は、グレンにとって生死を分かつ重要な分岐点となった。
言わぬなら言うまでさらに拷問を重ねるし、言ったなら言ったで用済みと見做され殺される可能性もある。二者択一というには辿り着く先は、いずれもつらく苦しい結果しか待ち受けていないかもしれないのだ。多少は頭が回るらしく、グレンの表情はまさしくその葛藤に苦悩し返答しようとする口は喘ぐような形を成さない声ばかり。
この男がどこの飼い犬なのか大方の予想はついては居るのだが、ジークとしては確たる証拠が欲しい。故に、男に喋ってもらうようオズに視線を移し合図した。
合図に反応し頷いたオズは男から離れ、拷問器具の並ぶ中から先程ジークが気になっていた植物を手に取った。それともう一つ、何が入っているのか外からはわからない木箱を持って戻ると、男の座る椅子の背もたれに男の背中を合わせ身動きが取れないようにきつく縛り付けた。哀願する男を余所に着々と準備を進めるオズの表情には喜悦が滲み出ていた。
これは絶対にろくな拷問方法じゃない、そう思いながら帰りたくなってきたジークではあるが曲がりなりにも彼は不蝕金鎖の頭であるのだから、当然それを見届ける義務があった。オズの責めがエスカレートして男を殺しては情報が手に入らないし、なにより麻薬の売人程度の小物を殺しては組織の名が安くなる。だから彼は腕を組みながら見届けるしかなかった。気を紛らわす為に葉巻でも吸いたかったが此処は通気性が最悪な地下だ。一度吸えば、あっという間に視界は紫煙に包まれてしまう。
準備を終えたのか、オズは男の口を乱暴に開くと固定具で開けたままの状態にし、先程持ってきた種子の部分が衣類などにくっつく植物を手に取った。
「こいつはなんの変哲もない植物だ。勿論、毒もない。だが、俺はこれがなかなかお気に入りでな、この先端部分には粘液と鉤があってよく服なんかについて鬱陶しいんだが……これをお前の喉に張り付けたらどうなると思う?」
「――――ッ!?」
想像してしまったのかグレンは喚き声をあげながら必死に拘束から逃れようと身体を左右に揺らしたり、固定された腕を振るわせ指先が外を求めるように椅子を強く掻き毟る。
「なに別に死にはしない、そんなに怖がることじゃないだろう。ただ少し、いつ外れるかわからない不快感と体内の痒みや小さな痛みに耐え続けるだけだ」
それがどれほどの苦痛なのか、ジークは己に置き換えて想像をしようとして直ぐに断念した。喉は人体の中でも重要かつ繊細な器官だ、そんな場所にアレがひっついたとなると声を出す度に声帯と一緒に喉にあるソレが不快感を与えるとしたら、発狂するかもしれない。水などを呑めば助かるかもしれないが、少なくとも今現在この場でグレンが水を得る機会は絶対に訪れない。
相変わらず悪趣味なオズは男の抵抗になど目もくれず植物を彼の口の中へと差し込んだ。が、喉に差し掛かる手前、要は口腔内でその侵入を止めてしまった。
「――――!!」
グレンの慟哭にも似た訴えに何かを感じたのか、ジークがオズの肩に手を当て制した。態々声帯を痛めつけ、仮にも答えを得る機会を失っては意味がない。
「そこまでだ、外してやれ。どうやらそいつは飼い主よりも自分が大事な正直者らしい」
「わかりました」
口の固定具を外すオズの声に落胆の色は無い。自他共に認める加虐趣味の彼が一番のメインディッシュを取り下げられたにもかかわらず不満を見せないのは、偏に彼のジークに対する絶対の忠誠が揺るがないからであろう。
更なる責め苦から解放されたグレンは、それまで呑み込めなくなっていた唾液を口端から垂れ流しながら必死に咳き込んだ。まるで既に喉の中に何かが侵入したのを吐き出すかのように、それこそ器官を引きずり出したいとでも言えるほど咳き込み続けた。
しばらくして精神状態が安定してきたらしく、喉元を撫で摩りながら未だ彼の生殺与奪を手中に収める二人を見上げ――今度は自分の意思で――口を開いた。
「ふ、風錆だ……俺に仕事を依頼してきたのは風錆のベルナドだ」
「はぁ……やっぱりあいつか。で、お前に依頼してきた仕事ってのはどんな事だ?」
「この娼館で毎晩娼婦を買って常連になって、それでクスリをばら撒け……としか言われてない。本当だ、嘘じゃない!」
疑わしい者を見る眼で睨みつけるオズに怯んで言葉尻が浮く。
ただ女を買って麻薬を流す。姑息なベルナドにしてはらしい手口と言われればそうだが、ジークには何処か納得がいかなかった。
黒羽の一件から再び活発的になり始めた風錆の活動と、今回の下っ端が起こした工作活動がどうにも符合しない。いや、不蝕金鎖の信用を失墜させることが目的だとすれば噛み合う部分はある。黒羽の討伐に手をこまねいていた事実と、正体が構成員の一人であるアウルムだという虚偽の情報を流布した事。それと今回の麻薬の件。麻薬は不蝕金鎖にとっては最大の禁忌ともいえる、先代から受け継がれし戒律だ。仮に気が付かぬまま間抜けを晒せば、表向き麻薬を取り締まる組織が影では……なんて情報と共にリリウムで薬漬けになった娼婦を証拠に出されたらご破算になる可能性だってあった。こういった線で考えればベルナドの行動にも頷ける。――しかし。
“それはベルナド“じゃなかったら”という話だ。あいつだったらこんな手で決着をつける事を望んじゃいない”
ジークだけが知る、ある事実が結論を急がせず反対し続ける。
「報酬は……?」
「金貨、五十だ……。成功した後、貰う予定だった」
「ジークさん、こいつ……もしかして」
何かを悟ったようなオズの声がやけに鮮明に聞こえたのを、ジークは確かに感じていた。きっと彼もまた気づいたのだろうと。
なればこそと、皺の入った相を見据えて頷いた。
「こいつにもう用は無い、逃がして何処へなりとも行かせてやれ。ただし、俺たちの縄張りには一切立ち入らないという確約を得てな」
「はい、しっかりと“教育”しておきます」
厳かな声色で返された言葉を受け不蝕金鎖の頭は踵を返し地下室から去っていった。
早急に対処をしないと不味い、と焦りを胸に懐きながらも踏みしめる彼の歩みに淀みはない。小競り合い、にらみ合いの時は終わったのだ。いつまでも腑抜けで居ては組織の顔として締まらない。
グレン・ハワードが単なる火種でしかない生贄だとわかった以上、風錆が動き始めるまでもうそれほど猶予は残されていない。グレンが手負いのまま彼らの本拠地に戻りでもすれば、それを理由に開戦、というのだってありえるかもしれない。
未だベルナドの思惑は不鮮明ではあるものの、標的がわかっている以上、守りには易い。そう――標的さえわかっていたなら。
※
同時刻。アウルムが自宅より飛び出して僅かの時が経過したカイム宅にて、二人の少女が所々ささくれ立った木製のテーブルを挟んで向かい合い座っていた。
家主の姿は見えない。というのもこの時間、カイムは既にリリウムにてグレンの捕縛方法をオズの口から聞いている最中であるからだ。よって此処にいるのは武力はおろか己の身一つ護るには難しすぎる闘争とは無縁の少女と、同じく元娼婦の少女しかいない。
両者は共に向かい合いながらも会話らしい会話は一切なく、また周囲の雰囲気も穏やかとは言い難くどこか殺伐とさえしていた。
先程から――正確には彼女がこの家を訪れた時から――ティアはこの雰囲気のせいもありどう会話を切り出したものかと考えあぐねていた。目の前に座るアンティーク人形のような美しさと儚さが同居した少女、アイリスの視線は自身の足元に向いたまま微動だにしない。突然家に訪れてきたかと思えば、終始この様だ。わかるのは今夜アウルムが居ない為にアイリスがこの家に泊めて欲しいという事だけ。
「あの、アイリスちゃん……アウルムさんはお仕事?」
質問は室内の気温を氷点下にまで下げた。
居ないという事しか聞いていなかったティアの疑問は、一度発すればアイリスの心情を揺らすのはわかりきっていた。訊かないままやり過ごすという手も選べたが、この話題以外にアイリスが反応を示すとも思えなかった。なにより、あれほど仲睦まじい二人に何かあったとしか思えないこの面持ちを見過ごすことが、お人好しのティアには出来なかった。
もし痴話喧嘩をしての家出なのだとしたら、出来る限りの手伝いをしたい。そんなティアの予想とは大きく逸れた返答が、面を上げたアイリスの小さな口から返って来た。
「違う。アウルは狙われてる……多分」
「狙われて、る? それっていったい」
どういうこと? と問うよりも早く、対面する少女の口より説明がされる。
「わたしは気づかなかったけど、多分敵に家を襲われた。だからアウルがそれを追って外に飛び出していった」
「敵って、そんな……いったい誰がそんな事を」
「牢獄ではよくある事。別に珍しくもない、けどアウルの表情が見た事ないほど凍りついて、まるで……」
後に続く言葉が吐かれることはなかった。ただ、それでもティアには漠然とだがわかってしまった。
きっとアイリスはいま自分の主人であり恋人に対して、適切とは言い難い、暴言とも受け取れるような表現をしてしまいそうになったのだろう。でなければ己を罰するような面持ちで再び俯いたりはしない。
「それじゃあ家に来たのも」
「アウルが出て行く間際に、今晩はカイムの家に泊まれって言ったから。迷惑だった?」
「とんでもありません、むしろ大歓迎です! カイムさんは今いらっしゃいませんが、今夜は一緒に寝ましょう」
「うん」
そう素直に返答出来るぐらいにはティアにも慣れたらしいアイリスは、そのまま視線を寝具が置かれている一角へと向けた。元々この家には本来の家主であるカイムが一人で生活をしていた為に一人分の必要最低限の生活用具しか用意されてない。とはいえティアがこの家に厄介になり始めて日数も経っている。食器や陶杯などの数は以前よりも増えているが、今夜においては最も必要な物が足りない事にアイリスは気が付いた。
「でもどこでどうやって寝ればいい? ここにはベッドは一つしかない」
「あっ、えっとそういえば……」
アイリスの直截な物言いに対してティアは鼻白む。
ベッドはもとよりカイムが使用している物で、ティアはそこらの床にくたびれた寝具を――カイムが新しいのを購入しようかとの提案を固辞して――敷いて眠っていたのだ。よって今現在この家に三人目のアイリスが使える寝具が無いのだ。ましてや彼女はティアからすればアウルムの恋人で、要は大事な客人なのだ。そんな彼女を自分と同じ床に眠らせるのは失礼に値するのではないだろうか、という懸念が持ち上がってきた。
「わわわっ、どうしましょうアイリスちゃんを床になんて出来ないし、だからって勝手にカイムさんのベッドを使ったら失礼どころか……ああどうすれば」
「別に床でも文句は言わない」
「そんな、出来ませんよ折角のお客様にそんな真似」
「わたしとティアは同じ身請けされた人間。だから気を使う方がおかしい。それに、そんなこと牢獄の人間は一々気にしたりしない」
屋根があって壁がある。それだけで満足に値する。
なによりアイリスとしては目の前で狼狽える少女と実際に対等であり、また対等で在りたいと思っていた。
しかし、ティアはそうは思っていなかったのか。信愛を見せたアイリスとは真逆にみるみる内に表情を曇らせていった。
見覚えのある表情。罪を秘匿し、呵責に耐え、罰を何処かで求めている。そんな後ろ暗いものを持った人間の表情。娼館では幾人もの娼婦や客が見せていた、アイリスにしてみれば見慣れた、いや見飽きた面持ちであった。そして彼女がそんな顔をする源泉とも言うべき理由を、アイリスは既に知っている。否――知らされていた。
「羽が生えてようと関係ない。言ったはず、そんなこと牢獄の人間は一々気にしたりしない」
ごく一部、ではあるが。という言葉を呑み込んで言い切った。
「な、んで。それを」
「アウルから聞いた」
「そんな……」
「大丈夫、この事は誰にも言ってない。カイムとボス、それとアウルとメルトぐらいしか知らない」
本当は他にも不蝕金鎖の一員であるオズなどが知っては居るのだが、それを態々伝える事もないとアイリスはあえて言葉を隠した。
突然の告発にも似た告白に、ティアの顔面は血の気が引いて蒼白となり唇が動揺に震えはじめる。無理も無いだろう。それほどに羽化病罹患者という立場はノーヴァス・アイテルにおいては低いのだ。それが牢獄ともなれば尚更。
この間まで多発していた黒羽の事件も、模倣犯の犯行動機が羽つきへの私怨と使命と捻じ曲げた破綻者の犯行だったと耳にしている。ヴィノレタに行けばそんな話が多数持ち上がるため、情報パイプを持たない彼女にもそれを取得するのは簡単だった。だからこそ、ティアはより一層の注意を持って生活をしていかなくてはならないと思っていた。
それをしかし目の前の少女は否定した。味方であると。メルトの優しさに触れた時も感極まったが、それを上回って感情が滂沱と流れ始めた。
“ああ、私は……”
「ありが――」
漏れ出た言葉はなんであったのか、それを確かめるには――時既に遅し。
「――夜分遅くに失礼するよ」
ティアのものでも、はたまたアイリスでもない者の声。第三者の存在を示す来客の言葉は、一応の礼儀らしき形式言葉ではあったがそこに文面通りの意味は感じられなかった。
何故なら闖入者の持つ鈍い輝きの刃が、なにより状況の剣呑さを演出していたからだ。
「…………」
「――――ッ!」
「なんだい、せっかくあたしが来たって言うのにもてなしの一つもないなんて悲しいねぇ。ま、それは後であの男から頂く事にするか」
鳩羽鼠色の長外套を着込んだ女は短刀を振りながら、獰猛な笑みを浮かべてそう言った。
数分後、グレンを捕まえた足で帰宅したカイムを迎えたのは荒れた様子など感じられない、無人の部屋だけだった。
※
不蝕金鎖の頭であるジークの私室にて朝を迎えたのは三人。部屋の主であり、組織の主でもあるジークと、その組織を抜けたものの定期的に用心棒として雇われているカイム。最後に、表情から険が消えないまま押し黙り続けるアウルムの三名。
どの者からも会話らしい発言がされなくなって二時間以上が経過してる。最早室内には煙草と葉巻の煙で充満しきりお互いの顔を見るのも億劫になるほど、その密度を濃くしていた。煙の量がそのまま不機嫌さに繋がる室内では、絶えず紫煙が生産され続けている。そもそも何故この三人が顔を突き合わせているのか。何故、誰一人として発言しようとしないのか。何故――根明なアウルムが常時煙草を吸い続けているのか。
疑問は絶えず、答えは絶えている。
始まりはアウルムが昨夜、珍しく血相を変えてリリウムに姿を見せた時だった――。
「お頭は無事かッ!?」
ニホントウに手を掛けながら私室の扉を乱暴に開け放つと、そのまま室内中央まで突貫。扉付近に潜んでいるかもしれない敵を警戒し、全面に集中しての突撃は……しかし徒労に終わった。
視界に収まっているのはいつもの光景。ジークが葉巻を燻らしながら羊皮紙を眺め、その側にオズが控え直立している。そんないつもの光景しか見受けられなかった。
始め、アウルムはこれはなんの冗談かと疑った。
ベルナドからすれば恰好のチャンスだったに違いない。自分は不在で、狙うならば今しかない。そう錯覚してしまう程の好機を、あの男が見落とすわけがない。でなければ、自分をおびき寄せる意味がない。なのにこの状況はなんだ。
「どうしたアウル、んな慌てて、珍しいな。何があった?」
この通りジークは五体満足どころか傷一つ付いていない。ではあの手紙にはなんの意味が……。
冷静に、機械的に状況を鑑みて考えられる可能性を一つ一つつぶしていくしかない。それしか今のアウルムには出来ない。
「理由はちゃんと説明する。しかしその前に、誤解と二度手間を省くために聞きたい。今夜、お頭は何処で何をしていた。出来れば正確に知りたい」
「……ただ事じゃないらしいな。わかった、説明しよう」
アウルムがいつもの昼行燈ではなく暗殺者としてのそれになっている事に気が付き、ジークも身を引き締め今夜のうちに会った出来事を事細やかに語り始めた。見落としや、ジークが直接かかわっていない事等は隣に控えているオズが補足し、漏れのないよう説明を続けた。
全てを聞き終わった後、アウルムの中である程度の量に可能性が絞られた。
「わかった。そう言うことか……ベルナド」
「アウルムお前、今なんて言った?」
「ベルナドだよ、わかるだろオズ。この一連の出来事、全部奴の仕業に決まってる。
リリウムで麻薬を撒いた売人も、俺の所に招待状という囮が撒かれたのも、どっちもお頭と俺をその場に釘づけにしておく事だったに違いない」
「なら、奴の狙いは別にあるって事か? とはいえ、不蝕金鎖に何らかの不利になるような報告は降りて来てない」
机に積み重なった報告書の束を見やりジークは言い切った。ベルナドの仕業だと言うなら、彼は必ず最終的に不蝕金鎖の不利益になるような結果をもたらす筈。それが今回はまだない。そこにジークが疑問を持つ理由があった。
瞬間、張りつめた空気を吹き飛ばすような音がジークの耳朶を震わせた。
「なら……考えられるのは、残り一つしかない」
何処までも冷酷に、底冷えするような声を響かせるアウルムは窓の方へと遠くを見るような視線を向けた。釣られるようにジークとオズが視線を向けて、そこでようやくジークも答えに考え至った。
「まさか……よりにもよって」
「それしか考えられない。不蝕金鎖の戦力を削ぎたい、或いは封殺して風錆が絶対的有利に立つためには俺という存在は、ベルナドにとってさぞ邪魔だろう。
そう考えれば、必然、あいつの慎重さならまず間違いない」
思い返せば、こうなる事は予め定められていたのかもしれない。
アウルム・アーラという個人としては最高峰とも称賛できる戦闘力と、神代の宝刀とも呼べるニホントウを所持する人物。それは従えている不蝕金鎖を討つにあたって最も障害になりえる壁だ。真正面から挑んで勝てるわけもなく、暗殺などもっての外で、毒殺する前に諦めるしかなくて、あらゆる手段が通用しそうにない相手に、つい最近になって弱点が生まれた。ならばそれを利用しない手はない。
慎重に、かつ安全な手段でアウルムを弱点より遠ざけ、奪取する。それを可能としたのが、彼女の存在だろう。
そもそも彼女があの時点でアウルムを殺せていたならば、話しは早かったのだが、残念ながらそれは叶わなかった。しかし、彼に楔を打ち込むことには成功した。故に彼はこうもあっさり引っかかったのだ。
あとはそれを組み立てるだけで良い。数日に亘って麻薬をリリウムに流し不蝕金鎖の意識を麻薬へと注視させ、その一方でアウルムをおびき出す。不安要素としては比較的自由に行動しているカイムだが、それも前者の麻薬関連で首を突っ込む可能性が高いために成功率の高さもまた推し量れる。すべてが周到とは言い難いが、現にベルナドはやってのけたのだ。
受け入れるしかない。推測でしかないが、もう確定したも同然の推論を決定づける足音がアウルムの耳に入ってきた。
足音は忙しなく、心なしか踏み込む音がいつもよりも大きい。音の主もまた感情を抑制するのが叶わず八つ当たりのように階段を踏んでいるのだろう、動揺と焦燥が聞き取れる。
「ジークッ!」
扉を開け放ち現れたのは額に汗を流したカイムだった。どれだけ全力で走ってきたのか、一目見てわかる程の汗を浮かべるカイムはそのままずかずかと室内に入り込み机の前で立ち止まった。
そこでようやく他の者達が居るのを理解したのか、一端視線がジークから逸れオズとアウルムへと左右に映った。
アウルムがカイムと目が合った瞬間、瞳に込められた思惑の一端を感じ取り、確信とともになぜか心は冷静になり始めるのを他人事のように思いながら彼が口を開くのを待った。
「顔を見る限り、どうやら良い話じゃないようだな」
「ああ……アイリスとティアが攫われた」
身を切るような思いで吐き出された言葉は、やはり、という納得と共にストンと胸の中に落ちてきた。
どこまでも、どこまでも、受け入れ納得してしまう。
苦々しい面持ちのジークやオズ、そしてカイムを見ながらも、アウルムは何処までも冷め切っていた。
現実に起きる事に抵抗なく受け入れてしまう彼の性分は、やはりアイリスに対しても同じ反応をしてしまった。これはもう執着などを度外視した、彼に植え付けられた呪いにも等しい性だ。
仕方ない。しょうがない。否定せず肯定せずただ受け入れる。きっと、このままアイリスが死んでしまっても同じ事を思ってしまうのだろうか。そう考えると、アウルムは心臓が痛んだ。
「俺が売人を捕まえて戻ってみれば、だれも居なかった。初めはてっきりアウルの家でアイリスと居るのかと思ってそっちにも行ったが、結果は蛻の殻。ヴィノレタにも寄ったが……今のアウルを見て確信した。
――やられた」
「オズ、今すぐ動ける奴らを集めて情報をかき集めろ。ティアの嬢ちゃんとアイリスの事は最優先だ、行け」
「承知しやした、すぐに」
なにを始めるにしてもまずは情報。組織の長として取り乱すわけにはいかないジークは冷徹に事を進めるにあたってオズを使いに出した。
必要あらば、二人の少女の生死は問わない。不蝕金鎖に不利益があれば即座にそう判断するだろう事は、アウルムでなくとも一目瞭然だ。
しかし、アウルムは思う。
もし本当にジークの命とアイリスの命、そのどちらかが確実に奪われ確実に助かるとするならば、果たして自分はどちらを優先するのだろうか。組織の懐刀としての判断であれば無論、ジークであろう。先代の血を継ぎ、意思を継ぐ彼の存在は牢獄ではなくてはならない。しかし、一方でアイリスを死なせたくないという思いも確かにある。在るのだが……。
「とりあえずは静観するしかないようだな」
「ベルナドの目的があの二人だったというのは想定外だったが、それでも何かしらの動きを見せるのは間違いない筈だ。
抗争の火種はあっちが持ってるが、種が女二人じゃ燃えるかどうかもわからねえ。どっちにしろ今の俺たちは完全に手詰まりだ」
「ティアを見捨てるって言うのか?」
まるで常識人のような事を言い始めたカイムに、二人は瞠目した。
「なんだカイム、お前まだあの嬢ちゃんの事に執着してたのか」
「当たり前だ、でなきゃ傍に置いたりしない。俺は知りたいんだ、あいつの、ティアが放った光について」
「……光?」
「嬢ちゃんが死に掛けた時に発した光が、
「忘れてたんだろ、俺には不必要な情報だ」
ふぅと紫煙と共に溜息を吐き、アウルムは近くの壁に背中を預けた。
「で、死なれると困るのか?」
「当たり前だ、このままベルナドの手で殺されたら後味が悪い。それはお前だってそうだろ、アイリスを見捨てるつもりなのか?」
その答えにはジークも興味があるらしく同じようにアウルムに視線を向ける。
依然として煙草を咥えるアウルムはどこか飄然とした様子で口を開いた。確証なき答えを。
「必要なら、な。なにもアイリスが俺の人生の全てじゃない。それ以上の価値を、そうだな生まれた意味を知ることが出来るなら……きっと俺はアイリスを犠牲にするかもしれない。
結局、それだけが俺の全てで、俺の原動力なんだ」
「ま、アウルはそう言うよな。よかったよ、昔となにも変わらなくて」
「本当に、あんたは昔から何も変わらない……」
吐き捨てるように言い切ったきり、カイムは口を開かなかった。しかし退出する事はなく、情報をいち早く入手できるという理由だけでここに居るようなものだった。
見るからに嫌悪を示したカイムを見つめるのは感情を排した洞のような双眸。他者の命をものともしない考えは牢獄でも珍しくない、当然尊ぶ者も居るが、それでも暗殺者としての考えではない。だからこそ、変わり始めたカイムの態度にアウルムは一抹の疑念を懐き始めた。
もしかすると、この機会に以前ジークから“予約”された仕事を完遂しなくてはならないかもしれないと――。