エリス・フローラリアにとってのカイム・アストレアとはどういった人物なのか。率直に言い表して“光”と迷うことなく彼女は抑揚のない、されど執着心が滲み出た声で答えるだろう。
身請けをされてから七年余り、それ以前の人生は表舞台に立たぬ傀儡のようであった。外に出る事は無く、不足なき小さな子供部屋で毎日を過ごすだけの人生。両親に生き方の全て、その一挙手一投足に至るまでを命令され続けた彼女の心は無風の草原の様で、まるで揺らめかない凪にも勝るとも劣らない。感情の無い操り人形。
だから操り糸を所有していた家族が死んで牢獄の娼館に売られた時も、然程心が揺れる事もなかった。もとよりその術を知らないのだから、哀しみも恐怖も希望も、何も人間らしい感慨など湧かず命令されるがままに娼婦となった。
隣人が悲愴に顔を覆い滂沱の涙が床を濡らす様を見ても、例えそれが周囲にも伝播し嗚咽が合唱しようとも、エリスが影響を受けることはない。
何故そんなにも涙を流すのだろう――不可解なままのエリスに、その手は唐突に差し伸べられた。
「今日からこのカイムが、お前の主だ」
目の前に立つ憐憫にも似た冷たい眼差しを向ける男が主人だと言われた時も、エリスの心が波風を起こすことは無かった。ただ、命令する主人が変わっただけ……それなのに。
新しい主人はエリスに繋がれた糸を切り落とす。それが無ければ一人で立つことさえ叶わぬと言うのに、彼はそんなことも顧みることなくエリスに矛盾を強要する。
「自分で考えろ、いちいち俺に訊くな」
考えろと、あくまでも己の意思に基づいて行動しろと突き放される。そんな風に自分は出来ていないのに、どうしてそんな事を言うのか分からない。人形に自立なんて命令は無意味で不可能。見当違いも甚だしいのに。
わからない――その困惑はエリスを次第に蝕み、変化させていく。
※
リリウム唯一つの私室は、灰皿に火の点いたままの葉巻から濛々と立ち昇る紫煙によって、室内全体が白んでいる。唯一の窓も万が一の暗殺を警戒してか閉め切られたままな為、充満する紫煙は滞留したまま火元から質量を増やし続けている。
このまま換気をしなければ燻製になるかもしれない。下唇が上唇を持ち上げ難しい面持ちでそんな他愛ない事を考えながら、ジークは火種が消えそうになる葉巻を見下ろす。音も無く消えようとする火種は、己の状況に近似している。このままなんの行動も起こさなければ、間違いなく不蝕金鎖は風錆の武力と財力によって呑み込まれるのは必至。この葉巻同様、消える前に吸わなければ火は消えてしまう。
ティアとアイリスを攫われ、その上お粗末な言いがかりで宣戦布告してきたベルナドの勝利を約束されたような顔が蘇る。今になって思い返すと、あるいはあの杜撰な行動すら彼の想定した未来への布石なのではないか? 長考のあまり本筋を見失い掛けたジークは、一端切り替えるべく目を閉じ皺の寄った眉間を揉む。
「で、これからどうするつもりなんだ?」
長い自問を繰り返していたジークの目を覚ましたのは、ソファーに浅く座るカイムだった。
「二人が風錆の手の内にある以上、俺とアウルは大立ち回りは出来ない。仮に闇に紛れてベルナド自体を殺ったとしても、人質が同じ場所に囚われてる保証も無い。意趣返しに犯されて殺されるのは目に見えてる」
「わかってる。お前の言う事は最もだが、時間はまだ残ってる」
「……どうしてそう思う?」
「ベルナドは態々二人が自分の家に居ると伝えてきた。不蝕金鎖としては、あの二人を無視する事は出来ない事を知ってだ。つまり……」
灰皿に乗った葉巻を手に取り、ゆっくりと煙を吸い込み口腔内で留める。間違っても肺まで行かないように。間を溜めて吐き出される紫煙の芳香は、この先の可能性を示唆するよう一直線に室内の照明へと登って行った。
「ベルナドは先手を誘いに来たんだ」
「随分、甘く見られてるな」
「そういうわけじゃない。奴にとってここは、やっぱり古巣なんだ。帰る家を住めなくなるまで壊したくはないんだろ。
それに、先手を譲ったのもお前とアウルに効果覿面のお札を手に入れたからだろう。かくして懸念材料は無くなり、大手を振って“報復”という大義の旗の下、こっちを責められるってわけだ」
ベルナドの勝利を確信した顔は、あの場に現れても――アウルムの前に立っても殺されなかったことで自身の身の安全を確信したからこその表情だったのだろう。
「だから俺たちが先に手を出さない限り、あっちから本格的に行動することはないだろ」
「確かに、そういう事なら数日は持ちそうだ」
「ま、それまで嫌がらせ程度の事はしてくるだろうけどな」
「オズたちの踏ん張りどころ、か」
神妙な面持ちで僅かに頷き、カイムは考え事の密度に頭が重くなったのか、後方に倒れるようにしてソファーの背もたれに背中を預けた。
幾ら金を積めば手に入るのか、牢獄の金銭感覚からは考え付かない額のソファーにもたれかかるカイムから視線を外し、ジークはもう一人の人物の来訪を待った。
実際の所、風錆が本当に攻めてこない保障はどこにもない。あらゆる意味で他者を本当に理解する事など不可能なのだから、ジークが考えた以上の奇策をベルナドが持っていたとしてもなんら不思議はない。それに――風錆が人質の二人を丁重な扱いのままにしておく、という保障もないのだ。
仮にこの抗争に勝利し二人を取り戻したとしても、傷一つ汚れ一つないまま帰ってくるとは思ってない。それほどに生温く優しい世界なら、不蝕金鎖も風錆も生まれなかっただろう。だから暗にカイムにはその懸念を伏せて語った。きっとカイムもどこか想像出来ているのだろう。面に出すまいと平静に努めているようだが、時折、彼の視線は待ち人を急かすよう頻りに扉の方へと言ったり来たりしている。この変化を友人として喜ぶべきか、それとも……。
葉巻が短くなり、そろそろ揉み消そうかと思い始めた頃。待ちかねた人物が扉の向こうから現れた。背に担ぐ大太刀が威光となりて強者足らしめるアウルムが、ヴィノレタの時とは打って変わって平時の顔つきで躊躇いの無い足取りでカイムの対面のソファーに座った。
「待たせて悪いお頭、ちょっと時間がかかっちまった」
「気にするな、これから取り戻してくれればいい」
役者は揃った。舞台に立つ三人の演者は、しかし観客の目に留まってはいけない存在。故に幕は上がらず姿を見る事は叶わないまま、この公演を終えなくてはならない。
今度は葉巻ではなく紙巻きたばこを口に咥え、燐寸で火を灯す。軽く一吸いして、葉巻とは質の違った紫煙を吐き出して、ジークは話を切り出す。
「それじゃあ、これからどうするかを話すとするか。初めに……アウルム、風錆の“目”は?」
「確認したかぎりじゃ無いな、やっこさんどうやら今夜は動くつもりはないらしい。楽観的で助かるよ」
「よし、なら今夜からだ。これから二人には俺の護衛として、下層まで付いて来てもらいたい」
監視の目がないのなら準備を始めるのに早すぎるなんて事はないだろう。ジークは怪訝そうに眉を僅かに動かすカイムを見据えて語る。
「前々からベルナドの件で進めていた事だ。当然だが、この事はここに居る三人と、あとはオズしか知らない内々の話だ。ベルナドに洩れれば……それまでだ」
「それが、今回の鍵になる……って事か」
「これから先のお楽しみだ。急ごう、夜が明けないうちに済ませたい。頼めるか?」
窓の外に広がる牢獄の景観に視線を投げ、可否を問うたジークに、二人は一笑した。
「問答するまでもないだろ、こっちは
「面倒の予感しかしないんだけど……いい加減、ウチの家計を預かってる奴が居ないと、報酬から思いっきり差っ引かれた金の隠し場所が解らん。贅沢も出来ずに飢えて死ぬのは嫌だ」
「助かる……それとアウル、これはお節介焼きのとある良い女に聞いたんだが、お前の建前は曰くハリボテ……らしいぞ」
「……」
どこの誰だか既に検討がついているのか、アウルムは押し黙って中空へと視線を逃がした。これでいていざ“仕事”となれば冷淡に判断を下すのだから、恐ろしくも頼もしい。
返答に満足したジークは、席を立ち背後の壁に沿った角にあるクローゼットを開き、中から前もって用意していた三着の外套を取り出した。一着をジーク自身が身に纏い、残りの二着を二人に手渡す。
牢獄の夜は下層や上層と比べても明かりが少ないが、だからといって人の目が無いわけではない。むしろ夜の方が都合が良い商売が牢獄では人気の為、なんの準備も無しに完璧な隠密行動を執るのは困難だろう。だからジークは外套を用意し身に纏う。それが例え気休め程度でしかないとしても、やらないよりはましだと判じて。
「無駄だとは思うが、無いよりはマシだろ。お前らも被っとけ、一応の用心として、な」
「これ以上面倒くさい仕事が増えるのも嫌だし、大人しく言う事は聞いとくよ」
浅く溜息をついてアウルムは外套を着こむ。カイムもそれに倣って渡された外套を身に纏った。
フード部分だけ被らずに頭を出した状態で部屋を出ると、館内は平時と変わらぬ性の饗宴たる日常があった。しかし、その客数は風錆との騒ぎが原因なのか、いつもより疎らで少なく思える。
三人はフードを目深く被り集合地点をあらかじめ指定した後、リリウムの出入り口をバラバラに出てまったく別の三方へと別れて歩き始めた。これも、風錆の目を警戒しての措置である。少しでも他人の印象に残らないように、細心の注意を払う必要があった。
やがて集合地点にて再会した三人は、改めて下層を目指し始めた。
「カイム、アウル。お前たちが知ってる中で、いま一番安全な通路を選んでくれ。目的地は裏道だ」
つまり、人通りが少なく浮浪者や行き倒れ、物乞いなどの路上を寝床とする輩も居ない道を進みたいという事。
二人とも現場仕事に慣れているだけあって、牢獄の地理には明るい。
「月の位置からして、この時間はこっちだ」
上を仰ぎ見て月の位置が何処にあるのか確認したカイムはそう言って、今よりさらに薄暗く牢獄特有の臭いが強くなった通路を指さした。
性質の悪い迷路のように入り組んだ街路を歩き続ける間、会話の一つも無く歩き続けること数分、夜闇の吐き出す嘲りの吐息が衣服に包まれていない部分の素肌を冷たく撫でつけるのを感じ、夜が深まってきたのを予見したジークは、カイムの案内で辿る迷路を抜け、一度足を止めた。
「言うまでもないが、ここから先は足元に気をつけろよ。踏み外せば、天使様とやらがお迎えにくる羽目になるぞ」
「笑えねェ冗談だ。お天道様の上の上に居るかもしれねえ天使様が、地獄の底まで堕ちた人間を迎えに降りて来るってか。そりゃあいい、聖教会が邪魔になったらそんな喧伝でもしてみよう。奴らきっと、喜び勇んで飛び降りるだろ」
牢獄内でも極々一部の……関所を通せない物資を運搬するのに使う裏道を歩きながら、アウルムはジークのおどけた冗句に含み笑いを漏らした。
独自のルートによって下層より物資を牢獄へと下ろしているその裏道は、関所に切り立つ高く堅牢な防壁と大差ない《断層》と似て、大崩落によって変動した峻厳な崖に作られた手製の道である。断崖絶壁に鉄製の杭を打ちつけ、木材を工夫し崖に対して三角に組み下から支えるようにし、更に上から掴みとるようにして打ちつけた鉄製の杭から頑丈な縄を伸ばしている。
主に物資以外にも犯罪者の逃走路としても使われるここは、手摺すらなくジークの言うとおり道を踏み外せば確実に助からない。実際、年に数人の転落者を出していることから、危険性の高さは見て取れる。
奈落に通ずる近道を見下ろし、なんとなしにカイムは嘆息した。
「近頃は下層によく縁がある」
「ああ、例の羽狩りの女の実家が下層にあるんだったか。最近会ってないのか?」
「別段用があるわけでもないのに会うわけないだろ。それに、あいつにはそんな暇も無いぐらい、最近はより一層仕事に打ち込んでるらしい」
眼下を見下ろしていた視線が下層へと上がる。羽狩りの女――フィオネの事を思い出しているのだろうか。女の事を考えてるにしては冴えない……寧ろ案ずるような面持ちで遠くを眺めている。
カイムの案ずるフィオネが何故仕事に齧りついているのか、その理由をジークは又聞きではあるが知っていた。
「仕事、ねえ……確か黒羽を殺した奴を探し回ってるって話は、聞いたことがあるな。仇討でもしたいのかは知らんが、まったく今どき珍奇なほど真っ直ぐな女も居たもんだ」
「……ああ、ホントそう思うよ」
いい加減な相槌を打ち、考え込むように黙るカイム。いまさら終わった事を蒸し返すつもりも無いジークは、気にもせず歩幅に気をつけて進むが、もう一人、この話題に少なくとも関連している人物が声を投げつけた。
「黒羽って、それ俺がこの前殺した奴じゃねえか。あの女まだ仇討に奔走してるのか、随分とご執心なんだな」
「支えを失ったあいつの、それだけが唯一の目的だからな。仕方ない」
「仇がアウルムである以上、羽狩りの嬢ちゃんの目的は達せない。よかったなカイム、きっと長生きするぞあの嬢ちゃんは」
「言ってろ」
仇が目の前に――それも自身をここまで鍛え上げた尊敬……とまで行かなくとも恩あるアウルムを売るなど、カイムに出来る筈も無く、さりとてフィオネを騙すのも気が引けるのだろう。だからカイムはあれ以降、彼女との接点を断ち切るように防疫局には近づかなかった。――しかし、今回ばかりはもう一度会ってもらう事になるかもしれない。想像しうる可能性を考慮しながら、ジークは気持ち足早に裏道を進んだ。
危なげな裏道を通り下層へと正式な手続きもなく入り込んだ三人は、ジークが先頭に立ち彼の案内に従って目的地へと向かった。
昼間は市場でも建って人が入り組むだろう広場を後にし、大通から外れ細い路地を進むジークの足取りに迷いはなかった。過去に数回通い詰めたその道は、彼にとっては住み慣れた街も同然であり、下層に溶け込む為に必要な術でもある。深夜という時間帯である今でこそ人影はあまり見られないが、それでも皆無というわけでもない。そんな他者の目がある中、右往左往しては不審に思われるかもしれない。同じ下層民だと思わせる為には、慣れる他にない。
しばらく歩き通して辿り着いたのは一件の粗末な家屋だった。
「尾行は?」
「無い」
短く、カイムに先んじて返答するアウルムの声に迷いは一切見られない。
軽く頷いてジークは家屋の扉の前に立ちノックした。独特の節で叩くノックは音の符牒。家の中に住む住人へ向けられたそれは、暫くした後、静かに扉が僅かに開かれ返事となる。
「…………」
扉の隙間から顔を見せたのは、くたびれて身形が薄汚れた老父であった。
彼は無表情のまま無言でジークの一歩後ろに立つ護衛の二人を見ると、そのまま中へと誘うように扉を更に開いた。誘われるまま、ジークは家屋の中へと入っていく。残る二人もまた、追従するように入る。
なんら変哲もない家の中を無遠慮に通り過ぎ、老父は裏口から外へ出ると別の路地を抜けて更に進み続ける。先へと歩くにつれ、下層の生活を置き去るかの如く人の営みは感じられなくなってく。
その方が好都合だ――ジークとしてはこれからの事を考えれば、人目があってはいけない。この場所を下層に用意するのは苦労しただろう、とまだ見ぬ人物の顔貌を思い浮かべ……始めの家から数件分は離れた家の前で老父が立ち止まった。
「行こう、この先だ」
厳かに呟き、ジークは扉を開ける。
その家の中はおよそ生活感という言葉とはかけ離れた廃屋の様相を呈している。強いて挙げるとするなら隅と言う隅に飾り代わりと言わんばかりに張られた蜘蛛の巣に、室内中央にある円形のテーブルと、その上に置かれた安っぽい燭台に、二人掛けの座ると軋んで音が鳴りそうな椅子だけ。それ以外には何も無く、埃と黴の臭いが漂っている。
先んじて席に一人の男が座っていた。
折り目正しく、礼儀作法が身に沁みついているだろう男は座る姿勢にまで教養の良さを滲ませている。また他の牢獄民が見れば厭味に見えるほど真白く清潔な服を身に纏っていることから、少なくとも下層に住んでいる者ではないと判断できる。
男――ルキウス・ディス・ミレイユはジークらに気がつくと席を立ち、そこらの女性を一撃で射止めるような清涼な微笑みを浮かべた。
「遠いところすまない。ここまでの道のり、苦労しただろう」
「いや」
労いを貰いに態々下層くんだりまで上がってきたわけではないのを、重々理解しているジークは短く返答をするとこれで終いとばかりに肩を竦めた。が、ルキウスは席に戻るのではなく、やおらカイムへと視線を向ける。
「フィオネ副隊長の件では本当に世話になった。元隊員のラングに関して、未だ消息は掴めていないが、それも時間の問題だろう」
「……」
穏やかな表情で告げたルキウスは変わらずカイムを見つめている。
ただの知り合い程度の交わすものではない。整えられた柳眉の下にある双眸の奥には、挑戦的な、試すような審判者の如き煌めきが見え隠れしている。つられて、カイムの眉が真意を探る様に眉間へと集まる。
下層に来る前に話題に上ったフィオネの話がまさか持ち出されるとは思わなかったジークは、新たな進展なき事実に思考を巡らす。以前、牢獄で猛威を振るった黒羽の連続殺人事件。これは羽狩りこと防疫局と不蝕金鎖が手に手を取り合って行った、初めての共同作戦だった。カイムは当時隊長だったフィオネと協力し黒羽の居場所を突き止め、アウルムが斬殺したのは記憶に新しい。これにより同時に便乗犯として露見したラングは、真犯人たる黒羽の騒ぎにこれまた便乗して羽狩りの包囲を破り逃走。以後、今日に至るまでその消息は掴めていないらしい。
ちなみに、フィオネはこの一件によって責任を執り隊長の役職を解任され、副隊長へと降格になっていた。
これは益々“使わない手はない”と考えるジークを現実へと呼び戻す鈴の音のような女性の声が届けられた。
「ジーク殿、お掛け下さい」
控えめに差し出された掌に指定される椅子へと掛けて、傍らにカイムとアウルムの二本刀が立つ。
今このノーヴァス・アイテルで一番安全だろう席に座り、正面に相対して席についたルキウスを見てジークは口を開いた。
「紹介しよう、今回から護衛としてアウルムとカイムだ。顔合わせという意味もあって今回は二人一緒だが、次からはいずれかの一人がそのつど来ることになる」
「事前に連絡は受けておりましたので、問題はありません……」
女性の感情を排した声の言葉尻が宙に浮く。
小さな棘が刺さったような緊張感を漂わせる女性は、ジークの背後に控えるアウルムを見据えている。明らかに警戒心を懐いている目だ。腰に佩いた細身の剣は、彼女が少なくとも荒事に通じている証左。その経験が齎す直観が彼を見抜いたのだろうか。優秀な副官としての能力に関心する一方で、鋭すぎる感性にジークは溜息の一つでも漏らしたくなる思いだった。
懊悩するジークを余所に、ルキウスは気づいているのか、それともその上で素知らぬ振りをしているのか、気に留めた様子もなく傍らに控える女性の名を告げた。
「紹介が遅れたな。彼女は副官を務めてもらっているシスティナだ」
「ああ」
「どーもよろしく」
「……」
三者三様の挨拶にジークが愉快そうに鼻を鳴らし、ルキウスが控えめに苦笑いを浮かべた。
どうでもかのように挨拶をするカイム。何処までが本心なのか覗わせない軽薄な調子のアウルム。そしてそれらに対して微塵も友好の情を見せることなく、形式をなぞっただけのような礼をしたシスティナ。
果たしてこの中で協調性の無いのは誰なのか、議論するまでもない議題を排してジークは佇まいを直す。するとルキウスが再びジークの後方へと顔を上げた。
「さて、カイム殿にアウルム殿」
「カイムで結構」
「言葉遣いには配慮が欲しいところです」
厳格な声と共にシスティナがカイムを
システィナの威圧を受けずに流したカイムは堪えた様子もなく涼しげに語る。
「生憎、牢獄暮らしが長くてな、貴族風の言葉遣いは出来ない。あと、こっちにも期待しない方が良い。俺よりも酷いからな」
「好き放題言ってくれるじゃねーか。俺は殿で良いと思うんだがな、呼ばれた事ないし」
「……な?」
だろ? とカイムは言葉を繋いで言い切った。
能天気にもお気楽な事をのたまうアウルムに皮肉を言う気も起きないのか、瞼を閉じた副官の女性は続くルキウスの言葉の後ろに控えてしまった。
「では、親愛の情を込めて呼ばせてもらおうアウルム殿。そして……」
再び、あの不可解に挑戦的な視線がカイムに向けられる。
「――カイム」
「……それでいい」
その時のカイムがどんな表情をしていたのか、彼の前に座るジークには見えなかった。
「さて、それではカイムにアウルム殿」
ルキウスは顔の前で両手を組むと話しを切り出した。
「私とジーク殿は特別被災地区での新しい麻薬の問題、そして組織間の抗争について協力関係を結ぼうとしている」
「そういう話か。……お頭、俺は外で待ってるわ」
「駄目だ。概要だけでも聞いておいてくれ」
「……わかった」
不承不承とその場にとどまるアウルムにいま外に出られるわけにはいかない。
こういう時にこそ暗殺者としてのアウルムを欲するジークではあるが、眼前のルキウスの傍に控えるシスティナがどんな反応を示すか分かったものじゃない。それに、アウルムの秘密は出来る限り知られたくない。たとえ相手が協力関係になろう者でも、むしろだからこそ切り札は伏せたままにしたいところ。
「知っての通り、このノーヴァス・アイテルは閉じた世界。どこまで行こうと限りは在り、逃げ場はない。だからこそ麻薬の蔓延がどのような事態を招くのか、想像に難くはない」
「どうして羽狩りの長が、そんな麻薬なんかに興味を持つんだ?」
水を差すカイムの物言いにシスティナの目が眇められるが、ルキウスは涼しい顔でそれを制した。
「注目するのは麻薬そのものではない。その出所である風錆が、どこの誰から麻薬を仕入れているのか、誰が供給しているのか、という点だ。風錆の麻薬売買の量から察するに、その供給先は強大だ。
私は、風錆の背後に有力貴族の影があると踏んでいる」
ルキウス卿陣営としては風錆の麻薬取引先を突き止めたいと思い、不蝕金鎖の頭たるジークはその組織を潰したい。両者の目的は近似している。利害が一致しているからこその協力関係。更に不蝕金鎖は牢獄を知り尽くしているという利点がある。これはルキウス側としても欲する力となるのだろう。
だからこそジークはこの利点を有効活用して今後の有力貴族ともなろうルキウスを引き込んだ。
「なるほど、これで不蝕金鎖には協力する代わりに、羽狩りという戦力を一時的、限定的にだが得るわけだ」
「そうなる。それとベルナドを排除したあとの牢獄の事もある。
ルキウス卿は、今後のノーヴァス・アイテルを支える政治家になられると確信している」
得心いった様子のアウルムにジークは補足説明を添えた。
つまりは先行投資。青田買いというわけになる。防疫局という実質的兵隊を持つルキウスが貴族内で頭角を現すのは時間の問題。優秀さに裏打ちされた自身と余裕に満ちた顔は、既に遠い未来を見据えている。だからこそ、ジークは彼に協力しその功績を与えようと考えた。不蝕金鎖の、牢獄民の助けで地位を駆け上ったという来歴さえ刻めれば、それはどんな鼻薬にも勝る。
「私も、なにも今回の一件だけで不蝕金鎖と協力を結びたいと考えているわけではない。
大崩落から十数年が経過した今も、牢獄の環境は劣悪の極みにある。これは、我々政治家の無為無策が原因だと思っている。だからこそ今までの謝罪も含め、私は特別被災地区と下層の格差を、隔たりを縮めていきたい。
その為に、何よりも特別被災地区に通ずる不蝕金鎖の協力が必要不可欠だ」
その心意気やご立派。ジークとしては額面通りの事を現実に実行してくれるのなら、牢獄を良くしようと働きかけてくれるなら、それが続く限りは協力するつもりである。出来れば、彼と自分らの為にもこの額面がメッキで無い事を祈るばかりだ。
手入れが行き届いている組んだ両手からルキウスが顔を上げる。
「君たちは、大崩落をどのように考えている?」
「どうもこうもない。先代の聖女様さえしっかりしていれば、あんなこと起こらなかったはずだ」
「……その通り。アウルム殿は、どう思われる?」
憮然と事実を吐き捨てるカイムからアウルムへとシフトした問いかけに、何が琴線に触れたのか彼は失笑した。
「なにを訊くかと思えば、そんな下らない。知ってどうする、考えてどうなる。考えるもなにも、現実にあれは起きた。なら答えは一つだろ」
礼の欠片も見られぬ嘲りにシスティナが気色ばむ。
「ッ……言った筈です、言葉遣いはもう少し」
「構わないシスティナ。アウルム殿、よければその答えとやらを聞かせてもらってもいいか?」
やはり下層に来る前に一服させるべきだったのかもしれない。今となっては後の祭りになった事を惜しみながら、あっさりと諦めて開き直ったジークは、ルキウス同様にアウルムの答えを待った。
その口から吐き出される答えを。
「簡単だ。起こるべくして起こっただけ、世に価値の無いものはあっても、意味の無い事は無い。
大崩落はそれ程の起こるだけの意味があったから、大地を落としただけだ」
※
月の輪郭がはっきりと浮かぶ夜空の下、手持無沙汰に直立するアウルムはその陰影を仰ぎ見ながらルキウスとジークが居る家の前に立っていた。
どんな高尚な考えがあって大崩落の話を出したのかは知らないが、アウルムが思う偽りの無い意見を述べた後、本題の会議となった為にアウルムを含めた三人は内容を聞かないよう外へと出た。先程から執拗にシスティナの鋭い視線が突き刺さるが、いちいち反応するのも面倒なので気づかない振りをしてやり過ごした。
これ以上粘っても無駄だと判じたのだろう、システィナは気だるげに欠伸をするアウルムから目をそむけ――しかし警戒を解かずにカイムへと矛先を変えた。
「またお目にかかれて嬉しいです」
「心にも思ってない事を、少しも嬉しそうな顔してないぞ」
「仰る通り、別に嬉しくはありません」
「俺もだ。気が合うじゃないか」
相手の領土の湖に小石を投げ込むような軽い牽制をしあうシスティナとカイム。てっきり牢獄民を嫌っていると思っていたアウルムにとって、システィナがこうも無駄話をするのは以外だった。それに顔見知りのように話す様子から察するに、二人は以前にも顔を会わせた事があるらしい。恐らくは、カイムが一時期付き合いのあったフィオネ絡みで、だろうか。
扉の両脇に立ち微妙な距離を開けたまま二人は会話を続ける。フィオネは今どうしているのか、牢獄の様子はどうなっているのか、腰に佩いた剣は使えるのか。傍で聞き耳を立てていると、どうにもこの二人、別段積極的に会話をしたいようには聞こえない。どちらかと言えば互いの主が出てくるのを待っている間、戯れに声を漏らしただけ。そんな印象を懐く。現に、カイムはシスティナの素っ気ない態度に疲れた表情を見せている。
今回新たに牢獄に流れた麻薬の流通が、牢獄のみならず下層や上層にも流れているのかをカイムが問うと、システィナは牢獄のみだと答える。普段から貴族も有り余る時間といつ崩落が起きるのか分からぬ不安から逃れようと麻薬を使う輩も少なくは無いらしい。
ならどうして今回の麻薬に限っては風錆の専売なのか。アウルムはシスティナが貴族の世襲制に良い顔をせず、寧ろ批判的にも受け取れる言動をしているのを余所に考える。
麻薬は下層や上層にも存在し流通している。なのに今回の新薬に限っては牢獄の、それも一組織にのみ流れ込んでいる。これをルキウス卿は風錆の背後に有力貴族が居るとあたりを付けた。なら、その理由は? 牢獄にのみ流して得られる利点はなんだ。牢獄民の根絶が目的だとしたら、えらく時間が掛かる手段だ。他に考えうる可能性は……
“牢獄民がいくら死んでも貴族の懐が痛むことはない。なら、リスク抜きで心置きなく出来る事。それと麻薬……駄目だ、面倒くさい。そもそも答えを出したところで変わらない”
かぶりを振ってアウルムが諦め嘆息すると、扉が開いた。中からジークが出てきた。ルキウスの姿はない。まだ家の中なのだろうか。
「待たせたな」
「いや、こちらの方が退屈させてくれなかったよ」
「それは光栄」
「二人のやり取りのおかげで、俺も退屈せずにすんだ。なかなかに面白い女だなあんた」
「……」
滴るほどの皮肉を含ませたアウルムの言葉は、取り付く島もなく無視された。カイムを相手にしている時とは違って、その素っ気無さに可愛げは一切切り落とされている。
ジークが疲れた様子で眉を下げ溜息をついた。
「仲良くしてくれないと困るぞ。特に、お前はもう少し自嘲しろ」
「すまない、わかってるんだがつい」
「アウルが原因で逆恨みされるのは、俺は御免だからな」
即座に自分は安全圏に避難する様に、カイムの成長を感じながらアウルムは神妙に頷いた。
額のラリエットが揺れ、システィナが一寸前とは打って変わって礼儀を整えジークへと向いた。
「ではジーク殿、またいずれ」
「こちらこそ、よろしく頼む」
軽く礼をしてシスティナは家の中へと、ルキウスの許へと戻っていった。
「俺たちも戻ろう。あまり長い事牢獄を空けるとベルナドに感づかれる」
再びジークが先導して下層を抜ける。帰りの裏道は行きよりも違った感覚がある。月の光を明かり代わりにして、ミシミシと風化しつつある木製の通路を体重をかけないよう踏みながら、アウルムはその違いに鼻を利かせた。
「こうして下層から牢獄に戻ると、どんだけ牢獄が臭うのかがよく分かるな」
「違いない。だが、不思議と落ち着かないか?」
穏やかな声音で語るジークは目深に被った外套のフードの下から微笑み、カイムが一笑した。
「骨の髄まで牢獄民だな」
「違いない。水が合うってよく言うが、俺たちには牢獄の泥水が合ってるんだろ」
「それに、あそこには火酒がある。ヴィノレタでメルトが迎えてくれるのは、牢獄だけだ。なあアウル」
「ベルナドを殺すまで、顔を出しづらいがな」
当分あの火酒の喉を焼くようなアルコールの慰撫が味わえないのかと思うと、アウルムとしては口惜しいが、店主の冷眼を味わうよりはマシだ。名残惜しいが、ヴィノレタでの酒宴は風錆を潰しアイリスを救いだした祝いとしての、大宴会まで取っておくとしよう。
「そうだ、帰るまでの間にこれからの動きを伝える」
やにわに裏道の終わり付近にて足を止めたジーク。これから……つまりは風錆を撃退すべき準備という事になる。
「大前提として、俺は牢獄内で必要以上の血を流したくはない。風錆にも元不蝕金鎖の構成員が居る。出来れば、仲間同士が殺し合う手はあまり使いたくない。だが、あっちには人質を取られてる。時間が多少あるとはいえ、悠長に事を構えていられる余裕も無い」
あまり長い時間をかけると、ベルナドが痺れを切らして人質を処分しその足で不蝕金鎖に乗り込む、なんて可能性が絶対にないとは言い切れない。組織の頭として最悪の事態を想像しつつ行動しなければいけないジークは、それらを忘れたわけではないのだろう。
あらかじめルキウスとの会談で話を纏めていたのか、展望を語る口に淀みはない。
「だから事は迅速に運ぶ必要がある。そこでカイム、お前は気が進まないだろうが羽狩りにもう一度行ってもらいたい」
「ここまで来たんだ、いまさら駄々をこねるつもりはない。だがどうして羽狩りなんだ?」
話が見えないカイムに、ジークは一度アウルムへと顔を向け再び向き直る。
「風錆との抗争に羽狩りの力と数が必要になる。だから一刻も早く連携を取りたい俺としては、羽狩りに知り合いが居るお前が適任なんだ。
それに副隊長の嬢ちゃんなんだが、元兄貴の黒羽を殺されたアウルを恨んでるだろ。これを使わない手はない。不蝕金鎖が黒羽の殺しに関しては黙秘をしていたが、この“犯人捜しに人員を割いても良い”とでも言えば喜んで協力してくれるだろ」
「いい性格してるな」
黒羽がフィオネの兄である事は、アウルムの報告によってジークは耳にしている。そしてフィオネが不蝕金鎖に対して黒羽を討伐した人物が誰なのかを聞き出した過去がある。アウルムが下っ端構成員としてフィオネには言い含めた事もあり、存在を隠したがったジークは知らんぷりを決め込んだ。
だからこの不蝕金鎖からの提案には、きっとフィオネは喰いつく。犯人が居る組織の協力の元、見つかりもしない捜査を続けるために。人を助けんと慈愛の手を差し出す顔の裏で、半永久的に遣い潰そうという魂胆の汚さに苦笑いを浮かべるカイムに、ジークは口端を吊り上げる。
「不服か?」
「まさか、嘘をついてるわけでもないし、選ぶのはフィオネだ。俺が不満を懐くわけないだろ」
手段の良し悪しを選り好んでいられる状況じゃない。断然とカイムは判断を下した。
そう、手段を選んではいられない。時間はそう残されてはいないのだから。
答えが分かっていたかのようにジークはカイムの返事に頷く。
「ならいい。後でカイムには作戦の概要を伝える。それをもって明日には羽狩りの詰所まで行ってくれ。あっちにはルキウス卿から話が通ってる筈だ。ベルナドの目を欺くためにも、表向きは黒羽の一件での事後処理、という建前にしておく」
「実際、あの時に羽狩りと協力していた俺なら、何の綻びもないな」
「逆にカイム以外には出来ない仕事だ」
これが仮にアウルムやオズだった場合、ベルナドはきな臭く感じ警戒を強めるだろう。アウルムは黒羽の一件では表舞台に立ってない所か、風錆の根も葉もない風聞を流布によって犯人の一人に数えられていたのだから、どうあっても怪しさしかない。オズにしても彼は不蝕金鎖を纏めるジークの――ルキウスでいう所のシスティナと似たような立場にあり、これも企ての匂いを消しきれない。
その点、カイムは羽狩りに協力し、黒羽の捜査においては当時隊長だったフィオネと共同で行っていた事もある。よってこれ以上の適任はカイムの他には居やしないのだ。
裏道を抜けていつもの牢獄に戻ると、アウルムは心なしか体が軽くなったような気分を味わった。自分もまたカイムの言う所の“骨の髄まで牢獄民”なのだろう。
らしくもない感傷にも似た思いを自嘲気味に一笑し、行きとは別に今度はアウルムが帰り道の案内をし、尾行者が居ないか注意しながら娼館街へと戻った。
程なくして生活圏と言っても遜色ない娼館街へと戻ったアウルムは、点在する娼館や酒屋などの明かりを目にしながら歩いていると、食べ物の芳香につられ腹の虫が鳴った。
思い返してみれば今日はまともに食事をした覚えが――あった。あったのだが、メルトの料理を食べたのは朝方だ。あれからまともに食べてないだけあって、忘却していた空腹は食べ物を寄越せと主張を強めている。
「あれは……エリスか」
と、今夜はどこで食事をしようか考えていると、カイムが眉間に皺をよせ遠くを見るように視線を投げて呟いた。
アウルムが視線を追って見れば、道の端にエリスが立ち尽くしていた。壁に寄りかかる様にして物音一つ立てず、呼吸をしているのかも疑わしいが、男好きする胸部が控えめに上下しているのを見る限り、生きてはいるのだろう。まるで隣に寄り添う立て板と遜色がない。
成熟したエリスの体からは豊熟な色香と、強く抱きしめれば脆く崩れ落ちてしまう儚さが同居しており、それがまた男を呼び寄せる誘蛾灯となっている。カイムが身請けしていなければ、この女を味わう男は大勢いただろうと眺めながら、アウルムの足は止まっていた。
「俺は遠回りしてリリウムに行くことにするよ。エリスに会うとまたぞろおっかない目で見られるに決まってるからな」
「考え過ぎなアウル程じゃないが、俺もそうするか。どうみてもありゃ、カイム待ちだ。邪魔者はさっさと居なくなるに限る」
「考え過ぎはジーク、あんたの方だ。もう夜中だぞ、そんなわけないだろ」
「いやいや、ああ見えてエリスはメルト並みに情深いぞ」
軽薄な笑みに歪むジークが言うと、カイムはあからさまに面倒そうに頭を掻いた。ここで聞き捨てならないのがアウルムだった。
下劣な笑みで言い切ったジークの言葉は、言い換えればメルトがエリス並みに情深いという事になる。つまり、メルトが今のエリスのように誰かに執着し始めたら彼女のようになるのだ。エリスが二人になった未来を想像して、総身が震えたアウルムはさっさとエリスに見つからない内に居なくなりたくなった。
「ここで待つ事が情云々に繋がるとは思えない」
「邪魔者は去るぜ、ほらアウル行くぞ」
「喜んで、さっさと行こう。熱くて冷たい嫉妬の目で見られるのは勘弁だ」
「何言ってんだ、あれが良いんじゃねえか。カイム、策については明日でいい。リリウムに来た後で詰所に行ってくれ」
本気で言ってるのか? アウルムは疑問を口にすることなく飲み込んで、ジークと共に横道へと逸れてリリウムへと向かった。背中からカイムの何か言いたげな視線を感じたが、面倒事を嫌う怠け者は危うきに近寄る事を是としなかった。
※
カイム・アストレアにとってエリス・フローラリアとはどういう人物なのか。率直に言い表して“罪と罰、贖罪と代替の象徴”と、伏し目がちに迷いが拭えぬ声で答えただろう。
ベルナドに相対した時、エリスを見た彼はカイムを鬼畜と嘲笑った。それが何を意味するのか理解したカイムはこの隠された真実がエリスに露見する事を恐れた。もしバレてしまったら彼女はどうなるか……
見なかった振りをしたいという感情的な意見と、実際問題エリスの問題をこれ以上放っては置けないという理性的な意見がせめぎ合いながら。葛藤に答えが出ることはなく、気もそぞろに覚束ない足取りでエリスが待つ所まで歩き始める。
「エリス」
「……あ」
思った以上に固くなった呼びかける声に反応して、朧夜の如き空模様だったエリスの表情が一瞬で雲が引けて晴れやかになる。
「おかえりなさい」
「こんな所で何してる。家に帰らないのか」
「カイムを待ってたの」
外見に似つかぬ……いや、それだけでなく普段のエリスとはかけ離れた溌剌で少女然とした態度は、カイムを戸惑わせるのに充分な驚愕をもたらした。
エリスは綿埃のようにふわふわと駆け寄ると、カイムの腕を取って抱えるように抱き着いてくる。
「さ、帰りましょ、私たちの家に」
「お前の家は別にあるだろうが」
「もう小動物は居ないんでしょ、だったら私が居ても良いでしょ。二人で住んでたんだから、家が狭くなるとかは聞かないから」
「……」
ここで腕に身体を預けるエリスを突き放すのは容易い。だが、本当にそれでいいのだろうか? ティアが居ない事を何処から嗅ぎつけてきたのかは知らないが、恐らくベルナドと居合わせた後、メルトにでも訊いたのだろう。居なくなったという弁に反論する材料はカイムの手の内には無い。それに、メルトやジークの……そしてアウルムの事ある毎に言われる言葉を思い出した。
いい加減、向き合わなくちゃならない頃合いなのかもしれない。
「分かった、一先ずは許す。行くぞ」
「……うん、帰ろう」
花が咲いたように明るく微笑んだエリスに、またもカイムは以外だと思った。表情に乏しい印象が強い彼女が、こうもハッキリとした顔が出来るとは思っていなかったから。
帰り道、エリスが執拗に腕を組む力を強めて身体を寄せて来るので、鬱陶しく思って言及するも、青少年が恥ずかしがっているように受け取られたらしく、嫣然と微笑みより一層強く抱きしめてきたのが、カイムに早まった決断をしてしまったのかもしれないと思わせた。
ティアとアイリスが居なくなったカイムの家は、誘拐現場となって間もないが、室内は思った以上に荒らされていない。しかし、彼の油断が形となって残るここは、この手でティアを取り戻すまで落ち着いて眠ることは出来ないだろう。罪悪感が無いわけではない。身を案ずる心もある。ただそれ以上に、名状しがたい感情がティアを取り戻せと警鐘の如く鳴り響くのだ。
エリスは家に着くなり調理場に立ち晩御飯の料理を作り始めている。
手早く出来上がった料理を二人で食べる。一人暮らしをしているだけあって、エリスの作った料理はそれなりの味に仕上がっていた。
食事が終わって一息つくと、これまでの疲労が一気に押し寄せてきた。思った以上に疲れていたらしい。カイムはもう今日はすぐにでも眠ってしまおうかと考える。そんな時だった――エリスが会話の口火を切ったのは。
「私の荷物は明日にでも運び込む? 別に邪魔だって言うなら、あっちは引き払って必要最低限の荷物だけで済ますけど。あ、でもベッドはここにあるのだけで良いよね。どうせこれからは二人だけなんだし、スペースも取らなくてすむでしょ」
「なにを言ってる?」
「何って、これからの事に決まってるじゃない。この歳でもうボケちゃったのカイム」
どうして質問されるのか分からない風に、エリスが当たり前のように言って首を傾げる。
わからないのはこっちの方だった。どうして一時の同居生活が一転して、永続的な同棲生活に転じなくてはならないんだ。唖然となってカイムが黙っていると、エリスは子供に言い聞かせるように優しい声音で語りかけた。
「カイムが許してくれたんだから、戻って来たんじゃない。やり直すのよ、また一緒に。良いでしょ?
――どうせ小動物はもう二度と帰ってこないんだから」
「……ッ」
ティアが死んだ前提かのような口ぶりに、カイムは聞き流す事は出来なかった。
「勝手に殺すな。ティアは取り戻す、お前との同居もそれまでの間だ」
「……なに、それ」
「それを許したのも、お前と改めてゆっくり話し合って、俺の考えを
決してこの先もずっと二人で生活する事を、カイムは望んでいない。どんな事があろうと、もう一度大崩落が起きたとしてもこの考えを変えるつもりはない。自由でいて欲しい。エリスには
「何度も言ってるだろう。お前には、俺から離れて自由に生きてもらいたいって」
「何それ……なんなの、それ。つまり、私に後腐れなく出て行って欲しいって、そう言ってるわけ? その為に、それだけのためにここに?」
「ああ」
瞠若するエリスの瞳が見つめる中、頷く。カイムにとっては譲れないものだから。
「今まで突き放して頭ごなしに言い聞かせてただけだからな。落ち着いて話をすれば、あるいは別の道が見つかるかもしれない」
「別の道って……カイムに捨てられるなら、どの道同じ事じゃない!」
声を張り上げたエリスの口が
「どうしてそんな事言うの、私に恨みでもあるっていうの? こんな……こんな期待させておいて突き落すような真似してッ」
「違う、そうじゃなくて俺がしたいのは」
「違わない、カイムが言ってることは私にとっては同じことなの!」
身を切り裂く悲痛の叫びがカイムを撫で斬りにする。エリスの主張が、痛みが、瞳と同じ古井戸のような暗い寒気が痛切な思慕の念となって切り傷から侵入して身に染み渡る。
さっきまで花の咲いたように笑っていた少女が、花弁を萎らせるように沈んだ表情を見せてベッドの端へと腰を下ろす。まるで糸の切れた操り人形のように。一度付け直されたと思った糸は、修復が困難なほどに細く劣化している。
「嬉しかったのに、一緒に住めるようになって……ようやく、また元に、あの頃のように戻れるんだって思ってたのに……」
「エリス……」
かける言葉がカイムには見つからなかった。
次第に弱々しくなっていくエリスにどんな言葉を注げば、再び美しい花を咲かせてくれるのか、カイムにはそのアンプル剤を持ち合わせていない。
出来る事といえば、せめて隣に寄り添う事しか……
肩にエリスの体重が預けられる。
「お願い……捨てないで」
「捨てるんじゃない。お互い、一人の人間として生活していくだけだ」
一人では満足に歩く事さえ儘ならなかった頃のエリスが脳裏に過ぎる。初めて会った時から、彼女の名前を聞いた時からカイムにあったのは、自立した一人の人間になってもらうように努めるという、義務感にも似た感情だった。
肩が震える。自分じゃない。エリスの震えが自身にまで伝わってきた。
「ふふ、ふふふふ……そうよね……カイムは、自由が大好きだもんね」
恐ろしく冷え切った声音に、カイムの背筋に冷たいなにかが流し込まれる。こみ上げる寒気に、思わず背筋が伸びる。
――知らない。こんなエリスは見た事がない。いや、前にも自分は……
「誰の影響かしら、自由を好むようになったのは。何処の誰が……カイムに自由は素晴らしいって、教えたんだっけ…………だめ、思い出せない」
「エリス、今日はもう休め。疲れてるんだお前は」
これ以上出来る事なんてありはしない。思いつかない。
八方塞がりな状況に煩悶しながら、時を刻むにつれ虚ろな人型へと変わっていくエリスをベッドの上で横にする。焦点の合わない双眸が、古井戸のような底なしの孔が闇の中からカイムを見据えている。
「何でもする、カイムが望むことなら何でもするから、絶対に刃向ったりしない……だから、捨てないで。置いて行かないで、一人に……しないで」
淡々と語る語調はもはや会話とは呼べない。これは独り言だ。束縛を望み、物のように扱われる事を切望する彼女は、果たして人たりえるのだろうか。
カイムは初めてエリスの人並み外れた情念に曝されて慄然とした。
譫言のようになんらかの言葉を繰り返すエリスに毛布を掛け、――いま離れたらどうなるか分からないので――自分もまた同じベッドに横になる。
燭台の火を消して暗くなった室内は、目が慣れない内は近距離とは言えエリスの顔も見えずらい。だからこそ、カイムはそんな“仕方ない”状況に安堵した。今のエリスと向き合うだけの胆力が、余裕がカイムには残っていなかったから。
一体どうすればよかったのか。話し合いとも呼べぬ口論で保ってきた距離でも、解決には向かわなかった。だからこうして向き合って話せばと思っていたのに。結果は、今までで最悪の展開を迎えた。結局、何をしてもこうなってしまうのだろうか。
「……帰りたい、あの頃に」
隣から聞こえた呟きは残響となり、やけにカイムの耳にこびり付いて消えなかった。