牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第五話:アスクアロ1

 朧夜の下に広がる血臭漂う街路にて、絶えず広がる血だまりの上を洞のような瞳で立ち尽くす者がいた。

 塔のような高い背丈の割に、柳のように全身が痩せ細った体には臭いの発生源たるモノを夥しく纏っている。口の利き方を忘れたように漏れる呻き声は聞く者の総身を粟立たせ、恐懼に駆り立てる空恐ろしさすら覚える。

 

「あ……ァああ……ガァ――」

 

 喉を軋ませる臭気と共に吐き出された忘我の声が夜気に紛れ、霧散する。何を思っての呻きなのか。この場に彼の心情を斟酌する者は誰一人として存在しない。

 足元に広がる血だまりは、例外なく彼以外の他者によって流された命の河。加害者である彼の体から滴るのもまた、無惨に悔恨を懐く猶予もなく屍となった被害者によるものしかない。

 死者の気持ちを代弁するなら、幾万の呪言を用いても語り尽くせぬだろう。無念だろう。さぞ恐怖しただろう。前触れなく災厄のように降りかかった死神に、出来る事なら復讐の刃を突き立てたいだろう。黙して語れぬ屍の瞳は、既に死神によって顔ごと削り取られて原型を留めていない。それでも発する不穏な空気は、正しく死者の恨みであり辛みでもある。

 沈黙の殺意に晒されている男は、しかし罪悪感など欠片も持たない――むしろ感情を一切発露させない死相の如き顔で、薄雲に隠れた月を見上げるばかり。

 

「グ……は、ヤぐ…………ぁア」

 

 喘ぐように、もがくように、ぞろりと乱杭歯を剥き出し男は背に生やした漆黒の翼をはためかせる。

 人の身である限り、身一つでの飛行は決して叶わない。故にヒトは空を焦がれ、憧憬の眼差しをただ向けるだけ。ではこの男も空に焦がれているのかと問われれば否――と言葉を発せるなら断言しただろう。

 焦がれるのではない。この身は既に、ヒトの領域を逸している。ならばこの眼差しは憧憬ではなく、次なる行動を示唆している。翼が彼の意思に呼応するように畳んでいた身を大きく開く。ばさり、と空気を叩き、この酸鼻な屠殺場を形成したとは思えない矮躯が宙に、頭上から吊られたように浮く。都合五回の羽ばたきによって、彼の体はヒトでは届かぬ闇の空へと飛び立った。

 黒き羽つきが去った現場に残されたのは、身元も知れない肉片と、中空から緩やかに風の抵抗を受けながら舞い降りた、黒い羽根だけだった。

 

 

 ※

 

 

 朝焼けの空を寝過ごし寝ぼけ眼を擦ろうも、拭えぬ眠気に誘われ大欠伸をしたのはとうに昼を過ぎた頃だった。

 娼館街の片隅、リリウムを中心に置きヴィノレタとは真逆の場所に建っているアウルムの自宅は、殺しによって十分に得ている報酬からは考え付かない程に質素な建物である。劣化しきった粘板岩の屋根はとっくに耐水性を欠落させた有様で、大雨でも降ろうものなら忽ち雨漏りをするだろう。

 住むに厳しく、しかし生きる分には支障のない機能を切り落とした家屋に不満は無い。もう暫しの辛抱でこの生活にも終わりが見えているからだ。

 漠然とした面持ちで眠気覚ましにと常備している火酒を起き抜けに飲み干す。昨晩あんなにも陶杯を交わしたにも拘らず、平然とした風情で喉を鳴らすアウルムには二日酔いに見られる気だるさや酒に対する一時的な嫌悪感すら見受けられない。

 幼い頃より《不蝕金鎖》で刀を振るっていた彼は、殺しこそ習わなかったが酒の飲み方は先代に薫陶を受けていた。曰く、酒とはどんな時でも……たとえ悲嘆にくれようと、陶杯と向き合う時は感情のまま壮烈に呑むものだと教え込まれた。でなければ呑まれる酒が哀れで堪らないと、まるで()の心情を慮るように酒杯を弄びながら語っていたのを、いまでも鮮明に思い浮かべられる。

 ある程度目の覚めたアウルムは、さて今日の仕事は何があったかなと思考を巡らせ、はたと思い出した。当分、件の殺人事件の犯人を明確に、もし羽つきであるならどうにかして羽狩りを呑み込めないかを思索し、纏まるまでは仕事など無いと告げられていたのを。

 結局、昨晩はカイムの家へと赴くジークとメルトを見送った足でリリウムに向かうと、生憎アイリスは仕事中であった為にしょうがなく自宅へとアウルムは帰ったのだった。

 せっかくの余暇である。どうせならもう目覚めているだろうアイリスでも誘って市場に繰り出そうと、軽い足取りでボロの家を出る。天高く昇った太陽が眩しく輝くのに目を眇め、足は自然と彼女の居るだろうリリウムへと向かっていた。

 

 

 昼下がりのリリウムは閑散としており、当然ながら娼婦たちの仕事をする音も声も聞こえない。この時間、娼館は営業時間外であり、そろそろ早朝に就眠した娼婦たちが目覚める頃であった。そんな娼館事情を知らぬアウルムではないが、このタイミングの良さは意図した所ではない。

 平時の彼は必要以上に思考に労力を割かない性分であり、必要に迫られない限りは行き当たりばったりに生きている。とどのつまり“偶然”である。だからアウルムが訪れたタイミングで、いつもの――目を凝らせば透けて素肌の見える――衣装を身に纏ったアイリスが出てきたのは、まったく僥倖であった。

 労せず、彼女が起きてくるのを待つことなく面会を果たしたアウルムの胸に湧くのは、一握りの愛おしさであった。

 眠たげに目元を擦りながら、片方の手にはいつも持っている継ぎ接ぎの猫のぬいぐるみを提げながら廊下を歩いている。トイレの為に起きたのだろうか、だとしたらこのまま呼び止めるのも悪い気がしたが気遣うことなくアイリスの方がアウルムの存在に気が付いた。

 

「こんな時間に、誰を襲いに来たの、強■野郎が」

「ちょっと待て、朝の挨拶にしては妙にキレが良すぎないかそれ?」

 

 凍てつくような冷眼がアウルムを射竦める。謂れの無い暴言を吐くのはいつもの事と言えばいつもの事なのだが、それにしても些か切れ味が良すぎる。

 なにか彼女を不快にさせる事でもしただろうかと狼狽しながら纏まらない思考のパスを繋ぎ合わせる。

 

「俺が悪いなら謝るから。なぁアイリス、俺何かお前にしたか? 少なくとも合意なしの行為を迫った覚えはないんだが――」

 

 動揺に言葉尻が浮きながらアウルムは問い詰める。過去を振り返ってもアイリスと出会って以降、そのような行為を迫った覚えは全く無かった。

 しかし彼の清廉とは言い難い潔白の主張は、なおも冷視するアイリスの放つ眼光の前には焼け石に水でしかない。

 

「都合の良い頭してる。そのまま腐らせてくたばるといい」

「もうホントごめんなさいッ! 何がそんなに気に入らないのかわかんないけど、マジすいません! 何でもするから許してッ!」

 

 これ以上の冷遇に耐えきれず、ついアウルムは四〇cmは下である体躯のアイリスに向かって屈服してしまった。ここで強気になる事も可能だったが、居直った場合アイリスとの関係は隔絶してしまうかもしれないという予感が、アウルムを戦慄させた。

 床に額を擦りつける影の暗殺者を睥睨し、幼い見た目の少女は、ふっ、とその様を冷笑した。

 

「何でも……? 本当に、私の言う事なら何でもする?」

 

 嘲るように問い質し、アイリスはその顔貌に張り付かせた霜を溶かし、喜悦の微笑を覗かせた。依然として服従の格好で服するアウルムは沈黙を守っている。余計な口出しをして、アイリスの機嫌を損ねまいをしているのだ。

 

「じゃあ私に、一つでいいから何か買って」

「買う、といっても、何を買えばいいんだ?」

 

 床に張り付けていた額をずらし、顎先を床に向けて見上げると、アイリスは眉を顰めて物思いに耽るように視線を漂わせた。

 

「わからない……でも、何か欲しい。アウルムのお金で」

 

 そう言い切るや彼女は膝を曲げ屈み、アウルムの視線に少しでも合わせるように身体を丸め座った。その黒曜石のような瞳がアウルムを捉え、強請(ねだ)るように柳眉が下がる。

 思えば彼女がこうして無条件にアウルムに物を強請るのは初めてだった。しかし娼婦としてアイリスを決して“買わない”アウルムが、こうして物を要求されなかったのは、その行動に原因があると思われる。と言うのも、アウルムとアイリスの関係は単純にして明快だが、距離感を計るには少々朧げである。“娼婦”のアイリスを“客”として接さず、かといって《不蝕金鎖》の一員としての一面も見せない。だが恐らく、現状では一番近しい女性はアイリスで、彼女もまた近しい男性がアウルムなのだ。

 娼館街に、リリウムに通いつめない限り会えず、金銭さえ払えば他の客と同様に彼女の幼年としか思えない体を抱く事も出来るのに、頑として遊ぼうとしない。単に好みでないのなら話しは簡単なのだが、アウルムとしては彼女に迫られて拒否できる自身が無かった。

 幸い彼女は自分から積極的に客を取るような性分じゃないため、ある意味で窮地に立たされもしない。

 ただ一点の目的のためにアウルムは金を使わず、また別の意味でアイリスが娼婦である以上は抱かないのだ。

 自分でもどうしてこんな事を口走ったのかわからない、といった様子で思案顔になるアイリスに、アウルムはくすぐったい思いを懐き、体を起こして立ち上がった。

 

「よしっ、わかった。そんじゃあ市場にでも行ってみるか」

「うん」

 

 己の行動の理由が思い浮かばなかったのか、仏頂面で頷いたアイリスから、ちゃり、と首輪の鳴る音がした。少女を縛る娼婦の首輪を、さも煩わしい存在であると憎々しげにアウルムは凝視する。

 剣呑な視線にまさかアイリスに向けられているのかと勘違いし、毅然としながらも腰の引けたのに気が付き、またも慌てて謝罪しながら二人はリリウムを出た。

 

 

 牢獄の中心部たる娼館街、その中でも最上級の高級娼館であるリリウムから歩く事数十分。下層と牢獄を高く隔てる断層付近の関所前広場は、所々でテントが軒を連ねて建ち並んでいる。

 娼館街や裏通りのスラムなどで蟠る剣呑な雰囲気はここには少なく、“比較的”まともなこの場所では商人などや下層から関所を通って降りてきた少ないながらの物資がある。

 牢獄で買える物は、大体が非常に高価であるか安価であるが粗悪な物……それと高価であるが粗悪な物を売りつけるかのどれかである。がしかし、広場に並ぶ商品はある程度信頼に値する品々だ。これはアウルムも太鼓判を押せる。

 

「さてアイリス、どれが欲しいんだ?」

 

 道中、何度か手を繋ごうとして差し出すアウルムの手をその度に叩き落としたアイリスは市場の様子を見渡し、把握するように束の間眺め続けた。賑わいを見せる牢獄の市場の人々は皆、閉ざされ見捨てられた地に居る事に悲観するのをひた隠しながら、張りつめた笑顔で取り繕いながら同じような表情をしている客に品物を進めている。

 自分から言い出したのに欲しい物が思いつかなかったアイリスは、しかし正直に言ってしまうのも流石に悪いと思い言い憚り、間を持たせるべくアウルムの手を取り賑わいの中へと進んだ。

 

「おっおい――」

「黙って」

 

 なんとなく気恥ずかしい気持ちになり、気取られるのを厭ったアイリスは沈黙を命じて先に進む。娼婦であるならこの程度の肉体接触など恥じ入るまでもないだろうに、不思議と顔が熱を帯びる。

 道行く人々はどんなふうに思うだろうか。幼いこの身で高く屈強な彼を引く二人を、どんな関係に思うだろうか。――訊くまでもないだろう。

 アイリスは娼婦だ。首に繋がれた革の輪を外さぬ限り、この事実は揺るがない。加えて身を飾る衣服もまた娼婦と一発で看破できる卑猥な透明度を持っている。自己判断で首輪を外すことなど許されない。服装に自由など無い。そこに不満など――無かった。

 諦めの境地を希うアイリスは娼婦から脱する事を諦めている。日々何者かに変わりつつある自分を恐れるが故、蔑むが故、彼女は地平線の如き平坦な感情を求めて諦めを願う。なのに、アウルムの手を繋ぐ己の掌が、どうしようもなく熱を持つ。

 いっそアウルムがアイリスを客として買っていれば、こんな感傷も懐かなかっただろうに。平静を保てずにいられなくなる原因がアウルムだと思うと、これまで不快感こそ無く、むしろ好感さえ懐く彼が途端に疎ましくさえ思えた。

 不快だと断ずるならこの手を離せばいい。嫌悪するなら遠ざければいい。憎悪すれば――彼も遠ざかるだろう。

“それは……嫌だ”

 この感情がもたらすものが何であれ、アウルムが遠ざかるぐらいなら感受しよう。業腹だが、アイリスはアウルムを失うのを憂うぐらいだったら、この不可解な熱を受け入れるしかない。選択肢など、始めから定まっていたのだ。

 

「このロリコン」

「そりゃ偏見だ! 横暴だ! 俺が何をしたぁ~!」

 

 ふと汗ばむ掌が気色悪く感じ原因である者を詰ると、アウルムはなんの――アウルムが聞く限りでは――脈絡もなく罵倒された事を不当だと主張する。

 一際嘆くように喚くアウルムを見て愉快な気分になったアイリスは、平静を取り戻し、いつもと変わらずすべてに観念したような諦めを懐き、歩を進めた。

 

「で、結局何が欲しいんだアイリス」

「…………」

 

 感情に身を任せて駆け出したは良いものの、結局手を繋いでまで――恥ずかしい思いをしてまで繋いだ間は自問に費やしてしまった。

 欲しい物など別に無かった。物で着飾る趣味も物欲もさしてない、アイリスは白状してしまうとアウルムがくれるのであればなんでも良かった。向き合っているのに、どこか焦点のズレた場所を見つめ合うこの関係をアイリスは確固たるものにしたかっただけで、別段強請ってまで得たい物などなかった。

 罵倒にこそ反論するもののアイリスの主張に反駁の意を一向に示さないアウルムは、欲するを発さぬ様子を視認するや否や今度はアウルムが彼女の手を引く番だった。

 

「思いつかないなら、俺が決めてもいいよな? どうせ、そこまで欲しいものだって無いんだろ」

「そうじゃないとは言い切れない、けど、否定もしない」

「まどろっこしい言い分だなぁ、もっときっぱりと断言できないのか?」

「うるさいダボ」

「そうそうそんな風に、あはは~……はぁ……」

 

 歯に衣着せぬ放言に悄然としながらも、アイリスの小さな手をしかと握り、アウルムは先導した。

 引かれるだけのアイリスに彼の行く先はわからぬが、終点が市場でないのは理解出来た。人の群をかき分け進むたびに、どんどん小さくなる市場を遠巻きに見送りながら、アイリスは判然としないままアウルムの背中を眺めるほかにする事がなかった。

 

 

 市場より離れた裏通りに入った二人は、入り組んだ道にも拘らず慣れた様子で歩き、通路の脇で座り込む浮浪者など目もくれずに目的地にたどり着いた。歩幅の合わぬ牽引に疲労の色を見せ始めたアイリスが立ち止まり見上げると、そこには一件の店が眼前に建っていた。

 牢獄がまだ下層であった頃から存在しているこの店は《ディーワ・クアエダム》という看板を掲げて、早数十年の歴史を持つ老舗のぬいぐるみ屋である。年季を感じさせる古めかしい店構えは勿論、扉を開けば深い皺を刻む顔貌の老齢の男性が気難しそうな視線で迎える待遇まである。牢獄に落ちてからも変わらず頑なに営業を続けるこの店は、一部の人気で食いつないでいる。

 

「ぬいぐるみ……」

 

 漫然と看板を見上げ、アイリスはなんとも言えぬ表情で店名を擬えた。傍目に彼女の表情のみで感情を見取るのは難しい。長い付き合いであるアウルムにもそれは同じで、アイリスの内側に渦巻く感情の波は、山の全景を眺めながらにして山肌に林立する樹木の種類を見分けるような器用さと観察力を求められる。――あくまでも表情のみに焦点をあてるのなら。

 アイリスと唯一繋がる手が、きゅっと僅かに絞められる。どのような感慨が彼女をそうさせるのか理解できないが、いずれにせよぬいぐるみに興味を示しているのであろうと、アウルムは受け取った。

 

「そら、ぼーっと眺めてないでさっさと中に入ろう。ここで突っ立ってたら冷やかしかと思われる」

「アウルがいつまでも手を繋ぐから動けない」

 

 ぶらぶらと繋がれた手を振り子のようにして主張するも、その手を離そうとする素振りは見られない。少なくとも嫌悪はしていないのかも、と楽観視してアウルムは手を引いて扉を開いた。

 店内に入ると空間そのものが変わったかのような錯覚に陥り、こせついた様子で店内を見回すと、双眸を埋め尽くすぬいぐるみの群にアウルムは息を呑んだ。そのとき、つんとケヤキ独特の香りが鼻腔を突いた。

 なるほどこの臭いが――牢獄の生活臭を嗅ぎ取れない程のケヤキの香りが、アウルムの中にある種の異界を作り上げたのだ。人間の記憶とは、様々な感覚によって記録される。なかでも匂いというのは根深く、一度根を張った価値観という大樹をなかなか覆すのは難しい。牢獄には似つかわしくない清涼な調べさえ聞こえてきそうな香りは、久しく振り返る事も無かったアウルムの少年時代を連想させた。

 

「こんな場所に、なんの用だあんたら。酒場なら此処から三つ先の通りだ、買う気が無いならさっさと失せろ」

 

 ふと挑発するような嗄れた声を掛けられ、アウルムを回顧の夢想より呼び戻した。素早く視線を向けると、店の奥に置物のように鎮座している老人が睥睨していた。皺の深い顔貌に、煌々と滾る眼光はまさに余命を燃やして灯す篝火のようで痩せ細った体はさきの物言いよりも筋張っている。

 老人の態度に閉口した様子のアウルムとアイリスは、他に人がいないと見るや彼がこの店の店主なのだろうと判じた。

 

「冷やかしじゃない」

「この通り、この子にプレゼントでもしようと思ってね、ちょいと見物してもいいか? 心配しなさんな、見るだけなんてケチ言わねぇよ。ちゃんと買ってく」

「ふんっ、好きにしな。不躾に触って破るんじゃねえぞ」

 

 憮然と鼻を鳴らしてそっぽを向くと、老人はそれ以降それっきりで一瞥たりとも目を向けない。見る限り、聞く限りで気難しい気性だということは充分理解したアウルムは、それこそ不躾に声をかけたら牙を向けそうな雰囲気だと気づかれぬように小さく嘆息した。

 気を取り直して店内の商品に目を向けると、四方の壁を棚にしてぬいぐるみで埋め尽くし、更に中央の孤島のような棚にまで商品が並んでおり、種類の豊富さは牢獄一であるのではと感慨深くなる。ここならば、きっとアイリスの気に入るぬいぐるみがあるのではと、内心収まらない期待にアウルムの胸が膨らむ。

 じっくりと商品を吟味したいのか、アイリスは繋いだ手を解き、紐の解かれた犬のようにひたすら側目(そくもく)している。

 顔にこそ出さないが自分の立場を忘れたように無垢な瞳は、牢獄に生きる娼婦とは思えない純朴さにあふれていた。諦観した彼女の漂う視線はいま、老人の手によって産まれた数々のぬいぐるみに拘泥している。感触を触れて確かめたいのか、商品に手を伸ばそうとして、自分がそんな事をしているとそれまで認識していなかったように驚き引込める。気難しい老人の文言を気にしているのだろうかと、アウルムは律儀なアイリスを好意的に思いつつ普段との差に苦笑した。

 

「なぁ爺さん、ちょっとどんな感触をしてんのかぐらいは確かめても良いだろ?」

「言ったろ、不躾に触るなと」

 

 素気無くそう言う老人は、しかし先程とは違った意味合いが含まれていると推察した。あくまで商品を商品として不躾でないのであれば触れても良いと、憎まれ口を裏返せばそのような風にも受け取れる。

 不器用な放言に微笑し、アウルムは依然として選定を続けるアイリスの肩に手を置いた。

 

「壊さないのなら、大事に扱うのなら触っても良いってよ」

「そんなの、当たり前」

 

 問うまでもないと断じアイリスは紅葉のような手でぬいぐるみに触れ、常に提げている猫のぬいぐるみを小脇に抱え、商品棚に陳列されたぬいぐるみを両手に持つ。

 慈しむような眼差しでしげしげと見つめる彼女は、恰好さえまともならば年相応の少女に見られたであろう。元貴族だとジークより聞き及んでいた彼女は、幼い矮躯にどれだけの悲哀と絶望を内包しているのだろうか。

 

「決めた。これにする」

「ん?」

 

 数ある候補の内からアイリスが手に取ったのは、真白い猫のぬいぐるみだった。彼女自身がこれと決めたのなら財布として同席しているアウルムに決定権は無い。だが、本当にそれでいいのか? という疑問もある。

 

「そのぬいぐるみでいいのか? アイリスがもう持ってるやつだって、似たようなデザインじゃないか」

 

 どこかアイリスの選択に判然としない視線が見つめるのは一体のぬいぐるみ。常日頃から彼女が持ち歩く大切にしているようで、雑な持ち方で提げている黒い猫のぬいぐるみは、新たに見出した品と近似している。

 既に似通った物を持っているなら、これ以上必要ないだろう。少なくとも物欲の希薄なアウルムにはそう思えた。が、アイリスの新たなぬいぐるみを見つめる視線は決然としていた。

 

「だから良いの。一人だったのが二人になる……これで、もう寂しくない」

「は~ん、ま別に本人が良いってんなら、俺が口出す事じゃないよな」

「アウルが出すのは無駄口じゃなくて、財布の口から出る物」

「わかったわかった、大人しく金だけ払いますよ。おい爺さん、これ一つくれ」

 

 まるで新たな家族を迎え入れたつもりで新参者を抱擁する少女の胸元を指さし、彫像のように微動だにしない老人に会計を求める。ぬいぐるみを身請けするのに掛かった金額は、当然ながら娼婦を身請けするよりも遥かに安い。大した出費にならず胸の内で安堵したアウルムだが、一方で、この程度の額で彼女の機嫌は良くなったのだろうかという疑問もある。

 立ち返ってみればそもそも、《リリウム》を訪ねた矢先に出会ったアイリスが非常に不機嫌だったのが始まりであった。果たしていったいどんな経緯があって、彼女はアウルムにいつも以上に刺々しい態度をとっていたのか。結局の所、アイリスの冷水が溜まる凪の如き静かな湖面に、結果として石を投じた犯人にされてしまったアウルムは、女神など現れないまま煙に巻かれたまま彼女との散策に終わりを迎えた。

 

 帰りもまた手を繋いで帰るのかと密かに期待していたアウルムは、アイリスの両手が綿の詰まった動物擬きによって不可能になったのをまざまざと理解させられ、落胆に身を打ちひしがれた。

 

 

 ※

 

 

 煙草や葉巻などを条件に人格が豹変するのは、安易に二重人格の可能性を示しているのではなく、元ある人格をベースにして豹変ではなく変造した結果の産物なのだ。

 必要だと判断したから組み替えた。冷徹に、冷酷に、どこまでも惨酷になれる精緻な機械装置。つまりアウルム・アーラとはそういった状況に即応する術を持った暗殺者である。

 標的の事情も心情を斟酌せず、呵責なく殺意を刃に乗せる事が出来る彼は、しかし一つの不純をその身に孕んでしまった。

 人間の生まれた意味とは何たるか。

 牢獄に巻き起こる死の自然災害ともいえる彼が、何故このような哲学的思考を持つにあたったか。原点を辿ってもその命題には辿り着かない。

 意味を求める事を求めた暗殺者は、他者にその答えを委ねる。自分には答えが出せないから。内側に無いのなら、外側にあるのではと思案するのは当然の帰結だった。そして暗殺者たるべく存在する彼は、標的を相手に“問題”を提供する事にした。必ずしも返答がある保障のない問題を。

 さながら求道者のように求め続ける彼の答えは――しかし、数年の時を積み重ねても依然として得られない。

 一時はやり方を誤ったのではと方針変更を考えた時期もあった。けれど結局、アウルムにはこの方法しか執ることが出来ない。

 だから殺す。殺し、殺して、殺しつくす。敵を味方を貧民を浮浪者を子供を女を男であろうと同等に斬殺し、惨殺する。意味などなく意義など持たず意欲を持って夜を駆ける。数多くの血を啜り続けたニホントウは、神代の宝刀とも言われているらしいが、持ち主のアウルムからして見れば例え“宝刀”と言えど一度生命の切る味を覚えた刀は総じて“妖刀”である。

 しからばいずれ遠くない未来に、きっとアウルムは“妖刀”の餌食となるかもしれない。

 

 

「おっきろーっ! 朝だよあさ朝、良い天気なんだから早く起きて!」

 

 アイリスとの買い物から二日が経過した朝。いつものようにボロの自宅で目を覚ましたアウルムの前には、《リリウム》の娼婦リサが立っていた。

 微睡の中に至福の時を見出していたアウルムの布団を引っぺがし、テーブルクロス引きのように――それにしては雑に――引きベッドの下へと転がしたリサは、悪気など一遍も存在しないような笑顔で床に転がる彼に起床を促した。

 転がり落ちたときに腰を打ったらしく、疼痛に顔を顰め、患部を摩りながら立ち上がる。一言注意をしたい思い出はあるが、リサが起こしに来ると言う事は即ちジークから直々の呼び出しを預かり受けたという事になる。緊急、もしくは仕事。そうでなかったら最近の殺人事件についての進展があったのかもしれない。

 考えを巡らせ、アウルムは最低限の装備だけでも整えておこうと思い、その場で着替えを始めた。

 

「うわっ、ここで急に脱ぐなんて……もしかしてあたしに気がある――」

「着替えるんだよ。ボケかますならカイムの家でやってくれ」

 

 何度も交わしたことのある定型句を言い放ち、着替えを終わらせる。ニホントウを持ち歩くのは勿論のこと、懐に投擲用短刀を四丁、ブーツのソール部分に埋め込んだナイフを一対――これは爪先部分を強く蹴る事で飛び出る構造になっている。それと、標的を消して逃さぬように用心を重ねる為の毒薬を数種用意する。これがアウルムの仕事道具、その最低限である。アウルムが家の中で整えた武器の数々を見られては困るので、リサにはその間外にて待ってもらった。

 外見だけを見るなら、装備はニホントウのみのように見えるアウルムだが、内側には沢山の武器を持ち歩いている。これは如何なる状況にも即座に適応できるよう、経験を積み重ねた結果に選別された武器であり手段である。

 最終点検を終えて家を出る。外で待ち構えていたリサが遅いと責めるのを苦笑で返し、アウルムはジークが待つ《リリウム》へと向かった。

 

「お頭の様子はどんな感じだった?」

「ん~とねえ、なんかピリピリッ! って感じで、かなりおっかなかったよ。カイムも一緒に居たんだけどね、なんか凄く頑固そうな顔してた」

「原因はカイムか……ったく、いったい何があったんだ。リサ、お前なんか知らないのか?」

「知るわけないじゃん、あたしただの娼婦だよ? もうボスの鬼みたいな顔にビビッて漏らしそうだったんだからねー!」

 

 肩を怒らせて被害をアウルムに転嫁させるリサは、眦を上げていた。ジークの機嫌がすこぶる悪いというのはリサから聞く限り間違いじゃないだろう。行く気が失せてきたアウルムは自然と歩幅が短くなっていた。

 

「あぁ~面倒くさい、お頭に叱られるぐらいならヴィノレタで一杯やってる方が絶対マシだ。でもそれをやると、後が怖いなぁ……」

「アウルを連れて来いって言われたあたしの前で、逃亡なんて考えないでよ。年季が明ける前に空葬は嫌だよ」

 

 死体をノーヴァス・アイテルの外側、即ち空へと葬るのを空葬と言い、最もポピュラーな死体遺棄方法として広まっている。空を漂う大地の下に漂う大海の如き混沌へと投げ捨てる空葬は、人手をそれほど必要とせず手軽故に処刑方法の一つにもされている。

 

「年季ねぇ、お前最近の仕事はどうなんだ? ちゃんと客を取れてるのか?」

「う、どうしてあたしにそれを聞くかな。そりゃ、クロやアイリスに比べたら全然だけど」

 

 人気所の二人と仲が良いリサが彼女らと同等に人気であるかと問われれば、否とアウルムは断ずる。痛い腹を探られているのを自覚しているのだろうリサは、アウルムの質問から逃れるように視線を逸らし嘆息した。

 

「あたしも最近は悩んでるんだけど、なかなかうまくいかないんだよね。積極的に声はかけてるんだけど」

「リサの誘い方はアホっぽいからな」

「そんな事ないよー! そんなに言うなら、試してみる? あたしの誘い文句がアウルに通用するか」

 

 挑戦的な物言いで微笑し、リサはその場でしなを作った。

 

「ねえ貴方、今夜はあたしと一緒に、夜空に輝く星になるような快感を味あわない?」

「ボツだ、それじゃあ男は逆に気おくれして遠ざかるぞ」

「えーッ! じゃあじゃあ、どんな風に誘えばいいのよぉ」

 

 リサにとっては渾身の口説き文句だったらしく、涼しげに酷評したアウルムに食って掛かったかと思えば、直後に失意に項垂れてしまった。

 たとえどんな風に誘おうとも決して靡かない自負が、アウルムにはあった。徒に彼女の自信を食い潰してしまったのは流石にやり過ぎたと思い、仕方なくアウルムは助け舟を出すことにした。

 

「カイムに相談してみろ。あわよくば、抱いてくれるかもしれないぞ」

 

 娼婦たちの相談役でもあるカイムであれば、リサの悩みにも何らかの答えを与えてくれるだろう。アウルムとてこのままにして、よもや彼女が足抜けを考えてしまうなんて事態になっては敵わない。

 それに、リサはカイムに少なからず慕情をその透けた胸に秘めている。アウルムの提案はリサとしても悪い話ではないだろう。

 

「そっか、じゃあ早速今度カイムに相談してみるよ!」

 

 案の定、花が咲くような笑顔で予定を口にしたリサに、満足げに鼻を鳴らし、ちょうどそのとき目的地に到着した。

 リサとは入口に入ってすぐに別れた。ジークが呼び出したのならそれは《不蝕金鎖》としての話しがあるという事なので、部外者の彼女が同行する理由もない。一段昇る毎に軋む階段を上がり、頭の待っているだろう部屋へをアウルムは入った。

 

「すまん、待ったか?」

 

 開口一番に口から出たのは謝罪の言葉だった。ジークの私室には霧のように紫煙が充満している。彼が不機嫌かもしくは芳しくない状況に頭を悩ませている時、この私室には持ち主の感情に比例して紫煙の量が目に見えて増える。だからアウルムはとりあえずの取り繕いに謝罪のを口にした。

 

「いや、それほど待っちゃいない。……参っちゃいるけどな」

「なんだ、カイムがまたぞろ突拍子も無い事を口走ったのか?」

 

 渋面でアウルムを迎えたジークは、表面上は取り繕い肩を竦めていたが、それが仮面である事は火を見るより明らかだ。さしものアウルムにも、この状況を作っているのであろう人物に同情すら懐いてしまう。

 主に来賓用に使われる豪奢なソファーに深々と腰を沈め、肘を膝に当てて気難しそうに屈むカイムは、梃子でも動かないと感じさせる断固とした意思を瞳に灯していた。

 

「アウルを呼ぶ必要があったのか? この話しは、俺とジークの二人にしか関係ないと思ってたんだが。――それとも、組織にとって俺は障害になると判断されたのか?」

「そう警戒するなカイム。別にお前の始末をアウルムにさせようって腹じゃない。どの道、始末するつもりなら俺直々に手を下すさ。

 お前を犠牲にしなくちゃならなくなったら、それは俺の……ひいては《不蝕金鎖》の為だ。自分のエゴぐらい、自分で蹴りはつける」

「だとしたら、アウルを呼んだのはどうしてだ?」

 

 入室して早々に剣呑の雰囲気を漂わせる両者は、互いにけん制し合うように言葉を交わし、視線が交じり合ったかと思えばそれまでの雰囲気が嘘のように破顔した。

 

「あのなぁ、友情の確認は俺の居ないところでやってくれ。呼んでおいて俺を置物にするな」

「悪かったなアウルム、なにちょいとお前に仕事の“予約”でもしてもらおうと思ってな」

「“予約”? そりゃおかしな形式を執るもんだ。俺の仕事に予約もクソもないだろ、持ちかけるって事は今すぐにでも“解消”したいからだろ」

 

 殺しの仕事を予約するという奇妙な依頼に、アウルムは眉根を寄せた。これまで即時対応で標的を屠ってきたアウルムが、ここにきて人の命を手中に収め、ましてやその生殺与奪権を委ねさせるような真似をさせようとジークはしている。これがアウルムには易々と呑み込めなかった。

 疑問はそれに留まらない。いずれ殺すべき相手を、いまこの場でカイムを交えて話す必要性が本当にあるのか。

 状況を見るに、ジークが本気で言っているのを理解出来たアウルムは、「仕方ない」と呟き、大きく溜息を吐いて煙草に火を点けた。

 暗殺者であるなら煙草など本来なら百害あって一利なしなのは重々理解している。煙が体に染み込み、臭いを発してしまうのは、基本的に隠密を重要視する暗殺に支障が出るからだ。その点、元同僚であったカイムは酒こそ嗜むが煙草は頑なに吸わない。仕事に対する心構えが足を洗った者より劣るアウルムは、しかしそれでも組織内でも随一の腕前を持っている。言うなれば彼が煙草を吸うのは人格の変造だけではなく、自身の腕に対する全幅の信頼を置いている証左でもある。

 

「誰彼を殺せってんなら話しは簡単に終わる。なのに、そこに余計な条件を設ける理由はなんだ? 保険か? それとも――」

「予約をするのは、お前も知ってる奴だ。カイムが拾ってきた、あの女――ティアって名前の羽つきの嬢ちゃんだ」

 

 標的を告げられると同時に、大気を震撼させるような音が鳴り響いたのは偶然だろうか――否、カイムの目を剥いた苛烈な形相は、明らかにジークの発した文言に対する憤怒の発露。

 平時のアウルムであれば、このカイムの怒気に少なからずなんらかの反応を示しただろう。だがいまの彼は暗殺者としてのアウルム・アーラに他ならない。

 紫煙を吐き出し、頭上が曇る様を黄昏るように見上げ、闇に生きる暗殺者は事の成り行きを見物することにし、再び煙草に口を付けた。

 

「さっき言ったろジーク! もしティアを始末しなくちゃならない事には、俺がさせないって!」

「お前の為人を良く知る俺から言わせると、お前は肝心な所で絶対にヘタレる。それに情が湧いたいま、もしあのお嬢ちゃんを殺さなくちゃならなくなったら、お前には難しい。出来たとしても、後で悼みに耐えきれなくなる」

「見くびるなよ、これでも昔は“それ”で飯を食ってたんだ。今更罪悪感なんて上等なモンは持ち合わせちゃいないし。ティアも殺させない」

 

 カイムの怒りは何処から生じた物なのか。ティアという少女をアウルムの標的にされた事か、それとも、カイムの度胸を過小に見做した事に対してなのか。怒りは未だ冷めやらぬ様子で、カイムの眉間には大きな溝がいくつも出来ている。

 

「飼い犬の始末は飼い主の役目だ。あいつを買った以上、あいつの命を預かるのは俺だ!」

 

 傲然とそう宣言するカイムに、まるで聞き分けのない子供でも見るかのような眼差しを向けるジークは、葉巻を咥え大きく紫煙を吐き出した。

 

「わかったよ……悪かったなカイム、この話はこれで仕舞いにしよう。わびと言っちゃなんだが、新居の分の値段は重ねないでおいてやる」

「別に気にするな、俺が執着する理由を聞いて信じられるとも思っちゃいない」

 

 ジークの穏やかな声に、カイムも安心したのか矛を収めた。直後に、オズが室内に証文を持って現れ、カイムのサインを確認するやあっという間に退散していった。用事が済んだカイムは、挨拶も程々にティアを迎える為に帰っていった。

 

「俺を呼ぶ必要はあったのか?」

 

 残されたアウルムは眉間を揉むジークに問いかけ目を眇めた。予約を取り下げた以上、アウルムがこの場には必要ないのは明らかで、提案すればカイムが猛反対するのも目に見えてわかっていた筈。このような解りきった展開を予測出来ないジークではない。

 カイムが去ってから数分、アウルムの問いに答えはなくただ厳然とした沈黙の帳が降りたっていた。

 

「必要は、あった」

 

 唐突に切り出したのは手に持った葉巻の火を押しつぶしたジークの、厳かな声だった。

 

「アウルム――“予約”は継続してる。カイムの拾った女が《不蝕金鎖》にとって脅威になる、もしくは大きな火種となった場合……確実に始末しろ」

「……カイムを試したな?」

 

 カイムの前でティアの暗殺予定を提示したのは、それを聞いて彼がどのような反応を示すかどうかの牽制であった。冷酷で達観しているようなカイムが、内側に秘める情の篤さをむき出しにする為であり、ジークは彼の反応によっていま再び決定を下したのだ。

 頭の決定に異論はない。この身は機械であり、ならば操る者の意思を斟酌し、稼働しなければ矛盾が生じる。

 暗殺者としての己は、須くボスの決定に従わなくてはならない。

 

「カイムがあそこで意地になるようじゃなければ、逆に予約は取り下げたんだがな。如何せん思い通りにはいかないもんだ」

「あいつは優しすぎる。思考こそ順応し凍てつかせてはいるが、本人の自覚なしに感情はどこか牢獄の価値観と相違している。否定こそしないが、根底に蔓延る何かが疑問を植え付けるんだろ“本当にそれでいいのか?”と」

「友人でいる内は敵にしたくない。もしお前が動く羽目になったら、その時は完璧な暗殺をやってのけろ」

 

 無理難題を平然と要求するジークに、アウルムは背筋を正して答える。

 

「承知した。持ち主の目に留まることなく、完璧にやってみせよう」

 

 完璧な暗殺とは、つまるところ対象を殺す事によってどのような“結果”が生じるのかが肝になる。ただ殺すだけなら三流にも出来る、それこそどんな人間にだって行使できるありふれた愚挙だ。しかし、これを人知れず行い、相手の裏をかき殺すのが暗殺だとアウルムは認識する。

 そも完璧な暗殺とはジークにとってどのような意味合いを持っているのか。これまで幾度となく仕事を完遂してきた傾向から察するのは、“《不蝕金鎖》にやられたと思われない殺し”である。通常に任命される殆どの仕事は、《不蝕金鎖》の障害になる者、意にそぐわぬ者の排除である。よって死の結果には《不蝕金鎖》がやったと相手組織に理解させなくてはならない。

 足跡なく、痕跡なく、風が過ぎ去ったかのように殺してこそ暗殺であり、ワザと知らしめる殺しをアウルムは暗殺とは思わない。

 しかし矜持を持たないアウルムに迷いは無い。殺しを通じて他者の意味を簒奪せんとする彼に、そもそも殺しを止める理由が無いのだ。

 拝命したアウルムはそのままの体勢で踵を返し、私室の外へと通ずる扉に手を掛ける。

 

「なぁ、あんまり気負うなよお頭」

「背負う奴が気負わなくてどうする。これは俺だけに許された特権みたいなもんだ、なに、良い女に寄りかけられてるとでも思えば良いもんだぞ」

 

 飄々とした声は聞くからに軽く、それ故に重く深い念を感じずにはいられなかった。

 標的となる予定のティアが意識のある顔を見ていないのを思い出し、まずは挨拶も兼ねてカイムの新たに身請けした彼女に会いに行こうと《リリウム》を後にした。

 澱のようなこの場所にも太陽は覗く。空を見上げると、アウルムの心情とは裏腹にどこまでも澄み渡る無窮の青空が広がっていた。

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