ジークの用意した新居は娼館街の外れにある、それなりにまともな家であった。さながら廃墟と間違えられてもおかしくなかった前の家よりは、数段上だと断言出来る。家財道具を運ぶのを手伝ったアイリスは、アウルムの家を見て唖然としていたが、新居に移り安堵したように平素と変わらぬ風情に戻っていた。
屋内は使われなくなって時間が経過したようにそこらじゅうに埃が充満していた。鍵を渡された時に『隠れ家の一つ』と言っていたのを思い出したアウルムは、時の彼方に忘れ去られたような室内が、隠れ家として看破されない為の措置なのだと気付いた。
隠れ家が、普段から使われるように生活の雰囲気を残していたら意味がない。殆ど無人の家が、常に掃除が行き渡っていたら違和感が生じる。だからこそジークはワザと空き家だと思わせる偽装をしたのだ。
「埃だらけで掃除が大変、アウルムもサボらないで手伝って」
「任せろ、掃除は嫌いだけどやるだけやってみよう」
余すとこなく掃除が必要になると判じたアイリスは、全室内の掃除が完了するのにどれだけの時間と労力が必要になるのかを理解したらしく、密かに眉根を寄せて腰に手を当てた。
娼婦だった彼女は、めでたくアウルムによって身請けされ、彼のモノとなった。だから当初のアイリスは、なにかとアウルムの世話をかいがいしくやろうとしていた。しかし、アウルムが欲しいのは召使いではない。彼女自身を欲した彼は、それを良しとしなかった。普通の少女のように、当たり前の考えで傍に居ろと命ずるや、途端にアイリスは肩の力を抜いた。それも思いっきり。
気が付けばアウルムは知らず知らずのうちに主導権をアイリスに握られ、命令される立場にまで危ぶまれていた。彼女も、なれない殊勝な態度では肩肘ばって疲れたのだろう。
掃除用具を持ちながらアウルムを振り回すアイリスは、それでも元が真面目故か掃除そのものは真剣にこなしている。対して主人であるアウルムは、二人で済むには広い家全ての掃除という逃れようのない現実に愁嘆すら漏らしかねなかった。念願叶って手にした彼女にこき使われ、面倒事は避けて通る彼がそれを嬉々と請け負うわけがない。
「なぁアイリス。頑張ったけど無理だった、ってのはありか?」
「寝てる間に噛みちぎって欲しいなら、そう言えば良いのに」
「ごめん、ちゃんとやる。マジで頑張ります! だから齧るんじゃなくて、優しく舐めてくれると……」
「まず先に、床が舐められるぐらい頑張って。褒美はそのあと」
憮然としながらも飴を忘れない命令で、目の前に餌を吊るされたも同然のアウルムは、俄然やる気を漲らせた。昨晩は色々とあり彼女が体力を消費していた事もあり、元住居で生殺しを味わっていたのを彼は忘れていない。欲に総身が滾り、慣れない掃除も敢然と立ち向かった。
しかしいくら体力があろうと、経験の少ない掃除の動きはどこか精彩に欠く。リリウムでも掃除洗濯は仕事の内だったので要領を掴んでいるアイリスはともかく、掃除なんて意味がないと放棄していたアウルムにどうして効率よく出来ようか。
開始十分にして彼の努力の果ては程遠いと思い知った。ならばアウルムに思いつく術はもう一つしか残されていない。
「よしっ、助っ人を呼んでくる! 二、三人ぐらいとっつ構えて連れて来るから、アイリスは適当に続けてくれ。疲れたらそこにあるもん飲み食いしていいから」
「ちゃんとすぐ帰ってくるなら良い。でも、サボったら引っこ抜くから」
一応の警告を受けながらアイリスを単身残して全力で駆けだした。牢獄に彼女一人を置いて行くのは心配ではあったが、過保護になるつもりも無かったアウルムは、一応の用心として彼女に警笛を持たせるに留めた。アイリスとて牢獄民、なまじっか住み慣れた土地でそうそう危険な目に遭うまいというアウルムの信頼だった。
全速力で駆けながら、ときにショートカットに屋根へと飛び乗り一直線にまず向かったのは、比較的近所のカイム宅だった。彼もまた最近になってティアを身請けした条件として、住居を娼館街の外れに移転したのもあって到着にも時間を要しなかった。
今日は朝からカイムは仕事で、リリウムにあるジークの私室へと赴いている。よって彼の不在は必然だが、その代わりに彼が身請けしたティアが居る。
家に着くと彼女は洗濯物を干していた。僅かに盛り上がった背中は、彼女が羽つきだと事前に理解していないと判別がつかないぐらいに美味く隠されている。屋根から彼女の様子を観察し作業が終わったのを確認すると、唐突にアウルムは屋根から身を投げ出した。
「ようティア、今日も元気にしてるか?」
「ひゃわぁああッ! あっ、アウルムさん、びっくりしちゃいましたよ」
眼前に降り立ち、揚々と挨拶をしたアウルムに、ティアは手に持った空の洗濯籠を上に投げ出す程飛び上がった。この程度の高さなどないに等しいアウルムにとって、それは普通であるが、生憎牢獄にまだ慣れ切っていないティアには驚愕に値する出来事だった。
「どうしたんですか突然。カイムさんでしたら、今日はお仕事に行ってしまいましたよ」
「今日はカイムに用があって来たわけじゃない。ティア、お前に用があって来た」
「わ、私にですか? 何でしょうか……もしかして、カイムさんが居ない間に私に……っ」
「安心しろ、それは絶対にありえない」
恐れ慄くように顔が引き攣るティアに、心外だとばかりにアウルムは決然と言い切った。アイリスが居る以上、現状で他の女に手を出すつもりはアウルムには無い。しかも今夜は褒美として楽しめるかもしれないのだ、ここでアイリスの機嫌を損ねるような事は出来ない。無理に頼めば彼女は許すだろうが、それだけはしたくない。体裁こそあれ、基本的には対等のまま一緒に居たいから。
ホッとした様子で胸を撫で下ろしたティアは、足元に落とした洗濯籠を広いアウルムに視線を戻した。
「では何のために? 自慢じゃないですけど、私、家事以外は何も出来ません」
「そうだなそりゃ自慢じゃなくて自虐だ。じゃなくて、今日はその家事の腕を買って頼みたい事があるんだ」
「えっ、家事で?」
「実は今日から近所に新居を移したんだ。それで、大掃除を始めたんだけどこれがまた面倒で、しょうがないから人手を探してたんだ。
小遣い程度だが報酬も払う。頼む、手伝ってくれないか?」
頼む側の立場だという事を忘れず、下手に出つつアウルムは彼女の様子を窺う。経済状況は芳しくないが、仕事を一つ二つやれば、それもすぐに回復する。もし手伝ってくれるなら、最大で銀貨五枚は出すつもりだったが、ティアは慌てふためいてこちらに向けた両掌を左右に振っていた。
「そ、そんな私なんかに報酬を払うなんて、ご近所さんに、それもカイムさんの尊敬する人に貰うなんて図々しいこと出来ません!
見返りはいりませんから、喜んで手伝わせてください」
「カイムが尊敬? ハハハッ、そんなわけないだろ。あいつはいつまでも口の減らない男だ。きっと俺の話しなんて悪口ぐらいしか出てこないよ」
「でも、この前は……」
つい最近の、エリスとの口論によってカイムの口から出た言葉を聞いていたティアは、その事を告げようとして、後になって話が拗れるのを恐れ、慌てて口を噤んだ。
「この前?」
「いえっ、何でもありません。それでは行きましょう、どちらにあるんですか?」
言いさした彼女の言葉は気になるが、カイム関連の話題でアウルムが苦労する事もないと判じ、アウルムは住所を尋ねるティアの前に膝をついて屈んだ。説明するよりも、実際に連れて行く方が断然早いに決まっているから。
「のんびり歩くのも時間が掛かるから、さっさと背中に乗ってくれ。すぐに案内する」
「背中に、乗る、んですか? そんな、なんか悪いです」
「乗らない方が俺としては困る。余計な時間を喰う前に乗ってくれ、別に怒りもしないし何もしない」
「わかりました。では、失礼しますっ」
控えめに恐る恐るアウルムの背に乗り、エリスの仇名通り、小動物のようにして縮まるティアは、エリスが見たらまさしくそのままだと嗤っただろう。
「しっかりつかまってろ、でないと落ちるからな」
「お、落ちるんですかっ?」
紛う事なき真実を口にして、恐怖に声が裏返ったティアは落ちないように今度はしっかりとアウルムにしがみ付いた。拘束するように捕まるのを確認してから、再びアウルムはカイム宅の屋根に――中間の壁にナイフを刺して踏み台にし――飛び上がった。
まったく想像だにしなかった展開に、背中にしがみ付く彼女は目を回して引き攣った悲鳴を上げた。まさか宙を飛ぶとは思ってもなかったのだろう。
過剰に慄くティアを運ぶ事数分。あっという間に目的地たる新居に辿り着き、そっと彼女を地面に下ろした。が、そのまま踏ん張りもせずにティアは地べたに尻もちをついた。恐怖と驚きに膝が震えて上手く立てなかったのだろう。生まれたての小鹿のように彼女の両脚は震えていた。
「あーあ、大丈夫かティア? 悪かったよそんなに怖がるとは思わなかった。ほれ、手ェ貸してやる」
「す、すみません情けない姿を晒して。もっとちゃんと意識して抱き着けば良かったです」
青褪めた顔で苦笑し、差し出された手を掴み立ち上がる。と、その時新居の扉が開くのをティアとアウルムが気づいた。
「……節操無しがティアにまで手を出してる。やっぱ死ね。カイムに撫で斬りにされるといい」
「そ、そんなアウルムさん、私には絶対ありえないって――!」
「男なんてみんなそう言う」
「頼むから面倒を増やすような事を言わないでくれアイリス、こうやって助っ人を連れてきたんだから。
ティア、詳しい事はアイリスから聞いてくれ」
ここで疑似的痴話喧嘩を繰り広げていては、大掃除が終わるころには日が暮れてしまう。出来るだけ早く終わらせて仕事に取り掛からなきゃいけないアウルムは、なるべく時間を無駄遣いしたくなかった。
諸々の概要をアイリスに押し付けると、次の助っ人を収穫しようとしたところで、ティアが不思議そうな面持ちでアイリスを見ていた。
「あの、どうしてアイリスさんがここに? それに、その恰好」
「アウルムに身請けされた、だから此処にいる。悪い?」
「い、いえっそんな! なにも悪い事はありません。ええ、ありませんとも。そうですか、アウルムさんがアイリスさんを……おめでとうございますっ」
「……ありがとう」
頭を垂れて寿ぎの言葉を送り、燦然とした笑顔でティアはアイリスと共に掃除道具を持って屋内へと入っていった。これから近所同士、仲良くなれるのを願いつつアウルムは次なる場所へと駆けだした。
少なくとも、あと一人は欲しい。牢獄でもとびっきりの博愛主義である人物が思い当たり、あわよくば手伝ってもらおうと思い、彼は屋根伝いに飛び駆けた。
頬に強く打ちつける風を感じながら走破した彼の前に立つのは、行きつけの酒場ヴィノレタだった。基本的に夕方から夜の間開いているヴィノレタの主人は、アイリスの為ならば労を惜しまないだろうと踏んでの選択だ。
扉を開いて中に入ると、店主のメルトはちょうど店内を掃除している所だった。
「あらアウルムいらっしゃい。聞いたわよぉ、アイリスを身請けしたんだってね。ジークが言うには一年以上前からそのつもりだったらしいじゃない、どうして教えてくれなかったの?」
「そうやって意地の悪い顔で、俺をイジり続けるのがわかりきってたからだよ。顔突き合わせるたびにからかわれたんじゃ、堪ったもんじゃない」
「薄情ねえ、アイリスにはちゃんと愛してあげなさいよ? じゃなきゃ、私が可愛がっちゃうからね」
「堂々と寝取ろうとすんな」
閉めた扉に背を預け、不遜に鼻を鳴らしてメルトを見据え、アウルムは口を開いた。
「でだメルト、ちょっと身体を貸してくれないか?」
「えっ、アイリスを身請けしといて早々に浮気する気? アウルが誘ってくれるのは嬉しいけど、私まだアイリスに嫌われたくないわ」
距離をとって我が身を抱き竦めるメルトの表情は、どこか判然としない。言い方悪かったが、アウルムはそんな言葉をまともに取り合うつもりもない。ただ平然と彼女との距離を詰め、その手を取った。
「ふざけてるならおっぱい揉むぞ。掃除だよ、大掃除。家を移ったから、手伝って欲しいんだ」
「あら残念。いいわよ、掃除ぐらい手伝うの」
間髪入れずに翻ったメルトはそう言い切り、アウルムによって新居へと送迎された。ティアと違って彼女は慣れた様子でアウルムの背にしがみ付き、過去に数多の男を虜にした豊満な胸囲を惜し気もなく押し付け、アウルムと共に空を駆けた。
ティアに次いでまたも女性を助っ人に抜擢してきた事に、アイリスは良い顔をしなかったが、作業効率が大幅に上昇するのは間違いがないので苦笑するアウルムを目線で諌めるだけに留まった。
昼を過ぎた頃には掃除もあらかた終わりに近づき始めていた。カイムと羽狩りの面会もそろそろ終わっているだろう。アウルムも仕事に赴かなくちゃいけない時間だ。
「悪いアイリス。働きたくないけど、生活のために仕事行ってくるわ」
「わかった、馬車馬の如く働いてきて」
掃除の仕事を請け負うのには不満がないのか、アイリスはこれから仕事に従事しなくてはならない憂いで覇気の無いアウルムを送り出す。彼が仕事をしないと、推定一ヶ月後には飢えに苦しむかもしれないのだ。そうわかったいまアイリスが彼を甘やかすわけがない。
後ろ髪引かれながら仕事へと向かったアウルムが居なくなると、途端にメルトが微笑し口を開いた。
「アイリスはもうアウルムとシたのかしら?」
「ふぇっ!? め、メルトさん急になんてこと聞くんですか!?」
「…………」
女三人寄れば姦しいとはこの事か。アイリスはリリウムに居る二人の家族に思いを馳せながら、いつまでも見下ろし続ける空を仰ぎ見た。
蒼穹の空はどこまでも、明日も変わらずそこにあるモノに、どうか明日も晴れますように。
※
不蝕金鎖と羽狩りの共同捜査の会談が終わった頃と見込んでリリウムへと向かったアウルムであったが、結果からしてそれはまさにとても良いタイミングだった。
「貴方は……ッ!」
「アウル……」
リリウムの出入り口から出てきたカイムと、羽狩りの隊長を務めるフィオネの二人にタイミング良く出会ってしまったアウルムは、内心で舌打ちしたい心境だった。出来る事ならなるべく羽狩りの目につかないよう行動を命令されていたアウルムにとって、この偶然の出会いは最悪のタイミングの良さだ。
事情をジークから聞き及んでいるのだろう、カイムは彼を見るなり驚いたように目を開いたが、すぐさま部下を見るような厳かな面持ちになった。余計な事はカイムの口から吐かれることがないのに、彼は安堵したが、それよりも頭を悩ませるのはカイムの隣で嫌悪を丸出しにしているフィオネだ。彼女はアウルムの姿を見るなり明らかに眦を上げて見据えている。
いつの日か、ヴィノレタでメルトが言っていた事が脳裏に蘇り、自嘲の笑みが浮かんでしまう。確かに彼女はアウルムを忘れなかった。それも厭う存在として。
ここで長話をしてはアウルムだけじゃなく、カイムにも益をもたらさない。以前彼女と出会った頃のキャラクターを思い出しながら、なるべく違和感がないようにアウルムはとぼけた笑みを張り付けた。
「いやぁ~、誰かと思えばカイムさんじゃないですか。そちらの羽狩りのお嬢さんは、仕事相手のお方ですか?」
「覚えて……いないのか、私を?」
「落ち着けフィオネ。アウル、お前の持ち場はここじゃなかったと記憶してんだが、俺の記憶違いか?」
記憶の片隅にも残っていないのかと気色ばんだフィオネを制しながら、下っ端を演じるアウルムの意図を察し、カイムが厳しい語調で問い詰めた。この二人の会話を長引かせては、いずれ大きな言い争いに発展しそうな気がしたのだ。
願った通りの反応をしてくれたカイムにほくそ笑みながらアウルムは肩を竦め、咄嗟に思いついた言葉を連ねた。
「バレちまいましたか。すみません、直ぐに持ち場に戻りますんで、これで」
「ああ、しっかり働けよ。今回は羽狩りとの協力体制なんだ、サボるような事するなよ?」
「わかってますよ、しっかり聞き込みしてきます」
カイムとフィオネよりも、他の羽狩りよりも先んじて敵の正体と居所だけでなく、その身柄も抑えなくてはならない。アウルムは剽げた態度で片手を上げ二人から距離を取った。通り過ぎ様に、フィオネの無言の抗議めいた視線を感じたが、いちいち取り上げる必要も感じない。よって、アウルムは彼女を居ないモノとして無視した。
二人の遠ざかる足音を聞きながら、アウルムは安堵し大きく溜息を吐いた。日中ということもあって油断したのが間違いだった。これからは常時意識しつづけて方がいいだろう。
煙草を取り出し燐寸で火を点ける。肺腑に紫煙を取り込むと、すぅっと思考が冷めていきその人格も変わっていく。状況に即した機械となるべく、彼は牢獄の住人への聞き込みを開始した。
住民からの目撃情報はその大半が荒唐無稽な噂話に過ぎなかった。
やれ腕を一振りするだけで人が粉微塵になるだの、恐ろしい眼光を見るだけで死に至るなど、想像も出来ない人物像が出来上がっている。およそただの羽つきにはありせない力であるが、それらが単なる尾ひれのついた噂に過ぎないとは、アウルムは断ずることをしなかった。
なぜなら彼は黒い羽つきの姿をシルエットではあるが一度目にしている。どれほどの潜在能力を秘めているのかは判断が付かないが、空を飛ぶのを見た以上、単なる恐怖に認識が歪んだとは言い切れないのもまた事実。
途中からアウルムの聞き込みは姿形を問うのではなく、死体の出た地域を絞っての聞き込みに路線を変更し始めた。
地図を見る限り、ある一定の場所を起点に半径数キロ以内にのみ、犯人も理由もわからない死体現場が発生している。これは見るからに羽つきの犯行だと、近くの住人から聞いた死体現場の状況を聞いて理解した。そしてその起点がスラムの方に重点が置かれているのもまた判明し、事は順調に進んでいた。
咄嗟に、アウルムは路地の曲がり角に背を預け息を潜めた。乱暴に開かれた扉の音と共に、フィオネの声を耳にしたのだ。
「出来れば話だけでも……」
「羽狩りに話す事なんか、こっちにはありゃしないよ!」
嫌悪し拒絶の意を表す様に、扉が閉まる。家屋に住んでいた女性は余程羽狩りを嫌っていたのか、古くなった扉が壊れるのもお構いなしに大きな音を立てて閉じこもってしまった。
アウルムが角から半目で覗き込むと、フィオネの悄然とした背中が目に入った。あれだけ邪険にされたのだ、当然であろう。しばらく落ち込んだ様子が覗えたが、持ち前の気の強さがもたらしたのか、いつも通りの凛然とした姿に立ち戻っていた。
「仕方ない、次に行こう」
「なぁ、いい加減気が付かないのかあんた」
こうして露骨なまでに拒否されるのはこれが初めてじゃない、そんな呆れた風情で眉を顰めるカイムは、勇ましく歩もうとするフィオネを引き留めた。何を言わんとするのか、カイムが口を開くまでもなくアウルムには理解出来る。
“あの制服のままじゃ、いつまで経っても門前払いだろうな”
「羽狩りがあんたにとってどれだけ誉れ高い仕事かは知らん。けどな、牢獄じゃ忌み嫌われる組織なんだ。あんたがその似合わない服を来ている限り、いつまでたっても仕事が進まない」
「しかし、私は防疫局の人間。後ろ暗いところもなく、あえて素性を隠すような真似は好きじゃない。例え忌み嫌われようと、この状況を拭う為に私は制服を脱いではいけないのだ」
「そんな遠い未来の話しに付き合って、黒羽を逃していいってんなら何も言わない。だがそうじゃないから俺は言ってるんだ。こっちだって仕事なんだ、足を引っ張るような真似はよしてくれ」
カイムの言い分はなるほど確かに正しい。アウルムとしても、フィオネが頑なに制服を纏う理由が単なる矜持に過ぎないとわかれば、同じように彼女を詰っただろう。効率という一点に研ぎ澄まされた今のアウルムは、それを阻害する存在を肯定しない。軒先で言い争っているカイムが自分でなくてよかったと、彼の苦労に同情しつつ、アウルムは見つからないように足音も無く姿を消した。
今彼らが此処にいるなら、一度リリウムに戻りジークに報告するべきだと判じ、方角は自然とリリウムに向かっていた。
リリウムに戻り報告を聞いたジークの表情は、その進捗状況とは反比例して深く眉間に皺を寄せた渋面であった。黒羽の犯行現場の位置、そしてそこから導き出される不連続性の棲家。その殆どがスラムに集中していると分かったなら、そう長く時間を掛けずに事件は収束に向かう筈なのだ。
幸先のいい出だしに不安要素でもあるのだろうか、依然として良い顔を見せないジークを不審に思ったアウルムは、紫煙が充満する室内で壁に背中を預け彼を見据えた。
「景気の悪い面だな。なにかよからぬ事でも起きたのか?」
「……昔からお前のファンだった奴が、一連の事件をお前の犯行だと声高に吹聴し始めてな」
吐き捨てるようにそう言ったジークは、葉巻に口を付けた。黒羽に組織を動員している隙に、完全に不意を突かれたジークの表情は芳しくない。思わぬ横槍に、アウルムですらその驚愕に眉を顰めたほどだ。
「昔から…………ベルナドの奴か」
「あの野郎、こっちの部下にも被害が出ているのも承知で吹っかけてきやがった。鎖に繋げられないバケモノを飼っているのが悪いと、お前の事を――ッ!」
「熱くなるなお頭。《風錆》と喧嘩するのは良いが、黒羽って奴を追ってるいま、どっちにも背中は見せられない」
「わかってる、それぐらい……言われなくてもわかってるよ。黒羽を見逃すのは簡単だ、奴は俺たち自体を敵と定めて殺しをやってる訳じゃない。だが、縄張りでこれ以上死人が出るのも拙い。住民の不安を刈り取れないんじゃ、その綻びをベルナドに付け込まれる」
だからといって黒羽に固視すれば、ベルナドの虚言を黙認する事になってしまう。これ以上に無いほどのタイミングの悪さだった。
若い手下の数で劣る《不蝕金鎖》が真っ向から《風錆》と面を突き合わせるのは愚策だ。計算高いベルナドであれば、それを予期した上で更なる策で彼らを翻弄するだろう。金と力に物を言わせて。
これまでベルナドの敵対が脅威に値すると判じていたアウルムも、彼にとって黒羽が幸運を告げる天使さまのようであるのだろうと思うと、何故もっと早くに彼を始末しなかったのかという忸怩たる思いでいっぱいだった。
「今からでも遅くない、ベルナドの奴を殺すか?」
「それをすれば、奴の言葉が暗に真実だと言っているようなもんだ。ここで誘いに乗れば、一気に攻め込まれる」
「そうか。なら……」
言いさしてアウルムは煙草を燻らし、刃物のような鋭い目つきをお頭に向けた。果たして彼が、己を使役するに相応しい器を持っているのかを、さも烏滸がましく推し量るように。
対してジークは、決然と葉巻の火を消し潰し面を上げた。
「ベルナドの言葉を虚言だというだけの証拠である、黒羽を一刻も早く見つけなくちゃならない。――それが例え、死体だろうと」
唯一ベルナドの放言をすり抜けるとしたら、それしかないとアウルムも考えていた。彼じゃないという証拠はなくとも、確証は在るのだ。ならば残る証拠さえ手にすれば、不蝕金鎖の窮地は一転して風錆の窮地へと立ち替わる。虚言を弄してまでの言いがかりが、逆に風錆を叩く大義名分としての意味合いにまで上り詰めるのだ。
いまは雌伏の時。アウルムを見捨てる判断をしない限り、ジークは時が至るのを敢然と待ち続けるしかない。
ひとまず今日の捜査はこれで打ち切りになった。スラムが怪しいと分かったなら、羽狩りとの歩調を合わせる為にさりげなく情報をばら撒かなくてはならない。アウルムの有用性を秘匿している以上、カイムが介入しないと羽狩りとの情報を合わせるのも難しい。
なんにせよ、いますぐに事件が解決とはいかない。
優位に運ぶための隠し玉たるアウルムが、よもや弱点として流用されるとは本人も思っても見ず、しかしその胸中に怒りも焦りも存在しなかった。
※
牢獄のとある一角に構える家屋内で、金に物言わせた豪奢な椅子に座り、これまた高価なブドウ酒を注いだ酒杯を弄ぶ男がいた。アッシュブロンドの髪を後ろに流し、燦然と輝く黄金の指輪や首飾りを身に纏い、その口元は優雅さとは程遠い下賤な笑みに歪んでいた。
ジークフリード・グラードが束ねる組織《不蝕金鎖》と対を成す《風錆》のボス『ベルナド・ストラウフ』が、その男の名であった。
過去に不蝕金鎖で福頭の地位に即位していた男であるが、先代がジークを次代の頭に任命した時から五年後に離反。組織の若い衆の殆どを引き抜いて、今の風錆を立ち上げた男である。
不蝕金鎖の次代頭を信じてやまなかったベルナドは、それがポッと出のジークに――ボルツの息子というだけで――簒奪されたのが許せなかった。故に、その怒りは正当性を説き、正当なる鉄槌によって敵を芥子粒になるまで磨り潰すのも当然。
今頃、彼が流した噂を耳にしたジークの渋面を思い浮かべ、口腔内に満たされたブドウ酒の味が格段に上がるのに舌鼓を打っていると、彼しか居ない一室の扉が開いた。
「これはまた、今夜は随分とご機嫌だね。そんなに他人の不幸を肴に飲む酒は美味いのかい?」
「ガウか……当然だろ。あのジークの苦悩に歪む顔に思いを馳せるだけでも、安酒が希少価値を持った酒に豹変する。それが高級な酒なら、それはもう胸が空く思いだ」
愉悦に至る道程に満足しているベルナドを、悠然と微笑する訪問者は、鳩羽鼠色の長外套を着こんだガウだった。彼女の存在が、ベルナドに天啓をもたらしたのだ。
黒羽による一連の事件が浮彫になった頃に、彼女は現れた。過去に牢獄で暗殺者として名を馳せていたガウがベルナドの前に現れ、しかも新製品の麻薬とのパイプを土産に風錆への加入を提案してきたのは、ベルナドからすれば、思ってもみなかった僥倖と言えよう。
事実、彼女の加入によって麻薬を主にしたシノギは格段に上がり、元締めたる彼にも莫大な額の金が舞い込んできた。順風はこれに留まらず、黒羽の事件にまで好機の芽を与えてくれた。
「お前の言うとおり、この事件は俺にとっての追い風だ。あの厄介なアウルムを衆人を代表して排除する名目が出来たんだ、これ以上の好機、みすみす見逃す手も無い」
「せっかくあたしが提案してやった案なんだ、当然……あいつの相手はあたしがするからね」
「好きにしろ。人形みたいな冷めた目をしたあいつが、苦悶に歪み悲嘆の声を聞けるなら構わない」
そう、ガウの助言がなければベルナドはこの事件を静観し、来る不蝕金鎖との戦争の為の地盤作りをより磐石なものにするべく動いていた。しかし、どうあってもその過程でアウルムという暗殺者がベルナドの前に立ちはだかる。奴さえいなければ、この策は自力の差で風錆に勝利をもたらす筈なのに。
ベルナドが不蝕金鎖に居た頃からアウルムの活躍は見聞きしていた。その戦闘力の計算に狂いは無く、故にそれがベルナドの眼前に掲げられた勝利が霞む要因となっていた。
だが、ベルナドはガウによって強敵となる彼こそが、それ故に組織の弱点となるのを知らされた。彼の底力を秘匿しているジークに、いま牢獄を騒がせる殺人。これらの点を結び合わせれば、組織がひた隠していた暗部が明るみになる。
肝心のアウルムもまた、この狂犬じみた女を宛がえば防げる。それは以前、彼女に命じてアウルムにけしかけた結果によってわかっている。
「万事が上手く行けば、不蝕金鎖の崩壊も、時間の問題だ」
「ま、あたしにはそんな事興味ないけどね。アウルムともう一度ヤれるなら、文句なんかないよ」
惨酷に微笑む彼女がどうしてここまでアウルムに固執するのか、ベルナドには興味などない。ただアウルムが死ねば、彼の野望は目と鼻の先まで近づく。それならこの女の事情など斟酌する価値も無い石ころに等しい。
ジークがこの誘いに乗ってくれば、敵はこの妄言を認める事になる。もし無視し続けても、住民の不安を完全に拭い去るのは難しい。絶望に浸っている牢獄民は、目先に恨む対象が現れればそれを見過ごすほどの慈悲も余裕もない。攻撃をしない理由などありはしないのだ。
安全圏からじわじわと敵対勢力を絞め殺すのは、ベルナドとしても好みのやり口で、だからこそ余念がない。
「そう焦らずとも、いずれ奴とはやり合う事になる。いまはそれを励みにでもして、他の仕事にも精をだすんだな。
もしアウルムを殺せたなら、その時の報酬は弾もう」
「金なんかどうせもいいよ。あたしが欲しいのは、もっとイイ物なんだ。ふふ……あいつを想うと胸が熱くなるよ」
恍惚の笑みを浮かべ蛇のように舌なめずりをした彼女は、そう言い残して部屋を去った。アウルムの相手は自分がやると、それについて釘を刺しに来たのだろうガウを見送り、ベルナドは再び酒杯に視線を戻した。
血のように深い赤をした酒を眺め、酒杯を傾ける。口腔内に広がる歓喜の味と、細胞を決起させる酩酊感は、言いようもない快楽に身を窶しているようで笑みを浮かべずにはいられない。待ち望んだ時は、もうすぐ傍まで来ているのだ。
あの時に呑まされた煮え湯の味を、屈辱にまみれた味を忘れはしない。
先代の正妻の息子というだけでボスになったジークを、狗のように付き従う宝刀を背負いしアウルムを死に至らしめる事が出来るなら。きっとこのブドウ酒の味も、また更に格別なものへと変化を遂げよう。
波濤のように喉に押し寄せてきた哄笑に身を任せ、ベルナドは一目を憚る必要もなく高らかに笑い声をあげた。
廊下の向こう側から聞こえてくる哄笑を聞きながら、ガウは彼を嘲弄せずにはいられなかった。
「ふっ……つくづく小さい男だね」
己が劣等感に歪んだ男の声は、嘲るに値する滑稽なもの。不蝕金鎖の頭という地位に妄執の念を駆られるベルナドは、それゆえに自分を登用しなかった不蝕金鎖を憎悪し、敵対した。ガウからすれば、彼の行動は子供のダダでしかない。思い通りにならなかったから壊す、後悔を植え付ける、幾多の嘆きを経て殺すことでそれらを払拭しようとしているのだ。
なんと浅ましい、愚かな人間なんだろう。あんな男にさえ、生まれた意味は果たしてあるのだろうか。彼の大口を横一線に斬り裂けば、或いはその喉元から覗ける代物なのだろうか。
殺戮衝動に駆られ軋むナイフを自制しながら、ガウの口元が諧謔に歪む。
「まだだ、まだそれをするには早い。どうせ遅からず死ぬ男だ、いま殺したらアウルムとの再戦もパァになる」
ダークブラウンの風に靡く流麗な長髪。がらんどうのような最奥を覗かせぬ、どこまでも仄暗い瞳。殺しに快楽を求めず、どこまでも意味を求め続ける口元は横一文字で結ばれ、にも拘らずガウに比肩する力量を持つ男。ガウと同じ命題を掲げし暗殺者。
これだけの条件に合致する男はもう現れないだろう。だからこそ、めぐり合わせてくれたベルナドには感謝の意もある。もし手ずから殺すような事があれば、快楽の渦に溺れたまま殺すのも悪くないとさえ思う程。
思い出すだけでも彼女の下腹部が熱くなる。神代の宝刀とまで言わす刀を振りかざし、それに溺れることなくあらゆる殺しに長けた手腕。
挨拶代りに不意打ちで投擲した毒を塗ったナイフを、なんの逡巡も無く避けるのではなく、刃に触れずに柄を持ち投げ返す潔さ。相手の真理を逆手に取るような鮮やかな奇襲。用心を重ねた装備の数々は、多様性を見せガウを魅了した。
“あいつを殺せば、もしかしたら教えてくれるかもしれない”
アウルムの生に意味の兆しを見出したガウは、もう止まらない。四六時中彼の事を思い、考え、また想う。これを恋と称するにはあまりにも物騒な執着は、アウルムが死ぬまで解けぬだろう。
もし彼の弱点たるモノを発見すれば、それを衝くのにもなんら思い悩む事もないだろう。
何処までも深い牢獄の夜、ベルナド邸を後にしたガウは、己が居るべき闇へと霧のように消えて行った。