霓虹(ネオン)が雨に滲む路地裏。
空を覆う巨大なホログラム看板は、極彩色の光を撒き散らし、最適化された「情緒」を虚ろに垂れ流していた。
この八百八町サイバーシティにおいて、言葉はすでに死に絶えていた。
空を流れる電子掲示板には、一秒間に数万もの「完璧な俳句」が浮かんでは消える。
超高性能AIが気象と情動を読み解き、一寸の狂いもない平仄(ひょうそく)で綴り成す五・七・五。それは美しくあれど、限りなく空虚な記号の羅列にすぎなんだ。
「……雨の夜に、無粋なものよ」
路地の闇より、低く、鈴の音を孕んだような声が響く。
そこに座していたのは、時代の潮流から切り離されたような、奇妙な風体の女であった。
袖をばっさりと切り落とした改造着物。
腰には帯を厳しく締めながらも、足元は地下足袋にわらじを履けり。
背負っているのは、鈍い光を放つ巨大な矢立(やたて)なり。
それは筆記具というよりは、無骨な断頭台のようにも見ゆ。
彼女の名は、句島雅(くしま みやび)。
この技術の極致にある都市を、ただ「一句」のために彷徨う流浪の俳諧師──バトルハイカーなり。
「止まれ、流浪のユニット。あなたの歩行パターンは都市の美観指数を著しく低下させている」
路地を塞いで現れたのは、治安維持局の言葉狩り(ログ・ハンター)ドロイドなり。
その網膜には常に最新のトレンド句が投影され、雅のような「無秩序な言葉」を吐く存在を排除せんとしていた。
「美観? ……笑止」
雅は静かに、背中の矢立を引き抜いた。
彼女はデジタルデバイスを一切持たぬ。
情報の海に繋がることもなく、ただその場の景色、風の湿り気、ネオンの死臭、己が五感のすべてを吸い込み、言葉を研ぎ澄ましてゆくなり。
雅はゆるりと、墨を磨り始めたり。
デジタル全盛のこの世において、墨の香は異質なノイズとして大気を震わせる。ドロイドのセンサーが赤く点滅し、警告音を発した。
「演算終了。あなたに存在意義はなし。次の一句をもって、その論理回路を初期化する──」
ドロイドが内蔵AIによって「必殺の絶唱」を生成しようとした、その刹那。
雅の眼光が、鋭い刃となって虚空を貫いた。
彼女は準備していた句など一切持たぬ。
ただ、この瞬間の「雨」と「鉄」の衝突を、魂ごと紙に叩きつけるなり。
ギャリィィィン!
大気を引き裂く音が響いた。雅が矢立の筆を一閃させたのだ。
放たれたのは、電脳の世界を沈黙させる重低音の十七音。
「──ネオン雨、錆びた回路に、花は咲かず」
瞬間。
ドロイドが生成しようとしていた電子の句が、物理的な圧力に押されるように霧散せり。
雅の一句は単なる文芸にあらず。
それは都市のネットワークそのものに干渉し、強制的に沈黙を強いる「言葉の刃」であった。
ドロイドの駆動音が止まった。
火花を散らし、最新鋭のAIは物言わぬ器へと成り果てたり。
雅のアナログな一撃が、高度な演算を完膚なきまでに打ち破ったのだ。
「……整いもしない」
雅は無造作に結い上げた髪に筆を挿し戻し、一歩、わらじを鳴らして歩み出す。
背後には、動かぬドロイドがゴミのように転がっていた。
ここは言葉が安売りされる時代。
だが、この女の通る道には、真実の響きだけが刻まれてゆく。
旅の始まり。なぎ倒すべきは、この空を覆う欺瞞のすべてであった。
バトルハイカー雅。
その言葉の刃に、斬れぬものなどあるべからず。