八百八町サイバーシティの地下深く。
霓虹(ネオン)の光さえ届かぬ廃地下鉄の構内は、今や「句賭け(バース・ギャンブル)」の熱狂に包まれる闇興行の場と化していたり 。
宙を舞う無数のARウィンドウには、観客たちの電子的な罵声と、賭け率を示す数字が激しく明滅せり。
「さあさあ、次は誰だ! この俺、電子詠み師・吟野孫平(ぎんのまごへい)の連勝記録を止める奴はいないのか!」
舞台の上で吠える男は、二十代前半のくたびれたパーカーを羽織り、足元にだけは不釣り合いなほど新品のスニーカーを輝かせていた 。
耳と目には最新のARデバイス、首からは高性能な音声入力マイクを下げ、彼は「勝利の味」に酔い痴れていたなり。
対する挑戦者の席に、一人の女が静かに歩み寄れり。
「……あたしがやろう」
改造着物の袖を翻し、わらじの音を響かせて現れた雅に、場内は一瞬の静寂の後に嘲笑の渦へと変わったなり。
背負える巨大な矢立は、このハイテクな賭場においてあまりに前時代的な遺物に見ゆ 。
「おいおい、そんな骨董品で何をしようってんだ? 紙と筆? 冗談だろ!」
孫平は鼻で笑い、即座にマイクへ向かって「詠唱」を開始せり 。
彼の脳内チップと接続されたAIが、瞬時に最適解を弾き出す。
「――電子の波、砕けて散るは、光の塵(ちり)」
孫平の音声入力と同時に、ARの巨大な文字が空間を圧するように出現したなり。
それは完璧なリズム、完璧な音節。
観客たちはその「正しさ」に喝采を送れり。
対する雅は、ただ静かに背中の矢立を引き抜いたり。
雅は孫平の放った電子の句を見上げることさえせず、ただその場の「空気の澱み」と「人々の欲」を、その五感で吸い込みぬ。
「……整いなし」
雅が筆を走らせる。
墨を磨るその微かな音さえ、この喧騒の中では異質な存在感を放てり 。
ギャリィィィン!
重厚なる濁音を伴い、雅の放った一句が空間を物理的に圧迫せり。
それは孫平のAIが予測し得なかった「揺らぎ」を孕んだ一撃なり 。
「――欲の風、鉄の骸(むくろ)に、吹き抜ける」
瞬間。
空間に浮かんでいた孫平の「光の塵」の文字が、雅の放った墨の圧力に耐えかね、ガラスのように砕け散ったなり。
孫平のARデバイスが激しい火花を散らし、彼の視界からすべてのデジタル情報が消失せり。
「な、なんだ……!? 俺のAIが、計算を停止しただと!?」
孫平は狼狽え、空を掴もうと手を伸ばしたり 。
雅の一句は、掛詞や多義性が複雑に絡み合い、機械には処理不可能な「余白」を突きつけていたなり 。
勝負は決した。
静まり返った賭場の中で、雅は無造作に懐から出した紙を叩きつけ、賞金の電子マネーがチャージされたチップを回収せり 。「……あんたの言葉、中身が空っぽだよ」雅が背を向け、立ち去ろうとしたその時なり。 崩れ落ちた孫平が、ARデバイスをむしり取り、地べたに這いつくばりながら声を絞り出したり。「……待て。……俺は、まだ……」 孫平の喉から、機械を通さない生身の声が漏れり。
彼は生活のために、賞金のために、AIに魂を売って句を詠み続けてきた男なり 。
だが、雅の圧倒的な熱量に触れ、彼の心の奥底に眠っていた「何か」が震えたのである。
「……悔しい、んだよ……っ!」
それは、五・七・五の形ですらない、ただの、剥き出しの言葉であったなり 。
だが、その一言には、先ほどまでの「完璧な句」には無かった、確かな重みが宿っていたり。
雅は歩みを止めず、だが、わずかに口角を上げて呟けり。
「……その一言だけは、本物だね」
彼女はそのまま、わらじの音を響かせ、闇の奥へと消えてゆくなり。
その背後、観客席の片隅で、一人の老女が鋭い眼光を光らせていたなり。
吟遊商人にして鈴音要(すずね かなめ)。
彼女は雅の背中を見つめ、静かに独り言を漏らしたり。
「……面白いね。あの揺らぎ」
……
その視線の遥か後方、出口近くの暗がりに、場違いなほど無骨なドロイドが一体、微動だにせず佇んでいたなり。
観客でも警備でもない。ただそこに在るだけの、名もなき鉄の残骸。
その眼窩に灯る薄い光だけが、雅の消えた闇をじっと追っていたり。
雅の旅は始まったばかりなり。
かの者の歩む道に、果たして何が待ち受けり。
バトルハイカー雅。
彼女の筆が、この街の欺瞞を一つ、また一つと暴いてゆくのである。