辺境惑星召喚――コロニストたちの異世界漂流記 作:ホゲフガ
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**第3章 第9話:海図の向こう側**
**1.海を知らない大国**
グラ・バルカス帝国の首都、ラグナ。
皇帝グラ・ルークスの執務室の長机には、転移直後に作成された不完全な「世界海図」が広げられ、海軍と外務省の幹部たちが額を突き合わせていた。
「周辺海域の調査は、急務中の急務です」
海軍大将が、地図の広大な空白部分を指差して重々しく言った。
「現在、我が帝国海軍は世界有数の規模を誇る大艦隊を保有しておりますが……恥ずかしながら、我々は『この世界の海をまったく知らない』のです」
それが、転移した異邦国家の抱える最も致命的な弱点だった。
自国周辺の海域情報がない。安全な航路が分からない。海底地形も、海流も、燃料補給が可能な場所も、周辺国の海軍基地の位置も不明。
高度な天測航法や航海技術そのものは失っていないが、自分たちの前世界の精緻な航海図は、この世界では少しの安全も保証してくれない。
「どこを航行すれば暗礁に座礁しないのかすら分からない」という状態では、どれほど強力な艦艇群も本来の力を発揮できず、身動きが取れないのだ。
「海洋調査船や測量船を大量に動かせばよいのではないか?」
ルークスが問う。
「民間・軍を問わず、専門の測量船の数は限られています。現在の慢性的な燃料不足を鑑みれば、効率を優先せざるを得ません。したがって、既存の軍艦に測量機材を積み込み、周辺国の哨戒を兼ねて海域の調査を行いたいと具申します」
グラ・ルークスは、少し考えた後、その合理的な提案を了承した。
「よかろう。ただし、周辺国に無用な警戒を抱かせるな。特に、先日の外交交渉でひとまず衝突を回避した『レイフォル』の近海では細心の注意を払え。今は、戦争をしている場合ではない」
皇帝の意思は明確だった。侵略ではなく、生存のための情報収集。
だが、この「グラ・バルカス側の合理的な通常業務」が、他国の目にどう映るかを、彼らはまだ完全に理解していなかった。
**2.軍艦による測量**
数日後。第二文明圏の西端、列強レイフォルの西部周辺海域。
グラ・バルカス海軍の小規模な艦隊(重巡洋艦一隻、駆逐艦二隻)が、一定の速度で海原を進んでいた。
戦艦を派遣して過度な警戒を招くことを避けつつ、偵察と測量をこなせる護衛付きの小艦隊。彼らの目的はあくまで「航路調査」である。
水深測定、海流調査、沿岸線の測量。後部甲板からは観測機器が降ろされ、乗員たちは真面目に海図の作成業務に従事していた。グラ・バルカス側からすれば、完全に合理的で平和的な任務である。
ところが、その艦影を遠方から捉えたレイフォル側の沿岸監視所は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「国籍不明の巨大な軍艦三隻が、我が国の近海を一定速度で航行中!」
「針路は?」
「沿岸部に沿って移動しています! まだ距離はありますが、こちらの沿岸要塞砲の射程内に入るのも時間の問題です!」
レイフォル側から見れば、それは「国力も、軍事力も、目的も不明な巨大な外国艦隊が、自国近海を堂々と練り歩いている」という不気味極まりない光景だった。
こちらから撃つことはできる。しかし、向こうから撃ち返されたらどうなるか分からない。
報告は直ちに王都へ上げられ、レイフォル軍の上層部は警戒態勢を引き上げた。
「沿岸への上陸、あるいは艦砲射撃のための下調べではないのか?」
レイフォルの軍務卿ローレルが、険しい顔で地図を睨む。
しかし、宰相のゴードンが冷静に指摘した。
「もし本気で奇襲や攻撃を企図しているのなら、あまりにも堂々としすぎている。先日のパガンダでの交渉で、彼らが無闇な戦争を望んでいないことは確認できている。……警戒はせよ。しかし、こちらから先制攻撃を仕掛けるな。まずは監視だ」
**3.最初の海上接触**
ゴードンの指示により、レイフォル海軍は偵察機を発進させた。
魔導エンジンを搭載した、レイフォル海軍航空隊が実戦配備したばかりの新型『複葉水上偵察機』である。
――「上空に機影!」
グラ・バルカス艦隊の旗艦(重巡洋艦)の艦橋。見張り員の鋭い声が響く。
「距離は?」
「目視ではまだ……レーダーに感あり。急速に接近してきます!」
人間の目では点にすら見えない距離で、グラ・バルカスの対空レーダーはすでに接近する物体の速度と高度を正確に捉えていた。
「対空戦闘よーい」
艦長が冷静に命じる。警報が鳴り響き、各砲座の高角砲と対空機銃が一斉に目標の方角へ指向される。
やがて雲間から姿を現した機影を双眼鏡で覗き込んだ艦長の目が、驚きにわずかに見開かれた。
「……航空機だ」
グラ・バルカス側も、外交で得られた断片的な情報から「地域によって大きな技術格差が存在する」ことは知っていた。だが、これまでの情報では、異世界人が航空機を実用的な兵器として運用しているという確たる報告はなかった。
「機種は?」
「プロペラ機……布張りの複葉機程度です。速度は遅い。我が軍の旧式機にも及びません」
艦長は少し安堵した。技術的優位はこちらにある。
しかし同時に、「この世界は我々が思っていたほど原始的ではない。空を飛ぶ技術を持っているのだ」という新たな認識が生まれた。グラ・バルカスは、決して異世界人を侮ることはなかった。
「こちらから攻撃する必要はない。こちらの行動を監視しているのだろう」
艦長は、対空砲の照準を合わせたまま、射撃は命じなかった。
「第一警戒線を越えて接近した場合のみ警告を発する。武装の使用は禁止だ。……好きに監視させておけ。記録には残しておけよ。『レイフォルの航空機を初確認』と」
それは、ただ撃たなかったのではなく、「撃たないための明確な交戦規則(ROE)」を踏んだ危機管理だった。
**4.すれ違う評価**
一方、レイフォル側の偵察機もまた、上空からグラ・バルカス艦隊を舐め回すように監視していた。
(……あれが、グラ・バルカスの軍艦か。なんて大きさだ)
偵察機のパイロットは、魔導カメラのシャッターを切りながら戦慄していた。
レイフォルの持つ一五インチ砲を搭載した『魔導戦艦』も十分に強大だが、眼下の艦艇は根本的に異なっていた。
「砲塔の配置が洗練されている。艦橋構造が異常に巨大で複雑だ。……それに、ハリネズミのような対空火器の数が尋常じゃない。船体の工業的な均一性も高すぎる」
パイロットは、帰還後に詳細な報告を上げるための観察を続けた。
この時点では、レイフォルはまだ「電子戦」や「レーダー」「ミサイル」の存在を理解できない。しかし、あの艦が自分たちの想定していた魔法文明の戦艦とは根本的に異なる技術体系の上に成立していることだけは、専門家としての直感で理解できた。
数時間後。
レイフォル側から、グラ・バルカス帝国に対して正式な外交書簡が送られた。
『貴国艦隊が我が国近海を航行していることを確認した。今後、領海内またはその近接海域を航行する場合は、事前通告を求める』
レイフォル側も、極めて慎重だった。
「領海侵犯だ!」と激しく糾弾するのではなく、あくまで「我々は警戒・監視している」という外交的な警告(メッセージ)に留めたのだ。
グラ・バルカス側からの返答も、
『了解した。以後注意する。本件は単純な海洋・航路調査である』
という、極めて事務的なものだった。
結果として、今回も戦争にはならなかった。
しかし、この小さな海上接触が、両国の『相手の意図』に対する評価を少しずつ変えていくことになる。
**5.情報分析**
グラ・バルカスの首都ラグナ。
戦略情報局長官のアルダーが、皇帝グラ・ルークスに報告を行っていた。
「レイフォルは我々の艦隊を警戒し、偵察機まで飛ばしてきました。しかし、警告に留め、現時点で攻撃意思は認められません」
「ゴードンとの交渉結果とも一致しますね。彼らも無用な摩擦は避けたいのでしょう」
外務大臣のルナンが頷く。
「ならば、こちらもこれ以上は刺激しないことだ」
グラ・ルークスは、戦争回避の姿勢を再確認した。
だが、アルダーが一つ、決定的な問題を指摘した。
「……しかし陛下。レイフォルは軍艦を見ても、我々の『真の戦力』を知りません。我々もまた、あの複葉機の背後にどれほどの軍事力が隠されているのか、レイフォルの全力を知りません」
アルダーは、冷徹な目で海図を見つめた。
「双方とも、乏しい情報から『相手の意図を推測するしかない』状況です。これは、極めて危ういバランスです」
――同じ頃、レイフォルの王都レイフォリア。
宰相ゴードンもまた、国王ヒューエル一世に偵察報告を上げていた。
「グラ・バルカスは、我々の警告に素直に応じました。艦隊もすでに当海域から離脱しています」
「やはり、彼らも戦争を望んでいるわけではないのだな」
「はい。パガンダの件と同様、彼らは外交的対話が成立する国家です」
ヒューエル一世は安堵し、「ならば、こちらも不用意に刺激してはならない」と判断した。ここでも、平和が維持されるかに見えた。
しかし、軍務卿ローレルが厳重に釘を刺した。
「それでも、国境と海軍の軍備を最大限に整えておくべきでしょう。相手の真の目的が分からない以上、備えは必須です」
「当然だ。戦争を望まないことと、戦争への備えを怠ることは別だからな」
ヒューエル一世も、軍務卿の意見を当然の国防論として肯定した。
**6.まだ、何も起きていない**
グラ・バルカス側には、「レイフォルはパガンダを保護する(自分たちの敵を庇う)国家だ」という認識が底流に流れている。
レイフォル側には、「グラ・バルカスはパガンダ問題を外交的に解決できる(理性的な)国家だ」という認識がある。
両国とも、『相手は話し合いのできる国家だ』と信じていた。
だからこそ、「こちらの警告や軍備増強の意図も、当然理解するだろう」と期待してしまった。
自らの行動を「平和のための防衛的措置」だと信じ、相手の同じ行動を「不穏な軍事的威嚇」だと受け取る。その認識のズレが、静かに限界点へと向かっていることに、双方はまだ気づいていなかった。
夕暮れ。
グラ・バルカス艦隊が航路調査を終え、母港へと帰投していく。
レイフォルの複葉偵察機も、無事に基地へ着陸した。
この日、グラ・バルカス帝国とレイフォルの間で、砲火は交わされなかった。
外交官も死ななかった。新たな条約が破棄されたわけでもなかった。
その日の時点では、外交的にも軍事的にも「成功」だった。
それでも、双方の海図には新たな情報が一つずつ書き加えられた。
グラ・バルカスの海図には、レイフォルの航空機。
レイフォルの海図には、グラ・バルカスの軍艦。
それだけだった。
だが、情報とは、互いの意図を知らない者たちにとっては、それだけで十分に不気味なものだった。
この時点では誰も、その小さな情報の一つ一つが、やがて取り返しのつかない大戦争の火種になるとは知らなかった。