「乙姫様」
太郎が乙姫を呼び止めた。
それは、
「そろそろ、家に帰ろうと思っています」
「あら、もっとゆっくりされればよろしいのに」
残念そうに、乙姫は言った。
「いえ、もう十分にもてなしていただきました。それに、家には年老いた両親もいます。そろそろ帰らねばなりません」
「そうですか。それでは仕方ありませんね。では、せめて最後に一晩だけ、泊っていかれませんか?」
「え……でも……」
「あなたを送り届ける亀に用事がございまして、明日には太郎様をお送りできるはずですので」
「そうですか……。では、最後に一晩だけお世話になります」
「というわけで、太郎様は明日お帰りになります。今夜が最後のおもてなしとなるので、各自、最後まで気を抜かず、誠心誠意尽くすように」
乙姫の言葉に、集められた海の生き物たちはほっとしていた。
今日で、今日さえ乗り切れば、なんとかなる。
あの恐怖がもうすぐ終わる。
「そして、最後の主役ですが—――」
乙姫の言葉に、緩んだ空気が一気に張り詰める。
どうか自分ではありませんように。
この中の誰もが、同じ気持ちで祈っていた。
「
全員がほっとする。
鮟鱇には悪いが、これで終わる。
昨日とは打って変わり、皆穏やかな気持ちで解散した。
乙姫は調理場に入った。
奥に進むと、そこに鮟鱇がいる。
互いの目が合った。
天井から伸びる
「お、おゆ、るし、を……乙姫、さま……」
鮟鱇はやってきた乙姫に許しを請うが、当の乙姫は意に介す様子はない。
「許す、ですって?」
乙姫は表情こそ変えないが、不機嫌であることだけは伝わった。
「役目も果たせない無能を許せるわけがないでしょう」
乙姫は隣に置かれた
「あなた、
「がぶおぶ―――」
言いながら、鮟鱇の口の中に水を流し込む。
「おまけに自分は何も見ていないと嘘をついた」
「がばげぼ―――」
一度だけでなく、再度瓶から水を掬《すく》って流し込む。
「バレないとでも思ったのですか?」
「ばべおぶごば―――」
更に水を流し込む。
「色香に惑わされましたか?見返りはなんでした?」
「げぼがばぼ―――」
何度も何度も。
「見返りに奉仕でもされましたか」
「げぶ、ごばごぶ―――」
ただでさえ自重で垂れ下がった柔らかな体が、大量の水のせいで張っていった。
「そのような無能、わたくしの許《もと》には不要です」
乙姫は柄杓を置くと、右手を包丁に持ち替える。
「ひっ、お、おやめくだ—――」
包丁が、鮟鱇の上顎付近に当てられる。
「い、いづぁ—――――」
刃が、顎に沿って入っていき、下顎まで一周回る。
その間、鮟鱇は痛みを訴えるが、乙姫の手が止まることはない。
「せめて—――」
乙姫は一度包丁を下す。
そして、顎の皮の切れ目に両腕を突っ込み、
「太郎様の舌を楽しませることで、その罪を償いをなさい」
力づくで、腕を下に下ろし、
「ぎぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
鮟鱇の生皮を一気に剥ぎ取り、その内の白い身を露出させた。
調理場から発せられるこの世のものとは思えない絶叫に、隣接する通路を通った者たちは身震いした。
中では一体何が行われているのか。
気になるが、しかし知りたくもない。
むしろ、ここ数日の悪夢から早く解放されたくて、最後の生贄になる鮟鱇に少しばかりの同情と感謝を思うと同時、自分でなくてよかったという安堵の気持ちを抱きながら、調理場から少しでも離れようと足早に去っていく。
「よいっしょ」
「ごあ、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「次はこっちも」
「ふぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
肝臓が抉られ、
剥き出しの眼球が乙姫を睨むが、乙姫は嬉々とした表情で包丁を入れていき、見る見るうちに鮟鱇は『吊るされた白い塊』へと変わっていく。
心臓が切り落とされる。
胃が切断される。昨日から絶食させたお陰で中身はない。
腸が引きずり出される。まだ中身が残っているが、どうせここも後で塩磨きするし、と乙姫は呟く。
胸周りの肉が切り落とされる。
サッ、サッ、と骨から身を削いでいく。
背骨に沿って、太い身が切り落とされる。
いつの間にか悲鳴も苦悶の声も聞こえなくなり、とうとう頭と背骨だけになった。
乙姫の手は鮟鱇の目に添えられ—――
刃が入り、眼球が切り落とされた。
次いで顔に包丁が刺さり、頬肉が切り落とされ、
下顎周りの肉も裂かれ、
もう、頭すら原形を留めなくなった。
頭と背骨の間にも包丁が入り、背骨が寸断される。
ついさっきまで絶叫を上げていた鮟鱇は、もう両顎しか残されていなかった。
* * *
そして、最後となる宴の席では―――
「今宵は鍋でございます」
乙姫は鍋の蓋を開け、湯気を上げる中身をよそう。
鍋の中には身だけでなく、皮や肝、
「ありがとうございます」
太郎は取り分けられた取り皿を受け取り、竜宮城最後の夕食を楽しむ。
今日は
「どうぞ」
「ありがとうございます。……え!?」
四度目の取り皿を受け取った太郎は、驚いた。
「どういたしました?」
取り皿の中で大きな目が浮き上がった。
そして、周囲をぐるりと見まわし、太郎の方を向いた―――気がした。
「いや……」
周囲を見回したように見えたのは、浮き上がった拍子に揺れただけに過ぎない。
太郎はそう思って、構わずアンコウ鍋に舌鼓を打った。