遠くからキジバトの鳴く声が聞こえた。高級マンションの最上階に住んでいても鳥たちは逞しく、人間では到底、辿り着けない高さまで飛び、ベランダにでも侵入しているのかもしれない。
『――は』
そんないつもの朝に心地よい、誰かの声が聞こえてきた。ついこの間まで一緒に暮らしていた悪童ではない。あいつは私よりも早く起きて朝食を用意した後、どたどたと足音を立てて私の部屋へ侵入。そして、『彩葉!』とこっちが寝ているのもお構いなしに叩き起こすのだ。
でも、あの子――かぐやはもういない。この前の満月の日に月へ帰ってしまった。止められなかったのだから。
「ん……」
その時、ピピピと私の眠りを妨げるアラーム音が一つ。いつもの私ならどんなに眠たくても鋼の精神で起き上がり、アラームを止める。
(駄目、力でない……)
しかし、今日の私はどこかおかしい。どんなに起きようとしても体の言うことが効かない。まるで、何日も寝ずに勉強して、バイトして、限界はとっくの昔に超えているのに模試があるからとエナドリをがぶ飲みして頭に知識を叩き込んだ時のような疲労感。
『――ろは』
もう一度、心地よい声。誰だろう。ううん、私は知っている。この声を何度も聞いたはずだ。何度も、何度も、何度も。でも、その声はいつだって楽しそうだった。こんな風に私だけに優しく語りかけるような声ではなかった。
『起きて、彩葉』
「んー?」
心地よい声が私の名前を呼んだ。はて? どうして、この声の主は私を知っているのだろう。未だに浮上しきらない意識では正常に頭が働かず、ただ揺蕩う意識に身を任せながら機微を傾げるしかなかった。
『もー、あんなに無茶したせいだよ』
「むにゃ?」
『無茶!』
無茶。私は何かしたのだろうか。かぐやが月に帰って、彼女が来る前の日常を受け入れようとして、どうしても受け入れられなくて、かぐやのために曲を作って、歌って――それでヤチヨに――。
「ッ!!」
そこまで思い出した私は寝ている時に冷や水を顔面に叩きつけられたような衝撃を受け、勢いよく起き上がった。目の前に広がるのは変わっていないはずなのにどこか広く感じる自室の壁。ただの女子高校生が住むにはあまりに敷居の高い高級マンションの最上階。家賃35万なり。
「ぁ、れ……」
起き上がったのはいいが、それでも頭はまだ上手く働いていないようで今の状況を飲み込めない。自室で寝て、起きただけなのにどうして私はこんなに混乱しているのだろうか。何故、自室で起きたのが何千年ぶりに感じるのだろうか。
『あ、やっと起きた! 彩葉、おはよー!』
「え?」
その声が左側――机の方から聞こえてきた。私以外の人は住んでいない部屋で第三者の声。思わず、ビクリと肩を震わせ、おそるおそるそちらへと視線を向けた。
『ん? どうしたの?』
そこには楽しそうに、愛おしい人を見るような慈愛の色が込められた瞳を私に向ける女神がタブレットの中にいた。白銀の髪をふりふりと振って『お~い?』とこちらの様子を確かめる彼女に私はしばしの間、見惚れてしまう。
『彩葉、もしかして具合悪い? やっぱり、昨日のことが――ッ』
茫然としていると女神――月見ヤチヨは心配そうな表情を浮かべてこちらへ手を伸ばそうとして何かに気づいたように体を硬直させた。
「な、んで……」
月見ヤチヨ。仮想空間『ツクヨミ』の管理人兼AIライバー。様々な配信やライブを行い、今や彼女を知らない人はいない、と言いたくなるほど私は彼女に救われた。生きていることに意味を見出せなかった私の手を取って、ここまで連れてきてくれた。
そんな私の推しがどうしてタブレットの中で、私の名前を呼んで、心配してくれたのだろう。こんな一般モブを――。
――ヤチヨは、かぐやなの?
「ッ……」
ふと蘇った自分自身の台詞に息を呑んだ。そうだ、思い出した。月に帰ったかぐやに歌を届けた後、私はヤチヨに会い、彼女こそ、月に帰った後、もう一度地球に戻ってきたかぐやなのだと知ったのだ。
「ヤチ、あ、いや、かぐ……」
寝ぼけた頭で咄嗟にヤチヨと言いそうになった私は慌ててその口をコントロールしてかぐやの名前を出そうとした。しかし、寝起きだったせいで上手く声が出せずに途切れてしまう。
だって、彼女はかぐやなのだ。地球に戻ってくる時、事故に遭って八千年前の地球に不時着。それからずっと、ずっと、孤独と戦いながら今日まで頑張ってここまで来た。それを知ったのが三日前。二日間、眠らずに彼女の話を聞き、FUSHIから八千年分の記憶を叩き込まれ、やりたいこと、私の夢を見つけた。
だから、私は上手く働かない頭のせいで迷ってしまった。彼女のことを『かぐや』と呼ぶか『ヤチヨ』と呼ぶか。だって、私にとって彼女は『かぐや』であり、『ヤチヨ』なのだ。おいそれと彼女をどう呼ぶか決められるわけがなかった。
『彩葉』
「ひょえッ!?」
そんな私を見て何かを察したのか、彼女は嬉しそうに微笑み、変な声が出てしまう。かぐやだと知っているがずっと私の推しだったのだ。そんな推しが私のためだけに笑ってくれた。それだけで私は顔が熱くなってしまう。
『私のことはヤチヨって呼んで』
「え、あ、いや、でも……」
『お願い』
「……わかった」
『ありがと』
私が頷いたのを見て彼女――ヤチヨは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑ってお礼を言った。それを見て私も思わず、笑みを浮かべてしまう。
「改めてよろしくね、ヤチヨ」
『こっちこそよろー!』
私――酒寄彩葉。高校二年生。この物語はヤチヨと共にハッピーエンドのその先へ辿り着くまでの十年を記録したものである。
『そういえば、彩葉。今日から学校行くんじゃなかった?』
「あ!? やばっ! 遅刻!」
そのはずなのだが、二日連続の徹夜+八千年の記憶を叩き込まれた体のダメージは予想以上に深刻だったようで私は慌てて朝の支度を始めた。
『もー、気を付けてね!』
そんな私を見てヤチヨはタブレットの中でケラケラと笑っていた。