原作後のお話。
月人の転生者の影響で、2041年の地球に不時着したかぐやの話。
なお、酒寄彩葉(28)は、現実世界に顕現させたかぐや型アバターボディとヤチヨ型アバターボディとよろしくやっているものとする。
かぐや「かぐやがいない間に、彩葉がかぐやと浮気したー!」

※輪廻は、転生者というバグの存在により機能しておりません。

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ちょっと前に書いてお蔵にしてたやつを息抜きに加筆修正。



01話_かぐや姫の帰還

味も温度もない世界だった。

白くて、灰色で、静かで、きれいで、何も変わらない。

 

目を閉じても、開いても、そこにあるものは同じだった。決められた通路。決められた部屋。決められた役割。決められた手順。誰かが終われば、誰かが始める。誰かが始めれば、誰かが終わる。そんなふうにして、月はずっと動いていた。

 

そこにいる月人たちも、みんな同じだった。

怒らない。笑わない。泣かない。迷わない。

ただ、自分に割り当てられた役割を、終わりなく繰り返す。

 

かぐやは、それを見るたびに思った。

やっぱり、ここは退屈だ。

退屈で、つまらなくて、息が詰まりそうで、けれど月人に息なんてものは必要ないのだから、息が詰まるという感覚すら、本当はここでは余計なものだった。

 

かぐやは月人だった。

月に帰ってきた以上、かぐやにも役割があった。

それをこなさなければならなかった。

 

竹取物語の結末みたいに。

月から迎えが来て、地球のことを忘れて、月へ帰る。

それが、決められたお話。

 

でも。

 

「……やだなー」

 

ぽつりと、かぐやは呟いた。

 

月の通路に声が溶けていく。誰も振り返らない。誰も不思議がらない。なぜなら月人たちは、かぐやが何かを言ったところで、それを気にするようにはできていないからだ。

だから、かぐやは少しだけ口を尖らせた。

 

「やっぱり、超バッドエンドじゃん」

 

地球で、彩葉に教えてもらったお話。

 

竹取物語。

月から来た女の子が、最後には月へ帰ってしまうお話。

 

あのときも、かぐやは思った。何がめでたいのか、全然わからない。月に帰って終わりなんて、全然ハッピーじゃない。彩葉と離れて、楽しいことも、おいしいものも、あったかい手も、全部置いていくなんて、そんなの絶対におかしい。

 

だから、かぐやは言ったのだ。

自分でハッピーエンドにする、と。

彩葉も一緒に、そこまで連れていく、と。

なのに。

 

かぐやは今、月にいた。

彩葉のいない月に。

役割だけがある月に。

 

その事実を考えると、胸の奥がぎゅうっと痛くなる気がした。

月人に心臓なんてないはずなのに。肉体なんて、ここにはないはずなのに。それでも、痛いものは痛かった。

 

彩葉に会いたい。

彩葉の声が聞きたい。

彩葉の作る曲が聴きたい。

彩葉に、名前を呼んでほしい。

彩葉に、もう一度、ぎゅってしてほしい。

 

そんなことを考えながら、かぐやは割り当てられた仕事を処理していた。月のシステムに溜まり続ける膨大な情報を整理し、異常値を検出し、定められた流れに戻していく。ひとつ終われば、またひとつ。終わっても終わっても、また次が現れる。

 

それは、ずっと続く。

永遠に。

そう思っていた。

 

けれど、ある日。

月に、歌が届いた。

 

最初は、ノイズかと思った。

ありえない信号だったからだ。

月の外から届くはずのない、地球からの音。

 

かぐやは役割を放り出して、その信号を追った。無機質な月の回路の奥に、細い細い糸のように引っかかっていた音。それを掴んだ瞬間、世界が変わった。

 

彩葉の歌だった。

彩葉の声だった。

かぐやの知っている、でも、少しだけ大人になったような声。

 

楽しいだけじゃない。寂しさも、怒りも、悔しさも、祈りも、全部詰め込んだみたいな歌だった。

 

かぐやは、しばらく動けなかった。

月の床にぺたりと座り込んで、何度も、何度も、その歌を聴いた。

月には味も温度もない。

けれど、その歌だけは、あたたかかった。

 

「……彩葉」

 

名前を呼んだら、返事があるような気がした。

 

あるはずがない。

 

それでも、そう思った。

だって、彩葉の歌は、かぐやに届いたのだから。

 

なら、かぐやだって、彩葉のところへ行けるはずだ。

竹取物語の結末が、月に帰って終わりなら。

その続きを、自分で作ればいい。

 

「よし」

 

かぐやは立ち上がった。

白と灰色だけの世界で、金色の髪がふわりと揺れた。

 

「かぐやちゃん、帰ります」

 

誰に宣言したわけでもなかった。

でも、かぐやの中では、それだけで十分だった。

 

彩葉に会いに行く。

 

そのために、月での役割を片づける。

全部、全部、終わらせて。

もう一度、地球へ行く。

彩葉のところへ帰る。

 

そう決めてからのかぐやは、月にいる誰よりも忙しかった。

 

仕事を片づけて、片づけて、片づけて、片づけて。

終わりなく湧いてくる役割に、真正面から突っ込んでいった。

 

「むむむむむ……!」

 

月の情報端末の前で、かぐやは唸っていた。

 

目の前には無数の処理待ちタスクが並んでいる。地球で言うなら、締め切り前の彩葉の作業画面みたいだった。いや、彩葉ならもっと綺麗に整理しているかもしれない。かぐやがやると、とりあえず全部力技で押し流す感じになる。

 

「こっち終わった! 次! これも終わった! 次! こっちは……なんかよくわかんないけど、たぶん終わった!」

 

月人たちは無反応だった。

 

けれど、ある日。

その無反応の月人たちの中で、ひとりだけ、かぐやの方を見ているものがいた。

 

テンニョ型の月人だった。

白く、無機質で、神仏を模したような異形の姿。月にいるなら別に珍しくもない。けれど、その月人は、他の月人と明らかに違っていた。

 

まず、姿勢が悪かった。

月人は基本的に無駄な動きをしない。立つときは立ち、進むときは進み、止まるときは止まる。それなのに、その月人は施設の壁にもたれかかり、まるでやる気のない地球人みたいに片手をひらひらさせていた。

 

次に、周りが散らかっていた。

月の施設はどこも整理され、無駄なものがない。なのに、そこだけは違った。用途不明のパーツ、曲がったケーブル、光る板、半透明の球体、謎の電子音を発する箱。月の一角に、誰かの趣味部屋が落ちてきたみたいだった。

 

そして何より。

その月人は、かぐやを見て、笑ったような気がした。

 

月人が笑う?

 

そんなの、変だ。あの子は、変だ。

だから、かぐやは近づいた。

 

「わたしはかぐや。あなたは?」

 

すると、その月人は少し首を傾げた。

 

「家具屋? 月人に家具職人なんていたんだ」

 

「ちっがーう! な ま え!」

 

「え? マジ? 月でかぐやって、じゃあ、あんたがかぐや姫ってこと?」

 

「ふふーん! そうだよー! どやぁ!」

 

かぐやは胸を張った。

月ではそんなことをしても誰も反応してくれないので、久しぶりのどや顔だった。

 

だが、テンニョ型の月人は一秒ほどかぐやを見てから、あっさり言った。

 

「全然見えねぇー」

 

「なにをー!?」

 

かぐやは思わず飛びかかった。

テンニョ型の月人はひょいと身をかわした。無駄に動きが軽い。ムカつく。

 

「かぐや姫だよ! 月から地球に行って、彩葉と会って、色々あって、超人気ライバーになって、ライブして、月に帰ってきた、かぐやちゃんだよ!」

 

「情報量、多」

 

「で、あなたは?」

 

「月人に名前なんてないっしょ」

 

「えー、じゃあ呼びにくいじゃん!」

 

「好きに呼んだら?」

 

「じゃあ……あの子!」

 

「目の前で三人称にされた」

 

あの子は、やっぱり変だった。

 

月人なのに、妙に地球人っぽい。

月人なのに、よく喋る。

月人なのに、かぐやの言葉に反応する。

月人なのに、退屈そうで、楽しそうだった。

 

だから、かぐやはすぐに気に入った。

 

それから、かぐやは暇を見つけては、その散らかった施設の一角へ通うようになった。

暇なんて本当はなかったけれど、彩葉に会いに行くための仕事ばかりしていると、たまに息抜きが必要になる。息はないけど、息抜きはいる。そういうものだ。

 

「あの子ー!」

 

「あっ、呼び名、それで固定なんすね」

 

「あの子が好きに呼べって言ったんじゃん」

 

「まあ、言いましたけど」

 

あの子はいつも何かを作っていた。

それが何なのか、かぐやには半分くらいしかわからなかった。いや、だいたいわからなかった。けれど、すごいものを作っていることだけはわかった。

 

あるときは、小さな月人のような群れを作っていた。

あるときは、液体金属みたいなものをこねていた。

あるときは、かぐやが地球で使っていたスマコンの話を聞きながら、目の前の空間に意味不明な図を何十枚も展開していた。

 

「それでねー、彩葉がねー」

 

「……あれ? 竹取物語って百合ラノベかなんかだったっけ?」

 

「らのべ?」

 

「いや、なんでもないっす」

 

あの子は、月人なのにやたらと地球の文化に詳しかった。

 

かぐやが地球の話をすると、妙なところにだけ食いつく。

 

彩葉と一緒に住んでいたことを話すと、頷く。

彩葉がご飯を作ってくれたことを話すと、頷く。

彩葉と一緒にツクヨミで活動したことを話すと、頷く。

彩葉に押し倒されたわけでも、押し倒したわけでもなく、普通に生活していたと言うと、なぜか「まだ助かる」と呟く。

 

よくわからない。

 

「ねぇ、キミって、もしかして地球に行ったことあるのー?」

 

「部分的にそう」

 

「真面目に答えるー!」

 

「前世地球人なんすわ」

 

「むー、言いたくないことなら、そう言ってよー?」

 

「言ってんじゃん」

 

かぐやは首を傾げた。

 

前世。

地球人。

月人なのに。

 

よくわからない言葉だった。けれど、あの子がよくわからないのは最初からなので、かぐやはあまり気にしないことにした。

 

月には、かぐや以外に面白い月人なんていないと思っていた。

でも、いた。

この子は、面白い。

 

少し面倒くさくて、少し口が悪くて、でも、話していると月の退屈が薄くなる。

かぐやは、あの子に彩葉の話をたくさんした。

 

彩葉が初めてオムライスを食べさせてくれたこと。

彩葉の部屋が狭かったこと。

彩葉がすぐお金の心配をしていたこと。

彩葉が怒るとちょっと怖いこと。

彩葉の曲がすごいこと。

彩葉が笑うと、月なんかよりずっと眩しいこと。

あの子は、そのたびに変な顔をした。

 

「姫さん」

 

「なにー?」

 

「あんた、地球に帰りたいんすよね」

 

「うん!」

 

「そのために、このアホみたいな量の業務を片づけてると」

 

「アホって言うなー!」

 

「じゃあ、効率化しましょう」

 

「こーりつか?」

 

「ほら、完成」

 

あの子が指を鳴らすと、床に並んでいた小さな月人みたいなものたちが一斉に起動した。

 

光る。

鳴る。

動く。

 

「デラックス……おっと違う」

 

整列する。

そして、かぐやの前でびしっと停止した。

 

「どんな仕事でも、主人の代わりに完璧に遂行してくれる、アルティメット業務代行Bot! その業務処理能力は姫さんのざっと三百倍! スゴいでしょ? 最っ高でしょ? 天っ才でしょ?」

 

「おー! すっごーい! けど、なんで処理能力をわたしと比べたのかなー?」

 

「基準値としてわかりやすいかなって」

 

「喧嘩売ってる?」

 

「売ってないっす。事実陳列罪っす」

 

「やっぱ売ってる!」

 

かぐやは頬を膨らませた。

 

けれど、業務代行Botは本当にすごかった。

かぐやが一つ処理する間に、三つ、四つ、十、百と仕事を片づけていく。役割を持たないはずの小さなBotたちが、月のルールをするすると抜けて、かぐやの代わりに処理を進めていく。

 

月の仕事は、それでも多かった。

でも、終わりが見えた。

彩葉に近づいている気がした。

 

「わー……」

 

かぐやは目を輝かせた。

 

「あの子、天才だねー」

 

「もっと褒めていいっすよ」

 

「天才ー! すごーい! 月の便利屋ー!」

 

「便利屋はちょっとランク下がってない?」

 

あの子はそう言いながら、どこか満足そうだった。

 

それからも、あの子は色々なものを作った。

 

「姫さん、俺ってば思ったんすけど」

 

「うん?」

 

「不測の事態で『もと光る竹』が壊れて、肉体が構築できなくなったらヤバいっすよね?」

 

「やばいねー」

 

月人は本来、肉体を持たない。

 

地球で活動するためには、その星に合わせた肉体が必要だった。かぐやが地球で赤ん坊として現れたのも、『もと光る竹』が地球の環境に合わせた身体を作ったからだ。

 

もし、その機能が壊れたら。

かぐやは声も出せない。彩葉に触れることもできない。彩葉に自分が帰ってきたと伝えることすらできない。

それは、とても怖いことだった。

 

「ひとつのデバイスになんでも機能ブチ込むのは便利だし、ある種のロマンっすけど。でも、それって、そのデバイスが壊れたら何もできなくなるのと同じじゃないっすか?」

 

「あー、まぁ、そうかもね?」

 

「だから、試しに、『もと光る竹』の肉体構築機能だけを独立させて、腕輪型のデバイスにしてみたんすよ。おひとつどうぞ。いや、試作品も結構余ってるし、やっぱおふたつくらい」

 

「軽い!」

 

「ちなみに、量産じゃなくてワンオフなんで微妙に性能違います。こっちが一番性能いいやつっす。姫さんでも見分けられるように、イニシャル入れといてあげますね」

 

「姫さんでも、ってなにー?」

 

「親切心」

 

「ほんとかなー?」

 

差し出されたのは、銀色の液体金属が固まったような腕輪だった。

無骨なのに、どこか格好いい。

 

かぐやが手に取ると、腕輪は生き物みたいに形を変えた。するりと手首に巻き付き、ぴたりと吸い付く。青い光が脈を打つように走った。

 

「おー」

 

「構築される肉体も、ただの器じゃないっすよ。姫さん、地球でスマコンってやつ使ってたんすよね? 網膜への直接投影によるAR拡張機能、腕輪で構築する肉体の眼球にも組み込んどきました。地球上のネットワークにパッシブ接続して、周囲の情報を一瞬で処理・可視化できます」

 

「ぱっしぶ?」

 

「雑に言うと、見るだけで色々わかるやつ」

 

「すごーい!」

 

「それから身体能力。姫さん、ツクヨミではアバターで無双してたって言ってましたよね? ゲーム空間みたいな物理演算のリミット解除を、現実の物理法則に強制上書き適用できるようにしておきました。月人の身体性能を最高五十倍まで引き上げるんで、いわばスーパー月人ってやつっすね」

 

「スーパーかぐやちゃん!」

 

「あと、光学迷彩。周囲の光を完全に透過・屈折させて、視覚的にもサーモ的にも認識阻害をかけるステルスモード。これでもう隠れ放題っすよ」

 

「すごい! ちょっと犯罪っぽい!」

 

「使い方によるっす」

 

「彩葉に怒られない使い方にするー」

 

「そこ基準なんすね」

 

あの子は淡々と説明した。

淡々としているくせに、作ったものは全部おかしかった。

 

月の文明はもともと地球から見ればオーバーテクノロジーなのだろうけれど、その中でも、あの子の技術は何かがおかしかった。

 

便利すぎる。

自由すぎる。

そして、たぶん、少しだけ優しい。

 

「あと、これは、対象の質量や体積を無視して、量子情報に変換して格納するカプセル。いわゆる四次元ポケット的なやつっすねー」

 

「わー! これめっちゃ便利じゃん! キミってば天才~?」

 

「まあ、電子生命体である月人には不要な代物なんすけどね。興味あるならいくつかあげますよ」

 

「いるー!」

 

かぐやは即答した。

彩葉に会いに行くには、便利なものはいくらあっても困らない。

 

それから、あの子は『もと光る竹』にも手を入れた。

 

「姫さんが勝手に『もと光る竹』に組み込んでたタイムトラベル機能っすけど」

 

「うん!」

 

「あんまりにもピーキーだったんで、ちゃんとまともに扱えるように改修しときました」

 

「ぴーきー?」

 

「雑に言うと、あんなん使ったら事故りますよ? マジで?」

 

「えー、でも、かぐやちゃん天才だから大丈夫だよー?」

 

「天才はタイムトラベル機能をノリで増設しないっす」

 

「む」

 

かぐやは少しむくれた。

でも、反論できなかった。

 

実際、あの子が言うなら、たぶん危ないのだろう。かぐやは楽しいことが好きだが、彩葉に会う前に事故るのは嫌だった。

 

だから、改修は任せた。

あの子は作業しながら、時々、変なことを口走った。

 

「咲き誇らんとする綺麗な花に水をあげて、それをお手伝いするのは百合好きとして当然のことなんで」

 

「なにそれー?」

 

「気にしなくていいっす」

 

「気になるー」

 

「じゃあ、気にしていいっす」

 

「どっちー?」

 

かぐやには、あの子の言っていることがよくわからない。

 

けれど、あの子は手伝ってくれた。

かぐやが彩葉のところへ帰るために、たくさんのものを作ってくれた。

 

だから、かぐやは思った。

やっぱり、この子は友達だ。

月でできた、変な友達。

 

ある日、あの子は作業台に突っ伏したまま、ぼそっと言った。

 

「双子の姉妹に左右からサンドイッチされる百合っていいよね……」

 

「なにそれー?」

 

「疲労による幻聴っす」

 

「言ったのあの子だよ?」

 

「じゃあ、聞かなかったことにしてください」

 

「なんでー?」

 

「姫さんにはまだ早い」

 

「む。子ども扱いされた」

 

かぐやは頬を膨らませた。

 

意味はわからなかった。

 

双子。

姉妹。

左右。

サンドイッチ。

百合。

 

単語はわかるような、わからないような感じだった。彩葉なら説明してくれるだろうか。いや、彩葉に聞いたら、また変な顔をされるかもしれない。

 

だから、かぐやはそのとき、その言葉を深く考えなかった。

深く考えなかったけれど。

なぜか、頭の隅に残った。

 

出発の日が来た。

業務代行Botのおかげで、月での仕事は想定よりずっと早く片づいた。

 

もちろん、月の仕事に本当の終わりなんてない。

でも、かぐやが月を離れてもすぐに破綻しない程度には整った。あとはBotたちが何とかしてくれる。たぶん。いや、あの子が作ったのだから、きっと何とかなる。

 

『もと光る竹』の前で、かぐやはあの子と向き合った。

隣では犬DOGEが尻尾を振っている。

 

月にいる間も、犬DOGEはかぐやのそばにいた。地球で一緒に遊んだ、かぐやの大切な相棒。彩葉にも、早く会わせたい。

 

「ねぇ、あの子」

 

「なんすか?」

 

「一緒に地球、来ない?」

 

あの子は、きょとんとしたように目を瞬かせた。

それから、少しだけ考えるふりをして、肩をすくめた。

 

「いやー、お誘いは嬉しいっすけど、百合に関わる男はロクな死に方を選べないのでやめとくっす」

 

「そっか、残念……ん?」

 

かぐやは首を傾げた。

 

「男って言った?」

 

「言いましたっけ?」

 

「言ったよー?」

 

「月人に性別なんて曖昧なもんじゃないっすか」

 

「それはそうだけどー」

 

あの子はテンニョ型だ。

テンニョ型なら、どちらかといえば女の子っぽいはず。

 

でも、あの子はあの子なので、まあ、そういうこともあるのかもしれない。

かぐやは深く考えるのをやめた。

 

「月がつまんないのは確かなんで、いつか地球には行くつもりではあるんすけどね」

 

「ほんと?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、『さよなら』じゃなくて『またね』だねー?」

 

あの子は少しだけ黙った。

それから、ひらひらと手を振った。

 

「そうっすね。またね、姫さん」

 

「うん! またね、あの子!」

 

かぐやは笑った。

月に来てから、一番ちゃんと笑えた気がした。

 

それから、かぐやは犬DOGEを抱えて『もと光る竹』へ乗り込んだ。

 

行き先は、地球。

 

目指す時間は、彩葉と別れた直後。

 

やり直すためではない。

なかったことにするためでもない。

ただ、続きを作るため。

 

竹取物語のその先に、彩葉とかぐやのハッピーエンドを作るため。

 

「よーし! 待っててね、彩葉!」

 

かぐやは手首の腕輪を撫でた。

犬DOGEがわん、と鳴いた。

 

「かぐやちゃん、いっきまーす!」

 

光が満ちた。

 

月の白と灰色が遠ざかっていく。

 

退屈な世界が、後ろへ流れていく。

 

彩葉の歌が、まだ胸の奥で鳴っている。

 

もうすぐ会える。

もうすぐ帰れる。

そう思った。

 

そう思ったのに。

 

「……ん?」

 

時空の流れの向こうに、何かが見えた。

 

大きい。

黒い。

近い。

すごく近い。

 

「え、ちょ、ま――」

 

次の瞬間、世界がひっくり返った。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

「ヒドい目にあったー……。もう少しのところで、でっか〜〜い石に当たっちゃうんだもん」

 

かぐやは頭を抱えながら起き上がった。

 

ざざん、と波の音がした。

 

視界が晴れると、そこは無人の砂浜だった。夜明け前なのか、空は薄い藍色をしている。遠くで海が白く泡立ってる。

隣では、犬DOGEが元気に尻尾を振っていた。

 

「犬DOGE、無事ー?」

 

「わん!」

 

「よかったぁ」

 

かぐやはほっと息を吐いた。

 

損傷し、沈黙した『もと光る竹』。

タケノコ型のデバイスはあちこちに亀裂が入り、光を失っていた。

 

「この腕輪があって助かったー。あの子の言う通りだったなー」

 

手首の腕輪が、静かに青いパルスを走らせている。

 

時空跳躍の途中、かぐやは巨大な隕石に衝突するという大事故に見舞われた。もし『もと光る竹』だけに頼っていたら、肉体を構築できなかったかもしれない。

でも、腕輪は無事だった。

 

腕輪から青白い光の粒子が溢れ出す。地球の大気成分、重力、温度、湿度。無数の情報がかぐやの中を流れていく。

 

光の糸が編み込まれるように、かぐやの身体を作っていく。

 

腰まで伸びた、艶やかな金色の髪。

 

三日月のようなアホ毛。

 

流れ星を閉じ込めたような赤い瞳。

 

暗がりでもそれとわかるほど白い肌。

 

身を包むのは、ラフな黒いシャツにピンクのショートパンツ。足元にはターコイズブルーのスニーカー。

 

かつて、彩葉と同じ部屋で笑い合っていたころ、かぐやが好んで着ていたお気に入りの私服だった。

 

「うんうん、完璧。さすがかぐやちゃん。 犬DOGEの肉体もおっけー」

 

「わん!」

 

かぐやは自分の両手を握った。

 

あたたかい。

柔らかい。

手を開いて、閉じる。

指が動く。

足で砂を踏むと、ざくりと沈む。

風が髪を揺らす。

 

月にはなかったものが、全部ここにある。

 

「……地球だ」

 

ぽつりと呟いたら、胸がいっぱいになった。

 

彩葉がいる星。

かぐやが帰ってきたかった場所。

 

「さて、まず、ここどこー? こういうときはたしかー」

 

かぐやは目を瞬かせた。

 

あの子が熱く語っていた機能を思い出す。

思考だけで、視界の表示をオン。

 

次の瞬間、視界に大量の情報が浮かび上がった。

 

「わっ、なんか出た! スマコンみてー! いや、スマコンより全然クリアだし、情報量えっぐ!」

 

現在地。

時刻。

気温。

海岸線。

近隣の地図。

通信ネットワーク。

公共情報。

周囲の人影なし。

そして、年月日。

 

「……2041年」

 

かぐやは瞬きをした。

 

もう一度見る。

表示は変わらない。

 

「2041年、かぐやが彩葉とお別れしてから……十一年後かぁ……」

 

思っていたより、ずっと先だった。

 

本当なら、彩葉と別れた直後の2030年へ戻るつもりだった。月へ帰って、仕事を片づけて、すぐに戻るつもりだった。

 

でも、隕石にぶつかった。

『もと光る竹』は壊れた。

時間は、十一年ずれた。

 

「うーん、当初の予定とは違うけど、しょうがないかなぁ……」

 

かぐやは腕を組んだ。

 

彩葉は怒るだろうか。

泣くだろうか。

もう大人になっているだろうか。

 

かぐやのことを、まだ覚えていてくれるだろうか。

 

考え始めると、胸がざわざわした。

でも、答えは決まっている。

 

「会いに行けばわかる!」

 

かぐやは頷いた。

現在地は静岡。

東京まで、それなりに距離がある。

 

「いや、まあ、日本に不時着できただけでも御の字かぁー」

 

かぐやは壊れた『もと光る竹』を量子化カプセルへ格納した。小さなカプセルの中へ、タケノコ型のデバイスが光の粒になって吸い込まれていく。

 

「移動手段どうしよ? 犯罪行為やったら彩葉に怒られるだろうし、徒歩しかない? いけるかなぁ……」

 

試しに、かぐやは足に力を込めた。

軽く跳ぶ。

 

つもりだった。

 

「うひょーーーっ!」

 

視界が急上昇した。

砂浜が一気に遠ざかる。

波が下に見える。

 

かぐやは十数メートル上空でくるりと宙返りした。そのまま遠くの岩場へ向かって、羽毛みたいに音もなく着地する。

 

「なにこれ、身体すごい軽い! 最高! 現実なのにツクヨミのアバターみたーい!」

 

現実の身体なのに、ツクヨミで動いているみたいだった。

重力が、かぐやの味方をしている。

地面が、勝手に踏み切り台になってくれる。

風が、身体を運んでくれる。

 

「スーパーかぐやちゃんだー! これなら徒歩で東京行けそー!」

 

犬DOGEが楽しそうに吠えた。

 

「あとは目立たないように……ステルスモード!」

 

腕輪が青く光った。

かぐやの身体が、薄く透ける。犬DOGEも一緒に、周囲の光に溶けるように見えなくなった。

 

「おー、ほんとに見えない! この身体、くっそ便利なんだがー!」

 

かぐやは自分の手を見た。見えない。見えないけれど、そこにあるのはわかる。

 

あの子の顔が脳裏に浮かんだ。

気だるげで、口が悪くて、変なことばかり言う、月の友達。

 

「うん、やっぱ、一緒に地球来てほしかったなー」

 

彩葉に紹介したかった。

芦花にも、真実にも、ヤチヨにも。

 

あの子なら、きっと面白いことになる。

 

でも、今は考えても仕方ない。

 

かぐやは犬DOGEを抱え上げた。

海の向こうが明るくなっていく。

 

東京は、あっち。

彩葉は、あっちにいる。

 

「それじゃあ、彩葉に会いに行こう!」

 

かぐやは、地面を蹴った。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

東京は、少し変わっていた。

少しどころではないかもしれない。

 

十一年も経っているのだから。

 

見覚えのある道。

見覚えのない建物。

見覚えのある空気。

見覚えのない広告。

 

スマコンよりずっと自然に街へ溶け込んだAR表示が、通行人の視界の中だけでなく、ビルの壁面や道路案内にも重なっている。かぐやの視界にも、腕輪が拾った情報がどんどん流れ込んできた。

 

「ほぇー……ほんのちょっと未来だー」

 

ステルスを解除したかぐやは、人混みの端を歩いていた。

 

東京まで走るのは楽しかった。

楽しかったけれど、到着したころには少しお腹が空いていた。肉体があると、お腹が空く。そこがまた嬉しい。月ではお腹なんて空かなかったからだ。

普通だったら、飲食不要にした方がいいし、あの子ならそれができたはずだ。

それでも、お腹が空くようにしたということは、それが必要だとあの子も考えているから。

 

「よくわかってんじゃーん、あの子」

 

まず向かったのは、彩葉と一緒に住んでいたタワーマンションだった。

 

家賃三十五万円の、かぐやが勝手に借りた部屋。

彩葉に怒られた。

でも、二人で住んだ。

楽しかった。

そこに行けば、彩葉に会える気がした。

 

けれど。

 

「……オートロック」

 

かぐやは入口の前で立ち尽くした。

当然のように入れない。

 

「どうしよっかなー。ハッキングすれば入れそうだけど、彩葉に怒られるよねー。いや、そもそも彩葉がまだここに住んでるかもわかんないし」

 

かぐやは腕を組んで唸った。

 

十一年。

彩葉はもう、別のところに住んでいるかもしれない。

 

結婚しているかもしれない。

いや、そこを考えると胸がぎゅっとするので、やめた。

 

「夜まで待ってみる? でもお腹すいたし……」

 

結局、かぐやはタワマン前を離れた。

街をぶらぶら歩く。

彩葉の手がかりを探す。

 

けれど、十一年後の東京は広かった。彩葉の名前をネットワークで検索することもできそうだったが、なんとなく、最初に機械越しで見るのは嫌だった。

 

彩葉に会うなら、ちゃんと会いたい。

 

そう思って歩いていると、ふと、巨大なビジョンが目に入った。

そこに、見知った顔が映っていた。

 

「おー! 芦花だー! 綺麗になってるー!」

 

大きな広告の中で、大人になった綾紬芦花が微笑んでいた。

 

洗練された服。

綺麗な髪。

落ち着いた目元。

 

かぐやの知っている芦花より、少し大人で、ずっと遠くにいる人みたいだった。

 

けれど、芦花は芦花だった。

彩葉の友達。

かぐやの友達。

 

かぐやがビジョンを見上げていると、背後から小さな悲鳴みたいな声がした。

 

「ちょっと……かぐやちゃん!?」

 

振り向く。

 

そこにいたのは、広告から抜け出してきたみたいな女性だった。

 

大人になった芦花。

本物の芦花。

 

彼女は、信じられないものを見るように目を見開いていた。

 

「おー! 芦花だー! 大人って感じになってるー!」

 

「かぐやちゃん? 彩葉は一緒じゃないの? 一人で出歩いていいの!?」

 

「ほぇ?」

 

「え、待って。なんでその格好……? 今日はメンテじゃ……いや、でも……」

 

芦花は眉を寄せた。

 

かぐやは首を傾げた。

 

話が噛み合っていない。

 

芦花はかぐやを見ている。

でも、かぐやを見ていないような目でもあった。

知っているものを見たような。

でも、知らないものを見てしまったような。

そんな不思議な目。

 

「芦花?」

 

「……と、とりあえず、ここじゃまずい。来て」

 

「どこにー?」

 

「私の家。説明はそこで聞くから」

 

「お腹すいたー」

 

「何か出すから!」

 

「やったー」

 

芦花は通りかかったタクシーを止めて、かぐやを押し込んだ。

かぐやは流されるまま乗り込んだ。犬DOGEは膝の上。タクシーの運転手は一瞬だけ犬DOGEを見たが、最近は変なペットも多いのか、あまり突っ込まなかった。

 

芦花は移動中、何度もかぐやを見た。

 

何かを言おうとして、飲み込む。

スマートフォンを取り出しかけて、やめる。

 

かぐやは不思議に思ったが、芦花の横顔が思ったより固かったので、しばらく黙っていた。

 

芦花の部屋は広かった。

高いところにある、綺麗な部屋だった。

 

大きな窓から東京の街が見える。家具は少なく、でも全部おしゃれだった。彩葉と住んでいたタワマンとは違うけれど、ここも大人の部屋という感じがした。

 

「ほぇー、芦花の家、ひろーい! おしゃれー!」

 

「適当に座って」

 

「はーい!」

 

かぐやはふかふかのソファに飛び込んだ。

 

沈む。

楽しい。

犬DOGEも隣で丸まる。

 

芦花はキッチンへ行き、飲み物と簡単なお菓子を持ってきた。かぐやはすぐに手を伸ばした。

 

芦花は向かいの椅子に座った。

しばらく、かぐやを見つめる。

 

その視線には、懐かしさと、戸惑いと、警戒が混ざっていた。

 

「……ねぇ、あなたは」

 

「うん?」

 

「かぐやちゃん、なんだよね?」

 

「えへへー、かぐやちゃんだよー!」

 

かぐやは笑った。

 

芦花は息を吸った。

それから、長く吐いた。

 

その息の中に、十一年分の何かが入っているような気がした。

 

「月から、帰ってきたの?」

 

「うん! 彩葉に会いに!」

 

芦花の指が、膝の上でぎゅっと握られた。

 

「……そっか」

 

「でも、変な石にぶつかってさぁ、予定より十一年ズレちゃったんだよねー。だから、彩葉がどこにいるかわかんなくて。タワマン行ったんだけど、オートロックで入れなかった」

 

「……彩葉はまだ、あそこに住んでるよ」

 

「ほぇ?」

 

かぐやは目を丸くした。

 

「まだ?」

 

「うん。かぐやちゃんが勝手に借りた、家賃三十五万の部屋」

 

「あー……あれねー。彩葉に怒られたやつ」

 

「彩葉、最初は引き払うつもりだったみたい。お金のこともあるし、思い出が多すぎて辛かったから」

 

芦花の声は静かだった。

静かだけれど、少しだけ冷たい。

 

かぐやはお菓子を持つ手を止めた。

 

「でも、結局、維持し続けた。死ぬ気で働いて、勉強して、研究して。いつ、かぐやちゃんが帰ってきてもいいようにって」

 

「……」

 

胸が痛くなった。

 

嬉しい。

でも、苦しい。

 

彩葉は、待っていてくれた。

でも、それはきっと、楽しいことだけではなかった。

 

彩葉の十一年。

かぐやにとっては月での云十年。

 

それらはとても長い時間だった。

 

けれど、地球で肉体を持って、生活して、毎日を積み重ねる彩葉にとっての十一年は、かぐやの月での云十年より、きっともっと重い。

 

「かぐやちゃん」

 

「うん?」

 

「彩葉は、今、幸せだと思うの」

 

芦花は言った。

 

かぐやは顔を上げた。

 

芦花の目は、優しかった。

でも、その奥に、何か硬いものがあった。

 

「少なくとも、十一年前みたいに、いつ倒れてもおかしくない顔で笑ってるだけの子じゃない。ちゃんと自分で選んで、自分の足で立ってる。すごく頑張ったの」

 

「うん」

 

「だから、聞かせて」

 

芦花の声が、少しだけ鋭くなった。

 

「かぐやちゃんはさ、今の彩葉が幸せに生きてるとしたら、その幸せを壊しちゃうかもしれなくても、それでも、彩葉に会いたい?」

 

部屋が静かになった。

犬DOGEも鳴かなかった。

 

かぐやは、芦花を見た。

 

芦花の目が揺れていた。

その言葉が、意地悪だと、かぐやにもわかった。

芦花自身も、それをわかっているのだと思った。

だって、言った直後、芦花の唇が少しだけ震えたから。

 

かぐやのことを嫌いで言ったわけじゃない。

彩葉を守りたいから。

彩葉が大事だから。

 

そして、たぶん、芦花も傷ついているから。

 

彩葉が泣いた時間を知っている。

彩葉が苦しんだ時間を知っている。

その原因のひとつが、不可抗力だったとしても、かぐやであることを知っている。

 

かぐやは、ゆっくり考えた。

 

彩葉に会いたい。

それは、絶対だった。

月でずっと、それだけを思っていた。

 

彩葉の歌を聞いて、帰ると決めた。

会いたくて、会いたくて、会いたくて、ここまで来た。

 

でも。

 

「んー」

 

かぐやは、少しだけ首を傾げた。

 

「かぐやにとっては、彩葉はかぐやの全部なんだよねー」

 

芦花が息を止めた。

 

「彩葉と会って、オムライス食べて、竹取物語読んで、ハッピーエンドにするって決めて、ツクヨミでライブして、彩葉の曲を歌って。そういうの、全部、彩葉がいたからなんだよねー」

 

言葉にすると、当たり前すぎて、少し照れくさかった。

でも、本当だった。

 

かぐやの楽しいは、彩葉から始まった。

かぐやのハッピーエンドも、彩葉と一緒にある。

 

「だから、会いたいよ。すっごく会いたい。今すぐ飛んでいきたいくらい会いたい」

 

「……うん」

 

「でもね」

 

かぐやは笑った。

少しだけ、寂しい笑いだったかもしれない。

 

「彩葉が幸せなら、かぐやは幸せー。かぐやが彩葉に会いに行ったら、彩葉の幸せが壊れちゃうんなら、寂しいし、悲しいけど、会えなくてもいいや!」

 

芦花の目が、大きく見開かれた。

 

かぐやは続けた。

 

「かぐやは、彩葉をハッピーエンドに連れていくって決めたんだもん。かぐやが行ったせいで彩葉がバッドエンドになるなら、それ、全然違うじゃん」

 

月で、何度も思った。

 

彩葉に会いたい。

彩葉と笑いたい。

彩葉の隣にいたい。

 

でも、それは彩葉を泣かせるためではない。

 

彩葉の幸せを壊すためではない。

 

彩葉が笑っているなら、それを守りたい。

 

それが、自分のいない場所だったとしても。

 

悲しい。

寂しい。

嫌だ。

 

でも、彩葉が幸せなら。

 

それは、かぐやにとっても幸せなのだ。

 

「……ほんと、そういうところだよ」

 

芦花が呟いた。

声が、少し震えていた。

 

「そういうところなんだよね」

 

「芦花?」

 

「私がかぐやちゃんに敵わなかった理由」

 

芦花は笑った。

泣きそうな顔で、笑った。

 

「ごめんね。イジワルなこと言った」

 

「いいよー」

 

「よくないよ」

 

「でも、芦花は彩葉のこと大事なんでしょ?」

 

芦花は答えなかった。

 

答えない代わりに、立ち上がって、かぐやの隣に座った。

そして、そっとかぐやを抱きしめた。

 

「……少し、このままでいさせて」

 

「うん。いいよ」

 

かぐやは芦花の背中をぽんぽん叩いた。

 

「かぐやお姉さんが甘やかしてしんぜよー」

 

「ふふ……なにそれ」

 

「なんか、お姉さんっぽいかなって」

 

「かぐやちゃん、見た目は十一年前と変わってないけどね」

 

「中身は成長してるもん!」

 

「ほんとかな」

 

「ほんとだよー!」

 

芦花は少しだけ笑った。

それから、かぐやの肩に額を預けた。

 

かぐやは何も言わなかった。

 

月には、こんなふうに誰かを抱きしめる時間はなかった。

だから、この時間も、地球に帰ってきた証のように思えた。

しばらくして、芦花はゆっくり身体を離した。

 

目元を指で拭ってから、いつもの大人っぽい顔に戻ろうとする。少し失敗していたけれど、かぐやは言わないでおいた。

 

「彩葉はいま、酒寄研究所にいる」

 

「さかよりけんきゅうじょ」

 

「うん。場所は教える。……詳しいことは、私が話すことじゃないと思う。彩葉と、ヤチヨさんから聞いて」

 

「ヤチヨもいるの?」

 

「いるよ」

 

「おー! ヤチヨにも会えるんだー!」

 

かぐやはぱっと明るくなった。

 

芦花は、その反応に少しだけ複雑そうな顔をした。

 

でも、すぐに優しく笑った。

 

「彩葉は、この十一年間ずっと、立ち止まらなかった」

 

「うん」

 

「だから、ちゃんと見てあげて。今の彩葉を」

 

かぐやは頷いた。

 

胸の奥が、どきどきしていた。

 

もうすぐ会える。

 

十一年後の彩葉に。

大人になった彩葉に。

 

それでも、きっと、かぐやの大好きな彩葉に。

 

芦花はスマホを操作し、研究所の場所の地図を見せてくれた。

かぐやの視界がそれを読み込み、地図が視界に浮かぶ。

 

目的地までのルートが表示される。

 

「ありがとう、芦花」

 

「うん」

 

「行ってくる」

 

芦花は玄関まで見送ってくれた。

 

扉の前で、かぐやは振り返った。

 

芦花は少しだけ寂しそうで、でも、どこか晴れやかな顔をしていた。

 

「かぐやちゃん」

 

「なにー?」

 

「行っておいで」

 

芦花は言った。

 

「彩葉のことを、よろしくね」

 

かぐやは大きく頷いた。

 

「うん。行ってくる。彩葉のところへ」

 

犬DOGEが足元で吠えた。

 

かぐやは走り出した。

十一年分の時間を飛び越えるみたいに。

 

彩葉へ向かって。

 


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