雨は降っていなかった。
ただ空気だけが湿っていて、アスファルトの端には昼間の雨の名残が黒く残っていた。
大学が四限で終わった僕は、晩御飯の材料が入ったスーパーの袋を片手にマンションの階段を上がる。
四階。エレベーターは無い。それを聞くと不便だと思う人が居るかもしれないが、別に不便ともなんとも思わない。最初からそういうものだから。
階段を上がって自室の前で足を止める。
ドアの横に、女が立っていた。
赤いカーディガンに黒いロングスカートで、壁に背を預けている。知らない顔だった。
女は僕を見ると一言こう言った。
「遅かったね」
僕は鍵を取り出しながら言う。
「誰ですか」
「あなたのお姉ちゃん」
急になんだと思いその女の顔を見る。その顔は父にも母にもまったく似ておらず、血が繋がっているとは思えなかった。
「僕と全然似ていないですね」
「そりゃ血なんか繋がってないもの」
その突飛な発言に、鍵を取り出す手を止める。
「はぁ。じゃあ姉では無いですよね」
「いいや。血が繋がってなくてもあなたのお姉ちゃんなの」
頭が痛くなってくる。もうこの女は無視しよう。僕は鍵を回してドアノブを捻り扉を開け、部屋に入り鍵をかけた。
「待ってよ藍斗くん」
なんで名前を知っているのか怖くなったが、鍵を閉めたし、この女にはもう何も出来ないと思ったので、気にしないこととした。
数秒ほど経って、ガチャッという嫌な音がしてあの女が当然のように入ってくる。
「なんで僕の家の鍵を持ってるんですか」
「そりゃあ...お姉ちゃんだし」
当たり前のように言い、ソファーに座る。どうやら居座るつもりなようだ。この女には何を言っても無駄だと思ったので、好きにさせようと思った。
女は、僕が聞いていないのに色々喋った。
どうやらこの女の名前は神崎美香というらしく、大学の授業で一方的に僕のことを知り、尾行して家を特定したとのことだった。
「で、今日の晩ご飯はなに?」
「カレーです」
「一人分にしては量が多くない?」
「それは二日分だからですよ」
「もしかして一日目のカレーと二日目のカレー、どっちが美味しいか比べようとしてる?」
カレーは好きだけどそんな意味不明な事はしない。
「日持ちするので一気に作るだけです」
「ふーん」
美香は立ち上がると、勝手にキッチンへ向かった。
「どこ行くんですか」
「お姉ちゃんが藍斗くんのために料理してあげようと思って」
「いや、大丈夫です」
美香は僕の言葉を無視してキッチンを漁りだす。
「おおー、包丁とかまな板とか綺麗だねぇ。ちゃんと手入れしてて偉いよ」
「普通ですけど」
母が包丁やまな板はちゃんと綺麗にしろと言っていたため、使った後はすぐに洗って水分を残さないようにしている。
「藍斗君にとっての普通が他の人にとっての普通とは限らないの」
「そうですか」
美香を放置していたら、勝手に米を炊き、キッチンを荒らしてからカレーを二人分作った。
「はい、お待たせー」
美香は得意げにカレーをテーブルへ置いた。
食べても問題の無さそうな物であった。
「ほら、食べていいよ」
僕は席に座ると、手を合わせた。
「いただきます」
美香は少しだけ目を丸くする。
「ちゃんと言うんだね。藍斗くんは言わないタイプだと思ってた」
「食べる前は言えって教わったので」
幼稚園の給食の頃に、自分の配膳が先に終わったので、食べ始めていたら周りの児童や先生に凄く驚かれて、その時に「いただきます」と「ごちそうさま」という挨拶を知った。
「へぇ、育ちが良いんだね。偉い偉い」
「ありがとうございます」
とりあえず感謝をしてからカレーを食べる。僕は甘口のルーを買ったので、当然甘口だ。
「うんっ、美味しい。流石私。ねぇ藍斗くん美味しい?」
「はい。美味しいですよ」
「えっ、本当?」
「嘘つく意味あります?」
「へぇ」
美香は笑顔になる。続けて
「まぁ久々の手料理だろうしね、味わって食べなよ」
「今朝も僕が作りましたけど」
「そういうことじゃない。お母さんとか恋人とか、他の人が作った料理。」
「そういうことですか。じゃあしばらく食べてないですね」
最後に母の料理を食べたのはいつだろうか。すぐには思い出せない。
「ねぇ。明日も来てもいい?」
どうせ断っても来るのだろう。美香は多分そういう人だ。
「別に構いませんけど」
美香は「やった」と小さく笑って、またカレーを食べ始める。
しばらくして、美香がふと部屋を見回し、カレーを一口食べてから、口を開いた。
「…藍斗くんの部屋って、なんかすごいね」
「そうですか?普通ですけど」
テレビ。
テーブル。
ソファ。
冷蔵庫。
食器棚。
本棚には講義で使う教科書やプリントが入っている。
「ねぇ」
「なんですか」
「これ全部実用品?」
「そうですね」
「趣味の物ないの?」
「趣味?」
聞き返すと、美香は少しだけ眉を寄せた。
「たとえば漫画とか、ゲームとか、音楽とか。好きなもの置かない?」
「別に、そういうのは無いですけど」
「無いって…一つも?」
「必要ないですし」
「じゃあ休日はなにしてるの?」
「寝てるか、課題か、散歩してます」
「おじいちゃん?」
「大学生ですよ」
「えぇ…」
美香は引いた顔をした。
僕としては普通のことを言っただけだった。むしろ他の人はそんなに色々な物が好きになって忙しくないのだろうか。
「藍斗くんって、生きてて楽しい?」
急にそんなことを聞かれた僕は少し考える。
「別に普通ですよ」
「また普通」
美香は呆れたように言って、カレーを一口食べた。
「藍斗くん」
「なんですか」
「この部屋、誰かが住んでるっていうより、モデルルームみたいにただ置いてあるだけって感じがする。」
意味はよく分からなかった。でも、美香の顔が少しだけ真剣だったので、とりあえず黙って聞いていた。
「藍斗くん自身の物がない」
「全部僕の物ですけど」
「そういうことじゃないの」
美香はそう言って、僕の部屋を見回す。
「こういうのってさ、別に高い物じゃなくていいんだよ。好きな漫画とか、ゲームとか、音楽でも、本でも、ぬいぐるみだって、そういうのが一つあるだけで、その人の部屋になるの」
「別に、なくても生活できますし」
「うん。たしかに生活はできるよ」
美香は小さく笑った。
「でも、寂しいよ」
また寂しいだ。美香が言う寂しいが僕には理解できない。僕は一人で居ることに困ったことはない。静かな部屋は落ち着くし、誰かに気を遣う必要もない。特に不便は無かった。
「別に一人でも平気ですし」
「うん。藍斗くんは平気なんだろうね」
その言い方は、どこか引っ掛かった。平気なのは良いことのはずなのに褒められている感じがしなかった。
「でもさ」
美香はテーブルに頬杖をつく。
「平気だからって、それがいいとは限らないんだよ」
僕は平気なのにそれが良くない。どういうことなのだろうか。僕は少し考える。しかし、よく分からなかった。
「よく分からないです」
「藍斗くんには難しいかもねぇ」
馬鹿にされてる感じはしなかった。むしろ優しい声だった。
美香は続けて言う。
「今は分からなくていいんだよ。これから知っていけばいいんだから」
「そうですか」
それしか声が出なかった。
「そうだっ、スマホ見せてよ。連絡先交換したいし」
「別にいいですけど」
机に置いていたスマホを渡す。
「ふーんどれどれ...」
美香は僕のスマホを操作する。
「凄いねこれ...まずロックがかかってない」
「見られて困る物無いですから」
「壁紙も初期設定のままだし」
「別にそれで困ってないですし」
「しかもこれよく見ればアプリは初期で入ってる物とラインしかないね」
「それ以外必要無いですから」
ラインはコミュニケーションアプリで、親に入れろと言われた為、それだけはインストールした。
そして美香はしばらくスマホを操作し、僕に返した。
「うんっ、これで登録できたからいつでもお姉ちゃんにラインしていいよ」
「しませんけど」
返されたスマホを見ると、美香らしき連絡先が追加されていて、名前がお姉ちゃんになっていた。多分表示名を変えたのだろう。
「あっ、名前をお姉ちゃんから変えちゃダメだよ」
別に変える必要が無いので変えようとは思わない。
「それにしても友達少ないね。数人しか登録されてなかったよ」
「別に必要ないですから」
美香は少し考えてから言う。
「藍斗くんってさ必要か必要じゃないかで物事を判断してるの?」
「それ以外に何かあるんですか」
「じゃあさ、藍斗くん」
「なんですか」
「これからは、少し増やしていこうね」
「なにをですか」
「藍斗くんの必要じゃないけど欲しい物」
意味はよく分からなかった。でも美香は、それを大事なことみたいに言った。
評判が良ければ続きます。