世界は最初から狂っていた。
あるいは、狂っていたのは前世の記憶を持ったまま、画面の向こう側の地獄へ文字通り「紛れ込んで」しまった少女――
五条悟は死ぬ。
渋谷の混沌の最中で封印され、人外魔境と化した新宿の荒野で、その傲慢なまでに完璧だった最強の身体を二つに両断されて呆気なく逝く。
そして、彼が命を賭して守ろうとした少年――虎杖悠仁は、数多の呪いと悪意の計算式に嵌め込まれ、大切な仲間を一人残らず剥ぎ取られ、誰もいない戦場で孤独な悪鬼のように戦い続けることになる。
だが、それだけでは終わらない。
彼女は知っている。その戦いの果て、物語の『続編』とでも呼ぶべき地獄の先、世界がさらなる呪いの連鎖へと突入し、虎杖悠仁という少年がどこまでも続く過酷な運命の底で、すべてを背負って孤独に至る未来を。
そんな、血と泥に塗れた決定論的な凄惨な未来。
(……そんなの、絶対に認めない)
初夏の柔らかな風が、東京都立呪術高等専門学校の深い木々を揺らしていた。
古びた社の陰、木漏れ日すら届かない暗がりに、空折雪はひっそりと佇んでいた。
色素の抜けた白髪のロングヘアが、風に煽られて絹糸のように舞う。小柄で細い彼女の身体は、この広大な呪術界の聖地において、あまりにも頼りなく、そして場違いに映った。
現代という平穏極まる世界から、この血生臭い『呪術廻戦』の世界へと彼女が紛れ込んだのは、ほんの数日前のことだ。
もし彼女がただの無力な一般人であったなら、この世界の地を踏んだ初日に、路地裏の呪霊にでも脳味噌を啜られて終わっていただろう。だが、この世界に再構築された彼女の肉体には、天の悪戯か、あるいは世界そのもののバグか、あまりにも過剰で、あまりにも冒涜的な『異能』が刻み込まれていた。
ひとつは、彼女の魂の形そのものである生得術式。
もうひとつは、呪術界に千年以上積み上げられてきたあらゆる奇跡を置き去りにする、異形の双眸。
雪はそっと、己の顔を覆う黒い包帯に指先で触れた。
五条悟の真似事のように、幾重にも厳重に巻かれたそれは、彼女のオッドアイ――左右で異なる二つの『魔眼』の出力を強引に封じるための、即席の魔眼殺しであった。
(悠仁くんを、あの孤独な続編の地獄へ進ませない。そして――)
包帯の奥で、雪の右目と左目が、それぞれ異なる温度でじわりと熱を帯びる。
(私の、私だけの神様を、絶対に死なせない)
彼女の感情は、この世界において完全に二極化していた。
五条悟。あの、天上に一人聳え立つ絶対的な最強の男に対してだけは、胸が焼き切れるほどの狂信的な愛情と執着を抱いている。彼が生き残るためなら、呪術界の伝統も、天元の結界も、人類の命運すらも、すべてドブに捨てて構わないと本気で思っていた。世界など、彼の美しさを引き立てるための壮大な背景に過ぎないのだから。
利用価値があるか、それとも排除すべき対象か。
彼女の世界認識は、その二通りでしか構成されていない。五条悟以外の有象無象に対しては――たとえそれが原作の愛すべきキャラクターたちであろうとも――驚くほど冷徹な、無関心を貫いていた。
けれど。
虎杖悠仁という無垢な少年に対してだけは、その冷徹な計算の裏に、ひどく歪んだ『慈悲』が混ざり込んでいた。
彼はどこまでも良い子だ。だからこそ、あの両面宿儺という天災の器に選ばれ、五条を殺すための踏み台にされ、最後にはすべてを失って孤独な戦いを強いられる未来が、耐え難く哀れだった。
(だから、救ってあげる。悠仁くんの肉体を傷つけずに、中の呪いだけを綺麗に切り離して、終わらせてあげる)
そのためには、間もなく始まる『京都姉妹校交流戦』が最高の舞台だった。
高専を覆う天元の結界。そのセキュリティを、雪は己の能力を用いて、残穢ひとつ残さず完全に内側から『ねじ切って』潜入していた。京都校の老人たちが虎杖を暗殺しようと画策する、絶好の混乱期。その裏で単独で動き、彼を救済する。それが彼女の立てた冷酷な青写真だった。
「おや、そこで何してるのかな、不審者の迷子ちゃん」
鼓膜を震わせたのは、あまりにも聞き慣れた、そして彼女の魂を芯から震わせる声音だった。
振り返る必要すらなかった。
雪の心臓が跳ね上がる。全身の血液が沸騰するような、脳が麻痺するほどの多幸感が彼女を襲う。
ゆっくりと立ち上がり、彼女は声をかけてきた男の方へと向き直った。
そこにいたのは、黒い目隠しに、長身の体躯を漆黒の呪術高専の制服で包んだ男。
現代最強の呪術師、五条悟。
「……五条、先生」
雪の声が、自分でも驚くほど甘く、熱を帯びて震えた。
包帯の奥の視線が、彼の存在を狂おしいほどになぞる。ああ、本物だ。彼が生きている。まだ、あの新宿の悲劇の「ひ」の字すら始まっていない、完璧な最強の肉体がそこにあった。
彼女の瞳に、一瞬で狂信の光が灯り、白い頬が歓喜に染まる。
「え、何そのリアクション。僕のファン? 嬉しいけど、君、呪力の出力の割に『器』の気配がおかしいんだよね。高専の結界をすり抜けて入ってきたろ」
五条は軽い調子で言いながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
彼の『六眼』は、雪の異常性を瞬時に見抜いていた。
彼女の体内にあるのは、この世界の人間が持つ通常の呪力の巡りではない。いや、エネルギーとしては呪力であるのだが、その根源にある術式の回路の構造が、呪術界の常識から完全に逸脱しているのだ。六眼を以てしても、「構造は視えるが、意味が分からない」という未知の異物。
「名前は?」
「……空折、雪」
「からおり、ゆき。へえ、綺麗な名前。ねえ、その目隠し、僕の真似? 趣味がいいね」
五条が、長い指先を雪の顔の包帯へと伸ばしてくる。
普通の呪術師なら、彼の『無下限呪術』に阻まれて触れることすら叶わない。けれど、雪はその指を拒まなかった。むしろ、彼の手が自分に触れるという事実に、目眩がするほどの歓喜を感じていた。
「ちょっと見せてよ。君が、何者なのか」
するり、と黒い包帯が解かれ、地面に落ちる。
初夏の陽光が、彼女の暴かれた双眸を容赦なく照らし出した。
五条の動きが、わずかに止まった。
目隠しの奥にある彼の『六眼』が、驚愕に揺れたのを、雪は鋭敏に察知した。
彼女の目は、オッドアイだ。
右目は、深い虚無を湛えた、昏い瑠璃色。
左目は、世界の理を拒絶するような、鮮烈な螺旋を描く緑色。
「……へえ」
五条の喉から、感嘆とも警戒とも取れない声が漏れる。
「六眼でも、構造が上手く読み切れないな。何だい、その眼。呪術の術式とも、天与呪縛の類とも違う……」
「魔眼、と私は呼んでいます」
雪は据わった目で、しかし五条に対してだけは極上の微笑みを向けて答えた。
「右目は、直死。あらゆる存在の『死の線』を視る眼。左目は、歪曲。視界に入った空間そのものをねじ曲げる眼」
嘘は言っていない。ただ、術式の全貌を隠しているだけだ。
五条は雪の顔を覗き込むようにして、顎に手を当てた。彼の六眼は、その二つの眼が放つ超常の指向性を捉えようとフル回転している。
「直死に、歪曲、ね。面白い。呪霊の核を直接潰したり、空間そのものを弄る術式はいくつかあるけど、それを『眼』の性質として生まれ持っているなんてね。僕の六眼といい、神様も粋なプレゼントをするもんだ」
彼はまだ、彼女の左目が、彼の『無下限』という無限の空間すら内側からねじ切り、突破しうるという本質には気づいていない。六眼の圧倒的な処理能力を以てしても、この『魔眼』という概念の異物さは、一瞥しただけで完全に理解できるものではなかった。
「で? そんな危ないお目目を持った雪ちゃんが、わざわざ僕の前に現れた理由は?」
五条の気配が、一瞬で冷徹な『最強』のものへと切り替わる。
もし彼女がここで呪詛師側の人間だと判断されれば、一瞬で消されるだろう。他者に対する冷酷さを、彼は内側に秘めている。
だが、雪の目的は最初から決まっている。
「あなたを、お守りしに参りました」
雪は、彼の大きな手を両手でそっと握りしめた。無下限の術式は展開されていない。彼女の手が、ダイレクトに彼の肌に触れる。その温かさに、胸の奥が狂いそうになる。
「私には、未来を知るのです。あなたが、この世界の醜悪な呪いと、上層部の老人たちの保身によって、理不尽に命を奪われる未来が」
「僕が? 死ぬ? アハハ、まさか! 僕、最強だよ?」
五条は可笑しそうに笑ったが、その目隠しの奥の視線は、雪の言葉の『本気度』を精査していた。
現代から紛れ込んだ彼女の感情は、演技ではない。心の底から、彼の死という結末を拒絶し、呪っている。その純粋すぎる狂気と愛情は、五条悟という男の心を、わずかに揺さぶるに十分だった。
「本当です。だから、私はその原因をすべて、事前に排除します。あなたに仇なす呪霊も、あなたを縛る上層部も。……そして、宿儺も」
「宿儺、ねえ。あの子、悠仁の中にいるんだけど」
五条の声音から、一瞬だけ温度が消えた。生徒を害させないという、教師としての、そして彼なりの情。
「分かっています」
雪は冷徹な笑みを、一瞬だけ浮かべた。五条には見えない角度で。
「悠仁くんを殺すつもりはありません。彼を生かしたまま、中の宿儺だけを殺す手段を、私は持っていますから」
「……ほう?」
五条は雪の手を握り返すことはしなかったが、突き放しもしなかった。ただ、面白そうに、あるいは底知れない未知の化け物を見る目で彼女を見下ろしている。
「いいよ。面白いから、君をしばらく僕の監視下に置く。ちょうど、もうすぐ京都校との交流戦があるんだ。君のその『魔眼』とやらが、どれだけ使い物になるか、特等席で見せてもらうとしようか」
「はい、五条先生。あなたの望むままに」
雪は深々と頭を下げた。胸の内で、どろりとした歓喜の計算が完了する。
高専への潜入は成功した。五条悟の懐に入ることも出来た。
次は、あの森の中だ。
五条悟と別れ、高専の用意したゲストハウスの一室に入った空折雪は、静かに精神を内側へと沈めていった。
彼女の本質は、オッドアイの魔眼だけではない。
むしろ、呪術界のルールに適合し、彼女の魂の形に合わせて再構築された生得術式こそが、両面宿儺という呪いの王を屠るための絶対の切り札であった。
(――I am the bone of my sword.)
脳内で、静かにその呪文を紡ぐ。
彼女の呪力は、彼女の内なる『心象風景』へと直接接続される。
呪術廻戦の世界における『構築術式』は、極めて効率の悪い、不遇な術式とされている。禪院真依が、一日にリボルバーの弾丸をたった一発構築するだけで、命を削るほどの呪力を消費するように、無から物質を生み出す行為は、この世界の等価交換のルールにおいてあまりにも重い。呪力総量の限界が、そのまま術式の限界になるからだ。
だが、空折雪は違った。
彼女の生得術式
彼女がこれまでの時で視認した、すべての「刀剣・武器」の構造、構成材質、技術、設定、そしてそこに刻まれた歴史や呪力の流れまでを、脳内の世界にすべて『ストック』しているのだ。
彼女が現実世界で行うべきことは、構築ではない。
すでに内なる領域に完成しているレプリカを、こちらの現実世界へと『引き出す』だけ。
だから、消費する呪力は、通常の構築術式の数千分の一。ただの登録された武器の出し入れに過ぎないのだから。この世界の呪術師が「極の番」や「領域展開」でようやく成し遂げる心象風景の出力を、彼女は基礎能力として内包していた。
雪は右手を虚空に突き出した。
呪力の奔流が、彼女の細い腕を駆け巡る。
「投影開始」
ジジ、と空間が軋むような音がして、彼女の手の中に、一本の刀が凄まじい密度で形を結び始めた。
構築術式のそれとは一線を画す、圧倒的な速度。
現れたのは、鍔の無い、漆黒の刀身を持つ一振りの刀。
魂を観察する目を持ち、あらゆる物質の硬度を無視して『魂そのもの』を切り裂く、あの特級呪具――。
「……『釈魂刀』」
かつて禪院甚爾が愛用し、のちに禪院真希が手にする、魂を斬る刃のレプリカ。
前世の知識から、その構造と呪力的本質を完全にストックしていたからこそ、雪はこれを、今この瞬間に完璧な形で顕現させることができる。
右目の昏い瑠璃色――『直死の魔眼』が、釈魂刀の漆黒の刀身に映る。
直死の魔眼で、存在の終わりを視る。
空間を歪める左目の『歪曲の魔眼』がそれを補佐し、魂の正確な位相を捉える。
そして、釈魂刀で、肉体ではなく『魂の境界線』だけを正確に切り裂く。
この二つの奇跡が組み合わさった時、初めて、虎杖悠仁の肉体を無傷に保ったまま、その魂にべったりと張り付いた『両面宿儺』という呪いの魂だけを、狙い澄まして絶命させることが可能になる。
肉体と魂の調和を無理やり引き剥がし、宿儺の死の線だけを突く神業。
「待っていてね、悠仁くん」
雪は釈魂刀を静かに消滅させ、自らの生得領域へと戻した。
彼女の胸にあるのは、凍りつくような冷徹さと、炎のような愛情。
虎杖悠仁。彼はこの先、宿儺の器として、多くの人間を殺す片棒を担がされる。
その罪悪感に苛まれ、七海建人が死に、釘崎野薔薇が倒れ、五条悟が敗れるのを、ただ絶望の中で見つめることになる。
そして最後には、世界がどれほど引き裂かれようとも、その先に続く残酷な『続編』の運命の中で、ただ呪いを祓うためだけに孤独になっていく。
(そんな未来、私が、全部消してあげるから)
彼を苦しませ、過酷な続編の引き金を引く宿儺の魂だけを、直死の魔眼で点突き、この世から消滅させる。
それが、雪が彼に与えられる、最初で最後の最大の慈悲だった。
(そして、五条先生……)
雪はベッドに倒れ込み、五条の大きな手の感触が残る自分の両手を、愛おしそうに頬に当てた。
(あなたを死なせる要素は、私が、交流戦の裏で全て摘み取ってみせます。あなたが最強のまま、誰も失わずに、笑っていられる世界を、私が構築してみせる)
カーテンの隙間から、初夏の月光が差し込み、彼女の色素の抜けた白髪を銀色に輝かせる。
二極化した狂気と優しさを抱えたまま、空折雪は静かに目を閉じた。
数日後に迫る、姉妹校交流戦。
そこで始まるのは、東京校と京都校の若き呪術師たちの小競り合いなどではない。
一人のエトランゼが仕掛ける、運命の因果律を書き換えるための、神殺しの暗殺劇だ。