人間というものは、案外簡単に居場所を失う。
雨風を凌ぐ家を失う。
共に生きる家族を失う。
生きる糧を得る職を失う。
それがいずれも大きな喪失であることは、人生の若輩ながら理解しているつもりだった。
だが、
「……」
自身が今まさに突きつけられているものを、果たして何と呼べばいいのか。
龍田ススムには、未だ答えが出せずにいた。
今時古い白熱灯がチラついた、手書きの追加メニューが作法も取り決めもなく壁一面にズラリと張られた薄暗い店内。
頭上から聞こえるテレビの雑音交じりの音声と、周囲で交わされる取り留めのない会話。
食器と食器が擦れ合う音。
時折響く誰かの笑い声。
普段ならば、まず足を運ぶことのない場所だった。
高校を出てその足で戦略自衛隊へ入隊して以降、ほとんどの生活を隊舎と演習場で過ごしてきた。
起床。
点呼。
訓練。
食事。
任務。
消灯。
決められた予定を黙したまま、機械のように淡々と繰り返す日々。
若くして部下を預かる立場になってからは、それに部下の健康管理や訓練予定の確認も加わった。
面倒に思ったことは、一度もない。
むしろ、それが自分の望んだ人生の全てだった。
未曾有の大災害、通称セカンドインパクト。
自身はそれを媒体の中でしか見た事はない。
世界の半分近くが失われ、多くの人間が今日を生き延びるだけで精一杯だった時代。
そんな中でも自分は幸運だった。
食べるものがあり。
眠る場所があり。
教育を受け。
大人になることが出来た。
その全てが当たり前のことでは決してない、尊いものであることを龍田ススムは認識していた。
同時に、決意していた。
次は自分達の世代がその尊い当たり前を守る番だ。
そう思って軍人になった。
それだけだった。
何を犠牲にしても守りたいそれを、失ってしまったのだ。
「……すみません」
空になったグラスを軽く持ち上げる。
何かと顔を上げた初老の店主は、空いたグラスを見た瞬間に察したように笑って受け取り、慣れた手つきで同じ酒が入ったグラスを手渡してくれた。
情けない事だ。
意思疎通は基本中の基本。
軍務中なら絶対有り得ないし、部下がこんな言動を取ったら叱り飛ばしていただろうに。
「お客さん、強いねぇ。何杯目だ?」
愛想良く笑う店主に、曖昧に頭を下げる。
何杯目だったか。
覚えていない。
数えることもとうにやめていた。
それでも意識は、嫌になるほどはっきりしていた。
頬が少し熱い程度。
足取りが怪しくなる様子もない。
頭の中も冴えたままだ。
「……酔えもしない、か……」
誰にも聞こえない声で呟く。
情けない話だった。
今日だけは何も考えたくない。
何も思い出したくない。
そんな理由で酒を飲んでいるというのに、その身体は日頃の鍛錬を裏切ることなく律儀にアルコールを処理し続けている。
ふと、目を閉じる。
『龍田小隊長!!』
「……っ」
不意に蘇った声に、グラスを持つ手に力が篭る。
『右側面! 来ます!!』
『退避間に合いません!!』
『隊長――』
「……」
ゆっくりと目を開く。
そこにあるのは、薄暗い居酒屋のカウンター。
炎もない。
轟音もない。
仲間の声もない。
ただ自分のグラスの中で、氷だけが乾いた音を立てていた。
無期限出動停止。
それが、かの戦闘で自身が、殉職した部下達が残した結果の全てだった。
処分ではない。
失態を犯したわけでもない。
むしろ、上官から直接告げられた言葉は労いに近かった。
充分戦った。
あれは我々にどうこう出来る相手ではない。
休め。
そういう意味だった。
だが、
「……何も、出来なかった……」
また来る。
あの怪物は。
使徒。
その名だけが、今や戦略自衛隊内部でも半ば禁句のように扱われている。
自分達が持つ火力では止められない。
戦車も。
航空戦力も。
N2兵器ですら。
そして、その脅威へ今も挑んでいる者達がいる。
未知の科学力を有した巨大組織。
動力や作動原理すら秘匿とされた、得体の知れない兵器。
まるで神のような威光をたたえて現れた、謎の巨人。
そして戦場に突如現れ、他ならぬ自身の命を首の皮一枚で繋いでくれた正体不明の戦闘機。
対して自分はどうだ。
仮にも部下を率いて国の、人類の自由と平和を守る最前線に立っていた小隊長。
今は、居酒屋で酒を飲んでいる体たらくだ。
「……ハハ」
乾いた笑いに自分で耐えられなくなり、一息でグラスの中身と共に流しこむ。
酔えもしない液体が喉を焼いていく。
その時だった。
何となく。
本当に何となく、視線を横へ向けた。
「……」
少し離れたテーブル席。
一人の女性が座っていた。
最初に目についたのは、場違いなほど整った顔立ちだった。
歳は自分とそう離れてはいないだろう。
肩より下で切りそろえられた黒髪。
細身の体格。
仕事帰りなのか、きちんとした服装をしている。
普段この店で見かける客とは、明らかに雰囲気が違った。
「……綺麗な人だな」
思わず口から出て。
数秒後、
「……何を言ってるんだ俺は」
慌てて視線を戻した。
女性を見て綺麗だと思う。
それ自体は別におかしいことではない。
ただ、自分の口からそんな言葉が出たことに驚いただけだ。
隊舎暮らしが長かった。
周囲にいるのはほとんど男。
食事も訓練も仕事も男ばかり。
女性隊員がいないわけではないが、職務上必要な会話以外を交わした記憶などほとんどない。
というより。
何を話せばいいのか、皆目見当がつかない。
「……」
そう思っているのに、また視線が向いてしまった。
女性は、酒を飲んでいた。
かなり速いペースで。
「……まったくもう……」
小さく聞こえた声。
一杯。
「こっちは人手足りないって言ってるのに……」
もう一杯。
「何で要るかどうかも分からない機材の処理までこっちが……」
明らかに酔っている。
いや。
よく見ると、そこまで酔ってはいない。
顔は少し赤いが、言葉は比較的しっかりしている。
ただ飲み方が荒い。
何があったのだろうか。
「……仕事、か」
自分と同じ。
そう思った瞬間。
急に鳴り出す電子音。
女性の端末らしい。
「……はい、伊吹です」
さっきまでの愚痴っぽい声とは違い、一瞬で仕事用の口調へ変わる。
だが数秒後。
「えぇっ!? 今からですか!?」
店中に響きそうな声。
周囲の客が何人か振り返った。
女性は慌てて声を落とす。
「……分かりました。分かりましたけど……はい……すぐ戻ります……」
通話が切れる。
「……もう……」
机へ突っ伏しかける。
「せっかく今日こそゆっくり出来ると思ったのに……」
そして残っていた酒を一息で飲み干した。
「お勘定お願いします!」
先程までとは打って変わった慌ただしさで荷物をまとめ、立ち上がる。
余程急いでいるのだろう。
お通しと食べかけの小鉢をそのままに、小走りで出口へ向かっていく。
その時。
小さな金属音が聞こえた。
「……ん?」
女性のいた席の近く。
床に何かが落ちていた。
細い鎖。
先端に小さな装飾が付いている。
アクセサリーか。
恐らく先程の女性のものだ。
「……あ」
ススムは反射的に立ち上がった。
「……あの!」
声を掛ける。
つもりだった。
だが。
あげた目線の先に女性の姿はなく、荒々しく閉まる扉。
「……」
静止。
痛いような沈黙が数秒。
力なく椅子へ座り直した。
敵の砲撃を前にしても部下へ怒鳴れた。
爆発の中でも命令を出せた。
それが。
女性一人を呼び止めることすら出来ないとは。
「……どうした、ものかなぁ」
拾い上げたアクセサリーに改めて視線を落とす。
細かな意匠の施された、小さなものだった。
安物には見えない。
大切な物なのだろうか。
「大将」
「ん?」
「これ、さっきの女性が落として――」
そこまで言って、手が止まった。
店へ預ける。
それが一番普通だ。
だが。
何となく。
ほんの少しだけ考える。
あの女性は、ここへ何度か来ているのだろうか。
店主が特に珍しがる様子もなかった。
なら、また来るかもしれない。
自分も。
どうせ今は。
「……」
またグラスを見る。
出動予定など、ない。
帰ったところで。
誰かが待っているわけでもない。
「……俺が預かっててもいいですか」
「ん? まあ、いいけど。知り合い?」
「いえ」
即答。
「……全然」
自分で答えておいて、何故か妙に虚しくなった。
手の中のアクセサリーを見る。
「次に会った時、返します」
そう言って。
ポケットの奥へ大切にしまい込んだ。
何故自分で持っておくのか。
本人へ直接返した方が確実だから。
それだけ。
それ以上の理由などない。
「……多分」
誰に言い訳するでもなく小さく付け加え。
ススムは再び、酔えない酒を口へ運んだ。
先程より、不思議と舌触りは柔らかく感じた。
負傷した初号機共々自身を迎え入れたのは、最早見知った天井だった。
「……はぁ」
視界に入るもののほとんどが無機質な色合いで統一された個室の中、碇シンジは何度目になるか分からない溜息を零した。
「……暇だ」
枕元に置かれた読みかけの参考書を手に取る。
数ページ捲る。
内容は頭に入ってこない。
閉じて、今度は窓の外へ目を向ける。
青空。
雲。
遠くに見える第三新東京市の街並み。
目に映る全てが平穏だった。
だが、自身の中のイメージは知っている。
その平穏は少なくとも、今この瞬間だけを切り取ったに過ぎないことを。
「……ここまでやられなきゃな……」
右手を持ち上げる。
今朝付け替えたばかりの包帯。
骨折には至っていないが、数箇所捻挫が見られる。
肩にもまだ鈍い痛みが残っていた。
原因は考えるまでもない。
先日の戦闘。
イメージには影も形も存在しなかった異形の生命体。
グラミリオン。
未来を知っているつもりだった。
少なくとも、これから何が起きるのか。
何をすれば回避できるのか。
それさえ分かっていれば、自分達は少しずつでも最悪の未来から遠ざかっていける。
そう思っていた。
だが現実は、そんなに都合良くは出来ていなかった。
一つを変えれば、周りは変わる。
自分達だけではなく。
敵も。
世界も。
「……当然、だよな」
誰に言うでもなく呟く。
あの時。
使徒の残骸が未知の生命体へ姿を変えた瞬間。
頭の中に存在した「これから」の道標は、正直なところ何の役にも立たなかった。
それどころか、一歩間違えればレイも、自分も。
そして第三新東京市そのものも、あの一撃で消し飛んでいたかもしれない。
それでも今この瞬間にその全てが生きて平穏の過ごすことができているのは、偏に一人の巨人のおかげだった。
「……ダイナ」
窓の外へ視線を向けたまま呟く。
人類の側に立つ謎の巨人。
ウルトラマンダイナ。
そしてもう一人。
その存在と何らかの関係があるのではないかと、今では否応なく考えざるを得なくなった一人の青年。
アスカ=シン。
あの巨人と同じく、脳裏を過ぎる未来のイメージには影も形もない存在。
しかしながら今日に至るまで彼の存在が及ぼした影響は計り知れない。
思い返すのは、キャンプの夜。
満天の星の下で語られた言葉。
『必ず届くと信じて、諦めなければ必ず届く』
『魂と信念が籠ったその一球を、決め球って呼ぶんだぜ』
「……決め球、か」
思わず反復を繰り返す。
あの言葉を聞いてから、少しずつ何かが変わった気がしていた。
レイに。
ミサトに。
トウジに。
ケンスケに。
それまでなら「どうせ無理だ」と飲み込んでいた言葉を、少しずつ口に出来るようになった。
だから今回も、このままではいけない。
漠然と、そう思った。
「……何とか、しないと」
目を閉じると、やはりそれは現れる。
脳裏のスクリーンに流れ込んできた、これから起きるであろう可能性の一つ。
青い海。
巨大な艦隊。
赤い人型。
海面を割って現れる、巨大な顎。
そして。
『噂のサードチルドレンってどれよ?』
燃えるような橙色のブロンドヘア。
透き通るような青い瞳。
勝気な笑みを浮かべた少女の名前が、脳裏にこびりついて離れない。
「……惣流、アスカ・ラングレー」
つい数日前。
リツコによって初めて知らされた名。
それが、自分が何度もイメージの中で見てきた少女と不思議なほどにリンクしていた。
セカンドチルドレン。
エヴァンゲリオン弐号機パイロット。
彼女が来る。
もう間もなく。
そして。
「……使徒も」
来る。
広大な海の底から音もなく。
巨大な魚のような使徒が。
弐号機を輸送する艦隊へ。
「……」
嫌な汗が額に浮かぶ。
何度考えても、この未来は避けるべき。
避けられないなら、せめて被害を減らす。
そのために自分が同行できれば、ミサトにも向こうの艦隊の司令官にも。
場合によってはかの少女にも危険を伝えられたかもしれない。
少なくとも碇シンジの脳内では、持ちうる手札を全て切って立ち回るシミュレーションが展開されていた。
が、それが根底から覆されてしまった。
『ダメよ』
数日前の返答が蘇る。
退院時期の確認に訪れたミサトへ、出来る限り自然を装って頼み込んだ時だった。
『ミサトさん。今度の弐号機の輸送なんですけど……僕も一緒に行っちゃ……?』
我ながら苦しいお願いだったと思う。
別に自分が弐号機輸送へ同行する必要など何もない。
ましてや今は負傷療養中の身である。
行った所でお荷物になるだけ。
それが使徒襲来の現場となれば尚の事だ。
そのため返ってきた返事に肩を落としこそすれ、シンジは何ら驚きは見せなかった。
案の定。
ミサトは何を言っているんだという顔をした。
そして。
『ダメ。これはデートじゃないんだから』
即答。
だからこそ、これ以上食い下がることはしなかった。
というより。
言い返すべきではないと思った、というのが正しいかもしれない。
少し前までなら、自分が行かなければという使命感が先行していただろう。
そんな焦りだけで無理を押し通そうとしていたかもしれない。
だが、今は違う。
自分が行けないなら、そこにいる人に、いける人に託せば良い。
『……嫌な予感がするんです』
だから、ミサトに託した。
『この前の使徒が変異したような何かが、起きるかもしれない……。向こうにいますよね、弐号機パイロット。彼女に、伝えてください……』
案の定、彼女は一瞬目をパチクリさせた。
当たり前だ。
根拠も理屈も何もない第六感のような話を聞かされ、それを信じろといわれて信じるのは余程の能天気くらいだろう。
だが、目の前の女傑は力強く頷き返した。
『分かった。シンちゃんの勘、何だかんだ当たるもんね。ちょっち私も気をつけてみるわ』
その背中を見送ったのが、数刻前。
恐らく既に大海原の上を疾駆している頃だろう。
「さて……」
ゆっくりと身体を起こす。
肩に鈍い痛みに顔をしかめつつ、枕元の端末へ手を伸ばす。
当然、NERVの誰かへ未来視を明かすことは出来ない。
少なくとも今は。
いきなり、
「これから海上で使徒が出ます」
などと言えば、何故知っているのかという話になる。
それに。
自分自身ですら、このイメージの正体をまだ理解していないのだ。
本当に未来なのか。
過去なのか。
別の世界なのか。
何も分からない。
だが一人。
こうした目立たずに動くことについて信頼できる人物に一人、心当たりがある。
未来視のイメージが正確なら、そろそろ察知している頃だ。
いや、既に動き始めている可能性の方が高い。
イメージで見る限り裏の動きに極めて聡い彼のことだ。
増してや恋人の深く絡んだ一連の事象を、海を隔てた程度で掴んでいないわけがない。
もしそうなら……、
「……加持さんの、依頼ですよね?」
誰もいない空間の中、僅かに声色を強めて声を出す。
無論、返ってくる声はない。
この部屋にいるのが自分だけならば、流れるのは沈黙だけだ。
だが、シンジには確信があった。
あの日、自分達エヴァのパイロットと明らかに管轄外のイレギュラーが接触していたことを、諜報部でもないリツコが知っていた。
それもこちらにカマを掛けて裏を取ってくるほどに。
ならばそれ以上に情報という一点にかけて卓越したNERV諜報部がそれを知らないはずがなく、その上を行く彼が動いていないはずがない。
何らかのコンタクトを使って自分やレイの一挙一投足に注意を払っている。
故に今この瞬間も、自分とミサトの会話を傍受、あるいは監視していると考えたほうが寧ろ自然だ。
「弐号機を運んでくる艦隊のこと、知ってますよね」
相変わらず返答はない。
だがシンジは構わず続ける。
「もし可能なら、『あの人』にその場所を伝えてください。……そこに使徒が現れる。理由は、そっちのほうが分かってるかもしれませんね」
ずっと不思議に思っていた。
イメージの中の使徒たちは、1体を除いて須らくジオフロントの地下深くに眠る巨人の下へと向かっていた。
その接触を持って、あの思い出したくもない光景を現実のものとするために。
だがたった一つの例外がいた。
それがこれから現れるであろう魚のような使徒。
奴だけはジオフロントではなく、明らかに艦隊を狙って攻めてきた。
最初は使徒同士で意思疎通できるネットワークのようなもので弐号機の合流を阻止しようとしたのかとも思ったが、恐らくそうではない。
あの場にいたもう一人の人物。
これまでのイメージから推察するに、恐らく弐号機とは別に何か重要なものがやり取りされていた。
それこそ、ジオフロントの巨人に取って代わるほどの何か、あの幻の中でレイやもう一人の少年が断片的に語った計画の根幹に関わる何かが。
世界そのものを股にかける諜報員の彼ならば、そんな大役を任されたとしても何ら不思議ではない。
それが、かの使徒が唯一ジオフロント以外を狙って現れた理由と考えるのが自然だ。
「……最後にひとつだけ」
誰に届くでもない呟き。
だが、その声色が冷たく変わる。
「依頼人に伝えてください。もし彼に、何か企んでいるのなら……、僕は世界の敵になります……!」
およそ14歳の少年が見せる顔ではない。
そんな気迫を持って、顔も存在も見えない相手に圧をかける。
レイにあれだけ監視の目を向けていたNERV諜報部なら、彼の挙動も現在の動向もとっくに把握しているに違いない。
ともすれば変な行動に出ないよう身柄を拘束、或いは抹殺を考えていても不思議ではない。
どうせリツコにも見抜かれている関係性ならば隠すより寧ろ堂々と晒して交渉のカードにした方が余程有用というものだ。
アスカ=シン。
どうかこの行動が、彼にとってプラスに働いてくれれば。
そう願わずにいられない。
「……必ず、帰ってきてください」
あの夜以来、会うことも声を聞くこともままならない彼に。
そう願わずにはいられなかった。
海というものは、どこまで行っても同じ顔をしている。
寄せては返す波の音。
磯の香りを乗せた潮風。
遥か遠くまで続く水平線。
そこに浮かぶ幾つもの鉄の塊。
人間がどれだけ科学を発展させようとも、この広大な水の世界を前にすれば、その存在はちっぽけなものにしか見えない。
「……それでも、よくここまで揃えたもんだ」
オーバー・ザ・レインボウ。
その名を冠する巨大空母の甲板から、加持リョウジは周囲に展開する艦隊を眺めていた。
規模だけなら、ちょっとした国家間戦争でも始めるつもりかと思うほどだ。
護衛艦20隻。
巡洋艦6隻。
空母2隻。
航空戦力30機。
そして。
甲板の一角で、まるで主役の登場を待つ役者のように覆いを被せられた巨大な赤い人型。
汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン弐号機。
ここまでの大所帯で運ぶ価値がある兵器であることは間違いない。
だが。
「……ま、本命はそっちじゃないんだがね」
誰に聞かせるでもなく呟き、視線を僅かに下へ落とす。
自分の足元、と言うより、甲板を貫いた先にあるこの艦の内部。
幾重もの警備に守られ、幾重もの認証を求め、そして必要以上に厳重な封印を施した最重要機密。
その奥になにがあるのか。
加持自身、その正体を全て知らされているわけではない。
ただ一つ言えるのは、それがこの世界の行く末を左右しかねないほど重要なものであることだけだ。
「……人の手に余る物ばっかり増えていくな」
軽い調子でそう吐き出すが、その目は笑っていない。
この世界には知らなくていいことが多すぎる。
いや、正確には『知られてはいけないこと』が多すぎるのだ。
それこそ人の命すら平然と消費されてしまうように。
「……ん?」
胸元で僅かに振動に、端末をポケットから引っ張り出す。
表向きにはNERVから貸与された通常通信機。
私用したところを見られたところで痛くもかゆくもない。
だがその奥に幾重にも仕込まれた暗号回線の一つが起動していた。
発信元表示はない。
しかしそこに隠された真の意味を、加持リョウジは知っていた。
「……仕事熱心だねぇ」
口端を僅かに上げる。
通信を開くこと数秒。
画面に表示されたのは、必要最低限の情報だった。
『対象Sの件とは別件。サードが監視網の存在を看破した可能性あり』
僅かに目を見開く。
指を滑らせ、続きを表示する。
『サードより、弐号機輸送艦隊への危険を示唆する発言あり』
『同時に、対象Sへの情報提供を要求』
『発言内容から、依頼人の存在についても一定の推察あり』
「……こいつは驚いたな」
思わず苦笑が漏れた。
まだ十四歳。
それもつい数ヶ月前までは、この街にすらいなかった少年が。
NERV諜報部の存在を疑うだけならまだしも。
その背後に更に別の人物がいることまで勘づいている。
「……碇シンジ君、か」
初めて聞いた時は何処にでもいる少年だと思っていた。
資料を見る限り学力、身体能力、対人関係。
どれも特筆すべきものはない平凡を絵に描いたような極々普通の少年。
それが第三新東京市へ来て以降、妙なほど勘が鋭い。
使徒襲来と、それに伴うエヴァ運用。
いち早く転校先とのクラスメートはおろか、あのファーストチルドレンとも交友を深めるほどの人間関係。
いずれにおいてもかの少年の立ち振る舞いは常識を逸しているといっても過言ではない。
まるで一度見た道を知った上で歩き直しているかのような。
「……で、極め付けがこいつか」
加持が注目したのは、最後の一文。
『最後に、対象Sへの加害行為が確認された場合、自身はNERV側に立たない旨の強い牽制あり』
警告だ。
彼に危害を加えるようなら、この人類存続に無くてはならないであろうこの少年が最大の敵にひっくり返る可能性を示唆している。
それは逆説的に、NERVが必要と判断すればそれだけの事をやる組織だと認識していることの証左に他ならない。
加持の表情から笑みが消える。
彼にとってアスカ=シンという存在は、それほど比重を置かれる存在なのだろう。
少なくともあの一夜に、決め球の覚悟を説いて少年に勝利のウイニングショットを授けた程度には。
ならばこれは単なる情ではない。
シンジにとってアスカ=シンは未来を変えるための希望そのもの。
だからこそそれに仇なすというなら、牙を剥くというところか。
「……それで?」
端末へ短く入力。
『対象Sへの情報提供は?』
数秒の間を置いて返ってきた答えは、概ね予想通りだった。
『現在、経路確保中』
『ただし対象Sの所在は完全には把握出来ず』
『戦自側にも動きあり』
「だろうな」
そろそろと思っていた。
この知られざる管理の行き届いたシナリオの中で生きる世界において、国家機関の目を完全に欺き続けるなど不可能に近い。
あの戦闘機、あの武器、あの巨人。
その全てが同一人物に繋がっている可能性があるとなれば尚更だ。
「……αスペリオル」
無意識に。
資料の中で見た名称を口にする。
所属、製造元、構造――その全てが不明。
それでいてイルメナイトを中心とする機体構造は、計算上宇宙航行すら可能とされる性能を秘めている。
そして、件の人物が携行していた火器。
中でも対象を放射状に包み込む未知の物質――戦自が便宜上『ガードネット弾』と呼称している代物。
どちらも解析は未だ完全ではない。
だが、だからといって何も分かっていないわけでもない。
そんなイレギュラーを前にしてかの戦自が黙っているはずがない。
既にそれぞれの差はあれど、相当なところまで解析は進んでいると見てよい。
それならば、残された時間は少ない。
今やNERVだけではなく戦自、日本政府、同様の他国機関の連中もその存在に辿り着こうとしている。
人類の希望を秘めた何処にも属さない在野の人間を、世界中の機関が奪い合う争奪戦の様相を呈しつつあった。
「……下手な小細工してる暇は、なさそうだな」
嘆息と共に端末を閉じる。
後方から聞き慣れた声が聞こえたのは、その端末をしまった時だった。
「どしたの?昨日の女の子がニヤつくほど可愛かったわけ?」
「おっと、顔に出ちまってたか」
振り返る間でもないと軽口を返しつつ視線を向ける。
見知った顔がこちらを見ていた。
「……久し振りだな葛城。元気そうで何よりだ」
「そっちこそ。息災みたいで安心したわ」
「お、心配してくれてたのか?」
「アンタ昔から平気な顔して危ないことしてるんだもん。眠れなくなるこっちの身にもなってよね」
意外だった。
目の前に立つ女性『葛城ミサト』を、自分は良く知っているほうの人間だと自負している。
それこそ、学生時代は友達以上の間柄まで進んだ男として、知らないことの方が少ない。
だからこそ、内心驚いた。
予想外の再会に歯をむき出しにして子供のように突っかかってくる。
記憶の中の、自分が知る限りの彼女の反応はそういったものだったし、声をかけられた時点で自分はそうなると思っていた。
だから、驚いた。
か弱い少女の心のまま歳を重ねたような彼女が、歳相応の落ち着きを持った振る舞いを返してきたことに。
「……で?」
ミサトが腕を組む。
「貴方が出てるって事は、一体どんなヤバい仕事になってるわけ?」
「おいおい、いきなり核心だな」
「弐号機とパイロットの護衛程度なら、わざわざ貴方を動かす必要ないでしょ」
「買い被りだよ。俺はその程度の便利屋さ」
「今こうして詰められると困るくらいにはヤバイってことね?」
「……」
流石は特務機関作戦本部長。
感情が先走らなければ実に勘が鋭い。
「仕事の話は、また今度な」
「日本に来るんでしょ?向こうでも無事に顔見せるのよ?」
「善処するよ」
「それで納得すると思う?」
昔なら半分感情的になった彼女を宥めることに終始していたやり取りも、どこか安心する。
こちらへの信頼と危険と隣り合わせの立場への不安が半々に入り混じった言葉。
だがだからこそ、彼女がいつか帰る場所であろうとしてくれていると安心できる。
「(一体どんな魔法を使ったんだい、シンジくん)」
正直、少しだけ妬ましい。
自分でも10年近くかけても辿り着けなかった彼女の変化を、僅か数ヶ月で成してしまった件の少年。
任務のみならず、その人となりを知りたいと強く思う。
「ん?」
ふと視線に気づき視線を返す。
少し離れた場所から燃えるような橙色の髪を隠しきれないまま、こちらを酷く不満そうに見つめている少女がいた。
「アスカじゃない、どうしたのそんな離れて?」
隣のミサトも同じような反応をした。
惣流・アスカ・ラングレー。
自身の主任務である日本までの護衛対象。
その理由は言わずもがな、彼女の経歴とセカンドチルドレンをいう肩書きを聞けば自ずと理解できるというものだ。
そして彼女の性格を鑑みれば、ここで自分が他の女性と仲良さげに話していることが面白く無い事など一目瞭然である。
「……」
はずだった。
「……ん?」
僅かな違和感を感じたのは、その表情がミサトの側に向いていたときだった。
自分の知る限り惣流・アスカ・ラングレーという少女はその生い立ちから他者への承認欲求が非常に強く、それが他人に甘える事無く自立した自分をいう幻想に大人な自分をイコールで結びつけた非常に危うい逞しさを持つ少女だ。
故に彼女はこれまで幾度となく自分に対して身の丈に合わないアプローチを繰り返し、歳不相応な大人の女性をして見てもらうことに腐心していた。
だからこそここで彼女が不機嫌になるのは、自分を差し置いて別の本当の大人の女性と触れ合うことへの苛立ちによるものと思っていた。
「どうかしたのか?」
尋ねる。
するとアスカは、おずおずとした様子で聞き返してきた。
「……ミサトだけ?」
「ん?」
意図が読めず首をかしげる。
「他には、誰か来てないの?」
「他って、私の他に誰がいるのよ」
「ほら……、その……サ、サードチルドレンとか……」
思わずミサトと顔を見合わせる。
ここに来て何でその名前が出てくるんだ。
しかも声色からして、彼が一緒に来ると予想していたことになる。
まさか。
先日の戦闘の傷も治ってない状態で。
初号機もない海の上に来てどうする。
大学を飛び級合格した彼女の頭脳を持ってすれば、そんなことが分からないはずが無かろうに。
「シンちゃんなら来てないけど……、珍しいわね。貴方が同年代に興味持つなんて」
「まあまあ初々しいじゃないか。同い年で既に使徒3体を倒した話題のサードチルドレン。これから戦友になるんだろうし、仲良くなるに越したことはないだろう」
「だ、誰が! 私はそのサードとかいう奴が出しゃばって来ないか不安だっただけよ! ミサトだけなら安心したわ!」
そうやってそっぽを向いてしまうが、どこか強がっているのは明らかだった。
それよりもそのまま歩き去ってしまう様子に、少々拍子抜けする。
今までの彼女の様子なら、ミサトに対抗してこちらに腕を組んできたりアピールしてくると思っていたが。
「そういえば」
ふと、ミサトが思い出したように口を開く。
「シンジ君も少し様子が変だったのよね」
「変?」
「彼もケガを押して一緒に来ようとしてたのよ。今日、この艦隊で何か起きるかもしれないって」
「……」
黙したまま、こちらの掴んだ情報と照らし合わせる。
なるほど、ちゃんと保険はかけていたか。
「それで、何か対策は打ってるのか?」
「一応、有事に弐号機で対応できるようにはね」
「信じるんだな、取り立てて根拠も無いんだろ?」
「私だって、盲目的に完全に信じてるわけじゃないわよ」
でも、と肩をすくめるミサト。
「あの子、何だかんだ危ない時に妙な勘が働くのよ。以前の零号機との合同作戦も、彼の進言があったから勝率を高められた……。少なくとも私には気づけない要素を、彼は気づいて反映させている」
「……なんか、変わったな」
加持は率直に述べた。
「昔のお前なら、根拠はって詰めて、突っぱねて終わってたかなと思ってさ」
「……否定はしないわ。けど、」
ミサトの表情が柔らかい。
「子供の言うことだからって、最初から切り捨てるのは違うって思うようになったの」
「……」
「あの子達は私に代わって使徒を倒す存在じゃない。私とは違う、未来を生きる権利を持って生まれてきた、生きた14歳の子供なの。それに気づいただけよ」
「……なるほどな」
大したものだ、とまだ見ぬ3番目の少年に心の中で感謝する。
あのまま、他者との理解を避けて表面上だけ仲良くする接し方しか知らない彼女のままだったら。
自身が憎む使徒殲滅の兵士としてしか子供達を見ていなかった彼女なら、きっとどこかで綻びが生まれていただろう。
だが目の前の彼女は違う。
相手を一人の人間として捉え、その思いや理念を理解し、共感しようとしている。
少なくとも自分では成しえなかった彼女の変化を、彼は成し遂げてしまった。
嬉しい。
が、少し悔しい。
そして、実に面白い。
「……お?」
胸ポケットの端末に追伸が入ったのは、ミサトが艦長への挨拶があるからとその場を離れた後のことだった。
相変わらずタイミングが良い相手に心の中で感心しつつ、周囲に悟られないようさりげなく画面を見る。
『対象Sへの経路確保』
『海上座標送信済み』
「……こっちも準備は完了、か」
かの少年の打った手は、現状最善の形で整えられている。
恐らく一番理想的だったのはこの場に居合わせて彼女と会っておく事なのだろうが。
「……どこまで、気づいているのかねぇ?」
無意識に足元の、船の奥底へ視線を向ける。
この艦にはあまりにも多くのものが乗りすぎている。
弐号機。
セカンドチルドレン。
NERV作戦本部長。
そして自分が運んでいる『世界の裏側に触れるもの』。
その全てが同じ海の上に、同じ日に、引き合わせたかのように集まっている。
「……偶然、ね」
そんな言葉で片付けられる段階は、もう当に過ぎていると加持は危機感を抱かずにはいられなかった。
結論を言えば、かの少年の危惧は、正しい。
理由など語るまでもない。
今この場にあるものに、それが成立しかねないものが混ざっているのだ。
流石にそこまで彼がかぎつけているとは到底思えないが、結果として異変を察知しているだけで脱帽である。
「……ん?」
その瞬間、遠い海のかなたの水平線で、水面が微かに揺れる。
「……嫌な予感ってのは」
口端が僅かに下がった。
「存外、馬鹿に出来ないんだよな」
その言葉をまるで肯定するかのように。
遥か深海。
光すら届かぬ闇の中。
巨大な何かがゆっくりと目を開いた。
いない。
この場に彼が。
誰よりその結果を望み、何よりそれに安堵していたはずなのに。
言葉にならない不安が、胸中に渦巻く。
それが、何よりも気に入らなかった。
「……何よ」
巨大空母オーバー・ザ・レインボウ。
甲板から広大な海を睨みつけるように見渡しながら、惣流・アスカ・ラングレーは誰にも聞こえない声で吐き捨てた。
別に会いたかったわけではない。
期待していたわけでもない。
そもそも顔すら知らない。
碇シンジ。
サードチルドレン。
自分より後から選ばれたくせに、既に実戦で使徒を三体も撃破したとされる少年。
学業も身体能力も人間関係も普通の域を出ない、とかくつまらない人物。
同い年で既に大学の博士課程まで修了した稀代の天才である自分の物差しでは箸にも棒にもかからないような。
そんな平々凡々な相手に興味など。
「……あるわけないじゃない」
言葉にする。
敢えて自分自身へ言い聞かせる。
なのに目を閉じると、声がする。
『アスカ!』
頼りなさそうな顔と情けない声で。
自分と同じくらいの歳。
そいつが何度も自分を呼ぶ。
『アスカ!』
「……っ」
勢いよく目を開けば、何処までも広がる海。
そこにあの頼りない顔も、情けない声もない。
「……ほら見なさい」
小さく笑う。
一人、勝ち誇るように。
「みんな、みんな悪い夢なのよ……!」
いつからだったか。
ふとした瞬間に何の前触れもなく、まるで他人の人生を無理矢理頭の中へ流し込まれるような映像を見るようになった。
最初は夢だと思った。
とりとめのないただの夢。
環境が変わることへの不安がありもしない未来を作り上げているだけ。
それなのに映像は日を追うごとに鮮明になっていった。
知らない街。
知らない部屋。
知らない学校。
そして知らないはずの人間達。
柔らかく微笑むそばかすの目立つ黒髪の少女。
ビデオカメラを手に戦闘機に瞳を輝かせる眼鏡をかけた少年。
聞き取りにくい訛りでぶっきらぼうなジャージ姿の少年。
癇に障るほど無口な人形のような青髪の少女。
何故か同じ部屋で過ごしている葛城ミサト。
ひたすらに自分に見向きもしない加持リョウジ。
そして。
『い…もみ……に……カに……』
ノイズ交じりの聞き取れない声で何かを悲痛な顔で求めてくる碇シンジ。
見れば見るほど嫌になる。
気持ち悪い。
だがそれ以上に嫌なのは、そこに映る自分自身。
惣流・アスカ・ラングレーというキャストであった。
「……」
脳裏を過ぎるのは、まだ体験していない未知の光景。
シンクロ率で追い抜かれ、エヴァに乗れなくなる自分。
図星を疲れて仮面を剥がされ、他人を罵る自分。
誰かと比較され、常に下に見られ続ける自分。
必死にアプローチしても少しも加持に相手にされず。
上辺だけの付き合いしかしないくせに保護者を気取るミサトへ苛立ち。
煮え切らない態度で自分を理解してくれないシンジを傷つけ。
『私を見て』
「……違う」
両手で頭を押さえる。
『私を見てよ!』
「違う……!」
そんなの私じゃない。
『誰でもいいから私を見てよ!!』
「違うって言ってるでしょ……!」
歯を食いしばる。
馬鹿馬鹿しい。
あんなもの未来であるはずがない。
未来であってたまるか。
私は惣流・アスカ・ラングレー。
選ばれたセカンドチルドレン。
誰よりも努力して。
誰よりも勉強して。
誰よりも優れたエヴァパイロットになるためにここまで来た。
なのにあの中の自分は何だ。
子供のように泣いて喚いて。
みっともなく誰かに見てほしいと縋って。
挙句の果てには壊れた人形のように何も出来なくなる。
「……そうよ。違うのよ……」
震えを誤魔化すように拳を握る。
違う。
あれは夢だ。
根拠のない幻影だ。
その証拠に今回だって違った。
あの映像ではミサトに金魚の糞のようにくっついてきたガキども。
それが陰も形もいやしない。
もちろん、あいつも。
「あれは、未来じゃない」
そうだ。
あんなものはただの夢。
不安が生んだただの妄想。
脳が勝手に作り上げた偽物だ。
「そうよ……あんな事……」
未だ脳裏に焼きついて離れない、今と良く似た光景。
あの冴えない少年に輸送中の弐号機を自慢している最中に現れた使徒。
なし崩し的に弐号機に乗り込んできたアイツが出しゃばって。
その声が、結果的に生還に繋がった光景。
あろうことか、アイツに助けられたなんて。
「起こさせない。たとえ使徒がホントに現れたって、私一人で……!」
その時だった。
『て、敵襲!! 総員、第一種警戒態勢!!』
突然の逼迫した艦内放送と共に、静寂は破られた。
鳴り響くけたたましい警報。
次々と飛沫を上げて真っ二つに沈められていく護衛艦。
その光景を、見た事がある。
『艦隊右舷方向に巨大未確認物体を確認!』
「……え?」
脳裏に過ぎるのは、船一隻を丸ごと飲み込めるほどの巨大な顎。
鯨を何倍にも巨大化させて進化させたような、異形の怪物。
激しく波打つ海と、まるで玩具のように沈められていく艦隊。
違うのは、この場にかの少年がいないことだけ。
それ以外の全てが、あのイメージと寸分狂わず一致していた。
「……嘘」
同時刻。
空母オーバー・ザ・レインボウの艦橋でもまた、その異常事態を目の当たりにした者達が一斉に息を呑んでいた。
「右舷護衛艦、二隻撃沈!」
「敵性目標、依然高速で艦隊内を移動中!」
「魚雷、命中します!」
モニターに移る海面には幾筋もの白い航跡が、巨大な影へ向かって次々に殺到する。
海面が爆ぜ、立て続けに巻き起こる爆発。
巨大な水柱が幾つも立ち上り、一瞬だけその異形を覆い隠す。
「……」
通常ならば標的沈黙を確信するであろう光景。
だがそんな幻想に縋って勝てる相手では無い事を、葛城ミサトは理解していた。
『ミサトさん』
不意に数刻前の声が蘇る。
彼らしくない、歯切れの悪い言葉。
『……嫌な予感がするんです』
「……まさか」
『この前の使徒が変異したような何かが、起きるかもしれない……』
『向こうにいますよね、弐号機パイロット。彼女に、伝えてください……』
偶然そう片付けるには、あまりにも出来すぎている。
状況が整いすぎている。
まるで、こうなる事を知っていたとでも言うように。
「……貴方は一体、何を知っているの?シンちゃん……」
無意識に浮かぶその顔が、何処か遠く移った。
「爆煙、晴れます!」
上ずったオペレーターの声に、モニターへ視線を戻す。
「ば、バカな!全弾命中のはずだ!!」
「我ら海軍の主力兵器が、こけおどしにも……!!」
「……でしょうね」
驚愕に言葉を失う将校らと対照的に、分かりきっていた結果に嘆息する。
無傷。
あれだけの火力を受けて。
その巨大な生物は何事もなかったかのように海中を疾駆している。
「目標、健在!」
「再度魚雷発射準備!」
「よしなさい」
ミサトが割って入る。
「通常兵器じゃ使徒の突破は不可能。可能な限り艦隊同士の距離をとらせて、その間に乗組員の避難を」
聞き慣れた光景だった。
戦車もミサイルも航空爆撃も。
果ては秘蔵のN2兵器すら。
使徒に対して、人類が長年培ってきた通常戦力は児戯にすらならない。
それをこれまでホームグラウンドで嫌というほど見せ付けられてきた。
「現時点を持って目標を使徒と断定! 作戦指揮権はNERVが執ります!」
「……止むを得ん! 全艦隊通達! 目標攻撃を中止! 葛城一尉の指揮の下各自退避に移れ!!」
どうやらこの部隊の指揮官はどこぞの戦自のトップと違って柔らかい頭を持っていたようだ。
だが安心するにはまだ早い。
肝心の使徒を撃滅するにはこの場に現存する弐号機を使うしかない。
実戦経験のないアスカに挑ませるのは些か不安だが、彼女のポテンシャルを信じるしかないだろう。
「それと弐号機の起動準備。パイロットに待機指示を――」
『弐号機、起動準備完了!』
「了解!起動準備完……へ?」
思わず間の抜けた声が毀れた。
早い、早すぎる。
弐号機の出撃にはプラグスーツやエントリープラグなど複数の工程が不可欠で、どんなにスムーズに行っても最短で4分はかかる。
それが使徒断定からものの30秒で完了するなど、事前に構えてでもなければありえない。
だが実際にモニターを切り替えると、そこには防水用のカバーをまるで放浪者のローブのように纏って甲板に立つ。
赤い人型決戦兵器の姿が見えた。
輸送用の拘束具をお構いなしに力任せに引き剥がしながら、既にその双眸へ起動を意味する光を灯している。
「ちょ、ちょっとアスカ!?」
慌てて通信マイクにがなる。
「状況把握してるの!? まだ出撃は指示してないわ!!」
『そんな段取り踏んでる状況じゃないでしょ!?』
ウィンドウから返ってきたのは、少女らしからぬ豪胆な返事。
普段なら頼もしい。
かつての自分もそんな印象を持ってそのまま突っ込ませたかもしれない。
だが、今のミサトの目に映った少女は、不敵な笑みで何かを隠している様に見えた。
「まだ殲滅作戦を立てるには敵の情報が足りない! おまけにここは作戦本部もない海の上なのよ!」
『だから何!?』
「弐号機も最低限のB装備だけでは水中戦なんて……!」
『そんなのやってみなきゃ分からないじゃない!』
鬱陶しいとばかりに言葉を遮られる。
『スペックなんてパイロットのスキルでいくらでも覆せる! やれるわ、私と弐号機なら!!』
「ダメよそんな博打みたいな! 貴女が危険すぎる!!」
思わず声を荒らげた。
「これは訓練じゃない! 貴方にとって初めての実戦なの!」
『……』
「まず敵の能力を可能な限り検証する! 弐号機の生還率を少しでも引き上げないと……」
『必要ないわ』
鬱陶しいとばかりに吐き捨てる声。
『要は勝って帰って来れば良いんでしょ?』
過信ではない。
焦燥だ。
まるで目に見えない何かに、執拗に追い立てられているかのように。
『こんな奴、私一人で充分よ……!』
「待ちなさい!アスカッ!!」
制止も虚しく、弐号機は甲板を蹴って跳躍。
そのまま迫り来る飛沫目掛け、眼下の海へ突っ込んだ。
「……っ!」
ミサトは思わずコンソールへ両手をついた。
何ということだ。
只でさえ水中装備が揃わない状況で、水中戦を挑むだけでも絶望的だというのに。
『弐号機、水中へ潜航!』
「アンビリカルケーブルは!? 何考えてるの!」
その蛮勇が、あまりにも儚く、危うく見えた。
一瞬にして周囲を光の届かない深い青に染められ、大きく音を遮断された世界の中。
惣流・アスカ・ラングレーは眼前に迫る異形の怪物に悔しげに歯を噛む。
同じだ。
あの忌々しいイメージの映像と、全く同じ魚のような化け物が、鋭利な牙の並んだ顎を開いてこちらへ突っ込んでくる。
ただ一つ違うことがあるとすれば、
「くっ……!!」
想像以上に腕が重い。
腕一つ振るうのに操縦桿の抵抗が地上の比較にならない。
水中戦に適さないのは単純に装備が揃ってないだけかと思っていたが、こうした動作ひとつにも錘をつけられたような現状は確かにハンディキャップだ。
『来るわよ、アスカ!!』
ノイズが混じり始めた通信を聞く間もなく突っ込んでくる巨大な白い魚影。
速い。
まるでミサイルのようだ。
だがそれを眼前に見据え、恐怖はない。
分かっていた。
あのイメージで、飽きるほどに何度も見た。
「フン!!」
力任せに操縦桿を捻って体を横にずらす。
直後、巨大な顎が上下から元いた場所に勢いそのままに噛み付いてきた。
あの衝撃をまともに喰らったら、正式タイプのエヴァ弐号機といえども深手は免れないだろう。
だが、対策は至って単純。
喰らわなければよい話だ。
「……っ!」
もう一発。
牙が装甲の目前を通り過ぎる。
思ったとおり、動物のような単純な攻め方だ。
「ほら! 見え見えなのよ!」
知っている。
やっぱり同じだ。
あの映像と。
「だったら――」
勝てる。
その確信した瞬間だった。
敵を追う視界の隅。
何気なく目に入った表示。
『04:31』
「……え?」
四分三十秒。
何だ。
一瞬、何のことか理解できなかった。
『04:30』
一つ減った。
これは……、
『04:29』
また。
考える間に、まるで時間のタイマーのような。
「……ちょっと」
そう認識した瞬間。
背筋に冷たいものが走った。
この表示は、訓練で叩き込まれた必須事項。
「……内部電源の、まま?」
内部電源。
この表示は文字通り、弐号機が動いていられる猶予。
「嘘」
反射的に後方に手を伸ばし確認する。
掴めない。
あるはずのものが。
そこに存在しなければならない命綱が、ない。
「……ケーブルが……何で……?」
アンビリカルケーブル。
「……っ!」
思い出した。
脳裏の映像。
かの少年がしきりに残り時間を叫ぶ声を鬱陶しそうに聞き流しながら。
辿り着いた甲板に展開されたケーブル。
先に接続してから。
甲板で使徒を迎撃しようと構えて、共に海に落ちた。
「……そんな」
有り得ない。
ただでさえ敵のフィールドに、まともな装備も整わないまま。
自分から時間制限まで設けて。
イメージでなくとも、活動時間の把握は基本中の基本。
エヴァの活動可能時間は有限であり、可能な限りケーブルでリスクを回避するように訓練で何百回確認した。
出撃前確認のルーティンで忘れたことなど一度もない。
それを、失念していた。
『あと58秒しかないよ!?』
イメージの中のあの声がなかっただけで。
シンジがいなかった。
それだけで、こんな致命的な笑えないミスを犯したというのか。
「くっ!!」
『04:17』
「……大丈夫、まだ四分!」
自分へ言い聞かせる。
焦ることはない。
自分の技量を持ってすれば四分で決着をつけるなど造作もない。
あいつはいない事など僅かな差異だ。
私はセカンドチルドレン。
人類の期待を一身に背負って訓練を受けてきた。
母の変わりに自分を世界に認めさせるために何年も何年も歯を食いしばって。
その全てが身を結ぶ、今日この瞬間のために。
「こんな奴、一分で――」
そこまで口にしたとき、ふと沸いた別の疑問。
倒した後は?
「……え?」
改めて状況が鮮明に見えてくる。
海中に漂う弐号機。
その巨大な身体にアンビリカルケーブルは無く、引き上げは不可能。
空母は、艦隊は遥か頭上。
「……どうやって戻るの?」
声に出した瞬間。
さっきまでただの戦場に過ぎなかった海が、急に暗く、深く見えた。
今は底の見えない怪物の胃袋の中のように。
自分で浮上する。
どうやって。
弐号機は人型兵器だ。
水中戦を想定した装備などない。
この深度からどうやって。
自力でどうやって。
内部電源だけでどうやって。
どうやって?
『04:07』
違う。
四分という時間は、この数字は、使徒を倒すまでの時間ではない。
使徒を倒して、生きて海面まで戻るための時間。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
「まずアイツを倒せばいい」
その根拠が無い事を、自ら自覚していながら。
いや、その理由さえも聡明な少女の頭脳は理解していた。
そうしなければ、とても平静を保つことなど出来なかったからだ。
「脱出方法なんて、それからいくらでも……」
上ずった声で呟きかけたところへ鳴り響く警報。
追撃だ。
迎撃しなければ。
「きゃああっ!!」
真後ろからの巨大な尾による不意打ちが直撃した。
弐号機が水中で大きく回転する。
「くっ……!」
『アスカ!!』
ミサト。
『下手に動いちゃダメ!相手の攻撃を誘って迎撃するのよ!』
「分かってるわよ!!」
反射的に怒鳴り返すが、どうすれ良いのかなどその実分かっていない。
イメージならサードの邪魔があっても避けられた。
何故かわせたのか。
足りない要素は何か。
それを今に当てはめなければ。
「……違う!」
違う。
頼るな。
あんなものに頼ってどうする。
夢か現実かも分からない事象など当てになるものか。
「あれは未来なんかじゃない……!」
かろうじて遠方に動く黒い影を目が捉えた。
相手もこちらへ向き直る。
「私は……!」
唯一の武器であるプログナイフを展開。
下手に動かず、来たところを逆に斬りつける。
「そんなもの見なくたって、戦える!!」
殺到する牙が開かれた瞬間、下段からの斬撃。
咄嗟に身を翻す使徒の顎に一閃の傷を残す。
だが、浅い。
刃先が表皮を掠めただけ。
「このっ!」
振り上げからのもう一撃。
今度は避けられる。
「待て!!」
『アスカ! 深追いしちゃダメ!』
ミサトの声を無視して、到底及ばないスピードで泳ぐ。
イメージの中で弐号機があくまで迎撃の態勢を維持できたのは、偏にアンビリカルケーブルの存在だ。
活動限界を気にせず持久戦に持ち込むことが出来、尚且つ動けなくなってもケーブルを巻き取れば浮上することも出来る。
だが今はそんな悠長なことは言っていられない。
こちらから追わなければ。
内部電源が尽きてしまえば、どの道終わりなのだ。
『03:21』
「私なら勝てる!勝たなきゃ……!」
使徒が改めてこちらを見る。
巨大な体の天辺に見える目。
イメージで知っている。
何度も見た。
それなのに。
「……何よ」
現実は違う。
巨大さから来る威圧感も。
海水越しにこちらを震わせる咆哮の振動も。
弐号機の装甲越しに伝わってくる衝撃も。
そして自分に向けられた、獰猛なまでの明確な殺意。
「……っ」
気づけば、手が震えている。
「止まりなさいよ……」
ありえない。
恐れているのか。
使徒を相手に。
使徒を倒すことが使命のセカンドチルドレンが。
「私は……!」
血の滲む訓練を、数え切れないほどこなしてきた。
全てにおいて、これ以上の秀才はないという評価を受けた。
その全ては、今日この日のためなのに。
「ふざけないで! 私はセカンドチルドレンよ!エヴァ弐号機のパイロットなのよ!!」
突っ込んでくるガギエル目掛け、ナイフを突きの姿勢で繰り出す。
だが軌道が読まれたか、怪物は紙一重で回避。
反応が遅れる弐号機に牙を剥いた反撃は、その左脚を掠める。
『左脚部装甲損傷!』
「小癪な!」
だがアスカも只では転ばなかった。
逆手に構えたナイフを今度こそ突き立てる。
だが硬い。
傷も浅い。
「まだよ!」
持ち手に力を込めて刃を押し込もうとするが、使徒も激しく暴れだす。
数秒の膠着の末、ナイフの刃が折れて振り払われた。
こうなれば手から落とさなかったことだけが救いだろう。
残りの刃を展開して、再度構える。
『02:14』
「まだ二分ある」
違う。
もう二分しかない。
「こんな奴……」
怖い。
「すぐに……!」
帰れない。
「倒して……!」
死にたくない。
「私が……!」
その瞬間。
「……え?」
不意に、使徒の姿が掻き消えた。
反応がない。
左右を見渡してもそれらしい挙動は何処にも……、
「しまっ――」
眼下に目を向けたとき、そこには巨大な顎が迫っていた。
避けられない。
そう察したときには、すでに喰らいつかれていた。
「いやあああああっ!!」
激しい衝撃。
神経がリンクした脇腹への激痛。
弐号機の胴体へ、巨大な牙が容赦なく食い込む。
『アスカ!!』
苦し紛れにナイフを突き立てるが、少しも勢いはおさまらない。
逆に下へ深く、深く引き込まれる。
「やめ……!」
水面が、世界が、急速に遠ざかる。
『01:37』
「離しなさいよ!!」
『01:04』
「離してよ!!」
『00:51』
「私はまだ……!」
『00:45』
「……嫌」
否定したかった。
そんな未来などまやかしだと。
だから一人で勝とうとした。
それなのに。
『00:37』
その未来にすら辿り着けない。
「……嫌よ」
このまま自分は海の藻屑となってしまうのか。
光すら届かない海の底で、誰にも見つけられないまま。
『00:32』
「死にたくない……」
その言葉が初めて口から出た直後だった。
「……え?」
使徒が大きく身体を震わせた。
噛みつく力が弱まる。
「な……何?」
次の瞬間。
弐号機の身体が、あっさりと放り出された。
「……!」
突然の自由に、しばし呆然とする。
使徒が離れていく。
何故。
こちらを見向きもしない。
まるでもっと重要なものを見つけたように。
「……助かっ……た?」
「食いついた……!」
予想通りの反応に喜ぶ間もなく、今度は距離と速度を確かめる。
一機の小型航空機が、波を掠めるような低空を疾走していた。
けたたましく鳴り響く警報。
レーダーの反応を見るまでもなく。
後方から猛烈な速度で距離を詰めてくる巨大反応。
「……参ったね」
操縦桿を握りながら、加持リョウジは乾いた笑みを浮かべた。
「ここまで分かりやすいとは思わなかった」
後方には盛り上がる海面の奥から巨大な背が見える。
こちらを正確に追っている。
弐号機ではなく、艦隊でもなく、ましてや自分でもない。
「……十中八九、こいつだろうな」
僅かに後方へ視線を向ける。
厳重に封印された正体不明の積荷。
使徒襲撃を予見して見せたサードチルドレンの言葉。
今回だけジオフロントへ向かわず艦隊を襲撃した使徒。
そして自分が知る碇ゲンドウの計画、老人達の計画。
それらを一つずつ繋ぐと面白いように重なっていき、身の毛もよだつ仮説に辿り着く。
「……冗談じゃないぜ」
口元はいつものように笑う。
だがその目は、僅かも笑っていない。
「本当にアダムだってのか……?」
確証はまだない。
ただ、これだけは分かった。
この積荷には重い価値がある。
使徒が弐号機を放り出してまで追う程の。
そうなれば自然と候補は絞られてくるというものだ。
「……随分とヤバい荷物を持たせてくれたもんだ」
言いつつ操縦桿を倒す。
直後、海面を突き破って巨大な顎が飛び出した。
「洒落にならん!」
吐き捨てつつ全力で急旋回。
鋭利な牙が、誇張抜きに機体のすぐ横を掠めた。
「俺はエヴァパイロットじゃないんだぜ!?」
返事などあるはずもないが。
再び海へ、巨大な魚影となって潜む。
「……」
頼みの綱のレーダーを注視したまま、懸命に旋回を続ける。
距離を取りつつ後ろに相手を控えさせ、捕まらないように逃げる動きを繰り返す。
ただし遠すぎてもいけない。
あくまで自分を餌に、敵に追わせ続ける。
それが今、出来ること。
「こっちは予定通り、派手に食いついてくれた」
シンジから諜報部を介して伝えた海上座標。
ならば、予想が正しければ。
「最も、もう答え合わせのようなものだけどな」
その瞬間だった。
空が一瞬、眩く光る。
「……!」
青空の彼方から、一つの光が流星のように。
一直線に海へ落ちていく。
「……来たか」
加持の口元が、僅かに上がる。
「お手並み拝見といこうか、イレギュラー君」
『00:21』
「……」
動けない。
正確には動くことで生きていることを知られるのが怖かった。
残り二十一秒。
使徒は何故かいなくなった。
助かった。
本当に死ぬと思った。
「……は……」
自身の呼吸の音。
それが他ならぬ自身の生存の証と認識したとき。
言いようもなく体が震える。
「……助かった……」
操縦桿を握る手から僅かに力が抜ける。
怖かった。
眼前に市という概念が突きつけられた瞬間が。
こんなにも、恐ろしいものだったなんて。
「……」
認めたくない。
天下のセカンドチルドレンが、こんな醜態を晒したなんて。
でも今だけは。
そんなプライドなどどうでも良かった。
「……良かった……」
その時。
「……え?」
見上げる。
最初の異変は、眩い光。
深い青の向こう。
何かがこちらへ猛烈な速度で降りてくる。
「……え」
巨大な人の形をしたそれは、およそ自身の知る生命体から逸脱した存在だった。
巨大な高層ビルに匹敵する体格と赤と青が混ざった銀の体色。
額に見える菱形のクリスタルと、胸元に見える核のような器官。
まさか、新手か。
「……何よ、あれ」
見たことがない。
少なくともこれまでのイメージにはいなかった。
その巨人が真っ直ぐ、迷いなく機へ近づいてくる。
「……嘘」
頭が理解を拒んだ。
使徒か。
別の怪物か。
イメージもない。
敵か味方かも分からない。
ようやくいなくなった。
助かった。
そう思ったのに。
「……やだ」
もう虚勢を張る余裕すらも無かった。
涙で滲む視界一杯に、巨大な腕がこちらへ伸びてくる。
「やめて……」
『00:15』
逃げられない。
『00:14』
抗えない。
『00:13』
今度こそ、殺される。
「……来ないで」
巨人は止まらない。
「来ないでよ……!」
手がゆっくりと、逃げ道を塞ぐようにこちらへ伸びる。
捕まれば、今度こそ。
「いや……」
嫌だ。
「嫌……!」
死にたくない。
「来るな……!」
右手に握られたプログナイフの感触。
まだ握っているこの感触だけが最後の希望だった。
巨人の手が弐号機へ触れるか触れないか。
その瞬間。
心の奥底に封じ込めていた少女の恐怖が、遂に限界を越えた。
「来るなああああああああああっ!!」
アスカは絶叫と共に、プログナイフを突き出した。
「待って!!」
ミサトが叫んだのは、ほとんど同時だった。
「違うのアスカ! その巨人は……!」
言いかけるが、間に合わない。
水中カメラから送られてくる映像では、弐号機へ向かって一直線に降下してきた銀色の巨人が、両腕を伸ばしていた。
そこに攻撃の意志も捕縛の意志もない事は、ミサトには疑うべくも無かった。
「貴女を助けに来たのよ!!」
その言葉を遮るかのように。
弐号機の右手に握られたプログナイフが思い切り振り下ろされた。
「グアッ!?」
苦悶の声と共に巨人の体が泳いだ。
確かに鋭利な刃が、真っ直ぐ巨人の胸元に見える核のような器官へ突き立てられていた。
「ダイナッ!!」
ミサトの顔から血の気が引いた。
今、間違いなく刺した。
よりにもよってあの巨人を。
初号機の初陣から自分達がどうしようもなくなった時に。
何度も何度も。
見返りすら求めずに力を貸してくれた。
人類を共に助けてきた恩人を。
ウルトラマンダイナを。
「アスカ……なんてこと……!」
人類からの拒絶どころか、不意打ちに近い攻撃。
それも急所に等しい場所。
刺されてすぐに器官が青から赤に色を変えて点滅を始めたのが何よりの証拠だ。
今の一撃で深手を負わされてしまった。
一瞬、最悪の想像が頭を過ぎった。
当然だ。
ダイナが何者なのか。
何のために戦っているのか。
自分達は何も知らない。
これまで人類を助けてくれた、ただそれだけだ。
その善意に理由も分からずに甘え続けてきたのはこちらの方だ。
それを、今回も助けに来たであろう人間から傷つけた。
余程のお人よしで無い限り、常識的に考えて相手の怒りを買うには充分だ。
「……え?」
だからこそ、水中カメラの奥の光景をミサトは一瞬信じられなかった。
ダイナは拳を握らなかった。
明らかに自身の身を傷つけた相手を、まるで慈しむように包み込んだ。
大丈夫。
怖がらないで。
そう語りかけるかのように。
『巨人、再度弐号機へ接近!』
「アスカ! もう攻撃しないで!」
将校からの伝達に弾かれたように、ミサトは叫ぶ。
例えダイナに反撃の意志が無くとも、先ほどのプログナイフが深い傷になっている事は事実である、
これ以上アスカが暴れてしまうと、救助どころではない。
返答はない。
恐らく極限状態で聞こえてすらいないのだろう。
『00:00』
何のことはない。
とっくに活動限界を迎えていた弐号機はプログナイフを握ったまま、海中に漂っていた。
通常では最大級の緊急事態を意味する内部電力の枯渇も、今この瞬間だけは不幸中の幸いに転じたといったところか。
「クッ……」
そんな弐号機を、ダイナが両手に抱える。
まるで手負いの女性を抱き上げるかのように。
「……ダイナ」
今さらながら、その深い慈愛の心にミサトは言葉を失う。
当初はリツコの言うように、あくまで利害が一致したに過ぎない歪な共闘関係を否定できなかった。
時と状況によっては自分達の敵になりうる、敵の敵に過ぎない存在。
その可能性を作戦本部長として無視することは出来なかった。
違う。
本当は恐れていたのだ。
得体の知れない存在に、人類の未来を委ねてしまう危うさを。
明確な根拠なしに、それを仲間と認めてしまう危うさを。
だからこそ今、その上辺の友好関係の崩壊を警戒した。
かつての自分がそうであったように、表向きだけ友好に接していた所を傷つけられて仮面が剥がれ、牙を剥いてくるのではと恐れていた。
だが実際はどうだ。
まるで先ほどの事故が無かったかのように、かの巨人は……
『弐号機、浮上します!』
次の瞬間、巨大な水柱がオーバー・ザ・レインボウのすぐ傍に立ち上る。
海面を割って姿を現した彼をその目で見たとき、視界が僅かに滲んだ。
「……ありがとう、ダイナ……」
一瞬でも彼の献身を疑ってしまった己を心の中で恥じる。
だがそれも一瞬。
彼が助け出してくれた弐号機とアスカを確実に受け取り保護する。
それが今の彼の献身に対する最大限のアンサーだ。
すぐに作戦本部長の顔に戻って指示を飛ばした。
「甲板を空けて! 救助班は弐号機回収準備!エントリープラグ強制排出の準備も!医療班は応急救命の体制に!」
*
「……っ!」
肺いっぱいに空気を吸い込む。
照りつける日差しも、生暖かい風も、今は生きている実感が感じられて心地よいとすら思えた。
「はっ……はぁ……!」
エントリープラグから身を引きずり出し、甲板へ座り込んだアスカは未だ自分が生きているという事実を上手く理解出来ずにいた。
「セカンドチルドレン保護! 意識混濁ありません!」
「外的負傷箇所なし!」
「医療班! 酸素ボンベを……!!」
周囲で大人達が騒いでいる。
だがそんなものは耳に入らなかった。
視線の先。
甲板の向こう。
海を背にそれは顔だけを出していた。
さっき海の底で自分へ手を伸ばしてきたあの巨人。
「……」
生きている。
自分はあいつに抱き上げられてここまで。
「……何なのよ」
声が。
自分でも驚くほど弱かった。
「アンタ……」
胸元を巨人が片手で押さえている。
そこは自分が刺した場所。
「敵じゃ……ないの……?」
「違うわ」
聞き慣れた声に振り返る。
そこに見えたのは、唇を噛み締めた作戦本部長だった。
「彼は味方よ」
「……味方?」
理解出来ない。
見た目だけで言うならどう見ても使徒に近いのに。
「初号機の初陣の時から、私達がどうしようもなくなった時に、何度も現れて助けてくれたの」
「え……?」
「何者なのか。どこから来たのか。何のために戦ってるのか正直、私達にも分からない」
それでも、とミサトは続ける。
「ただ一つだけ確かなのは、彼は私達を守ってくれること」
その巨人は傷ついた胸を押さえながら。
まだ海を見ている。
「人類のために戦ってくれてる、不思議な巨人。ウルトラマンダイナ」
「……ウルトラマン……ダイナ……?」
無意識に繰り返してしまった。
ウルトラマンダイナ。
知らない。
見た事が無い。
あのイメージには一度も、こんな存在は出てこなかった。
「……私」
声が詰まった。
「私……アイツを……」
刺した。
殺されると思った。
怖かった。
だから。
でも。
だからといって。
「……貴女のせいではないわ」
そっと肩に手を置かれる。
ミサトの顔は、沈んでいた。
「私の失態よ……。事前にこの情報を貴女と共有していれば、こんな事にはならなかった」
「そんな事……、それなら私だって……」
反射的に応えかけ、言い訳が一つも浮かばない自身がもどかしい。
その時けたたましい警報が再び艦隊へ響き渡った。
『巨大生体反応、再接近!!』
「!」
アスカが顔を上げる。
『方位三―〇―五! 高速で接近中!』
『すまん葛城! 流石に敵もバカじゃなかったみたいだ』
「充分よ。こっちはダイナと合流できたわ。そっちはそのまま離脱して!」
「加持さん……!」
反射的に名前が出た。
先ほどまで艦内にいたのに、一体どういうことだ。
それに応えたのは、対応した作戦本部長だった。
「彼の発案よ。危険を承知で、さっきまで使徒を引き付けてくれてたの」
「加持さんが……?」
何も知らなかった。
自分が海の底で死にかけている間。
自分の知らないところで。
何人もの人間が。
「……」
拳を握る。
海面が盛り上がる。
そして再び、巨大な使徒が姿を現した。
「ダイナ!」
ミサトが叫ぶ。
巨人が振り返るほんの一瞬。
視線がこちらへ向いた気がした。
「……待って!」
気がつけば、叫んでいた。
「使徒の口よ! 口の中! そいつ、口の奥に核があるの!!」
「アスカ……」
おかしなことを言っているのは自分でも分かっている。
実際に確認できた訳ではない。
あくまでイメージの中の光景でしか見た事の無い、根拠の弱い話だ。
証拠も何も無い。
増してやあの巨人にこちらの声が届くかどうかすら分からないのに。
だが、自分が傷つけてしまった巨人が、その傷を押して自分に代わって戦おうとしている。
そう思うと、いても立ってもいられなかった。
「クッ」
一瞬、アスカは巨人の反応に戸惑ってしまった。
巨人は右手を海面に出し、親指を立てて見せた。
サムズアップ。
まさか、今の話を理解しているのか。
「ダイナ、私からもお願い。人類の未来を守るために、どうか貴方の力を貸して!」
ミサトも前に進み出る。
ダイナは、重々しく頷き返した。
「シュワッ」
そのまますぐに迫り来る使徒へ向き直る。
そして自らも海中に巨体を沈め、迎撃に入った。
「……戦うの?」
思わず呟く。
「あんな傷で……?」
ミサトは答えなかった。
答えられない。
瞬間、海面が爆発したように弾けた。
「……っ!」
アスカは思わず身を竦ませた。
甲板に設置されたモニター。
艦隊各所のカメラ。
水中探査装置。
それらから送られる映像が次々と巨人と使徒の戦いを映し出す。
ダイナの拳が使徒の頭部へ一撃、二撃。
だが。
「……遅い」
分かった。
さっき自分を助けに来た時より。
更に動きが鈍くなっている。
胸を庇っている。
「あれ……」
アスカの喉が鳴った。
「あれ、私が……」
言葉が続かない。
使徒の尾がダイナの脇腹を打つ。
「グアッ!」
巨体が海中で大きく後退する。
そこへ使徒が大きく口を開いて突っ込んできた。
「来る!」
ダイナは避けない。
四股を踏むように身構えたダイナの両腕。
右手が上顎、左手が下顎を、それぞれミサイルのように突っ込んできた巨体を掴んでみせた。
そのまま力任せに使徒の口をこじ開ける。
「……でも、この体勢じゃどうやって」
アスカが息を呑む。
そうだ。
口を開いたは良いものの、両手が塞がった状態では追撃もままならない。
が、彼を良く知る作戦本部長はその先を既に見抜いていた。
「アスカ、目閉じてなさい」
「え? ひゃっ……!?」
いつの間にかサングラスをかけていたミサトが言い終わらぬうちに、モニター全体を眩い閃光が包み込んだ。
スタンフラッシュ。
ダイナが額のクリスタルを瞬間的に発光させて敵の視界を制限する搦め手だ。
殺傷力こそ皆無だが、こと相手の動きを止める点に関しては非常に優秀で、これまで緊急脱出や起死回生の一撃を撃ち込むための瞬間的な時間稼ぎなどで多いに役立てられている技である。
かくして件の使徒に対してもこのこけおどしは十二分の効果を発揮し、敵はあろうことか口を大きく開いたまま混乱して固まっている。
ダイナには、その一瞬で充分だった。
「……そこ!」
こちらにも見えた。
水中カメラに移された巨大な口腔の最奥に、使徒の生命活動のすべてを司る赤い球状の器官。
「シュワッ!」
十字に組まれた両手から、眩い青白い光が海中を貫いた。
両手でスパークさせた化学物質を着弾と共に爆破させる光波熱線、ソルジェント光線。
光が口腔内を一直線に駆け抜け、コアへ突き刺さる一瞬、世界から音が消えた。
「きゃっ!」
凄まじい爆音と共に海面が持ち上がり、巨大な水柱が形成される。
艦隊が大きく揺れる。
遠くで立ち上る爆炎。
鯨の潮のように立ち込める水蒸気。
その奥には、何も見えない。
「……」
誰も声を出さない。
アスカも、ミサトも、ただ海を見る。
やがて水蒸気が風に流されていく。
使徒はいない。
そして。
「……!」
海面に見えた一つの巨大な影。
ダイナだ。
「……勝った」
誰かが呟いた。
直後、艦隊中から歓声が上がった。
「やった!」
「目標消滅!」
「巨大生体反応、完全に消失!」
だが、惣流アスカは笑えなかった。
「……」
ただダイナを見ていた。
勝った。
自分の言った通りにあの使徒を倒した。
そして自分はその方法を知っていた。
「……」
未来。
違う。
認めたくない。
でも当たった。
使徒は本当に来た。
口の中に本当にコアがあった。
ならあの光景も。
あの声も。
あの壊れていく自分も。
「……違う」
小さく呟く。
「違う……」
怖い。
でも。
その時アスカはもう一度海を見る。
「……」
ダイナ。
あのイメージにはいなかった。
どこにも一度もあんな巨人は現れなかった。
それなのに今、確かにそこにいる。
自分を助けた、未来にはいなかった存在。
「……何なのよ」
分からない。
何も分からない。
未来は本当に決まっているのか。
それとも。
「……信じない」
聞こえるはずもない。
誰にも聞かせるつもりもない。
だから小さく。
本当に小さく。
「……信じないわよ。あれが、私の未来だなんて……」
未だ見えぬ未来に。
惣流・アスカ・ラングレーはただ一人、抗い続けると決めた。
白い。
最初に抱いた感想は、それだった。
壁も、床も、天井も。
目に入るもののほとんどが、無機質な白と灰色で統一されている。
ただし病院とは違う。
人間を安心させるための白ではない。
汚れを見逃さず、異物を見逃さず。
そこにいる人間の存在さえ、管理すべき情報の一つとして扱うための色。
そんな印象を受ける部屋だった。
「……趣味悪ぃ部屋だな」
ぽつりと呟く。
当然、返事はない。
アスカ・シンは簡素なベッドへ背中を預けたまま、ぼんやりと天井を見上げた。
窓はない、時計もない。
唯一の出入口である扉には取っ手すらなく、外部からの認証がなければ開閉出来ないらしい。
壁の一角には小型の監視装置。
その隣では、自分が生きていることを確認するためなのか、簡易的なバイタルモニターが規則正しい電子音を刻み続けている。
近未来的、そう表現すれば聞こえはいい。
実際のところは、
「……留置場っていうより、実験動物のケージだな」
今度は少し笑った。
最も扱いそのものは、思っていたより遥かに丁重だった。
両手足を拘束されているわけではない。
傷の手当ても受けた。
着替えまで用意された。
食事も出た。
少なくとも今のところ、尋問らしい尋問もない。
ただし自由もない。
保護。
彼らはそう言った。
『動かないでください』
海岸へ辿り着いた時。
既にそこには数人の人間が待っていた。
戦闘服。
しかし戦略自衛隊とは装備が違う。
何より、その中心にいた男には見覚えがあった。
『……よう』
片膝をついたまま、シンは苦笑した。
『やっぱアンタだったか』
キョウヤは答えなかった。
ただ周囲へ目配せする。
瞬く間に銃口がこちらへ向けられた。
だがそれを見ても、不思議と危機感は湧かなかった。
『……助かったぜ』
『……』
『情報、ありがとな』
一瞬、平静を装うキョウヤの眉が動いた。
それだけだった。
シンは抵抗しなかった。
抵抗する理由もなかった。
何よりその体力が残っていなかった。
胸を押さえる。
痛い。
当然だ。
まさか助けに行った相手から胸を刺されるとは思わなかった。
『……あの子は?』
自分でも真っ先に出た言葉に苦笑した。
キョウヤは僅かな沈黙の後、
『生存しています』
それだけ答えた。
『そっか』
なら、充分だ。
『少し寝る。いいか?』
『分かりました。以降はこちらで』
不思議と信用できる彼の声に安堵し、部下の男達に身を任せた所で意識が途切れた。
「……」
シンはゆっくり目を開いた。
拘留室は相変わらず白に覆い尽くされている。
妙な話だった。
拘束されたというのに、不思議と彼らに対する敵意が湧いてこない。
少なくとも今回に関しては。
「……助けられたのは、こっちなんだよな」
キョウヤ達から与えられた情報は、極めて正確なものだった。
あれがなければ弐号機を輸送する艦隊がどこにいるのか、知ることさえ出来なかった。
突然届いた情報を信用することには、当然躊躇いもあった。
だが、以前から薄々気づいていた。
自分の周囲を探っている連中がいる。
敵意を持って追跡しているというより、誰かの命令を受けて監視している。
その中心にいるらしい男。
NERV諜報部の剣崎キョウヤ。
そして、その向こうにいる「依頼人」。
「……随分回りくどいことするじゃねえか」
シンはゆっくり顔を上げた。
監視装置は、未だせわしなく動き続けている。
「アンタはいつまで、俺の周りをグルグル回ってるつもりだ?」
返事はない。
「情報くれたのはありがたいけどよ」
ベッドへ深く腰掛ける。
「俺のこと調べたいんだろ?」
沈黙。
「だったら直接来いよ」
少しだけ、口元を上げた。
「話くらいしてやるぜ?」
当然、返答はない。
「……なんてな」
鼻で笑い、再び天井を見上げる。
その時だった。
「……ん?」
空気の抜けるような音。
それまで壁と一体化していた扉の境界に、細い光が走った。
認証音とロック解除の電子音声。
そして、ゆっくり扉が横へ滑っていく。
「……」
シンは僅かな警戒を抱きつつ身体を起こした。
人影が見える。
長身。
無造作に縛った長髪。
薄く生やした髭。
どこか人を食ったような表情。
初対面。
少なくともシンの記憶にはない。
だが、直感的に察した。
「……アンタか?」
男は答えない。
代わりにニッと笑った。
そして片手を軽く上げる。
まるで、待ち合わせ場所へ少し遅れて現れた友人にでも声をかけるように。
「よっ」
あまりにも場違いな軽い声だった。
「ご指名通り」
一歩、男が拘留室へ踏み込む。
「ストレートで来たぜ?」
「……」
数秒、シンは男を見つめた。
やがて、ふっと笑った。
「……随分遅かったじゃねえか」
その言葉に加持リョウジは、いたずらが成功した少年のような顔でますます楽しそうに笑った。
疲れた。
もう、それ以外の言葉が出てこなかった。
「……はぁ」
聞き慣れたベルの音と共に。
伊吹マヤは、ほとんど逃げ込むように店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
「……こんばんは」
店主へ頭を下げる。
それだけで今日一日分の愛想を使い果たしたような気分になった。
いつもの席は空いている。
本当なら、今日は来るつもりなどなかった。
だがここ数日、どうにもこうにも運がない。
今日はその極地だ。
「あぁ……どこで無くしたんだろ」
思い返すのは数日前。
仕事を終え、せめて今日くらいはゆっくり酒でも飲もうと立ち寄って。
注文して飲み始めて。
ようやく肩の力が抜けたところで呼び出された。
結局、あの日は料理もほとんど食べられなかった。
「……私が何したって言うのよぉ」
だがそんな事もどうでも良いくらいの最悪な不幸が起きた。
ない。
ないのだ。
尊敬する先輩から貰った、密かに宝物にしているアクセサリーが。
いつも痛まないようにカバンにしまいこんでいるアクセサリーが。
夜逃げしたかのようになくなっているのである。
『たまには仕事道具以外の物も身につけなさい』
そんなことを言われて半ば強引に渡されたものだ。
最初は少し困ったし、化粧っ気のない自分には似合わないと思った。
それでも気がつけば、いつの間にか愛着が湧いていた。
仕事へ行く時も、休みの日も。
自然と身につけるようになっていた。
尊敬する先輩から初めてもらった。
大切な思い出の品なのだ。
「……あの」
後ろから、不意に声がした。
「はい?」
振り返ると、見た事の無い大男がいた。
大きい。
最初に思ったのはそれだった。
「……」
マヤの表情が無意識に硬くなる。
知らない男性。
それもかなりの大柄。
自分より頭一つどころではない。
肩幅も広い引き締まっている。
丸刈りから少し伸びたような、短く整えられた髪。
姿勢まで妙に良い。
三十代前半か。
いや、もう少し上だろうか。
軍人か警察官。
そんな職業を連想させる。
「……何ですか?」
自然と声が冷たくなった。
男の視線が一瞬、明らかに泳いだ。
「……」
何も言わない。
「……あの?」
「す、すみません」
ようやく声が出た。
「……?」
妙に丁寧。
というより緊張している?
「何でしょう」
「先程……こちらにいらっしゃいましたよね」
「……」
やはりそうか。
ナンパだ。
そう判断するには充分だった。
自分が一人で飲んでいるところを見ていた。
そういうことだろう。
本当に嫌なことは重なるものだ。
「すみません。そういうのは――」
「これを」
「……え?」
男が何かを差し出した。
掌の上に細い鎖で繋がれた見覚えのある小さな装飾。
「……!」
息を呑む。
「これ……!」
「先程、席を立たれた時に落とされたようでしたので」
「……」
思わず両手で受け取った。
間違いない。
「……よかった」
身体から一気に力が抜ける。
「よかったぁ……」
胸元へ大切に抱く。
本当になくしたと思ったのに。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「本当に……ありがとうございます!」
「い、いえ」
男が明らかに狼狽えた。
「頭を上げてください。拾っただけですので」
「でも、これ……すごく大事なものなんです」
「そうでしたか」
「はい」
改めてアクセサリーを見る。
細かい部品までちゃんとある。
傷もない。
そして、ふと疑問が浮かんだ。
「……あれ?」
「はい?」
「これ、店長さんに預けなかったんですか?」
「……」
男が固まった。
「……」
「……」
妙な沈黙。
「……その」
目を逸らした。
「私も、しばらくこちらへ来るつもりでしたので」
「はい」
「直接お返しした方が確実かと……」
「……」
「……思いまして」
最後だけ妙に小さい。
何だろう。
この人、見た目はものすごく怖いのに。
「……ふふっ」
「?」
思わず笑ってしまった。
「すみません」
「……何か、おかしなことを?」
「いえ」
違う。
怖くない。
それが自分でも不思議だった。
知らない男性に声をかけられた。
最初は当然警戒した。
なのに、今は嫌ではない。
むしろもっと話したいとさえ思う。
「……ありがとうございます」
もう一度。
今度は笑って言えた。
「いえ」
やっぱり目を逸らす。
「……お名前、聞いてもいいですか?」
「え?」
明らかに予想していなかった顔。
「お礼もしたいですし」
「あ、いや。そこまでしていただくほどでは」
「私がしたいんです」
「……」
また固まった。
その様子が、借りてきたネコのような、小動物のように見えて。
何だか少し面白くなってきた。
「私は伊吹マヤです」
「……龍田です」
「龍田さん」
「はい」
「下のお名前は?」
「……ススムです」
「龍田ススムさん」
名前を一度、口の中で転がす。
「じゃあ、龍田さん」
「はい」
「一杯、付き合ってください」
「……はい?」
あまりにも素っ頓狂な声。
「お礼です。奢ります」
「い、いや。それは」
「私が飲みたいだけです」
「でしたら私は関係ないのでは……」
「一人で飲むよりいいでしょう?」
「……」
困っている。
それも本気で。
その様子が何故か嫌ではなかった。
「大将! この人にも同じのお願いします」
「伊吹さん」
「いいじゃないですか。私、今日ものすごく疲れてるんです」
「はぁ……」
「それに」
アクセサリーを見せる。
「恩人ですから」
「恩人というほどのことは……」
「私にとってはそうなんです」
「……」
また黙る。
会話が苦手なのか?
どうやら押しに弱いというか、変に慣れてないように見える。
「龍田さんって、おいくつなんですか?」
酒が届くまで手持ち無沙汰に感じて、マヤは何となく尋ねた。
「二十三です」
「へえ、二十さ……」
止まった。
「……え?」
「二十三です」
聞き間違いではないらしい。
マヤはまじまじと目の前の男を見る。
「……二十三?」
「はい」
「私より年下!?」
「……はい」
「嘘!?」
思わず店内に響く声で驚いてしまった。
何人かの視線がこちらに向けられる。
「……」
「……」
マヤはそっと座り直した。
「すみません……」
「いえ」
二十三。
自分より年下。
この人が。
見た目大柄で体格も良くて正直風格すら漂わせているこの人が。
「絶対、三十過ぎてると思った……」
「よく言われます」
「でしょうね」
即答。
そこでまた笑ってしまう。
「……じゃあ」
届いたグラスを手に取る。
さっきまでの疲労が、ほんの少しだけ遠ざかっていく気がした。
「私の方がお姉さんなんですね」
「……そうなりますね」
「何ですか、その嫌そうな顔」
「嫌ではありません。ただ……」
「ただ?」
「女性とこうして話した経験が、ほとんどありませんので」
「……」
今度は。
マヤが固まった。
「本当に?」
「はい」
「……彼女とか」
「いません」
「昔は?」
「いません」
「……一度も?」
「……ありません」
あまりにも真顔で。
人によってはあまり話したがらなかったり盛ってしまうような話題で迷う事無く言い切ってしまう辺り、本当にこの手の話題に触れたことが無いと分かる。
嘘をついているようには見えない。
もしかしたら、嘘のつき方も知らないのではないだろうか。
「……ふふ」
「?」
「いえ、何でもありません」
やっと腑に落ちた。
最初に声をかけられた時、反射的に警戒した。
当然だ。
男の人は苦手だった。
馴れ馴れしく距離を詰められるのも。
値踏みするように見られるのも。
下心を隠して親切そうに振る舞われるのも。
その全部が、吐き気を催すほど嫌だった。
だから出来る限り距離を取ってきた。
なのに、この人からはそれをまったくと言って良いほど感じない。
目が合えば逸らす。
近づけば少し固くなる。
自分から距離を詰めてこない。
それどころか自分が一杯付き合ってほしいと言っただけで、目に見えて慌てふためいている。
「……変な人」
「何か?」
「何でもありません」
グラスを持ち上げる。
「じゃあ」
少しだけ悪戯っぽく笑った。
「今日はお姉さんが、飲み方を教えてあげます」
「え!? 自分より飲めるんですか!? 凄いですね!」
「そういう意味じゃありません!」
思わず声を上げる。
そして、二人でほんの少しだけ笑った。
「……乾杯しましょうか」
「はい」
グラスが小さく触れ合う澄んだ音。
その瞬間、マヤは不思議なことに気づいた。
疲れていない。
いや、疲れている。
身体は重い。
明日も仕事だ。
戻ればまた、山ほどやることがある。
何一つ解決していない。
それなのに。
さっきまであれほど早く酔って忘れてしまいたかった一日を。
今はもう少しだけ覚えていてもいいような気がした。
「……龍田さん」
「はい」
「今度から、ススム君って呼んでもいい?」
「……」
また固まった。
「ダメ?」
「……いえ」
耳が少し赤い。
「構いません」
「じゃあ決まり」
何故だろう。
楽しい。
その理由を伊吹マヤはまだ知らなかった。
ただ一つ自分でも気づかないほど小さな変化だけがあった。
いつもなら知らない男性との間に無意識に置いていたはずの距離。
それが龍田ススムという青年との間にはいつの間にかなくなっていた。
そして彼が二十三歳だと知った後も、目の前の大きな身体が、何故か少しも怖くは見えなかった。
カウンターの片隅で、二つのグラスがもう一度小さな音を立てた。
<次回予告>
自らの意志とは無関係に過ぎる見知らぬ記憶の断片。
迫り来る破滅の予言のように少女の心を苛む。
己の弱さと向き合えぬまま、またしても少女の心は壊れてしまうのか。
次回、新世紀の星。
『アスカの願い』
怖いの……?
誰かに見てもらえない事が。