定時退社の守護者 〜ギルド受付嬢は、残業を許さない〜 作:can'tPayPay
イフールの街に、奇妙な静寂が訪れていた。昨日までの喧騒が嘘のように、ギルドの依頼板は空っぽだ。それどころか、朝一番に掲示されるはずの「緊急討伐依頼」すら一枚も貼られていない。
「……気持ち悪いくらい、平和ね」
私はカウンターで手持ち無沙汰にペンを回す。今の時刻は午前九時。普段なら冒険者たちが殺気立って列を作っている時間だが、今日に限っては数名の熟練冒険者が、ただ静かにお茶を飲んでいるだけだ。
「アリナ、これ……ただの平和じゃないぞ」
隣でカイが、珍しく険しい顔でカウンターの端に置かれた魔力計測器を覗き込んでいる。彼の手元で、水晶が赤黒く変色していた。
「この街の魔力濃度が……急激に低下してる。まるで、誰かが意図的に街全体の魔力を吸い上げているみたいだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。魔力の低下。それは、この街を支える結界や、魔力を動力源とするギルドのシステム、そして何より——私たちの「定時退社」に必要な魔術的空間の維持にとって、致命的な状況を意味する。
「……誰が、何のために?」
その答えは、すぐに明らかになった。ギルドの正面玄関に、全身を漆黒のローブで包んだ一人の男が現れたからだ。男の背後には、空中に浮遊する無数の「鏡」が並んでいる。その一つ一つに、私たちの過去——戦い、定時のために駆け抜けた軌跡、そして、あの時私たちが「魔力を改ざん」した瞬間の映像までが映し出されていた。
「ようこそ、定時という名の迷宮の住人たちよ」
男の声は、まるでガラスを擦り合わせたような不快な響きを持っていた。
「私は魔術師『鏡の写し身』。君たちが紡いできた『日常』という名の物語、その綻びを収集しにやってきた」
男が指を鳴らすと、ギルド内の空気が一変した。壁に映し出された私たちの姿が、まるで独立した意思を持つかのように、鏡から抜け出してきたのだ。黒い霧で形作られた「私たち」の写し身が、冷酷な笑みを浮かべてこちらを見ている。
「カイ、あれ……」
「ああ。俺たちの魔力特性を完璧にコピーしてる。……本物同士の殴り合いじゃ、この街が持たないぞ」
カイは素早く私の前に立ち、ワープを展開しようとする。しかし、鏡の男が空中で手を交差させると、私たちの背後に展開されていたゲートが、パキリと音を立てて砕け散った。
「空間転移は封じた。ここでは純粋な力のみが支配する」
写し身たちが同時に動き出す。私がハンマーを構えるよりも早く、写し身のハンマーが私の肩をかすめた。鋭い風圧。本物以上に洗練された、無駄のない動き。
「くっ……! なんて強さ……!」
私は後方に飛び退き、体制を立て直す。カイは写し身と激しく交差しているが、相手は彼の「定時を守るための魔力運用」の癖すら熟知しており、防戦一方に追い込まれていた。
「……面白い。お前たちは、定時という『結末』に固執するあまり、その過程にあるはずの苦しみや迷いを、すべて論理で塗りつぶしてきた」
鏡の男が不気味に笑う。
「さあ、見せてくれ。その仮面を剥がされた時、君たちはまだ、定時退社なんて戯言を言えるのか?」
写し身の一体が、私の喉元に鋭い刃を突きつける。私はその直前でハンマーを地面に叩きつけ、衝撃波で距離を取った。
(……論理? 仮面? そんなことはどうでもいい。私たちが求めているのは、そんな抽象的なものじゃない!)
私は駆け出した。守るべきものは何か。定時退社という「結果」ではない。私が愛しているのは、その結果に至るまでの、カイと過ごす無数の一分一秒だ。
「カイ!」
「分かってる!」
カイは私の意図を即座に理解した。彼は写し身をあえて自身の背後へ誘い出し、そこへ私への道を切り拓くように魔法を放つ。鏡の写し身がそれを防ごうと鏡を並べた瞬間、私はハンマーではなく、自分の指先に魔力を集中させた。
昨日、彼に教わったばかりの「座標改ざん」の応用。
「これは『日常』の、ただの処理よ!」
私が指先を弾くと、鏡の男が並べていた「鏡」の配置が、瞬時に書き換えられた。写し身たちが攻撃を放とうとした先——それは、写し身自身であった。
「なっ……!?」
写し身同士の攻撃がぶつかり合い、黒い霧が霧散する。鏡の男が狼狽する隙を突き、私は彼の目の前に飛び込んだ。
「定時を守るのは、私たちの仕事よ。あんたのような『物語の観測者』に、私たちの時間を汚させはしない」
ハンマーを振り下ろす。衝撃が鏡の男を壁に叩きつけ、浮遊していた鏡がすべて粉々に砕け散った。男は最後に悔しそうな表情を浮かべ、黒い霧となって消えていった。
静寂が戻る。ギルドには、砕けた鏡の破片だけが散らばっていた。
「……ふう。危ないところだったな」
カイが私の隣に来て、肩に手を置く。私もハンマーを消し、深く息を吐いた。
「ええ。……でも、一つ分かったわ。私たち、この日常がどれだけ危ういバランスの上に成り立っているか、少しだけ理解した気がする」
ギルドの外では、再び活気が戻りつつある。空からは魔力の濃度が正常値へと戻っていくのが感じられた。
「お疲れ、アリナ。……さて、定時まであと七時間だ。遺跡の調査報告書、まだ終わってないんじゃないか?」
「……っ! 最悪! あの男のせいで、事務作業が溜まってるじゃない!」
私は怒りに任せてカウンターに戻った。カイはそんな私を笑いながら、コーヒーを淹れてくれる。
「ほらよ。今日は特別、俺も手伝ってやるから」
「……当たり前よ。あんたが私の定時を奪った分、全部取り返してもらうんだからね」
私たちは再び書類の山に向き合った。鏡の男が言っていた「仮面」や「物語」なんて、今の私たちにはどうでもいい。ただ、この積み重なる書類を、二人でいかに効率よく片付けるか。それだけが、今の私たちにとっての唯一の冒険だ。
夕日がまた、窓から差し込み始める。
私たちは隣り合わせで、ペンを走らせる。
「……ねえ、カイ」
「ん?」
「……もしまた、あんなのが現れたら、どうする?」
「その時は、また二人で『処理』するだけさ。……どんな物語の写し身だって、俺たちの定時退社には勝てない」
私は彼の言葉に、今日一番の笑顔で頷いた。
最強の受付嬢と、最高の相棒。
二人の日常は、今日も誰にも壊せない。
鐘の音が響く。
午後六時。
私たちは顔を見合わせ、立ち上がる。
「……お疲れ様。今日という日は、私たちの勝利ね」
「ああ。……さあ、最高のディナーを食べに行こうぜ」
二人は夜の街へ駆け出す。
私たちの「定時」という聖域は、これからも二人だけのもの。
たとえ世界が鏡のように姿を変えようとも、私たちは私たちであり続ける。
星空が、私たちの歩みを優しく照らしている。
次の一歩が、また新しい一日を紡いでいく。
二人の冒険は、永遠に——定時の鐘と共に続いていくのだから。