定時退社の守護者 〜ギルド受付嬢は、残業を許さない〜   作:can'tPayPay

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第十二話:境界線の融解、二人だけの「定時」

鏡の男が残した破片が、ギルドの床に散らばっている。その一つ一つに、私たちの記憶がまだ微かに映り込んでいるような気がした。

 ギルドを後にし、いつもの帰り道を歩く。普段なら軽口を叩き合うはずの二人の間に、少しだけ重たい、けれど甘い沈黙が流れていた。さっきの戦いで、私たちの「境界線」は、少しだけ脆くなっていたのかもしれない。

 立ち止まることもなく、私たちは自然と路地裏の、街灯も届かない静かな場所へと足を向けていた。

「……ねえ、アリナ」

 不意に名前を呼ばれ、私は立ち止まる。振り返ると、カイがいつもよりもずっと真剣な眼差しで私を見つめていた。その瞳の中に、夕闇が溶け込んでいる。

「今日の戦いでさ、鏡の中に俺たちの……本当の姿、というか。俺たちが何を大事にしているか、全部あいつに見せつけられた気がしたんだ」

 彼は一歩、私に近づく。いつもの軽薄な笑みはどこにもない。私の中にあった「受付嬢」としての硬い殻が、彼の一歩ごとに、音を立てて崩れていくような気がした。

「私たちは、定時退社のために生きているわけじゃない、だろう?」

 心臓が、早鐘を打つ。彼の手が、ゆっくりと私の頬に伸びてくる。私は、それを拒む理由をどこにも見つけられなかった。

「……バカなこと言わないでよ。私たちは、仕事のために……っ」

「嘘だ。お前はただ、俺といたいだけだろ? 俺も、そうだ。ギルドの書類が片付くことよりも、お前と並んで歩いているこの時間の方が、何倍も大事なんだ」

 彼の指先が、私の頬を優しく撫でる。その温もりは、魔法よりもずっと現実的で、確かな熱を持って私の肌に触れていた。私は自分の体が、彼の手のひら一つでどうにでもなってしまいそうなほど、無防備になっていることを悟った。

「……ずるい人。そんなこと、言わせないでよ」

「言わせてくれよ。俺たちは、もう何百回、何千回と境界線を越えてきたんだ」

 彼の顔が、すぐ目の前にあった。

 私はゆっくりと目を閉じる。閉じた瞼の裏に、今日一日、彼と一緒に過ごした無数の景色が駆け巡る。彼の手が、私の腰に添えられる。さっきまで戦場でハンマーを振るっていた私の手は、今は震えながら、彼の背中の服をぎゅっと握りしめていた。

 唇が重なる。

 それは、魔術の契約よりも強く、冒険の誓いよりも深く、二人の時間を繋ぎ止めるものだった。

 周囲の音は消え、世界には私たち二人しか存在しない。

 ギルドの鐘の音も、明日の書類の山も、騎士団の監視も、すべてが彼という存在の影に隠れていく。私は、彼の手の中で、自分が「受付嬢のアリナ」から、ただの「カイの隣にいる女」へと変貌していくのを感じた。

 ……甘い。

 ケーキの甘さなんて比べ物にならないほどの、濃密な時間。

 離れた唇と唇の間に、微かな糸が引く。私は息を乱しながら、彼を見上げた。彼の瞳が、私を映し出している。そこには、完璧な仕事をする受付嬢の姿も、戦場で暴れ回る処刑人の姿もない。ただ、彼を愛する一人の女の子の姿だけが、あった。

「……もう、明日から、定時なんて言葉、言わなくていいかもね」

「いや、言うぜ。……俺たちが定時に帰ることは、俺たちの誇りだからな」

 彼は笑い、私の額に自分の額を預けた。

 私たちはしばらくの間、そうして立ち尽くしていた。街の灯りが、二人の距離を祝福するように遠くで揺れている。

「……帰ろう。今日のディナーは、家でゆっくり食べよう」

「ええ。……もちろん、私の分も全部あんたが作ってよね」

「もちろん。……一生かけて、作ってやるよ」

 私たちは手を繋ぎ、歩き出した。さっきまでの、少しだけ緊張を孕んだ沈黙はもうない。私たちの指と指は、まるで一つの鎖のように固く結ばれている。

 家への道すがら、私たちはもう、戦いのことなんて話さなかった。

 どんなスイーツが美味しいとか、次に二人で旅行に行くならどこがいいかとか、そんな他愛のない話ばかり。それは、私たちがずっとずっと前から夢見ていた、本当の日常の姿だった。

 家に帰り、テーブルに料理を並べる。

 それは特別な豪華なものではないけれど、彼が私のために作ってくれた、世界で一番贅沢な食事だ。

「いただきます」

 私たちは並んで座り、食事を始める。

 ふと、彼がフォークを置いて、私の方を見た。

「アリナ」

「なに?」

「……これからも、よろしくな。受付嬢の相棒として」

「……ふふ。ええ、よろしく。定時退社のパートナーさん」

 私は彼の手の上に、自分の手を重ねた。

 もう、境界線なんてない。私は彼の中に、彼は私の中に、自分たちの「聖域」を作り上げたのだ。

 最強の二人。

 これからどんな嵐が来ようと、どんな鏡のような写し身が現れようと、私たちはきっと大丈夫だ。

 だって、私たちはもう、一人じゃないのだから。

 夜が更けていく。

 二人の心音だけが、静かな部屋に響いている。

 これが、私たちの新しい冒険の始まり。

 誰にも邪魔されない、私とカイだけの、永遠の「定時」が、今夜から幕を開ける。

 窓の外では、月が静かに見守っている。

 二人の物語は、明日の朝、また新しい光と共に紡がれるだろう。

 でも、今夜だけは、この幸せの温もりに包まれて、夢を見よう。

 最強のコンビから、最強のパートナーへ。

 私たちは、最高の「定時」を更新し続ける。

 キャンドルの灯りが、テーブルの上で優しく揺れる。

 二人の影が一つになって、壁に重なっている。

 もう、戻れない。

 戻る必要なんてないのだから。

 静かな夜。

 二人の呼吸が重なり、幸せな時間が流れていく。

 ああ、神様。どうかこの時間を、明日も、明後日も、ずっとずっと守ってください。

 最強の受付嬢アリナの、初めての、そして誰にも譲れない願い事だった。

 ……そして、翌朝。

 目覚めた私たちの世界は、昨日よりも少しだけ、優しくなっていた。

 ギルドへ向かう道すがら、カイが私の手を繋いでくれる。

 昨日までは「秘密の共犯者」だった私たちも、今日からは「一番の理解者」として、隣に立っている。

 ギルドの扉を開ける。

 いつもの事務的な風景。

 けれど、私の心には、昨日とは違う温かい火種が灯っている。

「おはよう、アリナ」

「おはよう、カイ」

 周囲の冒険者たちは、私たちの変化に気づいていない。

 それでいい。

 私たちの「定時」は、私たち二人だけの、誰にも侵されない聖域なのだから。

 今日という日が、また始まる。

 どんなトラブルも、どんな書類も、どんな強敵も。

 二人でいれば、それは単なる「事務処理」に過ぎない。

 最強の受付嬢と、最高の相棒。

 私たちの定時退社の冒険は、これからもどこまでも続いていく。

 さあ、今日も完璧に、定時に帰るわよ!

 そう心の中で叫んで、私は一番の笑顔でペンを握った。

 その隣では、カイがニヤリと笑って、私の手元の書類を整理し始めている。

 二人の戦いは、今日も勝利へ向かって走り出す。

 ……最強の二人に、恐れるものは何もない。

 さあ、定時まで、あと八時間。

 冒険の、始まりだ。

 

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