定時退社の守護者 〜ギルド受付嬢は、残業を許さない〜   作:can'tPayPay

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第三話:聖域外の休日と、空っぽのカウンター(カイ視点)

冒険者ギルドの休日。それは街全体が休息の泥に沈む日だが、僕、カイにとっての休日とは「アリナという名の難攻不落の城」を外から眺める日でもある。

 街の喧騒は適度なノイズとして響き、僕は路地裏のカフェで、ギルドの方角をぼんやりと見つめていた。アリナは今日、非番ではない。ギルドは祝日だろうが何だろうが、年中無休で稼働している。彼女にとっては、休日こそが一年で最も「効率的に仕事を片付けられるボーナスタイム」という名の魔境だ。

「……あいつ、今頃は何をしているかな」

 僕はカップに残ったぬるいコーヒーを飲み干した。普段ならカウンターの隣で彼女の魔力を感じ取れる。書類の山に殺意を燃やし、冒険者たちの的外れな質問に笑顔で「死ね」と念じている彼女の、あの張り詰めた気配。それが近くにないだけで、休日というものはこれほどまでに退屈なものかと溜息が出る。

 カフェを出て、人通りの多い大通りを歩く。冒険者たちの浮かれた声が耳障りだ。彼らは知らない。自分たちが冒険に出ている間、ギルドの裏側でどれほどの「定時を守るための処刑人」が、彼らの帰還を待っているのかを。

 ふと、ギルドの正面玄関に目を向ける。休みにもかかわらず、クエストを受けに来る連中が列をなしている。その向こう側、厚い防音壁の向こうにアリナがいる。想像するだけで、彼女の鋭い眼光が浮かぶ。

(多分、今は山積みの依頼書を処理してるはずだ。あいつは手際がいいから、予定より一時間は早く終わらせるだろうな。……問題は、その浮いた一時間で、さらに新しい仕事を呼び込んでしまうことだ)

 アリナは「定時」を何よりも愛しているのに、その完璧すぎる処理能力のせいで、周囲から「もっと仕事が回せる」と勘違いされている。矛盾だ。最高の矛盾だ。だからこそ、彼女は時にダンジョンへ潜り、物理的にクエストを消去するという極端な解決策を選ぶ。

 僕は街の端にある骨董品店へ向かった。昨日、彼女がふと漏らした「紅茶の茶葉が切れた」という言葉が、頭から離れない。

「いらっしゃい、カイ。今日は珍しいね、独りかい?」

「ああ。ちょっと、いい茶葉を探しててさ」

 店主に渋い顔で言われながら、僕は一番香りの高い、落ち着いた茶葉を選んだ。これを渡せば、彼女は少しだけ毒気を抜いてくれるだろうか。僕が隣でゲートを開くとき、彼女が少しだけ見せる、あの安堵の表情。あれをもう一度見たい。

 空はすでに茜色に染まり始めている。午後五時。ギルドの業務終了まで残り一時間。

(……行くか)

 僕はギルドのすぐ裏手にある、普段は誰も通らない路地へと回り込んだ。ここは僕が魔力を流し込み、アリナの「帰還地点」を確保している場所だ。休日だからといって、警備が緩むわけではない。むしろ、交代制の職員が増えていて、アリナの「抜け道」を見つけるのは困難を極める。

 僕は路地の影に潜り、魔力を薄く広げる。探知魔法に引っかからないよう、街の喧騒に紛れ込ませる。

(……アリナ、ちゃんと定時に上がれよ)

 僕が祈るような気持ちでゲートを安定させると、向こう側の気配が揺れた。確実に来る。彼女は今日も、勝利を確信して歩を進めているはずだ。

 やがて、ゲートからふわりと、いつもの微かな紅茶の香りが漂ってきた。同時に、ローブを纏ったアリナが滑り込むように路地へ飛び出してきた。彼女の目は、獲物を見つけた猛禽類のように鋭い。

「……遅い」

 彼女は僕を見るなり、そう吐き捨てた。だが、その声は以前よりもどこか甘い。

「ごめんごめん。ちゃんと待ってたろ?」

「待ってる暇があったら、もっと精度の高いゲートを開きなさい。今日の職員はしつこくて、裏口を抜けるのに五分もかかったわ」

 不満げに鼻を鳴らすアリナ。彼女のローブには、ダンジョンの埃ではなく、一日中座り続けた事務仕事の疲労が張り付いている。僕は迷わず、ポケットに忍ばせていた茶葉の箱を差し出した。

「これ。休日に見つけたんだ。アリナが好きそうなやつ」

 彼女は一瞬、きょとんとして、それからゆっくりと僕の手から箱を受け取った。彼女の指先が、僕の手に触れる。火傷しそうなほど冷たくて、同時に熱い。

「……何よ、急に。こんなもの貰っても、定時が早まるわけじゃないわよ」

「わかってるよ。ただ、君がこれを淹れて飲む時間が、少しでも平和になればいいなって思っただけだ」

 彼女の表情が、微かに崩れる。いつもは氷のような仮面の下に隠している、年相応の、疲れ切った少女の顔。僕だけが知っている、彼女の「本当の姿」。

「……ずるい人」

 彼女は茶葉の箱を胸に抱きしめ、少しだけ視線を逸らした。

「……今日はケーキ、あんたが奢ってくれるんでしょ?」

「もちろん。一番高いやつ、予約しておいたよ」

「……ふん。期待してあげてもいいわよ」

 彼女は顔を赤らめながら、僕の腕を掴んだ。その力は、昨日よりも少しだけ強かった。

(……やっぱり、休日のアリナも悪くないな)

 ギルドという名の戦場から帰還した「定時の死神」は、今、僕の隣で、ただの可愛い女の子に戻っている。明日になれば、また彼女は戦場に立ち、僕はゲートを開く。この繰り返しは、永遠に続くのかもしれない。だが、それが今の僕にとって、最高に贅沢な冒険なんだ。

 二人の影が、街の灯りに照らされて長く伸びる。夕闇がすべてを隠してくれる。僕たちはケーキ屋へと歩き出し、昨日よりも少しだけ、未来の話をするようになった。

 空に星が瞬き始める。アリナは僕の腕の中で、小さく、けれど確かに幸せそうな溜息をついた。

(……明日、あんたが寝坊してゲートを開くのが遅れたら、絶対に許さないんだから)

 そう心の中で毒づく彼女の声が聞こえるようだ。だが、僕は笑う。彼女が僕を必要としている限り、僕は何度でもゲートを開こう。定時という名の聖戦、その先に待っている彼女の笑顔のために。

 街の喧騒は遠く、僕たちの世界は、この路地裏と、これから向かうケーキ屋の中にだけ存在している。最強の受付嬢の休日は、こうして静かに、甘く終わりを告げようとしていた。

 アリナがふと、僕を見上げて言った。

「ねえ、カイ。……明日は、少しだけ早くゲートを開けてよね。……あんたの顔、見ないと、仕事に身が入らないのよ」

 それは、彼女なりの愛の告白だった。僕はただ、彼女の手を握り返すことしかできなかった。この瞬間の重みが、言葉にするにはあまりにも尊いものだと知っていたから。

 明日が来れば、また戦いが始まる。書類の山、終わりの見えないクエスト、無能な冒険者たち。だが、彼女はもう一人じゃない。そして僕も、ただの冒険者ではなくなった。

 二人の日常は、今日も誰にも知られることなく、穏やかな夜へと溶けていく。定時退社という名の戦いを終えた二人の背中は、どんな英雄よりも誇らしげに見えた。

 イフールの鐘が、八時を告げる。

 二人の幸せな時間が、また一ページ、増えた。

 そんなことを思いながら、僕は彼女の隣を歩く。ケーキ屋の明かりが、すぐそこに見えていた。アリナの歩調は、今日一番の笑顔と共に、弾むように軽くなっていた。

 

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