定時退社の守護者 〜ギルド受付嬢は、残業を許さない〜 作:can'tPayPay
ギルドのカウンターには、今日もまた「残業」という名の死神が微笑んでいる。依頼書が山積みになり、それがまるで時限爆弾のように私の精神を削り取っていく。
「あの、受付嬢さん! このクエスト、報酬が低すぎませんか? もっと交渉を……」
「お客様、規定です。不満があるなら、直接ギルド長にお手紙でも書かれたらいかがです? ……笑顔で」
私は完璧な微笑みを維持したまま、机の下で拳を硬く握りしめた。口角が微かに痙攣する。私の隣で、カイが肩を震わせているのが見えた。彼はペンを回しながら、私の横顔をちらりと盗み見る。
「アリナちゃん、また眉間がピクついてるぞ。そんなに怒ると、せっかくの美人顔が台無しだぜ?」
「……うるさいわよ。あんたのその能天気な顔、今すぐそのデスクの下のゴミ箱に突っ込んでやりたいわ」
「おっと怖い。でもさ、これ全部今日中に片付けるつもりか? さっきの騎士団の調査、意外と長引いたからな。……あと一時間で定時だぜ」
カイはわざとらしく仰け反り、デスクに足を投げ出した。私は冷たく言い放ちながら、騎士団から持ち込まれた大量の書類を指先で弾く。
「だから必死にやってるんでしょうが。……あんた、人の書類を眺めてないで、少しは手伝ったらどうなの」
「ん? 見ての通り、受付業務の補助だよ。俺たち、パーティーだろ?」
カイはふっと笑うと、背伸びをしながら私の手元の書類をさりげなく数枚引き抜いた。彼の指先が私の袖に触れ、微かな静電気と共に魔力が流れる。書類の文字が、彼の魔法で驚くほど速く転写されていく。
(……この人、本当に何なのよ。どうしてここまでしてくれるの? 私が処刑人だって、残業を憎むあまりにボスを全滅させているなんて、異常者だと思わないの?)
ふと、私の中の「仮面」がグラりと揺れた。もし、私がこの仮面を完全に脱ぎ捨てたら、彼はどうするのだろう。受付嬢という鎧を捨て、ただのアリナとして彼に向き合ったら。
その時、ギルドの重厚な扉が大きく開かれた。街の治安維持部隊「騎士団」の隊長が、不敵な笑みを浮かべてこちらへ近づいてくる。
「アリナ殿、少々いいかな。例の件だが、昨夜の討伐記録、まだ不完全のようだ」
「……不完全、ですか?」
私は椅子から立ち上がり、手袋を整えながら彼に向き直った。表情筋を完全に凍らせ、最も冷徹な「受付嬢」の仮面を被る。
「はい。ダンジョン内の空間変動は、当ギルドの管轄外でして。騎士団様の調査が至らないのを、私共に振られても困ります」
「ほう、随分と強気だな。君が昨夜、裏口から出て行ったのを見かけたという報告があるのだが」
隊長がカウンターに手を突き、私に顔を寄せる。私は微塵も動じず、逆に一歩前に出た。
「……私の休憩時間まで、騎士団様が管理されるのですか? 随分と暇なのですね、イフールの警備隊は」
私は隊長の鼻先で優雅に微笑んだ。その瞳の奥には、彼をハンマーで粉砕するシミュレーションが渦巻いている。隊長は一瞬、背筋を凍らせたように後ずさりした。
「……チッ。生意気な女だ」
「ご忠告、ありがとうございます。……あ、お帰りの際、ドアに足でも挟まれないようお気をつけくださいませ」
隊長が去ったあと、私は激しく肩で息をした。カイが駆け寄り、私の肩に手を置く。
「おいおい、あんな挑発していいのか? あいつら、かなり疑ってるぞ」
「……関係ないわ。あのままあいつらと喋っていたら、私の退社時間が確実に十五分消えていたもの」
私はデスクに突っ伏し、髪をかき乱した。完璧な受付嬢の仮面が、少しだけ歪む。カイは私の乱れた髪をそっと直しながら、呆れ半分に笑った。
「お前、本当に仕事に関しては妥協しないよな。……で、さっきの質問だけどよ」
「……質問?」
「もし俺たちがこのギルドを追われたら、どうするかって話だよ」
私は顔を上げ、彼の真剣な眼差しと向き合った。いつもは軽薄で、私の殺意を茶化すばかりの彼が、今は真っ直ぐに私を見ている。
「……さあね。あんたと一緒にダンジョンでも潜って、一生ボスと戦いながらお茶でも淹れてるんじゃない?」
「へえ、俺を誘うのか? それ、プロポーズと取っていいか?」
「馬鹿言わないでよ! ……あんた以外に、私の定時を邪魔せずにゲートを開ける男なんていないから、仕方なく選んであげてるだけよ」
私は赤面を隠すように、また書類に顔を埋めた。カイは嬉しそうに目尻を下げ、私の隣の席に座り直す。
(あいつ、真面目すぎるんだよ。……「受付嬢のアリナ」でありたいと願いながら、「定時を奪う敵を殲滅する処刑人」である自分を、どこか受け入れ始めている。……というか、むしろ楽しんでるだろ、あいつ)
カイは窓の外を見ながら、魔力を微調整する。僕の最大の「業績」は、ダンジョンのボスを倒したことではなく、この最高に厄介で最高に可愛い女の「定時退社」を維持していることにある。
「はいはい。じゃあ、明日のゲートはいつもより早めに開いておくよ。アリナちゃんが俺の顔を見て安心できるようにさ」
「……っ! 別に見たくないわよ!」
私は机の上のペン立てを彼の方へ軽く投げた。カイはそれをヒョイと手で受け止め、満足げに笑う。
(アリナ、お前はいつか、その仮面を脱ぐことになる。その時、俺が隣にいることが、お前にとっての「帰る場所」になればいい)
ギルドの壁時計が、午後六時を告げる鐘を打ち鳴らした。
「ほら、定時だぞ。勝利の凱歌を上げる時間だ」
「……そうね。今日は本当に勝ったわ」
私は書類をすべて放り出し、立ち上がる。窓の外には、オレンジ色の夕焼けが広がっている。私はコートを羽織り、カイの腕に遠慮がちに腕を絡めた。
「……行くわよ。一番高いケーキ、あんたの奢りだからね」
「もちろん。今日のアリナちゃんは最高に可愛いから、いくらでも奢ってやるよ」
「っ、今の撤回しなさいよ!」
二人は夕闇の街へと駆け出す。背後で聞こえるギルドの喧騒も、明日への不安も、今の私たちには関係ない。ただ、定時という名の聖戦に勝利したという事実だけが、今の二人の距離を確実なものにしていた。
夜の街路樹の間を通り抜けながら、私はカイの手を握りしめる。彼の掌は温かく、ギルドの冷たいカウンターとは正反対だった。
「ねえ、カイ」
「ん?」
「……明日もまた、私の定時を守ってくれる?」
「当然だろ。お前が帰るまでが、俺のクエストなんだからな」
私は彼の腕の中で、小さく笑った。最強の受付嬢の日常は、まだまだ続く。たとえ明日、どんな地獄が待っていようとも。この男が隣にいて、私が定時で帰れるなら、きっと私はどこまでも戦える。
街灯が私たちを照らし、二人の影を長く地面に描き出した。それはまるで、どこまでも続く未来へと繋がっているかのように。
「……帰ろう。今日という一日は、私たちだけのものなんだから」
そう呟いて、私は夜の闇へと足を踏み出した。背後でギルドの扉が閉まる音がした。それは、戦いの一幕が終わった合図。二人の秘密と、甘いケーキ、そして誰にも邪魔させない定時の時間。すべてが、この静かな夜の中に溶けていった。
二人の心は、言葉にしなくても繋がっている。この不器用で、愛おしくて、最高にイカれた「定時退社」の共犯関係こそが、私たちの冒険のすべてなのだから。
明日は、どんなボスを倒そうか。そんなことを考えながら、私は彼の隣で、今日一番の幸せな溜息をついた。私たちの物語は、明日もまた、定時の鐘と共に始まるのだ。