定時退社の守護者 〜ギルド受付嬢は、残業を許さない〜 作:can'tPayPay
イフールの街に朝の鐘が響く。いつものように完璧な身だしなみを整え、鏡の中の「受付嬢アリナ」に微笑みかける。だが、その微笑みは今朝、鏡の中に映る自分自身の目と合わなかった。
(……昨日の余韻、まだ残ってるわね)
カフェで食べたケーキの甘さ、カイの腕の温もり、彼が笑った時の目尻の皺。それらが私の心の中で、受付嬢としての「冷徹な規律」を侵食している。
ギルドへ向かう足取りは、いつになく軽かった。しかし、それは仕事への意欲ではない。カイに会える、その事実だけで私の心拍数は今日も上昇している。
「……おはよう、アリナちゃん」
ギルドの入り口で待っていたカイが、いつもの軽薄な笑みを浮かべて手を振る。私はわざと素っ気なく顎をしゃくり、彼の隣へと並んだ。
「おはよう。……昨日のケーキのお礼は、今日一日あんたのミスをカバーしてあげることで帳消しにしてあげるわ」
「おっと、そりゃあ助かる。でも、ミスをする予定なんてないんだけどな?」
「ふん、ならいいわ。せいぜい私の邪魔にならないようにしてよね」
軽口を叩き合いながらカウンターへ向かう。周囲の冒険者たちは、私たちが「ただの受付嬢と冒険者」だと思っている。この隠れた関係性が、秘密のスパイスのように胸を疼かせる。
*
アリナが隣で書類を広げたとき、ふと彼女の指先がかすかに震えているのが見えた。普段ならあり得ない。彼女の所作は常に正確無比だ。
(……あいつ、少し疲れてるのか? それとも……)
俺は彼女の書類の束を一部奪い取りながら、小声で囁いた。
「おい、アリナ。何かあったのか? 騎士団の件なら、俺がなんとかするから無理するなよ」
「……別に、何でもないわよ。ただの寝不足。あんたのせいじゃない?」
「はは、俺の顔を思い浮かべて眠れなかったのか? そりゃ悪いことしたな」
アリナは真っ赤になってペン立てを投げようとしたが、ギルドの忙しない空気に押されてそれを止めた。その一瞬の隙に、俺は彼女の表情の中に「迷い」を見た。彼女は今、このギルドで働く自分と、定時を勝ち取るためにハンマーを振るう自分、その狭間で何かを求めている。
(あいつにとって、この受付嬢の仮面は……守るべきものなのか、それとも捨てたいものなのか)
*
午前中、ギルドに激震が走った。
深層階層のボスエリアから、今まで見たこともない強大な魔力反応が検知されたのだ。討伐に来たパーティーは全滅。生存者はゼロ。ギルドの警報が鳴り響き、受付はパニックに陥った。
「落ち着いてください! 順に避難勧告を……!」
私は冷静を装い、冒険者たちを誘導する。だが、水晶玉に映るその魔力——かつて私が粉砕したボスとは比較にならない禍々しさに、直感で理解した。
(……これ、放置できないわ)
避難誘導を終え、裏へ回る。カイがすでにスタンバイしていた。
「……おい、アリナ。あの反応、いつもの遊びじゃないぞ。……『深淵の門』だ。ギルドが動く前に俺たちが潰さないと、この街ごと消える」
カイの表情から軽薄さが消えていた。いつもの彼ではない。戦う男の顔だ。
私は迷わず、隠し持っていたハンマーを取り出した。いつもの制服の下に、戦うための衣装を纏う。
「行きましょう。……今日中に帰るわよ。紅茶を飲むために」
「ああ。今日は一番高い紅茶、俺が奢るよ」
ゲートを潜り、戦場へ。
そこは、すでに地獄の入り口だった。触手のような魔力が空間を支配し、ボスが私たちを待ち構えている。
「カイ!」
「言われなくても!」
カイが魔力を全開にしてボスを固定する。俺の魔術が通用しない相手でも、彼女の物理的な暴力だけは別だ。
私は全速力で駆け抜けた。ハンマーを振るう。一撃、二撃。ボスの肉塊が弾け飛ぶ。
(……邪魔よ。私の日常を、私の定時を奪おうとするものは、すべて……!)
言葉は出ない。ただ、怒りにも似た情熱だけが私を突き動かす。
最後の一撃。ボスが消滅し、空間が元の静けさを取り戻した時、私はその場に膝をついた。
「……終わった」
カイが隣に駆け寄る。彼は汗だくの私の顔を見て、安心したように笑った。
「やったな。これで今日は文句なしの定時退社だ」
その瞬間、私の仮面が、本当に剥がれ落ちた。
私は、戦い終えたばかりの興奮と、隣にいるカイへの愛おしさで、彼に飛びついた。
「……あんた、本当に、ずるい人!」
私の言葉に、カイは少し驚いたように目を見開き、それから優しく抱きしめ返してくれた。戦場の静寂の中で、二人の心音だけが重なる。
「……あ、私、何やって……っ」
我に返り、飛び退こうとする私を、彼は離さない。
「そのままでいいよ。誰も見てないし、戦いの後の休憩時間だろ?」
私は彼の胸に顔を埋めた。もう、何が仮面で、何が本当の私かなんてどうでもよかった。受付嬢のアリナも、処刑人のアリナも、すべてが彼を必要としている。
「……明日も、また、私のゲートを開いてくれる?」
「当然だろ。世界が滅びても、俺はお前の定時を守るよ」
空気が甘く変わる。私たちはそのまま、ゲートを使ってギルドの裏口へと戻った。
外はもう、すっかり夜。
ギルドの鐘が鳴る。私たちは並んで、何食わぬ顔でギルドの受付カウンターへ戻った。そこには、私たちが不在だったことなど誰も気づいていない平和な日常がある。
「おかえり、二人とも。今日は随分と遅くまでかかったな」
ギルド長の声に、私はいつもの完璧な微笑みを浮かべる。
「はい。少し、事務作業に手こずりまして」
カイが隣でニヤリと笑う。私たちの秘密は、誰にも暴かれない。この仮面の下にある、戦いと、愛と、定時への渇望を抱えたまま、私たちは明日もまた、イフールの街で生きていく。
帰り道。
私たちは、昨日よりも少しだけ長く手を繋いでいた。
夜風が心地よい。明日の書類の山なんて、今はどうでもいい。
二人で飲む、一番高い紅茶の味を想像しながら、私たちは夜の街を歩き続ける。
(……この人がいる限り、私の「定時退社」は、最強の冒険だわ)
最強の受付嬢と、彼女の最強の相棒。二人の日常という名の冒険は、これからもどこまでも続いていく。イフールの星空の下、明日もまた、私たちは定時のために戦うのだ。
……そう、たとえ明日、どんな地獄が待っていようとも。
私たちにとっては、定時こそが、すべてに優先される聖域なのだから。
夜闇の中に消えていく二人の影。
その手は、決して離れることはなかった。