定時退社の守護者 〜ギルド受付嬢は、残業を許さない〜 作:can'tPayPay
イフールの街に差し込む朝日は、今日も残酷なほどに清々しい。ギルドの扉を開ける瞬間、私は深呼吸をひとつして、顔面に「完璧な受付嬢」の仮面を貼り付ける。
(さあ、地獄の始まりよ。今日は騎士団がどんな難癖をつけてくるかしら。……いいわ、すべて論理で粉砕してやる)
心の中の毒気を、笑顔の裏に完璧に隠蔽する。だが、その隣にカイの気配を感じた瞬間、張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。彼が隣にいる。それだけで、私の「定時」は守られているのだと確信できる。
しかし、今日のギルドはいつもと様子が違った。朝一番だというのに、ギルド内が異様な熱気に包まれている。
「……何かあったの?」
「おい、聞いたか? 北の山脈で古の遺跡が見つかったんだとよ。宝の山だ!」
「マジかよ、最高ランクの冒険者がこぞって向かってるぞ」
冒険者たちが浮足立ってギルドへ駆け込んでくる。私は嫌な予感に眉をひそめた。古の遺跡。それはつまり、解読不能な依頼書、面倒なトラブル、そして確実に発生する「大規模な残業」の代名詞だ。
「……カイ。これは、定時が危ういかも」
「ああ。遺跡調査の申請だけで、今日の書類が倍になるな」
カイはそう言って、カウンターの裏側から私の背後に回り込み、耳元で小さく囁いた。
「もしダメそうなら、俺が山脈へ飛んで、遺跡の入り口を魔力で封印してくるか? 『先客が崩落させた』ってことにすれば、今日中の調査は無理になるぞ」
その提案に、私は一瞬だけ真剣に考え込んでしまった。
「……それ、アリね。でも、騎士団が食いついたら終わりよ。彼ら、魔力痕跡の分析には五月蠅いから」
「そうだな。じゃあ、今日は正攻法でいくか。……あいつらが冒険に夢中になっている隙に、俺たちが依頼書を徹底的に間引く」
私たちは目を見合わせ、わずかに笑みを交わした。この瞬間、私たちは「受付嬢」と「冒険者」という立場を忘れ、ただの共犯者になる。
*
昼時。ギルドは戦場と化した。遺跡を目指す冒険者たちが列を作り、怒号と依頼書の紙吹雪が舞う。
「あの! 申請書が足りないぞ!」
「落ち着いてください。用紙はあちらの棚です。……あと、そこの列、三メートル下がってください。圧迫感があるのよ、消すわよ」
私は最後の一言を笑顔で告げ、受付の列を物理的に整理した。カイは私の隣で、手元の紙束を次々と「魔力処理」していく。彼の魔法は洗練され、もはや芸術の域に達していた。
「アリナ、次。右のやつは優先順位が高い。俺が『誤字』を直しておくから、お前は受理印を押せ」
「承知。……あんた、本当にいい仕事するわね。……ご褒美に、後で休憩時間を五分多めにあげてもいいわよ」
「そりゃあ光栄だな。なら、その五分で俺の肩を揉んでくれ」
「……殴るわよ」
忙しさの中で交わす軽口が、唯一の清涼剤だ。だが、その時だった。ギルドの奥から、ギルド長が深刻な面持ちで現れた。
「……アリナ、カイ。至急、奥の部屋へ来てくれ。例の遺跡の件だ」
部屋に入ると、そこには地図が広げられていた。ギルド長は深いため息をつき、私たちを見つめる。
「遺跡からは、古代の魔力流出が確認された。このまま放置すれば、イフールの街の魔力源が汚染される可能性がある。……至急、調査隊を組む必要があるのだが、今のギルドに深層へ潜れる腕利きがいない」
私は心の中で舌打ちをした。結局、私たちが動くしかないのか。だが、遺跡の調査は時間がかかる。定時退社が……遠のく。
「私たちが、行きます」
カイが即答した。私は驚いて彼を見たが、彼は私にウィンクしてみせた。
「ただし、条件があります。……今日の定時までに、遺跡の核を破壊して帰還する。報酬は、通常の三倍で」
ギルド長は呆れた顔をしたが、渋々と頷いた。部屋を出た瞬間、私はカイの胸ぐらを掴んだ。
「あんた、遺跡調査よ? 定時までに帰れるわけないでしょうが!」
「甘いな、アリナ。遺跡の核さえ叩けば、魔力の汚染は止まる。調査なんて、あとで適当に報告書を書けばいいんだよ。俺のワープを使えば、往復の時間は五分だ」
彼は私の肩を抱き、廊下の隅へ連れ込んだ。
「遺跡の核は、遺跡の頂上にある。そこへ俺がワープで突っ込む。お前は入り口で、俺が帰ってくるまでの間、依頼書をすべて片付けておいてくれ」
「……私一人で?」
「ああ。……その代わり、今日の晩飯は俺が腕を振るう。お前が一番好きな、あの店の肉料理のレシピを再現するよ」
その提案に、私はぐらりと揺れた。遺跡調査のトラブルを回避し、最高級の肉料理が待っている。
「……分かった。あんたが帰ってくるまで、このギルドの受付は死守する。……定時までに帰ってこなかったら、あんたの部屋の魔石を全部売り払うからね」
「肝に銘じておくよ」
彼は笑い、私の額に軽くキスをした。
「……行ってくる」
「……無事でいてよ」
私は彼がゲートを潜り、姿を消すのを見届けた。
一人残されたカウンター。私はペンを握りしめ、自分に言い聞かせる。
(……やるわよ。この膨大な書類、私の「定時」をかけて、すべて終わらせてやる!)
そこからの私の仕事ぶりは、鬼神のごとくだった。高速で処理される依頼書、次々とハンコが押される書類。冒険者たちも、あまりのオーラに圧倒され、列が自然と整っていく。
午後五時半。すべての処理が完了した。
私はカウンターに突っ伏し、大きく息を吐いた。
(……あとは、あんたが帰ってくるだけよ)
時計の針が五時五十九分を指した。
扉が開く音。そこには、服を少し汚したカイが、涼しい顔で立っていた。
「……ギリギリ、定時だな」
「……おかえり。遅刻かと思ったわよ」
私は駆け寄り、彼の服の汚れを払った。彼は私の手を握り、そのままカウンターの外へ連れ出す。
「さあ、帰ろう。最高の肉料理が待ってる」
「ふふ、期待しててあげる」
私たちはギルドの扉を閉めた。背後で、定時を告げる鐘が鳴る。
今日も、私たちは勝った。どんな遺跡も、どんなトラブルも、私たち二人の定時退社を邪魔することはできない。
夕闇の街を歩きながら、私は彼の温かい手をぎゅっと握りしめた。明日の依頼書? そんなの、明日になればまた片付ければいい。今日という日は、私たちのものだ。
「ねえ、カイ」
「ん?」
「……明日もまた、一緒に戦いましょうね」
「ああ。一生かけて、定時を追いかけようぜ」
私たちは笑い合い、夜の街へと消えていく。
最強の受付嬢と、その最強の相棒。二人の定時は、夜空の星のように、これからもずっと輝き続けるのだから。
街の灯りが、二人の帰り道を優しく照らしていた。
明日もまた、新しい一日が始まる。
でも、今夜だけは、この最高に幸せな勝利の余韻に浸らせて。
私たちは笑いながら、未来へと続く道を歩き始めた。