「はぁ……っ、はぁ……!」
熱く焼けるような呼吸が、掠れた悲鳴となって喉を鳴らす
錆びた潮の香りと油の臭いが充満する薄暗い港湾の片隅。傷だらけの少女は、積み上げられた錆びたコンテナの隙間に身体を滑り込ませ、必死に気配を殺していた
夜の冷気に晒されているはずの身体は、逃走による極限の緊張と恐怖で、嫌な汗をびっしょりと掻いている。衣服はあちこちが破れ、隙間から覗く肌には無数の擦り傷と、生々しい打撲の痕が刻まれていた
「あっちに逃げたはずだ! 探せ、遠くへは行っていない!」
静寂を切り裂くのは、冷徹な機械駆動音と、苛立ちを隠そうともしない足音
重々しい足音の主は、銃を携えた機械兵の群れだ。サーチライトの不気味な光が、少女の潜む影のすぐ近くを何度も執拗に舐めていく。金属製のブーツが、邪魔な木箱を乱暴に蹴り飛ばす凄まじい音が周囲に響き渡り、そのたびに少女の身体はびくりと小さく跳ねた
「あのクソガキ……隙を見て銃を盗んで脱走しやがって! 見つけ出したら、タダじゃおかねえぞ!」
「おい、やめろ。私情で痛めつけるな。確かに腹の立つ検体だが、あれもれっきとした『商品』だ。上に引き渡す前に使い物にならなくなれば、俺たちの首が飛ぶ」
仲間を咎めるもう一体の機械兵の声には、感情のない平坦な冷酷さが混じる。しかし、木箱を蹴り散らしていた個体は、なおも排熱を荒くしながら忌々しげに吐き捨てた
「チッ……分かっている。殺しはしない。……だが、多少の手足の骨くらいは、抵抗されたと言えば問題ないはずだ」
すぐ目と鼻の先で交わされる残虐な会話。少女は思わず自身の口を手で覆い、荒くなる呼吸を無理やり肺の奥へと押し込める
細い指が握り締めているのは、逃走の際に死に物狂いで奪い取った、一挺のサブマシンガン。機関部を握る手の震えが止まらない。残弾数は絶望的なまでに少ない。この限られた火線では、重装甲の機械兵二人を確実に無力化することなど到底不可能であることは、戦うまでもなく理解していた
(ここを、なんとかして抜けて……あの船に乗り込まないと。今日を逃したら、もう、もう二度と……あそこには帰れない……!)
コンテナの冷たい壁に背中を預けながら、少女は頭の中で必死に脱走経路を反芻する
ここに囚われ、収監されてから、すでに二ヶ月以上の月日が流れていた。思い出すだけでも精神が狂いそうになる、文字通りの地獄
日差しも届かない狭い監獄。人間はおろか、キヴォトスの生徒に対する扱いとしても完全に常軌を逸した、過酷極まる強制労働。疲労と栄養失調でわずかでも膝をつけば、容赦なく肉を裂く鞭が飛んできた。自尊心も、希望も、すべてを削り取っていくための拷問のような日々
それでも心が完全に折れなかったのは、数日前、見張りの兵士たちが漏らした微かな会話を、その耳が捉えていたからだった
『──キヴォトス行きの船は、○日後に出るんだろ? ……も……だな。あいつの処理も、そこまでだな』
『ああ。あそこは……崩壊して、もう……ろ……だ……しな。放っておいても同じことだ』
『ふん、まぁ、あそこも……捨て置くには……ちょうどいい……ゴミ箱だがな』
雑音と自身の拍動に邪魔され、後半の言葉は断片的にしか聞き取れなかった。キヴォトスがどうなっているのか、不穏な単語の意味は分からない
けれど、「キヴォトス行き」という響きだけが、闇の中に差し込んだ唯一の蜘蛛の糸だった。この好機を逃せば、自分は二度と生きてあの学園の門をくぐることはできない。それだけは、本能が理解していた
(早く……お願いだから、どっかに行ってよ……! 私には、もう時間が無いのよ……!)
祈るような、あるいは呪うような眼差しで、少女はコンテナの隙間から、サーチライトを振るう兵士たちの影をじっと睨みつける。心臓の音が、うるさいほどに耳の奥で鳴り響いていた
生還する。その唯一の決意だけが、少女の細い身体を突き動かしていた。だからこそ、生きてここを抜け出すために、無謀と知りながらも単身での脱走という賭けに出たのだ
「おい、ここにはいないみたいだ。あっちの区画を探すぞ」
「だな。見落としのないようにしろ」
(っ……!)
少女の悲痛な祈りが、夜の闇に届いたのかもしれない。重苦しい金属の足音と、不快なサーチライトの光波が、徐々にコンテナの向こうへと遠ざかっていく
安堵の息が漏れそうになるのを必死に噛み殺し、少女は潜んでいた隙間から這い出た。目指すべき船着場は、ここから目と鼻の先にある
「はぁ、はぁ……っ、く……あ……」
影から影へと縫うように走り、なんとか見つからずに目的の船へとたどり着く。しかし、限界を迎えた肉体はすでに悲鳴を上げていた。視界が急速に狭まり、焦点が定まらずに世界がぐにゃりと歪む
脱走の際、容赦なく浴びせられた銃撃のどれかが掠めたのだろう。左の肩口からは、温かい血液がとめどなく溢れ出し、衣服を黒く染め上げていた。それだけではない。耳のあたりから目元にかけて、生暖かい液体が絶え間なく伝い落ちてくる。視界の片隅がじわじわと赤く染まっていく。頭部にも深い傷を負っている事実に、血の匂いと強烈な眩暈によって今更ながら気づかされた
「はやく……隠れないと……見つかったら、おしまい、よ……」
もはや自身の血液で濡れて滑る手を必死に動かし、肉体の異変を無視して前へ進む。デッキの隅に積み上げられていた、人間が一人入れるほどの大きさの木箱。その蓋をこじ開け、這いずるようにして中へと滑り込んだ。暗憺たる狭小の空間に身を潜め、内側から蓋を閉じる。冷たい暗闇が少女を包み込んだ瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた
どれほどの時間が流れたのだろうか
微かな、しかし腹の底に響くようなエンジンの振動と、不規則に身体を揺らす波の感覚によって、少女は微かに意識を取り戻した
(っ……あ、私……気を失ってた、みたいね……)
まだ、決して安心できる状況ではない。もしこの船の内部を兵士たちが巡回していれば、木箱の中を検められるのも時間の問題だ。見つかれば、今までの死に物狂いの苦労はすべて水の泡と化す。元の地獄へ引き戻され、見せしめとして、これまで以上に凄惨な拷問と仕打ちを受けることは火を見るより明らかだった
(また……目が霞んで……視界が、暗くなっていく……みんな……)
遠のいていく意識の狭間で、少女が最後に手繰り寄せたのは、かつての愛おしい日常の記憶だった。夕暮れ時の寂れた教室、安っぽい既製品の味、くだらない言い合い、そして、いつでも自分を温かく迎えてくれた「友達」の笑顔。それだけが、冷え切った身体に残された唯一の灯火だった
──ガタン!!!
(!?)
激しい衝撃と、鼓膜を震わせる轟音が木箱の壁を通じて伝わり、少女は弾かれたように目を覚ました。船が目的地に到着し、クレーンか何かで荷物が地上へと手荒に降ろされたのだろう。荒い衝撃に肉体が悲鳴を上げる
(……くっ、だめね。左手が……痺れて、上手く動かないわ……)
木箱の外から、荷物を運び出したであろう作業員たちの騒がしい声や、複数の足音が近づき、そして遠ざかっていく。その気配をじっと窺いながら、少女は動く範囲で自身の身体の調子を確かめた
銃弾に抉られた左肩の傷は、まともな治療も受けられなかったせいで、すでに壊死を起こしかけているのかもしれない。肩から指先にかけて、冷たい感覚の麻痺が広がっており、自分の意思に反してぴくりとも動かなかった
しかし、長い航海の間じゅう気絶するように眠り続けていたおかげか、燃え尽きかけていた体力だけは、奇跡的にほんの少しだけ回復している。それが唯一の救いだった
外の雑音と足音が完全に途絶え、静寂が周囲を支配した頃
少女は残された右手で、木箱の蓋を慎重に、音を立てないよう内側から押し上げた。隙間から差し込む光に目を細めながら、警戒を怠らずに、這い出るようにして外の世界へと足を踏み出す
そこには、少女の見慣れた景色が広がっているはずだった。過酷な二ヶ月間、その光景を取り戻すためだけに死線を潜り抜けてきた、愛おしい故郷の輪郭がそこにあるはずだった
「な、なによ……これ……」
木箱の陰から這い出た少女は、掠れた声を漏らしたまま立ち尽くした
視界に映る風景は、確かに少女の記憶にある港湾都市の構造そのものだ。しかし、決定的な何かが失われていた。少女の記憶の中にあるその場所は、多くの人々が行き交い、潮風に乗って荷役たちの怒号や活気が響いていたはずだった
だが、今のそこにあるのは息を呑むような静寂だけだ。壊れた街灯が、まるで瀕死の生き物のようにチカチカと不規則な明滅を繰り返し、打ち捨てられたアスファルトを白く照らしている。辺りには、少女が閉じ込められていたものと同じような錆びた木箱や、用途の分からない廃資材が、まるで不法投棄されたゴミ捨て場のように無造作に積み上がっていた
人影は一つもない。風が埃を巻き上げる音だけが、虚しく空間を通り抜けていく。活気の欠片も失せたその街並みは、まるで巨大な墓標か、あるいは見捨てられたゴーストタウンのようだった
「……あれから……一体、何があったのよ……」
信じがたい光景を前に、少女は動かない左肩を右手で強く抑えながら、ふらつく足取りで歩き始めた
見知ったはずの通学路、放課後に文句を言いながら並んで歩いた道、くだらないお喋りをしながら寄り道をした思い出の店。そのすべてが、少女が胸に抱き続けていた温かい記憶とは完全にかけ離れていた
看板は外れ、ガラス窓は叩き割られ、かつてそこにあったはずの「生活の営み」は、まるで陽炎のように綺麗に消え失せている。一歩進むたびに、冷たい現実が少女の薄れゆく意識を鋭く突き刺した
「……はぁ……っ、はぁ……!」
心臓の鼓動が、恐怖と疲弊で痛いほどに高鳴る。肉体の限界はとっくに超えていたが、足だけは止められなかった。引きずるようにして身体を動かし、少女がただ一つ残された目的地へと向かう
たどり着いたのは、アビドス高等学校
しかし、その学び舎の変貌ぶりは、少女の絶望をさらに深いものへと引きずり下ろした。記憶にあるものよりも遥かに砂漠化は進行しており、かつて自分たちが駆け回っていたはずの校庭には、風が運んできた不毛の砂が波打つように高く積もっている。校舎の壁には亀裂が走り、窓ガラスの多くが割れ落ちていた。まるで、何年もの間、誰の手も加えられずに放置され、ただ朽ちるのを待つだけになった遺跡のようだった
しかし、少女はそんな異常な光景に目を向けることすら拒絶した。ただ一途に、脳裏に焼き付いている「あの場所」を目指して、薄暗い校舎の階段を上っていく
「はぁ……はぁ……っ、帰って、きた……みんな……いるんでしょ……っ」
一歩、一歩、冷たい廊下を踏み締める
そこは、だらしのない最上級生をいつも通りに怒鳴りつけた記憶、予測不能な行動を繰り返す先輩に本気で頭を悩ませた記憶、聖母のような優しい笑顔で「おかえり」と自分を迎えてくれた記憶。そして、そんな個性的な先輩たちに囲まれながら、一緒に頭を抱えて苦笑いを浮かべてくれた唯一の同級生の記憶
少女の短くもかけがえのない青春のすべてが、その部屋へと続く廊下に詰まっていた
『アビドス廃校対策委員会』
室外機から漏れる微かな感触、ドアノブの錆の剥がれ。ようやくたどり着いたその教室の前に立ち、少女は残された右手で、重い引き戸の取っ手に手をかける
きっと、この扉の向こうでは、いつもと変わらない先輩や同級生が机を囲んで話し合っているはずだ。あの優しくて、誰よりも強かった「あの人」が死んでしまったという、信じたくない最悪の現実。残された莫大な借金を、これからどうやって返していくのか。これからのアビドスを、どうやって守っていくのか。山積みの課題を前に、みんなで頭を悩ませているに違いない。そこに自分が加わって、いつものように現実的な解決策を叫ぶのだ
「みんな……っ、遅くなってごめん、帰ったわよ……!」
少女は掠れた声を振り絞り、祈りを込めて重い扉を勢いよく開け放った
しかし、室内に響いたのは、乾いた建具の擦れる音だけだった
少女を迎え入れたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、冷たく淀んだ空気
机も、椅子も、壁に掛けられたホワイトボードも、すべてが記憶の配置のままそこにあった。だが、そのすべてに、分厚い灰色のホコリが雪のように静かに降り積もっている。主を失ってから、気の遠くなるような時間が流れたことを証明するように
少女が声を限りに求めた、大好きな先輩たちも、大切な同級生も、そこには誰一人として存在していなかった
「……き、きっと……シャーレにいるのよ……あはは……そうよ、きっと、みんなそこに集まってるんだわ……」
乾いた笑いが、埃っぽい無人の教室に虚しく響く
少女は自分の両腕を抱きしめるようにして、崩れそうになる心を必死に繋ぎ止めた。ここに誰もいないのは、ただの偶然。アビドスの復興と、山積する問題を解決するために、きっと全員で先生のいる連邦捜査局『シャーレ』のオフィスへ出向いているに違いない。そう自分に言い聞かせなければ、一歩を踏み出すための気力さえ霧散してしまいそうだった
重い足取りで再び歩き出したが、肉体はすでに限界をとうに迎えている。感覚を失った左腕は、もはや自重でぶら下がっているだけの肉塊と化し、一歩歩くたびに激痛を置き去りにして泥のように重い疲労だけが全身を支配していく
どれくらい歩き続けたのだろうか。アビドスの境界を越え、都市部へと向かう荒涼とした砂漠の道を進むうち、少女の額に冷たいものが不意に触れた
ポツリ、ポツリ
乾いた砂の上に見る見るうちに黒い染みが広がっていく。それに気がついた瞬間、天を覆っていた不気味な暗雲から、激しい豪雨が容赦なく少女の身体を叩きつけ始めた
過酷な監獄生活、死に物狂いの脱走、そして未治療の弾傷。そこに追い打ちをかけるような冷たい雨は、少女の細い身体から文字通り限界ギリギリの体力を根こそぎ奪い去っていく。水を含んだ衣服が鉛のように重くのしかかり、体温が急速に低下していくのが分かった
体力が低下し、視界が雨に遮られて狭まれば狭まるほど、心の奥底に押し込めていた暗い感情が、澱のように這い上がってくる
(どうして……誰も私を捜してくれなかったの……?)
あの地獄のような二ヶ月間。毎日、毎日、冷たい床の上で鞭に怯えながら、扉が開いてみんなが助けに来てくれる瞬間を待ち望んでいた。ホシノ先輩が、シロコ先輩が、ノノミ先輩が、アヤネが、先生が、いつものように力強く手を引いてくれると信じていた
なのに、誰も来なかった
(みんなは……私のことなんて、どうでもよくなったんじゃないの……? 見捨てられたんだ、私は──)
最悪の思考が頭をよぎるたび、少女は強く首を振ってそれを打ち消そうとした。そんなはずはない。アビドスの仲間たちが、自分を裏切るはずがない。現世の繋がりを否定した瞬間、自分が何のために生き延びてきたのか分からなくなる。そうして精神の糸をギリギリのところで保ちながら、少女はついに、シャーレのオフィスがある中央区画、D.U.区へとたどり着いた
しかし、そこに広がっていたのは、少女の儚い希望を完全に打ち砕く無慈悲な光景だった
「……うそ、でしょ……」
愕然とした呟きが、激しい雨音にかき消される
それは、少女の心を完全にへし折る、最後の残酷なピースだった
キヴォトスの中心であり、最も繁栄しているはずのD.U.区は、アビドス高校と何も変わらない、いや、それ以上に凄惨な破壊の痕跡を晒していた。高層ビルは半ばからへし折れ、道路は爆撃を受けたかのように陥没し、窓ガラスの破片が牙のように散らばっている。行き交う人々はおろか、動いている自動機械の一体すら存在しない。ただ、激しい雨がコンクリートの残骸を冷たく叩き洗い流しているだけの、死に絶えた世界
この凄惨な有様では、あの人が、先生がどうなったかも、想像するに容易かった。誰も、誰も生き残っていない。誰も、私を捜せるはずがなかったのだ
ドサッ
冷たい水溜まりの中に、少女の身体が力なく倒れ込んだ。膝から崩れ落ち、そのまま横たわった身体には、もう指先一つ動かすだけの力も残されていなかった
衝撃のせいか、あるいは体温の低下で血管の収縮が狂ったのか、一度は塞がっていたはずの頭部の裂傷が大きく開き、生暖かい血液が止めどなく溢れ出す。周囲の水溜まりが、少女の流す血によって見る見るうちに禍々しい赤色へと染め上げられていった
(ああ……もう、ダメなのね……)
遠くなっていく意識の中で、少女は冷たい雨空をただ見つめていた
どうして、自分だけがこんな目に遭わなければならないのだろうか。ただ普通に学校へ行って、文句を言いながらアルバイトをして、みんなと他愛のない日々を過ごしたかっただけなのに
みんなは今、どこで何をしているのだろう。死んでしまったのだろうか。それとも、本当に自分を置いて、どこか遠くへ行ってしまったのだろうか。救いのない疑問と、世界への行き場のない怨嗟が、薄れゆく意識の底でどす黒く渦巻いていく
完全に光が失われようとしたその時、激しい雨音の向こうから、くぐもった奇妙な声が響いてきた
「……ーーーーー……」
(……だ、れ……? もう、放っておいてよ……)
声はまるで水の中にいるかのように歪んで聞こえ、言語としての意味を正確に結ばない。不気味な輪郭を持った黒い影が、倒れ伏す少女の視界を遮るようにして、ゆっくりと近づいてくるのが見えた
衣服から滴る泥水、そして全身から発せられる異質な圧迫感。キヴォトスの住人とは到底思えないその影は、血の海に沈む少女を冷徹な目で見下ろし、音の無い声を紡いだ
「──素晴らしい。絶望、孤独、そして純然たる憎悪。これほどの器が、まだ残されていたとはな」
その言葉が、少女の耳の奥に直接突き刺さる。影の輪郭が歪み、周囲の空間そのものが、ねじ切れるような狂気に染まっていく
「この者には、ホルス、アヌビスの代わりになってもらおう。失われた神性を補う、新たな『恐怖』の触媒として──」
それが、少女が「黒見セリカ」としての意識を保ったまま聞いた、最後の言葉だった。少女の身体から溢れ出た血が、雨水とともに黒く濁り始め、彼女のヘイローが怪しく明滅を繰り返しながら、禍々しい未知の色彩へと変貌していく
(ホルス……アヌ……ビス……?)
鼓膜を震わせる異質な響きは、濁流のような雨音に遮られ、少女の朧げな意識の底へと沈んでいく。聞き覚えのない、キヴォトスの理から外れた不気味な固有名詞。しかし、高熱に浮かされるように壊れかけた少女の頭脳では、その言葉が持つ致命的な意味を咀嚼することなど、到底不可能だった
世界が急速に、その色彩を失い、どす黒い闇へと反転していく
冷たい雨水に体温を奪われ、失血の果てに凍りついていく肉体の中で、すでに自身の名前すら忘却の彼方へ消えかけようとしていた。それでも、消え残った本能の煤だけが、最後の祈りのように、魂に深く刻まれた最愛の記憶を手繰り寄せようとする
(……ホシノ、先輩……ノノミ、先輩……シロコ、先輩……アヤネ、ちゃん……)
声にはならなかった。ただ、唇が微かに震え、その大切な家族たちの名前を形作っただけ
いつも自分をからかいながらも、誰よりも優しく盾となって守ってくれた、小さな背中の先輩
どんな時でも変わらない聖母のような微笑みで、傷ついた自分を包み込んでくれた先輩
言葉数は少なくても、誰よりもアビドスを愛し、共に戦い、隣に立っていてくれた先輩
そして、山積みの現実を前に、いつも一緒になって机を並べ、ため息を吐きながら支え合ってくれた大切な友達
(どうして……誰も、いないの……?)
最後に溢れ出たのは、純粋な寂しさと、受け入れがたい孤独への恐怖だった。救いを求めた指先は、冷たいアスファルトの上で濁った血溜まりを虚しく掻くだけ。誰もその手を握り返してはくれない。温かい日常の幻影は、激しい豪雨の向こう側へと完全に洗い流されて消えた
その瞬間、傷だらけの少女──アビドス高等学校、黒見セリカとしての永い記憶の糸は、完全にぷつりと途絶えてしまった
「──そうだ。その孤独を、裏切られたという絶望を、世界への怨嗟へと変えるのだ」
少女を見下ろす無名の司祭の影が、満足げにくぐもった哄笑を漏らす
横たわる少女の身体から、かつてあった健やかな生命の輝きが急速に失われていく。代わりに、彼女の頭上に浮かぶヘイローが、激しく、禍々しく明滅を始めた。本来の美しい色彩は内側から侵食され、ヘイローの輪郭は歪み、ひび割れ、まるでどす黒いタールのような「恐怖」の光を放ち始める
「救いは来なかった。お前は捨てられたのだ、その愛した家族の手によって。……憎しみを、植え付けるのだ。世界を呪う、底なしのテラー(恐怖)として」
無名の司祭の手から放たれた異質な波動が、セリカの拒絶を許さぬまま、その心根の最も深い場所に眠る絶望の傷口へと滑り込んでいく。愛が深いものであったからこそ、反転した憎悪は鋭く、深く、彼女の肉体と精神の形を強制的に作り変えていく
土砂降りの雨の中、血の海に沈んでいた少女の指先が、ぴくりと不自然に跳ねた
シリアス系…上手く書けるかは分かりませんが見て貰えると嬉しいです