救われたかったセリカ   作:気弱

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シロコ*テラーの夢 便利屋とセリカテラーの邂逅

「ねぇ、シロコ先輩」

 

どこまでも平坦で、どこまでも変わり映えのしない、アビドスの薄暗い夜の帰り道

 

サラサラと乾いた砂が風に舞う音だけが響く静寂の中、アスファルトの上に並んで伸びていた二つの影のうち、ほんの少し前を歩いていた影が不意にその足を止めた

 

街灯の淡いオレンジ色の光を浴びながら、弾むような、それでいてどこか嬉しさを隠しきれない足取りでくるりと振り返る

 

少し尖った猫耳をパタパタと小気味よく揺らしながら、いつものように悪戯っぽく、それでいて慈愛に満ちた笑みを浮かべるセリカの姿がそこにあった

 

「ん、どうしたの? セリカ」

 

彼女の急な動作に合わせて、一歩遅れて足を止めたシロコは、首元に巻いたお気に入りの青いマフラーに口元を埋めたまま、不思議そうに首を傾げる

 

「今日さ、ハイランダーの連中が押し寄せてきて色々大変だったじゃない? だから……みんなの溜まった労をねぎらうっていうか、少しでも良い息抜きになるように、明日みんなでラーメン食べに行かない? 大将も、最近ホシノ先輩達が全然顔を出してくれないから寂しがってたし」

 

人差し指をピンと立てて自身の顎に当て、いかにも「これ以上ない名案でしょ?」と言いたげに、誇らしげに胸を張るセリカ。その瞳は、トラブル続きの一日を終えた後だというのに、生き生きとした輝きを放っている

 

「ん……ラーメン」

 

シロコはほんの少しだけ視線を泳がせ、人差し指を顎に当てて「んー」と思案の声を漏らした

 

「でも、柴関ラーメン……一昨日もセリカと二人で行った。あそこのラーメンは確かに美味しい、ん。……だけど、流石に三日連続で通うのはカロリーが……」

 

「なによー! 美味しいものは何回食べたって美味しいじゃない! ほら、大将が特別に乗せてくれるあの特製チャーシュー、先輩も大好物でしょ?」

 

両の頬をこれでもかと言わんばかりに膨らませ、不満を全身で表現しながら抗議するセリカ。その微笑ましい様子に、シロコは困ったように細い眉根をハの字に寄せた

 

確かに、紫関ラーメンの出す一杯の味は間違いなくキヴォトスでも一級品だ。だが、年頃の女の子にとって、いくらキヴォトス人の頑丈で代謝の良い肉体があるとはいえ、濃厚で高カロリーな豚骨スープを連日摂取するというのは、少なからず心理的な抵抗がある

 

それに何より、シロコには近々控えている大切なロードバイクの大会があった。ここ数日はトレーニングの成果を最大限に発揮するため、徹底的な減量と綿密な体調管理を意識している真っ最中だった。それゆえに、どれほど魅力的な誘いであっても、どうしても今回ばかりは少し乗り気になれなかったのだ

 

「そうねぇ……。あ、じゃあこうしない?」

 

シロコが珍しく渋るような素振りを見せるのを目ざとく察し、セリカは名誉挽回とばかりに何かを思いついたように、ぽんと小気味よく手を叩いた

 

「?」

 

「もし、明日みんなの予定がうまく合って、放課後に時間ができたら……ラーメンじゃなくて、私の家でお手製の料理を作ってアビドスのみんなに振る舞ってあげるわ!」

 

「セリカのお手製……。セリカって、ラーメン以外も作れるの?」

 

シロコは一切の悪意がない、純粋な好奇心と疑問から、不思議そうに再度首を傾げた

 

しかし、その濁りのない瞳で真っ直ぐに見つめられたセリカは、一瞬にして茹であがったタコのように耳の先まで顔を真っ赤にし、わなわなと小さな拳を震わせ始めた

 

「な、なによそれぇッ!? 私がバイト先の柴関ラーメンでしか料理をしないとでも言いたいの!? 失礼ね、これでも一通りの家庭料理くらい、人並み以上には作れるんだから! 肉じゃがとか、ハンバーグとか、オムライスとか……っ! とにかく、何だって作れるんだからね!」

 

「ふふ、冗談だよ。そんなに怒らないで、セリカ」

 

図星を突かれたわけでもないのに、ムキになって必死に自分の特技をまくし立てる後輩の姿があまりにも愛おしく、そしておかしくて、シロコはマフラーの奥に顔をさらに埋めながら、クスクスと小さく吹き出した

 

「セリカは手先が器用だし、何をするにしてもいつも一生懸命だから。……セリカの手料理、本当に楽しみ。ん」

 

「もう……なによそれ、からかわないでよ……」

 

シロコの嘘偽りのない、心からの信頼が籠もった言葉を受け、セリカは急に照れ臭そうに視線をふいと逸らした。今度は顔の赤みを隠すように恥ずかしそうにしながらも、胸の奥から湧き上がる嬉しさを隠しきれない様子で、ふにゃりと目元を優しく緩ませた

 

「それじゃあ、明日が楽しみだね」

 

「ふふ、楽しみにしてなさいよ? 明日はみんなが驚きのあまりひっくり返るくらい、最高の特製ご飯を準備しておくんだから!」

 

セリカは満面の笑みを浮かべると、シロコに向けて、冷たい夜闇を一瞬で吹き飛ばしてしまうほどに眩しく、エネルギーに満ちたピースサインを掲げてみせた。

 

その先に待つ未来を、世界を、一寸の疑いもなく信じ切っている純粋な笑顔。それはどこまでも真っ直ぐで、明日という当たり前の日常がこれからも永遠に続いていくのだと信じて疑わない、暖かなアビドスの日常の象徴そのものだった

 

──しかし

 

その時、二人の間で交わされた、胸が躍るような、愛おしいはずの約束が果たされることは、二度となかった

 

──その残酷なカウントダウンは、約束の日の朝、まだ誰も登校していない時間から始まった

 

先生のいるシャーレのオフィスで、突如として原因不明の大規模な爆発事故が発生。現場は凄惨な炎に包まれ、キヴォトスの精神的支柱である先生は文字通り瀕死の重体に陥り、意識を失った昏睡状態のまま救急搬送されてしまった

 

キヴォトスにおける絶対的な調停者であり、アビドスを照らす光でもあった存在を失った、その最悪の大混乱。その隙を狡猾に突くように、決して逃れることのできない破滅の連鎖が、牙を剥いてアビドスへと襲いかかる

 

その不吉な連鎖は、まるで精密に仕組まれたドミノ倒しのようにアビドスを壊滅へと追い詰めていった

 

爆発事故と同じ日のうちに、ノノミが何者かの手によって、跡形もなく拉致された

 

「家族」であり、最も守るべき存在だった大切な後輩を奪われたホシノは、その瞬間に完全に理性を失った。過去のトラウマを呼び覚まされた彼女は、狂気的な焦燥感に突き動かされるまま、周囲の静止も聞かずに単独で敵陣の真っ只中へと突撃していった

 

事態の異常性を察知したゲヘナ学園の風紀委員長・空崎ヒナ、そしてアビドス対策委員会の面々は、命を賭して彼女を連れ戻そうと死に物狂いでその後を追い、抑え込もうと試みた。しかし、あまりにも深すぎる絶望の底で、ホシノの精神は「色彩」に触れてしまう。

 

それは現世界に顕現してはならない最悪の異形──「ホシノ・テラー」への反転だった

 

そこから始まった戦闘は、言葉を失うほど凄惨を極めた

 

キヴォトス最高峰の武力を誇るヒナが血反吐を吐きながら立ち向かうも、テラー化したホシノの圧倒的な破壊力の前には抗う術もなく、そのヘイローは無残に、容赦なく砕け散った。もはや、正気を失い破壊の権化となったホシノを止める慈悲深い手段など、世界のどこにも残されていなかった

 

血の海と化した戦場の中、アビドス対策委員会に残された最後の選択肢は、あまりにも残酷なものだった。これ以上の地獄の拡大を食い止め、世界の崩壊を招く「セトの憤怒」の完全降臨を阻止するため──彼女たちは自らの手で、あの優しかった世界一の先輩のヘイローを銃弾で撃ち抜くしかなかった

 

だが、破滅を止めるために支払った代償は、あまりにも大きすぎた

 

激戦の最中、奥空アヤネは巻き込まれた凄まじい爆風によって内臓を激しく損傷し、生死の境を彷徨う瀕死の重傷を負った。さらに、その出来事の数日後には、黒見セリカが何者かによって連れ去られてしまった

 

白く冷たい病院のベッドの上、無数の管と人工呼吸器に繋がれながら、すべての顛末を静かに聞かされたアヤネ。彼女は、見舞いに訪れていたシロコとノノミが、涙を堪えながら病室を後にしたのを確認した直後、かすかに動く指先で、ひどく静かな、迷いのない手つきで、自らの命を繋ぎ止めていた生命維持装置の電源プラグをゆっくりと引き抜く

 

ピッ、という無機質な電子音が消え、静寂だけが残された

 

アビドスに残されたのは、シロコとノノミの二人だけ。しかし、すでに精神の限界を迎えていたノノミの心にも、決定的な亀裂が入っていた

 

「自分が大人しく攫われさえしなければ、ホシノ先輩も、アヤネちゃんも、セリカちゃんもこんなことにはならなかった」──毎日毎日、呪詛のようにその言葉が彼女の頭を支配し、狂気的な責任感がその細い肩を容赦なく押しつぶしていった。そしてある朝、ノノミもまた、誰にも看取られることなく自らその命を絶った

 

「………………っ」

 

黄金の砂漠が広がる境界線の中に、ぽつんと取り残された、誰もいない対策委員会の教室

 

シロコはただ一人、血に染まり、息の絶えた仲間たちの遺品を一つずつかき集め、それらをお守りのように自身の身体に固く身につけた。たった一人になっても、この命が尽きるまでアビドスを守り抜いていくことを決意し

 

しかし、その決意は、己の肉体と精神を毎日少しずつ削り取っていく、血を吐くような茨の道を歩むことを意味していた

 

一人ではどれだけ泥をすすり、爪を剥がしながら足掻こうとも、押し寄せる過酷な現実に物理的な限界が訪れる。アビドスを拠点にしようと押し寄せるヘルメット団たち、冷徹な書類を手に学校を差し押さえようと迫る役人、昼夜を問わず鳴り止まない銃声。終わりのない孤独な戦闘は、一日、また一日と、確実にシロコの心を摩耗させ、強固だったはずの精神の輪郭を内側からバキバキと音を立ててへし折っていった

 

「…………疲れた……」

 

掠れた、乾ききった声が、夜の静寂の中に静かに溶けていく

 

すでに使い古したマガジンの中の銃弾は完全に底を突き、身体中に負った無数の傷を治療するためのお金すら、財布には一クレジットも残されていない。直前の小隊との激しい遭遇戦で、爆発の破片を浴びて激しく負傷した右目には、どこからか拾い集めてきた汚れた包帯が、応急処置として雑に巻き付けられているだけだった

 

うつむき、まるで生気を失った幽霊のようにふらふらと、あてどなく夜道を歩いていたシロコは、ふと、導かれるように足を止めた

 

「……ここ、セリカの、いた家」

 

気がつくと、無意識に足が記憶を辿っていたのか、あるいは目に見えない仲間の残滓に誘われたのか。そこは、セリカがかつていくつものバイトを掛け持ちしながら、一人で暮らしていた慎ましい小さなアパートの前だった

 

あの日、大切な後輩が煙のように目の前からいなくなってから、すでに七十日以上の残酷な月日が経過していた

 

「……開いてる」

 

吸い寄せられるように鉄製の扉の前に立ち、冷え切ったノブにそっと手をかける。まるで、いつか誰かが帰ってくるのを分かっていたかのように鍵はかかっておらず、キィ、と錆びついた小さな音が夜の闇に響いて、扉はあまりにも簡単に内側へと開いた

 

人の気配が途絶えて久しい、特有の埃っぽい匂いがツンと鼻を突く。シロコはまるで何かの儀式に身を委ねるように、靴を脱ぐことすら忘れて、そのまま冷たい床の上へと足を踏み入れた

 

棚の上には、セリカが毎日のように手を合わせていた、どこかユーモラスな猫の置物。そのすぐ横には、かつて対策委員会のみんなで、ほんの少し遠くの街まで出かけた際、セリカが「これが欲しい」と言い張って、シロコが意地になって何度もコインを注ぎ込んで取ってあげた、クレーンゲームの安いぬいぐるみが当時のまま飾られている

 

そして古びた壁には、夕暮れのアビドス校舎の前で、夕日に照らされながら五人全員で肩を組み、最高の笑顔を浮かべている写真が、歪むことなく綺麗に並べられていた

 

前に一度だけ、「部屋が狭いから、あんまりジロジロ見ないでよね!」と気恥ずかしそうにするセリカに招かれて遊びに来たことがあったが、あの暖かかった日の記憶と、目の前に広がる静謐な景色は、悲しいほどに何一つとして変わっていなかった

 

「……ごめん、セリカ……中に入るね」

 

誰にともなく、かすれた細い声で小さく断りを入れながら、シロコはゆっくりと奥の居住スペースへと進んでいった

 

主を失って長い時間が経っているというのに、室内はまるで、今でもセリカが毎日夕方にバイトから帰ってきて、几帳面に隅々まで整頓しているかのように美しかった

 

ハンガーに掛けられた予備の制服、机の上に歪みなく並べられた教科書やペン立て。生活の息遣いをそのまま残した部屋は、外界の残酷な崩壊を拒絶するように、ただ静かに、あの楽しかった過去の時間を大切に保存している

 

ふと、シロコの光を失った虚ろな片目に、薄暗い台所の隅に佇む小さな単身用の冷蔵庫が留まった

 

『明日はみんながひっくり返るくらい、最高の特製ご飯を準備しておくんだから!』

 

その瞬間、耳の奥で、あの決戦の前夜にはにかみながらピースサインを作ってくれた後輩の弾んだ声が蘇る。記憶の中のセリカは、あんなに鮮やかに笑っている

 

あんな悪夢のようなことになる前に交わした、最後の、そしてあまりにもささやかな約束。楽しみにしていたセリカの最初の手料理を、自分は結局、一口も食べることができないまま、すべてを失ってしまった

 

守りたかった日常のすべてが、砂の城のように崩れ去ってしまった

 

「……」

 

シロコは磁石に吸い寄せられるように、ゆっくりと冷蔵庫に近づき、凍りついた手で重い扉を開いた

 

一瞬、冷気と共に鼻腔を鋭く突いた、ツンとする特有の腐敗臭に思わず顔を背ける。しかし、何かに背中を押されるように、すぐに意を決して視線を庫内へと戻した

 

薄暗いランプに照らされた庫内には、サランラップやジップロック、透明なタッパーに几帳面な手つきで小分けされた食材が、驚くほど整然と並んでいた

 

形の整えられたハンバーグのタネ、味がしっかりと染み込むように漬け込まれたお肉、みじん切りや乱切りなど用途に合わせて丁寧にカットされた色とりどりの野菜、そして小さな手作りのデザート

 

あの日、放課後にこの部屋で「対策委員会のみんなのパーティー」を開くために、セリカが、寝る間も惜しんで一人で必死に準備していたのだろう、仲間たちの好物のすべてがそこにはあった

 

何日も、何十日も放置され、黒ずんでカビに覆われかけたそれらを見たシロコの胸を、言い知れぬ悲しみと絶望が容赦なく締め付ける

 

大切な後輩の、健気で暖かな愛情の残滓。しかし、あまりにも多くの仲間の死を連続で見届けてきた彼女の瞳からは、もう感情の動かし方すら忘れてしまったかのように、一滴の雫もこぼれ落ちなかった。ただ、胸の奥が冷たく爆ぜるような感覚だけがあった

 

「……ん……?」

 

ただ呆然と、腐りかけた食材を見つめていたシロコは、冷蔵庫の最上段の最も奥まった場所に、周囲のタッパーとは明らかに異質な、不自然な白い紙箱が押し込まれていることに気づく

 

他の食材はすべて、セリカの性格を表すように中身がひと目でわかる透明な容器に入っているのに、なぜこれだけが、ケーキ屋で使われるような厚手の包装箱に厳重に閉じ込められているのだろうか

 

シロコは、自分の意志とは無関係に動く凍りついたような身体を伸ばし、その白い箱を冷蔵庫の奥からそっと取り出した

 

手元に引き寄せると、やはり中身が完全に傷んで崩れているのか、酸っぱい異臭が箱のわずかな隙間から容赦なく漏れ出してくる。胸の奥から這い上がってくる猛烈な吐き気と不吉な予感を必死に抑え込みながら、シロコは震える指先でゆっくりと、その白い蓋を開けた

 

「!!!!!!!!!」

 

中を見たシロコの片目が、限界まで大きく見開かれた

 

衝撃のあまり脳の思考が完全に停止し、喉の奥から引きつった鋭い呼吸が漏れる

 

そこにあったのは、原型を留めないほどにドロドロに腐り、無残に崩れ落ちて果てた手作りのデコレーションケーキの残骸だった

 

そして、そのカビに塗れたクリームの中央に、斜めに突き刺さったまま、ひび割れながらも辛うじてその文字を保っている不格好なチョコレートプレートが、静かに佇んでいた

 

【シロコ先輩 お誕生日おめでとう!!】

 

毎日のように襲い来るヘルメット団、狂気的な戦闘、そして目の前で仲間たちが次々と死んでいく地獄のような日々。その凄惨な現実のせいで、シロコは自分自身の誕生日というささやかなイベントを、完全に、綺麗さっぱり失念していたのだ

 

あの日──あの「明日ね」と約束を交わした数日後は、砂狼シロコの誕生日だった

 

「あ……、あ、ああ……」

 

これは、あの日

 

セリカが「みんなを驚かせてあげる」と悪戯っぽく笑いながら、手料理と一緒にサプライズで振る舞うはずだった、世界にたった一つだけの、自分への誕生日ケーキだった

 

数億クレジットもの莫大な借金を背負い、いくつもの過酷なバイトを掛け持ちして、自分のためには一クレジットすら使おうとしない、あの不器用な後輩が。大好きな先輩の特別な日を祝うために、一生懸命に小銭を貯め、不慣れな手つきで時間をかけて作ってくれた、純粋な真心の証明

 

その事実の重みを、脳髄が、心が、引き裂かれるような痛みと共にようやく完全に理解した瞬間

 

とっくに枯れ果て、二度と機能することはないと思っていたはずの涙腺が、決壊したダムのように狂ったように破裂した。温かい熱を持った大粒の涙が、汚れ、血に染まった右目の包帯を容赦なく濡らしながら、視界を遮るように次から次へと溢れ出してき

 

「う、あ、ああああああッ!!! セリカ、セリカぁッ……!!!」

 

冷え切った、誰もいない、差し込む月光すら届かない暗がりの部屋でシロコは腐り果てた手作りのケーキの箱を、まるで失われたセリカの身体そのものであるかのように強く、強く胸に抱きしめながら、痛々しいほどに声を上げて泣き崩る

 

ボロボロの包帯を伝う熱い涙が、異臭を放つ黒い泥のような手作りケーキの上にぽたぽたと落ちていく

 

胸をかきむしるような凄まじい自責の念と、二度と届くことのない後悔の叫びだけが、誰もいない埃っぽい室内にただ虚しく反響していた。床に両膝を突き、箱を抱きしめて嗚咽するシロコの背中は、もはや限界を超えて小さく震えている

 

──その時だった

 

『……もう、何よ…うるさいわね。いつまで泣いてるつもり?』

 

「……え?」

 

ピクリ、と。シロコの濡れた白い獣耳が、静寂を切り裂いたその音に敏感に跳ね上がった

 

泣き続けるシロコの耳に、冷たい闇が居座る真後ろの空間から、あまりにも聞き馴染みのある、世界で一番愛おしいはずの懐かしい声が真っ直ぐに響き渡る

 

少し呆れたように、だけど心底シロコのことを心配してくれているかのような、どこかトゲがあって、それでいて芯の通った優しくて尖った声。それは──今、シロコが己の魂と引き換えにしてでも、この世界で一番会いたがっていた人物の声そのものだった

 

『ふふ、なによその格好。いつもはあんなに強がって、私の前では頼りがいがある先輩ぶってる癖に……やっぱりシロコ先輩ってば、私達が傍にいないと一人じゃ何にもできない、ダメダメな人じゃない』

 

クスクスと、悪戯っぽく、楽しそうに笑う服の擦れる気配が、凍りついたシロコのすぐ後ろへとゆっくり肉薄してくる

 

「せ……りか……? ……本当に、セリカ……なの……?」

 

シロコは、どうしてもその場から背後を振り向くことができなかった

 

連日の容赦ない戦闘、飢えと渇き、そして孤独。そんな過酷な地獄の中で、自分の壊れかけた精神はいよいよ最後の一線を越え、致命的な狂気に陥ってしまったのだろうか。これは現実なんかじゃない。今、目の前にある残酷すぎる悲しみの器を拒絶するために、精神の崩壊を防ごうと狂いかけた自分の脳が、勝手にかつての都合の良い「セリカの幻声」を作り出して再生しているだけなのだ

 

もし今、希望に縋り付いて振り返ってしまい、そこにただの冷たい暗闇しか残されていなかったとしたら、その時こそ自分の心は木っ端微塵に砕け散り、完全に死んでしまう

 

恐怖と、奇跡への畏怖にガタガタと全身を激しく震わせ、前を向いたまま指一本動かせないシロコの後ろで、背後の人物は「やれやれ」と肩をすくめるように小さくため息をついた

 

『何寝ぼけたこと言ってるのよ。私以外に、こんな夜中にここであんたを怒ってくれる人なんて誰がいるのよ。正真正銘、アビドス高等学校対策委員会1年……シロコ先輩の、生意気な後輩の黒見セリカよ』

 

違う

 

そんなはずはない。あってはならない

 

「だ、だって……セリカは、あの時何者かに拉致されて、それからずっと行方不明になって……。それに、あれからもう、70日以上も経って……っ。どこを探したって、見つからなかったのに……っ!」

 

これはセリカじゃない。セリカはもう、私の手の届かない、あの底知れない闇の向こうへ──

 

血を吐くような絶望で現実を拒絶するように呟くシロコに、背後の声は、今度は少しだけ申し訳なさそうに、困ったような苦笑を交えて言葉を返してきた

 

『ああ、うん……確かに本当に大変だったのよ? 変な奴らに捕まって、ひどい目にもあわされたし。でもさ、ほら、私って前にも一回ヘルメット団の仕返しで攫われたことあったじゃない? 本意じゃないし思い出したくもないけど、あの時の経験が不意に生きたっていうかさ。見張りの奴らが油断した一瞬の隙を突いて、なんとかそこから逃げ出すことが出来たのよ。私だってアビドスの生徒なんだから、あいつらの思い通りになんてなってあげないんだから』

 

違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う!!!

 

そんな都合の良い、救いのような奇跡が、誰も彼もが容赦なく死んでいったこの地獄の底のようなアビドスで起きるはずがない。頭の片隅にこびりついた冷徹な理性が、これはただの、防衛本能が見せているあまりにも都合の良い防衛反応、あるいは死の間際に見る白昼夢だと必死に警告の警報を鳴らしている

 

けれど──

 

『……待たせちゃって、ごめんね。帰ってくるのが、こんなに遅くなっちゃってさ』

 

衣服がカサリと擦れる、微かで決定的な音がした。一歩、また一歩と、愛おしい後輩が自分との距離を縮めてくる、確かにそこに存在するような足音が、すぐ耳元まで迫ってくる。その暖かな気配が、冷え切ったシロコの背中を包み込んでいく

 

『ただいま、シロコ先輩。もう一人で頑張らなくていいのよ』

 

頭では百も承知だった。これは偽物だ。哀れな自分を慰めるためだけに、壊れた脳が見せている、実体のない悲しい白昼夢だ

 

だが、今のシロコには、それが例え脳の狂わせた狂気の幻覚だろうが、世界が最後に仕掛けた残酷な罠だろうが、もうどうでもよかった。もう一度だけ、あの一生懸命に生きようとしていたセリカの姿をこの目で見られるのなら、この世界を呪って魂を悪魔に売り渡したって構わなかった

 

ひしゃげたケーキの箱を床に置き、シロコは藁をも掴むような必死の勢いで、激しく背後へと振り返った

 

「セリカ……!!!」

 

──その瞬間、世界が爆ぜるように暗転した

 

「はっ……、ぁ、……ッ!!!」

 

クロコは、喉から引きつった悲鳴を上げながら、冷たい寝床からガバッと激しく身体を飛び起こす

 

大きく見開かれた両目が、激しい呼吸と共にせわしなく虚空を彷徨う。バクバクと五月蝿いほどに鳴り響く心臓の鼓動が、冷え切った胸の奥を内側から強く叩いていた。 勢いよく飛び起きた体勢のまま、彼女は裏切られたような、底切れない虚しさを抱えながら、小刻みに震える自分の両手を見つめる

 

「……夢…」

 

そこには、先ほどまで確かに腕の中で愛おしく抱きしめていたはずの、あの手作りのケーキの箱など、どこにも存在しなかった。手のひらに残っているのは、ただ掴もうとした空気の冷たさだけ

 

右目に雑に巻かれていたはずの、血と泥に汚れた薄汚れた包帯もない。代わりにその肌を覆っているのは、幾千の戦場を潜り抜けてきた黒いタクティカルグローブのざらついた質感だった

 

諦めを孕んだ視線をゆっくりと落とせば、そこに佇んでいたのは、かつてアビドスの青い制服を身にまとっていた「砂狼シロコ」の姿ではなかった

 

肌を包むのは、失った仲間たちへの終わりなき喪服を思わせる、漆黒のドレス。深く開いた胸元と、太ももの付け根まで大胆に裂けたスリットから覗く肌は、夜の闇の中で病的に白く浮かび上がっている。 風に翻るドレスの裾や広がった袖口からは、かつての青空の色が濁ってしまったかのような、くすんだ青緑色の裏地が覗き、剥き出しになった太ももには、冷徹な戦いの日々を象徴するように黒いガーターホルスターが冷たく食い込んでいた

 

そして、その長い白髪の頭上には、かつての十字の形を失い、尖った茨のように変質してしまった青緑色のヘイローが冷酷に浮かんでいる

 

すべてを失い、世界の境界線を越えて彷徨う、ただ一人の観測者──「シロコ・テラー」としての歪んだ自分の姿が、そこにはあった。いまや彼女が仮住まいとして使っている、コンクリートが剥き出しになった殺風景な廃ビルの一室を、冷たい朝日が静かに照らしてい

 

「ん……また、あの時の夢……」

 

クロコは片手で額を深く押さえ、身体の底、魂の最深部にまで溜まった澱のすべてを吐き出すように、重いため息をついた。あのケーキの箱の温もりも、セリカの叱ってくれる声も、すべてはとうの昔に失われた過去の幻影だったのだ

 

「……そういえば……便利屋のみんなは、大丈夫かな」

 

小さく頭を振って、脳裏にしがみつく過去の凄惨な残滓を無理やり振り払うと、クロコはベッドからしなやかな動作で起き上がり、ひび割れた窓の外へと静かに視線を向けた

 

地平線の彼方、見渡す限りの広大な砂漠の向こう側から、うっすらと朝焼けのオレンジ色の光が差し込み始めている。まだ、日が登り始めたばかりの、すべてが静まり返った静謐な早朝の空気

 

ふと、昨日の作戦会議の光景が、鮮明に脳裏に蘇る

 

セリカテラーという、自分たちの知る歴史すらも歪めかねない未知の脅威を前に、焦るあまり無策に突っ込んでも返り討ちに遭うだけだ、ということになり、対策委員会や便利屋の面々と共に、どう動くべきか誰もが暗澹たる思いで頭を悩ませていたのだ

 

そんな重苦しい、押し潰されそうな沈黙を破ったのは、便利屋68のリーダー、陸八魔アルだった。

 

『フフン、こういう時こそ私達の出番じゃない! 悪党の基本は隠密と奇襲よ。意外かもしれないけれど、私達ってこういう潜入作戦も大得意なの。便利屋の本気、見せてあげるわ!』

 

いつものように自信満々に胸を張り、不敵な笑みを浮かべるアル。その横で、ムツキは面白そうに「くふふ」とクスクス笑い、カヨコはアルの過剰なポーズに呆れつつも、既にいつでも動けるように愛銃の整備を淡々と始めていた

 

アビドスの面々は、敵の本拠地があまりにも危険すぎると顔を曇らせて引き止めたものの、何かあればプライドを捨ててすぐに撤退するという約束と、アルたちの瞳の奥にある、仲間を救おうとする「本気の輝き」に気圧され、最終的に旧カイザー基地への隠密偵察を彼女たちに委ねることに決めたのだった

 

時計の針を頭の中で進めれば、今頃はあの冷徹な鉄塊の要塞に、便利屋の面々が息を潜めて深く潜入している時間帯のはず

 

「……何も無いといいけど」

 

あのアビドスで、これ以上の「喪失」を重ねることだけは、もう絶対に耐えられない。自分の世界は滅びてしまったけれど、この世界にある暖かな光だけは、何があっても守らなければならない

 

クロコは大切な仲間たちの無事を遠い空から祈るように、静かに、優しくその両目を閉じた

 

──だが、その祈りとは裏腹に、旧カイザー基地の最奥では、便利屋68の3人が想像を絶する最悪の対峙を迎えていた

 

冷徹な電子音と冷気だけが満ちる、薄暗いコンクリートの部屋。 陸八魔アル、鬼方カヨコ、浅黄ムツキの3人は、息を詰まらせるような緊張感の中で、それぞれの愛銃を真正面へと固く構えていた。銃口の先にいるのは、漆黒の色彩の光を放ち、狂気と憎悪を身に纏ったはずの、あの「セリカテラー」だった

 

激しい戦闘、あるいは血で血を洗う問答が始まるものと誰もが覚悟したその瞬間、セリカテラーが放り投げたのは、銃弾ではなく、金属製の小さな一つの「鍵」だった

 

カラン、と無機質な音を立てて、アルの目の前の床へと鍵が転がる

 

「え……?」

 

アルは銃を構えたまま、困惑と動揺を隠せない様子で、目の前の床に落ちた手元の鍵をじっと見つめた。額からは冷や汗が伝い、完璧なアウトローの仮面が剥がれ落ちていく

 

「なんで……なんであなたが、私達にそれを託すの……っ?」

 

震えるアルの声に、カヨコもムツキも銃口を向けたまま、怪訝そうに眉をひそめる。目の前にいるセリカは、大切な仲間であるホシノ達を「見捨てて逃げ出した裏切り者」として憎悪し、殺し尽くそうとしていたはずではなかったのか

 

そんな便利屋たちの警戒を前に、フードの奥のセリカテラーは、力なく、ひどく掠れた声で言葉を紡ぎ出した。 その声には、先ほどまでの激情や狂気はなく、ただただ限界を迎えた一人の少女としての悲痛な本音が滲み出ていた

 

「……ハルカの事は渡せない……けど、今なら……この世界の『私』なら逃がせる……。安心して、罠もないし……あなた達が求めてる、基地の情報が入ったUSBも、一緒に持ってるから……っ」

 

彼女はだらりと垂れ下がった動かない左腕を庇うように、震える右手を伸ばし、鍵の横に一つのUSBを置いた。 色彩に精神を侵食され、脳内で記憶がバグを起こし、完全に狂わされながらも、彼女の魂の奥底に残された最後の「理性」と「良心」が、辛うじて彼女の身体を操っていた

 

ハルカは手放せない。けれど、これ以上この世界に自分の悲劇を、怒りを撒き散らしたくはない。この世界の暖かいアビドスを、自分のいた世界のように壊したくなどない。それが、彼女が狂気の中で必死に手繰り寄せた、唯一の抵抗だった

 

セリカテラーは、涙さえ流せない濁った瞳でアルたちを見つめると、血を吐き出すかのような悲痛な願いを口にした

 

「……だから、お願い……。これ以上……私がこの世界を壊す前に……私のヘイローを、壊しに来て……っ!」

 

それは、救いのない地獄の中で生き延びてしまった少女が、初めて口にした、心からの「救済」への請願

 

その命を賭した『依頼』を真っ正面から浴びた陸八魔アルの瞳から、完全に動揺が消える。 じっとセリカテラーを見据える彼女の指先は、もう、微塵も震えてはいなかった




調べてたら対策委員会編ってプロローグは2月、Part1.2が6月なのでシロコの誕生日を迎えててもいいのでは?となりました

あとシロコ*テラーって何故こうもシリアスになるんだろう…ねぇ?アヤネちゃん、便利屋のみんな?
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