救われたかったセリカ 作:気弱
「う、ううん……」
重い泥の底からゆっくりと浮上してくるかのような、酷く曖昧な意識の狭間で、セリカは小さく声を漏らした
なんだか、とても暖かいものに包まれているような気がする。指先からじわじわと伝わってくる心地よい体温と、どこか嗅ぎ馴染みのある、乾いた砂と古い木造校舎が混ざり合ったような匂い。その安らぎに身を委ねそうになりながらも、彼女の思考が、直前までの凄惨な記憶を急激に呼び覚ましていった
そうだ、私は─路地裏で、突如として目の前に現れた「もう一人の自分」に襲われたのだ
自分と全く同じ顔、同じ声を持ちながら、全身からおぞましい漆黒のオーラを放ち、世界への呪詛を吐き散らす、名も知らぬあの怪異。圧倒的な力の差の前に敗北し、意識を刈り取られた
そして目が覚めた時には、どこかも分からない地下牢の奥深くで、重い鉄の鎖に繋がれ、身動き一つ取れない状態に陥っていたはずだった。冷たいコンクリートの感触と、肌を刺すような鉄錆の匂い、そして絶望的な暗闇が、セリカの世界のすべてになっていたはずなのに
(……あれ? 私、なんでこんなにフカフカした場所にいるの……?)
意識が覚醒するにつれて、肌に触れる柔らかな布地の感触がはっきりと伝わってきた。それは地下牢の凍えるような床などではなく、丁寧に干されて太陽の匂いがする、優しくて暖かい綿の布団だった。自分がいつの間にか、誰の手によってか、清潔な布団に寝かされ、包まれているのだという事実に気がつく
餓死を狙っての監禁かと思いきや、閉じ込めた本人──あの悍ましい姿をしたもう一人の自分は、なぜか毎日、地下牢へと足を運んでは、セリカの好物である食べ物を不器用そうに置いていった。もちろん、自分を誘拐し、アビドスを滅ぼすと嘯く犯人から渡されるものなど、中にどんな薬や毒が仕込まれているか分かったものではない。怪しくて食べる気など微塵も起きず、鋭い言葉で拒絶し続けていたのだが……
(……私は、あのあと、どうなったの……?)
意識の混濁を振り払うように、セリカは重い瞼を薄らと開く
視界に飛び込んできたのは、いつもの冷酷で薄暗い地下牢のコンクリート天井ではなかった。窓から差し込む、柔らかく眩いばかりの純白の陽光。そして、何度も見上げては愚痴をこぼし、何度もみんなで雑巾がけをした、ひどく見覚えのある雨漏りのシミがついた古い天井だった
「──っ、セリカちゃん……!?」
完全に目を開けると同時、鼓膜に飛び込んできたのは、張り詰めた弦が切れたかのような、切実で懐かしい少女の叫び声だった
驚きに身を強張らせながら、ゆっくりと声の聞こえた方へと首を巡らせる。そこには、セリカの額に載せるための真新しい濡れタオルを両手に持ったまま、眼鏡の奥の瞳に大粒の涙をいっぱいに浮かべたアヤネが、呆然と立ち尽くしていた
「……あ、アヤネ……ちゃん……?」
掠れた声でその名前を呼んだ瞬間、アヤネの目から堰を切ったように涙が溢れ出した
「はい……! はい、私です……!! 私ですよ、セリカちゃん……っ!」
「……ここは、どこ……? 私、確かもう1人の私に捕まって……」
「ここは学校です……! 私たちの、アビドス高等学校の対策委員会の教室ですよ……! 便利屋68の皆さんが、ボロボロになって気絶していたセリカちゃんを、命懸けで背負ってここまで送り届けてくれたんです……っ!」
アヤネは持っていた濡れタオルを床へ放り出すように投げ捨てると、弾かれたように布団の傍らへと駆け寄り、セリカの華奢な身体へと勢いよく飛び込んだ
「セリカちゃん……っ! よかった、本当に、本当によかった……!!」
「きゃっ!? ……ちょっと、アヤネちゃん……っ」
首筋に触れるアヤネの涙の冷たさと、少し骨が軋むほどに全力で ── 離してなるものかとばかりに込められた腕の力。少し痛いくらいに強烈な抱擁だったが、その痛みが何よりも確かな現実の証明であり、何にも代えがたい優しい温もりが、冷え切っていたセリカの心と身体をじんわりと満たしていった
「もう……アヤネちゃん……ちょっと、少し痛わよ……」
そう言葉ではいつものようにツンツンと強がるセリカだったが、その声は細かく震えていた。ずっと一人で、あの恐ろしい地下牢の暗闇の中、絶望と戦い続けていたのだ。ようやく心から安心できる、世界で一番大好きな居場所へ帰ってこられたのだという実感が一気に押し寄せ、セリカ自身の瞳にも、うっすらと熱い涙が溜まって視界を滲ませていく。アヤネの背中にそっと回した腕に、無意識のうちにきゅっと力がこもった
「す、すみません……っ。でも、本当に、本当に心配したんですよ……!」
アヤネは涙で濡れた顔を少しだけ離しながら、壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、痛々しい視線でセリカの顔を見つめる
「セリカちゃん、どこか痛いところや、気になるところはないですか……? 一応、先生の要請でここまで急行してくださったトリニティの救護騎士団の方々が、念入りに診察してくれたんです。外傷もヘイローの出力も異常なし、精神的な疲労が深いだけだからこのまま静養させてあげてくださいって言われて、ここで休ませていたんですけど……」
アヤネの言葉を聴きながら、セリカは自分の身体の感覚を確かめるように、おそるおそる両腕を回したり、指先を動かしたりしてみた。捕らえられてからの数日間、反抗的な態度を一切崩さなかったことがあの「もう一人の自分」の逆鱗に触れたのだろう、みぞおちを容赦なく踏みにじられたり、冷たいブーツの先で激しく蹴り飛ばされたりした記憶が、鈍い幻痛となって脳裏をよぎる。しかし、実際に触れてみると不思議なほどに痛みはなく、骨が折れていたり、内臓が傷ついているような深刻なダメージはどこにも残っていなかった
あの禍々しい怪異が、暴力を振るいつつも、決定的な致命傷だけは避けるように手加減していたとしか思えない痕跡だった
(……思い返せば、あいつ、酷いことをしてくる時の目はあんなに恐ろしかったのに……。毎日、不器用にご飯を置いていく時のあいつの背中は、なんだか、泣き出しそうなくらい小さく見えた気がする……)
激しい暴力と、拒絶されてもなお食事を運び続ける歪な優しさ。その矛盾にセリカがずっと首を傾げていたからこそ──
一通り自分の健康状態の確認を終えたセリカは、アヤネをこれ以上安心させてあげるために、「うん、どこも痛くないわ。大丈夫そうよ」と、いつもの元気な声を装って言いかけた、まさにその瞬間だった
(ぐぅぅぅぅぅううう〜〜……)
「っ!?!?///」
静まり返った対策委員会の教室に、あまりにも大きく、そしてあまりにも情けない腹の虫の鳴き声が、盛大に響き渡った
セリカの顔が、一瞬にして髪の毛の根元まで真っ赤に染まる。誘拐されてからというもの、あの不気味な奴から渡される怪しい配給には一切手をつけず、数日間のあいだ事実上の断食状態を貫いていたのだ。極限まで張り詰めていた緊張の糸が、目の前のアヤネの泣き顔を見たことで完全に解け、安心しきった胃袋が、ここぞとばかりに猛烈な空腹のサインを主張し始めたのである
「あ、あはは……! す、少し待っててくださいね。今、買い出しに出てくれているノノミ先輩やシロコ先輩に急いで連絡して、今のセリカちゃんのお腹に優しくて、すぐに食べられそうなものをたくさん買ってきてもらいますから!」
「うう……っ、恥ずかしいからそんなに強調しないで……。でも、お願い……本当にもう限界……」
涙目で顔を真っ赤にしているセリカを見て、アヤネは愛おしそうに困ったように笑いながら、制服のポケットから素早くスマートフォンを取り出し、流れるような手付きで対策委員会のグループ通話へと発信する。いくら極限状態の飢えが原因とはいえ、親友の前でこれ以上ないほど間抜けな音を聞かれてしまったセリカは、恥ずかしさのあまり枕に顔を半分うずめて悶絶するしかなかった
それから、アヤネが通話を終えて、セリカが監禁されていた数日間に学校や砂漠で何が起きていたのかをポツポツと優しく語りかけてくれるのを聴きながら、しばらく平穏な時間を過ごしていた。すると突然、古い木造校舎の廊下の向こうから、床を激しく踏み鳴らす「ドタドタドタ!」という騒がしい足音が急接近してきた
「セリカちゃん!」
「セリカ……!」
「ノノミ先輩! シロコせん……っ、ぶふっ!?」
勢いよく教室の引き戸が乱暴にパカンと跳ね返るような音を立てて開き、息を切らせたノノミとシロコが中へと飛び込んできた。布団の上で上体を起こしたセリカは、大好きな先輩たちの姿を見てパッと表情を輝かせ、その名前を呼び終えるよりも早かった
凄まじい推進力で突っ込んできたシロコが、文字通りラグビー選手のタックルのような勢いでセリカのお腹へとダイレクトに突撃し、セリカの口からはカエルの潰れたような情けない悲鳴が漏れ出す
「う、うぐっ……! げほっ、ちょっと、シロコ先輩……!? だから、お腹が空きすぎて死にそうだって……今、言ったばっかり……!」
「セリカ……、よかった。本当に、よかった。……もう、どこにも行かないで」
セリカの文句など一切耳に入っていない様子で、シロコはセリカの細いお腹に頭をぴったりと埋めたまま、まるで宝物を手放さないようにきつく、きつく抱きしめていた。銀色の髪の隙間から覗くその耳が、心なしか寂しげに震えている
「セリカちゃん〜〜〜っ!! うぅ、寂しかったです、本当に心配したんですよ〜〜っ!」
すぐ後ろから、両手いっぱいに食べ物の袋を抱えたノノミが、今にも溢れ出しそうな涙をぽろぽろとこぼしながらベッドへと滑り込んできた。そしてシロコごとセリカの身体を、その豊満な胸の中へと包み込むように、ギューッと力いっぱいに抱きしめる
「ちょっと、二人とも……! 嬉しいけど、本当に苦しいってば……! 食べ物、潰れちゃうから……!」
口では文句を言いながらも、セリカの目からは今度こそ、我慢していた涙が止めどなく溢れ出していた
少し痛くて、息が詰まるほどに苦しくて、だけどこれ以上ないほどに暖かくて優しい、アビドス対策委員会のいつもの、当たり前の日常。あの薄暗い地下牢で、もう二度と戻れないかもしれないと怯えていた、私の帰るべき場所
「……ただいま、みんな」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、セリカは二人の背中に手を回し、心からの言葉を静かに呟くのだった
「ね、ねぇ……ちょっと二人とも。こんな家族水入らずみたいな感動的な場面に、部外者の私達が居合わせちゃって本当にいいのかしら……? なんだかその、不調法というか、一流の悪党の美学に反するというか……」
アルが額の冷や汗を拭いながら、おろおろとした様子で背後の二人に小声で囁きかける
「いいんじゃない? 私達も一応、当事者であり関係者ではあるんだから。それに、ここで社長が逃げ出したら、それこそ格好がつかないでしょ」
「くふふ、黒猫ちゃんが元気になって本当によかったよ〜。やっぱりアルちゃんのあのめちゃくちゃなハッタリ、大正解だったね♪」
アルの後ろでは、両手を頭の後ろで組んで楽しそうにクスクスと笑うムツキと、腕を組んで少しだけホッとしたような優しい表情を浮かべるカヨコが立っていた。便利屋68の面々も、地上の大爆発をくぐり抜けてセリカをここまで運んだのだ、疲労の色は見え隠れするものの、その足取りはどこか軽やかだった
しかし、その気配に気づかない対策委員会ではない。セリカは、涙を袖口でゴシゴシと拭いながら、少し呆れたような視線を扉の隙間に向けた
「……ちょっと、そこでコソコソ見てられる方がこっちとしては何倍も恥ずかしいんだけど。用があるなら、さっさと中に入ってきたらどうなのよ?」
「そ、そう……? ……それじゃあ、失礼するわね」
アルは、コートの襟を正してフンスと鼻を鳴らし、なんだか照れくさそうに、それでも精一杯の「冷酷無比なボス(?)」のポーズを維持しながら教室へと足を踏み入れた
「黒猫ちゃ〜ん♪ 復活おめでとう〜!」
「わっ!? ちょっと、ムツキ──!?」
ムツキはアルの横をすり抜けるようにして、教室に入るや否や、すぐさま布団の上に座るセリカの元へと軽快なステップで近寄っていった。そして、驚くセリカの頭に躊躇なく手を伸ばすと、その黒い獣耳の付け根あたりを、まるで小さな子猫でもあやすかのように、わしゃわしゃと遠慮なしに撫で回し始める
「ん……ムツキ。セリカを抱きしめる権利、そしてセリカの頭を撫でる権利は、セリカの正当な先輩である私から、事前に正式な許可を取ってからにして。今はまだ、その申請を受理していない」
「ちょっと、私いつからシロコ先輩の個人所有物になったのよ!? というよりムツキ、アンタも人の頭を勝手に撫で回すんじゃなーい! はずかしいでしょ、やめてってば!」
ムッとした顔でジト目を向け、セリカの腰のあたりをガシッとホールドしたまま離さないシロコ。その様子を、ノノミが「まぁまぁ♪」と嬉しそうにクスクス笑いながら見守っている。教室の中に、かつての騒がしくも愛おしい活気が一気に戻ってきた
「……良かった、セリカが無事で」
「わぁっ!? っ、ちょっと、アンタいつの間に後ろにいたのよ!?」
突如として背後──ベッド代わりに使っている長椅子のヘッドボードのすぐ影から聞こえてきた、低く静かな、しかし独特の存在感を放つクロコの声に、セリカは文字通り飛び上がるほど驚いて振り返った。先程までは部屋のどこを見渡してもいなかったはずなのに、一体いつの間に忍び込んでいたのだろう。気配を完全に遮断して背後に立つその技術は、さすがは一線を越えた裏稼業のそれだったが、来ているなら普通に正面から声をかけて欲しいものである
しかし、驚きながらも、セリカは室内にいる全員の目を見つめた。アルの不器用な視線、カヨコの静かな眼差し、ムツキの悪戯っぽい笑顔、そしてアビドスのみんなの、涙で濡れた瞳。誰もが、自分のことを本気で心配し、死に物狂いで連れ戻してくれたのだという事実に、今更ながら気がついていた。胸の奥がじんわりと熱くなり、みんなに「本当にありがとう」と、心からの感謝の言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間だった
「セリカ……前に私が見た時より、全体の質量が約4kgくらい減少してる。特に大腿部と体幹の筋肉量が落ちている。……すぐにでも高タンパクな食事を摂取させて、元の体型に戻さないと…」
「なんで私の体重をアンタが正確に把握してるのよ!!! どこ見てそんな細かい数字弾き出してんのよ、このストーカー!!」
クロコのあまりにも淡々とした、しかし解像度の高すぎる一言に、セリカの顔が再び爆発したように真っ赤になり、恥ずかしさまじりの怒声が響き渡った。その怒鳴り声につられるようにして、教室には、ここ数日間の暗雲をすべて吹き飛ばすような、温かく晴れやかな笑い声が暫くぶりに響き渡った
その後、数日間にわたってまともな物を食べられなかったセリカのために、アヤネの指揮のもと、ゆっくりと胃に優しいものを食べさせる時間が設けられた
案の定、シロコは「セリカ、まずはこれ。砂漠で一番栄養がある」と、どこからか捕まえてきた巨大なサソリ(しかもまだ元気にハサミを振り回している)を真顔で突き出してきたが、セリカに「そんな気味の悪いもの、今の私じゃなくても胃袋が受け付けるわけないでしょーーーっ!」と全力で怒鳴られ、耳をペタんと寝かせてシュンと悲しそうにしていた
なお、そのサソリは即座に没収されたが、実はクロコも、さらに一回り大きな「特級大サソリ」を隠し持っていたらしい。ノノミがセリカにスプーンで温かいお粥を食べさせている隙に、クロコがそのサソリを逃がしに、そっと教室の外へ出て行こうとしていたのを、アヤネの鋭い眼鏡の奥の視線は見逃さなかった
ドタドタと騒がしい、いつものアビドスの時間が流れる。セリカが安心からふっと息を吐いたのを見届けてから、カヨコは小さく咳払いをし、手元の資料に視線を落とした
「……さて。セリカの身体も落ち着いたみたいだし、そろそろ本題に入ってもいい?」
ようやくセリカの胃袋も落ち着き、顔色に本来の健康的な赤みが戻ってきた頃、一同は教室の中央にある大きな長机を囲むようにして座り直した。お粥の器を前に置いたセリカへ、カヨコとアヤネが中心となって、現在の緊迫した戦況と事実関係を順序立てて伝えていった
「なるほどね……。色彩に飲まれた、別の世界の私……つまり、その『セリカテラー』が、私を攫って地下に閉じ込めていた。……挙句に、便利屋を正面から倒してハルカを攫って、あの子にまで同じ色彩の憎しみを流し込んで、自分たちの洗脳兵隊にしようと躍起になって躍らせてたわけね……。あのカイザーの元理事の傲慢野郎はどうでもいいとして、問題はハルカの安否よね」
「はい、現在の情報網から推測するに、大まかな構図はその通りになります」
アヤネがいつセリカが帰ってきてもいいように、状況を簡潔にまとめておいてくれた書類を見つめながら、セリカは深く頭を抱えた
なぜ、私なのだろうか。なぜ、別の世界の私は、私自身を檻に閉じ込め、私の大切なアビドスを、そして便利屋のハルカを、あんなにも執拗に苦しめようとするのだろうか。夕暮れの光が斜めに差し込む教室の中で、セリカの心には、底の見えない沼地のような、言いようのない重苦しい澱がゆっくりと溜まっていった
「セリカは、そのセリカテラーの一番近くにいたけど……何か、あいつの目的や、次の行動に繋がるような、情報とかは無い? 」
長机に両肘を突き、複雑な表情で頭を抱えているセリカに対して、シロコがいつになく真剣な、射抜くような強い瞳でじっと見つめながら問いかけた
「んー……思い返してみても、私はずっとあの薄暗い地下牢の壁に、冷たい鉄の鎖でガチガチに繋がれてただけだしね……。あいつが部屋に来るたびに、この世界の対策委員会への的外れな恨み言をぶつけられたり、私の反抗的な態度が気に入らないからって、八つ当たりで蹴飛ばされたりしてただけだから……。具体的な次の作戦とか、そういう核心に迫るような会話は、何一つ耳にできなかったわ。役立たずで、ごめん……」
悔しそうに奥歯を噛み締めながら、セリカが拳を握りしめてポツリと呟く。思い出すだけでも、あのもう一人の自分がまとっていた圧倒的な孤独と狂気が、皮膚を粟立たせる。すると、その重苦しい沈黙を切り裂くように、長机の対面に座っていたカヨコがスッと細い手を上げた
「それなら、私達が少し、あいつに関する重要な情報を持ってきてるよ。直接刃を交えたかけたからこそ、見えてきた違和感の話」
カヨコがいつになく険しい真剣な表情でそう告げた瞬間、何故かアビドス対策委員会の面々ではなく、その隣で「フフン!」と偉そうに胸を張っていた便利屋68のリーダーが、一番驚いたように椅子をガタッと大きく鳴らして飛び上がった
「えっ!? ちょっとカヨコ、いつの間にそんな情報収集をしたのよ!? 私、あなたとずっと一緒に行動してたはずだけど! 地下通路を全力で走っている時も、戦っている時も、私は常にあなたの隣で鋭い眼光を光らせていたはずよ!」
長机の端で大物の悪党を気取ってふんぞり返っていたアルが、完全に想定外だったと言わんばかりに声を裏返して身を乗り出す
「いや、情報収集というか……私達が地下室で、あのセリカテラーと直接対峙した時の話だよ」
カヨコがやれやれと言わんばかりに呆れたように深い息を吐きながら、淡々と本題を切り出そうとする
「くふふ、アルちゃんあの時テンパりすぎてて、あいつのセリフなんて全然耳に入ってなかったんでしょー? 相変わらずそういうところ、詰めが甘くて最高にドジだよね〜」
ニヤニヤと実に楽しそうに指先で髪を弄りながら、ムツキがアルの顔を覗き込む。アルは完全に図星を突かれたように小さく「うっ……!」と呻き、泳ぐ視線を必死に引き戻した。しかし、すぐさまゴホンとわざとらしく大袈裟に咳払いをし、いつものように威厳に満ちた(自称)冷酷無比な社長の態度へと一瞬で切り替える
「わ、私だってそれくらい、最初からちゃんと気づいてたわよ! 泳がせていただけよ! えーと、そう、私の鋭い洞察力によると……セリカテラーには、明らかに栄養が足りて無さそうだったわ! お肌のツヤとか、髪の毛のパサつき加減とか、一流の悪党としては決して見過ごせないレベルで生活習慣が乱れていたわね! 規則正しい生活こそが悪の基本よ!」
「社長、それはただのあなたの主観的な感想。……私が言いたいのはそこじゃなくて、あいつが監禁されているセリカに向けて、わざわざ直接言い放っていた言葉の意味」
カヨコが完全にアルの的外れな発言をスルーし、冷徹で真剣な面持ちで長机の中心を見つめた
「セリカテラーが、檻の中にいたセリカに向かって直接言っていたんだけど……。あいつは、『小鳥遊ホシノのヘイローを、この手で、跡形もなく砕いてやった』って言ってたの。最初は、捕らえたセリカの心を完全に折って、絶望させて怖がらせるための、ただのハッタリや精神攻撃の類だと思った
……でも、あいつの眼や、あの時の尋常じゃない殺気を見る限り、とても嘘を言っているようには見えなかったんだよね。まるで、本当に自分の手でホシノのヘイローを砕き散らせた、その生々しい感触と瞬間を、直接この目で見たことがあるかのような、確信に満ちた口ぶりだった。……でも、あいつには、そんな回りくどい嘘の脅しをするメリットはどこにもない」
カヨコの冷徹極まりない分析に、夕暮れの教室がまるで一瞬で凍りついたかのような、重苦しい静寂に包まれる。キヴォトスにおいてヘイローの破壊が何を意味するのか、その場にいる全員が嫌というほど理解していた
「確かにそうですよね……。捕らえて身動きが取れないセリカちゃんに対して、わざわざそんな嘘の脅しをかけてもあいつに得はないですし……」
アヤネが血の気が引いた青ざめた顔で、震える声で呟く。あまりにも不可解で悍ましいセリカテラーの生態に、対策委員会の面々が息を呑んで考え込む中、隣でずっと冷や汗を流していたアルが、所在なさげに自分の帽子の庇を指先でいじりながら、恐る恐る口を開いた
「……も、もしかして……カヨコ……。さっきから私の言うことを全部ツンツン突っぱねて、冷たく一蹴してるのって……。私のあの、渾身の『あびどす納豆』ダンボール潜入作戦が、本当はもの凄く気に入らなくて、その時の精神的なストレスのせいで、今私に八つ当たりしてる、とかじゃないわよね……?」
アルが上目遣いで、本当に申し訳なさそうに、捨てられた子犬のような視線でカヨコの顔色を恐る恐る窺う。的外れな推理をバッサリ切り捨てられたのは自分のせいだというのに、完全に論点がズレたところで「地雷を踏んで怒らせてしまったのでは」と本気で冷や汗を流しているのだ
そんな的外れ極まる上司の心配を前に、カヨコは呆れを通り越して可笑しそうに、意地悪そうな笑みをニヤッと唇の端に浮かべた
「……あんなふざけたロゴ入りの箱に詰められて台車で運ばれたんだから、精神的にかなりの恥ずかしい思いをしたのは事実かな。まぁ、アウトローの潜入作戦としてはそれなりにエキサイティングで楽しかったけどね、社長?」
その完全に自分を弄んでいる表情を見たアルは、返す言葉を完全に失い、顔を耳の根元まで真っ赤にして髪を両手で掻きむしりながら「ううう……」と唸ることしか出来なくなった。完全に一枚上手な右腕の手のひらの上で転がされている
「──そうよ!!」
そんな便利屋たちの緊張感のないやり取りを鋭く遮るように、セリカが弾かれたように立ち上がり、思い出したかのように青ざめた顔でアヤネの方を向いた
「アヤネちゃん! ホシノ先輩は!? ホシノ先輩は今どうなってるのよ!? 大丈夫なの!? 無事なの!?」
心配と焦燥のあまり居ても立ってもいられなくなったセリカは、勢いよく長机に身を乗り出すと、向こう側に座っていたアヤネの両肩をがっしりと掴んでブンブンと前後に激しく振り回し始める
「お、落ち着いて、落ち着いてくださいセリカちゃん! 目が、目が回ります……っ! ホシノ先輩なら大丈夫ですから! お医者様からも、お身体は確かにあちこちボロボロで入院が必要だけど、ヘイローにも命にも一切別状はありませんって、太鼓判を押されてますからぁ!」
「よ、良かったぁ……! 本当に良かった……っ」
アヤネの必死の叫びを聴いて、セリカは張り詰めていた全神経の力が一気に抜けたように、その場にへなへなと座り込んで胸を撫で下ろした
「ん……今のでアヤネが新たな重症を負いかけてる。セリカ、加減して。アヤネのライフはもうゼロに近い」
安督の涙を浮かべるセリカの横で、シロコが目を回してふらついているアヤネの背中を支えながら、静かに、しかし的確なツッコミを入れる。ノノミも慌てて「アヤネちゃん、大丈夫ですか!?」とハンカチを取り出して彼女の額の汗を拭った
そのアビドスならではの騒がしくも温かいやり取りを、どこか呆れたように、けれど少しだけ楽しそうに細い目を細めて見つめていたカヨコが、コホンと短く咳払いをして教室の空気を引き締めた
「それで、話の続きなんだけど……。ここからが本題」
「あっ、すみません、どうぞ……」
アヤネが慌ててズレた眼鏡を指先でクイッと付け直し、ノートとペンを構えて居住まいを正す
「私達が地下通路の最奥で、その色彩に侵されたもう一人のあなたと対峙した時、最後の方でセリカテラー……いや、一時的に色彩の侵食に抗って、普段通りの正気を取り戻した『元のセリカ』の意識が表に出てきたの。彼女は苦しみながらも、私達に檻の鎖の鍵を託した。……そして、その時に彼女が零した言葉から、倒れて砂漠に取り残されていた小鳥遊ホシノを回収して、アビドスの病院にまで密かに運んだのは、他ならぬセリカテラー本人だったということが分かったんだよね」
「えっ!?」
カヨコの口から語られたあまりにも予想外の事実に、アヤネだけでなく、ノノミもシロコも、正式な作戦会議をここで初めて聞くセリカ本人までもが、同時に驚愕の声を上げて目を見開いた
「そ、そんな……! ホシノ先輩が病院の前に倒れていた時、防犯カメラにも何も映っていなくて、一体誰が先輩を助けてくれたのか、ずっと謎だったんです……。まさか、先輩を襲った張本人であるあの子が、自ら運んでいたなんて……っ」
アヤネが困惑を隠せない様子で、縋るようにカヨコを見つめて首を傾げる。自分たちを滅ぼそうとする侵略者が、その一方で自分たちの命の恩人でもあるという歪な構図が、どうしても理解できなかったのだ
「それについても、彼女自身の口から理由が語られていたわ。あいつは『私のものじゃない、湧き上がる不条理な憎しみが私の意識を押しつぶす』って言ってた。つまり、彼女の凶行は、外から無理矢理植え付けられた『色彩』の憎悪の呪いによって精神を乗っ取られているせい。……だから安心していいよ。奥底に眠る彼女自身の本質は、今もあんた達のことを何一つ恨んでなんかいないみたいだから」
カヨコが静かに、しかし確信を込めてそう告げると、アビドスの面々の顔に、パッと目に見えて明るい救いの光が広がっていった。セリカテラーは敵ではない。自分たちと同じように、不条理な運命に苦しめられている「もう一人のセリカ」なのだと理解できたからだ
「……そっか。やっぱり、そういうことだったんだ……」
セリカはぽつりと呟き、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。監禁されている間、ずっと感じていたあの歪な違和感──暴力を振るう凶行の裏で、あいつが時折見せていた、今にも消え入りそうな寂しい気配。あれは、外からの憎悪に必死に抗いながら、自分を、そしてアビドスを守ろうとしていた、もう一人の自分自身の「悲鳴」だったのだと、ようやく点と線が繋がった
「くふふ、アビドスのみんなの顔に笑顔が戻ったのは何よりだけど〜。その後に黒猫ちゃんから託された言葉は、笑顔が引っ込んじゃうくらい衝撃的だったんだよね〜?」
ムツキがいたずらっぽく肩をすくめながら、隣に立つアルへと視線を送る
「衝撃……ですか?」
ノノミが不安そうに首を傾げ、胸元で両手をきゅっと握りしめた
「ええ、そうよ。そのセリカテラーは、正気に戻った僅かな時間を使って、私達便利屋68に対して、正式にある『依頼』を申し出てきたのよ」
アルが腕を組み、ロングコートの襟を正しながら重々しく補足し、そこでわざと一拍置いて教室全体の注目を集めた
「……その依頼は、大きく分けて2つ。まず1つ目は、『必ずハルカを助け出してほしい』ということ。どうやら、狂った方のセリカテラーは捕らえたハルカの精神を汚染し、自分たちの都合の良い忠実な兵隊として洗脳しようと躍起になっているらしいの。彼女自身も、本当はハルカにあんな酷いことをしたいとは狂っていても思っていないみたいよ」
「そんなの、依頼されなくたって勿論ですよ! ハルカさんも、私たちのせいで巻き込まれてしまった大切な仲間なんですから、絶対に、何が何でも全員で助けに行きます!」
アヤネが力強く拳を握りしめ、書類にその決意を書き留める。ノノミもシロコも、その言葉に深く、迷いのない頷きを返した
「ハルカのことは分かったわ。あのナヨナヨした子が無理して耐えてるなら、一刻も早く連れ戻さなきゃね。……それで? 2つ目の依頼は何よ。わざわざ便利屋に頭を下げてまで頼んできたことなんでしょ?」
セリカが長机に身を乗り出し、鋭い眼光でアルを真っ直ぐに見つめながら問いかける
アルはセリカの視線を真っ向から受け止めると、先ほどまでのハッタリの表情を完全に消し去り、アウトローとしての冷徹さと、一人の少女としての痛切な真剣さを孕んだ声で、その重すぎる言葉を口にした
「……『自分が完全に狂い、この世界を跡形もなく壊し尽くしてしまう前に、セリカテラーのヘイローを……完全に、砕きに来てほしい』。これが、彼女が私達に遺した、2つ目の依頼よ」
「「!?!?」」
アルの口から告げられたあまりにも悍ましく、そして哀しすぎる「2つ目の依頼」の全貌を前に、対策委員会の教室は爆弾を落とされたかのような凄まじい衝撃と驚愕の表情に包まれた
キヴォトスに生きる生徒にとって、頭上に浮かぶヘイローを砕かれるということは、取り返しのつかない絶対的な「死」を意味する。ましてや、外からの憎悪に精神をズタズタに引き裂かれている、もう一人の「黒見セリカ」自身からの懇願なのだ。なぜそんな残酷な結末を、自ら望んでアルたち便利屋68に託してきたのだろうか
誰もが言葉を失い、重苦しい不条理の渦に巻き込まれていく中、それまで長机の端で影のように佇んでいたクロコの片耳が、ぴくりと不穏に跳ね上がった。彼女の瞳の奥に、かつて自らの世界を滅ぼした時と同じ、冷酷で鋭利な殺意の光が灯る
「……その依頼……。アル、まさか……受けたり、してないよね」
地を這うような、ゾッとするほど低い声だった
「ええ、受けたわ。この便利屋68のリーダー、陸八魔アルが、彼女の目の前で確かにその願いを請け負ってみせたわ!」
アルがロングコートの裾を翻し、ふんぞり返りながらハッキリとそう言った、まさにその瞬間だった
(ガタァッ!!)
空気が爆発したような風圧と共に、クロコが一瞬にして数メートルの距離を完全にゼロに詰めていた。激しい金属音を立てて引き抜かれた彼女の愛銃の銃口が、アルの白い額のド真ん中へと寸分の狂いもなく突きつけられる
「……それがどういう意味か、本当に分かって言ってるの? もしそのふざけた口から、セリカを殺す手伝いをするなんて言葉がこれ以上続くなら……今から容赦なく、アルのその頭を撃ち抜く」
凄まじい殺気だった。銃口から放たれる冷たい鉄の匂いと、いつでも引き金を絞れるように固定されたクロコの指先。アビドスの誰もが息を呑み、教室全体の温度が急降下する
しかし、アルは突きつけられた銃口を真っ向から見つめ返したまま、ふっと不敵な笑みを崩さなかった
「……分かっているわよ。私を誰だと思っているの? あまり舐めないで頂戴」
声音だけは、完璧なハードボイルドを維持して冷静に言い放つアル。だが、長年の付き合いであるムツキとカヨコには、アルの内心が(ひぃぃぃぃぃ!? 怖い怖い怖い! 何この人、動きが速すぎて全然見えなかったんだけど!? 銃口がめちゃくちゃ近くて火薬の匂いまでしてくるじゃない! 助けてよ2人とも!? これで本当に撃たれたら私のハードボイルドな伝説がここで終わっちゃうでしょ?!)と、心臓が口から飛び出るほど大パニックを起こして大号泣しているのが容易に想像できた。そのため、ムツキは「あはは、アルちゃん顔が引きつりそうだよ〜♪」と楽しそうに肩を揺らしてクスクスと笑い、カヨコは「はぁ……また始まった。本当に懲りないんだから」と呆れたように深いため息を吐く
普段なら真っ先にターゲットへ銃口を向け返す便利屋の二人だったが、ここで自分たちが安易にサポートに入っては、せっかくの「社長の見せ場」を台無しにしてしまう。アルが必死にハッタリを維持している理由を誰よりも理解しているからこそ、二人はあえて動かずにその行く末を見守ることにした
「なら聞かせて。なんでそんな狂った依頼を受けたの。あんたたち裏稼業の人間は、金さえ積まれれば仲間の命を奪うことも厭わないっていうの?」
クロコの指が、わずかに引き金へと深くかかる。その冷たい金属音が、静まり返った教室にカチリと小さく響いた
「く、クロコ先輩! 落ち着いてください、銃を下ろして……っ!」
アヤネが慌てて二人の間に割って入ろうと止めに走るが、クロコの圧倒的な筋力と、全身から放たれる凍りつくような威圧感の前に、その身体を1歩も動かさせてもらえない。ノノミもシロコも、緊迫した様子で息を呑みながらアルの次の言葉を待った
銃口を向けられたまま、アルは前髪を不敵に払い、最高に傲慢な笑みを唇の端に浮かべてみせた
「あんた達ね、クライアントに言われた通り、額面通りの作戦をそのまま成功させるなんてものは、ただの二流のパシリがすることよ。私達便利屋68が目指すのは、世界を震撼させる完璧なアウトロー組織よ? 依頼主の想像の範疇に収まる結末なんて、退屈極まりないわ」
「……それが何。理屈になってない。ただの命知らずの戯言」
「まだ分からないかしら? 彼女の願いの本質はね、『自分が完全に色彩の化け物になって、この大切な世界を壊してしまう前に、私を止めて』ということよ。要するに、世界を壊させないように守り抜くのが本当の依頼。だったら、セリカのヘイローを壊さなくたって、その体にまとわりついた『色彩の恐怖(テラー)』という名の呪いだけを、私たちの弾丸(思い)で粉々にブチ砕いて、黒見セリカを丸ごと奪い返してあげれば良いってことでしょ! クライアントの想定を遥かに超える最高のハッピーエンドを力尽くで用意してこその、一流のハードボイルドじゃない!」
「!」
アルの口から放たれた、あまりにも身勝手で、圧倒的に前向きな「ウルトラC」の解決策を耳にした瞬間、クロコの濁っていた瞳が驚愕に大きく開かれた。世界を壊さず、かつ彼女の命も奪わない。そんな都合の良い奇跡を、この目の前の不敵な少女はさも当然のように語ってみせたのだ
「ね? うちの社長、普段はポンコツだけど、ここ一番のやる時はやるでしょ」
カヨコがふっと誇らしげに口元を緩め、腕を組み直す
「くふふ〜、どうどう? アビドスのみんな、うちのアルちゃんを見直したー? あはは! 本当にハルカちゃんがここに居たら、感動と興奮のあまり『アル様!!』って叫んで、手が付けられない状態になってたハズの神がかった大活躍だったんだからね〜♪」
ムツキがからからと楽しげに笑いながら、アルの背中をパシパシと叩く
「た、確かに……! 言われてみれば、普段のアルさんからはちょっと想像できないほど道理が通っていて……。それでいて、最高に格好いい決め方です……っ!」
アヤネが涙を引っ込め、両目を輝かせながら感心したように深く頷いた。ノノミも「あらあら、とっても素敵なお話ですね。これなら誰も悲しまずに済みます」と、救われたように胸に手を当てる
クロコは暫くのあいだ、無言のままアルの真っ直ぐな瞳を見つめていた。そこに嘘や誤魔化し、そして命への侮蔑が一切ないことを悟ると、彼女はスッと静かに武器を下ろし、安全装置をかけた
「……ごめん。少し熱くなりすぎた。……アルのその言い分、嫌いじゃない。筋が通らないようで、一番通っている」
クロコが素直に視線を落として謝罪の言葉を口にする
「い、いいのよ! 私だって少し言葉が足りなかったわけだし、一流のアウトローならこれくらいの修羅場は日常茶飯事だからね! フッ……!」
銃口が逸れた瞬間、アルは心臓がバクバクと太鼓のように激しく鳴り響いているのを必死に右手で押さえ込みながら、何事もなかったかのようにフッと気取った笑みを浮かべた。背中にはびっしょりと冷や汗が流れており、足の震えを止めるだけで精一杯だった
「でも、社長のそのハッタリを実現する上で、現実的な問題が一つだけ残されているのよね」
カヨコが長机の上の書類を指先でトントンと叩きながら、冷徹な声で告げる
「そうそう。私も地下通路であいつの顔を見た時から、それが一番の、そして最大の障壁になると思っているの。私たちの弾丸が届く前に、あいつ自身の心がそれを拒むかもしれない」
ムツキもいつもの悪戯っぽい笑みを消し、真剣な表情で言葉を重ねた
「……一番の問題って、何?」
シロコが尋ねると、カヨコは一呼吸おいてから、静かにその核心を口にする
「セリカテラーには、もう……自分自身が『生き残るための気力』が、1ミリも残されていないっていうこと」
「生きる、気力がない……?」
セリカが呆然と呟く。お粥のスプーンを持つ手が、小さく震えた
「……セリカテラーのいた世界線では、アビドスの仲間はセリカ以外、全員死んでしまっているの。先生も、ホシノも、シロコも、ノノミも、アヤネも……誰も帰ってこない。自分だけがその絶望的な世界で一人きり残されて、精神を擦り切らせてきた
だから彼女は、たとえこの世界のみんなが自分の犯した罪を許してくれたとしても、自分だけがこの温かい世界で幸せに生きることなんて、到底受け入れられないって思っているのよ。自分のアビドスはもうどこにも無いのだから、世界を守るための人柱になって死ぬことだけが、彼女に残された唯一の救いになってしまっている。……要するに、心が完全に折れてしまっているの」
「そんな……っ、そんなの、あんまりです……! 自分の世界がなくなったからって、別の世界で死を望むなんて……っ!」
アヤネの悲痛な叫びが、夕暮れに染まり始めた教室の中に、どこまでも切なく、そして重く響き渡った
別世界の自分が経験したという、想像を絶するほどの孤独と絶望の深淵。愛する仲間をすべて失い、世界そのものに拒絶されたかのような絶対的な孤立感。それを聞いたアビドスの面々は、まるで自分の胸を直接抉られたかのような痛みに耐えていた
「……そこは、たぶん大丈夫だと思う」
沈みきった重苦しい空気のなか、それまでじっと自分の手元を見つめていたシロコが、静かに、しかし一点の曇りもない硬質な声でそう呟いた
「どうしてそう言い切れるの?」
カヨコが細い眉をひそめ、その真意を問うようにシロコを見つめる。どれほど便利屋が、あるいはこの世界のアビドスが「一緒に生きよう」と言葉を尽くしたところで、別の世界で刻まれた魂の傷は、そう簡単に埋まるものではない。それを理解しているからこそカヨコの問いだったが、シロコは迷うことなく、長机の端に座る一人の少女へと、真っ直ぐに視線を向けた
「だって、ここには、もう一人の私が居る」
シロコの指先が示唆したのは、静かに佇むクロコだった
「……私?」
不意に名前を呼ばれたクロコは、驚いたように瞳をわずかに見開いた
「そう、クロコ。……クロコもセリカテラーと同じ。あっちの世界で、ホシノ先輩やノノミ、アヤネ、セリカ……そして先生も含めて、みんなを、すべてを失ってしまった。同じように終わらない絶望を抱えて、その結果として、この世界を壊しにやってきた」
「………」
クロコは何も言わず、ただ唇をきゅっと噛み締めて視線を落とした。彼女の脳裏にも、かつて色彩の手先としてこの世界に降り立ち、すべてを呪っていた頃の生々しい記憶が去来していたのだろう。その背中が、一瞬だけ小さく震える
シロコはそんなクロコの元へとゆっくりと歩み寄り、その少し冷たい肩に、自分の温かい手をそっと置いた
「じゃあ、質問。クロコは今も、この世界を壊したいって本気で思ってる? ……セリカテラーみたいに、死んでしまったみんなの元へ行くために、ここで自分も死にたいって、今でもそう願っているの?」
夕暮れの光の中で、二人のシロコが真っ向から視線を交わす。教室の全員が息を呑み、クロコの唇から零れ落ちる答えを待った。クロコはしばらくの間、重苦しい沈黙を守っていたが、やがて目を閉じ、深く息を吐き出すと、ゆっくりと、しかし確固たる意志を込めて左右に首を振った
「……そんな事は、もうこれっぽっちも思わない。……思いたくもない」
掠れた、けれど芯の通った力強い声が教室の隅々にまで染み渡るように響いた。クロコはゆっくりと再び目を開けると、そこにいるアビドスの仲間たち、そして便利屋の面々を、慈しむように一人ずつ真っ直ぐに見つめ直した。夕暮れの光が、彼女の横顔を寂しく、しかし神聖なもののように照らし出している
「私は、今を懸命に生きているこの世界のみんなが、本当に好き。……そして、あっちの世界で死んでしまった私の大切なみんなのことも、今でも同じくらい愛してる。だからこそ、痛いほどよく分かる
……あの子たちは、私が絶望に身を任せて自暴自棄になり、ここで命を投げ捨てることなんて、絶対に望んでなんかいない。生き残った私に、呪われた終わりを迎えてほしいなんて、そんな悲しいこと思うはずがない……
失ったものが大きすぎるからこそ、残された私はここで生きて、泥をすすってでも、前を向くって決めたの」
かつて過酷な運命の果てに「アヌビス」と呼ばれ、世界の終焉を告げるために現れた少女の口から語られた、真実の言葉。それは、同じ地獄の底を這いずり、同じ絶望を潜り抜けてきた者にしか紡ぐことのできない、魂の叫びだった
セリカテラーが抱える「生き残ってしまった罪悪感」を、誰よりも深く理解しているクロコだからこその、重みのある答えだった
「ん、そう言うと思った」
シロコは満足そうにふっと口元を緩め、嬉しそうに目を細めて笑った。その信頼に満ちた表情は、双子のように似た二人の少女の絆を何よりも雄弁に物語っていた。シロコは再び長机を囲むカヨコたちのほうへと向き直る
「私たちがどれだけ綺麗事を並べても、たぶん、今のセリカテラーの心の奥底には届かない。悲しいけれど、傷の深さが違いすぎるから
……でも、クロコなら違う。同じ地獄を見て、同じ絶望を乗り越えて、今ここで前を向いて生きているクロコの言葉なら……きっと、あの分からず屋のセリカテラーの凍りついた生きる気力を、力尽くでこじ開けて、なんとか出来ると思う
……ううん、クロコにしか、セリカの心は救えない。これは私たちの戦いであると同時に、あっちの世界を背負ったクロコにしかできない役目」
シロコが真っ直ぐな言葉でクロコへの信頼を告げると、教室の面々は一様に口を閉ざし、静まり返った。だが、その沈黙は先ほどまでの絶望に押し潰されそうな、冷たく暗い静けさではなかった
それぞれの胸の内に、もう一人のセリカを呪縛から解き放ち、今度こそ全員で未来へ歩き出すための、確かな覚悟の火が灯ったことによる静寂だった。セリカテラーの絶望の深さを知った上で、それでもなお「救う」という不可能な奇跡に挑むための、戦士たちの無言の誓いだった
「良いわね! それじゃあ私達が挑むべき作戦の骨組みは、これ以上ないくらい綺麗に決まったようなものじゃない!」
重苦しい空気を一瞬で吹き飛ばすように、アルがヒールを高く鳴らして一歩前に出ると、夕暮れの教室の主役に相応しい華やかさで、大きく両手を広げて高らかに宣言した。その瞳には、いつものポンコツさは微塵もなく、まさに悪の組織の首領としてのカリスマが宿っているかのようだった
「私達便利屋68は、捕らわれている私達の大切な社員(ハルカ)を確実に救出する。そして、対策委員会の貴方達は、クロコがセリカテラーの元へと辿り着くまでの道を阻む、ありとあらゆる障害物を根こそぎ薙ぎ払う……! 役割分担としては極上、アウトローのビジネスとしてもこれほど燃える展開は他にないわ。これで決まりね!」
「……確かに、今の私達に遺された選択肢は、もうそれしかありませんね」
アヤネは深く息を吐き出すと、眼鏡を一度外し、自身の両頬を「パァン!」と乾いた音が室内に響き渡るほどの強さで叩いた
痛みに眉をひそめることもなく、赤みの差した顔で再び眼鏡をかけ直した彼女の瞳からは、先ほどまでの迷いや恐怖は完全に消え去っていた。臨時の委員長としての冷静さと、仲間を救うという執念が、彼女の表情を鋭く引き締めていく
「では、アルさんが仰った通り、私達対策委員会は総力を挙げて、基地で邪魔をしてくるであろうカイザーの元理事とその配下を退け、何がなんでもクロコ先輩をセリカテラーちゃんの元へと送り届けます!!」
「ん、了解。邪魔する雑魚ロボットは、私が一機残らずスクラップにする。弾薬の補給も完璧にしておく」
「はい♪ 私のガトリングも、今回は一切の手加減なしで火を噴いちゃいますからね〜。カイザーを全部吹き飛ばすくらい撃ちまくりますよ〜」
「もちろんよ! 私だって、もう二度とあの化け物……ううん、もう一人の私に好き勝手させないんだから! 今度はこっちから乗り込んで、目を覚まさせにいくわよ! 私が私に負けるわけにいかないもの!」
シロコ、ノノミ、そして病み上がりのはずのセリカまでもが、力強く拳を握りしめて連鎖するように頷いた
その熱い光景を、クロコはどこか気恥ずかしそうに、けれど愛おしそうに長い耳をわずかに震わせながら見つめていた。自分を受け入れてくれたこの世界のために、今度は自分が銃を執る番だと、静かに闘志を燃やしているようだった
「では、決行は明日! 旧カイザー基地へと一斉に攻め入ります! 便利屋の皆さんも、私達も、それまでに各自の武器の点検や弾薬の調達、必要な道具の整備を完璧に終わらせておいてください!」
アヤネが委員長としての凛とした声で会議を締めくくると、教室の空気は一気に臨戦態勢へと切り替わった。明日の決戦に向け、それぞれの少女たちが自分の役割を全うするために動き出す
「くふふ、じゃあ私達は一度事務所に戻って、とっておきの火薬の調合でも始めようか、社長♪ カイザーの戦車ごと吹き飛ばすようなやつをね」
「ええ、完璧な作戦に相応しい、ド派手な準備を整えるわよ! 私たちの一流の仕事、特等席で見せてあげるわ!」
「……ハルカの安全を確保するためにも、装備の再点検は念入りにね。あの子、無理して動いてなきゃいいけど……」
ムツキとカヨコに促され、アルは満足げに不敵なドヤ顔を浮かべながら、ロングコートを翻して教室を後にした。シロコとクロコも、互いに言葉はなくとも視線だけで複雑な連携の確認を交わしながら、それぞれの愛銃のメンテナンスのために廊下へと出ていく
ノノミも「私も少し、お買い物に行ってきますね。みんなの分のチャージも済ませておきます」と、大量の弾薬や回復薬を調達するために笑顔で出かけていった
ドタドタと賑やかだった足音が廊下の向こうへと遠ざかり、夕闇が本格的に教室を包み込み始める頃、室内に入り混じっていた様々な硝煙の匂いも薄れ、残されたのは片付けをするアヤネと、布団を敷いた長椅子の上に腰掛けたセリカの二人だけになった
窓の外では、キヴォトスの空が茜色から深い群青色へと移り変わろうとしている
「ふぅ……。そうと決まれば、早速ホシノ先輩にもこの作戦のことを伝えて安心させてあげないとね。あの人、自分のせいでみんなが大変な目に見舞われてるって、また一人で抱え込んでるに決まってるんだから。私たちがこんなに元気だって見せにいかなきゃ」
セリカが布団から足を下ろし、いつもの調子で快活にそう言った。しかし、その言葉を聞いた瞬間、アヤネの書類を整理する手がぴたりと止まる。彼女はひどく気まずそうに、そして胸を締め付けられるような激しい痛みに耐えるように、深く、深く下を向いてしまった
教室の蛍光灯の白い光に照らされたアヤネの細い肩が、心なしか小さく震えている。そのただ事ではない様子に、セリカは黒いネコ耳を怪訝そうにピクリと動かし、首を傾げた
「……ちょっと、アヤネちゃん? どうしたのよ、そんな暗い顔して。ホシノ先輩の容態、さっき命に別状は無いって言ってたじゃない。ヘイローも無事だってカヨコたちも……何か私に隠してることでもあるの?」
セリカの真っ直ぐな問いかけに、アヤネはしばらく唇を強く噛み締めて言葉を濁していたが、やがて絞り出すような、ひどくかすれた声で静かに告げた
「……セリカちゃん。ホシノ先輩は……今回の作戦には、参加しないと思います。いえ……おそらく、参加させることが、できないんです」
「え? な、なんでよ……。ホシノ先輩なら、ちゃんとした治療を受けたんでしょ? あの人の並外れた頑丈さなら、多少の傷くらいならもうとっくに完治して、今頃は教室のソファでいつものようにクジラみたいに間抜けな顔で昼寝してるはずじゃない
……もしかしてアヤネちゃん、本当は命に関わるような大怪我を、私を安心させるために隠して……!?」
不穏な予感に胸を衝かれ、セリカの声が急激に上ずっていく。最悪の事態が脳裏をよぎり、長椅子のシーツを握りしめる手にぎゅっと力がこもる。しかし、アヤネはただ悲痛に満ちた表情のまま、左右にゆっくりと首を振った
「お身体の傷だけなら、セリカちゃんの言う通り、驚異的な回復力でもう峠は越えています。動くのにはまだ激痛が走るでしょうけど、命に別状はありません。……ですから、身体の怪我が理由ではないんです」
「それじゃあ何が問題なのよ! 身体が無事なら、なんでホシノ先輩が作戦に参加できないなんて話になるのよ! 別の世界の私があんなに苦しんでて、ハルカちゃんが捕まってて、明日にも旧カイザー基地に攻め込もうって時に、あの先輩がただ黙って見てるわけないじゃない!」
セリカはたまらず声を荒らげた。アビドスが危機に瀕した時、誰よりも先に盾となって最前線に立ち、身を挺してみんなを守ろうとするのが、彼女のよく知る小鳥遊ホシノという先輩だったからだ。その先輩が、作戦から外されるなどという状況が、どうしても納得いかなかった
教室の夕闇がさらに深まる中、アヤネは机の上に置いた両手を強く握りしめ、視線を書類の文字から落とさないまま、消え入りそうな声で言葉を紡ぎ始める
「……この件は、元を辿れば、あの『列車砲』の事件の時に始まっているんです。あの時、ホシノ先輩が私達のことを頼らず、一人で全てを背負って突っ走ってしまったこと……セリカちゃんも、覚えていますよね?」
「それは……うん、覚えてるけど。でもあの時は……」
「私たちの世界では、先生が来てくれて、度重なる奇跡とみんなの必死の抵抗のお陰で、最悪の事態を免れて無事に解決することが出来ました。ホシノ先輩も、私達を『仲間』だと信じて、もう一人で抱え込まないと約束してくれた
……でも、セリカテラーちゃんの世界では、その列車砲の事件で、一番最悪な結末を辿ってしまったんです。ホシノ先輩のヘイローを砕かなくてはいけなくなり、私やノノミ先輩、シロコ先輩も死に、セリカちゃん一人だけ生き残ってしまい、その果てに狂ってしまった
……そのあまりにも残酷な『もしもの現実』を突きつけられて、ホシノ先輩は……体ではなく、その心を完全に砕かれてしまったんです」
アヤネの言葉が、冷たい楔のようにセリカの胸に突き刺さる
「……何よそれ……。そんなの、あっちの世界のことでしょ?ホシノ 先輩が今さら気にしたって、どうしようもないじゃない……!」
「どうしようもなくなんか、ないんですよ……! ホシノ先輩にとっては、セリカテラーちゃんが放つあのドス黒い憎しみも、悲痛な叫びも、すべて『過去に自分が一人で突っ走ってしまった結果が招いたかもしれない罪』そのものに見えてしまっているんです
先輩が苦しんでいるのは、自分の弱さのせいだ。自分の選択が間違っていたから、別の世界であんな惨劇が起きてしまったんだって……
ようやく、過去の呪縛を乗り越えて、私達と一緒に前を向き始めたばかりのホシノ先輩に、過去の自分の至らなさが、一番最悪な形のブーメランとなって降り掛かってしまったんです。だから……今の先輩は、罪悪感と絶望の海に深く沈んでしまっていて、銃を握ることすら……。無理に引きずり出すような真似は、私には……」
アヤネの眼鏡の奥から、再び一筋の涙が静かに溢れ落ちた。これ以上、傷ついた先輩に残酷な現実を背負わせたくないという、防衛室長としての、そして後輩としての、痛切なまでの優しさがそこにはあった。アヤネ自身も、ホシノの抱える闇の深さに圧倒され、どう言葉をかけていいか分からず、立ち尽くすしかなかったのだ
「アヤネちゃん」
アヤネがそれ以上言葉を続けようとした瞬間、セリカは短く、けれど不思議なほどに凛とした、静かな声でその名前を呼んだ
「は、はい……?」
アヤネが涙を拭いながら顔を上げると、セリカはすでに長椅子から立ち上がり、制服の乱れをパパッと手際よく直していた
その瞳には、先ほどまでの困惑や動揺は微塵もなく、ただ真っ直ぐな、いつものアビドスの黒見セリカとしての強い光が戻っていた
「私、今から行くところが出来たわ」
そう言い残すと、セリカは迷いのない足取りで、教室の引き戸に向かって歩き出す
「え、ちょっと、待ってくださいセリカちゃん!? どこに……何処に行くつもりなんですか!?」
「決まってるじゃない。ホシノ先輩の所よ」
「セリカちゃん、ダメです! 先輩は今、誰とも話せるような状態じゃ……!」
「関係ないわよ! あんな分からず屋の先輩、一発ガツンと言って目を覚まさせなきゃ気が済まないわ!」
セリカはアヤネの制止の声を振り切るようにして、教室の扉を勢いよく開け放ち、廊下へと飛び出してしまった
「待って、セリカちゃん!!」とアヤネが後ろから廊下に響き渡る声で何かを必死に叫んでいるが、すでに走り出したセリカの耳には、風の音に紛れてほとんど届かなかった。しかし、アヤネが最後に半ば諦めたように、全力で張り上げた「──ホシノ先輩は、アビドス中央病院の302号室にいます!!」という言葉だけは、セリカの鼓膜にハッキリと、鮮明に焼き付いた
(アビドス病院ね、分かったわ……!)
放課後の静まり返った校舎を、セリカは一心不乱に駆け抜けていく
夕暮れの校門を飛び出し、まだ体力が完全に回復していない身体が悲鳴を上げそうになるのを、気合いだけでねじ伏せて、アビドスの砂漠沿いの道を病院へと向かってひた走る
(何が罪悪感よ! 何が私のせいよ……! 別の世界の私が、色彩に狂わされながらも、必死で……必死で手を伸ばして、死なせないために病院にまで『運んだ』命じゃないのよ……!! それを、当の本人がベッドの上で引きこもっててどうすんのよバカ先輩!!!)
脳裏に、かつてホシノが一度テラー化した時の記憶がフラッシュバックする
あの時、セリカはホシノに必死に呼びかけた。けれど、当時の自分は、かつての生徒会長であるユメとホシノの間にあった深い過去の因縁や、ホシノが抱えていた本当の孤独を、何も深くは知らなかった。だから、みんなとは違ってあの時は気の利いた言葉なんて一つも浮かばなくて、ただ帰ってきて欲しいこと、一緒にラーメンを食べに行くこと、ホシノが見たがっていたアヤネとの自分のアイドル姿を見せるとか、今思い出しても恥ずかしくなるような、的外れな言葉で釣って引き留めることしか出来なかった
だけど──今回は違う
今回の事件の元凶は、外ならぬ「自分自身」だ。別の世界の自分が、どれほどの孤独に耐えかねて狂ってしまったのか。そして、それを目の当たりにしたホシノが、今どれほどの自己嫌悪に苛まれ、暗闇の中で一人で膝を抱えて泣いているのか。自分のことだからこそ、そして大切な大好きな先輩のことだからこそ、今のセリカには痛いほどによく分かった
今なら、あの時とは違う。付け焼き刃の励ましなんかじゃない、心の底からの、正真正銘の「言葉」にして、あの分からず屋の先輩の胸ぐらを掴んで叩きつけることが出来る
(待っててよ、ホシノ先輩……! 今すぐそこに行って、そのひねくれた根性、私が叩き直してあげるんだから……!! 私が、先輩をもう一度戦場に引っ張り出してあげるわ!)
迫り来る夜の帳を切り裂くように、セリカは夕焼けの砂漠を真っ直ぐに突き進み、アビドス中央病院を目指して走り続けるのだった