救われたかったセリカ 作:気弱
「いや〜、こんなに良くしてもらっちゃって、なんだか悪いねぇ〜」
夕暮れの茜色の光が穏やかに、そしてどこか物憂げに差し込むアビドス中央病院の302号室。白く無機質なベッドの上で上体を起こし、いかにも嬉しそうに目尻を下げてニコニコと笑うホシノの姿がそこにあった
彼女の視線の先では、簡易的なパイプ椅子に腰掛けた先生が、手慣れた手付きで果物ナイフを動かし、お見舞い品の瑞々しいリンゴをひとつひとつウサギの形に剥いていた。刃先が果皮を滑るサクサクという規則正しい音だけが、静まり返った病室に小さく響く
「まぁ、今の僕にはこれくらいのことしかできないからね。はい、どうぞ」
先生は綺麗に切り分けられ、少し歪なウサギたちが並んだ白いプラスチックの皿を、ベッドの上のホシノへと優しく差し出した
「ありがとね、先生。……おじさんのことを心配して、こうやって毎日忙しい合間を縫って顔を出してくれることだけでも、充分すぎるくらい嬉しいよ」
そう言って、小さな手のひらで皿を受け取ったホシノは、フォークでウサギ型のリンゴをひとつ持ち上げ、シャキリと小気味よい音を立てて口に運ぶ
「ん〜、甘くてとっても美味しい! さっすがヒナちゃんが直々に選んでくれたリンゴだねぇ。おじさん、あまりの美味しさに病気も怪我も一気に吹き飛んじゃいそうだよ〜」
口いっぱいに広がる爽やかな果汁と芳醇な甘みを堪能しながら、ホシノはいつものように のんびりとした口調で、どこかおどけるように笑ってみせるのだった
「あはは……。本当はね、今すぐにでも君たちの手助けに駆けつけたいところなんだけどさ……」
先生は果物ナイフをトレイの端に置き、申し訳なさそうに、そしてやり場のない不甲斐なさに眉を下げて苦笑した。その視線は、窓の向こうの茜色の空を通り越し、どこか遠くの、キヴォトスの遥か外縁へと向けられていた
「ん〜、なんだっけ? 最近、氷海方面で何か怪しい動きがあったんだよね? 」
「うん。あまり詳しいことまでは話せないんだけど……、今そっちの方の事態がかなり緊迫していてね。しかも、私とごく一部の生徒しか動けないしこのことを知らないんだ」
リンゴを咀嚼しながら、ホシノは目の前の大人の顔をじっと見つめ、その胸中を推し量っていた
普段の先生なら、自分たちアビドスが未曾有の危機に瀕していると知れば、たとえ世界すべてを敵に回してでも、今ある全ての仕事を放り投げて真っ先に助けにきてくれる。生徒の涙を何よりも嫌い、生徒の笑顔のためにすべてを賭けるあの人が、明確に「そっちに手がかかりきりで動けない」と口にするのだ。それがどれほど異常で、どれほどキヴォトス全土の存亡に関わる深刻な事態であるかは想像に難くない
何より、大人の責任を果たせないこと、目の前の大切な生徒を優先できないことを心から恥じ、悔しそうに歪められた先生の表情そのものが、その言葉の真実味を何よりも雄弁に物語っていた
ホシノはそんなシリアスな思考を巡らせている素振りなど微塵も周囲に感じさせず、いつもの緩い笑みを張り付けたまま、おどけた調子で話を続けた
「いいよいいよ〜、先生はそっちの大きな仕事をパパッと片付けてきちゃってよ。こっちはおじさんの自慢の後輩たちが、ちゃーんと何とかしてくれるからさぁ」
その言葉に、一片の嘘も混ざっていなかった。ホシノは本気で、心の底からそう確信している
先生という最大の支えであり、絶対的な存在がいない以上、残された後輩たちには筆舌に尽くしがたい苦労と、命の危険が伴うだろう。けれど、あのアビドスを、砂漠の不条理と理不尽を共に生き抜いてきたシロコたちなら──あの狂気と色彩に染まった、もう一人の未来の姿である「セリカテラー」すらも、きっと力尽くで引き戻して見せると信じている。今のあの子たちは、かつて自分一人で抱え込んでいた頃よりも、ずっと強くて頼もしいのだから
しかし、先生はホシノのその全幅の信頼を乗せた言葉に対して、肯定の言葉を返す代わりに、不思議そうに小さく首を傾げた。その穏やかでありながらもすべてを見通すような双眸が、じっとホシノの瞳を見つめている
「……ホシノ。君は、その作戦には行かないのかい?」
まっすぐな大人の眼差しが、遮るもののない至近距離からホシノの心の奥底を射抜く
その一言に、ホシノが次のウサギ型リンゴへと伸ばしかけていたフォークの手が、ピタリと虚空で静止した。金属のフォークが夕暮れの光を反射して、彼女の怯えを映し出すように微かに小刻みに震える
「……うへぇ。先生、こんな身体も心もボロボロのおじさんを、さらに戦場へ引っ張り出して酷使するつもりぃ? 救護騎士団の生徒たちが見たら、先生の非道さに涙を流して怒っちゃうよ。先生もなかなかの鬼畜だねぇ〜」
ホシノは一瞬にしていつもの飄々とした、どこかふざけたような態度を取り繕い、大袈裟に肩をすくめてみせる。だが、数々の苦難を共に乗り越えてきた先生の目を、その安っぽい仮面で誤魔化すことなどできなかった
「そんなことを言って……。いつものホシノなら、どんな傷を負っていようが、セリカたちが困っていたら絶対に助けに行くはずだ。たとえ片足が折れていたとしても、盾を構えて最前線に立つ。それが、僕の知っている、不器用で誰よりも優しい小鳥遊ホシノだよ」
「うへぇ〜……。そんな風に、お見通しだって言われちゃったら、おじさん何も返す言葉が見つからないね〜……」
ホシノはたまらず先生から視線を泳がせ、困ったような、そしてひどく弱々しい笑顔を一瞬だけ浮かべる。夕闇が迫る部屋の中で、誤魔化しの仮面の下から、彼女が必死に隠そうとしていた痛々しい本音が、せき止めていた堤防が決壊したかのようにぽろぽろと零れ落ちていく
「みんなにはね、今回は手を引くって伝えてあるんだ。そうしたら後日、アヤネちゃんから『でしたら病室でしっかり休んでください!!』って、もの凄い剣幕のメッセージが飛んできてさ。これ以上我を張ったら、今度こそ本当にアヤネちゃんに絶交されちゃうよ。……それにね、先生」
ホシノは小さく一呼吸置き、フォークの先に刺さったままの、夕日に照らされてまるで血のように赤く染まるリンゴを見つめた。その瞳の奥には、深い後悔の念が渦巻いている
「……私は、あのセリカちゃんになんて言葉をかければいいのか、もう分からないんだよ。私の選択が、私の弱さが、別の世界であの子をあんな姿に変えちゃったんだとしたら……私は、どんな顔をしてあの子の前に立てばいいの? 先輩失格の私が、あの子の前に立つ資格なんて……あるのかな」
「……ホシ」
先生がその小さな肩に手を置き、ホシノの名前を呼ぼうとした、まさにその瞬間だった
病院の静かな廊下の向こうから、「ちょっと、院内では走らないでください!」「廊下は静かにしなさい!」という看護師たちの血相を変えた怒鳴り声が響いた。そして、それを完全に無視して床を激しく踏み鳴らす、凄まじい勢いのドタドタという猛烈な足音がこちらの部屋へと急接近してきた
重苦しかった病室の空気が一転し、先生とホシノは揃って首を傾げ、怪訝そうな顔で入り口の木製の扉へと視線を向けた
ガタン!!!
次の瞬間、建付けの悪い木製の引き戸が、壊れんばかりの派手な音を立てて勢いよく開け放たれた。戸枠が激しく震え、病室の空気が一一瞬にして爆発したかのように揺れ動く
「ホシノ先輩!!!!!」
夕焼けの強烈な逆光を背に浴びて、息をゼェゼェと荒く切らせながら病室に突入してきたのは、汗だくで髪を振り乱したセリカだった
「せ、セリカちゃん!?」
布団の上で目を丸くするホシノの手から、フォークが転がり落ち、白い磁器の皿の上にカランと高い音を立てて冷たく響いた
「な、なんでここに……もう1人のセリカちゃんにどこかに攫われてたんじゃ……!?」
ホシノの脳内は、目の前で激しく肩を上下させて息を整えようとしている、紛れもない「本物」の後輩の姿によって、完全にパニックに陥っていた
アヤネの気遣いで今回の作戦に関することはホシノには伝えてなかったのだが、セリカが帰ってきてからも看病を続けていたアビドスの面々は、ホシノをこれ以上動揺させないために、彼女がすでに無事帰ってきていることをあえて伝えていなかったのだ
そんなセリカが突然目の前に現れ、しかも何故か般若のような顔で怒っているのだから、ホシノの端整な顔立ちが驚愕と困惑で引きつるのも無理はなかった
「え?……あっ」
そんなベッドの上のホシノの狼狽ぶりを見て、パイプ椅子に座っていた先生が、何かにハッと気がついたかのようにポンと自分の額を叩いた。あまりの事態の急速な展開に、先生も完全に思考が追いついていなかったのだ
「……先生? 先生は……もしかして、セリカちゃんが戻ってること、最初から知ってたのかな……?」
ホシノがジト目混じりの冷ややかな瞳をゆっくりと先生に向け、声音をワントーン落として問いかける。その絶対零度の視線から冷や汗を滝のように流しながら、先生はホシノに向かって両手をパチンと合わせて、全力で平謝りを始めた
「い、いやー……あはは……本当にごめん、ホシノ! 実はさ、アルたち便利屋のみんなが、セリカを無事に救出してくれたんだよ。アビドスの教室に送り届けたって連絡は受けてたんだけど……その、救護騎士団に連絡したり、これからの作戦に集中しすぎてて、ホシノに伝えるっていう一番大事な報告を完全に、綺麗さっぱり伝え忘れてたんだ……!」
「伝え忘れてた、じゃなーーーい!!! 先生のバカ!! おじさん、この数日間どんな気持ちで枕を涙で濡らして、あの子の身を案じて夜も眠れない日々を過ごしてたと思ってるのさ!!」
「私……本気で怒って登場したのに、二人で息の合った漫才をはじめないでよ!!」
シリアスな空気を一瞬で吹き飛ばした二人のドタバタ劇を前に、セリカはついに堪忍袋の緒が切れたように、病室の床をダンダンと激しく踏み鳴らして地団駄を踏んだ
その凄まじい勢いで、頭の上の黒いネコ耳が怒りの感情と完全に連動して、ピンと逆立っている
「あ、あはは……ごめんごめん、セリカ。本当に悪気はなかったんだ。えっと……それじゃあ、僕のことは気にしないで。ホシノに何か用があって、そんなに息を切らせて走ってきたんだよね?」
先生は額の冷や汗を拭いながら、慌てて果物ナイフとリンゴの載った皿をサイドテーブルの端へと片付けると丸椅子を引き、一歩、二歩と後ろに下がって、対峙する二人の生徒のために病室の限られた空間を大きく空けた
「そうよ。用が大ありだから、わざわざ病み上がりの身体に鞭打って、ここまで一目散に走ってきたのよ!」
セリカは胸の前でぎゅっと腕を組み、ふんす、と鼻を鳴らしてホシノのベッドへとジリジリと歩み寄る。その鋭いステップが床のフローリングをきしませるたびに、彼女の怒気と、走ってきたことによる熱い熱気がダイレクトに室内に伝わっていく
「ええっと……おじさんに、用? な、なにかなぁ、セリカちゃん。えっと……その……まだ体調が優れないなら、おじさんのベッドに入ってくる? 一緒にぬくぬくお昼寝でもする……?」
ホシノは完全に後輩の放つ凄まじいオーラに気圧され、白い掛け布団を顎のあたりまでぎゅっと引き上げながら、上目遣いで恐る恐る尋ねた
いつもの余裕ぶった大人びた態度で煙に巻こうとするものの、頬の引きつった笑顔と左右に激しく泳ぐ視線が、その内心の動揺を何よりも隠しきれていない。かつてアビドス全土にその名を轟かせ、あらゆる弾丸を弾き返した「最強の盾」の面影はどこへやら、今の彼女は完全に年下の一年生の剣幕に呑まれていた
「一緒に眠るわけないでしょ! ……そんな見え透いた誤魔化しをして、なんでそうやって大人しく殻に閉じこもろうとしてるのよ」
セリカはさらにもう一歩、ベッドのマットレスの端に触れるほどの距離まで歩み寄る。その鋭い眼光に正面から射すくめられ、ホシノはいたたまれずに、ふいっと顔を反対側の窓のほうへと背けた。夕暮れの光が、彼女の横顔を寂しげに照らし出す
「……ほら、おじさんもさ、もういい歳だからさ〜。こういう大きな事件は、これからのアビドスを引っ張っていく元気なみんなに任せたいっていうか……。若者の自主性を重んじるっていうかさ……あはは……」
「いい歳って……私と2歳しか変わらないじゃない! 先輩ぶる時だけ都合よくおじさんぶるの、本当にやめなさいよね!」
セリカの鋭く、迷いのないツッコミが病室に響き渡る。しかし、セリカはそこで一度、言葉をぶつりと区切ると、ふぅ、と小さく熱い息を吐いて、その表情をさらに深く、真剣なものへと変えた
「……って、そんな冗談はどうでもいいわよ。あんたが今回、作戦から逃げ出そうとしてる本当の理由は、そんなんじゃないでしょ?」
「……」
ホシノは何も答えず、ただ掛け布団を握る小さな指先にきゅっと力を込めた。シーツが擦れる衣擦れの音だけが微かに聞こえ、夕闇の深い藍色がじわじわと室内へ侵入し、病室に冷たく重苦しい沈黙が流れかける。しかし、セリカはその重圧を、一切の躊躇なく容赦なく切り裂いた
「私ね、あの薄暗い旧カイザー基地の地下牢に捕まっている間、もう一人の私から、あんたへのドス黒い呪詛をこれでもかってくらい沢山聞かされたのよ」
「っ……!」
ホシノの細い肩が、びくりと大きく跳ね上がる。そのオッドアイの瞳が、まるで過去の悪夢をその場に見たかのように、恐怖に怯えて細められた
「あいつが部屋に入ってくるたびにさ、『小鳥遊ホシノのせいで』『あの人が全部ぶち壊した』って、狂ったように喚き散らしてね。あ、その後に決まって、私の態度が気に入らないからって八つ当たりで思いっきり蹴飛ばされたりしたけど」
セリカがどこか他人事のように、呆れたように細い肩をすくめながらそう付け足した瞬間、ホシノの顔から完全に血の気が引いた。かつて見たことのないほどに激しい動揺と、痛々しいほどの悲痛な光を瞳に浮かべ、弾かれたようにセリカの姿を凝視する
しかし、セリカの身体に目立った外傷がないこと、そしてその不服そうな表情を見て、命に別状がないと理解すると、今度は耐えかねたように、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながらベッドの上に視線を落とした
「……それなら、全部分かってるでしょ? おじさんの……私のせいで、セリカちゃんがああなったんだ。別の世界のセリカちゃんが、あんな風に心も身体もボロボロになって、腕も動かなくなって、耳も引きちぎられて……世界を呪う悲しい化け物になっちゃったのは、全部おじさんの罪なんだよ……!」
ホシノの声は、完全に震えていた。喉の奥が引き裂かれそうなほどに掠れ、長年、心の奥底に何重もの蓋をして隠してきたはずの凄惨な自己嫌悪と罪悪感が、一気に溢れ出して彼女の小さな身体を泥流のように暗く飲み込んでいく
「あの列車砲の時、私がもっとみんなを信じて、アヤネちゃんでも,シロコちゃんでも、ノノミちゃんでも……先生でも、誰かに頼ることさえできていたら、あんな地獄みたいな未来が作られることは絶対に無かったはずなのに……! そんな、私が過去に犯したかもしれない最悪の『もしもの間違い』が、今、本物の現実になって私の前に私を責めに来てるんだよ……?」
涙が彼女の頬を伝い、掛け布団に小さなシミを作っていく。ホシノは胸をかきむしるようにして言葉を続けた
「あの子に『お前のせいでみんな死んだんだ』って、殴られろと言われるなら、私は何も抵抗せずに喜んでいくらでも殴られるよ。命をくれって言われたら、今すぐにだってヘイローを差し出す。だけど……そんなあの子のやってることを、あの子をこれ以上傷つけてまで止める権利なんて、今の私には……世界中のどこを探したって、これっぽっちも無いんだよ……っ!」
絶望の底の、そのまた底から絞り出されるような、痛々しい先輩の悲鳴
だが、それを正面から全身で受け止めていたセリカは、両手を腰に当てると、肺腑の底から心の底から呆れ返ったような声を、病室全体が震えるほどの大音量で張り上げた
「あーーー! もう、うるさいわよ、この大バカ先輩!!!」
「!?」
鼓膜を突き刺すようなセリカの容赦ない怒号が、ホシノの悲痛な告白を無慈悲にかき消した。あまりのエネルギーに、ホシノは涙を浮かべた目を真ん丸にし、驚いた表情で呆然とセリカを見つめる
「さっきから黙って聞いてれば、ウジウジウジウジと……! 全部自分のせい、自分が悪いって、あの列車砲の前の時から何一つ中身が変わってないじゃない!」
セリカの激しい言葉が、夕闇の迫る病室の壁に反響する。怒りで肩を上下させる彼女の瞳には、かつてないほどの苛立ちと、それ以上の深いもどかしさが滲んでいた
「で、でも……実際に別の世界のセリカちゃんは、あっちの世界で、おじさんのせいで……!」
ホシノはなおも、すがるようにその暗い記憶を言葉にしようとする。自分が罰を受け、悪者であり続けることでしか、心の折り合いをつけられないかのように
しかし、セリカはその逃げ道を完全に塞ぐように、さらに一歩ベッドのマットレスを踏み込んだ
「でもじゃない!!」
「ひゃいっ!」
セリカのさらなる鋭い一喝が鼓膜を突き刺し、ホシノは思わず短く情けない悲鳴を上げて首をすくめた。白い掛け布団を頭の近くまで引っ張り上げ、ベッドの上で小さく小さく身を縮こまらせる
隣で果物ナイフを持ったまま完全に置物と化していた先生すらも、そのあまりの気迫に「ひっ」と喉を鳴らし、思わず背筋をシャキッと直立不動の姿勢へと伸ばしてしまうほど、今のセリカは恐ろしかった
「大体ね? あんたのその身勝手な被害妄想の理屈で行くなら、クロコ先輩だって、ホシノ先輩のあの事件がきっかけで一人ぼっちになっちゃった、シロコ先輩の未来の姿なのよ!? クロコ先輩はホシノ先輩のこと恨んでる? むしろ、恨んでるどころか、シロコ先輩と壮絶に取り合うくらい、今でもあんたのことが大好きじゃない!」
「そ、そうなの……? 取り合うって、何を……?」
突然引き合いに出されたクロコの話題。それも、自分のことで何かを争っていると言われ、ホシノは涙で濡れたまつ毛をパチパチとさせて、驚きのあまり思考をフリーズさせながら首を傾げた
セリカは、ふん、と不機嫌さを隠そうともせずに鼻を鳴らし、これ以上ないほど不満げに腕を組んでみせる
「この間、ホシノ先輩が校舎の屋上でいつものようにだらしなくサボってる時、教室の後ろの方で、ホシノ先輩の今日のパン○の色が何色か、現物を見るまでどっちの予想が正しいかで本気の論争を起こしてたわよ。『ん、黒。ホシノ先輩は先生を堕とすため、無理に大人びた色を好む傾向がある』『……白にうさぎ柄って決まってる。先輩はそういうところ、内面がまだ子供だから』って、お互いスカートのポケットの中の愛銃に手をかけながらね!」
「ちょっと何してるのあの二人!? おじさんの留守中におじの見えない下着でそんな不穏な血決闘の空気作ってくれてるの!? ていうか先生を堕とすためって何それおじさんそんな破廉恥なこと考えてないよぅ!?」
「ちなみに、その後二人して本気で確かめに見に行ってたわよ。屋上の方に」
「!?」
ホシノは思わず、先ほどまで胸を締め付けていた悲しい涙も完全に引っ込んでしまい、顔から耳の先、果ては首筋までを真っ赤にして叫んだ
「ぷっ……あはは! ……ほら、あいつら、本当にバカでしょ?」
そう言って、呆れ果てたように吐き出すように笑うセリカの瞳から、先ほどまで病室を支配していた刺々しい怒気が、霧が晴れるようにすっと引いていく。代わりにそこに宿ったのは、どこまでも暖かく、そしてどんな不条理にも屈しない揺るぎないアビドスとしての信頼の光だった
隣で静かに二人のやり取りを聞いていた先生も、「あはは……」と流石に教育者として気まずそうに、そして少女たちのあまりに突飛な日常の会話に冷や汗をダラダラと流しながら、必死に視線を窓の外の暮れゆく砂漠へと泳がせていた
「とにかく!!」
セリカは強引に話を元のシリアスな軌道へと修正するように、ベッドの金属製の柵をバン!と手のひらで激しく叩いた。その衝撃で病室内に「カーン!」と高い金属音が響き渡り、ホシノは肩をびくりと震わせる
「私達が、もしどれだけ過酷な運命で一人きりになったからって……大切なみんなのことや、ホシノ先輩のことを、本気で逆恨みして世界を壊そうだなんて思うわけないでしょ!? 私を、アビドス対策委員会を舐めないで頂戴!」
セリカはなおも怒気を含んだ、けれどどこまでも澄んだ真っ直ぐな瞳でホシノを真っ正面から睨みつけ、さらに言葉を熱く捲し立てた
「クロコ先輩だって、シロコ先輩とそんな馬鹿なことで本気で言い合えるのにあんたのことを恨むわけないじゃない! 運命がどう狂ったって、私たちは私たちのままだし、あんたが大好きなことだって、何一つ変わらないのよ!」
その一言は、ホシノの胸の奥深く、ユメ先輩を失ったあの日から頑なに閉ざされていた氷の塊を、激しく、そして優しく穿った。どんな過酷な世界線であろうとも、どんなに凄惨な結末を迎えようとも、後輩たちが自分に寄せる信頼と愛情の根底だけは決して歪まないという、絶対的な肯定がそこにはあった
「あっちの世界の私だってそうよ。自分の実力が足りなかったせいで、みんなを守れなかったって、自分の不甲斐なさを呪うことはあっても……あんたを恨んで、アビドスを滅ぼそうなんて、そんなふうには絶対にならないわよ!」
セリカの、論理的根拠など何一つない、けれどアビドスで共に過ごしてきた日々のすべてが裏付ける、絶対的な誇りに満ちた自己信頼の言葉
ホシノはベッドの上で、小さく、頼りなく唇を震わせた。セリカの言いたいことは痛いほど分かる。セリカがそういう、どこまでも優しくて真っ直ぐで、強い子だからこそ、自分を恨まないと信じたい。けれど、あの暗い路地裏で命を削り合い、お互いのヘイローがぶつかり合うような戦いの中で対峙した時の、あの凍りつくような恐怖の記憶が、彼女の心を再び暗闇へと引き戻そうとする
「……で、でも……。現に、おじさんはこの目で確かに見たんだよ……。おじさんに対して、心の底からの、底知れないドス黒い憎しみを込めて睨みつけてきた、もう一人のセリカちゃんの目を……。あの狂気に満ちた憎悪の籠もった眼差しにだけは、絶対に嘘なんて、誤魔化しなんて無かったよ……? あれを、本物の憎しみと言わずになんて言うのさ……」
ホシノの声は再び小さく萎んでいく。あの子の瞳にあったのは、間違いなく本物の殺意だった。その事実だけは、どれだけ言葉を尽くしても変えられない
しかし、セリカは表情を変えなかった。むしろ、当然のことを告げるように、静かに頷いてみせた
「……そうね。あんたの言う通り、あいつの眼に嘘は無いと思うわ。本気で世界を、あんたを憎んでるんだと思う」
「……だ、だったら……やっぱりおじさんが行っても、あの子は……」
「──外から無理矢理『植え付けられた憎しみ』に心を支配されてるんだから、当然でしょ」
「………え?」
ホシノは、セリカの口から淡々と告げられた言葉の意味が瞬時に理解できず、涙に濡れた顔のまま、ぽかんと間抜けに口を開けた。病室の窓の外、完全に沈みきった太陽の名残である残光が、彼女の困惑する顔を淡く照らしていた
「これはね、アルたちが私を助け出してくれる、本当に直前にあった話よ。私はずっと、あの不気味で冷たい旧カイザー基地の地下室に、重い鉄の鎖で身動きが取れないくらいガチガチに縛られてたんだけど……。便利屋のみんなが突入してきた混乱の最中、苦しみながらも、たった一瞬だけ自分の身体の主導権を力尽くで取り戻して、アルたちに鎖の鍵を放り投げて逃がそうとしたのは、一体誰だと思う?」
セリカは深く一呼吸置くと、掛け布団を握りしめるホシノの手元からその顔へと視線を上げ、ホシノのオッドアイを真っ直ぐに見つめた。そして、一文字一文字を彼女の胸の奥底、頑なに閉ざされた心の最奥に直接刻みつけるかのように、深く、重く、噛み締めるように告げた
「……もう一人の私自身よ」
「ど、どういうこと……? 自分で私を閉じ込めておきながら……自分でその檻の鍵を、外の人間へ渡したの……?」
ホシノの瞳が、驚きと困惑に大きく、激しく揺れ動く。左右に小さく振られる彼女の頭のなかでは、これまでの辻褄が完全に崩壊しかけていた。その理解の範疇を遥かに超えたあまりにも矛盾した事実に、頭がどうにかなりそうだった
セリカは、かつて薄暗い地下室で間近に対峙していた時の、あの悍ましく冷気を含んだ色彩のオーラに包まれるもう一人の自分の姿──その奥に隠されていた「歪な違和感」をありありと思い出すように、自らの胸元のネクタイと制服をぎゅっと強く握りしめた
「詳しいシステムなんかは、私にだって分かりっこないわよ。だけど、あいつは全身を駆け巡る色彩の侵食がもたらす激痛に耐えかねて、骨の髄から身体をガタガタと震わせながら、正気に戻った僅かな、本当に一瞬の、奇跡みたいな時間を絞り出して、自分の口からはっきりとこう言ったのよ。──『あんなに暖かくて、大好きな人たちのこと……普通の私が、疑うわけないじゃない』ってね」
「!!!」
ホシノの胸に、言葉にならない凄まじい衝撃が走り抜けた
普通の私が、大好きなみんなを疑うわけがない
不条理の嵐が絶え間なく吹き荒れる砂漠の真ん中で、いつだって自分を支えてくれたアビドス対策委員会を、そして不器用ながらも自分を守ろうと必死に盾を構え続けてくれた小鳥遊ホシノを、本気で恨むわけがない。その言葉は、色彩という理不尽な多次元の神の恐怖に精神を乗っ取られ、肉体を内側からボロボロに、無残に破壊されながらも、心の最奥にある「アビドスでのささやかな日常」という約束の場所で、必死に「アビドスの黒見セリカ」であり続けようとした、もう一人の自分の魂の、血を吐くような叫びそのものだったのだ
セリカは、ホシノを恨んでなどいなかった。むしろ、自分の不甲斐なさのせいで先輩を傷つけてしまったと、今この瞬間も絶望の淵で己を責めて苦しんでいるであろうホシノを、誰よりも求め、その助けを待ち望んでいたのだ
「……それと、もう一つ。あいつが便利屋のアルたちに、プライドも何もかもすべてを捨てて、頭を下げてまで託した、2つ目の大切な伝言があるわ」
セリカはさらに一歩、ホシノの顔のすぐ近くまで身を乗り出し、その瞳を真っ直ぐに見据えた。夕闇が完全に病室を支配し、帳が下りるその薄暗がりのなかで、セリカの瞳だけが揺るぎない覚悟と熱い光を持って毅然と輝いている
「『自分が完全に狂って、この大切な世界を跡形もなく壊し尽くしてしまう前に……私のヘイローを、完全に、砕きに来てほしい』。それが、もう一人の私がこの世界に遺した、本当の、たった一つの願いよ」
「っ……!!!」
ヘイローの破壊。それはキヴォトスにおける生徒たちにとって、絶対的な「死」の懇願。精神と生命の全否定であり、二度と取り返しのつかない永遠の終わりの宣告
そのあまりにも哀しく、あまりにも残酷な伝言の全貌を前に、ホシノは息をすることすら忘れ、ただただ絶望の淵で目を見開くことしかできなかった。喉が引きつり、乾いた酸素が肺を通り抜ける。あの子は、世界を逆恨みする邪悪な怪物になってしまったのではなかった。世界を救うために、大好きなアビドスのみんなを自分の制御できない狂気から守るために、自分という存在そのものをこの世界から完全に消し去りたがっている
その自己犠牲の苛烈さは、かつてホシノ自身がすべてを一人で背負い込み、「私が傷つくだけで済むなら」とカイザーの理事に身を差し出そうとした、あの薄暗い雨の夜の記憶と痛々しいほどに重なり合っていた
「これでもあんたが動くのに十分な理由じゃないなら……もう一つ、おじさんの大好きなとっておきの真実を教えてあげるわ」
ホシノが声にならない戦慄に細い身を震わせ、浅く、不規則な呼吸を繰り返していると、セリカはさらに一歩、ベッドのマットレスを深く軋ませて顔を近づけた。彼女の瞳には、一片の揺らぎもない強い意志が宿っている
「もう……ひとつ……? おじさんに、まだ……何かあるっていうの……?」
「ホシノ先輩はあの薄暗い路地裏での戦闘で、もう一人の私に負けたのよね? 私は実際にその現場を見てないから詳しい状況は知らないけれど……。自分の頭に冷たい銃口を突きつけられた瞬間が、あんたの最後の記憶。これは間違いないわね?」
「う、うん……。あの子の圧倒的な、恐ろしい色彩の力の前に、私は何もできなくて……そのまま意識が途切れて……」
「その銃口を最後の最後、あいつ自身の必死の抵抗でなんとか逸らしたのも、意識を失ってボロボロになったホシノ先輩を背負って、このアビドス中央病院のベッドにまで夜通し運んだのも、ほかならぬもう一人の私自身よ」
「っ!?」
ホシノの脳内で、これまでずっと喉の奥に引っかかっていた巨大な疑問のパズルが一気に音を立てて解決していく気がした
確かに、あの路地裏での凄惨な戦闘の結末は、生き延びた自分自身にとってもずっと心の中で不可解な謎だったのだ。悍ましいオーラをまとい、剥き出しの殺意を放っていたあのセリカテラーが、目の前で無防備に倒れた自分を見逃すはずがない。ヘイローを木っ端微塵に砕かれていてもおかしくなかったはずなのに、なぜ自分は五体満足で、こうして清潔な病室のベッドの上で生きているのだろうかと、暗い自責の念のなかで何度も何度も反芻していた
その答えが、今、目の前で憤慨しているセリカの口から告げられた。あの子は、憎しみと色彩に意識を乗っ取られかけながらも、最後の最後でホシノの命を救うために必死で己の狂気と戦い、自身の銃口を逸らしたのだ。冷酷な敵としてではなく、アビドスの後輩として、命懸けで先輩を守るために
「私達後輩が……あんたのこと本気で嫌いで、これまでのことを恨んでるなら、今ここでアビドスを救うために立ってなんかないのよ! 別の世界の私だって同じよ! どんなに呪いに狂わされたって、あんたを本気で殺せるわけないじゃない!!」
肺腑を衝くようなセリカの叫びが、狭い病室の壁に幾重にも反響し、夜の気配が満ち始めた空間を激しく震わせた
ホシノはもう、何も言い返すことが出来なかった。喉の奥が引き裂かれたように熱く締め付けられ、視界が溢れ出る涙によって激しく、歪に歪む。自分が「過去に犯した罪のブーメラン」だと思い込み、恐怖し、絶望していたあのセリカテラーの襲撃。しかし、その悍ましい暴力の嵐の正体は、底知れぬ呪縛の底で溺れながらも、必死にこちらへ手を伸ばし、助けを求めていたあの子の、悲痛な血の涙そのものだったのだ
「……明日、早朝に敵の旧カイザー基地へ攻め入るわ。作戦に来るのも、来ないのも、あんたが好きにしたらいい」
セリカはそこまで一気に言い切ると、激しい呼吸で上下する胸を落ち着かせるように、ゆっくりとベッドから離れた。走った拍子に乱れてしまった制服の襟元を、どこか不器用な手付きで、しかし確かな意志を込めて正す。その足取りには、先ほどまでの迷いや困惑は一切残っていなかった
セリカは迷いのない歩調で、静かに引き戸に向かって歩き出した。だが、固い金属製の扉の取っ手に指先をかけた瞬間、その動きがピタリと止まる。彼女は振り返ることはせず、夕闇に溶け込みそうなその後ろ姿のまま、背中で言葉を絞り出すように紡いだ
「でも、私達が信じた、アビドス対策委員会の小鳥遊ホシノ先輩なら、きっと……。どんなに泥にまみれても、何が何でも這い上がって、私達の前に来てくれるって信じてるわ」
ガラガラ、と病院特有の、少し立て付けの悪い木製引き戸が小気味良い音を立てて開閉し、廊下の向こうへとセリカの足音が遠ざかっていく。その気配が完全に消え去ったあとに残されたのは、窓の外の砂漠から忍び寄る夕闇が完全に支配した病室と、ベッドの上で崩れ落ちるように座り込むホシノ、そして静かに彼女の背中を見守っていた先生の二人だけだった
「……ホシノ、大丈夫かい?」
先生が丸椅子から静かに立ち上がり、靴音を忍ばせながらホシノの側に歩み寄り、小刻みに震える彼女の小さな肩に、そっと包み込むように手を置いた
「……」
ホシノは先生のその温かく、そしてすべてを許容するような優しい問いかけに、すぐには何も返すことが出来なかった。ただ、白く無機質な掛け布団の上に、大粒の涙がぽたぽたと音を立てて落ちては、冷たい陰鬱な染みを広げていく
夕闇が支配する不気味な静寂のなか、窓の外から吹き付ける夜風だけが、ガタガタとガラス窓を微かに震わせていた
(…………ああ、私は……やっぱり、どうしようもない大バカなんだね……)
ホシノは、自身の小さく震える手のひらをじっと見つめた。その手のひらは、かつてユメ先輩の手を握り返せなかったあの日のように、冷たく強張っている気がした
過去の呪縛を乗り越えたつもりになって、格好いい頼れる先輩としてみんなを引っ張っているつもりになって、結局……私はまだ、ちゃんとみんなのことを見れてなかったんだ。あの子たちの心の強さも、あの子たちの本当の優しさも、何一つ信じきれていなかったのは、他の誰でもない自分自身だった。あの日から、私は「自分が傷つくだけで済むならそれでいい」と、どこかでずっと心を閉ざし続け、独りで戦うことだけを正義だと思い込んでいた。けれど、それは後輩たちの覚悟を侮り、彼女たちの想いを拒絶していたことと同じだったのだ
思い出すのは、もう一人のセリカにあの薄暗い路地裏で追い詰められた、あの息もできないほどの暗闇の瞬間のことだ。あの時、確かに放たれたどの言葉をとっても、銃口の向きをとっても、自分に対する深い憎悪と怒りに満ちていたように見えた。だが、意識が薄れて暗転する直前、最後に視界の端に映ったあの子の表情だけは、妙に悲しそうに歪んでいて、不思議で仕方がなかったのだ
ようやく、憎い仇敵であるはずの自分を倒せたはずなのに、なぜあんなにも泣きそうな、今にも消え入ってしまいそうな顔をしていたのか。あの歪んだ表情の本当の意味が、セリカの言葉によって、今ようやく、濁流の底から浮かび上がるように氷解した
あの子は、私を殺したくなかったんだ
色彩の理不尽な呪いに心を黒く塗りつぶされ、憎悪を強制的に脳内に流し込まれながらも、大好きなアビドスの先輩を、私の命を、必死で守ろうとして最後の最後で銃口を逸らしてくれたんだ。あの路地裏での戦闘は、裏切りの証なんかじゃない。あの子が最期まで「アビドスの黒見セリカ」であり続けようとした、魂の、必死の抵抗の証だったんだ
「……先生」
「……なんだい?」
ホシノは意を決したように、涙を制服の袖口で乱暴に拭うと、顔を上げて真っ直ぐに先生の顔を見つめた。そのオッドアイの瞳には、先ほどまでの絶望や迷いの影は完全に消え去り、かつてないほどの確固たる意志の炎がパチパチと力強く、激しく燃え盛っていた
「私……もう一人のセリカちゃんを助けたい。あの子の凍りついた心を、力尽くで溶かして、今度こそ私達のアビドスに連れて帰る。あの子に『もう一人で苦しまなくていいんだよ』って、抱きしめて伝えてあげたいんだ。それが、あの子の悲痛な本音を受け止めた、おじさんの果たすべき本当の責任だから」
「うん。私も、それがいいと思うよ。それが、君たちアビドス対策委員会らしい選択だ。誰一人として犠牲を出さない、君たちの戦いだ」
ホシノのその言葉を、最初から確信していたかのように、先生は心底安心したようにその強張った表情を和らげ、優しく微笑んだ
「だからお願い、先生。今から言う、特別な『機械』を大急ぎで作って欲しいの」
「機械……?」
先生が不思議そうに首を傾げると、ホシノはシーツをバサリと跳ね除け、ベッドから冷たい床へと素足を下ろした。そして、そのまま自分の足で真っ直ぐに立ち上がろうとした──その瞬間
ホシノの小さな身体が、重力に逆らえないようにグラリと不自然に大きく傾いた。まるで、生まれて初めて立ち上がった赤ん坊のように膝がガクガクと激しく震え、足取りがまったくおぼつかない。そのまま固いリノリウムの床へ倒れ込みそうになった彼女の華奢な身体を、先生が慌てて身を乗り出し、両腕でしっかりと支え止める
「ホシノ!……大丈夫かい!? やっぱり無理をしてるんじゃ……!」
支えられたホシノの身体の異様な軽さと、筋肉に全く力が入っていない不自然な弛緩ぶりに、先生の表情が驚愕に染まる。ただの打撲や戦闘の疲労といったレベルではない。自力で立つことすらままならない、あまりにも残酷なその肉体の現実に、先生の手が微かに震えた
「ごめんね、先生……。先生にも、みんなにも心配をかけたくなくて、ずっと隠してたんだけどさ……。私のおじさんの体、もう一人のセリカちゃんと本気でやり合ってから、ほとんど自由がきかない状態なんだよねぇ」
自嘲気密な笑みを浮かべながら、ホシノは頼りなく力の抜けた自分の両手を持ち上げようとした。しかし、衣服の擦れるかすかな音と共に、その手首はほんの数センチメートル浮き上がっただけで、重力に逆らえずベッドのシーツの上へと力なく落下した
「ホシノ……君、そこまで酷い状態だったのか……?」
「あはは……。セリカちゃんの力をまともに浴びちゃったせいかなぁ。神経が麻痺してるみたいで、自分の意思が上手く手足に伝わらないっていうか、全然力が入らないの」
「でも、救護騎士団の報告では安静にしていれば回復すると……それに、ミネからはそんな報告……」
言いかける先生の言葉を遮るように、ホシノは困ったように眉を八の字に下げて、小さく震える右ききの人差し指を自分の唇にそっと当てた。悪戯が見つかった子供のような、しかしその瞳の奥には悲痛な懇願が隠された仕草だった
「……おじさんが必死に頼んだの。大人しくトリニティの病室で療養する代わりに、この作戦が終わるまではみんなや先生に秘密にしてって。ただの打撲と疲労ってことにして、詳細な数値データは伏せておいて欲しいってさ。救護騎士団の融通の利かない優等生たちや、あの頑固なミネちゃんを脅……ゴホン、説得するの、結構大変だったんだからね?」
「そんなことまでして……」
「だってさ、こんな無様な体で行ってもさ、みんなの足を引っ張って、余計な心配をかけるだけになっちゃうでしょ? 先輩がボロボロになって歩くこともできないなんて知ったら、あの子たちは戦うことだけに集中できなくなっちゃう。だからね、先生。万全の私並みに動けるようにして、なんて贅沢なことは言わない。……せめて、みんなに怪我や衰えを心配されないくらいに、普通に走って、普通に散弾銃をぶっ放せるくらいに、私の体の動きを外側から強制的に補佐してくれる……そんな外骨格みたいな機械を、作って欲しいんだ」
先生は、完全に言葉を失った
救護騎士団から上がってきていた事後報告書──今にして思えば、確かに不自然なほどに怪我の詳細がぼかされ、「絶対安静を保てば速やかに回復する見込み」とだけ事務的に記載されていた。いつもなら事細かに容態を説明してくれるセリナやハナエが、ホシノの話題になった時だけ、どこか悲しげに視線を泳がせていた理由も、すべて合致した。あの違和感は、ホシノが裏でミネたちを必死に説得し、大人の耳に届かないよう完璧に口止めしていたからだったのか、と今更ながらに気づかされ、胸が締め付けられるように痛む
本来なら、大人として、そして生徒の安全を何よりも優先して守るべきシャーレの先生として、こんな満身創痍の生徒を明日の危険な戦場に送り出すことなど、絶対に止めるべきだった。いくら機械の力で肉体を強制的に動かしたところで、その駆動に追いつかない肉体への負荷は尋常ではない。何より、色彩の侵食を受けた神経にさらなる過負荷をかければ、彼女の肉体は二度と元に戻らなくなる可能性だってある
キヴォトスで一番身体の弱い一般人であり、自身の無力さを嫌というほど知っている先生だからこそ、肉体の自由が利かないことの恐ろしさや、無理を重ねた先にある破滅は誰よりも理解しているはずだった
だが、先ほど見せたセリカの命懸けの説得と、それに応えてボロボロになりながらも、もう一度大切な仲間のために立ち上がろうとしているホシノの、この生命力に満ちた強い眼差しを見て、一体誰が「大人」の正論で彼女を止められるというのだろうか。ここで彼女の手を引いてベッドに縛り付け、安全な檻の中に閉じ込めてしまえば、小鳥遊ホシノの魂は、今度こそ完全に死んでしまう
生徒が命を懸けて前を向こうとしているなら、その無茶のすべてを大人の力で成立させ、その背中を支えて不条理のすべてから守り抜くことこそが、自分の果たすべき「大人の責任」ではないのか
「……分かった。少しだけ待っていて」
「……先生?」
先生はホシノの細い身体を一度、労わるように優しくベッドへと戻した。そして、彼女を安心させるようにその柔らかな髪へとそっと手を置き、優しくその頭を撫でる
ホシノがどこか呆然とした表情で見上げる中、先生は静かに上着のポケットから携帯端末を取り出すと、病室の窓際へと歩いていった。ガラス窓の向こう、夜の帳が完全に下りた砂漠の冷気を見つめながら、ある特定の連絡先へと迷わずダイヤルをかける。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、スピーカーから響く呼出音を待った
ツーツーという数回の呼出音の後、カチリと相手が通話に出た
「もしもし、ウタハ? 夜遅くに急な連絡になってしまって、本当に申し訳ない。……実は、今から大至急で作って欲しい機材があるんだ。装着者の身体機能を外部から強制的に底上げして、激しい戦闘行動を完全に補佐出来るような、そんな自立型のアシスト外骨格システム。それから……それに見合う、極限まで軽くて丈夫な盾を一つ。──明日の朝までに、シャーレの地下かミレニアムの工房で形にすることは可能かな?無茶苦茶なお願いなのは、重々承知の上なんだけど……」
「先生……!」
窓際でスマートフォンの受話口を握りしめ、いつになく真剣な、大人の気迫を孕んだ表情で交渉を続ける先生の後ろ姿。それを見つめながら、ホシノの顔に、パァァと満開のひまわりが咲いたかのような、どこまでも明るい笑顔が広がっていった
先生は、自分の身勝手な我儘を絶対に否定しなかった。「危ないから大人しくしていなさい」と止める代わりに、大人としての、そしてシャーレの責任者としての手段と人脈のすべてを使って、自分の願いを叶えようとしてくれている。その背中が、今のホシノには何よりも大きく、頼もしく映った
「……え? 設計データのストックがあるから、マイスター副部長をはじめエンジニア部の力を総動員すれば、突貫で明日の早朝には組み立てられる……!? ありがとう、本当に助かるよ、ウタハ。……ただ、そこからアビドスの前線まで安全に輸送するとなると、ヘリを使っても到着は『お昼』近くになりそうか。うん、分かった。作戦開始の早朝には間に合わなくても、佳境には必ず間に合わせる。細かい仕様のデータは今から送るよ」
電話の向こうのウタハの声は、ベッドの上のホシノには微かな音漏れ程度にしか聞き取れなかった。しかし、先生の真摯な、そして必死な頼みであるからこそ、ミレニアムの技術の粋を集めた「エンジニア部」がその総力を挙げて、快く引き受けてくれたことだけは伝わってきた
だが直後、受話器を耳に当てていた先生の顔が、目に見えて引きつり始めた。携帯を握る手が微かに震えだす
「いや……あの、ウタハ? 気持ちは本当に嬉しいんだけど、緊急時の『自爆機能』とか、ましてや『Bluetooth機能』で外部から遠隔操作して突撃させる機能とかは、今回は本当に、絶対に要らないからね? 頼むから搭載しないでね? 普通に走れて、普通に銃が撃てればそれでいいから、本当に……。あ、もしもし? ウタハ? 『自爆機能はロマンだ』って言って勝手に通話を切らないで──」
プツリと非情な切断音が響いた端末を前に、先生はガックリと肩を落として深い溜息を吐いた
「……先生……」
ウタハのことだから、またとんでもない過剰火力のカスタムや、斜め上の新機能を施そうとしているのだろう。本当に明日の朝、安全に動く正常な機械が届くのだろうか……という、別種の意味での現実的な不安が一瞬にしてホシノの脳裏を埋め尽くしたが、それでも彼女の胸の奥は、これまでにない温かい希望と安心感で満たされていた。不条理な運命に一人で立ち向かう必要はないのだと、目の前の大人の背中が教えてくれていた
次の日の早朝──
まだ東の地平線からは朝日すら顔を出さず、砂漠特有の凍えるような深夜の冷気が、残されたアビドス高等学校の古い校舎を完全に包み込んでいる時間帯。吹き付ける夜風にさらされた教室の大きな窓ガラスは、内側からの微かな熱気によって真っ白に曇り、結露した水滴が静かにガラスを伝い落ちていた
静まり返った旧校舎の一角、かつて幾度もの逆境を乗り越えてきた対策委員会室には、すでに数時間後に迫った決戦に向けた、肌を刺すような張り詰めた緊張感が密に満ち満ちていた
薄暗い室内の大きな長机の上には、青いアサルトライフルや重厚な弾薬箱、そして戦術通信機器が整然と並べられている。そこには、いつもの見慣れた制服に身を包み、厳しい眼差しで電子戦術マップを見つめるセリカの姿があった。その隣では、シロコが愛銃のボルトやシリンダーを何度も手慣れた動作で回転させ、金属の噛み合う音を確かめている。ノノミは巨大なガトリングガンの長い給弾ベルトを、布で静かに、そして念入りに磨き上げており、アヤネは卓上のホログラムモニターと向き合いながら、通信機器の最終チェックに余念がない
さらに長机の対面には、黒いロングコートの襟を正したアルが静かに腕を組み、その隣で不敵な笑みを口元に湛えるムツキ、冷静な手付きで特殊弾薬の割り当てを配分するカヨコという、便利屋68の面々が陣取っていた。そして彼らから少し離れた壁際、室内の影に溶け込むようにして、異世界の過酷な運命をくぐり抜けてきたクロコが静かに佇んでいる
皆、一様に口数は少なかった。張り詰めた空気の中、交わされる言葉はなくとも、それぞれの瞳の奥に宿る覚悟は誰一人としてブレていない。パチパチと室内の古い蛍光灯が不安定に小さく明滅する音と、時折静寂を破るように聞こえる銃器の金属的な駆動音だけが、夜明け前の沈黙を不穏に震わせていた
アヤネは通信端末のノイズをパチリと指先で切り裂くように、リーダーとしての凛とした、しかし微かに震える声を室内へ響かせた
「──現在の時刻は午前4時30分。私達全員で、正面ゲートからの強行突破を敢行します。侵入後、私達の邪魔をしてくるであろうカイザーの元理事とその本隊の軍団は、クロコ先輩以外の私たち対策委員会メンバーが全責任を持って引き受け、その場に釘付けにします。その隙に、ハルカさんの救出は便利屋68の皆さんに、自然と最も過酷な任務となるセリカテラーちゃんの確保は、クロコ先輩にお願いします……これが今回の作戦のすべてです。作戦開始まで、あとわずかです。皆さん、準備はいいですね?」
アヤネのその鋭く引き締まった号令に、シロコ、ノノミ、そしてクロコが静かに、しかし力強く首を縦に振った。アルもまた、大悪党らしい不敵な笑みを口元に浮かべると、ロングコートの襟をバサリと翻して立て、ムツキとカヨコに視線で鋭く合図を送る。全員がそれぞれの愛銃を手に取り、部屋の空気が一気に一触即発の臨戦態勢へと切り替わっていく
その直後、ガシャリと愛銃のボルトを引き、引き締まった表情でホルスターに収めたシロコが、作戦図の前に座るアヤネの元へとゆっくり歩み寄った。そのブーツの足音が、静まり返った室内の床に硬く響く
「アヤネ、少しいい?」
「どうしました? シロコ先輩。何か作戦ルートに懸念点でも? もう出発の時間ですが……」
アヤネが液晶のモニターから視線を上げ、人差し指で眼鏡のブリッジを厳かに押し上げながら怪訝そうに問いかける。シロコは長机の上に広げられた立体地図の一点、旧カイザー基地の最深部へと通じる、狭隘な一本道の防衛セクターを指差した
「ん。多分……あの元理事が、私たちの裏をかいて、一番厄介な場所で待ち構えていると思う。セリカテラーの力で私たちを圧倒できると思って、油断してくれれば楽だったんだけど……あの男、何度も私たちに計画を邪魔されて、そのたびにボコボコに倒されてる。だから、私たちの戦術や連携の癖、突入パターンを徹底的に研究して、そこの対策を絶対に打ってくるはず」
「……なるほど。確かにあの理事が、過去の敗北から何も学んでいないはずはありませんね。こちらの出方を予測した罠を張っている、と見るのが自然です」
アヤネはシロコが指し示した座標の複雑なデータを食い入るように見つめ、深く、深く頷いた。元理事がどれほど姑息で執念深い男か、対策委員会の誰もが身を以て知っている。セリカテラーという強大な暴力を手に入れた上で、さらにこちらを確実に潰すための最悪の迎撃陣地を構築している可能性は極めて高かった
「搦め手で私たちの足を止めにくる。だから……私に、あいつらの裏をかくための作戦があるんだ」
シロコの瞳に鋭い闘志の光を宿し、アヤネに向かって静かに次の言葉を紡ぎ始める。元理事の想定を遥かに上回るための、奇策とも言える突破口を語ろうとしていた
その緊迫した会話が交わされる光景の片隅で、セリカは一人、作戦会議の輪に加わらずにいた。まだ体力が完全に回復しきっていない、少しだけ震える拳をギュッと強く握りしめ、教室の大きな窓硝子に額を押し当てるようにして、未だ暗いアビドスの夜空を見つめていた
窓に映る自分の顔は、不安を押し殺すようにひどく強張っている
(ホシノ先輩……。あんたは絶対に、来てくれるわよね。あんな風に啖喇を切られて、ベッドの中で指をくわえて見てるような、そんな意気地なしの先輩じゃないって……私、信じてるんだから。だから、早く来なさいよ、バカ先輩……!)
昇り始める朝日の微かな気配が、砂漠の地平線をほんのりと紫色のグラデーションに変えていく。少女たちの命を懸けた、もう一人の仲間を呪縛から奪い返すための戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた
タイトル決めがいちばん大変…