救われたかったセリカ 作:気弱
これは……走馬灯、なのだろうか
重力を完全に失い、自らの精神がフワフワとあたたかい虚空のなかに浮かび上がっていくような、ひどく奇妙で、それでいてどこか心地のよい感覚。暗闇と静寂が支配するその意識の境界線で、いつか交わしたはずの、ひどく切なくて、耳の奥がツンと痛むほどに懐かしい会話の断片が、いくつもいくつも結晶のように響き渡ってくる
『死に囚われるんじゃなくて、思い出を未来に連れていこう』
『だから、その手を離してあげて』
自分の唇が、かつて誰かに向かってそんな言葉を紡いでいた
──そうだ。これは、かつてこの時間軸の、砂漠において起きた出来事
精神の臨界点を迎えて完全にテラー化し、キヴォトス全土を滅ぼしかねない絶望の牙と化して暴走してしまったホシノ先輩を止めるため、アビドス対策委員会のメンバー全員で命を懸けて彼女の元へと向かった、あの命懸けの作戦の記憶だ
激しい死闘の果て。奇跡的に彼女の精神世界の最深部、底知れない漆黒の絶望の檻へと入り込むことに成功した私は、そこに囚われていたホシノ先輩と、一対一で対峙して言葉を交わしていた
『ありがとう……君のこと、よく分からないけど……でも、分かるんだ。同じ過ちを、二度と繰り返して欲しくないんだよね? シロコちゃんは、本当に優しいから……』
反転した精神世界のなかにぽつんと佇むホシノ先輩は、悲しいくらいに穏やかな、すべてを諦めてしまったかのような微笑みを浮かべていた
その温かい、胸に染み入るような聲音を思い出すだけで、彼女がどの時間軸、どの無数にある並行世界の小鳥遊ホシノであろうとも、その根底にある魂の本質はどこまでも優しく、不器用なほどに他人を思いやる人間なのだと痛いほどによく分かる
世界を恐怖で満たし、すべてを破壊しようとしていた怪物のはずの私のような存在にすら、彼女はそんな慈悲に満ちた救いの言葉を、真っ直ぐに投げかけてくれるのだから
『でも……さ。君も、本当は手放せてないんでしょ? ──みんなが、使っていた武器を。今もまだ、ずっと大事そうに持ってるよね?』
だからこそ──だからこそ、その直後に続いたホシノ先輩の、静かで、冷徹な鋭いナイフのような一言が、私の心の最も脆い、誰にも触れられたくなかった最奥を、深く、無慈悲に突き刺すのだ
他者に対しては「過去の死に囚われるな」「もう亡霊の手を離してあげるべきだ」と、まるで何もかも乗り越えたかのように偉そうに言葉を紡いでいるくせに、当の自分自身はどうだというのか
あの凄惨な、二度と思い出したくもない最悪の結末を迎えてしまった世界のみんなのことを、本当は、何一つとして手放せてなどいないのだ
現に今も、その残された形見であるアビドスのみんなの武器を、呪詛のように、祈りのようにこの身に固く縛り付け、手放さずに持ち歩き続けている
『それを、本当に捨てられる? ──これから、段々と記憶が薄れていく日常のなかでさ。思い出まで完全に手放せるっていうの?』
ホシノ先輩の問いかけは、あまりにも重く、あまりにも冷酷な、避けられない現実を突きつけていた
綺麗事を言葉にするのは、誰にだって簡単にできる。過去の傷を忘れて前を向けと言うのは容易だ。だが、過去を過去として完全に決別し、思い出だけを胸に、血を流しながらも前を向いて歩き出すという実行のプロセスは、死んでしまった人間をこの手で再び生き返らせるのと同等か、それ以上に困難で、自らの身を直接削り取られるように苦しい作業なのだ
だけど、あの時のホシノ先輩は、その生き地獄のような葛藤と絶望を、先生やみんなの手を借りて乗り越えて、すべてを手放すことができた。亡きユメ先輩の残した過去の悲しい幻影と涙ながらに決別し、新しく紡ぐべき、目の前にあるアビドスの未来のために、もう一度前を向いて歩いていくと、そう強く誓って現実世界へと還っていった
でも──今の私は、どうだろうか
私は今、色彩の闇に呑まれて自滅へと突き進む目の前のセリカを前にして、本当の意味で彼女の絶望を背負い、その手を引いて未来へと連れていく覚悟が、そのための強さが、この臆病な胸に本当にあるのだろうか
過去に囚われ、形見にしがみついているだけの私が──本当に、誰かを救えるのか
ーーーーーーーー
キィィィィィン……と、脳を直接灼くような激しい耳鳴りと、視界を完全に覆い尽くしていたドロドロとした暗黒
その心地のよい静寂のすべてを無理やり引き裂いたのは、鼓膜を劈くようなコンクリートの不気味な破砕音と、上空から急激に迫り来る、圧倒的な「死」の風圧だった
「──ッ!!!!」
完全にシャットダウンしかけていたクロコの意識が、長年の地獄で培われた野生の生存本能によって、強制的に叩き起こされる
ハッと網膜を開けたその瞬間、目の前に映し出されたのは、ひび割れた窓から差し込む暖かな日光に背を向けながら、自らの頭部を容赦なく肉片へと踏み砕こうと、無慈悲に、一直線に振り下ろされるセリカテラーの容赦のない軍靴だった
紛れもない、絶対的な死線──
クロコは思考よりも先に、肉体を駆動させ、血溜まりと化した床を狂ったように激しく横へと全力で転がった
ドッゴォォォォォンッ!!!!!
コンマ数秒前までクロコの頭部が存在していた床面に、セリカテラーの色彩を帯びた全力の踏みつけが、直撃の轟音を響かせる。凄まじい質量兵器のような衝撃波とともにフロアが円状に陥没し、鋭利なコンクリートの破片が文字通り四方八方へと爆散した
その衝撃の余波だけで、床を転がっていたクロコの華奢な身体が、さらに数メートル後方へと激しく吹き飛ばされる
「あら、お目覚め? 随分と往生際が悪いじゃない。せっかく、そのまま二度と目を覚まさずに眠っていれば、何の苦痛も感じずに楽になれたのにね」
セリカテラーは、床の陥没に深く埋まっていた自らの足を、肉の擦れる嫌な音を立てながらゆっくりと引き抜き、酷くつまらなそうにクロコを冷たい目で見つめた
今の一撃の過剰な負荷によって、彼女の足首の骨はグズグズに砕け、ソックスの皮膚の隙間からドス黒いオイルのような血が噴き出していたが──パチパチと迸る紫黒い光の粒子が、その破壊された部位を、物理法則を無視した信じられない速度で再び強引に接合していく
肉体が崩壊と修復を絶え間なく繰り返すそのグロテスクな光景を、彼女は一切の恐怖も抱かず、意に介する様子もなかった
「……くっ、はぁ……っ! げほっ……はぁ……っ!」
クロコは、内側からメキメキと骨が軋み、激しく内出血を起こしている腹部を片手で必死に押さえつけながら、よろめく身体をどうにか壁へと預け、背後のコンクリート壁を伝って立ち上がった
距離を取り、再び戦闘態勢を整える。しかし、彼女の口の端からは、耐えきれなくなった一筋の鮮血が、静かに床へと滴り落ちていくのだった
(さっきの……あの不可解な記憶は、一体なんなの……? なんで、今更、あの時のホシノ先輩との会話なんかを思い出すのよ……っ)
激しく途切れがちな呼吸の合間で、クロコは自らの胸の奥に去来した走馬灯の残像に、激しい、そして言葉にできないほどの動揺を隠せずにいた
目の前で繰り広げられている、一瞬の油断が死へと直結する命懸けの死闘──そこから一瞬でも意識を他へと逸らすなど、戦術的には間違いなく最悪の愚策
そう何度も自らの脳に言い聞かせ、セリカテラーの次なる一挙手一投足に網膜の全神経を注いで極限の警戒を払いながらも、クロコは抗えない何かに導かれるようにして、自らの固有能力である『異空間収納』の領域の最奥へと、精神の視線を向けていた
そこは──あの凄惨な結末を迎えて滅び去ってしまった世界における、アビドス対策委員会のすべてが眠る、静寂に満ちた墓標のような場所だった
小鳥遊ホシノが愛用していた、数多の激戦の痕である無数の弾痕が刻まれた散弾銃と、あらゆる絶望を阻んできた重厚な鋼鉄の盾
十六夜ノノミがいつも優しい笑顔で抱えていた、過負荷で銃身がドス黒く焼け焦げた巨大なミニガン
奥空アヤネが最後まで委員会の指揮を執るためにその手に握りしめていた、傷だらけのハンドガン
どれもこれも、あの悲劇の日に遺された、ボロボロで硝煙の臭いが染み付いた形見たち。捨て去ることなど絶対にできず、ただ過去の亡霊に囚われるようにして、大切に、そして呪いのようにこの身に縛り付け、今日まで孤独に持ち歩き続けていた思い出の残骸
(──ッ!? これ、は……。嘘、でしょう……?)
だが、その永遠に凍りついているはずだった暗闇の空間のなかで、クロコの戦術的思考が完全に停止した
いつもなら、あの日の悲劇の記憶そのままに、硝煙とみんなの血に塗れたまま、冷たく寂しく沈んでいたはずの、アビドスのみんなの武器。それが、今のクロコの精神世界の網膜には、まるで今この瞬間も現役で使われているかのような、眩いばかりの神聖な『神秘』の輝きを放っているように見えたのだ
傷一つない美しいレシーバー、光を反射して艶やかに手入れされた銃身、そして──持ち主たちの生前の温もりを今なお宿しているかのような、確かな、そして力強い神秘の灯火
それはまるで、遺された形見たちが意思を持ち、絶望の底に沈みかけたクロコに対して、──『私達を使って、シロコちゃん』『もう一度だけ。今度は私達も一緒に、戦わせて』と、彼女の胸の奥深くに力強く、そして優しく語りかけているかのようだった
「また……ッ! そうやって、私の前で、くだらない考え事をして……っ!!」
その地を這うような低く、底知れない憎悪に満ちた聲音に、クロコはハッと現実の世界へと意識を強制的に引き戻された
前を向くと、そこには深く頭を垂れ、全身を激しい怒りと、そしてどこか置いてけぼりにされたかのような嫉妬でガタガタと小刻みに震わせているセリカテラーの姿があった。彼女の頭上に浮かぶヘイローは、主の精神的な限界を明確に示すように、不気味な黒いデジタルノイズを伴って激しく明滅し、パチパチと嫌な放電音を鳴らしている
「そんなに私との戦いに集中できないなら……! そんなに私のことを見ようとしないなら……っ!! だったら、最初から部外者のアンタなんか、このアビドスに……私の前に!! 偉そうに首を突っ込んでくるんじゃないわよっっっ!!!!!」
我を忘れ、狂暴な怒りの感情に任せて、セリカテラーが床を派手に爆砕しながら、一直線な肉薄の突進を仕掛けてきた。その右の蹴り足には、世界のすべてを呪い、崩壊させるような不条理な『色彩』のエネルギーが極限まで黒く収束している
クロコの胸を完全に撃ち抜き、ヘイローごと消し去らんと、コンマ数秒の速度で肉薄する
「お前は、もう──終わりよ。」
その圧倒的な質量と速度を前にして、クロコは思考するよりも早く、自らの身体の細胞に刻み込まれた、アビドスの絆の記憶に従って右腕を伸ばしていた
能力の強制解放。彼女の細い右手が、空間の裂け目から「ある物」を無意識のうちに力強く引きずり出す
──それは、かつてアビドスの誰もが頼りにした、小鳥遊ホシノの、あの巨大な鋼鉄の盾だった
ガキィィィィィィィィンッ!!!!!
最上階のセクター全体に、鼓膜が直接引き裂かれるほどの苛烈で重厚な金属衝突音が轟き渡る
セリカテラーの色彩をまとった渾身の突進を、クロコは異空間から引き出したホシノの盾を床へと深く突き立て、その身を隠すようにして、正面から完璧に、無傷で受け止めてみせたのだ
盾の表面に刻まれた、元の世界のアビドスの生徒たちの強い祈りと神秘の防壁が、セリカテラーの右足から放たれた紫黒い衝撃波を激しく、そして無慈悲に霧散させていく
「なっ……嘘、でしょ……それは……っ!? 小鳥遊、ホシノの……先輩の、盾、だなんて……っ!!」
眼前に突如として現れた、この場に絶対に存在するはずのない「最も信頼していたはずの先輩の盾」を見て、セリカテラーの濁った双眸が驚愕のあまり限界まで大きく見開かれた。彼女は脳の処理が追いつかないまま、反射的にその盾の表面を力任せに蹴りつけ、その凄まじい反動を利用して、後方へと大きく跳躍して距離を取る
しかし、バックステップで着地した、まさにその瞬間のことだった
「がはっ……、あ、がぁっ……!? 痛い……痛いいぃぃっ! な、なんで……っ!?」
セリカテラーが、自らの右足をその場で見事にもつれさせ、激しい苦悶の絶叫を漏らしながら床へとバタリと膝を突いた
彼女は残された右手で必死に自らの右太ももと、そして今盾を蹴りつけた膝を強く抑えつけ、経験したことのないあまりの激痛に身体を激しく悶えさせている。見れば、先ほどホシノの盾を強引に蹴りつけた彼女の右足は、色彩の装甲のように硬化していたはずの皮膚にバリバリと生々しい割れ目が走り、そこからドクドクと、真っ赤な、そして生々しい鮮血が噴き出していた
そして何よりも──その激しい破壊の痕が、今までのように、あの禍々しい紫黒い光の粒子によって修復される気配が、どれだけ時間が経とうとも全く見られなかったのだ
セリカテラーの顔が、生まれて初めて目にする「色彩をも貫く未知の恐怖」への驚愕と絶望によって、激しく引きつり、青ざめていく
「……ッ」
そして、それは盾を構えたままのクロコ自身にとっても、完全に予想外の事態だった
もう二度と、あの輝かしい表舞台で使うことなどないと思っていた、かつての先輩の形見。それを、この極限状態で行使してしまったことへの驚き
そして何よりも、このホシノ先輩の盾を使ってセリカテラーの突撃を受け流し、その反撃の衝撃を与えただけで──なぜ、色彩の絶対的な自己再生能力が、特定の不具合を起こしたかのように、完全に無効化されてしまったのか
残されたみんなの武器が、異空間の深淵で放つ神聖なまでの美しい輝き。その光がクロコの冷え切った胸の奥をじんわりと満たし、凍りついていた思考を完全に融かしていく
(……みんな。今もまだ、私と一緒に戦ってくれているんだね)
クロコは腹部の裂けるような激痛を鋼の意志で抑え込み、床に突き立てたホシノの盾の重厚なフレームに手をかけ、ゆっくりと、しかし確実にその場に立ち上がった。その佇まいには、先ほどまでの迷いや絶望の影は一切ない。ただアビドスの狼としての、どこまでも鋭利で強靭な覚悟だけがそこに宿っていた
「なんなのよ……あんた一体……何者なのよっ!? なんで私の再生を拒絶できるのよ……!!」
セリカテラーは床に膝を突いたまま、修復されない右足の激痛に顔を歪ませ、憎しみと深い混乱の入り混じった目をクロコへと向けた。色彩の絶対的な庇護を打ち破る存在など、彼女の壊れた世界認識のどこを探しても存在するはずがなかったのだ
「私の、名前……?」
クロコは、ホシノの盾のグリップを握る細い指先に、さらにぐっと力を込めた
「アビドス高等学校……『3年』」
それは、あの終わってしまった世界で、みんなとくだらないことで笑い合い、夕暮れ時の柴関ラーメンでラーメンを食べ、砂漠の冷たい風に吹かれながらも確かに幸せだった日々の記憶。そして、この新しい世界に流れ着き、不器用ながらも先生やアビドスの仲間たちと再び紡ぎ始めた日々の重み。そのすべてが、クロコの背中を強く押し上げる
クロコは異空間の裂け目へと右手を滑り込ませ、愛用のアサルトライフルを一度そこへ収納した。代わりに引きずり出したのは、ホシノがかつて肌身離さず持ち歩いていた、あの銃身の短いショットガンだった。それを滑らかな動作でセリカテラーへと真っ直ぐに向ける
「アビドス廃校対策委員会のメンバー……砂狼シロコ」
自らの真の名を、この世界の理へと刻みつけるように誇り高く宣言する
左手には小鳥遊ホシノの絶対の防御たる盾を、右手にはその盾の後ろから確実な致命を穿つ散弾銃を。アビドスの『過去』と『現在』の最強の結晶をその身に纏い、クロコは心の中で、異空間に眠る大切な仲間たちの魂へと静かに語りかけた
(みんな……セリカを傷つけるためじゃない。あの優しいセリカを、暗闇の底から絶対に連れ戻すために……最後にもう一度だけ……私に力を貸して……!)
「ふざけんじゃ……ないわよっっっ!!功利的な綺麗事を並べ立てて、シロコ先輩のフリをするな!!!」
セリカテラーの口から、怒りと屈辱に満ちた絶叫が爆発した。彼女は激しい痛みに悲鳴を上げる右足を、色彩の黒いエネルギーで強引に縛り付け、骨が軋む音も無視して無理矢理その場に立ち上がる
「あんたがシロコですって……!? 冗談も休み休み言いなさいよ!! 私の知っているシロコ先輩は、そんな冷たくて暗い目をしてない! 似ても似つかないじゃない!!」
「冗談じゃない。すべて本当のこと。それに……ここからは、私も本気で行く」
クロコはショットガンのボルトをガシャリと力強く引き、初弾を薬室へと送り込んだ。その冷徹な音がセクターの静寂に響き渡る
「なによ……! さっきまでは本気じゃ無かったっての!? 舐めるのもいい加減に──」
セリカテラーの激昂の言葉に、クロコは自らの力強い聲を真っ向から被せた
「さっきまでは悩んでた……。貴方を傷つけることを、ただ倒してしまうことを恐れてた。でも、今は違う」
クロコは盾の隙間から、セリカテラーの濁った瞳を真っ直ぐに見据えた
「みんなの力を借りて、貴方のその植え付けられた憎しみを取り払う。そして──セリカを、皆の元に、必ず連れ帰る!!」
「やってみなさいよっっ!! 私の怒りで、そのすべてを噛み砕いてあげるわ!!」
セリカテラーの頭上のヘイローが、どす黒い光の爆発を起こした
次の瞬間、二人の少女は同時に冷たいリノリウムの床を力任せに蹴り抜き、弾丸のような速度で正面から激突するべく一直線に走り出した
「死になさいっ!!」
セリカテラーが残された左足に全エネルギーを乗せ、空間を引き裂くような苛烈な飛び蹴りを放ってくる。クロコは瞬時にホシノの盾を身体の前面へと構え、その一撃をがっちりと正面から受け止めた
ギギギギィィィッ!!!
激しい金属摩擦音。しかし、先ほどまでの壁をも容易く粉砕していたあの常軌を逸した怪力は、そこにはなかった。色彩による肉体のリミッター解除が限界を迎え、なおかつホシノの盾によって再生エラーを起こしている今の彼女の打撃は──クロコがよく知っている、あの少し背伸びをして頑張っていた「アビドスのセリカ」と、ほとんど変わらない威力しか出せていなかった。
(今……!)
クロコの野生の直感が、ホシノの盾に伝わる重みの変化から、セリカテラーの体勢が一瞬だけ浮いたことを見逃さなかった。
「そこを退きなさいよっ!! 邪魔をするなああああっ!!!」
「……退かない。絶対に」
クロコは盾のわずかな隙間から、逆手に保持していたショットガンの銃口を容赦なく突き出し、至近距離からその引き金を力任せに弾いた
ドンッ!!!!!
最上階の空間を激しく震わせる重低音の轟音とともに、銃口から無数の凶悪な散弾が爆発的に放たれる。しかし、セリカテラーはそれすらも野生的な直感で予測していたかのように、激突の瞬間にホシノの盾の天面を自らの両足で強引に蹴りつけていた
彼女はそのまま身軽な猫、あるいは飢えた黒豹のように空中へと高く宙返りをし、広がる散弾の嵐を間一髪のところで紙一重で躱し去る
「ぐっ……、がはっ、はぁっ……!」
着地と同時に、タクティカル・ショットガン特有の強烈な反動が、先ほどセリカテラーの拳によって粉砕されたクロコの腹部の骨折へと、最悪の形で直撃した
内臓を直接内側からかき回されるような、目の前が白くなるほどの激痛。クロコの端正な動きが、肉体の限界によって一瞬だけ致命的に硬直する
空中からその決定的な隙を見逃すセリカテラーではなかった。彼女は宙空で身を翻しながら、ボロボロの衣服の懐から手際よく何かを複数個、床へと投げつけてきた
「っ……!」
クロコが咄嗟にホシノの盾を地面に突き立てて身を隠した瞬間、彼女の足元でパァン、パァンと不気味な高音の破裂音が連続して響き渡った。直後、視界のすべてを覆い尽くすほどの、ドス黒く濁った濃密な化学スモークが、辺り一面へと一瞬で広がる
視界は完全なゼロ。遮蔽物となった煙の向こう、上下左右のどこからセリカテラーの次の一撃、あるいは必殺の銃撃が飛んでくるか、全く判別がつかない
(視覚で探すのは無駄……。なら、この空間のすべてを、力ずくで吹き飛ばすだけ。)
クロコは一瞬の迷いもなく、右手のショットガンと左手の盾を異空間の裂け目へと同時に収納。それと連動して、自らの精神の最奥に眠る十六夜ノノミの愛銃──あの超重量の多砲身ガトリング・ミニガンを、両腕に引きずり出した
ウィィィィィィィン……ッ!
モーターが悲鳴を上げ、銃身が激しく回転を始める。火力を、最大出力を限界まで解放する
ドバババババババババババババババッ!!!!
セクター全体を激しく揺るがす、圧倒的な掃射音。クロコは重い銃身をそのまま力任せに、目の前の空間へと横一文字に放った。放たれた超大量の弾丸の嵐が巻き起こした凄まじい暴風と衝撃波によって、周囲を覆っていたドス黒い煙のカーテンが、跡形もなく一瞬で外側へと吹き飛ばされていく
「なっ……嘘、それは……ノノミ先輩のミニガン……っ!! なんでアンタがそれを持ってんのよ!!」
弾幕の圧倒的な風圧によって辛うじて天井近くの太い配管へと飛び退き、直接の肉体粉砕を躱したセリカテラーが、またしても驚愕の表情を浮かべて声を裏返らせた
かつての大切な仲間たちの絆が、形となって自分を正確に追い詰めてくる。その逃れられない事実に、彼女の精神は完全に揺らぎ、崩壊しかけていた
「ぐっ…」
しかし、今のクロコの負傷した身体では、ミニガンの重量を支えての横薙ぎの掃射が肉体の限界だった。これ以上の連射は自らの身体が内側から崩壊する
(次は──これ。)
クロコはガトリング銃を即座に異空間へと消し去ると、今度はアヤネがいつも丁寧に入念に手入れをしていた、あの精密なハンドガンを両手に取り出し、上空の配管に張り付くセリカテラーへ向けて即座に、寸分の狂いもない正確な高速連射を叩き込んだ
タタタタンッ!!!
「ぐっ……、あぁっ……! 今度は、今度はアヤネちゃんの銃……っ!? 嫌だ、みんなして私を……っ!」
空中で完全な回避運動を取りきれず、細い肩や腕にアヤネの弾丸を受けたセリカテラーが、悲痛な苦悶の声を上げながら床へと墜ちていく
「……こっちばかり見てたら、足をすくわれるよ」
「なっ──」
床へ着地しようと体勢を崩したセリカテラーの死角、割れた天井の隙間から、一機の小型観測ドローンが、猛烈な推進速度で突撃してきた。それはアヤネが戦況をリアルタイムで観測するために使っていたドローン──最後の最後で選んだ攻撃は、セリカテラーがかつて「頭脳戦の雑魚」と吐き捨てた、アヤネの持ち物だった
ガツゥゥン!!!
「あがっ……!? げほっ……!」
すでに色彩の加護の大部分を失い、心身ともに弱り切ってしまっているセリカテラーにとっては、そのドローンの決死の体当たりさえも決定的な大ダメージとなった
彼女の華奢な身体は床をごろごろと無様に転がり、ついに力なくその場に倒れ伏した
「これで……本当に、終わり……!」
フラフラと、それでもなお憎悪と絶望の瞳を滾らせて立ち上がろうとするセリカテラー。クロコはすべてのみんなの武器を収め、最後の一撃を放つために、自身がずっと愛用してきたアサルトライフルを再び右手に取り出した
銃口を、セリカテラーのヘイローの真ん中へと正確に向ける。人差し指を深く引き金にかけ、あとほんの数ミリ、指先に力を込めれば弾丸が発射される──その、まさに極限の瞬間だった
ドサリ
「な……っ……!? 身体が……っ!?」
引き金を引くよりも早く、クロコの身体が、まるで完全に糸の切れた操り人形のように前のめりに床へと激しく倒れ込んだ
手からアサルトライフルが滑り落ち、冷たいリノリウムの床に高い金属音を立てて転がっていく
「ぐ……う、動か……ない……。なんで……っ!?」
ライフルをセリカに向けたままの姿勢の状態で、クロコの身体は指先一つ、眉間一つ動かすことすらできなくなっていた。麻痺。いや、それよりも遥かに凶悪な、全身の細胞が内側から急速に腐食し、機能を完全に停止していくような、凄まじい衰弱感が彼女の五体を支配していた
「は、はは……。あははははは……っ! あーはははははっっっ!!!!!」
すべてが完全に静まり返ったセクターの暗闇の中に、セリカテラーの低く、それでいて肌を粟立たせるような不気味な高笑いが響き渡った
彼女は未だに修復される気配のない身体の傷──クロコの放った弾丸が残した、生々しい肉の裂け目から走る激痛に顔を歪め、苦しそうに肩を大きく上下させながらも、勝利を完全に確信した歪んだ悦楽の笑みをその顔に浮かべ、ゆっくりと、ふらつきながら立ち上がった
ガシャリ、と引きずられるようにして死を運ぶ、重苦しい足取り。床に倒れ伏し、ぴくりとも動けないクロコの元へと一歩一歩歩み寄ると、セリカテラーはその濁った瞳をギラリと獰猛に光らせた。そして、クロコが先ほどから激痛に耐えかねて必死に庇い続けていた、最も負傷のひどい腹部の生々しい傷口を目掛け、容赦なくその鋭い靴の先を思いっきり蹴り込んだ
「ごふっ……!? あ、がぁっ……、はっ……っ!」
「あはは! いい気鳴き声ねえ!!」
硬質な床の上を何度も無様に転がり、口内から激しく鮮血を吐き散らすクロコ。全身の神経と細胞が完全に機能を停止しているため、迫り来る衝撃に対して受身を取ることすら、今の彼女には叶わなかった
「惜しかったわね、偽物の砂狼シロコ……。本当に、あと少しだったわ。あとほんの一瞬、コンマ数秒でもアンタが私のヘイローに狙いを定めて、その引き金を引くのが早かったら……間違いなく、私の負けだった。でも残念! アンタの弾丸が発射されるよりも、私の仕込んでおいた『能力』がアンタのその頑丈な身体の内側を蝕み、完全に回りきる方が、ほんの僅かに先だったみたいよ!」
クロコは全身の自由を奪われ、鉛のように重くなった首をどうにか死に物狂いで動かし、網膜の焦点を合わせながら、視線だけでセリカテラーを強く、鋭く睨みつけた
細く浅い、掠れた呼吸の隙間から、血の混じった声音をどうにか喉の奥から絞り出す
「のう……り、ょく……? 一体……いつの間に、何を……したの……っ」
「ええ、そうよ。私が色彩の狂気と濁流に呑み込まれたあの日から、このクソみたいな日常のなかで使えるようになった、私だけの固有の権能。ひとつは、アンタがさっきまで嫌というほど見ていた、あの物理法則を無視した異常な自己再生力……まあ、言ってしまえばただの超回復よ。そして、もう1つは──」
セリカテラーは昏い紫黒の光を宿した瞳を妖しく明滅させ、ピクリとも動けない哀れなクロコを傲然と見下ろしながら、冷酷に、宣告するようにその答えを告げた
「対象の肉体を内側から優しく、そして確実に絶対の死へと至らしめる──『病』を操る力よ
実はね、アンタが私の前に初めてそのクソ生意気な姿を現した、その最初の瞬間から……私はこの部屋の空気のなかに、視認できないほど微細な病の因子をずっと、絶え間なく発動させて、充満させていたの。つまり、アンタがこの戦場に来た時点で、最初からアンタの敗北は決まっていたことなのよ!」
「っ……そ、んな……最初から、すでに……っ」
五体の中心、骨の真髄からじわじわと大切な体温が奪われ、恐ろしいほどの冷気に侵食されていくのを感じながら、クロコは自らの戦術的敗北の絶望に、きつく顔を歪めた
「まあ、アンタの身体のなかに宿る『神秘』が妙に強固で、私の想定よりも遥かに効き目が現れるのが遅かったから、途中で少しイライラさせられたけどね。でも、さっき私がアンタの懐に潜り込んで与えた、あの渾身の一撃──あの腹部への直撃の怪我で、アンタの肉体的な免疫と防壁は完全に決壊した。それでようやく、堰を切ったように私の病の因子が全身の血管に回り始めたようね。どう? もう指先一本、睫毛一つ、まともに動かせないでしょう?」
セリカテラーは、床の至る所を自分の、そしてクロコの赤黒い血で汚しながら、横たわるクロコのすぐ目の前へと、さらに一歩、ゆっくりとした足取りで歩み寄る。そして、生気の失せかけた彼女の白い眉間へと、残された右手に硬く握られた突撃銃の、煤けた黒い銃口を、冷酷に突き付けた
「最後に、一つだけ質問に答えてもらうわ。アンタがここで無様にのたれ死ぬ前の、せめてものお姉さんからの情けよ。……なんでアンタが、私と同じアビドスのみんなの武器を、そんなにたくさん持っているの? そして、アンタは一体本当はどこの誰で、私に酷く似たそのテラーの力はなんなのよ。……さっさと答えなさい、偽物」
銃口から放たれる、物理的な圧力を伴った圧倒的なまでの殺気。しかし、クロコは死の淵に、完全に意識の途絶えかける絶望の境界線にありながらも、その切れ長の瞳から宿る野生の光を、決して消してはいなかった
喉の奥に逆流して溜まった血を、口の端からゴボリと吐き出しながら、掠れた声をどうにか絞り出す
「……わたしの……名前、は……。アビドス、高等学校……廃校対策委員会……砂狼、シロコ……」
「その、吐き気がするような嘘はもういいって、さっきも言ったわよねっっっ!!?」
ドガッ!!!!!
「ごふっ……っ!? げほ、っ……!」
セリカテラーの加減のない靴が、クロコの負傷した腹部へと、執拗に、これ以上ないほどの質量で再び振り下ろされた
内臓を容赦なく真上から踏み潰されるような激痛
クロコは反射的に身体を「く」の字に折り曲げ、口から大量の鮮血を冷たい床へと派手に吐き散らす。全身に回った病のせいで筋力が完全に弛緩し、受身も拒絶もできず、ただの物言わぬ肉塊のように激しく蹴り飛ばされる衝撃を、その身一つで全て受け止めるしかなかった
それでも──クロコは話を止めなかった。濁り、完全に途切れそうになる意識の糸を、アビドスという最愛の絆への執念だけで無理やり繋ぎ止める
「げほっ……ごほっ……! 対、策……委員会……3年……っ、がふっ! ……あの、空間に……眠っている、武器、は……。私が、あの世界から……持って、きた……みんなの……形見、だから……」
「………………形見?」
その、決定的な、あまりにも不吉で重苦しい単語がセリカテラーの鼓膜を激しく叩いた瞬間。彼女の先ほどまで狂暴に動いていた足が、まるで時間が凍りついたかのように、ピタリと嘘のように停止した
「なによそれ……形見って、一体どういうことよ……。あいつらが……小鳥遊ホシノや、ノノミ先輩…アヤネちゃんやシロコ先輩が…勝手にくたばったっていうの……!? そんなわけない、そんなわけないじゃない!! あいつらは今も、現にこの管理棟の下の階で、カイザーの連中と戦ってるわ!!」
「……違う。この世界の……今下にいる、みんなの、ことじゃ……ない……」
息も絶え絶えになりながら、血混じりの言葉を途切れ途切れに紡ぐクロコ。しかし、その核心に一向に届かない、まるで煙に巻いたような話し方に、セリカテラーの胸中でさらなる焦燥と、正体の分からないイライラが爆発する。銃口を突き立てる、彼女の手の震えが目に見えて大きくなっていく
「この世界じゃないって……さっきから一体どういう意味よ!? わけのわからないことを言って、私を混乱させようとしないで!! はっきりと、私に分かる言葉で言いなさいよ!!」
「……私は……この世界の、砂狼シロコじゃ、ない……。…別の時間軸の世界……の砂狼シロコ…」
「………………は? 別の、世界……? 」
セリカテラーの思考が、荒唐無稽な目の前の現実を前にして、完全に機能を停止する
クロコは、崩れた天井の不自然な裂け目から覗く、吸い込まれそうなほどに冷たいアビドスの空を見つめながら。自らの心の奥底にずっと、何年も鍵をかけて仕舞い込んでいた、思い出すだけで自らの魂が内側からズタズタに引き裂かれそうになる「あの日の終わり」を、静かに、ぽつりぽつりと語り始めた
「ホシノ先輩の……ヘイローを……あの日、私たちは守れなくて……。私たちのこの手で、壊して……。アヤネは、生命維持装置に繋がれたまま……病院のベッドから、二度と起き上がれなくなって……。ノノミは、砂漠の真ん中で……一人で静かに、自らその命を絶った……」
「っっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」
セリカテラーの濁った双眸が、今日一番の、そして彼女の人生において最大の衝撃と恐怖によって、限界まで大きく見開かれた
あまりの戦慄と脳裏を襲う悪寒に、クロコの頭部に向けて真っ直ぐに固定されていたはずの、突撃銃の銃身が、ガタガタと目に見えて音を立てて激しく揺れ始める
今、目の前の少女が語ったそのあまりにも生々しい地獄の光景。それは、彼女自身の脳裏に、かつて自分が暗黒の孤独のなかに突き落とされたあの夜、絶望の中で幾度となく夢に見た、最悪の結末の残像と、不気味なほどに完全に一致し、激しくフラッシュバックしていたからだ
「……そして、セリカ。貴方は……あの時、何者かに突然攫われて……。唯一、動けた……私が、どんなに砂漠を探しても……どれほど血を流してどこを探しても……最後まで、見つけてあげられなかった……」
「な……何を、アンタさっきから……何を、デタラメを言ってるのよ……っ! やめて、そんな話、聞きたくない……っ!」
「……ごめんね、セリカ……。あの時……私がもっと強ければ……貴方を、見つけてあげられなくて、本当に……ごめん、なさい……っ……」
ぽろぽろと、クロコの切れ長の目から、温かい、しかしひどく透明な大粒の涙が溢れ出し、血と硝煙に汚れた彼女の青白い頬を静かに伝って、リノリウムの床へと落ちていった
それは、長年誰にも見せることのなかった、そして見せることすら許されなかった、砂狼シロコ・テラーという一人の孤独な少女の、心の最奥からの、本物の懺悔の涙だった
その、胸をきつく締め付けられるような悲痛な泣き顔と、声音に宿る、何千もの夜を越えてきた圧倒的な絶望の重み
それを見ただけで、セリカテラーの感性が、目の前の少女が自分を騙すための「その場しのぎの安っぽい嘘」や「戦術的なブラフ」を言っているのではないということを、本能的に、そして完全に理解してしまっていた
「これまで……確証なんて、どこにも無かった……。だけど……貴方が、誰にも助けて貰えなかったって、その口から言った時……私は、すべてを確信したの……」
クロコは冷たい床に顔を伏せたまま、喉の奥から這い出るような、しかしひどく澄んだ声を絞り出す
「貴方は……私が、あの終わってしまった世界でどうしても救えなかった……あの世界と『同じ』絶望を経験した……私の世界の、セリカなんだって……。やっと、見つけた……っ」
「うそ……嘘よ、嘘よっっっ!!!! そんなの嘘に決まってるわ!!! 騙されない、絶対に騙されるもんですか!!!」
セリカテラーは狂ったように自らの頭を両手で強く抱え込み、引き裂かれるような拒絶の悲鳴を、壊れた天井の向こうの空へと激しく響かせた
「みんな居なかった!!! 私が必死に逃げて、ボロボロになって学園に帰った時…教室にも、校舎にも、どこにも誰も居なかった!!! みんな私を置いて死んだのよ!!! 私のことなんかどうでもよくなって、みんな勝手に逝っちゃったのよ!!! だから、だから私は世界を、この理不尽なキヴォトスのすべてを──!!」
認められるはずがなかった。認めてしまえば、自分の心が完全に粉々になってしまう。自分がこれまで片時も離さず抱き続けてきた、世界のすべてを呪うための復讐の正当性が、目の前にいる「もう一人の先輩」の流す、温かい本物の涙によって、その根底から無残に覆されようとしているのだから
クロコは病魔の棘に深く侵食され、すでに指先一つ動かすことすら叶わない身体のまま、涙に濡れた瞳で、狂乱し、自らの存在を否定するように叫ぶかつての仲間をじっと見つめていた。その瞳には、かつてのような冷徹な戦士の光はなく、ただ愛おしい後輩を想う、祈るような、慈悲に満ちた声で最後の言葉を紡ぐ
「……セリカ。もしも、あの日のことを……私が貴方をどうしても救い出せなかったことを、今もまだ、恨んでいるのなら……。世界をすべて壊して、その荒れ狂う怒りを鎮めるための、生贄が欲しいと言うのなら……。お願いだから、私だけにして……。私一人をこの手で殺して、それで、その気の済むまで満足して……」
「な……、アンタ、何を……っ!」
「こっちの世界のみんなには……あの、誰よりも優しい先生や、今も階下で貴方の身を本当に心配して、必死に走っている対策委員会のみんなには……何の関係も、何の罪も、ないんだから……っ。だから……お願い、セリカ……」
「っ……、あ、あああ……っ!!! 違う、違う、違う、違う、違うっっっ!!!!!」
セリカテラーは、まるでこの世で最も恐ろしい猛毒の蛇にでも触れてしまったかのように、クロコの眉間に突き付けていた突撃銃の銃口を上空へと跳ね上げ、フラフラと足元を無様にもつれさせながら、後ろへと大きくよろめき退がった
彼女の頭上に浮かぶヘイローから迸る黒いノイズが、彼女の精神世界の完全な崩壊を告げるように、パチパチ、バリバリと狂ったような火花を散らし、最上階の空間そのものを不気味に激しく歪めていく
「嘘よ……っ! そんなの全部、私を惑わせて、私の復讐を邪魔するための、卑劣で浅ましい罠に決まってるわ……! だけど……だけど、なんで、なんでアンタがそれを知っているのよ……!? それこそ完全なデタラメよ……! そんなデタラメ、絶対に辻褄が合うはずがない……! 私の胸の奥の記憶と、一致するはずが……当たらない、当たらないはずなのに、どうして……っっ!?」
セリカテラーは自身の黒い髪を狂ったように両手で激しく掻きむしり、まるで脳内で直接語りかけてくる不条理な「何か」の問いかけに必死で抗うように、ぶつぶつと意味不明な呪詛を呟きながら、底知れない狂気の闇の中で激しく孤立し、混迷を極めていく
全身を突き上げる激痛、肺腑を焦がす呼吸困難、そして全身の細胞を内側からどろどろと腐食させていく、色彩より与えられし『病』の急速な侵食──
クロコの肉体は、もうこれ以上は一秒たりとも自分の意識を保てない、完全な死の領域にまで達していた。網膜の視界は外側から完全な真っ黒に染まり、耳を打つセリカの叫び声すらも、水の底へと沈んでいくように遠のいていく
しかし、目の前で狂い、泣き叫び、迷子のように取り残されている、かつての愛おしい後輩の姿を世界の終わりに焼き付けた瞬間
彼女は自らの魂のすべて、神秘の残余のすべてを燃やし尽くすような、最後の、本当の最後の力を振り絞った
「……ごめんね……、セリカ……。あの日……一緒に、あたたかいご飯、食べるって交わした約束……守ってあげられなくて、本当に……ごめん、なさい……」
「っっ……!?」
「……貴方が、誰にも内緒で、一生懸命作っててくれてた……あの、少し形の崩れたケーキ……。不器用だったけど……すごく、すごく……嬉しかったよ……」
その、血に塗れた唇から零れ落ちた、あまりにも優しく、あまりにも切ない、二人の日常の結晶のような言葉を最後に──クロコの肉体は完全に限界を迎え、まるで糸の切れた操り人形のように静かにその切れ長の目を閉じ、深い、深い気絶の闇の底へと沈んでいった
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
脳内で狂ったように鳴り響いていた世界のすべてを呪う金切り声が、ガラスが割れるような音を立てて一瞬で消え去る
視界を覆うドス黒い紫の霧の向こうから、思い出すことすら許されなかった、あの日の記憶が、暴力的なまでの鮮明さで彼女の網膜へと溢れ出してきた
学校の帰りに、少ないバイト代を財布から何度も数え直して買った、安っぽいイチゴの甘い匂い。 「いつも生意気ばかり言ってごめんなさい」なんて恥ずかしい言葉、絶対に言えないから。代わりにせめて、明日迎えるシロコ先輩の誕生日を、みんなで驚かせて祝ってあげたくて。 冷房の効きの悪い部室の片隅で、汗をにじませながら、不器用な手つきで何度も何度も塗り直した、不格好に傾いた生クリームの白──
誰にも言わなかった。サプライズにするために、アヤネちゃんにも、ノノミ先輩にも、ホシノ先輩にだって秘密にしていた、私だけの、意地張りの結晶
そのケーキの形を。その時の私の体温を。明日を楽しみにしていた私の真心を。 知っている人間なんて、この世界に、あの世界のどこにだって、たった一人しかいるはずがないのに──
「シロコ先輩……? 嘘、でしょ……? 本当に……本当に、私の、シロコ先輩なの……っ!?」
「………」
床に倒れ伏したクロコは、もう何も話さない
その薄い胸の上下も今やかすかであり、今にも消え入りそうな浅い呼吸を繰り返すだけの、ただの物言わぬ肉塊のようになってしまっていた
セリカテラーは、まるで自らの心臓を色彩の鋭い爪で直接掴まれたかのような、凄まじい衝撃と戦慄に襲われながら、ヨロヨロとした、幼児のような覚束ない足取りで、血の海に倒れ伏すクロコの元へと、一歩、また一歩と歩みを進めていく
その時、セクターの暗闇の中で、ひどく不思議な現象が起きていた
彼女が床を蹴り、一歩、また一歩とクロコの身体へと近づく度に──セリカテラーの華奢な肉体から、世界のすべてを呪い、覆い尽くしていたはずのあのドス黒い影のような、色彩の禍々しい残滓が、陽炎のように揺らめきながらボロボロと剥がれ落ちていく。彼女を包んでいた狂気と怨嗟の鎧が、内側からボロボロと音を立てて崩壊していく
『──騙されるな、バステトよ。あれは精巧な演技だ。』
『お前はあいつらに裏切られ、暗黒の砂漠に見捨てられたのだ。その事実を忘れるな。』
『今更お前の前に現れたその偽者は、お前を油断させ、その神秘を奪うために口から出まかせを言っているに過ぎない。殺せ、今すぐその首を跳ね絶望を完成させよ。』
頭の真ん中で、世界を呪い、すべてを無へと還そうとする色彩の怨念の残響が、脳を直接かき回すような耳障りな金切り声となって幾度となく反響し、彼女の心を再び暗黒の深淵へと引きずり戻そうと狂ったように叫び続けている
だが、今のセリカテラーには、そんな世界の都合も、復讐の正当性も、頭の中の五月蝿い雑音も、もうどうだってよかった。そんなものは一欠片の価値もない
この世の何よりも重い、自分がずっとずっと心の底で求めてやまなかった、たった一つの『真実』が、今、目の前で血を流して倒れているのだから
床に広がる赤黒い血溜まりを、自身の破れた靴の先でバシャリ、と静かに踏み越え
セリカテラーはついに、完全に動かなくなった、最愛の先輩のすぐ傍らへと辿り着いた
彼女はその場に、まるで糸が切れて崩れ落ちるようにして両膝を激しく床へと突くと、感覚の失せかけた震える右手で、クロコの冷え切った肩を何度も、何度も、壊れた玩具のように激しく揺さぶった
「嘘……嘘でしょ、シロコ先輩……っ! 起きてよ、目を開けてよぉっ!! 私、ここにいるよ……っ! やっと、やっと見つけてくれたんでしょ!? だったら、勝手に一人で眠らないでよおぉぉっ!!!」
色彩の権能を自らの意志で解除したところで、クロコの肉体からすでに失われてしまった莫大な体力や、全身の細胞を深く蝕んでしまった致命的な病魔の因子が、すぐに霧散して回復するわけでは決してない
最上階の、激しい銃撃戦によって無残にひび割れた窓から、皮肉なほどに穏やかで暖かいアビドスの日差しが差し込む。そのスポットライトのような光の下、血に塗れたまま静かに涙を流し続ける、かつて狂った少女と呼ばれたセリカの悲痛な絶叫だけが、アビドスの広大で静寂な昼空へと、どこまでも虚しく、哀しく響き渡っていた
「っ……、う、あ……シロコ、先輩……うう……っ」
セリカは、溢れては堰を切ったように止まらない涙を、血と硝煙と自身のオイルのような黒い血で汚れた手の甲で、何度も何度も乱暴に拭った。赤く腫れ上がったその双眸には、世界をすべて無へ還そうとしていたあの冷酷な『テラー』としての狂暴な光は、もう一欠片も残されてはいない
ただ、目の前で静かに呼吸を弱めていく、世界で最も大切で、最愛の先輩を二度と失いたくないという、一人の無力な少女の必死な願いと執念だけが、確かにそこにあった
「……絶対に、死なせない。死なせないんだから……っ! また私を置いていかれるなんて、そんなの、もう絶対に真っ平よ……!!」
セリカは痛む奥歯を強く食いしばり、冷たい床に横たわるクロコの華奢な身体の脇に、まだ辛うじて動く残された右腕を強引に通した
だらりと力なく垂れ下がる動かない左腕の不自由さに、一瞬だけ悔しそうに毒づきながらも、自らの細い肉体に残されたすべての筋肉を爆発させるようにして、クロコの身体を背負い上げるようにして強く抱き起こす
「後で……意識が戻ったら、絶対に、全部吐いてもらうんだからね……っ。なんでそんな、姿に変わっちゃったのか……。これまでどこで、どんな地獄を経験して、何をしていたのか……。本当に、私のことを、あの日からずっと探してくれてたのか……っ。全部、全部、私が満足して耳にタコができるまで、一文字も残さず教えてもらうわよ……っ!」
セリカは、ぐったりと自らの首筋に頭を預けてくるクロコの、消え入りそうなほどに微かな体温の温もりを確かめるように、さらに強く、壊れ物を扱うようにその身体を抱きしめた
もし、この傷だらけで、自分と同じテラーの概念を纏った少女が本当に、あの不器用で、だけど誰よりも優しかった「砂狼シロコ先輩」なのだとしたら──
何故、彼女の頭上に浮かぶヘイローは、あんなにも無残にガラス細工のようにひび割れてしまっているのか
(それを、先輩自身の口から聞き出すまでは……こんな、こんな場所で、死なせるわけにはいかない……っ!)
セリカはクロコの身体を床に落とさないよう、右腕に渾身の力を込めてがっちりとその腰を固定し、崩壊したセクターの出口である重い鉄扉の方へと、激痛の走る右足を引きずるような足取りで、一歩ずつ歩み出す──
ジジッ……ジジジ、ジジジジジッ……
「……え? なんの、音……?」
セリカの耳に、不吉な電子のバースト音が届いた
背後の床に転がっていた、先ほどクロコの一本背負いによる絶大な衝撃によって木っ端微塵に破壊された、カイザーの監視モニターと制御主幹の残骸。その剥き出しになり、歪に折れ曲がった電子基板から、嫌な高熱を帯びた紫色の火花が、バチバチと激しく周囲の瓦礫へと散った
直後、管理棟セクター内のすべての稼働回路の最深部で、致命的なシステムエラーと全動力源の暴走を告げる、鼓膜を裂くような不快な警告音が鳴り響く
ドガァァァァァンッ!!!!!!!
「きゃっ!? な、何よこれ……っ!? 嘘でしょ!?」
直後、すぐ真後ろで凄まじい規模の誘爆を伴った熱波の爆発が巻き起こった。その凄まじい風圧に容赦なく背中を押され、セリカは悲鳴を上げながら、クロコを抱えたまま前のめりに床へ倒れ込みそうになる
管理棟の防衛セクター全体が、まるで巨大な直下型地震にでも見舞われたかのように、ガタガタ、ドサドサと不気味なコンクリートの破砕音を立てて激しく揺れ始めていた
先ほどまでのセリカとクロコによる、最上階の構造を無視した超人同士の死闘。そして、それより遥か前の段階から、階下で行われていたであろう便利屋68とハルカによる、容赦のない激しい重火器や爆薬の応酬──そのすべての致命的な累積ダメージに、この古びた砂漠の前線基地の構造そのものが、ついに限界を迎えて耐えきれなくなっていたのだ
至る所の配管、防壁の内部で、漏れ出たガスの引火と主電源の暴走による連鎖爆発の炎が、まるで巨大な赤黒い生き物のように、彼女たちの背後から迫り始めていた
「っ……、まずい……っ! このままじゃ二人とも巻き込まれる……っ!」
迫り来る炎の圧倒的な熱風と、不気味に赤く染まるセクターの空気を背中に感じながら、セリカは激痛に悲鳴を上げる右足を死に物狂いで引きずり、崩れ落ちる瓦礫を辛うじて躱しながら、扉をくぐり抜けて下層へと繋がる暗い階段へと必死に飛び込んだ
崩壊を始めた螺旋階段の至る所から、巨大なコンクリートの破片や鉄骨が雨のように降り注ぐ中、彼女はどうにか一段ずつ、クロコを庇いながら階段を下り、熱で歪んで半開きになった防火扉を右肩で強引に潜り抜ける
そこは、ほんの少し前に便利屋68とハルカが互いのプライドを懸けて激しく衝突した形跡の残る、荒涼とした戦闘跡地の広い中央広間だった。あちこちの頑強な支柱が中央からへし折れ、焦げた重油の臭いと視界を遮る黒煙が濃密に立ち込めている
セリカがクロコを必死に抱えたまま、瓦礫が不規則に散乱する広間の中央を通り抜けようとした、まさにその瞬間のことだった
メキメキメキ……バリバリバリバリッ!!! ドゴォン!!!
「あっ──」
彼女たちの真上、巨大な天井の空間から、この世の終わりを告げるような不気味で、圧倒的なコンクリートの構造崩壊音が響き渡った
セリカが恐怖に息を呑みながら視線を上空へ向ければ、先ほどの連鎖爆発の衝撃によって完全に強度を失った、広間の巨大な天井の一角が、自らの数十トンにも及ぶ質量に耐えかねて、完全に真下へと剥がれ落ちてくるところだった
何トンもの破壊力を持つ巨大な岩の塊と、槍のように尖った鉄骨の豪雨
迫り来る絶対的な『死』の影が、まるで網膜の中でスローモーションのようにゆっくりと、しかし確実にセリカの瞳に映し出される
もし、普段通りの、色彩の不条理な暴力で満たされていた万全のテラーの身体なら。あるいは、かつてのアビドス対策委員会として元気に砂漠を駆け回っていた頃の身体なら、バックステップ一閃で、この程度の崩落を躱すことなど容易だったかもしれない
だが、今のセリカの右足は、先ほどホシノの盾の絶対防御を強引に蹴りつけた衝撃のせいで骨がグズグズに砕け、悲鳴を上げるだけで思うように1センチも動かない
そして何より──自らの腕の中には、病魔に深く蝕まれて完全に意識を失い、呼吸を保つことすら危ういシロコ先輩がいるのだ。自分がここで無理に無軌道な回避運動をすれば、その衝撃だけで彼女の細い身体にさらなる致命的な負荷をかけ、完全にトドメを刺してしまう
(間に合わない……っ。避けるのは、もう……絶対に無理……!)
頭上を完全に覆い尽くし、光を遮る巨大な落石の群れ。逃げ場のない絶望の檻のなかで、セリカは一瞬の迷いも、躊躇もなく、腕の中に抱きしめていたクロコの身体を、衝撃の少ない床の隙間へと寝かせる
その直後、彼女の身体の上に、自らの華奢な肉体をこれ以上ないほど精一杯に広げ、覆い被せるようにして完全にその身を盾とした
(せめて……シロコ先輩だけでも……っ! 先輩だけは、今度こそ私が……絶対に守るんだからね……っ!!)
セリカはぎゅっと、強くその両目を閉じ、数瞬後に訪れるであろう肉体の破砕の衝撃に備えて、唇から血が出るほどに歯を食いしばる
自分はどうなったっていい。世界を呪い、大切なアビドスを裏切り、数々の過ちを犯した自分に、これからの未来を生きる価値なんて、きっと一欠片も残されてはいない
だけど……だけど、あの日から何年も、何千もの夜を越えて、自分をずっと探し続けてくれたこの大好きな人だけには──何があっても、絶対にここで死んで欲しくなかった。
「シロコ先輩……っ!」
彼女は、最愛の先輩の名前を強く叫んだ
しかし
数秒が経過しても。どれだけ長く、暗闇の中で身を縮めて待ってみても
セリカの背中を肉片へと押し潰すはずの、天井から降り注ぐあの圧倒的な質量の衝撃も、骨が粉々に砕け散るようなあの激痛も
──何一つとして、彼女の身体に訪れることはなかった
聞こえるのは、ただ一つ
天から降り注ぐはずだった数多の絶望、その凄まじい破壊の重量を、何かが下から死に物狂いで、必死に支え止めているような──ギチギチ、ミシミシと激しく悲鳴を上げる、硬質なコンクリートの不気味な軋み音だけだった
「……? なんで……? 私、生きてる……?」
セリカは恐る恐る、きつく瞑っていた両目をゆっくりと開け、頭上へと顔を上げた
自分と、そして完全に意識を失っているクロコの真上には、確かに巨大な天井の崩落が、すべてを圧殺せんばかりの濃い影を落としている。しかし、その何トンもの質量を持つコンクリートの岩の塊は、二人のわずか数十センチ頭上という、文字通り目と鼻の先の空間で、不自然に、完全にその動きを静止させていたのだ
それを支えていたのは、血の気の引いた、あまりにも小さな、だが鉄線のように強靭な一人の先輩の背中だった
「ふ……っ、ぐ、くぅぅ……っ! ぐぐぐぐぐ……っっ!!!!」
「ほ、ホシノ……先輩……っ!? うそ、なんで……っ!」
ホシノの全身を覆う制服は破れ、その隙間から覗く細い両腕や、衣服の上から強固にボルト止めされた四肢の関節部分には、鈍い鈍色を放つ、無骨で不格好な「外骨格状の補助機械(サポートギア)」がギチギチと音を立てて肉に食い込んでいた。 動かないはずの瀕死の肉体を、筋肉の代わりにミレニアム製の高出力モーターによって強引に、力任せに駆動させるための決死の骨組み
キィィィィィィン……ッ!!!!
空間を圧するほどの苛烈な高周波の耳鳴りが、セリカの鼓膜を襲う。ホシノの頭上に浮かぶヘイローが、まるで燃え尽きる直前の超新星のように、パチパチと不気味な白熱の光を放って激しく明滅していた。その圧倒的な「神秘」の出力の暴走に、周囲の砂塵が重力を失ったように宙へ浮かび上がる。機械の出力だけではない。彼女は今、自らのヘイローごと命を消し飛ばしかねないほどの精神エネルギーを、その小さな身体に強引に上乗せして、数十トンの絶望を受け止めていたのだ
「や、やぁ……セリカちゃん……。……やっと、ちゃんと……『先輩』って、呼んでくれたね……。おじさん、嬉しいな……」
ホシノの顔からは、激痛と疲弊による油のような脂汗が滝のように流れ落ち、その笑顔は今にも崩れそうなほど歪んでいた。両腕の補助機械の隙間からは、過負荷によって限界を迎えたオイルがジュクジュクと沸騰し、肉の焼けるような異臭混じりの黒煙が立ち上っている。
「な、何言って…なんであんたがここに居るのよ!?」
「ちょっと、待っててね……。今、おじさんがこれ、どかす、から……っ! ぬ、うううぅぅぅっ!」
ホシノは、全身の神経を灼く絶望的な痛覚を、かつて戦場を支配した恐怖の「小鳥遊ホシノ」の冷徹な闘争本能で完全にねじ伏せた。
「あああああぉぉぉぉっっっ!!!!!!!!!!」
ホシノが喉を掻きむしるような咆哮を張り上げたと同時、外骨格の補助モーターが「ギャリリリリッ!」と断末魔のような金属摩擦音を上げる。駆動限界の安全弁を脳内で完全にロック解除したホシノは、自身の神秘と機械の最大トルクを完全に同調させ、頭上の巨大なコンクリート塊を、前方へと派手に、凄まじい放物線を描いて投げ飛ばした
数メートル先の瓦礫の山へとガガァン!! と凄まじい崩落音を立てて激しく激突し、粉々に砕け散る
最大の窮地を、彼女たちは脱した
プスン……、ジジッ、ジジジ……
その直後、すべてのギミックからバチバチと紫の火花が散り、完全に基板の灼けた黒い煙を噴き出しながら、外骨格は冷たい「鉄の枷」へと戻る。ホシノは支えを失い、糸の切れた人形のように、その場にドサリと、力なく両膝から崩れ落ちてしまった。
「あはは……。あーあ、完全に壊れちゃった……。ちょっとおじさん、無理にトルクを上げさせすぎちゃったかなぁ……。エンジニア部の子たちに、怒られちゃうね……」
ホシノは、電流の過負荷によってピクリとも動かなくなってしまった自らの腕を寂しそうに見つめながら、困ったようにへにゃりと、いつものように力なく微笑んだ。しかし、その額からは、激痛と疲弊による油のような脂汗が、滝のようにボロボロと流れ落ちている
「な……何よそれ、何考えてるのよホシノ先輩っっ!! バカじゃないのっっ!?」
セリカは、腕の中のクロコを落とさないよう必死に抱きかかえたまま、床に座り込むホシノの元へと、床を這うようにして必死に近づいた
「そんな無茶苦茶な、今にも壊れそうな身体で……! そんな、怪しい機械で無理やり肉体を動かして最前線に来るなんて……っ! 本当にバカじゃないの!? もし途中で心臓が止まって死んじゃったらどうするのよ!!いくら能力を解除したからってすぐには回復しないのに…… 本当に……本当に、いつもいつもホシノ先輩はそうやって、私たちに何も言わないで、自分だけで全部全部、背負い込んで突っ走って……っ!」
「うへへ……。やっぱり、これだよ。何時もの、おじさんを心配してくれるセリカちゃんの怒り方だねぇ……。うん、なんだかその怒鳴り声を聞くだけで、おじさん、すごく安心しちゃったな……。ああ、ちゃんとセリカちゃんを、アビドスに連れ戻せたんだなー、ってさ……」
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょっっ!?」
セリカは声を荒らげて怒鳴り散らしながらも、ホシノのあまりにも生気のない、幽霊のように青白い顔色と、機械の隙間から漏れ出る焦げ臭いゴムの煙に、胸が痛いほど締め付けられるような、強烈な恐怖を覚えていた
目の前のこの「小鳥遊ホシノ」という先輩は、いつだって、どんなに自分が致命的な傷を負っていようとも、冗談めかしたおどけた態度で自らの痛みを完璧に隠し通してしまうからだ
その微笑みが、今は怖くて仕方がなかった
「うん、でもね……。おじさんにとってはね、これ以上にないくらい、命に代えても大事な事だからさ……。ごめんね、セリカちゃん。おじさんの不甲斐なさのせいで、君を……こんなになるまで、寂しく傷付けちゃって……」
「っ……、そ、それは……っ、私は……」
ホシノの掠れた、しかし、心の最奥から自らの罪を悔いるように申し訳なさそうに紡がれたその優しい言葉に。セリカの次の怒号が、喉の奥でピタリと、凍りついたように動かなくなった
いくら色彩の狂気によって正気を失い、脳内を世界のすべてに対する憎悪に支配されていたからといえ。自分がこの手で、大好きなホシノ先輩に向けたあの冷たい銃口の重みも。彼女に投げつけた、呪いのような、吐き気がするほどの罵詈雑言の数々も
すべては、自分が自らの意思で行ってしまった、紛れもない、決して取り消すことのできない大罪なのだ
自分が犯した過ちのあまりの深さと、それすらも優しく包み込もうとする先輩の光に、セリカは耐えかねてガタガタと両肩を小さく震わせ、血に染まった暗い床へと、逃げるように視線を落とした
そんな、今にも自らの罪の重さに耐えかねて絶望に沈みかけていく、愛おしい後輩の横顔をじっと見つめながら──ホシノはやはり、困ったようにへにゃりと眉を下げて笑った
「そんなにさ、思い詰めた顔をしないでよ、セリカちゃん。セリカちゃんがあの時、おじさんに向かって怒鳴り散らしたことは、全部全部、本当のことなんだからさ。……おじさんが、あの時またみんなのことを信じて頼らずに、ひとりで勝手に、ユメ先輩を追って突っ走っちゃったから。だから、セリカちゃんや……そっちで倒れてる、別の世界のシロコちゃん……他のみんなにも、こんな酷い目に合わせちゃったんだ。全部、おじさんの不徳の致すところだよ。おじさんが、悪いんだ」
「……だからって、だからって……っ! 先輩が、自分の身体をここまで、壊していい理由になんて、なるわけないじゃない……! 誰もそんなこと、望んでないわよ……っ!」
「あはは……。厳しいなぁ。本当はね、おじさんももう少し早くここに駆けつけてさ。シロコちゃんがセリカちゃんを必死に説得してるその合戦に、私も交じって『おじさんもいるぞー』って参加したかったんだけど……。いかんせん、このボロボロな体なもんでね、歩くだけでも一苦労でさ、全然間に合わなくて。最後の最後で、なんとか格好良いところだけは、こうして滑り込みで見せられたけど……うへ、もう機械の方も、完全に限界みたいだね」
ホシノの四肢に巻き付けられた補助モーターの隙間から、プスン、プスンと、最期の命を振り絞るような虚しい火花が小さく散り
彼女の身体を強引に固定していた外骨格は、完全にその駆動音を消し、冷たい金属の枷となって完全に沈黙した
彼女は過負荷によって電流が遮断され、ピクリとも動かなくなってしまった細い両腕を冷たい床に力なく投げ出したまま。それでも、真っ直ぐにセリカの瞳を見つめ、どこまでも優しく、そして不器用な、だけど芯の通った先輩の声で語りかけた
「……だからさ、セリカちゃん。お願い。私と……そこにいる、もう一人のシロコちゃんを……助けて欲しいな。セリカちゃんも、その足も腕も、もう本気でボロボロで、今すぐ倒れたいくらい限界なのは痛いほど分かってる。……だけどね、今のボロボロな私たちの中で、まだ立ち上がって動けるのは──君だけなんだ。──やれる、かな?」
「!」
セリカの胸の奥に、これまでの人生で味わったことのないほどの、強烈な衝撃が走った
それは、これまでどんなに理不尽で過酷な逆境であろうとも、すべてを自分一人の圧倒的な武力と、誰にも見せない孤独な覚悟だけで解決し、アビドスを、対策委員会のみんなを護り抜いてきた「小鳥遊ホシノ」という絶対的な存在からの
──初めての、心からの、素直な『頼み事』だったからだ
普段のホシノ先輩なら、どれほど瀕死の重傷を負っていようとも、無理にでもへにゃりと笑って「おじさんに任せてよ、大丈夫大丈夫」と、頼もしい、だけどどこか寂しい背中を見せて、自分たちを遠ざけてしまう。あるいは、本当に最悪の戦況でどうしようもなければ「私のことは置いて、みんなは先にいって」と、自分を犠牲にする冷酷な言葉を、迷わず、当たり前のように口にするはずなのだ
その、どちらでもない
自分を置いていけとも言わず、自分一人だけでやるとも言わず
対等な「アビドス高等学校の仲間」として、一人の後輩として、素直に「助けて欲しい」と、弱音を交えて手を伸ばしてくれた
セリカはその言葉の裏にある、ホシノの本当の意味での『変化』と──自分が犯してしまった罪をすべて赦し、その上で自分にアビドスの命運を委ねてくれたという、絶対的な信頼の重みを、確かにその肌で感じ取っていた
「……っ、もう、ほんっとうに……! 人使いが荒いんだから、ホシノ先輩は……っ!」
セリカは、胸の奥から熱く溢れそうになる嬉し涙をグッと堪え、いつもの勝気な、だけどどこか誇らしげで愛おしそうな笑みをその唇に浮かべた
「……分かったわよ。アビドス高等学校2年、対策委員会の有能な『会計』として、その命懸けの依頼、確かにこの場で受注してあげるわ! 破格の特急料金なんだから、後でたっぷり貸しにしておくんだからね、ホシノ先輩!」
「うへへ、ありがと……。最高の会計殿だね。じゃあ、お詫びと言っては何だけどさ、おじさんの足についてるこのエンジニア部特製のサポートギア、剥ぎ取って、セリカちゃんが使いなよ。今の私の体を支えるには完全に出力不足になっちゃったけど、小柄で可愛いセリカちゃんの身体を動かすくらいのサポートなら、まだ残ったバッテリーで十分に機能すると思うよ」
「……ありがとう、遠慮なく使わせてもらうわ!」
セリカはそれまで愛おしく抱きしめていたクロコの身体を、これ以上の衝撃を与えないよう、優しく、丁寧にフロアの瓦礫のない安全な場所へと横たわらせた。そしてすぐにホシノの元へと膝立ちのまま這い寄り、彼女の下半身や腕の関節部分に、頑丈な面ファスナーで綺麗に巻き付けられている外骨格の機械を、手際よく外し始める
不気味な連鎖爆発の地鳴りが響く静寂な空間に、ベリベリ、ベリベリと、テープが強引に剥がれる無機質な音が響く中、ホシノが突然、思い出したように「うへへ」と妙な声を漏らした
「それにしてもさぁ……セリカちゃん、そんなに焦って服の上から剥ぎ取らなくてもいいのに。なんだか手つきがちょっと、おじさんに対してえっちだねー?」
「……っ! 先輩、今が、一刻を争うような最悪の脱出状況じゃなかったら……私、今の一言で、先輩のその締まりのない顔を絶対に全力で殴ってたわよ!?」
「うへ……っ、ご、ごめんなさい……。おじさん、ちょっと緊迫した空気を和ませようと、良かれと思って冗談を言っただけで……ひぇっ、目がマジだよセリカちゃん!」
セリカがジトっとした、それこそ据わりきった据え膳のような冷たい目でギロリと睨みつけると、ホシノは縮こまって「シュン……」と分かりやすく犬のように落ち込んだ
だが、そのいつもの、何でもないコミカルなアビドスのやり取りこそが、セリカの心を完全に支配していた色彩の、テラーの闇を、残さず完璧に払拭していく
「もう、グダグダ言わないのっ!」
セリカはホシノから譲り受けた機械のパーツを、自らの傷だらけの肉体へと、素早く正確に装着していった。骨の砕けた右足だけでなく、だらりと動かなくなっていた左腕の関節部分にも、外骨格の無骨な金属フレームを硬く固定していく
衣服のズレを直し、固定を確認して、胸元のメイン駆動スイッチを押し込んだその瞬間──
ウィィィィィィン……ッ!
と、小気味よい、小さな電子音が広間に鳴り響き、外骨格のギアが力強く、脈動を始めた
「──っ!」
当然、肉体の内側からの骨折の激痛そのものが、魔法のように消えてなくなるわけではない
だが、ミレニアムの技術の結晶である、機械の強力な強制トルクが、肉体の損壊を外側から強引に補正・補強し、先ほどまで床を引きずるしかなかった右足に、確かな大地を再び強く踏みしめるための力が、爆発的に漲っていく
そして何より、先ほどまで神経が死んだようにだらりと垂れ下がっていた左手の指先が──久しぶりに、自らの明確な意志のままに力強く、ガチリと握り込まれた
「よし……動くわ。これならいける……っ!」
セリカは補助駆動の力を借りて素早く立ち上がり、まずは床に気絶しているクロコの身体を、今度は両腕のフレームでしっかりと、お姫様抱きのようにして力強く、愛おしそうに抱き上げた
そして、その状態で床に座り込むホシノの前に、自身の背中を真っ直ぐに向けるようにして深く屈み込む
「ほら、ホシノ先輩! グズグズしてないで、私の背中に、その動かない腕を回してしっかり捕まりなさい!」
「うへへ、それじゃあお言葉に甘えて……。おじさんをおんぶしてね。よいしょっと……」
ホシノが動かない身体を必死に這わせ、セリカの小さな背中へと自らの全体重を預ける
二人の、自分にとってかけがえのない大切な先輩たちの重みが、外骨格の金属フレームを通じて、セリカの両足へとズシリと重く伝わってきた
重い
本当に、信じられないくらいに重い
だけど──この背中と両腕に伝わる重さこそが、自分が今、過ちを乗り越えてここに生きている明確な証であり、自分が命を懸けてでも守り抜くと決めた、アビドスのすべてなのだ
「しっかり掴まっててよ!」
崩落の地鳴りがさらに、地響きを伴って激しさを増し、天井の至る所から大粒の土砂やコンクリート片がバラバラと容赦なく降り注ぐ中。セリカは黒煙の向こうにある出口の通路を真っ直ぐに、その鋭い瞳で見据えて、割れんばかりの声で叫んだ
「それじゃあ、舌を噛まないように気をつけてよね! ──ここから一気に脱出するわよ!!」
補助モーターの駆動音と金属の軋み、そして自身の確かな鼓動を最大まで響かせながら
セリカは、奪われかけた大切なアビドスの日常を、みんなとの未来を今度こそ絶対に取り戻すため。黒煙と爆炎の渦巻く通路へと、力強く、もう二度と迷うことのない決定的な一歩を踏み出した
ーーーーーーーーーーーーーー
一方その頃。砂塵と濃密な硝煙が不気味に渦巻く、要塞基地の外部では──
カイザーコーポレーションの元理事との泥沼の因縁に、文字通り完全な決着を付け、満身創痍になりながらも辛うじて最前線から離脱した一同が、そこにいた
彼女たちは、内部からのエネルギー暴走と累積した構造破壊により、今まさに限界を迎えて内側から激しく爆散し始めている巨大な管理棟の塔を、ただ、言葉を失って呆然と見上げ続けていた
「ね、ねえ……本当に、本当に大丈夫なのよね……!? 嘘だって言ってよ……!」
便利屋68の社長、陸八魔アルは情けない悲鳴を上げた。包帯と硝煙にまみれた身体をガタガタと震わせながら、膝の上には気絶したムツキとカヨコを乗せ、背中には精根尽き果てて眠るハルカを必死に抱え込んでいる。その姿は、まるで雛鳥を必死に守る不器用な母親のようだった
紅蓮の火柱を不気味に吹き上げる黒い巨塔を見つめ、アルは気が気でない様子で叫ぶ
「……私たちが今陣取っているこの退避位置なら、あの管理棟の塔が仮にこの瞬間、完全に全壊したとしても、その瓦礫の直接的な直撃を受けるような被害判定は出ないわ。二次災害に巻き込まれる心配はない。そこは、安心していいわよ」
そのすぐ横に、凛とした佇まいで佇むヒナが、いつもの戦場における鉄の冷静さを保った口調で淡々と告げる
「違うわよ! 違うのよ風紀委員長!! 私が今これだけ大騒ぎして心配してるのは、退避場所の安全性のことじゃなくて……あの中に残された、あの二人のことよ!!」
アルは膝の上の三人を落とさないよう必死に配慮しながらも、両手を大袈裟にぶんぶんと振り回しながら、狂ったように必死に叫んだ
「あのクロコって子と、セリカテラー……! さっきから上であんな、地響きがここまで伝わってくるほどの凄まじい音を立てて殺し合ってたのよ!? このままあんな、巨大な建物ごと生き埋めにでもなったら……いくら頑丈なキヴォトス人だって、ただじゃ済まないわよ……!」
「わ、私も……私も、胸が張り裂けそうなくらい本当に心配です……。さっき、あの最上階から響いていたアサルトライフルの冷たい銃撃の残響が、完全に聞こえなくなってから……もう、かなりの時間が経っています……」
アヤネもまた、完全に電波が遮断されてザザ……と砂嵐のノイズしか返さない、インカムの通信スイッチを何度も何度も泣きそうになりながら叩き、その小さな身体を縮こまらせて不安を押し殺すように塔の最上階を見上げる
「うう……。私も、もう少しこの身体が元気でしたら、今すぐにでもあ、上に突入してお二人を回収しに行きたかったのですが……」
ノノミもまた、普段の華やかなお嬢様らしい衣服のあちこちを戦闘の爆炎で真っ黒に焦がした状態で、乾いた砂地面にへたり込むようにして座り込み、自身の愛銃であるミニガンの銃身にぐったりと寄りかかりながら、悔しそうにその美しい眉をきつくひそめていた
そんな、誰もが最悪の結末を想像して言葉を詰まらせる絶望的な空気のなか
ただ一人、バックから金属の擦れる音も軽やかに予備の弾倉を取り出し、カチャ、カチャカチャ……と無機質で、冷徹な音を響かせながら、愛用のアサルトライフルに淀みない手つきで再装填していた現在のシロコが、静かに、しかし決然と口を開いた
「ん……大丈夫。何も問題ない。もう一人の私なら、これくらいの修羅場や世界の終わりは、それこそ過去に何度も何度も、潜り抜けてる。そう簡単にくたばったりしない。絶対に」
感情の起伏を排し、冷淡にそう言い切るシロコだったが──
その頭上でピンと立っている獣耳は、隠しきれない強い不安と焦燥から、ピクリ、ピクリと小刻みに不自然に揺れ動いており。そのオッドアイの鋭い視線は、ソワソワとせわしなく、何度も何度も塔の正面出口付近の暗闇を往復していた
彼女自身、内心では生きた心地がしておらず、今すぐにでもあの中へ飛び込みたい衝動と必死に戦っているのが、周囲の誰の目から見ても丸分かりだった
「だ、大丈夫よ、みんな……! きっと、何があっても絶対に、全員無事で帰ってくるんだから! だって……ホシノ先輩が、今、あの子たちのいる最上階に向かってるのよ!?」
緊迫し、凍りつきかけていた荒野の空気を無理やり切り裂くように
この世界、この時間軸の「アビドスのセリカ」が、自身の両拳を真っ白になるまで力強く握りしめ、周囲の仲間たちを鼓舞するように、無理に明るく元気に振る舞うような声を響かせた
その言葉に、絶望の表情を浮かべていたアヤネが、驚いたようにパッと顔を上げる
「え……? セリカちゃん、今なんと言いましたか……? ホシノ先輩が、上の戦場に向かってるんですか……っ!?」
首を激しく傾げ、半信半疑の表情を浮かべるアヤネに対し、セリカは少し得意げに、自慢の先輩を誇るようにその薄い胸を張りながら、何度も力強く頷いた
「ええ、そうよ! 病室で私が直接、先輩の胸ぐらを掴むくらいの勢いで説得して、目を覚ましてもらったんだから。あのホシノ先輩が、直接あの子たちのところに行ったのよ? 先輩がいけば、どんな地獄だって絶対に何とかしてくれるわ。……ね? そもそも、そこのゲヘナの風紀委員長が、ホシノ先輩を上まで安全に送り届けてくれたのよね?」
セリカの、すべてを見透かしたような鋭い視線が、不意に、隣に立つヒナへと真っ直ぐに向けられた
今回の救出作戦において、自由に体が動かないホシノを手助けしたヒナの、不器用で粋な計らいの核心を突いたのだ
突如として、アビドスの後輩からすべての真相を白日の下に晒される形で話を振られた空崎ヒナは──
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、いつもの完璧な委員長らしからぬ気まずそうな表情を浮かべ、その美しい紫の瞳を僅かに泳がせた。しかし、すぐにフイッと首を大きく横へ振って顔を逸らし、小さな子供が拗ねたような態度を取る
「……ゲヘナ学園風紀委員会としては、今の対策委員会からの質問に対して、一切の黙秘権を行使させてもらうわ。私はただ、私の休日を潰した名前も言えない友達に頼まれただけよ」
「それ…ほとんど『はい、その通りです』って、答えてるのと同じなのでは……?」
地上に深く座り込んだままのノノミが、ヒナのどこまでも素直になれない、だけど温かい不器用な優しさに気付き。その口元を緩め、クスリと愛おしそうな苦笑いを優しく漏らす
そんな、アビドス対策委員会と便利屋68、そしてゲヘナの風紀委員長が、互いの絆を確かめ合うように言葉を交わしていた、まさにその瞬間のことだった
ズガァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!!!
一際激しい、これまで荒野に響き渡っていたどの銃声や爆音とも、比べ物にならないほどの天を衝く大轟音が、静寂な夜の荒野全体に激しく鳴り響いた
管理棟の巨体をこれまで辛うじて支え続けていた、強固なコンクリートの主柱たちが、内側からの爆圧に耐えかねて、ついに完全に中央からへし折れ──
カイザーコーポレーションの数多の陰謀と歴史をその身に刻んできたあの黒い巨塔が、自らの巨大な自重に耐えかねて、まるで生き物が断末魔を上げているかのように真っ二つに折れ曲がりながら。膨大な量の土砂、コンクリートの豪雨、そして眩いばかりの電力の火花を周囲の空間に撒き散らし
──ついに、跡形もなく、完全にその場に崩壊し、瓦礫の山へと帰した
凄まじい規模の質量崩壊が巻き起こした衝撃波の暴風が、荒野の乾いた砂を猛烈な勢いで巻き上げ
遮光のカーテンのような巨大な砂埃の壁が、そこに立ち尽くす一同のすべての視界を、瞬時にして、完璧に覆い尽くしていった
「ちょっとーーーーっっっ!? 嘘でしょ、嘘でしょ、嘘でしょっ!? 建物が、跡形もなく完全にペッちゃんこの木端微塵に崩れたじゃないのよっ!? クロコは!? セリカテラーは!? 二人とも、一体どうなっちゃったのよーっっ!!」
アルが文字通り自らの頭を両手で激しく抱え込み、荒野のど真ん中で完全に理性を失って発狂し始めた。そのあまりの動転ぶりに、彼女の膝の上で辛うじて眠っていたムツキやカヨコが「うう……」と小さく身悶えする
アルの横では、状況を正しく把握したアヤネやノノミも完全に顔を青く硬直させ、最悪の結末を脳裏に思い浮かべて、呼吸をすることすら忘れたように言葉を失っていた
しかし、そのモウモウと視界を遮るように立ち込める、巨大な砂埃のスクリーンの向こう側から──
ザザ、ザザザザッ!! と、不自然に周囲の空気を切り裂きながら、一つの奇妙で、それでいて強烈な『影』が、凄まじい推進速度でこちらに向かって突進してくるのが見えた
「あ、あの……みなさん? 私の見間違いでなければ、あの濃い砂埃のカーテンの中から、ものすごい勢いで、何かがこっちに猛ダッシュで走ってきてませんか……っ!?」
アヤネが血の気の引いた顔のまま、ずり落ちそうになった眼鏡の位置を震える指先で直しながら、呆然とした様子で前方の一点を指差した
その言葉に、それまで弾倉を弄っていたシロコが瞬時に銃口を下げ、ヒナも紫の瞳を鋭く細めて、砂塵の向こう側から迫り来る人影を無言で凝視した。激しい砂漠の風が砂塵をさっと横へと流し、徐々に、しかし確実に、その人影の輪郭がハッキリと白日の下に露わになっていく
「おーーーい!! みんなーーーっっっ!!! ただいまーーーっ!! 無事に帰ってきたよーーーっ!! 」
「ちょっとっ!! ホシノ先輩っ! 私、今足のサポートギアの出力だけで強引に走ってるんだから、背中でそんなにバタバタ暴れないでよっ! 重心のバランスが崩れて、みんなまとめて派手に転んじゃうでしょ!!」
視界の霧が完全に晴れた瞬間、一同の目に飛び込んできたのは──あまりにも突飛で、荒唐無稽で、だけど、これ以上ないほどに『アビドス高等学校対策委員会』らしい、あまりにも騒がしくて愛おしい日常の光景だった
エンジニア部特製の補助モーターをキチキチ、ウィィィィンと激しく、壊れかけの悲鳴のように鳴らしながら、骨折しているはずの右足の痛みを微塵も感じさせない驚異的な全力ダッシュで突き進んでくるセリカテラー。そして、その背中には、電流の過負荷でピクリとも動かないはずの両腕をぶんぶんと何故か楽しそうに振り回しながら、満面の笑みを浮かべてこちらに大きく手を振っている、アビドス最高戦力の小鳥遊ホシノの姿があった
さらに、驚くべきことに、走るセリカテラーの両腕の中には、病魔による急激な衰弱で完全に気を失い、ぐったりとしているもう一人のシロコ──クロコの身体が、まるでお姫様抱っこをされるような格好で、しっかりと、そして世界で一番大切な宝物を扱うかのように抱え込まれていたのだ
「さ、3人とも……っ! 3人とも、無事に、私たちのところに帰ってきましたーーーっっ!!!!」
アヤネが、それまでの絶望が嘘だったかのように、堰を切ったように嬉しそうな歓声を上げてその場でぴょんぴょんと激しく飛び跳ねた
その元気な姿を目撃した瞬間、ノノミは全身の痛む身体の悲鳴も忘れ、真っ先に地面を強く蹴って立ち上がり、シロコは愛用のアサルトライフルをその場に無造作に放り出し、この世界のセリカもまた、「もうっ……! 本っ当に、いつもいつも心配ばっかりさせて……っ!」と嬉し涙をボロボロと溢れさせながら、全力でそちらの方へと駆け出していった
「クロコちゃん! セリカちゃん! ホシノ先輩っっ!!」
「ん……おかえり、もう一人の私。おかえり、セリカ」
アビドス対策委員会のメンバーたちが、未だに硝煙の漂う砂塵の中でしっかりと一つに重なり合い、お互いの温もりと無事を確かめ合うように、荒野へと歓喜の声を響かせる
あとに残されたのは、ただぽつんと荒野の真ん中に取り残されたゲヘナの風紀委員長・空崎ヒナと、膝の上の三人の部下を起こさないように、未だにカチコチに固まっている便利屋68の面々だけだった
「……ねえ、アル」
ヒナは、自分よりも一回りも二回りも小さな後輩に、怪我人であるはずなのに嬉々として背負われながら、「うへへー、セリカちゃんのおんぶは温かいねぇ」などとだらしなく笑っている、アビドスの現生徒会長の姿をじっと見つめながら、ひどく困惑したようにその小さな首を傾げた
「小鳥遊ホシノ……。彼女、一体何をしに、あの危険な最上階へ行ったわけ? 瀕死の重傷を負ってまで仲間を助けに行って、なんで最終的に、自分が後輩に背負われて、あんなに幸せそうに満面の笑みで帰ってきてるわけ……? 」
あまりにもゲヘナの戦術理論、いや、キヴォトスの常識の範疇を超えすぎているそのアビドス独自の光景に、ヒナの眉間には、これまでにないほど深い皺が刻まれている
そんな、真面目すぎる風紀委員長の呆然とした様子を見て、社長のアルは膝の上で気持ちよさそうに眠るムツキとカヨコ、そしてハルカの頭を愛おしそうにそっと撫でながら。どこか呆れたような、しかし、胸の奥底からホッとしたような、本当に優しい苦笑いをその唇に浮かべた
「まぁ、いいじゃないの、風紀委員長。……何はともあれ、理屈なんてどうだっていいのよ。あの子たちはみんな、無事に、自分たちの『おうち』に帰ってきたんだからさ。それが一番、ハードボイルドでしょ?」
「……そうね。確かに、それ以上の正論はないわ」
崩壊し、瓦礫の山と化したカイザー要塞基地の向こう側
夜の帳を完全に切り裂いて登りきった、眩いばかりの濁りのない日の光が、ついに荒野の暗闇を完璧に払い、地平線の彼方から世界を黄金色に染め上げていく
それは、かつて滅び去ってしまった世界から繋がれた、あまりにも永く、冷たい孤独な夜の終わりを告げる光
過ちと絶望を乗り越えて帰ってきた、少女たちの眩い笑顔を、どこまでも優しく、暖かく照らし出していくのだった
めちゃくちゃ長くなってしまいました…次回、エピローグとなります!
シリアスが続いたのではっちゃけるかも