救われたかったセリカ   作:気弱

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エピローグ 行ってきます!

完全に崩壊したアビドス砂漠の管理棟。かつては傲然とそびえ立っていたその巨塔が、内側から激しく炸裂した爆炎によって骨組みをひしゃげさせ、大地を揺るがす地鳴りと共に、大量の砂塵を巻き上げて荒野へと崩れ沈んでいく

 

理事が敗北し、完全に戦意を喪失したカイザーPMCの兵士たちの情けない敗走の叫び声と、鉄骨やコンクリートがガラガラと崩落していく絶望的な重低音だけが、不毛な砂漠の空に虚しく響き渡っていた

 

その黒煙と爆炎が渦巻く、文字通りの地獄の底から──

 

ミレニアムサイエンススクール製の補助モーターを「キチキチキチ……」と限界まで軋ませ、内部のギアが火花を散らすほどの過負荷をかけながら、なんとかホシノとクロコの二人を連れて、奇跡的な脱出を果たしたセリカテラーの姿があった

 

視界を最悪なまでに遮る、モウモウと立ち込める砂埃の灰色のスクリーンの向こう側。千切れかけた身体の痛みに耐えかねて、一歩、また一歩と今にも崩れ落ちそうなほど危うい足取りで這い出てくる、3人の痛々しいシルエット

 

それを、砂丘の上から息を呑んで見つめていたアヤネが一番最初に視認した。彼女は眼鏡の奥の瞳に大粒の涙をいっぱいに浮かべながら、ちぎれんばかりに大きく両手を振り、喉が張り裂けんばかりの、狂ったように嬉しそうな声を上げて真っ先に駆け寄ってきた

 

「──みんなっ! セリカちゃん達が、セリカちゃん達が帰ってきましたーーーっ!!!」

 

アヤネのその魂の叫び声を合図に、あまりの光景に呆然と立ち尽くしていたこの世界のセリカ、ノノミ、そして現在のシロコもまた、ハッと我に返った。各自の痛む身体に鞭を打ち、彼女の後に続くようにして砂を蹴り、全力で走り出す

 

「セリカちゃん……っ! 本当に、本当に、よかった……っ! 無事に、ちゃんと、私たちの『いつも』のセリカちゃんに戻れたんですね……っ!!」

 

アヤネが激しく息を切らせ、足をもつれさせながらも3人の元へと一番に到着する

 

ほんの少し前までは、キヴォトス全域、そしてアビドスを脅かす「色彩」の脅威たる存在として、恐怖と警戒を込めて『セリカテラー』と呼んでいた。けれど、こうしてボロボロになりながら、自らの命を削ってまで大切な仲間を守り、生きて帰ってきてくれたその姿を目の当たりにした瞬間、胸の奥から溢れ出た愛おしさと嬉しさのあまり、アヤネは彼女のことを、ごく当たり前のように、ただ一人の大切な家族である『セリカちゃん』と呼んで、その小さな身体を強く抱きしめようとしていた

 

「ほら、ホシノ先輩! いつまでもおんぶされて甘えてないで、こっちに身体を移しなさいよ! もう1人の私だって、見て分からないの!? 骨の髄までボロボロなんだから!」

 

この世界のセリカが、涙で視界を滲ませながらも、いつもの強気な口調でセリカテラーの背中から、ピクリとも動かないホシノの身体を優しく、だけど少し怒ったように引き取る

 

「うへぇ〜……。ごめんねぇ、セリカちゃんに、セリカテラーちゃん。最後の最後でおじさんが、後輩たちに迷惑をかけちゃうなんてねぇ……」

 

ホシノはへにゃりと情けなく眉を下げて苦笑いしながらも、元の世界では失われてしまった、そしてこの世界でも失いかけていた後輩の確かな体温に心底安心したように、その身体を現在のセリカへと完全に預けた

 

「ん……。もう一人の私は、こっちで預かる。本当に……よく頑張ったね、私」

 

間髪入れずに現在のシロコが静かな足取りで歩み寄り、セリカテラーの両腕の中で完全に気を失っていたクロコの華奢な身体を、そっと宝物のように大切に抱き上げ、自らの胸へと回収した

 

二人という、自分にとって地球よりも、全宇宙よりも重かったはずの、かけがえのない大切な先輩たちの質量が──

 

その手から、その背中から、完全に離れた瞬間

 

セリカテラーの肉体は、まるで一本のちっぽけな羽毛のように、ふわリと信じられないほどに軽くなった

 

(ああ……。本当に、ちゃんとみんな無事で……。私の大好きな、あの優しくて、でも怒ると誰よりも怖いアヤネちゃんだ……。ノノミ先輩も、シロコ先輩も……こっちの私も、みんな、みんな、そこに生きている……。夢じゃ、ないんだ……)

 

あまりにも巨大で、圧倒的な安堵の波が、一気に彼女の全身の神経を包み込んでいく

 

「……セリカちゃん? どうしたんですか……?」

 

アヤネがふと、駆け寄ったセリカテラーの様子が何かがおかしいと察したように、涙を拭いながら小首を傾げた

 

それと同時に、セリカテラーの右足と左腕に無理やり装着されていたホシノのサポートギアから、プスン……と黒い煙と共に虚しい火花が散り、ウィン……という不自然な機械の駆動音が、急速に小さくなっていく

 

瀕死の肉体を強引に動かし、主人の悲願を達成するために限界を超えて出力を上げ続けていた電動外骨格は、主たちを安全な荒野へと送り届けたことで、ついにそのすべての役目を終えたかのように、静かに完全停止した

 

しかし、セリカテラー自身は、なぜ目の前のアヤネちゃんがそんな風に怪訝そうに眉をひそめているのか、その理由がよく分からなかった

 

それもそのはずだった

 

セリカテラー自身の脳内では、みんなの顔を見て心の底から溢れ出た喜びの言葉、感謝の言葉、謝罪の言葉を、口を大きく開けて必死に話しているつもりだったのだ

 

「みんな、ただいま!」「ホシノ先輩を連れてきたよ」「シロコ先輩を助けられたよ」と、大声で叫んでいるつもりだった

 

しかし、現実の彼女の肉体には、言葉としての音声を紡ぐためのエネルギーは一滴も残されておらず、実際には一切の声が発せられていない。ただ、酷く虚ろで、光を失った焦点の合わない瞳のまま、だらしなく口を少し開けて、じっとアヤネやみんなの顔を、無言で見つめ続けているだけだったのだから

 

(あれ……? おかしいな……。アヤネちゃん……達の顔が……急に二重にも三重にも、ブレて見える……。さっきまであんなに明るかった世界が、どんどん……真っ暗になって……)

 

先ほどまでの、クロコとの文字通り命を削り合うような凄まじい死闘。その最中に、全身の無数の傷口から流しすぎてしまった、大量の赤い血

 

本来なら、その場に倒れ伏していてもおかしくない致命的な大失血のダメージを、彼女はただ、「シロコ先輩を何が何でも絶対に救いたい」「ホシノ先輩をみんなの待つアビドスへ連れて帰りたい」という、魂そのものを燃料にして燃やすような執念と気迫だけで、無理やりカバーしていたに過ぎなかったのだ

 

そして、その張り詰めていた生命の細い糸も──最愛の仲間たちの笑顔と、その無事を確認したことで、ついに完全な限界を迎えた

 

「──セリカちゃん!?」

 

アヤネの、喉を引き裂くような絶望的な悲鳴が響く

 

「 ちょっと、しっかりしなさいよ! 目を開けなさい!!」

 

こっちの自分の、涙に濡れた焦燥と恐怖の叫びが、遠くで木霊する

 

(あ、これ……ちょっと、本気でやばいかも……。ごめん、みんな……。私、ちょっとだけ……休憩、させて……ね……)

 

みんなの驚愕と恐怖に満ちた叫び声が、まるで深い深い水の中に沈んでいくかのように、どんどん遠くの方へと遠ざかり、こもっていくのを感じながら

 

セリカテラーは支えを完全に失った操り人形のように、その場に糸が切れたように崩れ落ちて倒れ込み、今度こそ完全に意識を手放して、温かくて深い、深い暗闇の底へと、心地よく身を委ねるように沈んでいった

 

ーーーーーーー

 

暗い

 

あまりにも暗く、そして骨の髄まで底冷えするような、息の詰まる静寂がすべてを支配している

 

「ここは……どこ、なの……?」

 

上下左右の概念すら曖昧になるほど、すべてがどこまでも深い漆黒に染まった、底の抜けた無の空間

 

先ほどまで、自分は確かにあの光に満ちたアビドスの荒野で、大好きなアヤネちゃんたちの前に辿り着き、みんなの腕の中で倒れたはずなのだ。あの時、確かに感じた仲間たちの温かい手の感触も、鼓膜を震わせた必死の叫び声も、今はもう何も聞こえない

 

(……もしかして私……死んじゃったのかな……?)

 

ふと、そんな最悪の思考が頭をよぎり、胸がキュッと締め付けられる。

 

あれだけの致命的な大失血だ。ここまで肉体が限界を迎えていたのなら、あのまま旅立ってしまっていてもおかしくはない。けれど、もし本当にそうだとしたら、なぜ自分は、またこんな息の詰まるような、寂しくて冷たい場所に一人で取り残されているのだろうか。天国や地獄というよりは、まるで世界の底に放り出されたかのような感覚だった

 

「──理解できぬ」

 

自らの思考の海に沈みかけていたその時、突如として、遥か頭上から降ってくるような、あるいは脳髄に直接響くような、抑揚のまったくない酷く平坦な声が響き渡った

 

心臓を直に掴まれたような悍ましい悪寒に襲われ、セリカテラーは慌ててその声を追って振り返った

 

立ち込める闇の向こう側、そこには──キヴォトスのいかなる学園の生徒でも、市民でもない、異様な姿をした者たちが佇んでいた

 

全身を、汚れ一つない純白の装束で包み。その顔面には、一切の感情や人間性を排した不気味な仮面。頭部には、まるで何かを崇拝するかのように厳かな、白い帽子のような物を戴いている。衣服の隙間から辛うじて見えるその手は、人間のそれとはかけ離れて干からび、生気など微塵も感じられない。まるで冷徹な職人が切り出した、硬質な石の彫刻のそれだった

 

そんな悍ましくも怪しい人物が3人、音もなく空間に浮かびながら、一斉にセリカテラーの方へとその冷酷な視線を向けていた

 

「理解できぬな。貴様には、『色彩』の嚮導者になり、この世界をあるべき終わりへと導く存在になり得る、大いなる力を与えたのだ」

 

「それを、我々の手から離れてしまった、あの不完全なる『アヌビス』に負けるとはな。数多の世界の怨嗟を吸い上げたそのテラーの身でありながら、無様に敗北を喫するなど、到底計算に合わぬ」

 

「やはり、貴様ごときの矮小な憎しみに、我々が神聖なる計画を賭けた事自体が、大いなる間違いだったとでも言うのか。期待外れの器め」

 

「………………」

 

3人が代わる代わるに吐き捨てる傲慢な侮蔑の言葉を聞くうちに、セリカテラーの全身の血が、一瞬で沸騰するような激しい怒りへと変わっていく

 

こいつらが吐き出している難解な言葉の、本当の意味や理屈なんて、今の自分にはこれっぽっちも理解できない

 

だけど──確信だけはあった

 

元の世界で、左腕と片耳の機能を失い、ただガラクタのように砂漠で野垂れ死ぬだけだった自分の身体を無理矢理生かし。それだけでなく、頭の中に直接泥を流し込むようにして、ホシノ先輩やみんなに対するドス黒い憎しみを四六時中植え付け、私をこんな醜い化け物へと変え、都合のいい操り人形でいさせたのは──他ならぬ、目の前にいるこいつらなのだと

 

「やはり、あの『アヌビス』を手放してしまったことは、我々にとっての最大の誤算だったのだ」

 

(……それ……どういう意味よ。何が誤算だって言うのよ、あんたたち)

 

怒りのあまり、仮面の連中に向かって口を大きく動かし、言葉を吐き捨てたつもりだった。だが、この物理法則の通じない暗黒の空間では、やはり彼女の声は一切の音声としては発せられない。しかし、無名の司祭たちは、セリカテラーの魂が激昂と共に紡いだ言葉を完全に聞き取っているかのように、仮面の奥から淡々と、小馬鹿にするように返事をした

 

「言葉通りの意味だ。我々が『アヌビス』という崇高なる死の力を、シロコという名の娘に与えたのだ。世界の理を反転させ、終焉を呼び寄せるための究極の鍵としてな。……それを、たった一人の人間の、驕った執念ごときによって台無しにされてしまったのだ。あの『先生』という不確定要素によって」

 

(っっっ──!!!!)

 

セリカテラーは両の瞳を大きく見開いて、激しい驚愕にその満身創痍の身を震わせた

 

自分という存在を、人生を、アビドスを弄ばれただけでも怒りが爆発しそうなのに。こいつらは、自分たちのいた元の世界における唯一の生き残りであり、あの地獄のような終末を、血を吐きながら一緒に泥をすすって生き抜いてきた最愛のシロコ先輩にすら、同じように呪いのような手をかけ、その運命を無惨に狂わせていたのだ

 

その残酷極まりない事実が、彼女の胸の奥の逆鱗を、これ以上ないほどに激しく、容赦なく逆撫でした

 

「貴様が、その身に宿した神格──『慈愛のハトホル』を、あの場に呼び起こす事すら出来なかった事は、我々の計画における最大の誤算だ」

 

「『慈愛のハトホル』さえ、あの戦場に完全なる顕現を果たしてさえいれば、世界の反転は容易であったものを。すべてを無へと還す崇高なる儀式は、寸前で瓦解した」

 

闇の奥から、無名の司祭たちの抑揚のない呪詛が重なり合う

 

──慈愛のハトホル

 

暴走していた自分が、ホシノ先輩たちへの歪んだ復讐と同時に、その身体を通じて進めていたもの。結局は、自分という器がみんなの力によって倒されたおかげで、その怪物の顕現は未遂に終わった。けれど、セリカ自身、そのハトホルなんて不気味な名前は、今まで生きてきた中で一度も見たことも、聞いたこともなかった

 

だが、こいつらにドス黒い憎しみを植え付けられ、色彩の狂気に染まって暴走していた時──自らの脳内に強制的に流れ込んできた、おぞましくも神聖な、世界の終わりの『記憶』が、一瞬にして脳裏を鮮明に過った

 

慈愛のハトホル──

 

それは、すべてを慈しむように、天からその巨大な白磁の両手を広げた、圧倒的な異形の存在

 

その巨大な両手で世界を優しく包み込むだけで、その絶対的な領域に存在するすべての敵対者、すべての生命、すべての概念を、一切の苦痛を与えることなく一瞬で無力化し、塵へと浄化する終滅の権能

 

もし──あの戦場で、自分の肉体からそんな超越的な化け物が完全に顕現してしまっていたら

 

自分の命はもちろんのこと、せっかく地獄の底から助け出せたクロコも、無理をして駆けつけてくれたホシノも、あの場にいた対策委員会のみんなも、便利屋のアルたちも、そしてゲヘナの風紀委員長だって……全員が抵抗する術もなく、一瞬でこの世から消滅させられていただろう

 

それを解き放つということは、この世界に、抗うことすら許されない「優しい終焉」を迎えさせるということと同義だったのだ

 

「だが、すべてが終わったわけではない。この者の内奥にある憎しみは、未だ完全に消え去ったわけではないのだからな」

 

「そうだ。我々が植え付けた滅びの芽は、完全に枯れ果てた訳では無い。色彩の残滓は、その魂の傷に深く根を張っている」

 

「いつか、その因果の芽が再び芽吹く時──その時こそ、我々の永きにわたる彼岸は、確実に達成されるであろう。貴様は再び、我々の傀儡となるのだ」

 

(……あんた達、さっきから黙って聞いてれば……好き勝手な事ばかり、言ってんじゃないわよ……ッ!)

 

「む……」

 

感情のない仮面の奥で、司祭の一人が微かに狼狽したような声を漏らした

 

セリカテラーは、自分を都合のいい破滅の道具として扱い、挙句の果てには大切な仲間たちの世界をも再び滅ぼそうと、好き勝手な妄想を語る司祭たちに対して、とうに我慢の限界を迎えていた

 

未だに指一本ピクリとも動かない満身創痍の精神体でありながら、その鋭い瞳に、色彩の昏い輝きを容易く凌駕するほどの、烈火のごとき強い意志の光を宿す。そして、目の前にいる傲慢な神々を正面から射殺さんばかりの勢いで睨みつけた

 

(例え……私のこの身体のどこかに、まだあんた達の植え付けた憎しみとやらが、しぶとく消えずに残っていたとしてもね……。そんな悍ましい話を直に聞かされて……はいそうですかって、あんた達の思い通りにむざむざと操られてあげるわけ、ないでしょ……!)

 

「驕るな、バステトよ。貴様程度の、塵芥に等しい一過性の意思の力で、悠久なる神々の意志と、定められた破滅の力を越えられるとでも思っているのか」

 

「理を解さぬ矮小な生命め。貴様がどれほど拒もうと、残された怨嗟の泥は、いずれ貴様の肉体と精神を内側から食い破る」

 

無名の司祭たちの、それまで機械のように平坦だった声の中に、初めて明確な「不快感」と、微かな「焦り」の混じった、不穏な地鳴りのような響きが混ざり始める。言い返されることなど微塵も想定していなかった神々の、冷酷な仮面が微かに歪んだように見えた

 

しかし、セリカは、そんな神々の圧倒的な威圧の前に、これっぽっちも怯むことはなかった

 

(誰がバステトよ、勝手に他人の名前を書き換えないで! 私には黒見セリカって、みんなが呼んでくれる大事な名前があるのよ!)

 

彼女の唇には、あの夕暮れの教室で、みんなと一緒に笑い合っていた時と同じ──いつもの、絶対に諦めない、生意気で勝気なアビドスの会計としての不敵な笑みが浮かんでいた

 

(それにお生憎様。言っておくけど……私はもう、あの絶望的な世界の終わりに一人で泣いていた、孤独な生き残りなんかじゃないのよ)

 

今、自分の背中には、無理をしてでも助けに来てくれた、不器用だけど最高に強い先輩がいて

 

自分の両腕には、世界の果てでようやく再会できた、大切なもう一人の先輩がいて

 

そして、暗闇から這い出た先には──「おかえり」って、ボロボロになりながら涙を流して私の名前を呼んでくれる、温かいアビドスの仲間たちが、帰るべきホームが、確かに待っているのだから

 

「……何だと? 貴様、何を……」

 

「我々の言葉が、呪縛が、薄れていく……? 馬鹿な、色彩の侵食を、個人の絆ごときで押し留めるなど、あってはならぬ……!」

 

司祭たちの声が、初めて明白に激しく動揺し、その純白の装束が闇の中で不自然に揺らぎ始める。完全に主導権を奪われ、一介の生徒の言葉の力に圧倒されている己の現実に、彼らは激しい戦慄を覚えていた

 

(あんた達の、世界の誰も救わないどうでもいい信仰だか計画だかなんてね──今の私には、これっぽっちも興味が無いのよ。──だから、さっさと私の……私たちの前から消え失せなさい!!)

 

彼女の魂の最深部から放たれた、絶対的な拒絶と絆の輝きが、すべてを支配していた暗黒の空間を一瞬にして白銀の光で爆発的に満たしていく

 

「おのれ……! その選択を、生涯後悔することになるぞ……! 破滅は、破滅だけが正しい終着点なのだ……!」

 

光に焼かれ、仮面をボロボロと崩しながら、司祭たちは呪詛のような悲鳴を上げた

 

(ふん……好きに言ってなさい。あんたたちの負け惜しみなんて、これっぽっちも怖くないわ。ここに残った憎しみすら、これからみんなと一緒に、全部綺麗に取り除いてやるんだから!)

 

無名の司祭たちの醜い姿が、眩い光の渦に呑まれて完全に掻き消えていくのを確かに見届けながら──セリカテラーは、今度こそ本当に、愛おしい仲間たちの待つ、暖かな現実の目覚めへと、力強くその意識を引き上げていくのだった

 

ーーーーーーーー

 

また、暗闇だった

 

だが、先ほどまであの不気味な無名の司祭たちと対峙していた、魂まで凍りつかせるような虚無の漆黒とは、決定的に何かが違っていた。肌に触れる空気が優しく、五感がゆっくりと、しかし確実に現実の肉体へと引き戻されていくのを感じる

 

最初に覚醒したのは、嗅覚だった。鼻腔をくすぐるのは、どこか厳かで清潔な消毒液とアルコールの鋭い匂い

 

次いで、聴覚が現実の音を拾い上げる。耳の奥には、規則正しく、静かに響き続ける「ピッ、ピッ、ピッ……」という医療用モニターの電子音。それが、自分の心臓がまだ辛うじて脈打っていることを証明するように、静かに鳴り響いていた

 

セリカテラーは、まるで鉄の塊でも括り付けられているかのように重たい瞼を、信じられないほどの労力を費やして、ゆっくり、ゆっくりと押し上げた

 

最初に向かい入れた視界は、ひどく眩しい、見慣れない純白の天井だった

 

「っ……、いたっ……あぁ……っ……!」

 

意識がハッキリと覚醒したその瞬間、先ほどまでは執念と気迫だけで完全に麻痺させていたはずの、筆舌に尽くしがたい凄まじい激痛が、津波のように津々浦々の神経を駆け巡り、全身の肉体を容赦なく打ちのめした

 

「う、くぅ……っ……!」

 

まるで全身の骨を細かく砕かれ、肉を裏返しにされたかのような痛みに、彼女は思わず歯を食いしばりながら、小さな悲鳴を漏らす

 

ピクリとも動かない満身創痍の身体。脂汗を流しながら、首だけを辛うじて横へと動かしてみると、そこには至る所に痛々しいほど幾重にも包帯が巻かれ、純白の病院着のあちこちが、自らの流した黒く濁った色彩の血や泥によって、赤黒く汚れてしまっている無惨な自分の姿があった

 

「……はぁ、くっ……、ここ……は……? 私……まだ、生きてる……の……?」

 

あまりの激痛に視界がチカチカと点滅し、朦朧とする頭のまま、ひび割れた唇から掠れた声を絞り出す。周囲を見渡すと、大きな窓の外には静かな夜の帳が降りていた。どうやらここは、どこかの医療施設の、個室のベッドの上のようだ

 

すると、カチャリと静かにガラス瓶が触れ合う音がして、ベッドの傍らから、温かい、だけどどこかおっとりとした医療従事者の声が降ってきた

 

「あ、気が付きましたか? でも、無理に動いちゃダメですよ。今、強い鎮痛剤を点滴に混ぜますからね」

 

そこには、手際よく点滴のボトルを新しいものへと交換していた、頭の上に小さな十字の紋章が入ったナースキャップを載せ、優しげなピンク色の髪をなびかせた一人の女の子が、心配そうにこちらを覗き込んでいた

 

「……あん、た……は……? ここは……どこ……」

 

セリカテラーが警戒を隠せない瞳で問いかけると、その看護師の少女は、彼女の強張った心を解きほぐすように、ニッコリと聖母のような優しい微笑みを浮かべた

 

「はじめまして。私の名前は鷲見セリナ。トリニティ総合学園の救護騎士団に所属しています。そしてここは──アビドス中央病院の特別病棟ですよ」

 

「アビドス……病院……。じゃあ、みんなは……?」

 

「安心してください。ホシノさんも、もう一人のシロコさんも、みんな無事です。他の対策委員会のみなさんも、少しお疲れですけど、大きな怪我もなく元気ですよ。あなたが最後まで、必死に守り抜いたおかげです」

 

セリナはそう言って、セリカテラーの胸元まで布団を優しくかけ直してくれた

 

セリナの丁寧な説明によると、あの崩壊する要塞基地でのクロコとの熾烈を極めた死闘、そして限界を迎えた巨塔からの命懸けの脱出──そのすべての行程において、セリカテラーの肉体にかかっていた負荷と、致命的なレベルにまで達していた多量失血が限界を迎え、仲間たちの元へ辿り着いて安心した瞬間に、完全にショック状態となって心停止寸前で倒れてしまったのだという

 

「本当に、あと数分処置が遅れていたら危ないところでした。シャーレの先生から直々に『何があっても、彼女たちを絶対に救ってくれ!』って緊急要請を受けまして……。トリニティが誇る私どもの『動く最高生命体』ことミネ団長が、緊急の救護ヘリを限界出力で飛ばして、アビドスまで直行したんです」

 

「ミネ…団長……? 救護騎士団…が…わざわざ…アビドスまで……?」

 

「はい! その際、私もあなたの専属の救護担当として、自分から志願して名乗り出たんです。今度は私たちが、あなたの心と身体を全力で癒やす番です。ですから、今は何も心配しないで、ゆっくり眠ってくださいね?」

 

セリナはそっとセリカテラーの額に手を当て、その熱を測りながら、慈愛に満ちた声で語りかける。

 

「……どう……して……?」

 

思うように口の筋肉が動かず、掠れた細い声しか出ない。自分では気が付いていないだけで、激戦の衝撃と色彩の侵食のせいで、口の中や喉の粘膜すらもズタズタに怪我をしてしまっていたのだろう。そんな彼女の痛々しい問いかけに、セリナは少しだけ困ったように眉を下げて、人差し指を顎に当てた

 

「そうですね……。初めは、私もミネ団長にすべての処置をお任せしようと思ったのですけれど……。あの方は、その……救護に対する情熱が凄まじすぎて、時々『救護のために部屋の壁を殴り壊して突入する』ような、直すよりも壊す方が得意な一面をお持ちの方なので……。今の貴方のデリケートな状態の身体には、少し刺激が強すぎるかな、と思ったのが一つです」

 

(なによそれ……。救護騎士団って、医療組織じゃないの……?)

 

あまりにも物騒すぎるその説明に、セリカテラーは心の中で、怪我の痛みも忘れて全力のツッコミを入れていた。あの無名の司祭たちへの怒りとはまた違う、別のベクトルで頭の痛くなるような、この世界の規格外の住民の存在に思わず目眩がしそうになる

 

「ふふ、あ、でも安心してくださいね? 団長の手術自体は完璧ですし、私の看護もちゃんと真心込めて行いますから。……それで、担当を代わってもらった、もう一つの本当の理由なのですけれど──」

 

「?」

 

「先生から、貴方たちのこれまでの歩みや、あっちの世界での出来事をお聞きしたんです。次元を越えて、どれほど傷つき、闇に堕とされてもなお、お互いを求め合って守ろうとした……貴方たちの、アビドスの深い『絆』の物語に、私、どうしても心を打たれてしまって。……だから、今度は私たちが、貴方たちを絶対に守ってみせるって、そう思ったからですよ」

 

セリナはそう言って、セリカテラーが寝かされているベッドの、ちょうど右側の縁の方を優しく指差した

 

言われるがまま、ズキズキと痛む首をゆっくりとそちらの方へと向けると──

 

そこには、ベッドのパイプにしがみつくようにして、小さな丸椅子に腰掛けたまま、疲れ果てた様子でこっくりこっくりと深い眠りに落ちている、アビドス対策委員会のアヤネの姿があった

 

その目元には、泣き腫らしたようなハッキリとした赤みと、何日もまともに寝ていないであろう濃い隈が刻まれている。それでも、その小さな両手は、セリカテラーのシーツの端をぎゅっと力強く握りしめたまま離そうとしていなかった

 

「アヤネちゃん……」

 

「その子、自分だって今回の戦いで、心も体もボロボロに疲れているはずなのに……。他の方たちの治療や手術が次々と行われている間、頑なに病室を離れようとしなかったんです。『怪我の度合いとしては私が一番軽傷ですから、セリカテラーちゃんが目を覚ます瞬間まで、私がここで絶対に見届けたいんです』って、ずっと付き添っていたんですよ。先生やノノミさんが『少しでも休んで』って言っても、全然聞いてくれなくて」

 

「(……相変わらず、頑固なんだから……)」

 

セリカテラーは、眠るアヤネの規則正しい寝息を見つめながら、言葉にならない感情で胸がいっぱいになった。前の世界で失われてしまった、優しくて、健気で、誰よりも仲間想いだったアヤネちゃんが、今、確かに自分のすぐ傍で息をして、生きている。その愛おしい事実だけで、全身を苛む激痛がほんの少しだけ和らぐような気がした

 

「あっ、そうだ。セリカテラーちゃんが心配していると思って、他の方たちの現在の容態についても、簡単に説明しておきますね。結論から言うと、皆さん命に別状はありません。クロコさん、ホシノさん、そして便利屋68の皆さん以外の軽傷のメンバーは、なんと明日にはもう退院できる見込みなんですよ」

 

セリナのその言葉を聞いて、セリカテラーは張り詰めていた心の重荷がようやく下りたように、張り裂けそうだった胸を深く撫で下ろした。誰も死ななかった。自分の両手は、今度こそ、大切な人たちを誰一人として取りこぼさずに守り抜くことができたのだ

 

セリナは、患者がこれ以上の余計な心配をして治療に悪影響が出ないようにと配慮し、手元のクリップボードに挟まれたカルテをめくると、優しく読み上げるように各人の詳細な病状を伝えてくれた

 

「まず、一緒に救出されたクロコさんですが、こちらは今回セリカちゃんと正面から戦った際の負傷がひどく、肉体の深部の回復にはもう少し時間がかかりそうです。しばらくは、この病室で絶対安静ですね」

 

「ん……」

 

セリナの言葉に応じるように、少し離れた隣のベッドから、聞き慣れた静かな寝息が聞こえた。見れば、そこには全身に包帯を巻かれながらも、穏やかな顔で眠っているクロコの姿がある

 

「そして、ホシノさんについてですが…、外傷や目立った傷は診察の結果、驚くほど全く無い状態だったのですけれど、セリカテラーちゃんのあの『病魔を操る能力』によって、肉体の神経系が一時的に完全にロックされてしまっていたようで……。能力自体が解除された今でも、その反動のせいで筋肉が驚いてしまって、まだご自身の意思では体が全く動かせない状態になっています。ですが、こちらも時間の経過とともに確実な回復の兆しは見えていますので、基本的にはリハビリを兼ねた、少し長めの入院生活になる予定です」

 

さらに、セリナはページをめくる

 

「次に、協力してくれた便利屋68の皆さんは、皆さん命に別状は無いものの……ハルカさんとの戦いで、戦場での度重なる規格外の爆発に何度も巻き込まれてしまったせいで、全身の打撲や火傷、裂傷といった怪我が想像以上にひどく、彼女たちも数週間はしっかりとした入院が必要、とのことです」

 

「あの人たち……やっぱり相変わらずというか、とんでもない人たちね……」

 

セリカテラーは思わず、包帯の下の唇を僅かに緩めて苦笑した。命懸けの戦いの中でも、どこか破天荒でブレない彼女たちの姿を思い出し、張り詰めていた心が完全に解きほぐされていくのを感じた

 

「ふふ、本当に賑やかな方たちですよね。最後に、こちらの世界のシロコさんやセリカさん、そしてノノミさんは、戦闘による打撲などの軽傷の者が多いのですけれど……。何しろ、あの大人数を相手に前線で戦い続けたわけですから、肉体的にも精神的にも、疲労困憊が著しかったんです。ですから先生の判断で、大事をとって今夜の1日だけ、この病院でゆっくり静養してもらうための入院ということになりました。だから、明日になれば、皆さん元気にこの病室へお見舞いに押し寄せてくると思いますよ」

 

セリナは手元のカルテをパタンと心地よい音を立てて閉じると、夜風にパタパタと揺れていたカーテンの隙間を丁寧に直し、最後にセリカテラーに繋がれた点滴の速度を適切に調整した

 

「さ、これで私の夜の見回りと報告はおしまいです。セリカテラーちゃん、本当に、本当によく頑張りましたね。おやすみなさい」

 

「……ええ。ありが、とう……セリナさ…ん……」

 

すべての報告を聞き終えたセリカテラーは、静寂に包まれた病室をゆっくりと見渡した

 

少し離れた隣のベッドで、静かに規則正しい寝息を立てて眠るクロコ。その向こうのベッドで、口を半開きにして相変わらず締まりのない顔で爆睡しているホシノ。そして、自分のベッドのすぐ横で、パイプ椅子に腰掛けたまま、愛おしそうにセリカテラーの手を今も握りしめるようにして眠っているアヤネ

 

(ああ……、私は……本当に、帰ってきたんだ……。みんなが生きている、ここに……)

 

窓の外に見えるアビドスの広大な夜空には、あっちの世界のあの濁った、すべてを呪うような不気味な赤色とは違う、どこまでも澄み切った、美しい星々が満天に輝いていた

 

セリカテラーは、全身を容赦なく襲う確かな痛みを、自分が今ここで生きている証として愛おしく受け入れながら、アヤネの穏やかな寝息にリズムを合わせるようにして、今度は安らかな、本当の意味での深い眠りへと、ゆっくりと目を閉じていくのだった

 

 

──ピッ、ピッ、ピッ、ピッ

 

聞き覚えのある、規則正しい医療モニターの電子音

 

しかし、その無機質な音に混じって、何やら自分のすぐ近くから、妙に「ガサゴソ」「ズズズ……」と、不穏で騒がしい物音が響いてくる気がする

 

(……ん……? なに……、もう朝なの……? にしても、ちょっとうるさいんだけど……)

 

セリカテラーが重い瞼をゆっくりと開け、朝の光に慣れない瞳を瞬かせると、そこには到底、静養のための病室とは思えない、異様極まりない光景が広がっていた

 

「あ、アヤネちゃーん……? 一応おじさん、これでも、体力回復したての超デリケートな病み上がりなんだけどなー……? というより、この太ももに載ってる重い石、アヤネちゃん一体どこから持ってきたの!?」

 

「ん、ホシノ先輩はこれまでの単独行動と、先輩特有の秘密主義を大いに反省するべき。完全に自業自得、因果応報」

 

「ちょっと、クロコ先輩も他人事みたいに淡々と言ってますけど、先輩も同じように今、猛烈に怒られてる最中なんですからね!? ほら、背筋が丸まってます、姿勢が崩れてます!」

 

「ん……アヤネ、笑顔が本気で怖い……。冷や汗止まらないし、足の感覚、もう完全にない……」

 

どういうわけか、セリカテラーのベッドの目の前の冷たいリノリウムの床の上で、アビドス最高戦力であるはずのホシノとクロコの二人が、まるで雷に打たれた子猫のように小さくなって、膝を揃えて綺麗に正座をさせられていた

 

しかも、ホシノの細い太ももの上には、どこからどうやって病院内へ持ち込んだのか全く理解できない、重々しい巨大な漬物石(どう見てもただの庭石)が一つ、アヤネの手によって容赦なく載せられている

 

「ね、ねぇ……。一体これ、朝からどういう状況なわけ……?」

 

あまりにも変わり果てた病室の奇妙な光景に、セリカテラーが頭痛を覚えながら、呆れ果てた困惑の声を絞り出した

 

「あ! やっと起きたのね。おはよう、もう一人の私! ……っていうか、あんた『もう朝なの?』どころじゃないわよ! 丸々1週間も爆睡して眠り続けてたんだからね!? みんながどれだけ本気で心配したと思ってんのよ!」

 

ベッドの脇のパイプ椅子に腰掛けていた、この世界のセリカが、腕を組んでいつものようにツンとした態度を取りつつも、その瞳に涙を潤ませてホッとしたように深く胸を撫で下ろした

 

「ん。セリカは、あっちの世界でもこっちの世界でも、どこに行っても不器用で、いっつもみんなの最大の心配の種になるね」

 

ベッドの足元に立っていた現在のシロコが、表情を崩さずに淡々と、しかしその声には隠しきれない愛おしさを滲ませて呟く

 

「「それ、どういう意味!? あんたにだけは絶対に言われたくないわよ!!」」

 

シロコの相変わらずのマイペースな言葉に、間髪入れずに二人のセリカの声が完璧にハモって、病室中に響き渡る大声で被さった

 

「ふふ、さすがは別の世界の同一存在ですね〜。記憶や経験が違っても、怒るタイミングも息もぴったりです〜♪」

 

窓際の棚で、花瓶の瑞々しいひまわりを新しいものへと笑顔で植え替えていたノノミが、クスクスと嬉しそうに、鈴を転がすような声で笑う

 

「あ! セリカテラーちゃん!!」

 

ベッドの上の賑やかな会話に反応し、鬼の形相で二人の先輩をシビアに糾問していたアヤネが、ハッとしてパッと振り返った

 

ホシノたちに向けられていたあの底冷えするような怒りの黒いオーラが一瞬にして霧散し、そこには、セリカテラーが心から愛した、いつもの優しく健気な、大好きなアヤネの笑顔が咲いた

 

「良かった……っ、本当に、本当に良かったです……! やっと、やっと目が覚めたんですね……!」

 

アヤネはメガネの奥の瞳にみるみるうちに涙を溜め、今度こそ、セリカテラーの元へと嬉しそうに駆け寄ってくるのだった

 

「え、ええ……アヤネちゃん、心配かけてごめんなさい。……というより、私……本当に1週間も眠りっぱなしだったの……?」

 

セリカテラーは、まだ自分の感覚が信じられないといった様子で、包帯の巻かれた右手でそっと自分の額を押さえた

 

「はい。クロコ先輩とのあの凄まじい激戦による大失血や疲労、お体の怪我もありますけど……。これはセリナさんの予想なのですが、セリカテラーちゃん、こちらの世界に来てから、まともにご飯を食べたり、睡眠すら一度も取っていなかったのではないですか?」

 

「……あ。言われてみれば、そういえばそうね……。こっちのゲヘナの自治区とか、アビドスの砂漠とかに来てから、何かを食べたり、横になって眠ったりした記憶が、これっぽっちも無いわ」

 

セリカテラーは言われて初めて気が付いたように、ぽかんと口を開けた

 

「ええっ!? あんた、ご飯も食べてなかったの!?」

 

この世界のセリカが、信じられないと言わんばかりに耳をピンと立てて目を丸くし、大声を上げる

 

「ええ。ご飯の方は、元の世界で誘拐されて監禁されていた時の癖というか……あまりお腹は空かない身体になってたし。睡眠の方は、この体になって、もし隙を見せて眠ってしまったら……頭の中に強制的に流れ込んでくる司祭たちの憎しみのせいで、周りの全てが怖くて眠れなくてね。目を閉じたら、またあの地獄に逆戻りするんじゃないかって」

 

セリカテラーは、かつての孤独な夜を思い出すように、少しだけ寂しげに視線を落とした

 

「ん……。つまり、私たちの前で倒れたのは、ここが絶対に安全だって心から安心したから、やっと眠れたってこと?」

 

現在のシロコがベッドの縁に近づき、じっと水色の瞳で覗き込みながら尋ねると、セリカテラーは自分の本心を見透かされたようで、一瞬にして顔を耳の先まで真っ赤に染め上げた

 

「そ、そそそそ、そんなんじゃないわよ!? ただ、その、今までの疲れがドッと一気に溜まって……その! バカシロコ先輩! 余計な分析しないで!」

 

セリカテラーは恥ずかしさのあまり、手元にあった布団を胸元から鼻先までグッと引っ張り上げると、フイッと顔を背けて声を荒らげる

 

「ん。これこそいつものセリカ。テラーになって身体が一回り大人に変わっても、中身のツンデレなところは全く変わらない。すごく安心した」

 

シロコは満足そうに何度も頷く

 

「ねぇ!? 私は一体どんな顔して、目の前で全く同じ自分のツンデレを見せつけられればいいのよ……? 私、普段こんなにツンツンデレデレしてないわよ!?」

 

自分の未来の姿──それも最高に恥ずかしい部分──を見せられているこの世界のセリカが、恥ずかしさと困惑で顔を覆って頭を抱えた

 

「え? セリカちゃん、自分では気づいてないのですか〜? セリカちゃんはいつもツンツンデレデレの、とっても可愛いチョロインですよ〜?」

 

ノノミが人差し指を頬に当てて、クスクスとからかうように言う

 

「もう一人の私だけじゃなくて、私までおもちゃにしないでよっ!! シャーーーッ!!」

 

こっちのセリカは、いよいよ逃げ場がなくなって猫のように威嚇の声を上げながら顔を真っ赤にした

 

「あはは……。まぁ、理由がどうあれ、セリカテラーちゃんが私たちのことをそれだけ信用して、安心してもらえる場所だと思ってくれたのなら良かったです。……それで、お体の方は大丈夫ですか?」

 

アヤネが騒がしい身内たちに苦笑いしながら、改めて優しい声音で尋ねる

 

セリカテラーはベッドの中で、恐る恐る自分の身体を少しずつ、確かめるように動かしてみた

 

「……そうね。まだ全身の筋肉の節々がミシミシと痛むし、思い通りに力は入らないけど……。最初に目が覚めた頃に比べたら、格段にマシになってるわ」

 

「……その、左腕は……?」

 

シロコがふと、包帯で厳重に巻かれたまま、ベッドの上に力なく横たわっている彼女の左腕に視線を向け、静かに尋ねた。病室全体の空気が、一瞬だけ緊張に包まれる

 

「あ、これ? ──これは、私がこの『テラー』になるより前の段階……あっちの世界で、アビドスが本当にダメになっちゃう直前で、完全に機能しなくなっちゃってたやつだから。こっちでの怪我のせいじゃないし、気にしなくてもいいわよ」

 

セリカテラーは、過去の残酷な記憶の痛みを隠すように、困ったように優しく笑って見せた。その痛々しい微笑みに、病室の空気が一瞬だけキュッと切なく引き締まる

 

「……あんなに、私と同じように綺麗だった長いツインテールの髪の毛も、バッサリと短くなっちゃって……。なんだか……うーん……」

 

ノノミが、セリカテラーの短くなった髪の毛をじっと見つめながら、人差し指を顎に当てて、何やら深い考え事をしながら小さな声を漏らした

 

「?」

 

セリカテラーが不思議そうに首を傾げると、ノノミは不意にポンッと手を叩き、満面の笑みを浮かべた

 

「よし、決めました! アヤネちゃん、私、ちょっと今からミレニアムのショッピングモールまでお出かけしてきますね〜♪」

 

「えっ? ノノミ先輩、急にどうしたんですか?」

 

アヤネの制止の声も耳に入らない様子で、ノノミは「ふふ〜ん♪」と鼻歌を歌いながら、風のように病室からハッピーなオーラを纏って飛び出していってしまった。なんだか、ものすごく嫌な予感が背筋を駆け巡りながらも、セリカテラーは「い、行ってらっしゃい……」と、引きつった笑みで見送るしかなかった

 

ガチャン

 

防音性の高いドアが閉まり、再び病室に静寂が訪れた──と思いきや

 

「ね、ねぇー……? おじさんのこと、みんな綺麗さっぱり忘れてない……? 膝の軟骨が本気で限界を迎えそうなんだけどなー……」

 

「ん……。私も、そろそろ正座の姿勢を保つのが、肉体的にキツくなって……きた……。足の感覚、もう完全にない……」

 

ノノミが外に飛び出したあと、床の隅から、消え入りそうな二人の先輩の弱々しい絶叫にも似た声が響き渡った

 

「忘れているわけが無いですよ♪」

 

アヤネは、振り返ると同時に、それはそれは恐ろしく、どこまでも美しい黒い満面の笑顔を二人に向けた。そのメガネの奥の瞳は、一切笑っていない

 

「それでは、お話の続きを始めましょうか。先輩方? ホシノ先輩の単独行動について、それからクロコ先輩の無茶について、まだまだお聞きしたいことが山ほどあるんです」

 

「ヒィッ!?」

 

ホシノの短い情けない悲鳴が、朝の病室に響き渡った

 

「えっと…なんであの二人はあんなところで正座させられて……というより、なんでホシノ先輩にはあんな大きな石が載せられてるの?」

 

あまりにも不憫で、かつシュールすぎる二人の姿を見かねて、セリカテラーが引きつった笑みのまま尋ねる

 

「あれはね、アヤネちゃんの我慢の限界を完全に突破しちゃった、恐怖のお説教タイムよ」

 

セリカテラーの疑問に、ベッドの脇にいたこの世界のセリカがやれやれと深く肩をすくめて答えた

 

「ん。もう一人の私は、純粋に無茶をしすぎたから。クロコ本人からその時の話を詳しく聞いてみたら、戦闘中、過去の感傷に浸って余計な考え事をしてたせいで、セリカテラーの攻撃を避けるのが遅れて致命傷の直撃を貰ったみたいだし」

 

「あー……。そういえば、あの時何か考え事をしてたわね……」

 

セリカテラーは、あの崩壊するPMC管理棟の最上階で、クロコと文字通り死に物狂いで撃ち合っていた時のことを思い出し、納得したように頷いた。あの刹那の隙がなければ、勝敗はどちらに転んでいたか分からなかったのだ

 

「それは分かったわ。じゃあ、ホシノ先輩の方はなんであそこまで重罪人みたいな扱いになってるわけ?」

 

「ホシノ先輩はね、今回の作戦が始まる前に、自分から『おじさんは不参加でお留守番してる』って言っておいて、アヤネちゃんから『絶対に病院のベッドで大人しく寝ててください』って何度も何度も念を押されてたのよ。それなのに……私たち全員に完全に内緒で、勝手で作戦に参加して戦場に現れたからよ」

 

セリカが心底呆れたように、ため息混じりに言う

 

「ん。さらに石が追加で載ってるのは、私たちや先生に、セリカテラーの病魔の能力のせいで、本当は一歩も動けないほど身体が弱りきってたことを黙って隠し通してたから。対策委員会を騙した大嘘のペナルティ」

 

シロコが、アヤネの代わりに冷淡極まりないトーンで補足の説明を入れた

 

「……なるほどね。自業自得だわ。……っていうか、それにしてもあんなに大きな漬物石、一体アビドスのどこから見つけてきたのよ……」

 

セリカテラーは、涙目でガタガタと震えながらアヤネの無言のプレッシャーに耐えているアビドス最高戦力の情けない姿に、心底呆れ果てながら、大きなため息をつくのだった

 

「ふぅ……。それではクロコ先輩、貴女はもう正座を解いてベッドに戻っていいですよ。一応、まだお腹の傷の治療中ですし、セリナさんやミネさんからも絶対安静にするように言われていますからね」

 

アヤネが冷徹なトーンから一転、少しだけ声音を和らげてそう告げた瞬間、クロコはまるで糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちた。限界を迎えていた下半身を両手でさすりながら、青白い顔で「ふしゅー……」と小さく息を吐き出す

 

「……ん……1時間45分……。これまでの人生で受けた、アヤネのお説教の最長新記録……さすがに効いた……」

 

「あんたたち、一体どれだけの時間怒られてるのよ……」

 

クロコのあまりにも壮絶な呟きに、セリカテラーは思わずジト目を向けて呆れ声を漏らす。しかし、アヤネはその視線を鋭く受けて、何でもないことのように眼鏡の奥の瞳をキラリと光らせた

 

「え? 何を言っているんですか、セリカテラーちゃん。もしクロコ先輩の身体が万全の状態でしたら、私はホシノ先輩と同じように大きな石を二つ三つ載せて、まだあと1時間はお説教を続けるつもりでしたよ?」

 

「…………っ」

 

その恐ろしい一言を聞いた瞬間、クロコはガタガタと震えながら、這うような動作でセリカテラーのベッドの横へと文字通り逃げ込んできた。そして、動く方の右手でセリカテラーの細い手をギュッと、まるで命綱にでもすがるかのように握りしめる

 

「……き、傷つけて……ありがとう、セリカ……。貴女があの時、私をボロボロにしてくれたおかげで、私は石を載せられずに済んだ……。貴女のあの苛烈な一撃が、今の私をアヤネの猛攻から救ってくれた……」

 

「……ちょっと、感謝の理由が物凄く複雑なんだけど。素直に喜べないわよ、そんなの」

 

涙目で自分の手を握りしめてくる大先輩の姿に、セリカテラーは何とも言えない微妙な表情を浮かべるしかなかった

 

すると、その横でいまだに花崗岩を載せられたまま、下半身を生まれたての小鹿のようにプルプルと震わせているアビドスの生徒会長が、泣きそうな声で必死に挙手をした

 

「あ、あのー……アヤネちゃん? おじさんは……おじさんのこの、限界を迎えて悲鳴を上げている両足の解放は、まだなのかなーって……うへぇ……」

 

「ホシノ先輩」

 

アヤネは冷徹極まりない微笑みをたたえたまま、ゆっくりとホシノの前に歩み寄り、その影で彼女を見下ろした

 

「ホシノ先輩が、私たちに何も言わずに勝手に単独行動を起こしたのは、これで通算4回目です。ことわざでも『仏の顔も三度まで』って言いますよね? つまり、今の私は仏様を超越している状態なんです。……何か言い残したいことはありますか?」

 

「ひ、ひぃぃぃーーーっっっ!!! 助けて! 助けてよセリカテラーちゃん! 別の世界のおじさんの可愛い可愛いセリカちゃんでしょ!? 先輩の危機を見捨てないでぇぇぇっ!!」

 

ホシノが顔をくしゃくしゃにしてセリカテラーに必死に救いを求めて叫ぶ。だが、セリカテラーはその情けない生徒会長の姿を冷ややかに見据えると、フイッと無慈悲に視線を逸らした

 

「……それに関しては、あんたはもっと怒られた方がいいわ。自分の身体が動かないのを隠してまで一人で突っ走るなんて、先輩として最低の極みよ。アヤネちゃん、もう1つくらいその辺から石を追加して載せた方がいいんじゃない?」

 

「ちょっとぉぉぉーーーっっ!? 悪魔! 鬼! 別の世界に行ってもやっぱり中身は生意気なツンデレ猫ちゃん!!」

 

「ふん、お生憎様。私ももしこの身体が自由に動かせたら、今すぐにでもその辺の瓦礫を拾ってきてあんたの頭の上に載せたかったわよ」

 

セリカテラーが容赦なく言い放つと、ホシノは完全に絶望して床に突っ伏した

 

そんなアビドスならではの騒がしくも容赦のないやり取りをしていると、突如として病室の外の廊下から、パタパタパタ……という軽快で急ぎ足な足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた

 

「ただいま戻りましたあぁぁーーーっっっ!!!」

 

勢いよくスライドドアが開かれると、そこには息を弾ませながら、両手いっぱいに大量の高級そうな紙袋や大荷物を抱えたノノミが、満面の輝かしい笑顔で立っていた

 

「え? ノノミ先輩、その大量の荷物、一体どうしたのよ。というよりミレニアムに行くって言ってたのに戻るの早くない?」

 

「最近のミレニアム製ヘリタクシーは凄いですね♪ 頼んだらアビドスまで一瞬で飛ばしてくれました〜」

 

答えなのか答えじゃないのかよく分からないゴールドカードの暴挙を口にしながらノノミはニコニコと鼻歌を歌いながら、抱えていた袋の中から次々と中身をベッドの上に並べ始めた

 

そこから出てきたのは、キヴォトスでも超一流のヘアケアブランドのロゴが入った最高級トリートメントやシャンプーのボトル、さらには何故かフリルやレースがふんだんにあしらわれた、見るからにファンシーでカワイイ系の私服の数々だった

 

「……シャンプー……トリートメント……? あと、これは……フリフリのドレス……?」

 

シロコがそれらを見て不思議そうに首を傾げる。すると、その意図を瞬時に察したこの世界のセリカが、ポンッと両手を叩いて納得の声を上げた

 

「あ、分かった! それ、もう一人の私──セリカテラーに使うための道具ね! 今までの過酷な環境のせいで髪の毛もバサバサになっちゃってたし、服も血で汚れてボロボロだから、綺麗に整えてあげようってことでしょ!」

 

「はいっ♪ 大正解です、セリカちゃん!」

 

ノノミが嬉そうにパチパチと手を叩く。その瞬間、ベッドの上のセリカテラーの背中に、ドッと冷たい嫌な汗が大量に流れ落ちた

 

ノノミの背後から、優しくも絶対に逃がさないという、強烈な「綺麗に可愛くしてあげたい」という執念のオーラが、もはや視覚化できそうなほどのピンク色の魔力となって溢れ出ている

 

この流れは確実にまずい。元の世界で修羅場をくぐり抜けてきたセリカテラーの野生の勘が、最大級の警鐘を鳴らしていた。このままでは、されるがままに着せ替え人形にされ、とんでもなく恥ずかしい目に遭わされるのは火を見るより明らかだった

 

「わ、私……! 私はまだ、ほら、起きたばかりで身体も上手く動かないし……! そういうのは、もっとこう、体調が良くなってから、後で元気になってからにしようかなって……! ほら、それに! まだ担当の看護師さん──セリナさんに、お風呂とか、その、衛生面の許可も貰ってないしさっ!」

 

セリカテラーは必死に正論を並べ立て、なんとかこの場を切り抜けようと、いつもの倍以上の早口で言い訳をまくしたてた。そうだ、ここは神聖な医療機関なのだから、専門の看護師の許可がなければ、いかなる勝手な行動も許されないはず──

 

「あ、それなら全然大丈夫ですよ♪」

 

「っっっ!?」

 

突如として、自分のすぐ真横──本当に耳元の至近距離から、あまりにもクリアで爽やかな声が聞こえ、セリカテラーは心臓が口から飛び跳ねるほど驚いて振り返った。そこには、先ほどまでは確実に病室のどこにもいなかったはずの救護騎士団のセリナが、いつの間にか音もなくベッドサイドに直立していた

 

それにはセリカテラーだけでなく、近くにいたセリカやシロコ、そしてベッドの上で命拾いしたばかりのクロコすらも、まるで怪奇現象か幽霊でも見たかのように驚愕の表情を浮かべて固まっている

 

「えっ!? セ、セリナさん……!? あんた、一体いつの間にどこから部屋に入ってきたのよ!? ドアも窓も閉まってたわよね!?」

 

この世界のセリカが、部屋の鍵やドアの隙間、果ては天井の通気口まで確認しながら戦慄の声を上げる

 

「ふふふ、私の名前が呼ばれた気がしたので……♪ 看護師として、患者さんの『身体を綺麗に保ちたい、さっぱりしたい』という素晴らしいご要望を無視するわけにはいきません! ミネ団長からも、皮膚の洗浄と衛生管理、および衣類の着替えの許可は事前にばっちり頂いています! むしろ、推奨されています!」

 

セリナはどこからともなく取り出したカルテを胸に抱き、完璧な白衣の天使の営業スマイルでサムズアップして見せた。その一分の隙もない連携に、セリカテラーは絶望の縁に立たされる

 

「わぁ、セリナさん、素早い手配ありがとうございます〜! 助かっちゃいました〜。それでは私、大急ぎで今からお風呂用の車椅子を取ってきますねーーーっ!」

 

味方からの完璧な医療許可を勝ち取ったノノミは、ウキウキとスキップでもしそうなハッピーな勢いで、再び病室の外へと飛び出していった

 

(……今だっ! あの予算無制限の怖い先輩がいないうちに、ここから逃げ出さなくちゃ……!!)

 

セリカテラーは危機感を限界まで募らせ、シーツをバッと跳ね除けて、まだガタガタと震える重い両足をベッドの外へと下ろし、ゆっくりと床へ着地しようと試みた。這ってでもこの包囲網を突破するつもりだった

 

しかし

 

「……どこに行くの? セリカ」

 

「逃がさないわよ、もう一人の私。あんたの考えてることくらい、自分なんだからお見通しなんだからね」

 

ドン、と左右から同時に、アビドスが誇る鉄の万力のような強い力で、両肩をガッシリと掴まれた

 

見上げれば、右側には無表情ながらも水色の瞳を怪しく、かつらんらんと光らせている現在のシロコ。そして左側には、「自分には関係の無い面白いことが起きそうだ」と言わんばかりに、絶対に逃がさないという強い意志を込めて冷たいニヤニヤ笑みを浮かべているこの世界のセリカの姿があった

 

「ちょっと! 離しなさいよ二人とも! 私、一応あんたたちの先輩……っていうか、もう一人の自分よ!?」

 

「ん。それはそれ、これはこれ」

 

「それにシロコ先輩とはまだ同級生じゃない」

 

「お待たせしましたセリカテラーちゃん! 特機仕様の車椅子の準備、ばっちり完了です〜♪ それではさっそく、アビドス中央病院特製の、広くて温かい最高のリフレッシュバスルームに向かいましょーーーっっ!!」

 

ノノミが介護用の車椅子をガタガタと威勢よく押しながら、満面のアルカイックスマイルで部屋へ戻ってきた。背後には、テキパキと入浴用具を揃えたセリナが控えている

 

「い、いやぁぁぁあーーーっっっ!!! 離して! 私のことは、自分で自由に動けるようになるまで、薄暗い部屋で大人しく放置しておいてよーー!!!! 綺麗になんてならなくていいからーーーっ!!!!」

 

セリカテラーの必死の抵抗と、アビドス中に響き渡るような絶叫も虚しく、彼女はセリナの手際よすぎるプロの移乗技によって一瞬で車椅子の上へと収監され、そのままシロコとセリカに左右の両脇を強固に固められた状態で、病院の奥にあるバスルームへと文字通り強制連行されていくのだった

 

それを見送ったアヤネは、パタンと静かにドアが閉まったのを確認すると、フゥ……と一つ深呼吸をし、再びゆっくりと、床の上でガタガタと震えているホシノの方へと向き直った。その背後から、再びメラメラと質量を持った黒い炎のようなオーラが立ち上る

 

「さて……。お邪魔虫の皆さんも楽しく移動されましたし、私たちは、さっきの『4回目の勝手な単独行動』についての、愛情たっぷりなお説教の続きを始めましょうか。先輩?」

 

「た、誰か助けてぇぇぇーーーっっっ!!!!! 先生ーーーっ! ノノミちゃーん!! 誰でもいいからおじさんを、この哀れなアビドスの風前の灯火を救ってぇぇぇっっっ!!!」

 

セリカテラーがバスルームへと連れて行かれる廊下の遥か向こうまで、床に大きな漬物石を載せられたホシノの、魂の底からの悲痛な叫び声が、賑やかに、そしてどこまでも大きく木霊し続けるのだった

 

 

それから、たっぷりと数時間が経過した頃──

 

夜の冷たい、しかし心地よい静寂が包み込むアビドス中央病院の屋上に、セリカテラーの姿があった。まだ満足に歩くことのできない彼女を乗せた車椅子を、同じく病み上がりであるはずのクロコが、静かに後ろからゆっくりと押している

 

屋上のフェンスの手前で車椅子が静かに止まると、セリカテラーは冷え込んできた夜風に身を震わせながら、深く、本当に深い、本日何度目かも分からない溜め息をついた

 

「……はぁ。本当に、とんでもなく大変な1日だったわ……」

 

「ふ、ふふ……。そ、そう……だね……。ん、よく似合ってる……」

 

背後から聞こえてくるクロコの声は、必死に笑いを噛み殺そうとしているせいで、酷く不自然に細かく震えていた

 

「……ちょっと、シロコ先輩? 笑いたければ、もう我慢しないで大声で笑えばいいわよ。……ええ、分かってるわ。もしこれが他人事だったら、私だって間違いなく指を差して床を叩きながら大爆笑してたと思うもの」

 

セリカテラーは諦めたように遠い夜空を見つめながら、自嘲気味に呟いた

 

無理もない。今の彼女は、ノノミとセリカ、そしてシロコの手によってあの無骨な病院着から強制的に着替えさせられ、パステルカラーのフリルやレースがこれでもかとふんだんにあしらわれた、およそ戦場や砂漠には似合わない、最高にガーリーでカワイイ系の私服を着せられていた。

 

それだけでなく、バッサリと不揃いに短くなってしまっていた髪の毛も、ノノミの神がかったブラッシングとヘアケアの手つきによって、短いながらも左右に可愛らしくフリフリのリボンでハーフツイン風にアレンジされてしまっているのだ。おまけに、長年浴び続けていた煤や汚れも、高級トリートメントの力で完全に洗い流され、今や彼女からは、アビドスの厳しい砂塵の匂いではなく、甘く優しいイチゴとフローラルの高貴な香りがふわりと漂っていた

 

「ん……に、似合ってはいるよ、本当に……。嘘じゃない。ただ、その……いつものセリカの、あのガサツで勝気なイメージとのギャップが、ちょっと面白くて新鮮なだけで……」

 

「シロコ先輩? それ、フォローになってるつもりかもしれないけど、全然褒めてる言葉になってないからね? というか、今さらっと私のことガサツって言わなかった!?」

 

セリカテラーは、およそ戦闘中には見せないようなジト目を精一杯後ろのクロコに向けながら、本日何度目かも分からない大きなため息を吐き出した。フリフリのレースの袖が夜風に揺れて、さらにイチゴの甘い香りが周囲に漂う。そのこと自体が、彼女にとっては気恥ずかしくてたまらないのだ

 

「……それにしても、本当に酷い目に遭ったわ。私って、あんなに容赦のない暴走機関車みたいな性格だったかしら? 同じ自分なのに、あそこまで理性を失うなんて信じられないわよ」

 

彼女の脳裏に、先ほどまで湯気立ち込める大浴場で繰り広げられていた、あの地獄絵図のような──いや、あまりにも賑やかで混沌としすぎていた回想シーンが、昨日のことのように鮮明に浮かび上がってくる

 

 

それは、アビドス中央病院が誇る、無駄に広々とした大浴場での出来事だった

 

「救護騎士団としての衛生管理と、皮膚の洗浄のためですからね!」というセリナの有無を言わせない絶対的な大義名分のもと、血や泥、そして色彩の昏い残滓がこびり付いた長いツインテールをバッサリ切られた髪や身体を洗うため、まだ身体の自由が利かないセリカテラーは、衣服を文字通りされるがままにひっぺがされ、ノノミやセリカによって大きな湯船の横へと連行された

 

その時だった

 

テラー化して狂気に染まっていた最中は、頭の中に強制的に流し込まれていた司祭たちの憎しみと破壊衝動のせいで、自らの肉体の些細な変化なんて気にする余裕すら一切なかった。けれど、すべての衣服が脱がされ、白く煙る湯気の中にその無防備な裸体が露わになった瞬間──

 

浴槽の周りにいた全員の動きが、まるで見えない金縛りにでも遭ったかのように、ピタリと静止したのだ

 

あっちの世界の過酷極まりない環境を何とか生き延び、図らずも色彩の持つ規格外のミステリアスなエネルギーを浴び続け、さらに肉体的な年齢が少しだけこちらの世界より進んでいたセリカテラーの身体は──

 

この世界のセリカに比べて、明らかに、その胸のあたりの膨らみが一回りも二回りも、豊かでグラマラスに大人の成長を遂げてしまっていたのだ

 

『あらあらあらぁ……♪ セリカちゃん、なんだかあっちの世界にいる間に、お姉さんもビックリするくらい、随分と劇的な成長期を迎えちゃったみたいですね〜? ふふ、これは将来がとっても楽しみです〜♪』

 

ノノミが両頬をぽっと赤らめながら、妙にキラキラとした肉食獣のような目を輝かせて、セリカテラーの豊かな胸元を完全にロックオンして凝視する

 

『ん。これは文句なしに、こっちのセリカ(未来)の完全勝利、完全無欠。おめでとう、セリカ。未来の可能性が証明された』

 

現在のシロコが、なぜか自分のことのように誇らしげな顔をして、親指を立ててサムズアップしながらコクコクと力強く頷いた

 

その二人の言葉に、人生最大の、それこそ世界の終わりをも凌駕するほどの過剰な拒絶反応を示したのは、他ならぬ「この世界のセリカ」本人だった

 

彼女は、自分の胸元の非常にささやかで慎ましやかな膨らみと、目の前にある未来の自分の、信じられないほど豊かで暴力的な膨らみを、何度も、何度も、壊れた機械のように交互に見比べた。やがて、その顔面をわなわなと引きつらせ、瞳の光を完全に消し去った、この世の終わりを現出させたかのような絶望の表情を浮かべた

 

『ふ、ふふ……あはは、あははははは……! なによ……なによこれっ!? あんた、私(未来)のくせに、一体何でそんなに発育が良くなってるわけ!? 私にそれで勝ったつもりなわけ!? 抜け駆けなんて絶対に許さないんだから!!』

 

『ちょっと、こっちの私!? 目が完全に据わってるんだけど! 落ち着きなさいってば、これには色々と複雑な事情が──』

 

『うるさいわね! 揉みほぐせば私(現在)にだって、今からでもこれくらいの急成長の可能性が……!! 噛み付けば私にもその栄養が戻ってくるかもしれないわよね……!!』

 

嫉妬とあまりの現実逃避によって完全に理性を消し飛ばしたこっちのセリカは、泡だらけの手をこれでもかと大きく広げると、「シャーーーッ!」と猫のような怒号を上げながら突撃してきた

 

そして、驚いて身動きの取れないセリカテラーの豊かな胸を、どさくさに紛れて「ギュムッ!!」と物凄い力強さで容赦なく鷲掴みにし、そのままわちゃわちゃと力任せに揉みしだいたのだ。それだけでなく、悔しさのあまり肩や二の腕に本気でガブッと噛み付いてくる始末で、浴室は一時、お風呂マットが飛び交う大騒動と化したのだった

 

 

「……あいつ、身体を洗うフリをして、思いっきり爪を立てて胸を揉みしだいてくるんだもの。噛み付かれたり、どさくさに紛れて何度も何度も執拗に胸を揉まれたし……。お陰で、せっかく消えかけてた戦いの傷とは別に、別の意味での傷と赤みがまたちょっと増えちゃった気がするわよ、本当に……」

 

セリカテラーは思い出すだけでも顔が赤くなるのか、恨めしそうにフリフリの衣装の上から自分の胸元をぎゅっと押さえてぼやいた

 

すると、車椅子の後ろに立つクロコが、どこか遠い目をして、自らの過去を回想するようにポツリと呟いた

 

「ん……私も、最初にこっちのシロコと全く同じような、射殺さんばかりの激しい嫉妬の目線をこの胸元に向けられたから……。その、セリカの気持ちは、痛いほどよく分かるよ。二人とも……アビドスのシロコもセリカも、そういう発育のところ、妙にプライドを持って気にしてるみたいだから……」

 

「ふふ、何よそれ。シロコ先輩までそんな目に遭ってたの? じゃあ、やっぱりあいつらの家系というか、アビドスの気質なわけね」

 

張り詰めていた空気が完全に解け、二人は夜の屋上で思わず小さく、クスクスと吹き出した

 

しばらくの間、二人は何も言わずに、ただ静かに夜空を見上げる

 

ここは、自分たちがすべてを失って砂だらけになり、何もかもが崩壊してしまった、あの絶望の世界ではない。自分たちの居た世界とは違う、新しくて、ちょっぴり騒がしくて、だけど理不尽なほどに温かい、別の世界

 

──なのに、そこから見上げるアビドスの夜空の星々は、あの日、放課後の対策委員会の教室で、みんなと一緒に「明日のバイトどうする?」なんて言いながら見上げた空と、まったく同じ、優しい輝きを放っていた

 

「……セリカは、もう大丈夫なの?」

 

不意に、クロコがそれまでの微かな笑みを収め、真剣な声音で、静かに問いかけてきた

 

その短い言葉の裏にある重い意味を、セリカテラーは正確に察した。自分の身体の深部に未だ根深く残っている、あの「色彩」の残滓。暗黒の精神世界で無名の司祭たちが嘲笑うように嘯いていた、決して消えない「憎しみの芽」についてだ

 

「……そうね。正直に言うと……今でもたまに、頭の奥の暗闇の底から、『すべてを壊せ』『世界を呪え』って、不気味な声が低く響いてくることはあるわ。……特に、あのホシノ先輩の顔を見た時に、ね……」

 

セリカテラーも、クロコに対してだけは取り繕うことなく、静かに胸の内を吐露した

 

例えこっちの世界の仲間たちの、あの呆れるほどの温かさに触れて、植え付けられた憎しみが急速に薄れていたとしても──なぜ自分がホシノに対してこれほどまでに昏く、複雑な感情を抱いてしまうのか、その明確な理屈はセリカ自身にもまだ分からなかった

 

ただ、かつて世界が滅びに向かう最悪の瞬間、自分が一番助けてほしかった時に、自分を救ってくれなかったという、過去の絶望の裏返しの怨嗟が、まだ魂の最深部に微かに焦げ付いているのかもしれない

 

ホシノ先輩なら、あの無敵の先輩なら、きっと助けてくれると信じていたあの日の幼い期待が、テラーとしての黒い炎の燃料になってしまっていたのだ

 

「……でも、大丈夫よ。心配しないで、シロコ先輩」

 

セリカテラーはそこで言葉を区切ると、車椅子の上でゆっくりと、衣装をなびかせながら振り返り、後ろに立つクロコの方を正面から真っ直ぐに見つめた

 

その瞳には、世界を滅ぼそうとしていた色彩の不気味な昏い輝きではなく、かつて夕暮れの教室でシロコたちと一緒に笑い合っていた頃と同じ──生意気で、勝気で、だけど誰よりも仲間を、アビドスを信頼している、あの頃の黒見セリカの優しく力強い笑みが、確かに浮かんでいた

 

「だって、もう今の私には、私のために本気で怒ってくれる頼りになるアビドスのみんなや、何があっても私の手を引いて連れ戻してくれる……シロコ先輩が、すぐ傍にいてくれるもの。だから、私はもう絶対に迷わないわ」

 

昔の、あの放課後の教室で笑い合っていた頃のような、屈託のない真っ直ぐな笑みを向けてくるセリカの姿に、クロコの水色の瞳が微かに、そして愛おしそうに揺れる

 

「私がもし、またあの暗闇の声に負けて変になりそうになったら──その時は、また絶対に助けに来てくれるでしょ? 私の最高の先輩なんだから」

 

「ん……。当たり前」

 

クロコは少しだけ口元を緩め、親愛を込めて力強く頷いた

 

「次はもっと容赦なく、今度こそ完璧に叩きのめして、アビドスの戦術の恐ろしさを骨の髄まで教えてあげるから。……だから、覚悟して待ってて」

 

「ふふ、勝てるといいわね? 先輩のその自信満々な顔を、いつかへこませてあげるのが楽しみだわ。……って、私が先輩相手にこんな生意気なセリフを、また冗談めかして言えるようになるなんて……なんだか、本当に不思議ね。まるで、悪い夢から覚めたみたい」

 

セリカテラーはそう言って、再び澄み渡るアビドスの美しい星空を見上げた

 

ノノミたちに無理矢理お風呂に入れられ、フリフリのレースの衣装を着せられた身体の至る所が、まだズキズキと熱を持って痛む。けれど、その激痛すらも、今ここに自分が確かに生きていて、大好きな仲間たちを、大切な居場所を守り抜けたという確かな証だった

 

夜風は少し冷たかったけれど、二人の距離は、そして新しく手に入れたアビドスという「我が家」の温かさは、彼女たちの凍てついた心を、どこまでも優しく溶かしていくのだった

 

「セリカは……これからどうするの?」

 

クロコがぽつりと、夜の静寂を破るように問いかけた。その声音には、普段の彼女からは想像もつかないほど、微かな震えと切実な響きが混ざり合っている

 

世界が滅び、砂に埋もれた絶望の果てで、ようやくもう一度巡り逢うことのできた、たった一人の大切な後輩。その存在が、今こうして手の届く場所にいるという奇跡を、彼女はまだどこか信じ切れていないのかもしれなかった。また目を閉じたら、あの冷たい色彩の闇に引き戻されるのではないかという恐怖が、クロコの心を微かに締め付ける

 

「そうね……。やっとこうして再会できたシロコ先輩と一緒に、この温かいアビドスに居座るのも、悪くないかもね。こっちの私と一緒にバイトを掛け持ちして、借金返済の効率を二倍にするのとか、あいつ絶対に喜ぶだろうし」

 

「! そ、それじゃあ……っ、みんなと一緒に……」

 

その言葉を聞いた瞬間、クロコの水色の瞳が、夜空の星を映したようにパッと輝いた。普段は感情を滅多に表に出さない彼女の顔に、明確な、隠しきれない喜びの色が浮かぶ

 

これからずっと、この新しい世界で、失われた時間を取り戻すように一緒に過ごしていける──そう言葉を続けようとしたクロコだったが、セリカテラーはすべてを見透かしているかのように、優しい、だけどどこか寂しげな苦笑いを浮かべながら、その言葉を遮るように被せた

 

「でも、すぐには無理ね。……まずは、この身体が完全に動くようになったらの話だけど……。私は一度、一人で旅に出ようと思っているの」

 

「なっ……! なんで……? どうして、また一人になろうとするの……?」

 

クロコの表情が、一瞬にして凍りついた

 

喜びから落胆へ、そして深い困惑へと、その瞳が激しく揺れ動く。車椅子を押す彼女の手が、思わず強くノブを握りしめた

 

やっと逢えたのだ。もう二度と離れたくないと、そう願うのは傲慢なのだろうか。これからこの世界で、アビドスのみんなと一緒に新しい思い出をいくらでも作っていける、そのスタートラインにようやく立てたはずなのに、なぜ自分からまた離れていこうとするのか、クロコには理解が追いつかなかった

 

「……それは、シロコ先輩が一番よく分かってるんじゃない? 私たちの歩んできた道のことを」

 

セリカテラーは、車椅子の上でほんの少しだけ首を傾げ、困惑に身を硬くしているクロコの顔を、下からじっと真っ正面から見つめた。その眼差しは冷徹なものではなく、お互いの背負った傷を知り尽くしているからこその、すべてを受け入れた上での、どこか諦念を含んだ大人の優しさに満ちている

 

「…………心の……整理……?」

 

クロコは、その言葉をなぞるように低く呟き、ハッと息を呑んだ

 

彼女にも、痛いほどに覚えがあったのだ。この世界に初めてやってきて、色彩の脅威から先生やみんなに救われた後。現在の対策委員会のみんなから「一緒に行こう」「ここにいたらいいんだよ」と、温かい手を差し伸べられた、あの日のこと

 

けれど、自らが狂気に駆られて犯してしまった罪の重さ、失った世界の凄惨な記憶、そして未来へ一歩を踏み出すための覚悟──それらを自分の中で咀嚼し、本当の意味で前を向くためには、どうしても一人になって「心の整理」をつける時間が必要だった。だからこそ、彼女も敢えて一度みんなと離れ、孤独な旅人としてキヴォトスの荒野を彷徨う道を選んだ時期があったのだ。今のセリカテラーも、全く同じ壁にぶつかっているのだと、クロコは瞬時に察した

 

「うん。私さ……自分で言うのもなんだけど、シロコ先輩やこっちのホシノ先輩を正面から圧倒して、勝っちゃうくらいに強くなっちゃったじゃない? テラーの能力って、本当に規格外よね」

 

セリカテラーは、包帯に巻かれた自分の右手を少しだけ持ち上げ、自嘲気味に、だけどどこか誇らしげに口角を上げた。そのあまりにもストレートで、ちょっと意地悪な物言いに、後ろに立つクロコは眉間にハッキリと青筋を立てて、ムッと不機嫌そうに頬を膨らませた

 

「……セリカ、意地悪」

 

「あはは! ごめんごめん、冗談よ。そんなに怒らないで」

 

イタズラが成功した子供のように、無邪気で曇りのない笑い声を響かせるセリカテラー。その姿は、化け物としての威厳を完全に脱ぎ捨てた、かつての黒見セリカそのものだった。クロコはそのあまりにも懐かしい笑顔に、毒気を抜かれたように少しだけ目を丸くして驚く

 

「分かってるわよ。私が二人に勝てたのは、自分の身体がどれだけ壊れようが『色彩』のエネルギーで強制再生すればいいっていう、命をドブに捨てるようなイカれた戦法を取っていたから。それに……何より、戦っている間、二人が私を絶対に傷つけないように、どうやって正気に戻して救おうかって、そればかり考えて手加減してくれていた隙を突いただけだもの。そんなハンデがなきゃ、素の戦闘力じゃあ、私なんて逆立ちしたって二人に勝てるわけないじゃない」

 

「……気づいてたの?」

 

クロコは驚きを隠せない様子で問いかける。しかし、自分の甘さを指摘されたような恥ずかしさから、すぐに視線を逸らして言葉を紡ぐ

 

「ん……。何を考えて戦っていたのか……。ひょ、ひょっとしたら、私は手加減なんてしてなくて、ただセリカの能力を観察して、どうやったら最小限のダメージで効率よく制圧して勝てるかを、戦術的に模索していただけかもだよ? 」

 

「普段は口数が少なくて、感情を滅多に表に出さないシロコ先輩が、そこまで早口でムキになって言い訳するってことは──私の言ったことが、ほとんど大正解だって証拠じゃない。やっぱり、先輩たちはどこまでも甘くて、優しいんだから。……安心してよ、からかったり、調子に乗ったりしないからさ」

 

セリカテラーはふぅと深く一息つくと、賑やかだった笑みを一度収め、静かに目線を真っ直ぐ前へと向けた。アビドスの広大な夜の地平線、その先に広がるどこまでも深い暗闇をじっと見つめる彼女の横顔には、もう一分の迷いもなかった

 

「必ず──自分の中の全部に気持ちの整理をつけて、笑顔でここに帰ってくるわ。その時は、もうこの姿の陰気な私じゃなくて、いつもの、あんたたちの知ってる黒見セリカとしてね」

 

セリカテラーは、アビドスのどこまでも広がる夜の地平線を見つめたまま、決意を秘めた声でそう告げた

 

「……うん。どこへ行っても、いつまでかかっても……何年先になったとしても、私はここで待ってる。セリカが、本当の笑顔を取り戻すその日まで」

 

クロコは小さく、けれど神聖な誓いを立てるように、深く力強く頷いた

 

その返事を聞いて心底安心したのか、それとも急に我に返って恥ずかしくなったのか、セリカテラーは視線をせわしなく泳がせ、白い包帯に包まれた右手の指先をいたずらっぽくいじり始めた

 

さっきまでの大人びた凛々しい態度はどこへやら、急に耳のあたりまで林檎のように真っ赤に染めてモジモジしだした未来の自分を見て、クロコが不思議そうに首を傾げる

 

「ん……? セリカ、どうかしたの? どこか身体が痛む……?」

 

「ち、違うわよ! 痛いのはいつものことだし、そうじゃなくて……その……!」

 

沈黙とクロコの無垢な視線に耐えかねたように、セリカテラーは意を決して、消え入りそうな蚊の鳴くような声で言葉を紡いだ

 

「ね、ねぇ……その前にさ……。病室に帰る前の、今だけの、私の一番の我が儘な、お願いを聞いてくれない?」

 

「お願い? ん、私にできることなら何でも。アビドスの銀行を襲撃する手伝い以外なら、大抵のことは叶える」

 

「そんな物騒なこと頼むわけないでしょ! ……そうじゃなくて、その……だ、抱きしめて欲しいのよ……」

 

「え……?」

 

最後の方はほとんど早口の、完全な照れ隠しだった。フフ、と笑うように揺れるリボンが、彼女の動揺を代弁している。けれど、あっちの世界でたった一人、どれほどの孤独と凍てつく絶望の中で、手遅れになってしまった先輩たちの幻影を追い続けてきたのか──その魂に刻まれた傷の深さを誰よりも知るクロコには、それがどれほど切実で、血を吐くような願いなのかが痛いほど伝わってきた

 

ただの幻なんかじゃなくて、ちゃんと、あんたが、大好きなシロコ先輩が私の前に現実として存在しているんだって……その確かな温かさを、この新しく生まれ変わった身体にちゃんと刻み込んでおきたかったのだ

 

「……そんなこと。それくらい、言われなくても、セリカが望むならいつでも、何度だってやってあげるよ」

 

クロコは一歩前に進み出ると、車椅子の前に静かに膝をついた。そして、少しでも力を入れれば壊れて消えてしまいそうな硝子の細工を扱うかのように優しく、けれど絶対に離さないという強い愛おしさを込めて、セリカテラーの華奢な身体を両腕でそっと抱きしめた

 

イチゴの甘い香りと、クロコの少し冷たい、だけど誰よりも温かい体温が混ざり合う

 

「……おかえり、セリカ。本当によく頑張ったね。もう、一人で暗闇の中で泣かなくていいんだよ」

 

その胸の温もりと、ずっと聞きたかった、夢にまで見た懐かしい声に触れた瞬間、セリカテラーの目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出た

 

彼女は動く方の右手をクロコの背中に回し、その衣服を強く、強く、指が白くなるほどに握りしめる

 

「……うう、くっ……ええ……ただいま、ただいま……シロコ先輩……! ずっと、ずっと寂しかった……っ、寂しかったよ……!」

 

静まり返った夜の屋上で、二人はお互いの確かな体温と、トク、トク、と刻まれる心臓の鼓動を確かめ合うように、長い間静かに抱き合い続けた

 

それは過去のすべての絶望に区切りをつけ、二人がそれぞれの新しい未来へ歩み出すための、言葉にできないほど神聖な儀式のようでもあった

 

 

それから数週間後──

 

トリニティの救護騎士団が誇る最先端医療と、セリカテラー自身が持つ驚異的な肉体の回復力(そして、ノノミが毎日満面の笑顔で差し入れる、一個数万は下らない高級な栄養満点の果物など)の甲斐あって、彼女の容態は、過去の戦いで失われた左腕や片耳を除いて、日常生活を完全に送れるまでに回復していた

 

雲一つない、どこまでも突き抜けるような青空が広がるアビドス高等学校の校門前

 

機能性を重視した、動きやすい黒を基調とした新しい旅装に身を包んだセリカテラーの前に、対策委員会のみんなが集まっていた

 

「本当に行ってしまうんですね……。せめて、もう少し体が完全に馴染むまで、アビドスで休んでいっても良かったのに……」

 

アヤネが今にも大粒の涙を溢れさせそうな顔で、胸の前で愛用のタブレットをきつく抱きしめながら、寂しそうに声を絞り出す

 

「もう、そんなに泣かないでよアヤネちゃん。キヴォトス国内を回るだけなんだから。永遠の別れじゃあるまいし。それに…ほら、モモトークのアカウントはちゃんと昨日、全員分交換したでしょ? 毎日生存報告のメッセージくらい送るわよ」

 

セリカテラーは困ったように眉を下げて笑いながら、先生に買ってもらったばかりの真新しいスマートフォンをポケットから取り出し、画面を向けて見せた

 

「ん。旅の道中、もしアビドスの砂漠を横断して渡るなら、サソリの毒には細心の注意を払ってね。油断して生で尻尾ごと食べると美味しいけど、毒のせいでめちゃくちゃお腹壊すから。しっかり火を通して、マヨネーズソースをつけるのがおすすめ」

 

「あんた……こっちの世界の砂漠で一体何を食べて生き延びてたのよ……。というかサソリって美味しいわけ……?」

 

現在のシロコからの、あまりにもワイルドで場違いなサバイバルアドバイスに、セリカテラーは盛大に顔を引きつらせて呆れ声を上げた

 

隣のクロコも「ん……シロコ、サソリはちょっと香ばしいエビの味がして、実は悪くない……」などと同意している。アビドスのシロコ達の野生児ぶりに目眩がしそうだ

 

「セリカテラーちゃん? 渡した高級トリートメントや保湿化粧水は、荷物になるからって絶対に途中で捨ててはダメですよー? 女の子はどんなに過酷な環境を旅していても、いつでも美容とお肌のケアには気を付けないとなんですから♪」

 

ノノミが両頬に手を当てて、お姉さんらしく念を押す

 

「あはは……。うん、入院中にあんな風に、毎日みんなに寄ってたかって猫のノミ取りみたいに大浴場で洗われるのは二度と御免だから……ちゃんと自分でお手入れするわよ。本当に、あの時は死ぬかと思ったんだから……」

 

入院中、身体が動けないのをいいことに、ノノミたちの手でおもちゃのように至高の泡に包まれ、どさくさに紛れて元の世界の自分に胸を揉みしだかれたあの気恥ずかしい数々の記憶(お風呂の悲劇)が脳裏を過り、セリカテラーは顔を赤くしながら引きつった笑みを浮かべる

 

「うへぇ〜、道中もし困ったり、ヘルメット団とかの怖い人に絡まれたりしたら、いつでもこのおじさんに言ってね? ヘリに乗ってどこへでも一瞬で駆けつけるからさ〜」

 

ホシノがいつものようにだらしなく、けれど全幅の信頼を置ける笑顔で笑いながらひらひらと手を振る

 

「はいはい、ありがと。でも、助けを呼んだのに『お昼寝してて遅れちゃった〜、うへ〜』なんて言ったら、その時は私、旅先から直接アヤネちゃんに緊急連絡して、あんたの頭の上にまた特大のお仕置き石を追加してもらうからね?」

 

「ひ、ひぃぃ!? 漬物石ダブルは本気で骨が砕けちゃうから勘弁してぇー!」

 

情けない声を上げてガタガタと震えだしたアビドス最強の生徒会長の姿を見て、セリカテラーをはじめ、その場にいた全員からドッと温かい笑い声が湧き上がった

 

仲間たちがそれぞれの言葉で別れの挨拶を告げ、少しずつ気遣うように後ろへ下がっていく

 

最後に残ったのは、この世界の「黒見セリカ」ただ一人だった

 

彼女は何かを言いあぐねているように、猫耳を小刻みに動かし、腕を組んで複雑な表情を浮かべながら、未来の自分の前に一歩踏み出した

 

「……あの、その、つまり……。私から、あんたに言うのもなんか変なんだけど……」

 

「……ちょっと、無理して気の利いたセリフなんて言わなくてもいいわよ? どうせ何も思いつかないんでしょ」

 

セリカテラーがわざと意地悪く、いつもの勝気な調子でニヤニヤしながら、からかうように言う

 

「う、うるさいわね! こういう時くらい、私だってちゃんとした感動的な別れの言葉を形に出来るわよ!」

 

セリカは一度浅く深呼吸をして、自分の顔の赤みを無理やり落ち着かせると、真っ直ぐに右手を差し出した

 

「──絶対に、何がなんでも帰ってきなさいよ! もし途中で行き倒れたりしたら、私がキヴォトス中を探し回って、意地でも引きずり戻すんだから! ……それで、無事に帰ってきたら、こっちの大将のラーメン、たらふく奢ってあげる。……私のバイト代、全部注ぎ込んででもさ!」

 

「ふふっ。何よそれ、それじゃあその時は、遠慮なく一番高いチャーシュー麺を大盛りで奢ってもらおうかしら?」

 

「もちろんよ! バイト代を注ぎ込んででも、いくらでも食べさせてあげるわよ! 任せなさい!」

 

セリカが力強く胸を張る。その真っ直ぐな瞳は、未来の自分が決して一人ではないことを、力強く肯定していた

 

セリカテラーは、色彩によって一度は異形へと変えられた、けれど今は仲間たちの愛によって人間の確かな体温を取り戻した右手を出して、この世界の自分の手を、これ以上ないほど固く、力強く握り締めた。二つの同じ魂が、時を越えて固い約束を交わした瞬間だった

 

「それじゃあみんな! ──行ってきます!」

 

差し込むアビドスの輝かしい朝日を背に受けて、セリカテラーは力強く地面を蹴り、一歩を踏み出して歩き始めた

 

その足取りには、もうかつての絶望や孤独の重みなど微塵もない。 どこまでも澄み渡る青空の下、彼女は歩み続ける

 

いつか必ず笑顔で戻るべき、最高に暖かで、理不尽なほどに騒がしい──あの愛おしい「我が家」を目指して。

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