シロコテラーと救われたかったセリカ   作:気弱

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嵐の中の作戦会議

小鳥遊ホシノの心が深い闇の底へと落ち、キヴォトス全土の理を揺るがすほどの災厄となった『セトの憤怒』がアビドス砂漠に降臨した──あの悪夢のような大事件から、早くも数週間という時が経過していた

 

一時は世界の終わりすら予感させた猛烈な砂嵐も今では完全に収まり、アビドス高等学校の古びた対策委員会の部室には、窓から差し込むいつもの穏やかな西日と、どこか気の抜けたような平和な空気が満ちている。あの大激戦を潜り抜けた少女たちは、心に負った目に見えない傷を互いの温もりで埋め合わせるように、まるで最初から何も無かったかのように愛おしい日常を取り戻していた

 

だが、今日ばかりは部室を包む空気が少しだけ違っていた

 

『アビドス対策委員会』という肩書こそついたものの、クロコが学校という狭い場所に四六時中縛られているわけではない。あっちの世界で息が詰まるほどに長く、残酷な孤独を味わい続けてきた彼女は、今もふらりと風のようにどこかへ出かけては、キヴォトスの様々な場所を気ままに渡り歩くような、猫のように自由な放浪生活を続けていた

 

そんな風に、今日も主役となるべき「もう一人のシロコ」が、対策委員会の預かり知らぬどこかの街を自由に歩き回っているこの隙に、彼女たちは本人に決して気づかれないよう、極秘の作戦会議を執り行おうとしていたのだ

 

窓の外では、珍しくアビドス全域を叩きつけるような凄まじい大嵐が吹き荒れており、ガタガタと古びた窓枠が悲鳴を上げている。アビドスを覆うその荒天を見つめながら、アヤネが教卓の前に立ってコホンと小さく咳払いをする

 

「みなさん、今日は突然のこのような大嵐ですからね……。残念ながら、外でのパトロールや地域の防衛といった、他の業務は一切することができません。そこで……せっかくのこの時間を有効活用して、今日のお題は『クロコ先輩へのサプライズ歓迎パーティ』の計画を立てたいと思います!」

 

パチパチパチ、とアヤネが手慣れた手つきでホワイトボードに黒のマーカーを走らせ、迷いのない達筆で大きく文字を書き出す。正式にアビドスへ籍を置くことになった「砂狼シロコ・テラー」を、仮初めの居候ではなく、本当の仲間として温かく迎え入れるための、アヤネが徹夜でシミュレーションを重ねて練り上げた渾身の企画書がそこにあった

 

「いいねぇ〜。クロコちゃん、いつもどこか遠慮がちだしさ。ここらでおじさんも一肌脱いで、盛大に頑張っちゃおうかな〜?」

 

そう嬉しそうに口にしながらも、当のホシノはいつも通り、色褪せて使い古されたクジラのぬいぐるみをぎゅっと抱き抱え、長い机の上に完全に突っ伏している。気怠げにパタパタと小刻みに動く片足からは、最上級生としての締まりというものが微塵も感じられない

 

「ちょっとホシノ先輩! そんな締まりのない格好で言われても、やる気が一ミリも伝わってこないわよ! ……まぁ、やるからにはトコトンやるけどね。私もアビドスの会計兼、看板娘として、当日は腕によりをかけて最高の料理をこれでもかってくらい振る舞ってあげるわ!」

 

だらけきったホシノに鋭いジト目を向けながらも、セリカは待ってましたとばかりに制服の袖をたくましく腕まくりする。バイト先である『柴関ラーメン』の過酷な厨房で日々鍛え上げられたその包丁捌きと調理技術は、今や対策委員会の貴重な兵糧と胃袋を支える絶対的な大黒柱となっていた

 

「ん、セリカの料理、楽しみ。……それなら、私も負けていられない。歓迎会のメインディッシュ用に、昨日から砂漠の奥地で仕込んできた最高の素材がある。それを使って、私が特製スープを作ろうかな」

 

「ちょっと待ってシロコ先輩、その『素材』ってまさかとは思うけど──」

 

シロコが淡々とした口調のまま、どこか誇らしげに胸を張った瞬間、セリカの脳裏に過去の凄惨な記憶に基づく不穏な予感が走り、本能的な恐怖から全力でその言葉を遮りにかかる。しかし、机に顎を乗せたままトロンとした目をしているホシノは、思い出したようにパッと目を輝かせて呑気な声を上げた

 

「えー? おじさんはシロコの砂漠ジビエ料理、意外とワイルドな味がして好きなんだけどな〜。お肉がキュッと締まっててさ、なんだか応援したくなっちゃう味っていうの?」

 

「確かに味自体は悪くなかったわよ!? っていうか、ホシノ先輩は何でも美味しそうに食べるから基準にならないの! 今回は『パーティ』なのよ!? クロコ先輩を驚かせて、心の底から喜ばせるための席なのに、あんなグロテスクな見た目の料理を出したら、歓迎するどころかただの嫌がらせになっちゃうじゃない!」

 

セリカの必死の形相での抗議にも、シロコは一切表情を変える気配すらない。それどころか、自分のこだわりを理解してもらおうと、どこか誇らしげにその琥珀色の瞳をきらめかせた

 

「大丈夫、セリカ。もう一人の私の好みに合わせて、今回は見た目にも細心の配慮をする。……お祝いのアクセントとして、カラッと乾燥させた特大のサソリを丸ごとトッピングするつもりだから」

 

「だからそれが一番ダメだって言ってるのよ! なんでサソリをそこまで入れようとするのよ!? あっちの世界のシロコ先輩だって、そんなおどろおどろしいもの出されたら流石に引くに決まってるわよ!」

 

「ん、栄養満点。もう一人の私、変なところ細いから、たくさん食べさせないとダメ。それに、元を正せば同じ私なんだから、サソリの美味しさも絶対に理解して喜ぶはず」

 

ガタッと椅子を鳴らして身を乗り出し、微塵の疑いもない大真面目な顔でグッと親指を立ててみせるシロコ。その、どこまでも斜め上を爆走する配慮と純粋な狂気に対して、セリカはついに返す言葉を失い、両手で顔を覆って大袈裟に頭を抱え込んでしまった

 

「あはは……。シロコ先輩、気持ちはとっても嬉しいんですけど、メニューに関しては事前にセリカちゃんと相談して決めてくださいね……?」

 

ホワイトボードの横で、アヤネはいつものように眼鏡の位置を指で直しながら、引きつった苦笑いを浮かべる。相変わらず噛み合わない、けれど、これ以上ないほどに騒がしくて温かいアビドスの日常。この賑やかな掛け合いこそが、失われたはずの未来を繋ぎ止めた、彼女たちの何よりの宝物だった

 

「それなら、私が食材の買い出しに行ってきますよ〜?」

 

不穏なサソリスープの危機を察したのか、それまで穏やかに微笑みながらお茶をすすっていたノノミが、救世主のような声音で提案した。同時に、彼女の制服の胸ポケットから、眩い輝きを放つお馴染みの最高級ゴールドカードが滑らかに突き出される

 

限度額という概念が存在しない魔法のカード

 

それがあれば、最高級の霜降り肉から見たこともない巨大なデコレーションケーキまで、キヴォトス中のあらゆる贅沢品を文字通り一瞬で買い揃えることが可能だった

 

しかし、その輝きを遮るようにして、机の上に突っ伏していたホシノが薄く片目を開けた

 

「ノノミちゃん、それは使ったら駄目だよー?」

 

「えー……こういう大切な時にこそ、みんなで盛大に使うためのカードなんんですよ?」

 

「駄ー目。クロコちゃんを歓迎するためのパーティなんだからさ、誰か一人の財力に甘えちゃうのは、ちょっと違うでしょ? おじさんたち全員の『気持ち』を同じだけ形にしなきゃさ」

 

「むぅ〜…」

 

いつになく「先輩」らしい、けれど優しく諭すようなホシノの言葉に、ノノミは引き下がるように小さく頬を膨らませた。シュンと肩を落としながら、まるで宝物を奪われた子供のような手つきで、大切そうにカードを胸ポケットの奥へと仕舞い戻す

 

コホン、とタイミングを見計らったアヤネがわざとらしい咳払いを一つ。それを合図に、脱線しかけていたホシノたちの視線が、再びホワイトボードの前に立つアヤネへと集まった

 

「えー、ただいまホシノ先輩が言った通り、今回のサプライズはノノミ先輩のゴールドカードには頼らず、私たち対策委員会の『身の丈に合った力』だけで開催したいと考えています。……そこでみなさん、現実的な予算を組むために、今の『リアルな所持金』を教えてもらってもいいですか?」

 

アヤネの問いかけに応じるように、部室の中にカサカサと財布を探る音が響き渡る

 

「んー、おじさんの全財産は……ほい、これだけ。820円だね〜」

 

ホシノが制服のポケットから引っ張り出したのは、使い込まれてところどころ糸がほつれた、年季の入ったカエルの形のがま口財布。机の上に逆さにすると、チャリンと頼りない音を立てて、数枚の百円玉と十円玉が転がり出た

 

「私は……そうね、ちょうど1250円よ。ほら」

 

セリカもまた、日々のアルバイト代が詰まっているであろう、可愛い猫のイラストが刺繍された二つ折りの財布を取り出す。看板娘として日々働いている割に中身が寂しいのは、その大半がアビドスの膨大な利子返済へと直行しているからだった

 

「私は……220円。この間、ロードバイクの新しいブレーキワイヤーとチェーンオイルを買ったばかりだから、絶望的に金欠」

 

シロコがスクールバッグの奥底から取り出したのは、飾り気のない無地のスポーツ財布。中から出てきたのは、自動販売機でジュースを一缶買えば消し飛んでしまうような、わずかな小銭だけだった。そのあまりに堂々とした金欠宣言に、アヤネの視線が少しだけ泳ぐ

 

「あはは……。大変申し訳ないことに、私は普段から現金をほとんど持ち歩いていないんですよね……」

 

ノノミが困ったように眉を下げ、自身の財布を開いて見せる。中には何枚もの高級カードや、どこかのリゾート地のVIP会員証が隙間なく並んでいたが、日本円の紙幣や硬貨の姿は綺麗さっぱり見当たらなかった

 

「ふむふむ……なるほど。ちなみに、私の今の手持ちが890円ですので……全員分を合計すると、3210円ですね」

 

アヤネが自身の眼鏡付きのシンプルな小銭入れから現金を導き出し、机の真ん中へ、全員分の小銭と千円札を綺麗に整列させる

 

窓の外で吹き荒れる大嵐の音と、ガタゴトと頼りなく鳴る教室の扇風機の音だけが、やけに大きく響いていた

 

机の上に鎮座する、3210円という数字。少女たちはしばらくの間、そのささやかな現金の山をじっと見つめたまま、完全な無言に陥った

 

誰もそれを口に出そうとはしなかった。しかし、その場にいる全員が考えていることは、間違いなくただ一つだった

 

(……これ、本当にパーティの費用として足りるの……?)

 

キヴォトスの物価を考えれば、5人(クロコを入れれば6人)の胃袋を満たす食材を買い揃えるだけでも、この予算では到底足りない。お祝いのケーキはおろか、クラッカーや飾り付けの風船を買う余裕すら怪しいという、あまりにもシビアな現実

 

その重苦しい沈黙を、突如として破ったのはシロコだった

 

「……お金がかからない方法。それは、大自然からの自給自足。つまりは、砂漠の奥地での本格的な狩り……」

 

シロコの瞳に、ギラリと危険な光が灯る

 

「……もしくは、近隣の銀行を襲う」

 

「ちょっと!!」

 

言うが早いか、シロコは通学カバンの中から、白いマジックインキで大きく『2』と殴り書きされた、アビドスお馴染みの青い覆面を素早く引っ張り出した。頭に被る一歩手前でそれを握り締め、もう片方の手で愛銃であるアサルトライフルの機関部を慣れた動作でガシャリと引く。少女の水色の瞳は、まるでこれから正義の執行に赴くかのように、純粋で、キラキラとした凶悪な輝きを放っていた

 

「そんなの、風紀的にも常識的にも許可出来るわけないでしょ!? 狩りはまだ百歩譲ってともかく……いや、パーティのメインディッシュに野生動物の肉を出すのも私は嫌なんだけどさ! 銀行強盗なんて絶対にダメに決まってるわよ! 対策委員会の歓迎会のために、なんで私たちが犯罪者にならなきゃいけないのよ!」

 

「ん…残念…」

 

間髪入れずに、セリカの鋭いツッコミと怒声が部室に響き渡る。いつものようにシロコの襟首を掴まんばかりの勢いで捲し立てると、銃を担いでいたシロコは、まるで外の大嵐に打たれた子犬のように耳を寝かせ、あからさまにシュンと肩を落として覆面をカバンへと戻した

 

「はぁ……。もう強盗の話はナシ! 私の方は、この大嵐が収まったらすぐに『柴関ラーメン』の大将のところへ行って、何か食材の端切れとか余ったスープとか、安く譲ってもらえないか直接交渉してみるわ。身内贔屓って言われるかもしれないけど、あの大将なら事情を話せば、新しい仲間のためだしきっと色々と融通を利かせてくれるはずだしね」

 

シロコの突飛な暴走を物理的かつ論理的にねじ伏せたセリカが、おでこに浮かんだ汗を制服の袖で拭いながら、現実的かつ確実な妥協案を提示する。その極めて建設的で頼もしいアイデアを聞き、机の上でようやくやる気なさげに上半身を起こしたホシノが、ひらひらと頼りなく片手を挙げた

 

「お、セリカちゃん流石だね〜。やっぱりアビドスが誇る最強の看板娘は頼りになるなぁ。それじゃあさ、嵐が過ぎ去ったらおじさんとアヤネちゃんで、この3210円の全財産をがっちり握り締めて、街のスーパーとか百円ショップを巡ってこようかな? この限られた予算内でも買えそうな最低限の見栄えがする飾り付けと、あとセリカちゃんの料理に足りない食料品を見繕ってくるよ〜」

 

「いいですね、ホシノ先輩! 大嵐の翌日なら、物流の関係や客足の戻りを狙ったタイムセール、あるいは見切り品の思い切った安売りが各所で期待できるはずです。少しだけアビドス自治区の外まで足を延ばして、隣接する商業区画の激安スーパーまで行けば勝算はあります。買い出しの移動ルートと費用の効率を徹底的に計算しましょう!」

 

アヤネが愛用のノートパソコンの画面をパチパチと素早い手つきで叩きながら、近隣の特売情報やクーポン情報を嬉しそうにブラウジングし、ニコニコとした満面の笑みを浮かべる

 

いつもなら天文学的な額の借金返済と日々の予算の無さに頭を抱え、胃をキリキリと痛めているはずの彼女が、心底楽しそうに声を弾ませている様子を見て、ノノミがおっとりと首を傾げた

 

「あらあら、アヤネちゃん、なんだか今日はずいぶんとご機嫌ですね〜?」

 

「だって、ノノミ先輩! いつもなら戦闘以外の事務作業やこういった真面目な会議では全く頼りにならないホシノ先輩が、今日に限ってはこんなに真面目に、しかも自分から率先して動いてくれようとしてるんですよ!? 万年書類や雑務に追われている私としては、もう嬉しくて涙が出そうなくらいの異常事態です!」

 

「アヤネちゃん?言葉の端々にトゲというか、おじさんに対する日頃の睡眠不足からくる怨念がめちゃくちゃ混ざってない? 気のせいかな〜、おじさんちょっと傷ついちゃうぞ?」

 

アヤネの容赦のない日頃の鬱憤がこもったド直球な本音を聞かされ、ホシノは引きつった苦笑いを浮かべるしかなかった。とはいえ、普段の会議中には大半の時間をぬいぐるみに顔を埋めて睡眠に費やし、山のような行政書類の作成や部費の細かい計算をすべて最年少のアヤネに丸投げしているという絶対的な自覚がホシノ自身にもあるため、それ以上は一切の有効な反論ができずにバツが悪そうに頭を掻く

 

「ん。それなら、私とノノミはクロコへのプレゼント担当。もう一人の私のために、最高のロードバイクのジャンクパーツを見てくる。アビドス周辺の廃品回収所や、砂に埋もれたスクラップ場を徹底的に探せば、壊れて打ち捨てられたフレームや歪んだホイールがタダ同然で手に入るはず。それを私の工具で完璧にオーバーホールして組み直して、新品同様にピカピカに磨き上げてプレゼントすれば、元を正せば同じ『私』なんだから絶対に泣いて喜ぶ」

 

「まぁ、素敵ですね♪ シロコちゃんのプロ顔負けのメカニック技術なら、きっと素晴らしい自転車が仕上がりますよ〜。私、お知り合いのトラックの運転手さんにお願いして、使えそうな大型パーツを一緒に運ぶお手伝いをしますね!」

 

先ほどまで銀行強盗の作戦を全否定されてシュンとしていたシロコが、今度は合法的な手段を見つけて目を輝かせながら勢いよく手を挙げる

 

その、全員が自発的に意見を出し合い、かつ生産的な役割を分担していくアビドス対策委員会の理想的な光景を目の当たりにして、アヤネは胸元でぎゅっと拳を握り締め、さらにメガネの奥の目を潤ませた

 

「素晴らしいです……!私がこのアビドスに入学して以来、初めて……本当に初めてこんなに建設的で、誰もサボっていないまとまりのある素晴らしい作戦会議が行われています……! これならきっと、私たちの手だけで最高のパーティが作れますよ!」

 

涙ぐむアヤネを中心に、アビドスの作戦会議はこれまでにないほどスムーズに進行していった。それぞれの明確な担当が決まると、限られた3210円の中でどんな食材を効率よく買うべきか、百円ショップの資材でいかに豪華に見せる飾り付けをするかという、実戦さながらの熱いディスカッションが始まった

 

窓の外で吹き荒れる強烈な雨風の音など、今の彼女たちの耳には微塵も届いていない。すべては、新しく私たちの輪に加わった、けれど未だにどこか遠い目をしながら遠慮がちに佇んでいる「もう一人の仲間」の、心からの笑顔を見るために

 

ーーー

 

それから数日後

 

大嵐が去ってすっかり持ち直したアビドス高校の、普段は静まり返っている古びた調理室には、食欲を激しくそそる香ばしい醤油ベースのタレの香りと、トントン、トントンと小気味よいリズムを刻む包丁の音が心地よく響き渡っていた

 

「先生から連絡〜。今日はクロコちゃん、バイトも依頼も何もなくて、一日中暇なんだってさ。今は先生と一緒に、シャーレで特にお仕事もせずのんびりテレビを見てるみたいだよ〜」

 

調理室の片隅、年季の入った給湯器の横に置かれたパイプ椅子に深く腰掛けたホシノが、手元のスマートフォンに届いたモモトークの画面を眺めながら、いつもの眠たげな声音でのんびりと告げる。画面の向こうの先生からは「いつでも連れ出して大丈夫だよ」という旨のお墨付きのメッセージも添えられていた

 

「よし、ターゲットの情報確認完了! それじゃあ今日が文句なしのサプライズ決行日ね! 柴関の大将から最高の食材をたっぷりと仕込んでもらったんだから、何が何でも絶対に成功させるわよ!」

 

「ん、しまった。砂漠のベースキャンプに、昨日トラップで捕獲したばかりの新鮮で瑞々しいサソリを忘れてきた。今から急いで取ってくる」

 

「だから! それは最初からいらないって何度も何度も言ってるでしょーが!!」

 

エプロン姿のセリカが、手にした大きなお玉をまるで武器のようにブンブンと振り回しながら、調理台の横で今にも飛び出そうとしていたシロコに向かって怒鳴り声を上げる

 

ターゲットであるクロコの動向を先生経由で完璧に探らせていたホシノが、予定通り彼女が完全にフリーであることを確認すると、対策委員会のメンバーは一斉に作戦の最終段階へと移行した

 

調理室ではシロコとセリカが息を合わせて料理の仕上げを担当し、本校舎の教室の方ではアヤネとノノミが、百円ショップで買い集めてきた色とりどりの画用紙や風船、きらきら光るモールを使って、手作り感満載の華やかな飾り付けを猛ピッチで進めている

 

セリカが再びまな板に向かい、『柴関ラーメン』の大将が「アビドスの新しい身内のためなら、いくらでも持ってきな!」と快く無料で譲ってくれた特製の激ウマ極厚チャーシューに包丁を入れる。秘伝のタレが中までしっかりと染み込んだ絶品の肉塊を、手際よく、かつ均等の厚さに切り分けていく。そのすぐ隣で、ガラをじっくり煮込んでいる大鍋のスープを監視していたシロコが、ふと何かを思いついたように懐から小さなピンセットを取り出し、セリカの横顔をじっと見つめた

 

「セリカ、朗報。調理室の裏にある大型乾燥機の配管下を検めたら、丸々と太ったちょうどいいサイズのサソリが隠れてた。こっちのアビドス産なら、今からでもスープの出汁の隠し味に十分に間に合う。……入れていい?」

 

「ダメに決まってるでしょ!? なんであんたはそこまで頑なにサソリを煮込もうとするのよ!? っていうか、そんな出所不明の怪しい虫を学校の調理室に持ち込まないで! 衛生管理の概念はどうなってるのよ!」

 

「ん、誤解。サソリはキヴォトスの過酷な乾燥環境を生き抜くための、最高の滋養強壮。もう一人の私はあっちの世界で信じられないくらい苦労して、栄養も偏っているはずだから。これを食べて、少しでも元気になってもらいたい。……これは私の、精一杯の温かい思いやり」

 

「その思いやりの方向性が絶望的に凶悪すぎるのよ!!」

 

効率的かつ抜群の手際でベースとなるラーメンや各種の中華料理を完成させていく二人。しかし、何故かシロコだけは終始一貫してサソリのトッピングを全面的に、かつ微塵の悪気もない大真面目な顔でプッシュしてくるため、セリカは包丁を握ったまま、本日何度目か分からない強烈な頭痛に襲われて激しく頭を抱え込むのだった

 

ーーー

 

「これくらいの位置ですか〜?」

 

「そうですね……あ、もう少しだけ右、いえ、左でしょうか? あっ、やっぱりノノミ先輩、今の最初の位置でぴったりです!」

 

「ふふ、分かりました〜。じゃあ、ここにテープでしっかり固定しちゃいますね♪」

 

調理室の騒がしい喧嘩の声とは対照的に、本校舎の部室でノノミとアヤネが担当する飾り付け作業は、極めて順調かつ穏やかに進んでいた。グラグラと揺れる脚立の上で抜群のバランスを取りながら、色とりどりの輪っか飾りを器用に天井へと貼り付けていくノノミと、その下から指示を出しながら「アビドス対策委員会 歓迎会!」と丁寧に手書きされた特大の横断幕の傾きを微調整するアヤネ

 

二人の息はぴったりで、見慣れた殺風景な教室の壁面は、見る見るうちに百円ショップのカラフルな装飾で彩られていく

 

パイプ椅子に深く腰掛け、そんな二人のがんばりを遠目からのんびりと眺めていたホシノは、ふと手元のスマートフォンから視線を外し、大きく開け放たれた窓の外へと目を向けた

 

ちょうど真昼の太陽が中天に差し掛かるアビドスの空は、嵐が去ったばかりの澄んだ大気のせいで、グラデーションのような青がどこまでも高く広がっている。その遙か彼方、遮るものの何もない不毛な砂漠の地平線を見つめながら、ホシノの脳裏には、ある一人の人物の優しい笑顔が鮮明に浮かび上がっていた

 

(ユメ先輩。……今日ね、このアビドスにまた、新しい後輩が一人増えるんだよ)

 

一瞬だけ、愛おしそうに目を細めて高い空を見上げる

 

あの凄惨な大事件の渦中、過去の呪縛と先輩を失った絶望に囚われてテラー化し、世界を滅ぼしかけたあの瞬間。仲間たちの決して諦めない強い絆と、先生の差し伸べてくれた絶対的な手によって光を取り戻したホシノは、ここ数週間をかけて、少しずつではあるが確実に前を向くための努力を始めていた

 

あの日、あの砂漠の真ん中で置いてきてしまった最愛の先輩への未練。自分の心がもっと強ければ、自分がもっとあの人に寄り添って優しくしていれば救えたかもしれないという、何年も胸を蝕み続けてきた無数の後悔。それらをすべて無かったことにするのではなく、今はその重みごと、自分の両肩にしっかりと受け入れ、一生をかけて抱きしめて生きていく覚悟を決めていた

 

だからこそ、これからはもう、空を見上げるたびに届かない懺悔の言葉を独りごちたり、後ろ向きな涙を流したりするのは終わりにしよう。その代わりに、ユメが何よりも大好きだったこのアビドスで起きた、たくさんの温かい出来事や、これからみんなで紡いでいく楽しい思い出を、あの人にたくさん報告してあげよう

 

ホシノは心の奥底で、静かにそう誓っていた

 

「ふぅ……っ」

 

小さく、けれどどこか晴れやかで、確かな決意の籠もった一息を吐き出す

 

鼻腔をくすぐる調理室からの美味しそうなチャーシューの匂いと、すっかりパーティ仕様に変貌した賑やかな教室の様子を確認し、ホシノは手元のスマートフォンを操作してクロコへのモモトークの送信ボタンを押した。画面には「いまからむかえにいくよ〜」という、ゆるい文章が表示されている

 

「それじゃあ……おじさんは、本日の可愛い主役を迎えに行ってくるね〜」

 

がま口財布をポケットに仕舞い、愛用のショットガンを肩に担ぎ直しながら、ホシノはいつもの眠たげな、けれどどこか嬉しそうな笑顔で立ち上がる

 

「あ、ホシノ先輩。くれぐれも道中で油断して、クロコ先輩を驚かせる前にネタバラシしちゃダメですからね! よろしくお願いします!」

 

アヤネの少しだけ心配そうな、けれど信頼の籠もった声を背中で受け止めながら、ホシノはひらひらと手を振り返して、真昼の部室を後にした。廊下を歩く足取りは、数週間前よりもずっと軽やかだった

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