ホシノがアビドス高校の重い玄関扉をくぐり、砂混じりのアスファルトへと踏み出した時、世界はちょうど真昼の強い日差しに包まれていた
数日前の、あの不気味なほど突発的だった猛烈な大嵐が嘘のように、今日のアビドス自治区は雲一つない鮮やかな青空が広がっている。じりじりと肌を焼くような強烈な熱気の中を、ホシノは肩にショットガンを引っ掛けたまま、のんびりとした足取りで歩いていく。向かった先は、学園からほど近い場所にある、今では利用する人も少なくなった小さな児童公園だった
錆びついた鉄製の入り口アーチをくぐり、背の低い生垣の向こう側へと視線を向けると、目当ての人物の姿はすぐに見つかった
日差しを遮るもののない緑の芝生の上に、黒とティールグリーンの複雑なドレスに身を包んだクロコが、風を孕んで静かに佇んでいた。細い首元を飾る華奢な黒いチョーカーと、むき出しになった白い鎖骨が、真昼の太陽の下でどこか眩しく、そして少しの儚さを湛えている
そのクロコの前に、一人の小さな少年が息を弾ませて立っていた
「お姉ちゃん、ありがとう! 今のキック、すっごく格好よかった!」
「ん。どういたしまして。……次からは、ボールが道路に飛び出さないように気をつけてね」
クロコが足元に転がっていたサッカーボールを拾い上げ、少年の小さな両手に優しく手渡す。少年は満面の笑みを浮かべ、何度も元気に手を振り返しながら、公園のゲートの向こうへと走って去っていった
クロコは、その少年の小さな背中が住宅街の角に消え、完全に姿が見えなくなるまで、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。その表情には、あっちの世界で何もかもを失った彼女だからこその、どこか切なさと愛おしさが混ざり合ったような、とても静かで優しい眼差しが宿っている
そんな「もう一人のシロコ」の佇まいを、ホシノは少し離れた木陰から、自身の過去の記憶と重ね合わせるようにしてじっと見守っていた。あっちの世界で、あらゆる理不尽と絶望を経験し、孤独な暗闇の底を這うような痛みを味わったはずの彼女。それなのに、その胸の奥底には、困っている誰かを放っておけないアビドス本来の優しさが、今もなお、これ以上ないほど純粋な形で息づいている
ホシノは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、足音を立てないようにゆっくりと近づき、彼女の背後から声をかけた
「クロコちゃん、お待たせ〜。おじさんが直々にお迎えに参上したよ」
「……っ、ホシノ先輩」
声をかけられた瞬間、クロコの頭上でツンと尖った獣耳がピクッと敏感に反応した。彼女は弾かれたようにゆっくりと振り返り、美しい水色の瞳に驚きと、それから微かな安堵の色を浮かべる
「ん。モモトークを貰ってから、そんなに時間は経っていないはず。……来るのが、予想よりもずっと早かったね」
「あはは、おじさんこう見えて足は速いからね〜。それよりさっきの少年、何かあったの? ずいぶんと仲良さそうにお喋りしてたみたいだけど」
ホシノが首を傾げながら少年の去った方向を指さすと、クロコは少しだけ気まずそうに視線を泳がせ、ドレスの裾をきゅっと握り締めた。マフラーがない分、彼女が困惑した時に喉元がかすかに動く様子が、ホシノの目にははっきりと映る
「……ここで先輩を待っていたら、あの子のボールが偶然、高いフェンスの向こう側まで飛んでいってしまって。……それを、拾って渡しただけだよ」
「ふーん? ただボールを拾ってあげただけなんだ? ……その割にはさ、クロコちゃんの綺麗なドレスのスカートや袖口、ずいぶんと派手に土が付いちゃってるみたいだけど?」
ホシノは一歩歩み寄り、クロコの膝のあたりに白く残る泥汚れをからかうように指でツンツンと突っついた。真昼の光に照らされたその汚れは、彼女がこの公園でかなり激しく動いていたことを証明している
その意地悪な指摘に、クロコはますます耳をペタンと寝かせ、白くて綺麗な頬をほんのりと朱色に染め上げた
「……それは、その。……手を使わずに、フェンスに跳ね返ったボールをトラップして、そのままダイレクトボレーで男の子の胸元に綺麗に返したら……お姉ちゃん凄いって、すごく褒められて。……だから、嬉しくなって、そのあとに少しだけ、リフティングの技を見せてただけ」
「あはは! なーんだ、クロコちゃん、あの子に格好いいところを見せたくて夢中になっちゃってたんだね〜?」
早口で言い訳を並べるクロコの、年相応で素直な反応がたまらなく愛おしくて、ホシノは声を上げて楽しそうに微笑んだ。あっちの世界でどれほど過酷な運命を背負わされても、褒められて少し得意げになってしまうような、そんな「シロコ」としての本質は何一つ変わっていない
その事実が、ホシノにとっては嬉しくて仕方がなかった
「ん……違う。そんなんじゃない。私はただ、あっちの世界のシロコとしてのプライドが、少しだけ……」
ホシノにすっかり見透かされ、完全に顔を真っ赤にしたクロコは、それ以上からかわれるのを拒むようにフイッと顔を背ける
そして、指摘された膝やドレスのフリルの汚れを隠すように、残された右手を大きく動かして、パパパパン!と、やけに大きな音を立てて激しく泥を叩き落とし始めた
「わわ、ちょっとクロコちゃん、そんなに勢いよく叩いたら余計に土が繊維の奥に入っちゃうよ〜?」
「ん。大丈夫、問題ない。これはキヴォトスの最新のドレスだから、これくらいの衝撃には耐えられる……。っていうか、ホシノ先輩、もうその話は終わり。これ以上言ったら、怒る」
「えへへ、クロコちゃんになら怒られても嬉しいだけだけどね」
ばつが悪そうに、けれど必死に泥をパタパタと叩き続けるクロコの耳は、真っ赤になったまま健気に震えている。ホシノはそんな彼女の隣にそっと歩み寄ると、その必死な右手を優しく包み込むようにして止め、柔らかい笑みを浮かべた
「それで……何かあったの? 突然、こんなお昼時に呼び出すなんて」
ほんのりと朱に染まった頬の赤みを隠すように、クロコは残された右手の指先を、むき出しになった細い首元の黒いチョーカーへとそっと這わせた。不思議そうに揺れる琥珀色の瞳が、真昼の強い光を反射してきらりと輝く
元々、戦い以外の「日常的な誘い」を受けることに、彼女の心はまだ驚くほど慣れていない。先生という仲介役を通さずに、ホシノから直接「公園で待っていてほしい」と短いモモトークが届いた時、彼女の胸の奥は、かつて世界を破滅へと導いたあの暗い緊迫感を無意識に思い出し、ほんの少しだけ強張っていたのだ
身に纏った漆黒のドレスの裾が、彼女の微かな緊張を映すように、乾いたそよ風に小さく揺れる
「んー、それは付いてからのお楽しみ、かな? ほら、みんなも今か今かと教室で待ち侘びてることだし、さっそく学校に行こうよ」
ホシノは悪戯っぽくオッドアイの片目を瞑ってウインクをして見せると、あえてその詳細を隠したまま、楽しげに回れ右をして歩き出した。肩に担いだショットガンが、彼女の弾むようなステップに合わせて小さく揺れる
「……分かった」
クロコは短くそう返事を返すと、それ以上は何も追求しなかった。ただ、ホシノのすぐ隣、その頼もしい背中が作るわずかな陰に滑り込むようにして、ぴったりと歩調を合わせて歩き出した
真昼の太陽が砂漠の街をどこまでも白く照らし出す中、アビドス高校へと続く、今ではすっかり見慣れた通学路を、二人の少女の影が並んで伸びていく。かつては色彩の交わらない別々の世界で、互いに重い銃火器を構えて命を削り合った二人が、今、こうして静かな風の中で肩を並べて歩いている。その事実自体が、まるで奇跡の結晶のようだった
学校に着くまでの間、二人は本当に他愛のない、けれど砂粒のように細やかで愛おしい日々の出来事について言葉を交わした
驚いたことに、主に進んで口を開いたのはクロコの方だった。あっちの世界では「話す相手」すら存在せず、ただ冷徹に任務を遂行するだけだった彼女の唇から、堰を切ったようにこっちの世界での「日常」が、ホシノの耳へと語り聞かされていく
最近は、こっちのシロコに毎日のようにサイクリングへ誘われるのだという。今はまだシャーレの折りたたみ自転車を借りている状態だが、近いうちに自分専用のロードバイクを買おうと、密かにアルバイトの計画を立ててお金を貯めていること
またある日には、セリカの様子を見に『柴関ラーメン』の暖簾をくぐったらしい。夕暮れ時の店内に入った瞬間、セリカは「な、何よ!? その子供を見るような優しい目!?」と顔を真っ赤にして大慌てで恥ずかしがっていたが、いざラーメンが運ばれてくると、厨房の奥から小声で「……これ、私が仕込んだやつだから……サービスよ」と、極厚の特製チャーシューをこれでもかと何枚もオマケしてくれたこと
またある日は、ノノミに手を引かれて賑やかなショッピングモールへ連れて行かれ、まるでお人形さんのように次から次へとフリルの付いた可愛い服を着せられて、危うくゲリラ的なファッションショーを開催させられかけたこと
そしてまたある日の放課後には、アヤネの買い出しに付き合って重い資材や書類の束を持ってあげたお礼にと、駅前の小さな売店で「他のみんなには内緒ですよ?」と悪戯っぽく微笑むアヤネと一緒に、ベンチに並んで冷たいソフトクリームを食べたこと
どの話をする時も、クロコはいつものクールな無表情をほんの少しだけ緩め、本当に楽しそうに、嬉しそうに灰色の獣耳を優しく揺らしながら、水色の瞳を細めて話してくれた。彼女の口から語られる一言一言、その小さな感情の変化のすべてが、ホシノにとっては愛おしくて仕方がなかった。ただ隣でその少し掠れた声を聞いているだけで、ホシノの心の奥底から、じんわりとした温かいものが溢れ出してくるのを感じていた
「ん……話をしてたら、本当にすぐだったね」
ふと前方を見上げると、いつの間にかアビドス高等学校の砂に削られた古びた校舎が、目の前に迫っていた。しんと静まり返った廊下を渡り、傾斜の急な階段を上り、たどり着いたのは、いつも彼女たちが集まる『アビドス廃校対策委員会』の教室の目の前だった
「それじゃあ、クロコちゃん。おじさんを信じて、その扉を開けてみてよ」
ホシノは悪戯っぽい笑みを深め、一歩下がって引き戸の使い古された取っ手を指さした
「?」
クロコはホシノの言葉に、不思議そうにコクリと首を傾げた。頭の上の獣耳が不審そうにピクピクと動く。それでも、目の前の先輩を拒む理由など、彼女には何一つない。彼女は残された右手をそっと伸ばし、ゆっくりと、静かに教室の重い扉を開け放った──その瞬間
──パーン!!!
静寂を切り裂くように、鼓膜を震わせる鮮やかな破裂音とともに、色とりどりの紙吹雪と金色のテープが、真昼の教室に差し込む光の中にキラキラと美しく舞い踊った
「!?」
不意の爆音に、クロコはあっちの世界で培った戦闘狂としての本能が瞬間的に覚醒し、一瞬だけ身を低くして完璧な警戒態勢を取る。しかし、そこには硝煙の匂いも、敵意の気配も一切ない。代わりに彼女の鼻腔をくすぐったのは、お菓子の甘い匂いと、食欲をそそる香ばしい醤油の香りだった
「クロコ先輩! アビドス対策委員会へ、ようこそ!!」
クラッカーの筒を両手でしっかりと握り締めたアヤネの、割れんばかりの弾けた声が教室中に響き渡る
驚きで丸くなった水色の目を、クロコはゆっくりと見開いた。その視界に、今まで見たこともないほどとびきり鮮やかで温かい景色が飛び込んできた
天井からは百円ショップの画用紙で作られた手作りの輪っか飾りが何重にも吊り下げられ、正面のホワイトボードには、アヤネが徹夜で書いたであろう『クロコ先輩、大歓迎!!』の文字と、少し下手くそだけど愛嬌たっぷりのシロコたちの似顔絵が大きく描かれている。そして、教室の真ん中に寄せられた机の上には、湯気を立てる大盛りのラーメンや山盛りのチャーハン、セリカとシロコが腕を振るった色鮮やかな手料理の数々が、まるでお祭りのように所狭しと並べられていた
「これは……一体……?」
あまりの想定外の事態に、完全に思考がフリーズしてしまったクロコは、漆黒のドレスを纏ったまま、一歩も動けずにその場に呆然と固まってしまう
「これはね、クロコちゃんの歓迎会だよ。あっちの世界から、色んな苦難や悲しいことを乗り越えて、やっと、やっとクロコちゃんが私達の『仲間』になってくれたでしょ? それがもう、みんな本当に、言葉にできないくらい嬉しくてさ。だからみんなで、内緒でコツコツ準備してたんだよ」
ホシノが後ろからそっとクロコの華奢な背中に優しく手を添え、驚きに立ち尽くす彼女を、温かい光に満ちた教室の中へと促した
「ちょっと、いつまで扉の前で突っ立ってるのよ。主役のあんたが席に着かないと、せっかくのパーティが始められないじゃない」
呆れたような、けれど言葉の裏には隠しきれない照れくささが滲む声を上げて、エプロン姿のセリカが席を立った。そのまま、あまりの衝撃にまだ網膜を瞬かせているクロコの手を、驚くほど確かな、生きている人間の温かさで引き、上座に用意されていた特等席のパイプ椅子へと優しく座らせる
「はい、どうぞ♪ クロコちゃん。こっちの特製ラーメンは、柴関ラーメンの大将が『新しいメンバーのためだ、景気良く持っていきな!』って、タダでチャーシューを丸ごと譲ってくれたんですよ。で、こっちの湯気を立てている山盛りのチャーハンと唐揚げは、シロコちゃんとセリカちゃんが調理室でサソリを入れる入れないで喧嘩しながら作った特製料理です!」
ノノミは限度額のないゴールドカードの代わりに、愛情とボリュームがこれでもかと詰め込まれた大皿をクロコの目の前に並べ、聖母のような慈愛に満ちた優しい笑顔を咲かせる。目の前からは、セリカが火加減にこだわり、シロコがスープの温度を徹底管理して作った料理の、たまらなく香ばしく美味しそうな匂いが立ち上っていた
「……それと、これは私とノノミから。これなら、明日からでも一緒に走れるでしょ?」
シロコが、教室の隅に隠されていた大きな白い布を、満足げに勢いよく引っぺがした
バサリと布が床に落ちて現れたのは、真昼の窓光を浴びて鈍く洗練された光沢を放つ、完璧にメンテナンスされた一台のロードバイクだった。シロコ自身が愛用しているあの鮮やかな青いバイクと、全く同じフレーム形状、同じアビドスの過酷な環境に耐えうる最高峰のスペック。けれどその強固な車体は、クロコのイメージカラー、そして彼女が身に纏う漆黒のドレスの色彩に合わせるかのように、マットで美しい「黒」に美しく塗装されていた
予算3210円というシビアな現実の中、シロコとノノミが廃棄場やスクラップ場からジャンクパーツを泥だらけになってかき集め、寝る間を惜しんで錆を落とし、新品同様に組み上げた、世界に一台だけの特別なプレゼント
差し出されたたくさんの手作りの温かさと、自分をまっすぐに見つめて待っていてくれた「仲間」の姿
かつて、誰もいない崩壊したアビドス自治区の瓦礫の中で、血と砂にまみれながら一人きりで泣いていた少女。どれだけ叫んでも救いが来ないと世界を呪い、色彩に呑まれテラーの概念へと身を落とした彼女の、何年も凍てついていた孤独な心が、今、目の前にある眩しいほどの光と笑顔によって、跡形もなく溶かされていく
「みんな……本当に、ありがとう……」
クロコの唇から、小さく掠れた、けれど魂の底から溢れ出た本心の言葉が零れ落ちた
いつもは冷徹な戦士として、あるいはすべてを諦めた傍観者として凍りついていた彼女の顔に、まるで厳冬の砂漠に春の訪れを告げるかのような、これ以上ないほどに穏やかで、瑞々しい「本物の笑顔」が優しく咲く
その瞬間を固唾をのんで見届けたセリカも、シロコも、ノノミも、アヤネも、そしてホシノも、全員が弾けたような満面の笑みを浮かべた。サプライズは大成功だ。失われたはずの未来、壊れたはずの絆を泥臭く繋ぎ止めたアビドスの教室に、今度こそ、誰一人欠けることのない最高の笑い声が、大嵐のあとの青空へと響き渡った
それから、クロコがようやく気持ちを落ち着かせるのを待ち、メンバー全員がそれぞれの席に腰を下ろして、待ちに待った料理を心ゆくまで楽しみ始めた
教室の空気は一瞬にして、極厚のジューシーなチャーシューを頬張る至福の表情と、賑やかな箸の音、そして他愛のない笑い声で満たされる。特にこっちの世界のシロコと、もう一人のシロコであるクロコは、目の前に並んだ山盛りのチャーハンと唐揚げを、まるで競い合うかのような驚くべきスピードで平らげていき、その銃の早撃ちさながらの見事な食べっぷりは、周囲のメンバーを圧倒するほどだった
「ん。そ、そんなに急いでガツガツ食べたら、デブシロコが更にデブシロコになっちゃうよ。少しはセリカが汗水垂らして作った料理を、よく噛んで味わって食べたら?」
クロコがレンゲを動かす手をピタリと止め、隣に座って口いっぱいにチャーハンを詰め込んでいるシロコを、ジト目になってじっと見つめる
「ふ、太ってない。これは毎日アビドス自治区を何十キロもサイクリングして鍛え上げられた、純粋な筋肉。……それに、そっちの肉体労働ばかりで脂肪の少ない貧弱な『弱シロコ』より、私は色々な部分が健康的に成長してるだけ。主に、胸元とか」
「ん、聞き捨てならない。私だって毎日欠かさずプロテインを飲んでいるし、大腿四頭筋のキレなら絶対に負けていない。そっちの黒いドレス、フリルで色々と誤魔化しているだけじゃないの?主に、お腹とか」
ラーメンのスープをズズッと飲み干したシロコがカチンときたように耳をひりつかせ、二人の水色の瞳の間で、パチパチと目に見えない激しい火花が散り始める。あわや、アビドス新旧シロコによる、プライドと威信をかけた大食い&筋肉アイデンティティ論争が勃発するかと思われた、その時
二人の子供のような小競り合いをニヤニヤと楽しそうに眺めていたセリカが、わざとらしく頬杖をつきながら、横から楽しそうに言葉を挟んだ
「ちょっとちょっと、クロコ先輩。シロコ先輩ったらね、そんな生意気なこと言って突っかかってるけど、さっき調理室で一生懸命チャーハンを煽ってる時には『クロコはあっちの世界でまともなご飯を食べていなかったはず。顔色も白いし、ちゃんと栄養を取れてるのか心配。私のチャーハンをたくさん食べさせないとダメ』って、すっごく真面目な顔でブツブツ言いながら心配してたのよ?」
「せ、セリカ!?」
セリカの容赦のないド直球な秘密の暴露に、シロコは一瞬にしてレンゲを持ったまま言葉を詰まらせた
「そ、そんなこと、口が裂けても言った記憶はない。私はただ、同じ私としての基礎代謝量と、あっちの環境における栄養摂取のパラメーターの欠乏について、学術的な観点から事実を述べただけ……」
「そんな難しい事シロコ先輩分からないでしょ?」
「ん!!(怒り)」
みるみるうちにツンと尖った耳の先まで真っ赤に染め上げていくシロコ。普段のクールでマイペースな彼女からは想像もつかないほど狼狽し、視線を右往左往させている様子を見て、クロコは驚いたように丸く目を丸くした後、ふっと、その琥珀色の瞳を優しく緩めた。どこか嬉しそうな、そしてどうしようもなく愛おしそうな眼差しが、照れ隠しにスープを急いで啜るシロコへと向けられる
それを見守るアヤネとノノミ、そしてクジラのぬいぐるみに顎を乗せたホシノも、そのあまりにも微笑ましい光景に、まるで我が子の成長を見守る母親のような、どこまでも温かい笑顔を浮かべていた
「さぁさぁ、お腹がこれでもかってくらいにいっぱいになったところで!お次は私からクロコちゃんへ、新しく用意したお洋服のプレゼントを着てもらいたいと思いまーす♪」
「え……?」
ノノミが小気味よく両手をパチンと叩き、自身のパイプ椅子の背後に隠すように置かれていた、アビドスやトリニティのマークが印刷された大きな紙袋を引っ張り出した
中には、いつもの漆黒のドレス姿しか持たないクロコのために、ノノミが独自のハイセンスな審美眼でキヴォトス中のブティックを巡って買い集めてきた、可愛らしいフリルや流行りのパステルカラーのデザインが施された私服が大量に詰め込まれている
ノノミの美しい瞳が、獲物を見つけた肉食獣、あるいは最愛の人形を手に入れたコレクターのようにキラキラと怪しい輝きを放ち始めた
「……た、助けてホシノ先輩。ノノミに完全に着せ替え人形にされる……このままだと、私のアイデンティティが謎の可愛いフリルに侵食されて、跡形もなく消滅する……」
ただならぬ危機を敏感に察知したクロコが、助けを求めるように対面に座るホシノへと、必死に獣耳を伏せながら助けを求める視線を送る
「あー……その、なんだ。クロコちゃん、が、頑張って……!おじさんね、ノノミちゃんのファッションに対する飽くなき情熱と購買欲だけは、キヴォトスで一番恐ろしいものだと身をもって知っているからさ……!こればっかりは戦術的撤退を推奨せざるを得ないよ〜」
ホシノは引きつった苦笑いを浮かべながら、そっとクロコから視線を逸らし、胸の前で両手を合わせて南無三と祈るようなポーズを取るに留まった
「ん!!!(怒り)」
無常にもアビドスの大先輩に見捨てられたクロコは、捕獲された小動物のように両耳を完全にペタンと寝かせ、ニコニコと満面の笑みを浮かべるノノミによって、逃げる間もなく隣の更衣室へと引きずり込まれていった
その後、更衣室のカーテンの向こうからは、「わぁ、とっても似合ってますよ〜! 次はこっちのニットを着てみましょう!」「……ん、この、胸のところが、少し締め付けられて苦しい、気がする……」「まぁ! やっぱり私より特定の部位が健康的に成長してるんですね♪ 羨ましいです〜!」といった賑やかで楽しげな声が漏れ聞こえ、代わる代わるに様々なテイストの服を着せられたクロコが恥ずかしそうに顔を出すたび、教室はアヤネのカメラの大きな歓声とシャッター音に包まれた
普段の冷徹な姿からは想像もつかない、ガーリーなブラウスや清楚なワンピースを身に纏うたび、クロコの水色の瞳は所在なさげに泳いでいたが、その表情には確かに、かつて失われた少女としての瑞々しい時間が流れていた
そんな風に、お互いの埋まらないはずだった空白の絆を確かめ合うような最高のパーティを楽しんでいると、楽しい時間というのは本当に一瞬で過ぎ去っていく。気がつくと、窓の外の景色はいつの間にか茜色の夕暮れを通り越し、アビドスの澄んだ夜空に満天の星空が広がる真っ暗な夜へと変わっていた
「それじゃあ、そろそろ本日の大宴会もお開きにしようか〜」
壁に掛けられた古びた時計の針と、外の完全な暗闇に気がついたホシノが、大きく伸びをしながらみんなに優しく声をかける
「そうね……。楽しすぎて時間を完全に忘れちゃってたわ。明日は朝から『柴関ラーメン』のシフトがみっちり入ってるから、私もそろそろ帰って寝ないと遅刻しちゃう」
セリカがエプロンの紐を器用に外しながら、どこか名残惜しそうに装飾された部室を見渡した
「ん、私も。明日は早朝から、臨海の広大な埋立地で土方の仕事がある。遅れるわけにはいかない」
「え? ク、クロコちゃん……土方とか、そんなガチのガテン系肉体労働やってたの……?」
クロコの口から飛び出したあまりに武骨でアビドスらしい単語に、ホシノはオッドアイの目を丸くして驚きの声を上げた
あっちの世界であらゆる破壊の限りを尽くし、世界の終焉を告げる象徴だったクロコが、こっちの世界ではヘルメットを深く被ってツルハシを持ったり、汗を流して重い土砂を運んだりしている姿を想像し、ホシノは眩暈を覚えるように頭を抱えそうになる
しかし、クロコ自身は至って真面目な顔のまま、誇らしげにグッと右手の親指を立ててみせた
「汗を流してお金が貰える普通のバイトなら、私は何でもする。これは、先生が私のこれからの生活費のために、シャーレの広大な人脈網からわざわざ見つけてきてくれた特別な求人だから、完全に合法で安全。日給もキヴォトスの相場より良くて、体幹も効率よく鍛えられる。ん、おすすめ」
「あはは……。クロコ先輩も、シロコ先輩に負けず劣らず肉体的なポテンシャルが凄まじいですね……」
アヤネが眼鏡の位置を中指で直しながら、アビドス特有の「肉体労働に対する心理的ハードルの低さ」に遠い目をしながら苦笑いする。借金返済のためにありとあらゆるバイトを経験してきたアビドスの血脈は、別の世界線のシロコにも間違いなく濃く受け継がれていた
「それでは、ここのお片付けは私とアヤネちゃん、それにシロコちゃんとホシノ先輩で綺麗にやっておきますので、お二人は夜道も暗いですし先に帰られて大丈夫ですよ♪」
ノノミが気を利かせるように、セリカとクロコの華奢な背中を交互に優しく押した
「え? でも……せっかくみんなで開いたパーティなのに、私だけ片付けを丸投げして先に帰るなんて悪いわよ」
「ん、任せて。もう一人の私は今日の主役だし、セリカはずっと厨房で腕を振るってくれて、一番体力を奪われてるはずだから。ここは残された筋肉で解決する」
シロコがフンと鼻を鳴らし、自分の引き締まった胸に手を当てて頼もしげに胸を張る。その気遣い自体は素直に嬉しいものだったが、セリカは鋭いジト目をシロコに向けると、肩を落として深く長いため息を吐き出した
「……はぁ。私がここまでクタクタに疲れた原因の9割は、片付けを引き受けてくれた方のシロコ先輩が、隙あらば料理に変な虫(サソリ)を放り込もうとするのを全力で阻止し続けたからよ……。普通に作ったら、あんた私より料理上手いくせにさ……」
ブツブツと文句を言うセリカの様子に、夜の教室には再びドッと温かい笑い声が起きるのだった
「それじゃあ……お言葉に甘えて、私たちは先に帰りましょうか」
「ん、そうだね。ノノミ、アヤネ、シロコ、ホシノ先輩……今日は本当にありがとう。こんなに胸の奥が温かくなる時間を過ごしたのは、本当に久しぶり。……大切にする」
クロコがその場に漆黒のドレスの裾を綺麗に揃え、アビドスのメンバーたちに向けて深々と、けれどどこか名残惜しそうに頭を下げた。胸元の黒いチョーカーが、彼女の細い首のラインを強調するように夜の光を反射している
「2人とも、夜道は街灯が少なくて危ないから、しっかり銃の安全装置を確かめて気をつけて帰るんだよー!セリカちゃん、クロコちゃん、また明日ね!」
教室の引き戸を抜けて廊下へ進む二人の背中に、ホシノのいつになく元気で、どこまでも優しい最上級生としての声がいつまでも響き渡っていた
ガラガラ、と静まり返ったアビドス高校の重い正門を抜け、二人は夜の帳が完全に下りたアビドス自治区のひび割れた街路へと歩みを進めた
昼間の脳を焼くようなうだるような熱気はどこへやら、夜の砂漠特有の、急激に気温が低下していくひんやりとした冷たい夜風が、二人の少女の頬を心地よく撫でていく。砂混じりの風が吹き抜ける中、街灯の灯りもまばらで暗い夜道を、セリカとクロコは互いに等間隔の、近すぎず遠すぎない絶妙な距離を保ったまま、並んで一歩ずつ歩いていた
しかし、校舎の敷地を出てからというもの、二人の間にはしばらくの間、完全な無言の沈黙が支配している
昼間のあの耳が痛くなるほどの賑やかさが嘘のように、世界のすべてが静まり返ったかのような錯覚を覚える空間。夜の闇に響くのは、ザッ、ザッ、という二人の規則正しいローファーの足音と、遠くの広大な砂漠から不気味に低く吹き付ける風の鳴る音だけだった
(うっ……なんだか、もの凄く気まずいわねこれ……!中身は同じシロコ先輩なのに、こっちのクロコ先輩とはまだ二人きりでまともに話したことがないから、一体何を話せばいいのか全然分からないわよ!ええい、私ってばアビドスの有能な会計で看板娘でしょ!?何か、何か私の方から他愛のない無難な世間話でも振った方がいいのかしら……!?)
セリカの頭の中では、日頃のアルバイトで培ったお喋りな性格と、生真面目さゆえの人見知りが完全に大パニックを引き起こし、脳内会議がガタガタと音を立てて高速回転していた。喉元まで出かかった「今日のラーメンの味どうだった?」という言葉を何度も飲み込んでは消し、勝手に一人で緊張を限界まで高めていく
そんなセリカの、耳をせわしなくピコピコと動かす尋常ではない焦りっぷりを、隣を歩くクロコが不思議そうに水色の瞳で見つめていた。そして、凍りついた沈黙を破るように、静かに、けれど少しだけ掠れた声音で声をかけた
「……ねぇ」
「ひゃいっ!?」
静寂の中に突如として響き渡った、セリカの奇妙に裏返った情けない悲鳴に、クロコは思わず歩みを止めて立ち止まり、パチクリと大きな目を瞬かせた。頭の上の灰色の獣耳が、困惑したように左右に小さく揺れる
「……セリカ。なんで、そんなに骨が折れそうなくらい飛び上がってびっくりしてるの?」
「うぐぐっ……! な、ななんでもないわよ! ただ、ちょっと今日の夜風が急に冷え込んできたから、身体がびっくりして身震いしただけ!そう、人間なら誰にでもあるただの生理現象よ!」
必死になって支離滅裂な言い訳を並べ立て、真っ赤になった顔を隠すように両手で自分の頬をぎゅっと押さえるセリカ。そんな彼女の、どこまでも素直で、分かりやすくて、あっちの世界の記憶にある「黒見セリカ」と何一つ変わらない愛おしい姿を見て、クロコの凍りついていた唇の端が、自然と柔らかく弧を描いた
「クスッ……。あはは。セリカは、本当にあっちの世界のセリカと相変わらずだね」
「うう…何よそれぇ…」
クロコは声を出して小さく笑った。その、初めて間近で見る彼女の年相応で無防備な笑い声と表情の美しさに、セリカは先ほどの変な悲鳴の恥ずかしさも相まって、さらに顔が耳の根元まで沸騰したように真っ赤に染まっていくのを感じるのだった
「…それで……どうしたのよ。さっき、何か言いかけてたみたいだけど」
セリカは両手で押さえていた頬の熱をどうにか冷ますと、歩調を少し緩めてクロコの横顔を覗き込んだ。砂漠の冷気が、赤くなった肌にひんやりと心地よく触れる
「ん。最近……そっちのセリカのアルバイトは、どんな感じ?毎日、アビドスの莫大な借金返済とか色々あると思うけど、身体を壊すような無理とか、してない?」
クロコもセリカの歩幅にきっちりと自分の歩幅を合わせ、彼女のすぐ横を寄り添うようにして歩く。あっちの世界でも、アビドスが崩壊するその最後の瞬間まで、学校の財政を誰よりも気にして、身を粉にしてボロボロになるまで働いていたセリカ。その健気で必死な姿を知っているからこそ、クロコの言葉には、単なる世間話以上の深い気遣いと、彼女なりの不器用な優しさがこれでもかと滲み出ていた
セリカは少し小さく首を傾げ、日々の目まぐるしいアルバイトスケジュールを頭の中で思い返すように、細い指先をツンと尖った顎に当てた
「あー……。無理っていうか、相変わらず年中無休で忙しいのは確かだけどね。でも最近、体調面よりちょっと精神的に困ったことがあって……。あのね、何故かホシノ先輩が、私のメインのバイト先である『柴関ラーメン』に頻繁に冷やかしに来るようになったのよね」
「ホシノ先輩が……?」
「そうなのよ!あの人、店に入ってくるなり、カウンターの一番目立つ席を堂々と陣取ってさ。『ねぇねぇセリカちゃん、あの時の約束のアイドル衣装はいつ着てくれるのかな〜? おじさん楽しみで夜も眠れないよ〜?』って、ニヤニヤしながら聞いてくるの! そんなの学校の部室で聞けばいいじゃない! なのに、わざわざ私のシフトの時間に合わせて夕方にやってきて、メニューの中で一番値段の安い『小さいラーメン』一杯だけを頼んで、それをちびちび食べながらずーっと粘るのよ? 本当に営業妨害なんだから!」
セリカははぁ、と盛大なため息を吐き出しながら、大袈裟に両肩をすくめてみせた。口ではこれでもかと文句を叩きつけているが、その水色の瞳には、ホシノへの深い親愛の情と、彼女が元気になってくれたことへの安堵が隠しきれずに滲んでいる
しかし、クロコは「アイドル衣装」という、あっちの世界の殺伐とした戦場では逆立ちしても聞き慣れない単語に、少しだけ片方の尖った耳をピクリと動かした
「……セリカは、ホシノ先輩と、その……アイドル衣装を着るという約束をしたの?」
「うっ……!?」
一番触れられたくない核心を鋭く突かれ、セリカはあからさまに言葉を詰まらせて泳がせた
「それは……その……!ホシノ先輩が、あのセトの憤怒の事件の時にね……。なんて言うか、私も含めてみんな、ホシノ先輩をテラー化から元に戻すのに必死だったじゃない? それで……あの時、絶望のどん底にいる先輩をこっち側に引き戻すための言葉が、緊迫しすぎてどうしても上手く見つからなくて……。だから、本当にダメ元っていうか、自暴自棄っていうか、あの人が少しでも反応してくれそうな、恥ずかしい条件を口にするしかなくて……!」
セリカは当時の、世界が滅びかけるほどの緊迫した、けれど今思えば死ぬほど恥ずかしい自分の必死の叫びを思い出し、再び顔を耳の先まで真っ赤に染め上げるのだった
「まさか、あの絶体絶命の状況で、ホシノ先輩が私のあの自暴自棄の言葉『だけ』を完璧に、しかも脳の特等席に記憶してるなんて普通は思わないじゃない! 本当、あの人はタチが悪すぎるわよ。それ以来、事あるごとにニヤニヤしながら、まるで私の黒歴史を抉り取るみたいにずっと弄ってくるんだから!」
「ふふ……っ。……うん、いかにもホシノ先輩らしい、意地悪で優しいやり方だね」
声を立てずに、クロコは小さく、慈しむように微笑んだ
しかし、その水色の瞳の奥に宿る怜悧な理知は、別の真実を瞬時に悟っていた
(本当は……ホシノ先輩、セリカのあの時の必死な叫びだけじゃなくて、みんなが自分を呼び戻すために繋いでくれた言葉を、一つ残らず、大切に覚えているはず。……だけど、それを自分から言うのは無粋だし、ホシノ先輩が『いつものだらしないおじさん』を演じて黙っているなら、私がそれをここでバラしてしまうのは、野暮。ん、絶対に秘密にしておくべきだね)
慌てふためきながら、真っ赤になって拳を握り締めるセリカの反応がたまらなく微笑ましくて、クロコの胸の奥に、かつての世界の記憶が静かに重なる。あっちの世界のホシノも、命を賭けた苛烈な作戦の最中であっても、不意に悪戯が成功した時には、今のホシノと同じように子供みたいにニヤニヤと破顔していた。その遠い記憶の断片が、今の目の前にある温かいアビドスの日常と綺麗に重なり合い、彼女の凍てついた歩みを確かに進めていく
「でも、そのアイドル衣装の約束……私は、少しだけ、いや、かなり羨ましいかな。あっちの世界でも見られなかった、セリカの渾身のアイドル姿なら、私も、ちょっとだけ見てみたいかも。ん、絶対に似合う」
「ちょっと、クロコ先輩まで真面目な顔して何言ってるのよ!?」
予想だにしない方向からの確実な追撃に、セリカは裏返った金切り声で抗議の声を上げた。ぴょこぴょこと忙しなく動くその猫耳が、彼女の限界を超えた羞恥心を雄弁に物語っている
そんな恥ずかしがるセリカの可愛らしい反応を皮切りに、二人の間の会話は、冷たく凍てついていた夜の静寂を優しく溶かすように、次から次へと滑らかに弾み出していった
普段は部室のソファであれだけクジラのぬいぐるみに顔を埋めてだらけきっているくせに、後輩を弄り倒す時だけは信じられないほどの神速の俊敏さと率先力、そして底意地の悪さを見せるホシノに対する、愛に溢れた愚痴。今日のサプライズパーティの料理を調理室で一から作っている時、何故か頑なに、そして純粋な善意の狂気をもって、乾燥させたトゲ付きのサソリを大鍋の秘伝スープに投入しようとしてきたシロコ先輩の手に汗握る暴走──
セリカが小さな身振りと手振りを交えながら、まるで一日の出来事をすべて共有しようとするかのように賑やかに話すアビドスの愛おしい日常を、クロコはただ「ん」「そうなんだ」「それは、シロコが悪い」と、静かに首を傾げ、相槌を打ちながら聞いていた
セリカの、まるで夜空の星のように絶え間なく紡がれる話を聞きながら、クロコは自分の胸の奥が、じんわりとした適温の温かいお湯で満たされていくような、これまでに味わったことのない至福の感覚を覚えていた
口では「もう最悪!」とこれでもかに文句を叩きつけているが、セリカの言葉の端々、その一言一言のイントネーションには、仲間への絶対的な信頼と、奪いようのない深い愛が溢れている。それは、先ほど真昼の児童公園で、自分がホシノと交わした、他愛のない、けれど境界線を取り払うような特別な会話の空気にとてもよく似ていた
あっちの世界で残酷に、そして一瞬にして失われてしまった、何気ない、けれど世界中の何よりも欲しかったアビドスの温もりが、今、自分のすぐ隣を歩く小さな少女の身体を通して、確かに脈打っている
しかし、どれほど愛おしく、時間を忘れるほどに楽しい時間であっても、夜の家路には必ず終わりがやってくる。アビドス自治区の、砂に削られてひび割れた住宅街へと続く、街灯の薄暗い運命の分かれ道の前に、二人のローファーの足音は自然と止まった
「それじゃあ……私はこっちの、坂の上の道だから」
セリカが自身の家へと続く、緩やかな上り坂の暗がりを指さし、歩みを止めて振り返る
「ん。私はこっちの、大通りへ続く道。……ここで、お別れだね」
クロコもまた、静かに短く言葉を返した。少しだけ夜風が冷たくなったような、名残惜しそうな静けさが二人の間に流れる
セリカは制服のスカートの裾を少しだけ照れ隠しに弄りながら、赤色の視線をあちこちの暗がりに彷徨わせた後、意を決したように、どこかぶっきらぼうに、けれど最高に照れくさそうに口を開いた
「……ね、ねぇ。もし良かったら、でいいんだけどさ。明日、そっちの埋立地での土方の仕事が終わってからでもいいから……気が向いたら、私の『柴関ラーメン』に遊びに来なさいよ」
「……!」
「ほら、うちの大将もさ、あんたが新しくアビドスに来たって話したら、すっごく会いたがってたし。……な、なんなら、私がシフトに入ってる時間に来てくれたらさ、大将の目を盗んで、ラーメンのチャーシューを何枚か多めにオマケしてあげるわよ。だから……その、本当に気が向いたらでいいから、来ればいいじゃない」
ぶっきらぼうに視線を逸らしながら、けれどこれ以上ないほどストレートに紡がれた、明日という未来への確かな約束
クロコはそのセリカの様子を、世界に一つしか残されていない、壊れやすい大切なガラス細工を愛おしむかのような、本当に、本当に優しい眼差しで見つめていた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱い
「ん……。ありがとう、セリカ。明日、仕事が終わったら、砂を落として、必ず行く。セリカのチャーシュー、楽しみにしてる」
「っ、うん! 約束だからね! 忘れたら承知しないんだから! ……それじゃあ、また明日ね!」
クロコの迷いのない確かな返事を聞き、セリカは嬉しそうにパッと猫耳を立たせて表情を輝かせた。そして、クロコに向けて大きく、何度も何度も千切れるほどに手を振ると、夜道を弾むような小走りの足取りで、元気に坂道へと走り去っていった。夜の闇の中、彼女のツインテールが軽快に揺れ、やがて街灯の光の届かない角の向こうへと消えていく
セリカの小さくなっていく後ろ姿が完璧に見えなくなり、その元気な足音すらも夜の砂漠の風にかき消されて何も聞こえなくなった頃、クロコは一人、静かに自分の帰路へと足を踏み出した
チョーカーに縁取られた、むき出しの首元に触れる夜風は氷のように冷たかったが、ドレスの下の胸の奥は、驚くほどに熱く拍動していた
(あっちの世界でも……最後の最後、私たちはこんな風に、他愛のない明日への約束を交わしたことがあったよね、セリカ……)
ふと見上げた満天の星空の彼方に、クロコは二度と戻らない、あっちの世界の記憶の断片を静かに重ね合わせていた
あのアビドスが完全に崩壊へと向かう、ほんの少し前。連日のバイトと底の見えない借金返済の心労でボロボロになりながらも、それでも気丈に笑ってみせていたあっちの世界のセリカ。夜の荒野の分岐点で、こっちの世界と同じようにぶっきらぼうに視線を逸らしながら、彼女は小さく笑ってクロコにこう言ったのだ。
『……ねぇ、シロコ先輩。明日何も無かったら柴関ラーメンに来なさいよ、私考案の取っておきラーメンを食べさせてあげる!』
それが、あっちの世界のセリカと交わした、最後の「明日への約束」だった。
その翌日、怒涛のように押し寄せた理不尽な災厄の濁流によってアビドスは完全に引き裂かれ、セリカは行方不明となり、その約束が果たされる日は二度と来なかった。冷たい暗闇の底で彼女の愛銃だけが残されているのを見つけたあの時、クロコはただ、叶わなかったラーメンの約束を思い出して涙を流すことしかできなかったのだ
けれど、今、目の前にある世界は違う
明日、約束通り柴関ラーメンに行った時、セリカに今日のお礼をどう伝えようか。どんな風に笑って、何をお喋りしようか。セリカが一生懸命修行して仕込んだという、あの美味しそうなチャーシューを、今度はどんな顔をして頬張ろうか
そんな、あっちの世界の血に塗れた孤独の中では、一度だって抱くことすら許されなかった「明日へのささやかな、けれど絶対的な楽しみ」を胸にしっかりと抱き締めながら、クロコは満天の星空の下、一歩ずつ砂の街を歩き続けた
今度こそ、あの日の絶望を繰り返したりはしない。この穏やかで温かい日常は、これからもずっと、何があっても続いていくのだと、誰もが信じて疑わなかった
ーーー
しかし、次の日
キヴォトスの高すぎる空に無情な太陽が昇り、真昼の強烈な、すべてを白く焼き尽くすような日差しが、臨海埋立地の巨大なコンクリートブロックをじりじりと熱く焼き付けている頃
安全ヘルメットを深く被り、滴る汗を拭いながら重い土砂を運ぶ過酷な重労働に勤しんでいたクロコの、漆黒のドレスのポケットの中で──
それまで沈黙を守っていたスマートフォンが、鼓膜を切り裂くようなけたたましい警告音とともに、激しく、不穏に振動を始めた
画面に表示された名前に、クロコは厚手の作業用手袋を乱暴に外して通話ボタンを押した
「ん。どうしたの? アヤネ」
ヘルメットの隙間から覗く灰色の獣耳をピクリと震わせ、いつものように冷静なトーンで応じたクロコだったが、受話器の向こうから返ってきたのは、彼女の冷徹な理性を一瞬で叩き潰すような、異様な声だった
「く、クロコ先輩……っ!! セ、セリカちゃんを……セリカちゃんを、どこかで見かけませんでしたか……!?」
電話の先のアヤネの声は、完全に裏返り、酷く慌てふためき、今にも泣き出しそうなほどに激しく震えていた
キヴォトス最高峰の聴覚を持つクロコの耳が、その尋常ではない緊迫感を敏感に捉える。同時に、アヤネの背後からは、あのいつも飄々としていたホシノが「アヤネちゃん、落ち着いて! まずは周辺の索敵を!」と叫ぶ、これまでに聞いたこともないような剥き出しの焦燥に満ちた声が微かに漏れ聞こえてきた
クロコの脳裏に、一瞬にして不吉な冷たい火花が走る。心臓が嫌な跳ね方をして、耳の奥でキィィンと不快な金属音のような耳鳴りが響いた
「……とりあえず、落ち着いて、アヤネ。……セリカとは、昨日の夜、通学路の分岐点で別れてから一度も会っていないよ。モモトークの連絡も、今日の朝から一件も来ていない」
「そんな……っ、嘘、でしょ……じゃあ、セリカちゃんは本当に……っ」
「……何か、あったの?」
クロコは持っていたスコップを地面に落とした。ガシャリと乾いたコンクリートの上に無機質な音が響く。心臓の鼓動が、ドク、ドクと嫌な音を立てて速くなっていくのが分かる
突然、周囲の状況を無視してその場に直立不動のまま凝固し、顔色を変えたクロコの異様な雰囲気に、数メートル先で大型重機を操縦していた土方の親方が、不審そうに運転席から顔を覗かせた
「おい、シロコ! どうした、突然作業を止めちまって! まだ休憩の時間ににゃ早えぞ!」
日焼けした顔にタオルを巻いた大柄な親方が、ダンプカーの騒音に負けない大声で声を張り上げる。いつもなら生真面目に「ん、すみません。すぐに戻る」と作業を再開するはずの少女が、今はヘルメットの奥から幽鬼のように青ざめた表情で、ただスマホを握り締めていた
「……親方、すみません。緊急事態」
クロコは硬直した身体を無理やり動かし、親方の方へと顔を向けた。その水色の瞳に宿る、かつて世界を滅ぼしかけた「色彩の破壊者」としての絶対的な冷徹さと、それを覆い尽くそうとする底知れない動揺の混ざり合った視線に、百戦錬磨の親方ですら一瞬気圧されて言葉を詰まらせる
「……シャーレとアビドスに関わる、重大なトラブルの可能性。一時的に作業を離脱して、電話に出ます。……のちほど、必ず埋め合わせはする」
「あ、あおぅ……? よく分かんねえが、尋常じゃねえ面構えだな。構わねえ、そっちで通話してきな!」
親方が呆気に取られたように許可を出すのを確認するや否や、クロコは親方に軽く一礼し、プレハブの資材置き場の陰へと目にも留まらぬ速さで身を隠した。周囲の工事の轟音を遮るように壁に背を預け、再びスマホの受話口へと声を沈める
「アヤネ、続けて。何があったの。セリカがどうしたの」
「セリカちゃんが……っ、今日の朝、出勤時間を過ぎてもバイトに来ないって、柴関ラーメンの大将から血相を変えて連絡があって……! あの生真面目なセリカちゃんが、事前の連絡もなしにシフトを飛ばすなんて絶対にあり得ないから、私、嫌な予感がしてすぐにホシノ先輩とシロコ先輩を呼んで、セリカちゃんの家に行ってみたのですが……。家の中はもぬけの殻で、どこを探しても彼女の姿はどこにも居ないんです……!!」
「……え?」
「それだけじゃ、ないんです……! おかしいと思って、ホシノ先輩たちと慌てて家の下の裏路地や近所を捜索したのですが……住宅街の曲がり角の壁に、銃撃戦をやったような真新しい弾痕と、激しく争ったような靴の跡が残っていて……。そして、その近くの砂の上に、セリカちゃんの愛銃が、ぽつんと、乱暴に投げ捨てられたみたいに落ちていたんです……!!」
アヤネの悲痛な叫びが、スマートフォンのスピーカーから漏れ出す
キヴォトスの生徒にとって、自身のアイデンティティであり命そのものであるはずの「銃」をその場に残し、生身の状態で姿を消すことなど絶対にあり得ない。それが意味する可能性は、ただ一つ
セリカが、何者かの襲撃を受け──力ずくで拉致された
「嘘……だ……」
クロコの思考が、一瞬にして真っ白に染まった
昨日の夜、自分の目の前で嬉しそうにツインテールを揺らし、「また明日ね」と笑いながら坂道を駆けていった彼女の姿が、鮮明なフラッシュバックとなって脳裏に蘇る。あの温かい約束が、明日への小さな希望が、たった一本の電話によって無残にも引き裂かれていく
手から滑り落ちたスマートフォンの画面が、工事現場の乾いた砂の上に、鈍い音を立てて転がった。じりじりと照りつける太陽の光が、液晶に付着した泥汚れと、受話口から今もなお聞こえ続けるアヤネの泣き叫ぶ声を、無情に白く浮かび上がらせていた