救われたかったセリカ   作:気弱

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語られる真実

(ガラガラバタン!!)

 

「ホシノ先輩っ……!? 大丈夫なのっ!?」

 

アビドス病院の重い個室の引き戸が、壊れんばかりの凄まじい勢いで乱雑に押し開けられた。不躾に突風が吹き込むのと同時に、張り詰めた静寂が耳障りな音を立てて砕け散る

 

砂漠の熱気を孕んだまま、激しく息を切らせて部屋になだれ込んできたのは、クロコ、シロコ、ノノミの3人だった。シロコの切迫した、いまにも引きち切れそうな叫び声が、死臭すら漂いそうなほどに静まり返った白い病室の四方に激しく響き渡る

 

「し、シロコ先輩……っ! ここは病院ですので、もう少し声を落としてください……っ」

 

ベッドのすぐ横に置かれた簡素な丸椅子に座っていたアヤネが、人差し指を青白い唇に当てて慌てて小声で彼女たちを制止した。けれど、そのアヤネの顔自体が完全に血の気を失っており、涙を堪えるために必死に声を震わせている

 

名前を呼ばれたシロコは、アヤネの制止の言葉を脳裏に届かせるだけの精神的な余裕すらなく、ただ目の前の凄惨な光景に大きく水色の瞳を見開いたまま、床に縫い付けられたように立ち尽くしていた。肩を激しく上下させ、荒い呼吸を繰り返す彼女の握り締められた拳は、正体不明の襲撃者への激しい怒りと、初めて直面する「ホシノの敗北」という底知れない恐怖によって、小刻みに、けれど明確に震えている

 

アヤネのすぐ隣、消毒液の匂いが鼻を突く白いシーツが敷かれたベッドの上で、あのアビドス最強であるホシノが、すべての力を奪い去られたかのように力なく横たわり、深い昏睡の中で静かに眠っていた

 

いつもなら眠たげに、けれど誰よりも温かい笑顔で皆を迎えてくれる彼女の顔は、今はまるで蝋人形のように蒼白で生気がない。胸元が微かに上下し、そこに刻まれる弱々しい呼吸の音だけが、辛うじて生きているということの唯一の証明だった

 

半袖の入院着から露出した華奢な手首や、包帯の隙間から覗く首筋の肌には、どれほど激しい銃撃戦や、命を削り合うような凄絶な白兵戦を潜り抜けてきたのかを物語る、生々しく紫に変色した無数の打撲痕や擦り傷、そして皮膚に焼き付いたような黒い硝煙の汚れが痛々しく刻み込まれていた。キヴォトスでも類を見ないほどの頑強さを誇る彼女の肉体が、ここまでボロボロに破壊されているという事実そのものが、襲撃者の異常な戦闘力を何よりも雄弁に物語っている

 

そして、ベッド脇の冷たいパイプ椅子の上には、アビドスの過酷な砂と泥、そして彼女自身の生々しい鮮血によって黒ずみ、無残に汚されたホシノの「戦闘服」が、ボロボロの状態で乱暴に積み置かれていた

 

かつてアビドスが誇った栄光と、戦場を支配した象徴。それをわざわざ引っ張り出してまで挑んだはずのホシノが、トドメを刺される直前まで追い詰められていた。血の匂いを残すその布切れは、この事態の異常性と、暗闇の中で引き起こされた戦闘の圧倒的な、そして絶望的なまでの苛烈さを、言葉以上に冷酷に証明している

 

「アヤネ、これは一体どういうことなの。説明して」

 

クロコはさらに一歩、病床へと歩みを進めると、アヤネに向けて低く、刃物のように研ぎ澄まされた声を投げかける。その胸中を去来していたのは、単なる驚きや動揺ではない。それを遥かに通り越し、かつて自分がいた「あっちの世界」でアビドスが崩壊へと向かっていった、あの最悪で、おぞましい暗黒の記憶が脳髄の奥底でズキズキと疼くような、強烈な戦慄

 

無意識のうちに、彼女の灰色の獣耳は周囲の僅かな音も聞き逃さないよう極限まで張り詰められ、水色の瞳には鋭い殺気が宿る。その声音は戦士としての冷徹さを必死に装ってはいたが、引き絞られた弓の弦のように、今にも決壊しそうな焦燥が隠しきれずに滲み出ていた

 

3人はつい先ほどまで、それぞれ別々のエリアに分かれて、セリカの足取りを掴むべく必死の捜索活動を行っていた最中だった。しかし、アヤネから各々の携帯端末へ同時に送られてきた「ホシノ先輩が意識不明で病院に運ばれました! すぐに来てください!」という、最悪という言葉すら生ぬるい緊急一斉メッセージ画面を目にした瞬間、全員の思考が停止した

 

心臓が凍りつくような衝撃の中、彼女たちはすべての捜索作業をその場に放り出し、喉が焼けつくのも構わずに、ここまで文字通り全力で駆けつけてきたのだ

 

「わ、私にも詳しい状況はまだ何も分からなくて……っ。アビドス自治区の外れにある、完全に隔離された袋小路の路地裏で、ホシノ先輩が血を流して倒れていたのを、『たまたま』通りかかった親切な一般の方が偶然見つけて、この病院に緊急搬送してくださったんです……。ほら、ホシノ先輩はアビドス内では誰もが知る有名人ですから、受け入れた医療機関側も事態の深刻さを察知して、すぐに私の端末へ直接、緊急の連絡を入れてくださって……っ」

 

アヤネは自身の眼鏡のブリッジを何度も押し上げ、レンズの奥に今にも溢れ出そうになる涙を必死に奥歯で堪えながら、説明を続けた。最上級生であり、自分たちの絶対的な精神的支柱であった先輩を守れなかったことへの申し訳なさ、そして、ただデスクの前で端末を叩くことしかできなかった己の無力さを激しく呪うように、その細い声は痛々しいほどに震えていた

 

「……ホシノ先輩が、本気の状態で、完全に意識を失って倒れていた。つまり、それは……」

 

アヤネの震える言葉を一つずつ拾い上げながら、クロコは冷徹に、そして過去の血生臭い経験から得た確実な戦術的事実だけを脳内で静かに整理していった。状況を分析すればするほど、導き出される結論の異常さに、彼女の水色の瞳が信じられないものを見るかのように細く引き絞られていく

 

あっちの世界で、ありとあらゆる理不尽な死線と戦いの日々を嫌というほど潜り抜けてきたクロコだからこそ、この「ホシノが倒れている」という光景が持つ真の恐ろしさが、この場の誰よりも深く理解できてしまうのだ

 

「あの『アビドスの盾』であり、このキヴォトス全域を見渡しても間違いなく最強格の一角であるはずのホシノ先輩が……小細工なしの正面切っての白兵戦で、何者かに完璧に敗北した、ということだよね」

 

クロコの放った、そのあまりにも冷酷で、一切の気休めを排除して残酷な現実を真っ直ぐに突き刺す言葉の響きに、病室内はまるで一瞬にしてすべての酸素が強奪されたかのような、息の詰まる痛烈な沈黙に支配された

 

あのアビドスを一人で守り抜いてきたホシノが、誰かに負けた

 

その、キヴォトスの常識では絶対にあり得ないはずの悪夢のような現実が、いま、紛れもない事実として少女たちの目の前に横たわっている。ノノミはショックのあまり、今にも悲鳴が漏れ出しそうな口元を両手で強く覆い、シロコは言葉を一切失ったまま、ただベッドの上で微かに呼吸を繰り返す先輩の姿を、怒りと困惑の混ざった目で凝視し続けていた

 

「……で、ですが、ホシノ先輩、見た目はこんなに傷だらけで凄惨な感じですが……幸いなことに、命に別状は無いみたいです。お医者様から受けた詳しいお話では、急激な体力の消耗と、肉体への強い打撲によるショックで一時的に意識を失っているだけで、私たちのヘイローに該当する部分にも大きな亀裂や損傷は確認されていません。あと数時間もして麻酔が切れれば、自然と目を覚ますだろうとのことです」

 

静まり返った絶望的な空気を少しでも払拭し、仲間たちを落ち着かせようと、アヤネがこれ以上ない救いの事実を告げるために、努めて冷静で通る声を絞り出した。その言葉を聞いた瞬間、ノノミの肩から僅かに力が抜け、深く安堵のため息が漏れる

 

シロコの全身を覆っていた、今にも敵に向けて爆発しそうだった身体の強張りも、ほんの僅かに緩んだ

 

しかし、クロコの視線だけは未だに鋭利なままであり、ホシノの蒼白な寝顔から外されることは決してなかった。命が無事だったことは、何よりも、奇跡と言っていいほどの救いだ。だが、戦闘のプロフェッショナルとしての直感が、その先にある圧倒的な「不自然さ」を告げていた

 

「命が助かったのは本当によかった。……でも、だとしたらなおさら不可解。あのホシノ先輩をここまで一方的に叩き伏せて無力化しておきながら、なぜトドメを刺さずに、ヘイローも壊さずに生かしたまま、あの場に置き去りにしたの? 戦力的にアビドスを潰すつもりなら、最大の壁である彼女の息の根を止めるのが一番確実なはず。……敵の目的は、一体何なの?」

 

クロコの冷徹な呟きが、再び病室の壁を白く凍りつかせるような冷たい緊張感を走らせる。セリカの拉致に続き、アビドス最強の戦力を完膚なきまでに叩きのめした、姿の見えない謎の襲撃者。その意図がまったく見えてこない不気味な輪郭が、少女たちの心に、底無しの暗い影を落としていた

 

「……ホシノ先輩が目を覚ましてくれないかぎり……今はこれ以上、システム側をいくら叩いても何も分からないですね……。唯一、あの暗い場所で、犯人の姿とその正体をその目で直接捉えたのは、ホシノ先輩だけですし……」

 

アヤネがそうぽつりと零し、力なく自身の膝の上で、小さく、けれど悔しさに震える拳をきゅっと握りしめる。その言葉の持つ拒絶ようのない重みに、病室の空気は再び、底無しの深い沼の底へと沈み込みそうになっていた

 

「そうだね……ごめん。私が余計な推測をして、みんなの不安を煽るようなこと言っちゃって」

 

クロコがふうと小さく、胸の奥に溜まっていた熱い息を吐き出し、すまないというようにアヤネに向けて静かに頭を下げた

 

あっちの世界で、仲間たちが一人、また一人と容赦なく消えていったあの過酷な経験が、彼女の思考をどうしても最悪の状況、最悪の結末へと直結させてしまう。その自覚と、大切な仲間を自分の言葉で怯えさせてしまったという強い負い目があるからこその、クロコらしからぬ素直な謝罪だった

 

「き、気にしないでください、クロコ先輩! それよりも……皆さんの方の調査はどうでしたか? 私の方は相変わらず、アビドス全域の防犯カメラの過去ログを解析しても、自治区内の通信記録を傍受してノイズを削っても、セリカちゃんに繋がるものは何も情報は得られませんでした……。一応、先生の方もシャーレの独自ルートや、連邦捜査庁の権限を使って裏社会の動向を調べてはくれていますが、まだ決定的な手がかりはなくて……」

 

アヤネは強いていつもの冷静で明るい声を作り、パチン! と自分の両頬を小さな手のひらで叩いて、無理やり気持ちを切り替える。その健気で必死な姿を見たクロコも、張り詰めていた表情をほんの少しだけ緩め、安心したような顔つきになった

 

「ん。私の方は、さっきアヤネに送ってもらった座標を起点にして、アビドスとブラックマーケットの境界線に屯していたヘルメット団の分隊とか、物陰で怪しい密輸武器の取引をしてた悪質な武器商人をあらかた力ずくで制圧して、徹底的に吐かせてみた。……けど、どいつもこいつも本当に何も知らなかったよ。セリカの名前を出して凄んでも、全員が本気でキョトンとして命乞いをしてきた。ん、実力行使の甲斐なし。無駄だった」

 

クロコが淡々と、けれど抑えきれない悔しさを滲ませながら、グギ、と自分の拳を強く握り直す

 

「実は、私とシロコちゃんが行った商店街の方も、これといって何も情報を得られなかったんですよね……。お店の人たちもみんな『セリカちゃん、今日もバイトお休みかしら? 働き者なのに珍しいわね』って、ただ純粋に彼女のことを心配しているくらいで……。不審な人物の目撃談もありませんでした」

 

ノノミがいつもより元気がなく、がっくりと肩を落とし、悲しげに綺麗な眉をひそめる

 

全員の口から出た報告が、無情にもすべて「収穫なし」。セリカの足取りは完全に途絶え、またしても白い病室が、じわじわと這い寄ってくるような重苦しく暗い絶望の空気に包まれそうになった、まさにその瞬間だった

 

「ん。私の方、それが犯人と直結するかはまだ確証がないけど……情報がひとつ、入ったよ」

 

それまで壁際でホシノの様子を見ていたシロコが、その手をピタリと止め、静かな、けれどこの停滞した空気を鋭く切り裂くような、確かな響きを持つ声で言った。その言葉に、アヤネもクロコも、驚いたように弾かれたように顔を跳ね上げる

 

「え? シロコちゃん、私ずっと一緒に聞き込みをして回っていましたけど、そんなお話、何も聞いてませんよ……?」

 

ノノミが不思議そうに首を傾げると、シロコは水色の視線を少しだけ床へ落とし、いつもの淡々とした口調のまま、言いそびれていた理由を説明した

 

「その情報を柴関ラーメンの大将から掴んだんだけど…その時、アヤネから『ホシノ先輩が倒れて病院に運ばれた』って最悪の連絡が入ったから。頭の中が完全にそっちのことでいっぱいになって、パニックになって言いそびれてた。ごめん」

 

「いえ、謝る必要なんてありません! それで……一体、どんな情報なんですか!?」

 

アヤネが丸椅子から身を乗り出すようにして、眼鏡の奥の目を輝かせて尋ねる

 

「『柴関ラーメン』の大将が、仕込みの合間に教えてくれた話なんだけど……。この前、アビドスに珍しくもの凄い大雨が来た日があったでしょ? 街の人たちがみんなシャッターを閉めて、早めに屋内に避難して、誰も外を歩いていないような、あの日の夜。その不気味な暴風雨の最中に、全身に黒いフードを深く被った、妙に小柄で奇妙な人物が、ひょっこり店にラーメンを食べに来たらしい。全身、砂と泥だらけで」

 

「黒いフード……。そんな、誰もが外に出たがらない大嵐の日に、わざわざ顔を隠すようにフードを被って砂漠を歩くなんて、いかにも怪しそうですね。浮浪者か、あるいはアビドスの土地を狙う別の不審者でしょうか」

 

ノノミが綺麗な顎に細い指先を当てて相槌を打つと、シロコも深く、同意するように首を縦に振った

 

「ん。怪しいのはその奇妙な佇まいだけじゃない。大将が言うには、そのフードの人物がラーメンを食べ終えて、会計を済ませて店を出る間際、外からの激しい突風でフードが大きくめくれて、チラリと横顔が露わになったらしい。……大将が言うには、その顔の造形や耳の形が、どことなく、私たちのよく知る『セリカ』に酷く酷似した人物だった、って」

 

「えっ……!? で、でも、そんなの絶対にあり得ませんよ! セリカちゃんはあの大嵐の日、放課後から夜遅くまで、ずっと部室で私達と一緒にこもって、クロコ先輩の歓迎パーティの予算の計算や、買い出しの打ち合わせをしていましたよね!? ずっと目の前にいたんですから、セリカちゃんが柴関ラーメンにいるはずがありません!」

 

アヤネが必死に当時の記憶を脳内で呼び起こしながら、困惑と論理的な矛盾を隠せない様子で、思わず声を大にしてシロコの言葉を否定した

 

「うん。だから大将も、あの日は嵐の影響でお店の電灯も消えかかってて薄暗かったし、天気が悪すぎて自分の目が疲れて見間違えたか、セリカに少し顔立ちが似ているだけの他人の空似だろうって、その時は笑って話してた。でも、この最悪のタイミングでセリカが本当に行方不明になった以上、何か怪しい連中がセリカに変装しているか、あるいは何かしらの重大な関係があるのは確かだから、みんなに伝えないとって思った」

 

シロコがそこまで一気に、淀みなく言い切った、まさにその瞬間だった

 

「……それ、大将の見間違いじゃないよ。……セリカちゃんで、間違いないよ」

 

掠れた、けれどどこか拒絶を許さない芯のある低い声が、静まり返った白い病室のベッド側から、冷気のように静かに響いた

 

「「「「ホシノ先輩っ!?」」」」

 

全員の声が寸分の狂いもなく完璧にハモり、驚愕のあまり、一斉に声のしたベッドの方へと勢いよく振り向いた

 

そこには、先ほどまで昏睡の中に沈み、息苦しそうに眠り続けていたはずのホシノが、左右で色の異なるオッドアイをしっかりと開け、焦点の定まらない目でじっと白い天井を見つめていた。その瞳には、先ほどの死線で刻まれた残光が、未だに不気味な火を灯したまま揺らめいている

 

「ホ、ホシノ先輩……っ!!」

 

「もう……っ! 本当に、本当に心配したんですから……っ! 体、どこか酷く痛むところとか、感覚がなくなっている場所はありませんか!? 動いちゃダメです、絶対に無理に動いちゃダメですよ!」

 

アヤネが座っていた丸椅子を後ろへひっくり返さんばかりの凄まじい勢いで立ち上がり、持っていたタブレットをベッドへ放り出すようにして、先輩の横へと駆け寄る。その小さな両手は、今にもホシノの身体に触れて無事を確認したい衝動と、これ以上傷つけてはいけないという躊躇いの間で、宙を激しく彷徨っていた

 

ホシノはそんな後輩たちの、あまりにも尋常ではない慌てぶりを視界に収めると、まるで深く重い泥の底から這い上がってきたかのような、いつもの緩く気怠げな苦笑いをその唇に浮かべた。そして、自分の身体に巻き付けられた包帯の感触を確かめるように、点滴のチューブを揺らしながら、血の匂いが微かに残る白いシーツを退けてゆっくりと上体を起こした

 

「うへぇ……。アヤネちゃん、そんなに大きな声を張り上げなくても、おじさんの耳はちゃんと生きてるよ〜。……うん、でも、確かに動かすたびに身体中がミシミシと激しく痛むねぇ……。流石に今回は、ちょっとおじさんの人生の中でも、手痛いお仕置きを喰らっちゃったかな」

 

ホシノが首を小さく左右に回すと、骨が軋む嫌な音が病室に小さく響き、彼女は痛そうに片方のオッドアイを細めて顔を顰めた。その痛々しい様子を目の当たりにして、それまで言葉を失っていたノノミもシロコも、弾かれたようにベッドの傍らへと一歩激しく駆け寄った

 

「ん。やっぱりホシノ先輩はいつもそうやって無茶をする。一人で突っ走るなって、学校を出る時にアヤネにあれだけ執拗に、釘を刺されてたのに……。自分はか弱いからって、自分で言ってたのに、バカ」

 

シロコが言葉通り、感情のまったく読めない、けれどその奥に言葉にできないほどのドス黒い焦燥を隠したジトっとした冷ややかな目付きをホシノに向ける。その視線は、傷だらけの先輩に対する怒りと、生きていてくれたことへの裏返しの安堵で満ちていた

 

「そうですよ! 幸いにも命に別状がなかったから良かったですけど……これは怪我が完治して退院したら、対策委員会総出で一晩中お説教とお仕置きの確定ですね……! いつものようにへらへらして、私たちの目を誤魔化そうとしても今回は絶対にダメですからね! 私、本当に、本当に怒ってるんですから!」

 

ノノミがぷくっと子供のように頬を膨らませて、いつもの華奢な腰に両手を当てながらも、その美しい瞳には今にもこぼれ落ちそうなほどの大粒の涙がみるみるうちに浮かんでいた

 

言葉では怒りを装っていても、その声の震えが、先輩を完全に失うかもしれないという底無しの恐怖に心が支配されていたことを何よりも証明している

 

「あはは……みんな、本当にごめんね。おじさん、ちょっと自分の力を過信しちゃってたよ。年甲斐もなく、ちょっとだけ張り切りすぎちゃった。次は気をつけるから、ね?」

 

ホシノは困ったように頭の後ろを掻きながら、いつものようにへらへらとした頼りない笑みを顔に作ってみせる

 

そのいつものホシノの態度に引っ張られるようにして、病室を支配していた張り詰めた絶望の底は少しずつ押し上げられ、いつものアビドス対策委員会の、どこかホンワカとした温かい家族のような空気が、ゆっくりと戻ってきた。アヤネは涙を拭い、ノノミはホシノの手をそっと握りしめる

 

──しかし、その温かい輪から完全に一歩引いた、光の届かない影の中に立つクロコだけは、最初から一切表情を崩していなかった。彼女の鋭く研ぎ澄まされた水色の瞳は、ホシノが無理に作った笑顔の奥にある、冷たく凍りついた「重大な何か」を、戦士としての本能で絶対に見逃さなかった

 

クロコは真剣な、冷徹とも言えるあまりに重い眼差しでベッドの上のホシノを見つめ、対策委員会のホンワカとした会話を鋭く遮るように、静かに、けれど逃げ場のない声音で問いかけた

 

「……ホシノ先輩。さっき言った言葉、どういう意味? 大将が嵐の夜に見たフードの人物が『セリカで間違いない』って……。だって、セリカはあの嵐の時、間違いなく放課後から夜まで、教室でホシノ先輩たちと一緒にいたんだよね? ……だとしたら、物理的にそんなことはあり得ない。同時に二つの場所に存在するなんて、そんな怪奇現象、絶対にあり得ないはず」

 

クロコの放った、論理的な核心を無慈悲に突く問いに、アヤネもノノミも、そしてシロコまでもが、ハッとしたように言葉を詰まらせた。そして、自分たちの頭を再び支配し始めた不可解な矛盾の正体を確かめるように、恐る恐るホシノへと視線を戻す。先ほどまで病室を満たしていたホンワカとした温かい空気は、一瞬にして、肌を刺すような冬の寒気のごとき緊張感へと変貌していった

 

ホシノはベッドの上で、ノノミの手からそっと自分の手を離し、組んでいた両手をゆっくりと膝の上へ下ろした。そして、つい先ほどまで浮かべていた優しい先輩としての笑みを、その顔から跡形もなく完全に消し去った

 

前髪の長い陰から覗く左右非対称のオッドアイが、アビドスの深い夜の砂漠を思わせる、重苦しく、そして仄暗い光を放ち始める。そのあまりの雰囲気の激変に、少女たちは息をすることすら忘れ、ホシノの次の言葉を待つ

 

「……言葉通りの意味だよ、クロコちゃん」

 

ホシノの低く、一切の冗談や迷いを排した声音。その一言が病室の薄暗い空間に落とされた瞬間、アヤネ、ノノミ、シロコの全員が怪訝そうに眉をひそめ、言葉もなく互いに顔を見合わせた

 

セリカが、二人いるとでも言うのだろうか。あるいは、自分たちの見ていたセリカは偽物だったとでも言うのか。そんな荒唐無稽で馬鹿げたオカルトじみた思考が脳裏を過っては、現実味を持たずに霧散していく。誰もがホシノの言葉の真意を掴めず、ただその緊迫感に圧倒されていた

 

しかし、次にホシノの口から告げられた言葉は、彼女たちの想像の限界を、キヴォトスの常識の枠組みを遥かに超える、あまりにも最悪で残酷な真実だった

 

「みんなが首を傾げるのも無理はないよ。昨日、セリカちゃんは確かに何者かに攫われたし、あの嵐の日だって、ずっと教室で一緒に次の作戦の計算をしていたんだから。……でもね」

 

ホシノは一度言葉を切り、言葉にできないほどの悔しさと己の無力さに、自身の拳をギチ……ギチ……とシーツの上で白くなるまで強く握り締めた。そして、病室のすべての空気を一瞬にして絶対零度へと凍結させる、あまりにも残酷で、あまりにも信じがたい一言を、静かに、けれど明確に告げた

 

「……夕闇の袋小路で、おじさんの前に立ち塞がって、その圧倒的な、暴力そのものみたいな戦闘技術でおじさんを完璧に叩き伏せた、あの黒いフードの襲撃者。……私を倒したあの犯人も、他でもない、セリカちゃん本人だったんだ」

 

「!?!?!?」

 

その言葉が放たれた瞬間、病室の時間が完全に停止した

 

窓の外から聞こえていた夜の砂漠の風の音さえも消え去ったかのような、圧倒的な静寂。誰もが呼吸することを忘れ、限界まで目を見開いたまま、ベッドの上のホシノが一体何を言っているのか脳の処理が追いつかない。理解を拒む現実を前に、ただただ呆然と、浅い息を呑むことしかできなかった

 

「でも、多分おじさんたちの知ってる、あの優しくて生真面目なセリカちゃんじゃないと思うんだよね」

 

病室の全員が驚愕と極限の混乱で硬直する中、ホシノは感情の起伏を完全に削ぎ落としたような、静かで淡々とした口調のまま話を先へと進める。その静けさが、逆に事態の異常性を際立たせていた

 

あまりにも突飛で、あまりにも残酷な現実を突きつけられ、アヤネやノノミ、シロコの頭が完全にパンクしかけて言葉を失っている中──かつて自分自身が「あり得ない現実」と「世界の崩壊」を戦場で何度も目撃し、体験してきたクロコだけが、どうにか理性の手綱を強く繋ぎ止めて、凍りついた声を鋭く聞き返す

 

「……それって、どういうこと? セリカであって、セリカじゃないって……そんな前後の矛盾したこと、どうしてそこまで確信を持って言い切れるの」

 

クロコの水色の瞳が、ホシノのオッドアイを射抜くように見つめる。その視線を受け止めながら、ホシノはゆっくりと、自分の記憶の底へと意識を沈めていった

 

「……それはね」

 

ホシノは、あの夕闇に染まった路地裏での、肌を刺すような冷たい空気と、五感を支配した凄絶な死闘の記憶を、脳裏で一つずつ手繰り寄せるようにして、ぽつりぽつりと話し始める

 

あの一分一秒が永遠のように引き延ばされた、暗い袋小路での出来事を




次回、ホシノvs謎のフード
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