救われたかったセリカ   作:気弱

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ホシノの告白

「──これが、おじさんが完全に意識を失う直前までに見た、すべての光景だよ」

 

あまりにも重苦しい沈黙が、病室を完全に支配していた

 

夕暮れ時の赤黒い斜光が窓から差し込み、砂埃の舞う古びた長机の上に、引き伸ばされた不気味な長い影を落としている。ホシノが静かに語り終えた悍ましい記憶の残滓だけが、まるで目に見えない瘴気のように部屋の空気を凍りつかせていた。窓の外で鳴くカラスの声さえ、今は遠く、ひび割れた世界のノイズのようにしか聞こえない

 

「うっ……、……おぇぇぇっ……!!」

 

突如、アヤネが口元を両手で激しく押さえ、椅子を派手に後ろの床へと弾き飛ばしながら立ち上がった。血の気が完全に引き、土気色になった彼女はよろめく足取りのまま病室の隅へと駆け込み、そこにあったスチール製のゴミ箱に縋り付くようにして、胃の中のものを激しく吐き出し始める

 

「あっ、アヤネちゃん……! 落ち着いて、ゆっくり、ゆっくり深呼吸して……っ!」

 

「アヤネ、無理に我慢しなくていいからね。全部出しちゃおう。ほら、背中さするから」

 

ノノミとシロコが瞬時に動き、激しく背中を丸めて胃液の逆流を繰り返すアヤネの傍らに寄り添った。ノノミは今にも崩れ落ちそうなアヤネの身体を支えるように、包み込むような優しい手つきで彼女の華奢な背中を何度も摩る。そのノノミの手も、かすかに震えていた。シロコは無言のまま、しかし手際よくウォーターサーバーから紙コップに冷たい水を注ぎ、いつでも渡せるようにアヤネの横に控える

 

無理もないことだった

 

この数日間、寝食を忘れて、文字通り血眼になって行方を捜し続けていた最愛の仲間、黒見セリカ。アビドスの財政を支えるために誰よりもバイトに励み、時に怒り、時に笑い、いつでも真っ直ぐに明日を見つめていた彼女が、どこかも分からない暗い路地裏で、身体中を刃物や銃弾でズタズタに引き裂かれた変わり果てた姿でホシノの前に現れたというのだ

 

そればかりか、感覚を失って機能していないはずの自身の左腕を狂ったように銃身で叩き潰し、赤黒い鮮血を撒き散らしながら、実の姉のように、家族のように慕っていたホシノに対して、一切の躊躇なく殺意の銃口を突きつけた。そんな、悪夢ですら生ぬるい地獄のような現実を脳内で映像として再生させられて、繊細なアヤネが正気でいられるはずがなかった

 

病室には、アヤネの苦しげな嘔吐音と、それを宥めるノノミの涙を堪えたような穏やかな声だけが低く響いている

 

ベットの端に力なく腰掛け、未だ全身に巻かれた白い包帯の隙間からうっすらと赤黒い血を滲ませているホシノ。その痛々しい姿を冷徹に見つめながら、それまで影に潜むように壁に背を預けて静観していたクロコが、その重い口を開いた

 

「……ホシノ先輩。あなたは、その子がやっぱり……私たちの知っている、あの世界の、本物のセリカじゃないって思っているんだよね」

 

クロコの瞳には、冷徹なまでの分析の光、そして自身もかつて地獄を潜り抜けてきた者だけが持つ特有の昏い眼光が宿っていた

 

自分自身の経験から言っても、アビドスを、そして何よりも対策委員会の仲間を誰よりも愛しているあの生真面目な少女が、どれほどの過酷な苦境に立たされようとも、ホシノをこれほどまでに深く呪い、その額を撃ち抜くような真似を自らの意思でするとは到底信じられなかった

 

だが、その狂気と、飛び散る血の温もりを直に肌で受け止め、死の淵を彷徨って医療室から生還してきたのは、目の前にいる小鳥遊ホシノただ一人なのだ。彼女の言葉を疑う余地など、どこにもなかった

 

ホシノは、傷跡をそっと右手で押さえながら、酷く悲しげに、けれど確信を込めてゆっくりと頷く

 

「うん……。確証はないけれど、あれは私たちが毎日一緒に過ごしてきたセリカちゃんじゃない。おじさんの直感が、全力でそれを否定してるんだ。例えるなら……そう、そこにいるクロコちゃんみたいな存在、かな」

 

「ん、確かに……」

 

アヤネの背中を摩り終え、手元がわずかに震える彼女へウォーターサーバーの水を注いだ紙コップを差し出していたシロコが、立ち上がって静かに会話に割って入った

 

「クロコのように、別の『違う時空』から何らかの方法でこの世界へやってきたセリカなのだとしたら──話の途中で彼女が吐き捨てた、『こんな都合のいい世界に逃げ出した』っていう言葉の辻褄が完璧に一致する」

 

シロコの声には、否定のしようがない冷厳な説得力があった

 

かつて色彩の導きによってこの世界へと現れ、アビドスを滅ぼそうとした「プレナパテス側のシロコ(クロコ)」。彼女という前例がある以上、別世界のセリカが、己の世界の崩壊や絶望の果てに、この「優しい世界」のアビドスへと憎悪を抱いて現れるという仮説は、最も恐ろしく、そして最も現実的な正解を示していた

 

「けほ……、げほっ……。す、すみません……みなさん……。もう、大丈夫です……」

 

ようやく胃の腑の痙攣が収まり、涙目で口元を拭ったアヤネが、ノノミに支えられながらゆっくりとパイプ椅子に座り直した。その顔色は紙のように白く、手元は微かに震えている。けれど、チーフメカニックとしての、そして対策委員会の書記としての強い義務感が、彼女の瞳に無理やり焦点を結ばせていた。長机の上に広げられたタブレットの画面が、彼女の青ざめた顔を冷たく照らす

 

「ごめんね、アヤネちゃん。無理をしているアヤネちゃんに、こんなショッキングな話を無理に聞かせちゃって……。でも……」

 

ホシノがどこまでも申し訳なさそうに、眉を八の字に下げて言葉を濁す。包帯に覆われたその小さな肩が、どこか小さく縮こまっているように見えた

 

そんな先輩の痛々しい姿を見て、アヤネはメガネの奥の瞳を真っ直ぐに向け、ホシノの言葉を遮るようにして毅然と言い放った

 

「……分かっています、ホシノ先輩。あなたがわざわざこんな話を私たちに共有したということは、単にセリカちゃんが襲ってきたという事実だけでなく、何か他にも、決定的な違和感や『気がついたこと』があるんですよね?」

 

アヤネは知っていた。小鳥遊ホシノという人は、くだらない悪戯や楽しいサプライズで後輩たちを驚かせることはあっても、根拠のない恐怖や、不確かな情報で仲間を無暗に怯えさせるような真似だけは、絶対にしないということを。彼女が重い口を開いたということは、その先にある「最悪の真実」を、全員で共有しなければならない段階に来ているという証だった

 

アヤネの言葉を受け、ノノミも、シロコも、そしてクロコも、一斉にホシノへと視線を集中させる。病室の空気は張り詰め、古びた扇風機が首を振る規則的な音さえも消え失せたかのような錯覚を覚える

 

後輩たちの遮るもののない眼差しを受け止めながら、ホシノは深く、深く息を吐き出し、ゆっくりと首を縦に振った

 

「うん……。おじさんが、あの袋小路で、身を以て体験した『違和感』。ただの戦闘技術の高さだけじゃ片付けられない、謎が5つあるんだ」

 

ホシノは包帯の巻かれた自身の両手をじっと見つめ、人差し指を一本、静かに立てた

 

「まず一つ目。あのセリカちゃんは、私たちが知っている彼女とは比べ物にならないくらい……それこそ何十倍、いや、何百倍も強くなっている。身体能力、筋力、反射神経、配置につく速度……何をとっても、今のキヴォトスのトップレベル、ひょっとしたらゲヘナのヒナちゃんや、ミレニアムのネルちゃんをも凌駕する領域に達しているかもしれない。あの時の彼女は、まるでヒナちゃんのような圧倒的な火力、そしてシロコちゃんやクロコちゃんのような無駄のない、鋭い動きをしていたんだ」

 

「……あのセリカちゃんが、そこまで……? ヒナ委員長や、シロコ先輩たちのような……?」

 

アヤネが信じられないといった様子で、声を震わせる。日々、放課後の教室で「効率的な戦術」や「弾薬の節約」について頭を悩ませていた、等身大のセリカの姿からは、およそ結びつかない恐るべき評価だった

 

「ん。おじさん、大裟裟に言ってるわけじゃないんだよ」

 

ホシノは自嘲気味に口元を歪め、自身の膝に置かれた、白く無機質な包帯を見つめながら視線を落とす

 

「戦っている最中、おじさんは完璧に、文字通り手も足も出ないくらい防戦一方に追い込まれた。さっきも言った通り、彼女は最初から最後まで、不自然に『左腕』を全く使っていなかった。それなのに、右手一本の攻撃だけで、おじさんはヘイローを叩き割られる寸前まで叩きのめされたんだ。……もし、もしもあの時、彼女の左腕が万全な状態で、両手で十全に立ち回られていたら……おじさんは彼女に膝をつかせることすら出来ず、あの場で一瞬で消し飛ばされていたと思う。それくらい、あの戦闘技術と圧力は異常だった」

 

「ホシノ先輩を、右手一本で……そこまで……」

 

シロコが小さく息を呑み、自身の拳を白くなるほど強く握り締めた。キヴォトス最強の一角である小鳥遊ホシノにそこまで言わしめる圧倒的な戦闘力。それはもはや、一人の生徒が血の滲むような努力や才能だけで到達できるような次元を遥かに超えており、不気味なナニカの影を感じさせずにはいられなかった

 

「そして、二つ目……」

 

ホシノは二本目の指を立てる。その瞳の奥に、言い知れぬ底寒い恐怖の色が混じった

 

「あのセリカちゃんは……明らかに、正気じゃなかった」

 

「正気じゃない、というのは……精神的に、ということですか?」

 

ノノミが不安げに胸元で手を躍らせ、ホシノの顔を覗き込む。いつもの朗らかな笑みは完全に消え去り、その瞳には愛する仲間を失うかもしれないという恐怖が揺れている

 

「うん。フードを取って、彼女の顔を間近で見た時に確信したんだ。彼女の瞳には、おじさんやアビドスに対する狂気的なまでの激しい憎悪が燃え盛っていた。でも……真っ直ぐに私を睨みつけているはずなのに、その焦点は、まるでおじさんを通り越して、別の『何か』……言葉では言い表せないほど悍ましい後ろ暗いものを見つめているような、そんな空っぽな感じがしたんだ。それに、自分の動かない左腕を銃身で滅多打ちにしていた時の様子は、怒りや憎しみというより、完全にブレーキの壊れた『暴走』そのものだった。自分の肉体が壊れることへの恐怖も、痛みへの嫌悪も、一切持ち合わせていない……ただただ、内側から溢れ出るのろいに肉体を突き動かされている人形みたいだった」

 

病室の空気が、さらに一段と冷え込んでいく

 

自分たちの知る黒見セリカは、感情豊かで、怒る時も笑う時も、常に真っ直ぐに相手の目を見る少女だった。そんな彼女が、狂気の人形と化して自分たちを呪っている。その情景を想像するだけで、全員の胸が締め付けられるように痛んだ。冷たい沈黙のなか、窓の外でざわめく風の音だけが、アビドスの静寂を一層際立たせていく

 

「そして……三つ目。これが一番理不尽で、一番不気味なことだよ」

 

ホシノは三本目の指を立て、全員の目を真っ直ぐに見つめた。夕闇に染まる病室のなかで、その指先がわずかに影を落とす

 

「あのセリカちゃんは、異質な能力を持っている」

 

「異質な能力、ですか……?」

 

アヤネが眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、必死に思考を巡らせる。彼女の手元のタブレットには、これまでのセリカの戦闘データやバイタルログが表示されていたが、これからホシノが語る言葉は、それらの数値的な常識をすべて置き去りにするものだった

 

「そう。戦闘の終盤、おじさんは煙幕を使ったフェイントで、セリカちゃんの無防備な右脇腹に渾身の回し蹴りを叩き込んだ。手応えは完璧だった。間違いなく骨の砕ける鈍い音が響いたし、彼女はビルの壁を粉砕するほどの勢いで吹き飛んで、完全に気絶したんだ。……それなのに、彼女は何事もなかったかのように平然と立ち上がった。動きには微塵の澱みも、痛みに耐えるような強張りもなかった。まるで、最初から攻撃なんて受けていなかったみたいにね」

 

「それは……単に、信じられないくらい頑丈だった、ということでは……?」

 

ノノミが縋るように、かすれた声を出すが、ホシノは静かに首を振った

 

「おじさんも、最初はそう思いたかったよ。でも、違ったんだ。その後に起こったことが、何よりの証拠だよ。彼女はさっき言った通り、狂ったように自分の動かない左腕を銃身で叩き潰して、肉を裂き、鮮血を撒き散らして自傷した。おじさんの目の前で、彼女の左腕は見るも無残なボロ雑巾みたいになったんだ。……だけど、彼女が再びおじさんの額に銃口を突きつけたその瞬間、信じられないことが起きた」

 

ホシノは自身の左腕を強く掴み、あの時の衝撃を反芻するように言葉を紡ぐ

 

「裂けた皮膚が、潰れた肉が……まるで時間を巻き戻すみたいに急速に蠢いて、瞬く間に接合されていったんだ。飛び散った血痕すら陽炎みたいに掻き消えて、私が息を呑む一瞬の間に、そこには傷一つない、元の綺麗な白い肌が再生していた。……蹴りによる致命傷を無効化したのも、これと同じ原理だよ。あのセリカちゃんには、受けた負傷やダメージを瞬時に、完全に『完治』させる、異常な再生能力があるんだ」

 

「瞬時に……完治……」

 

シロコが呆然と呟く。キヴォトスの生徒は頑丈だが、傷を負えば当然血も流れるし、治るのには適切な医療処置とそれなりの時間が必要だ。目の前でリアルタイムに傷口が塞がり、失われた肉が数秒で元通りになるなど、救護騎士団の最高峰の治療を以てしても不可能な、文字通りの超常現象──医療の理を根底から覆す異形の神秘だった

 

「……待ってください」

 

それまで必死にメモを取っていたアヤネが、ハッと何かに気がついたように顔を上げた

 

「ホシノ先輩。そのセリカちゃんには、自傷した傷すら一瞬で治してしまうほどの、完璧な再生能力があるんですよね?」

 

「うん、おじさんの目で確かに見たよ」

 

「だったら……だったら、どうして彼女の『左腕』は、最初から動かないままだったんですか……? 過去の戦いで大口径の銃弾に貫通され、まともな治療を受けなかったから神経が死んでいる、とおっしゃいましたよね。でも、それほどの超常的な自己再生能力があるのなら、そんな過去の古傷なんて、一瞬で綺麗に治せるはずじゃないですか……!?」

 

アヤネの至極真っ当な、そして鋭い指摘に、病室の全員の視線が再びホシノへと集まる。

 

傷を瞬時に無に帰す絶対的な力を持ちながら、なぜ、戦術的に圧倒的な不利を被るはずの「左腕の機能停止」という致命的な欠陥だけは、頑なに治そうとしないのか

 

しかし、その疑問に対して、ホシノはただ、悲しげに視線を伏せて首を横に振ることしか出来なかった

 

「……ごめんね。おじさんにも、それだけは分からないんだ。なぜセリカちゃんが、自分の左腕だけを頑なに治さないのか、あるいは……『治せない』のか。ただ、おじさんの額に銃口を押し付けながら、血塗れの左腕を一瞬で治してみせたあの時の彼女は、自分の身体が再生していくことなんて、まるで最初から視界に入っていないみたいだった。ただただ、おじさんやみんなへの憎しみだけを燃やして、ボロボロと涙を流していたんだ……」

 

夕暮れの光が完全に遮られ、病室には夜の帳が降りようとしていた。影が部屋の隅々まで侵食し、彼女たちの表情を暗く塗りつぶしていく

 

「そして……四つ目」

 

ホシノはそこで一度言葉を区切り、ひび割れた唇をきつく噛み締めた。そのオッドアイの瞳が、まるで当時の袋小路の光景を今この瞬間に網膜へ鮮明に映し出しているかのように、せわしなく、そして痛々しく彷徨う

 

喉の奥から絞り出される声は、先ほどよりも一段と低く、震えていた

 

「額に冷たい銃口を突きつけられて、もうこれで終わりだって、おじさんも完全に覚悟を決めたんだ。セリカちゃんは、本当に、純粋な殺意を以ておじさんを殺そうとしていた。そこにある憎悪の深さはね、キヴォトスのすべての砂漠の砂をかき集めても、決して埋められないくらい深く、暗いものだった。……でもね、引き金にかかった彼女の指が、ほんの僅かに、本当に一瞬だけ震えたんだよ。そして、おじさんの意識が完全な闇に沈む直前、引き金が引かれたまさにその瞬間──彼女の顔が、何故か、言葉では言い表せないほどに酷く『悲しげな表情』に見えたんだ」

 

「悲しげな……表情……?」

 

ノノミが自身の胸元を震える手できつく押さえながら、今にも消え入りそうなかすれた声でその言葉を復唱した

 

「うん。怒り狂って、私やみんなを呪って、左腕の肉が裂けるまで自傷行為を繰り返して暴走していたはずなのに……いざ、おじさんの命を奪うというその最後の瞬間だけは、まるで、世界で一番理不尽な悲劇を無理やり押し付けられた被害者のような、そんな子供みたいな泣き顔をしていたんだ。おじさんを殺したくて殺そうとしているんじゃない。まるで、そうする以外に自分の存在を保つ方法が、世界に何も残されていないから……だから仕方がなく引き金を引く……。そんな、胸が締め付けられるような、どうしようもない悲しみが、あの硝煙の匂いの中で確かに破裂したんだよ。おじさんには、それが酷く残酷で、それでいて……どこか愛おしく思えちゃったんだよね」

 

ホシノの声は、微かに、けれど確実に震えていた。アビドス最高戦力であり、かつてキヴォトス最強とすら謳われた彼女が、死の恐怖ではなく、大切な後輩の浮かべた「悲しみ」そのものに魂を激しく揺さぶられている

 

「……それが、おじさんがあの路地裏で見たことの、すべて。そしてね、みんな」

 

ホシノはそこで一度ゆっくりと視線を上げ、夕闇が迫る病室の古びた天井の染みを見つめながら、自身の包帯だらけの身体へ、そして五つの目の疑問へと話を移行させた

 

「これが最後。五つ目。おじさんにとって最大の、そして最も現実的な謎なんだ。……おじさんは、あの至近距離から、アサルトライフルの弾丸を頭部に叩き込まれた。ヘイローごと消し飛ばされて、二度と目覚めないはずの、確実な『死』をプレゼントされたはずだった。……それなのに、なんでおじさんは今、こうしてみんなに囲まれて、病院のベッドで目覚めて、ここで生きて会話なんて出来ているんだろう?」

 

その重い問いが投げかけられた瞬間、アヤネもシロコも、そしてノノミも、ハッとしたように目を見開いた。あまりにも衝撃的な事実の連続に脳の処理が麻痺していたが、冷静に考えれば、それは奇跡や幸運などという言葉では決して片付けられない、決定的な「矛盾」であり「異常」だった

 

「……ん。言われてみれば、おかしい」

 

それまで壁の影で静かに話を聞いていたクロコが、鋭い視線をホシノへと走らせた

 

「あのセリカの戦闘力と、あの至近距離。殺意が本物だったなら、撃ち損じるはずがない。どれだけホシノ先輩が強くても、不意を突かれ、怪我で動けない先輩の頭部を完璧にロックしていた。……なのに、先輩のヘイローは壊れていない。それどころか、こうして私たちの前にいる。弾を外すような相手じゃないはず」

 

「そうなんだよ」

 

ホシノは自嘲気味に力なく笑い、自分の側頭部を軽く指先で小突いた

 

「おじさんが目を覚ました時、そこは冷たい路地裏のコンクリートの上じゃなくて、アビドスの静かな病室のベッドの上だった。そして、おじさんの怪我は、最初に受けた腹部への打撃による、肋骨の骨折と内臓の挫傷だけだったんだ。……つまり、一番最後に鼓膜を震わせた、あの無慈悲な『一発の銃声』。額に突きつけられていた、あの絶対的な銃撃だけは、何故かおじさんの頭を撃ち抜いていなかったんだよ」

 

「じゃあ……セリカちゃんは、引き金を引かなかった、ということですか……!?」

 

ノノミが暗闇の中に一筋の救いを求めるように、少しだけ声を弾ませて身を乗り出した。だが、ホシノは冷徹にその希望を否定するように首を振る

 

「ううん、引き金は確実に引かれていた。おじさんの意識が途切れる直前、銃口から放たれた強烈なマズルフラッシュの光と、脳髄を直接震わせるような爆音は、間違いなくこの耳と目が捉えていたから。……でも、弾丸はおじさんを逸れた。彼女が寸前でわざと銃口を外したのか、それとも、引き金を引いた瞬間に何か別の要因が強制的に割り込んで、おじさんを助けたのか……。それに、意識を失ってピクリとも動けなくなったおじさんを、誰がわざわざ、あのキヴォトスでも有数の危険な廃ビル街から、このビョウインまで運んだのか。……あの場所に、セリカちゃん以外の『誰か』がいたのか、それとも……」

 

ホシノの言葉は、夕闇が完全に病室の四隅を塗りつぶしていく中で、答えのない深い霧のように広がっていった

 

別世界から来たとしか思えない、全身に深い傷を負った変わり果てた姿のセリカ

 

ヒナやネルに匹敵する異次元の戦闘力、ブレーキの壊れた暴走する精神

 

受けた致命傷すら瞬時に無に帰す、異形の完治・再生能力

 

そして、絶対的な殺意の果てに見せた悲痛な泣き顔と、放たれたはずの銃弾の行方

 

すべてのピースが揃っているはずなのに、完成した絵はあまりにも歪で、不気味な謎だけがアビドス対策委員会に、重く、深く、容赦なくのしかかっていた

 

「……それとね、みんな。おじさん……セリカちゃんを捜索する任務からは、抜けさせてもらうよ」

 

「え……?」

 

ぽつりと、しかし明確な拒絶として病室の空間に落とされたその言葉に、最初に反応したのはシロコだった。その水色の瞳の片眸が驚愕に細められ、いつもは平坦で抑揚のない彼女の声が、微かに、鋭く揺れる

 

「な、なんで……ですか……っ!?」

 

アヤネが勢いよくパイプ椅子から身を乗り出し、長机の木目を強く両手で叩きつけながら、掠れた声を振り振るわせた。ガタタン、と大きな音が響き、眼鏡の奥の瞳には、深い困惑と、そしてどこか信じていたものに裏切られたような悲痛な色が混じっている

 

あんなにセリカのことを心配し、誰よりも先に危険を顧みず飛び出していったホシノが、なぜこの最悪の局面で自ら手を引くなどと言い出すのか。ノノミも言葉を失ったまま、ただ涙を溜めた縋るような視線をホシノへと向けていた

 

病室を包む激しい動揺の渦を真っ向から受け止めながら、ホシノは包帯が痛々しく幾重にも巻かれた自分の膝をじっと見つめ、静かに、昏い声で言葉を紡ぎ出す

 

「……これは、まだおじさんの中での推測でしかなくて、何の確証もない、ただの嫌な予感の話なんだけどね。多分……私たちの世界の、このアビドスにいるはずのセリカちゃんは、すでにあの『もう一人のセリカちゃん』に捕まってると思うんだ」

 

「っ……!」

 

その言葉に、それまで一言も発さずに壁の影へ吸い込まれるように佇んでいたクロコが、弾かれたように鋭く息を呑んだ。彼女の脳裏に、かつて自分が『色彩』の導きによって狂気の眷属となり、プレナパテスとなった未来の先生と共にこの世界線へ侵攻してきた時の、あの忌まわしくも悲しい記憶が鮮明に呼び覚まされる

 

「……確かに、筋は通っている。あり得ない話じゃない」

 

クロコは自身の顎に手を当て、低く、地を這うような冷徹な声でホシノの推測を肯定した

 

「別世界、別の時空の存在とはいえ、彼女とは本質的に同じ『黒見セリカ』という同一の神秘、同一の存在。もし、あのセリカの目的がアビドスへの、そして『対策委員会』への復讐なのだとしたら、最初にその標的となり、その手で確実に捕らえられるとしたら……この世界で何不自由なく、幸せに暮らしている自分自身になる。……かつて、私がこの世界に初めて現れた時、最初に同じ存在であるシロコを攫ったように」

 

クロコの放った言葉は、かつて自分たちが直面した最悪の危機の構図そのものだった。同じ顔、同じ神秘を持ちながら、世界の崩壊と絶望の果てに怪物となったもう一人の自分。その残酷な因果が、今度はセリカの身に起きている

 

「で、でも……っ、もし本当にセリカちゃんが捕まっているのだとしたら、なおさら私たちが一刻も早く助けに行かないといけないじゃないですか……!」

 

ノノミが涙を浮かべた目で、ホシノの衣服の袖を今にも掴まんばかりに身を乗り出す

 

「どうしてそれと、ホシノ先輩が捜索から抜けるという話が関係あるんですか……? 先輩の力が必要なんです……! ホシノ先輩がいなきゃ、私たちは……!」

 

「……おじさんはね、ノノミちゃん」

 

ホシノは掴まれそうになった自分の袖を、拒絶するようにそっと引き、目線をさらに下へと向けた。古びた長机の冷たい木目を睨みつけるようにして、その小さな手が、膝の上に敷かれた薄手の毛布の端をギュッと、指の関節が白くなるほどの異常な力で握りしめる

 

「……おじさんは、もうあのセリカちゃんと戦えない。ううん、戦う『資格』なんて、おじさんには最初からどこにもないんだよ」

 

「ホシノ先輩……?」

 

その異常なまでの弱気と、自己を根本から否定するような歪んだ声に、シロコがこれまでにないほど心配そうな表情を浮かべ、一歩足を踏み出した。いつもなら「おじさんに任せてよ」と頼もしく胸を張るはずの、アビドス対策委員会の絶対的な盾であり、精神的支柱

 

そのホシノの心が、今、内側から完全に粉々に砕け散ろうとしているのを、その場の全員が本能的に察知していた

 

「……あの時、袋小路の中で、彼女が私にぶつけてきた言葉がね……どうしても胸の奥深くへ突き刺さったまま、どうしても取れないんだよ。まるで毒の棘みたいにさ」

 

ホシノの声は、もはや蚊の鳴くような、泣き出すのを必死に堪える迷子の子供のように脆く、震えていた。毛布を握る指先が、怒りと後悔、そして底知れない自責のあまりに小さくガタガタと震動している

 

「『もういないユメ先輩の幻影ばっかり追いかけて、私たちの現実から目を背けた』……って、セリカちゃんはそう言って、涙を流しながら泣いていた。おじさんがいつまでもユメ先輩に囚われて、今目の前にいるアビドスのみんなを……セリカちゃんや、アヤネちゃん、ノノミちゃん、シロコちゃん、対策委員会のみんなを本当に信じようとせず、何もかも一人で背負い込んで突っ走った。……その独善的な結果が、あの世界の後輩を、あのセリカちゃんを……あんな取り返しのつかない、ボロボロの悍ましい姿に変えてしまったんだって。……おじさんが、あの世界のアビドスを……セリカちゃんを、殺したも同然なんだよ」

 

「それは……それはあの子のいた世界の話で、ホシノ先輩のせいじゃ──」

 

アヤネが必死にその言葉を否定しようと、震える唇から必死に言葉を紡ぐが、ホシノの魂から溢れ出る底無しの罪悪感の拒絶が、それを頑なに許さなかった

 

「違うんだよ、アヤネちゃん。本質は何も変わらない。おじさんが、自分の無力さと傲慢さのせいで、後輩たちを信じて頼ることをしなかった。その結果が、あの絶望なんだ。もし、おじさんがもっと早くみんなを信じていれば、あの世界のセリカちゃんは、あんなに一人で地獄の底で叫び続ける必要なんてなかったかもしれない。彼女の言う通り、おじさんの力は誰も守れない、ただの独りよがりの空っぽな暴力だったんだ。……そんなおじさんが、一体どの面を下げて彼女に再び銃口を向けられるっていうの? 自分の犯した罪の結晶のような彼女と、一体どんな顔をして戦えばいいのか……おじさんには、もう分からないんだよ……」

 

夕暮れの残光が完全に病室の光を奪い去り、ホシノの顔は濃い影に覆われて見えなくなった。ただ、長机の上にぽつりと、彼女の目から溢れた大粒の涙が静かに染みを作っていく音だけが、絶望の証明のように重苦しく響いていた

 

誰も何も言えなかった

 

窓の外は完全に夜の闇に塗りつぶされ、病室の蛍光灯だけが、残酷なほどに白く彼女たちの暗い表情を照らし出している

 

かつてアビドスを揺るがしたあの巨大な事件、列車砲を巡る死線の中で、ホシノは確かに過去を乗り越え、先生や仲間たちの手によって前へと進めたはずだった。だが、それはあまりにも危ういバランスの上に成り立っていた「奇跡」に過ぎなかったのだ

 

あの時は誰も死なさずに済んだ

 

ホシノ自身もテラー化という深淵の手前から、無事に帰ってくることができた

 

いくつもの幸福な偶然と、全員の必死の祈りが重なり合って、ようやく掴み取れた前進だったのだ

 

だが、もし、その裏側で──自分の独善的な暴走のせいで、救われずに狂わされてしまった「もう一つの世界線」が確かに存在していたとしたら

 

自分が何よりも大切に想い、その日常を守るために命を賭してきた大好きな後輩が、自分への狂気的なまでの憎悪と怨嗟を抱き、あんなボロボロの姿で地獄を這いずり回るようになってしまったのだと知らされたのなら。その残酷な事実が今、何の前触れもなく突きつけられたのだとしたら、小鳥遊ホシノという一人の少女にとって、どれほどの壊滅的な苦痛なのだろうか。それは彼女が積み上げてきた「今」のすべてを、根底から否定し、踏みにじるような絶対的な絶望だった

 

ホシノは後輩たちが完全に言葉を失い、静まり返ったのを確認すると、力なく視線を彷徨わせた後、ゆっくりと病室のベットの上に力なく身体を倒した。そして、包帯の巻かれた手で、毛布を頭から深く被り、世界のすべてを拒絶するように小さく身を丸めるのだった

 

「ごめんね……。今は、少しだけ……1人にさせて……」

 

毛布の隙間から漏れ聞こえたのは、かつてアビドスを震撼させた「最強の盾」の面影など微塵もない、消え入りそうなほど弱々しい、ただの傷ついた少女の、泣き出しそうな声だった

 

シロコは、ノノミは、アヤネは、そして同じ絶望を知るクロコは、彼女に何か言葉をかけようと唇を動かした。けれど、喉の奥にドロリとした重い塊が突き刺さったかのように、どんな慰めも、どんな否定の言葉も形を成さなかった

 

今のホシノの傷口に触れる勇気も、それを癒やす言葉も、誰も持ち合わせていなかった

 

病室の片隅で、差し込む月光すら届かない影の中に佇むクロコは、人知れず自身の胸元を強く掴んでいた。かつて「色彩」の眷属となり、全てが滅び去った世界から歪んだ怨嗟を抱えてこの世界に現れた自分。今、ベッドの上で毛布にくるまり、激しい自責の念に押し潰されているホシノの姿は、あの日の自分を、そして自分のせいで傷ついた「こちら側の世界」の仲間たちの絶望を、あまりにも残酷にトレースしていた。かけるべき言葉など、同じ地獄を這いずり回った自分にすら見つけられない

 

静まり返った病室に、切ない衣擦れの音だけが響く。彼女たちは沈痛な面持ちのまま、引きずるような足取りで、ゆっくりと病室を後にするしかなかった

 

パタン、と静かにドアが閉まり、完全に静寂が戻った病室

 

みんなが居なくなったことを気配で察したホシノは、被っていた毛布をゆっくりと跳ね除け、ベッドの上に上体を起こした。その瞳には、昏い諦念の色がべっとりと張り付いている。涙の跡が白く乾きかけた頬を、冷たい夜風が優しく、しかし虚しく撫でて通り過ぎていく

 

彼女は軋む身体を無理やり動かしてベッドから立ち上がると、壁際に立てかけられていた、自分の使い古された戦術装備一式──アイアンホルスとショットガンの元へと、覚束ない足取りで歩み寄った

 

(……みんなには、どうしても言えなかったけれど……。おじさんが捜索を抜けるのには、もう一つだけ……大きな理由があるんだよね)

 

本来、キヴォトス随一の頑丈さと神秘の防壁を自慢とする小鳥遊ホシノだ。現に今、折れた肋骨など既にくっつき、肉体の怪我そのものは軽く痛む程度にまで完治しかけていた。キヴォトスの生徒特有の、人外じみた強靭な回復力は、致命的な打撃すら過去のものへと変えつつあった

 

だが、あのセリカとの凄絶な戦いの後、この病室で目を覚ましてからというもの、ホシノの肉体は異常な事態に見舞われていた。外傷はほとんど癒えているはずなのに、まるでタチの悪い悪質な風邪を引いた時のように、あるいは全身に何十キロもの鉛の塊を直接背負わされているかのように、身体の芯が鉛色に濁り、酷く鈍く重いのだ。呼吸をするたびに、肺の奥がジリジリと焼け付くような、異質な熱が燻り続けている

 

「っ……」

 

装備に手をかけ、いつものように重い防弾シールドを持ち上げようとした瞬間、ホシノの細い腕がミシミシと激しく震え、膝がガクリと折れそうになった

 

重い

 

信じられないほどに重い。いつもなら片手で軽々と振り回し、あらゆる砲撃を受け止めてきた自慢の盾が、まるで地面に根を張っているかのように持ち上がらない。指先から力が抜け、鉄の塊が床を擦る耳障りな音が静かな部屋に虚しく響く。これでは、盾を構えることすらままならず、ましてやショットガンを同時に扱い、以前のような苛烈なインファイトを展開することなど、逆立ちしても不可能だった

 

確証は、ない。けれど、数々の死線を潜り抜けてきた戦士としての直感が告げていた

 

あのセリカには、負傷を一瞬で無に帰す『完治の力』の他にもう一つ、おぞましい能力が備わっている。そして、その異質な神秘の残滓が、今もなおホシノの体内に巣食い、彼女の命の灯火を侵食し続けているのだ。それはかつて彼女が触れかけた、世界の裏側にある昏い深淵のエネルギー、ヘイローを内側から腐らせていくような、冷酷な「呪い」の感覚に極めて酷似していた

 

さしずめ、それは──対峙した相手の力や体力を削り取り、強制的に弱体化させる「呪いの力」

 

過去の選択に迷い、心を完全に折られてしまった今の自分

 

そして、謎の能力によってキヴォトス最弱の一般生徒並みにまで、力を弱められてしまった今の自分

 

こんな、心も体もボロボロに壊れてしまった自分が戦場にいたところで、助けられるはずのセリカを救えないどころか、残された対策委員会のみんなの足を引っ張り、今度こそ全員を破滅に巻き込んでしまう。足手まといになることだけは、何としても避けなければならない。それが、かつて守れなかった過去を持つホシノの、最後のプライドであり、呪縛だった

 

ホシノは冷たい盾の表面に額を押し当て、絞り出すように呟いた

 

「……私は……一体、どうしたらいいの……。教えてよ、ユメ先輩……」

 

白煙を上げるアビドスの夕暮れは、その問いかけに答えることなく、ただ冷酷に闇を深めていくだけだった。部屋の明かりすら点けられないまま、アビドスの絶対的な守護神は、暗闇のなかで一人、静かに膝を折った

 

ーーーーーーーー

 

話は数時間ほど遡り、ホシノがシャーレの医療室で後輩たちに地獄の光景を語っていた頃

 

アビドスの、あの血の匂いと硝煙が微かに残る廃ビル街の薄暗い路地裏

 

「クソが!!! どいつもこいつも、この私を舐めおってからにァァァッ!!」

 

金属が激しく押し潰されるような耳障りな駆動音と共に、人間離れした巨体を持つ重装甲のロボットが、力任せに路地に放置されていた鉄製のゴミ箱を蹴り飛ばした。凄まじい金属音が袋小路に反響し、ひしゃげたゴミ箱が虚しく転がっていく。錆びついた鉄板がコンクリートを削る音が、夜の静寂を不気味に切り裂いた

 

うっすらと差し込む冷たい月明かりに照らされたのは、かつてアビドス高校を借金地獄に陥れ、小鳥遊ホシノを精神的に追い詰めて吊るし上げようとした、あの傲慢な男の変わり果てた姿だった

 

対策委員会の面々や、乱入してきた便利屋68、さらにはゲヘナの空崎ヒナ、トリニティの阿慈谷ヒフミらの総攻撃によって完全に失脚まで追い込まれ、すべてを失った男。その後、起死回生を狙って百鬼夜行のお祭り運営委員会を巧みに騙し、裏からお祭り騒ぎを利用して再び権力の座にのし上がろうとしたものの、それすらもあの忌々しいアビドス対策委員会の小娘どもに悉く邪魔をされ、完全に路頭に迷う羽目になった──『元』カイザーPMCの理事の姿が、そこにはあった

 

今はPMCのきらびやかな軍服もなく、油と泥に汚れた不格好な金属の身体を軋ませながら、元理事は暗闇の中で怒りに狂ったように何度も拳を壁に叩きつけていた

 

「くそ……、くそおぉぉッ! あのアビドスの青二才どもめ……! あいつらさえ、あの小娘共さえ余計な邪魔をしなければ、私は今頃カイザーの頂点へと返り咲き、キヴォトスの富をこの手に握っていたはずなのだ……!!」

 

激しい怒りと、エゴに塗れた復讐の怨念。その黒く濁った感情だけが、今の彼の壊れかけた駆動システムを動かす唯一の動力源だった

 

だが、すべてを失い、私兵の一人も動かせなくなった今の元理事には、アビドスへの報復を果たす具体的な手段など何一つ残されていなかった。かつて大軍勢を率いて自治区を蹂躙した栄光はどこにもなく、ただこうして、夜の冷たい路地裏で孤独な野良犬のように吠えることしかできない

 

「……懐かしい顔ね」

 

「!」

 

冷え切った夜気の中、背後から唐突に投げかけられた言葉に、元理事の駆動システムが小さく跳ねた

 

電子的なノイズを響かせながら、錆びついた首のセンサーを急激に回す。足音も、衣擦れの擦過音すらも一切なかった。そこにいたのは、廃ビル街の濃い陰影に完全に溶け込むようにして、静かに佇む小柄な人影

 

しかし、その声の響き、特有の少しトゲのある小生意気なイントネーションには、確かに見覚え──いや、聞き覚えがあった

 

元理事の錆びついた思考回路の奥底から、あの忌々しいアビドス対策委員会のメンバーの一人のデータが、屈辱的な記憶と共に瞬時に引きずり出される。アルバイトに精を出し、いつも他のメンバーの一歩後ろで声を荒らげていた、あの小娘だ

 

「誰かと思えば……アビドスの黒猫じゃないか」

 

元理事は金属の首をゆっくりと回し、卑屈さと傲慢さが混ざり合った汚い笑顔をその醜悪な顔面に浮かべた

 

失脚し、すべてを失った今でも、彼の内にある選民思想とプライドだけは肥大化したまま腐り続けている。相手が対策委員会の1年生だと分かった途端、先ほどまでの怯えは霧散し、底浅い余裕がその電子音声に宿る

 

「なんだ? 最近のアビドスでは、そんな薄汚い厨二病のコスプレでも流行っているのか? ええ?」

 

そこにいたのは、彼の頭の中に記録されている制服姿の少女とはあまりにもかけ離れた、不気味な姿だった。全身を夜の闇を切り取ったかのような黒いフードと外套に包み、異様なまでの重いしじまを纏っている

 

しかし、今の元理事にとって、そんな変化はどうでもよかった

 

あの軍隊をも叩き潰す化け物のような強さの小鳥遊ホシノでもなく、自慢の最高戦力たる『ゴリアテ』を破壊したあの砂狼シロコでもない。対策委員会の中でも最弱の一角であり、最も御しやすいはずの1年生の片割れだ。そんな格好の獲物が、防衛手段もないまま、たった一人で自分の目の前にのこのこと現れたのだ

 

これまでのすべての怨みを晴らし、鬱憤をぶちまけるには、これ以上ないほどに丁度いい相手だった

 

「きさま、私の前に一人で現れるということが、どういう意味か分かっているのか……? 落ちぶれたとはいえ、私がその気になれば、お前のような小娘一人、プラスチックのように噛み砕いて──」

 

そこまで言った、まさにその瞬間だった

 

元理事の視界が、爆発的な輝きと共に急激に反転した

 

次に彼のセンサーが捉えたのは、アビドスの冷たい夜空に広がる、無数の綺麗な星々。そして、ワンテンポ遅れて脳髄のシステムを焼き切らんとするほどの、頭部への尋常ではない質量的な超衝撃

 

「がはっ!? ぶ、ぼ、がっ……!?」

 

一体、自分の身に何が起きたのか、音速を超えた衝撃に対して電子脳の処理が全く追いつかない

 

あまりの痛みに歪む視界のシステムエラーを必死に書き換えながら、元理事は自分の頭部──重装甲ロボットの顔面に、万力のような力で締め付ける、驚くほど小さな「人間の手」が完全に張り付いていることに気がついた

 

ガガガガ、と激しい火花を散らしながら、コンクリートの地面に彼の金属の頭部が力任せにめり込んでいく

 

「今のあんたは、喋らなくていい。その汚い口を閉じなさい」

 

綺麗な夜空が、上から静かに覆いかぶさってきた黒い布地──セリカの顔によって完全に隠される

 

しかし、至近距離でその「顔」を視認した瞬間、元理事の全センサーが恐怖の警告音を鳴り響かせた。彼は驚愕のあまり、言葉を失ってギョッとする

 

(な、なんだ……この姿は……!?)

 

自分の記憶にある、あの生意気だがどこかあどけなさを残していた黒猫の小娘ではない

 

フードの隙間から覗くその顔は、刃物で深く裂かれた赤黒いバツ印の傷跡が醜く焼き付いており、艶やかだった黒髪は、まるで狂気の中で刃物を使って無理やり叩き切ったかのように乱雑に不揃いだ。何より、その最大の特徴であったはずの黒い猫耳の片方は、爆風にでも抉られたかのように半分が無く、悍ましく焼け焦げている。それは、何千回もの地獄の戦場を一人きりで生き延びてきた、狂戦士の相貌そのものだ

 

元理事がその異様な変貌に言葉を失っていると、セリカは深く、深く、世界のすべてを諦めきったような、底寒い、冷え切ったため息をひとつついた

 

「……あんたのそのアビドスへの憎しみ、叶えてあげる。──私の中にあるものと一緒に、もっと深く、綺麗に混ぜ合わせて……ね」

 

「な、何を……何を言っている……! 離せ、やめろ、やめ……ぐぁ、がぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?」

 

セリカの手が触れている元理事の金属の顔面から、パチパチと不気味な紫黒色の火花が散り始める。それと同時に、彼の機械の身体の奥深く、核となるエネルギー回路へと、泥泥とした「憎しみ」の呪詛が、尋常ではない速度で侵食し、無理やり流し込まれていく

 

元理事の巨体が、まるで高圧電流を流されたかのように激しく痙攣し、オイルを吐き散らしながらのたうち回る。彼のセンサーの奥で、元々抱いていたアビドスへの矮小な私怨が、セリカの持つ底無しの絶望と怨嗟によって何百倍にも増幅され、おぞましい怪物としての狂気へと書き換えられていく。月すらも雲に隠れた暗い路地裏に、元理事の、電子音の混じった狂気的な絶叫だけが、いつまでも、いつまでも悍ましく響き渡っていた

 

やがて、絶叫が途絶え、完全に「生まれ変わった」元理事の巨体が不気味な沈黙を保ってその場に倒れ伏す

 

その様子を冷徹に見届けたセリカは、ふと、廃ビル街のさらに奥、暗闇が色濃く残る瓦礫の陰へと、感情の消え失せた視線を向けた

 

「……そういえば……アビドスにはもう1人、その心の奥底に、いつでも爆発しそうな最高に不気味な『狂気』を飼っている奴がいたわね」

 

セリカの言葉に、暗闇の奥で衣擦れの音と、息を呑む気配が微かに揺れる

 

「ね? そこで隠れて見てる便利屋68……。まぁ、用があるのはそこの伊草ハルカ……だけだけどね」

 

フードの隙間から覗くセリカの紅い双眸が、瓦礫の隙間で完全に恐怖に身を竦ませていた少女の姿を、正確に捉えて妖しく細められる

 

その宣告を最後に、アビドスの廃墟は、再び底の知れない暗い静寂へと沈んでいった。息詰まるような緊張感と、次なる標的へ向けられた狂気の視線だけを、その闇の奥に残したまま

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