救われたかったセリカ   作:気弱

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復活の対策委員会 シロコ*テラーの覚悟

ホシノがセリカの捜索から完全に手を引くと告げてから一夜が明けた次の日

 

ホシノの姿を欠いたアビドス対策委員会のメンバーたちは、いつものように、けれどいつもとは決定的に違う、逃げ場のない重苦しさを孕んだ教室へと集まっていた

 

ガラリと開けた扉の向こう、慣れ親しんだはずの教室の風景は、まるで別の世界の空間のように冷え切っている。窓から差し込む朝の光は皮肉なほどに透明で、砂埃の舞う室内を容赦なく照らし出していた

 

ぽつんと取り残された、誰もいないホシノの席。そして、いつもなら元気よく扉を蹴破るようにして飛び込んできて、騒がしく文句を言いながら席に着くはずのセリカの空席。その二つの空白が、残酷なまでに鮮明な陰影を床に落としている。机の上に雑然と置かれたタブレットや書類の束、冷めきったマグカップさえも、今は命を失ったただの冷たい物体にしか見えなかった

 

しかし、こうして教室に集まったものの、残された彼女たちはこれからの事をどうしていいのか分からずに、誰一人として最初の一言を発することができなかった。ただ、互いの視線が交わるのを恐れるように、じっと手元や床を見つめることしかできない

 

「セリカがもう一人の自分に捕まっている可能性が高い」という衝撃的な事実。そして、「アビドスの絶対的な盾であり、精神的支柱であったホシノの心が、内側から完全に砕け散ってしまった」という過酷すぎる現実。それらの、あまりにも容赦のない絶望の重圧が残された彼女たちの肩へと重くのしかかっていた

 

下を向いたまま、ピクリとも動かないノノミの指先は、胸の内を侵食していく心細さと恐怖を懸命に隠すように、自身のスカートの裾を白くなるほど固く握りしめている。いつもなら優しく微笑んでみんなを包み込む彼女の顔から、今は完全に余裕が消え失せていた。アヤネは度数の合った眼鏡の奥の瞳を不安に激しく揺らし、ただただ目の前の書類に並ぶ無機質な文字を見つめるだけで、その思考は完全に停止していた。何をどう組み立てても、最悪の結末へ至る数式しか脳裏に浮かんでこないのだ

 

どれくらいの時間、この泥のように重く、息を詰まらせるような暗い空気が続いていたのだろうか

 

遠くの砂漠から吹き付ける風が窓をガタガタと揺らす音と、壁に掛けられた時計の秒針が刻む規則的な音だけが、彼女たちの焦燥感を容赦なく煽るようにして、静まり返った教室に冷たく響き渡る

 

「ん!」

 

その、窒息しそうなほどの沈黙を完全に切り裂くように、突然、シロコが勢いよく椅子を引いて立ち上がった

 

ガタタン、と静寂に響いたその大きな衝撃音が、凍りついていた教室の空気をびくりと震わせる

 

「シロコ先輩……?」

 

いつになく唐突で、張り詰めた糸のような気迫をまとったシロコの行動に、アヤネが驚きに目を見張りながら、縋るようにその顔を見上げて首を傾げた

 

シロコは、いつもの淡々とした無表情な顔の奥に、濁りのない強い決意の光を宿らせていた

 

「ずっと、考えてたことがある」

 

低く、けれど決してブレることのない確かな意志を持った声が、シロコの唇から静かに溢れ出た

 

「……何を……ですか?」

 

シロコから発せられた、どこか前向きな気配に、アヤネはごくりと唾を呑み、喉の奥から震える声を絞り出すようにして聞き返す。その問いに、ノノミもまた、弾かれたようにバッと顔を上げて、静かに闘志を燃やすシロコの背中を凝視した

 

シロコはゆっくりと振り返り、残された仲間たちの目を一人一人、射抜くように見つめ返した

 

その水色の瞳には、襲いかかる恐怖も、全てを投げ出すような諦念も一切存在していなかった。あるのは、アビドスという学校を、そして苦楽を共にしてきた仲間をどこまでも信じ抜くという、狼のような孤高で強靭な意志だけだった

 

「こんなの、私達対策委員会らしくない」

 

「私達らしく……ない……? それって、どういう意味なの、シロコ」

 

教室の片隅、朝の光すら届かない、影の濃い壁際に佇んでいたクロコが、低く掠れた声でシロコに問い返した

 

クロコの瞳が、困惑と仄暗い記憶の狭間で揺れる。その胸元をきつく掴む手は、かつて全てを失い、世界が砂に呑まれていった「あの日の絶望」を思い出したかのように微かに震えていた。アヤネも、ノノミも、シロコが一体何を言い出すのかが分からず、戸惑いを隠せない複雑な表情を浮かべてその場に立ち尽くしていた

 

「ん……一回目の、ホシノ先輩がカイザーに捕まってた時。あの時、私達は同じように『このままアビドスが無くなって、ホシノ先輩も二度と帰ってこないんだ』って、すごく悲しかった。誰もいない教室で、ただただ無力感に震えてた」

 

シロコは静かに語り始める

 

「私がクロコや、未来の先生に捕まってた時のことは、私にはよく分からない……だけど、みんなは私を助けに来てくれた。絶対に諦めずに、空高いところまで来てくれた」

 

「シロコちゃん……」

 

ノノミが潤んだ瞳で、祈るようにその名を呟く。シロコは小さく首を横に振ると、さらに言葉を紡いだ

 

「それにセリカが1回目に、あのヘルメット団に攫われた時だってそう。あの時もすごく慌てたし、状況はめちゃくちゃだった。……でも、結局は何とかなった。私達が絶対に諦めなかったから」

 

「……」

 

アヤネがぎゅっと胸元に資料を抱きしめる。シロコの言葉は、ただの根拠のない精神論などではなく、彼女たちが傷だらけになりながらも確実に歩んできた、血の通った「奇跡」の足跡そのものだった

 

「ノノミが攫われた時だって……ホシノ先輩が独りで全部背負って、単独行動してしまったけど、それでも何とかなった。その後、結果としてホシノ先輩がテラー化して、クロコの世界みたいに『もう誰も救えない、みんなダメだ』って状況になった時だって……私達は、先生と一緒に、最後の最後の瞬間まで抗って……全部何とかしてきた」

 

シロコはそこで一度言葉を区切り、きつく拳を握りしめる

 

「だから……ホシノ先輩が動けなくなったからって、セリカが敵になったからって、ここで全員で下を向いて黙り込んでるなんて、絶対に間違ってる。今までどんな地獄だって、私達は泥臭く、全力で足掻いて、全部何とかしてきたじゃない。なのに、ここで立ち止まるなんて……そんなの、私達アビドス対策委員会らしくない」

 

シロコの放った力強い言葉は、冷え切っていた教室の空気を激しく揺るがし、下を向いていた全員の顔を無理やり弾き上げた。ノノミも、アヤネも、そしてクロコでさえも、驚きに目を丸くしてシロコを凝視している

 

誰もが「最強の盾」を失った喪失感に囚われ、セリカの強力な力に困惑していたというのに、シロコの瞳には濁りひとつなかった

 

「だから、こんな所で止まらずに、ホシノ先輩の代わりにセリカを早く助けよう。きっと、セリカの事だから捕まってても言葉では強がってる……ん、でもきっとお腹を空かせて、私達が来るのをどこかで信じて待ってくれてるはずだから」

 

当然のようにそう言い切るシロコの横顔を、アヤネは呆然と見つめていた。だが、その言葉が脳裏に染み渡るにつれて、アヤネの胸の奥で燻っていた何かが、パチリと音を立てて弾けた。膝の上で震えていた拳に、じわりと熱い力が戻ってくる

 

「……そう……ですよね……シロコ先輩」

 

アヤネの口から、掠れた、けれど驚くほど芯のある声が絞り出された

 

眼鏡のフレームを片手で力強く押し上げると、アヤネはバッと顔を上げる。その表情からは、先ほどまでの気弱な迷いは完全に消え失せ、むしろどこか開き直ったような、凄まじい気迫が満ち満ちていた

 

「私達は今まで、どんな最悪な状況でも諦めずに諦めずに頑張ってきたんです! よくよく考えてみれば、ホシノ先輩が途中で戦線離脱することなんて、カイザーの時も、ノノミ先輩の時も、色彩の時も、今まで何度も何度もありました! しかも今回は、ホシノ先輩は単独行動をせず、ちゃんと病院のベッドの上で入院して大人しくしているんです! 勝手に行って倒れるより、居場所が分かっているだけ条件としては今までで一番マシな状況です!」

 

「あ、アヤネ……?」

 

アヤネから溢れ出た、今までの苦労と鬱憤がすべて乗っかったような怒涛の正論と迫力に、すぐ隣にいたクロコが思わず身を引いた。一歩間違えればヤケクソにも聞こえるほどの熱量に、さすがの「死線を潜り抜けてきた狼」も気圧されたのだ

 

「あ、あはは……。アヤネちゃん、急に元気になりましたね〜」

 

ノノミもまた、頼もしい後輩の劇的な変貌にパチパチと長く睫毛を揺らしながら、どこか救われたような、ホッとした苦笑いを浮かべている

 

アヤネの言葉は今までの彼女からは考えられないほどに乱暴でヤケクソ気味だったが、機能停止しかけていたこの教室の全員の心を、もう一度前を向いて武器を取るための「戦うモード」へと確実に切り替えさせていた。どんよりと立ち込めていた暗雲を、アヤネの凄まじい剣幕が吹き飛ばしたのだ

 

「ん、アヤネ。その意気だよ。今回の作戦、一番年上のホシノ先輩が居ないから……前に対策委員会を引っ張ってくれた時みたいに、アヤネがリーダーを務めてほしい」

 

シロコがアヤネの細い肩をポンと頼もしそうに叩き、全幅の信頼を寄せた瞳をまっすぐに向けた

 

(…………ん)

 

そのやり取りを、光の届かない壁際で静かに見つめていたクロコは、ふと「一応、肉体年齢的にも、今の私、3年生で最年長なんだけどな……」という厳然たる事実が頭をよぎった

 

しかし、せっかく地を這うような絶望から立ち直り、並々ならぬやる気と気迫を出しているアヤネに対し、今それを遮って「あの、一応私の方が先輩なので……」などと言ってしまえば、「あっ……そ、そうですよね……あはは、すみません、私なんかが出しゃばっちゃって……」と余計な気を使わせて、せっかくの熱量を冷まさせてしまう

 

それは今の教室の雰囲気を考えても、絶対に得策ではない。クロコは目を少しだけ細め、小さくため息をつくと、おとなしくアヤネの後ろ盾に徹してその作戦を支えようと決め、何も言わずに静かに口を閉ざした

 

アヤネはいつもの定位置であるホワイトボードの前に進み出ると、机の上に置かれた端末を力強く引き寄せた。先ほどまで表示されていた、バイタルデータが低下したホシノのホログラム画面を冷徹に素早く切り替え、アビドス自治区全域の作戦司令用3Dマップを空間に大きく展開する

 

「では、ホシノ先輩に変わって、私、奥空アヤネが臨時で委員長を務めさせてもらいます!」

 

そう高らかに宣言したアヤネの眼鏡の奥の瞳は、すでに迫り来る戦況を冷静に分析する有能なオペレーターのそれに完全に変わっていた

 

「まずは状況整理からですね。私達の敵は、別世界から来たもう一人のセリカちゃん。……ホシノ先輩の話から総合するに、こちらの世界のセリカちゃんには絶対に無い、未知の危険な能力がいくつかあるようで、中でも特に注意すべき最悪な特性は2つあります」

 

アヤネは手慣れた手つきで指先を動かし、ホログラムのウインドウをスライドさせ、戦闘シミュレーションに基づくいくつかの不気味な予測数値を空間に表示していく

 

「1つ目は『自己回復能力』です。これがどれほどの速度で、どの程度の致命傷まで無効化して回復できるのかなど、詳細な限界値はまだ不明ですが……まともに銃火器で撃ち合っていては、こちらの限られた弾薬や体力が先に底を突き、遠からずジリ貧になって敗北する可能性が極めて高いです。できれば、攻撃を命中させた際に『痛みを感じて一瞬だけ動きが鈍る』といったような、生物として当然の隙が生まれてくれれば、そこを突けたのですが……」

 

「そこで2つ目の深刻な問題、『痛み』に関してです」

 

アヤネが深刻な面持ちで声のトーンを一段と落とすと、ノノミが胸元に手を当てて、不安そうに首を傾げた

 

「痛み、ですか……? いくら別世界から来て強くなっているとはいえ、キヴォトスの生徒である以上、撃たれれば痛いという本質的な性質までは変わらないんじゃ……」

 

「はい、本来ならそうです。ですが、ホシノ先輩が命からがら持ち帰った証言を聞く限り……現在の彼女の精神状態は、常軌を逸した暴走状態、あるいは完全に脳のストッパーや生存本能が外れた状態に近いと考えられます」

 

アヤネの言葉を補うように、教室の影に潜んでいたクロコが静かに口を開いた

 

「……つまり、過剰に分泌されたアドレナリンや、精神を内側から焼き尽くす『なにか』の強烈な侵食の影響で、脳が恐怖や痛みという概念そのものを認識できなくなっている。その上で、肉体に受けた銃撃のダメージすら、不気味な神秘の力で即座に修復されてしまうから、怯むことも、足を止めることもない……ということ?」

 

「その通りです、クロコ先輩。正確な分析、助かります」

 

アヤネは頷き、ホワイトボードを指で叩く

 

「痛覚による戦意喪失や肉体の硬直が一切期待できない以上、彼女を無力化して止めるには、その異常な自己回復が絶対に追いつかないほどの、常識外れな瞬間的超火力で完全に機能停止に追い込むか、あるいは──どれほどの怪力だろうと絶対に引きちぎれない方法で、彼女の動きを物理的に、強制的に拘束するしかありません」

 

「……私、その事で1つ気がついたことがある」

 

クロコが静かに、しかし教室全体の空気をキリリと張り詰めさせるような、確かな重量を持った声で言葉を投げかけた。その澄んだ瞳の奥にある、幾多の死線をくぐり抜けてきた者特有の鋭い光が、ホワイトボードの前に立つ臨時委員長のアヤネへと真っ直ぐに向けられる

 

「はい、クロコ先輩。情報はいくらあっても足りないので、気がついたことがあればどんどん仰ってください」

 

アヤネは手に持っていたホワイトボードのマーカーをカチリと止め、真剣な眼差しでクロコに向き直った。その表情には、臨時委員長としての責任感と、過酷な戦いへと赴くオペレーターとしての覚悟が、確かな光となって宿っている。ノノミも救護キットの整理を完全に中断し、シロコと共にクロコの一挙手一投足に全神経を集中させた

 

「ん、みんなと病院で別れたあと、ホシノ先輩が襲撃されて倒れてたっていうあの薄暗い路地裏に、私、一人で行ってきた」

 

クロコは淡々と、極めて冷静に事実だけを告げた。その言葉に、アヤネが「えっ、一人でですか……!?」と驚きのあまり両手を口元に当てる。あの凄惨な凶行が行われたばかりの危険極まりない現場であり、まだ敵が潜伏している可能性すらあった場所に、単身で足を踏み入れたという事実だけで、教室内の空気の緊張感が一段階跳ね上がった

 

「逃げるだけなら私の能力があれば簡単だからね」

 

「……あそこで、何を見つけたの?」

 

シロコが静かに尋ねる。その澄んだ水色の瞳が、もう一人の自分の横顔をじっと見つめていた。クロコは一度視線を床に落とし、かつて自分がその身に浴び、世界のすべてを奪われる原因となった「それ」の感触を、今一度その肌で反芻するかのように、拳をきつく握りしめた

 

「そこから、明確な『色彩』の力を感じた」

 

「色彩……ですか?」

 

クロコの口から出たその不吉極まりない単語に、アヤネはまるで冷水を背中に浴びせられたかのように細い肩を震わせ、顔を青ざめさせた

 

キヴォトス全土を巻き込み、世界の終わりを予感させたあの悪夢のような現象の残滓が、自分たちのすぐ近くの、いつも通る路地裏に未だ濃密に存在しているという事実。その恐怖が、彼女たちの胸を冷たく締め付ける

 

「そういえば……私が過去に、何か…多分色彩に触れようとした時も、クロコはそう言ってたね」

 

シロコが、かつてホシノのテラー化を止めるために死力を尽くして戦い、その最奥にある「神秘の裏側」に触れようとした時の、あの悍ましくも圧倒的な重圧を思い出したかのように、ぽつりと呟いた

 

「うん。みんなも知っての通り、私はあの『色彩』に直接触れたことで、この姿へと変化した。反転し、恐怖を宿した存在になった。……それと全く同じ、ドロリとした不快な力が、あの路地裏に濃密に溜まってた。まるで、今もそこに居るようにへばりついていた」

 

クロコの声には、かつて自分がその果てしない深淵に呑み込まれたからこそ分かる、絶対的な、そして悲しいほどの確信があった。同じ闇を経験した者にしか聴き取れない、神秘の裏返る歪な音が、確かにそこにあったのだ

 

「つまりは……別世界から来たあのセリカちゃんは、ホシノ先輩やクロコ先輩と同じように、すでに『テラー化』している……ということですか?」

 

アヤネが震える声を必死に抑え、確認するように問い詰めると、クロコは感情の読めない顔のまま、静かに、しかし重く縦に首を振った

 

「ん、間違いない。あれはただ怒りや憎しみで暴走しているだけじゃない。セリカのヘイローも、肉体も、すでに神秘の裏側である『恐怖』へと完全に反転してる」

 

「つまりは……セリカテラーちゃん、ということですね」

 

ノノミが悲しげに、けれど現実から目を背けないように、その名をぽつりと口にした

 

いつもなら「セリカちゃん」と呼んで明るく笑い、お茶を淹れたりするはずの彼女の唇から出たその歪な名前に、教室内の誰もが胸を締め付けられるような、鋭い痛みを覚える

 

「そういうことになるかな……。私と同じ、全てを失って、呪いに変わってしまった存在」

 

クロコは自身のダラリとした衣服の袖を、もう一つの水色の瞳で見つめながら、どこか自嘲気味に、それでいてセリカへの深い同情と悲痛な共感を込めて呟いた

 

「では、別世界のセリカちゃん……改めて、これからは『セリカテラーちゃん』と呼んで対策を練った方がいいですね。彼女が宿している力が『恐怖』であるなら、これまでの私達の常識や、アビドスの戦術は一切通用しません」

 

アヤネは表情を鋼のように硬く引き締めると、ホワイトボードに真っ直ぐ向き直った。そして、キュキュと乾燥した音を教室内に響かせながら、青いマーカーで書かれていた「セリカ(別世界)」という文字を黒板消しで激しく消し去り、その上から、まるで自らに警告を促し、恐怖をねじ伏せるかのように、黒い太文字で力強く書き足していく

 

──『セリカテラー』。

 

その禍々しい文字がホワイトボードの中央に鎮座した瞬間、彼女たちの戦うべき相手が、ただ道に迷って暴れているだけの仲間などではなく、世界を巻き込む絶望の化身そのものであることが、教室にいる全員の意識に嫌というほど刻み込まれた

 

「でも、ひとつ気になることがある……テラー化した実例が私とホシノ先輩しかいないからはっきりとは分からないけど……なんでそこまで憎しみが増幅したんだろう」

 

クロコは膝に手を置き、視線をホワイトボードの隅へと落とした。彼女自身、色彩に触れて反転し、狂気と絶望の淵を彷徨った経験がある。しかし、先ほどのホシノの証言にあったセリカテラーの言動は、単なる絶望の暴走というにはあまりにも歪で、世界そのものへの強烈な呪詛に満ちていた

 

「……確かにそうですよね……クロコ先輩は初めて会った時から、物静かというか、今のような感じでしたし……ホシノ先輩がテラー化した時も、怒りというよりは、ユメ生徒会長の痕跡を求めてただ虚ろに彷徨うような感じでしたからね」

 

アヤネは顎に手をあてて過去の戦いを振り返り、記憶の中のテラーたちの姿と、今回現れた凄惨なセリカの姿を比較するように呟いた。目の前のホワイトボードに書かれた「セリカテラー」の文字が、じわじわと教室の空気を重くしていく

 

少しの間、重苦しい沈黙が流れたが、アヤネはパッと自分の両頬を叩いてその思考を振り払った

 

「……いえ、それは今考えても仕方ないですし……一旦置いておきましょう。考えても答えの出ない謎に時間を取られている余裕はありません」

 

「そうですね。現状はセリカテラーちゃんが監禁したとされる、私たちのセリカちゃんを助けることが最優先ですからね」

 

ノノミも深く頷き、いつもの穏やかな笑顔の中に、大切な仲間を奪還するための確かな決意を滲ませた

 

しかし、クロコだけは、どうしても思考の渦から抜け出せずにいた

 

(……もう一つ気になることがある。ホシノ先輩の話の中で、セリカテラーが言っていた『誰も助けに来てくれなかった』って言葉……すごく引っかかる。もしあのセリカが、私と同じように違う世界からやってきたと言うのなら……あのセリカは一体、どんな世界から……?)

 

胸の奥をキリキリと締め付けるような嫌な予感が、クロコの脳裏を離れない。クロコ自身のいた世界では、セリカは砂漠で行方不明になり、結局発見することができなかった。その絶望とはまた違う、生々しい「憎悪」の理由が、どうしても解せなかった

 

「……」

 

シロコは、そんなクロコが一人で深刻な表情を浮かべて何かを考えている様子を、横目でじっと見つめていた。その水色の瞳が小さく揺れ、何かを決意したように、シロコは一歩前に踏み出す

 

「……ねぇ、これは不可能かもしれないんだけど……いいかな?」

 

シロコが遮るようにして声をかけると、アヤネが資料をめくる手を止めた

 

「どうしました? シロコ先輩」

 

「……私は、セリカテラーも助けたい」

 

「!」

 

その場にいた全員が、弾かれたように目を丸くしてシロコを見た。アヤネの持っていたペンが、机の上を転がって小さな音を立てる。敵としてアビドスを襲い、ホシノを傷つけた絶望の化身。それを「助ける」という言葉は、あまりにも唐突で、常識外れなものだった

 

「ど、どうしてですか……? 彼女はホシノ先輩をあれほど傷つけて、こちらの世界を地獄に落とすとまで言っていたんですよ……?」

 

困惑を隠せないアヤネが問いかける。しかし、シロコの真っ直ぐな視線は微塵も揺らがなかった

 

「セリカテラーも、元々は同じセリカ……つまり、私とクロコと同じようなもの。あっちの世界でどんな過去があったのかは分からないけど……怒って、泣いて、すごく苦しんでいるのは分かる。あのまま放っておいたら、セリカは本当に壊れて消えちゃう。だから……私はあの子も助けたい。アビドスの生徒を置いていくなんて、私達らしくない」

 

そう言って、シロコは隣にいるクロコをちらっと見た

 

その視線と不器用な優しさに触れた瞬間、クロコの隻眼が大きく見開かれる

 

(……もしかして、私のため……? 同じテラーとして、居場所を失う苦しみを知っている私を、これ以上悲しませないために……?)

 

かつて孤独な怪物として彷徨っていた自分を救い、こうして「対策委員会」という温かい居場所へ迎え入れてくれたシロコ。彼女は今、目の前に現れたもう一人の絶望した仲間をも、その両手で抱きしめようとしている。その底抜けない優しさと強さに、クロコの胸の奥がじんわりと熱くなった

 

「……そうですね……! こうなったら、セリカちゃんも、セリカテラーちゃんも、二人まとめて助けましょう!!」

 

アヤネが拳をきゅっと握りしめ、先ほどまでの迷いを完全に吹き飛ばした晴れやかな笑顔でそう言った。彼女の目には、もうオペレーターとしての計算だけでなく、アビドスの仲間を決して見捨てないという熱い確信が満ち満ちていた

 

「はい♪ 聞けばあの子、硝煙と砂だらけみたいですから。連れて帰ってきたら、まずはお風呂にゆっくり入れてあげて、それから美味しいご飯をたくさん食べさせてあげないとですね♪」

 

ノノミもいつもの穏やかでマイペースな調子を完全に取り戻し、楽しそうに愛用のミニガンのメンテナンス用ハサミを動かしながら微笑んだ。たとえセリカテラーがどれほど恐ろしい、世界を脅かす絶望の化身であろうとも、彼女たちにとっては「少し道に迷って暴れているだけのアビドスの大切な仲間」でしかないのだと言わんばかりだった

 

どんよりと重く曇っていた教室の空気が、一気にいつものアビドス対策委員会の、泥臭くも前向きな熱量へと変わっていく

 

その劇的な変化を、どこか眩しそうに黙って見つめていたクロコは、そっとシロコの方へ歩み寄ると、風の音に紛れるような、誰にも聞こえないほどの小さな声で囁いた

 

「ありがとう、シロコ」

 

不意に声をかけられたシロコは、驚いたように水色の瞳をパチパチと瞬かせた。しかし、すぐにその意図を察すると、嬉しそうにフッと口元を緩め、無言のまま親指をグッと立ててみせた。言葉はなくても、二人の水色の瞳の間には確かな絆が通い合っていた

 

「よし! それでは今後は、セリカちゃんの救出作戦に加えて、セリカテラーちゃんの救出および保護の作戦を同時並行で追加していきます!」

 

アヤネがホワイトボードを手の平でポンと叩き、高らかに臨時委員長としての最初の決定を宣言する

 

「それでは、セリカテラーちゃんの痕跡を探す具体的な方法ですが……」

 

アヤネが教卓の端末を操作し、立体ホログラムマップのいくつかのポイントを指差しながら、現実的な索敵ルートと警戒区域を構築していく。ノノミもそれに合わせて、補給線の確保や移動用装甲車の燃料チェックシートを手際よく埋めていく

 

目標が定まり、アビドスの歯車が再び力強く回り出そうとした、まさにその時だった

 

──バァァァン!!!

 

年季の入った教室の木製の扉が、建付けの悪さを完全に無視するような猛烈な勢いではじけ飛ぶようにして開いた

 

「っ!?」

 

不意の爆音と衝撃に、シロコとクロコの手が条件反射的に、寸分の狂いもなく同時にそれぞれの愛銃のグリップへと伸びる。アヤネとノノミも驚愕してバッと扉の方を振り返った

 

激しく舞い上がる砂埃と共に開け放たれた扉の向こう、廊下からの逆光が作り出すシルエットの中に立っていたのは、アビドスにとって敵とも味方とも言えない、見紛うはずもない便利屋68の面々だった

 

「その話! 私達も一枚噛ませてもらうわよ……!!」

 

大見得を切るようにして、紫色の華美な外套を大きく翻したのは、自称・裏社会を統べるハードボイルド悪役、陸八魔アルだった。いつものように自信満々に胸を張り、不敵な笑みを浮かべようとしてはいるものの、その呼吸は酷く荒く、肩が激しく上下している

 

「ええ!? べ、便利屋の皆さん!?」

 

突然の、しかも不法侵入同然の乱暴な来訪にアヤネがすっ頓狂な悲鳴を上げる。ノノミも「あらあら、お久しぶりですね〜」とパチパチと瞬きをしていたが、シロコとカヨコの視線が鋭く交錯した瞬間、教室内の空気が一気に張り詰めた

 

アヤネは持ち前の観察力で彼女たちの様子をつぶさに観察し、すぐにただ事ではない違和感に気づいて眉をひそめる

 

「……あれ? そういえば……ハルカさんは何処に……? というより皆さん、なんだか服がボロボロですね」

 

よく見ると、アルのトレードマークであるトレンチコートの裾は何か鋭利なもので引き裂かれ、ムツキの衣服にも火薬の煤とは違う、ドロリとした何かが付着して焦げたような痕跡が見える。何より、ゲリラ戦やあらゆるトラブルを潜り抜ける時は必ず4人は、一心同体で行動していたはずの便利屋。だが、今この教室の入り口に立っているのは、どう見ても3人しかいなかった

 

「……あんた達の仲間の、あの黒猫のセリカに……ハルカを攫われたんだよ」

 

カヨコがいつもの気怠げなトーンを完全に捨て去った、低く冷徹な声で事実を告げた。その声には、単なる敗北への苛立ちだけでなく、大切な身内を奪われたことに対する静かな怒りが渦巻いている

 

その瞬間、「え……?」と対策委員会の面々は言葉を失い、時間が凍りついたかのように口を開いた。あまりにも唐突で、なおかつ最悪なタイミングでもたらされた新事実に、思考が追いつかない

 

「セリカが……ハルカを?」

 

シロコの瞳が鋭く細められる。隣に立つクロコもまた、自身の瞳を僅かに見開いていた。便利屋の言う「セリカ」とは、先ほど自分たちが何としても助け出そうと誓い合った、まさにその「セリカテラー」の新たな凶行を意味していた

 

「昨日、夜間の任務の帰りにね、アビドスの廃ビル街を通ったのよ。そうしたら、あんな冷え切った路地裏で、黒いフードを深く被ったセリカが……あの傲慢極まりない元理事を一方的に叩きのめして、襲撃しているところを偶然見かけちゃってさ」

 

カヨコが忌々しそうに、前髪を乱暴にかき上げながら当時の生々しい状況を説明する。彼女の視線は、ホワイトボードに大きく書かれた赤黒い文字をじっと射抜いていた

 

「くふふ、初めはただの夜遊びか、それともただの似た人の人違いかと思ったんだよね〜。いつもならお説教でもしてあげるところなんだけどさ。でも、全然違ったの」

 

いつものように不敵な笑みを浮かべてはいるものの、ムツキの瞳の奥には隠しきれない焦燥感と、キヴォトスの常識では測れない得体の知れない怪物に対する恐怖の残滓が確かに揺れていた

 

「え? ど、どういうことですか? 理事って……あの、かつて私達を借金地獄に陥れて、このアビドスを乗っ取ろうとした、カイザーPMCの元理事のことですよね?」

 

困惑し、頭の整理が追いつかないアヤネが教卓に両手をついて問い詰めると、カヨコは重く頷いた

 

「あれは……私達がいつもビジネスの手本にしてるような、お洒落でハードボイルドな悪役とか、そんな生易しいものじゃ無かったわ……。ただの容赦のない暴力よ。すべてを失って、路地裏のコンクリート壁に向かって惨めに八つ当たりしていた元理事を、あの子は人間のものとは思えない片手の一撃で地面に叩きつけて、完全に無力化していたの……。それから、何かしらの不気味な黒い力を、彼の機械の身体に無理やり流し込んで、与えているように見えたわ。確か……『私の憎しみをあなたにも分けてあげる』……だったかしら? そんな、聞いてるだけでヘドが出そうなセリフを吐きながらね」

 

アルがカヨコの言葉を補足するように、自身の震える両手をきつくクラッチしながら語る。あの時、路地裏全体を包み込んでいた、空間そのものが濁っていくような圧倒的な「恐怖」のプレッシャーが、まだ彼女の肌に生々しく張り付いているようだった

 

「確かに……元理事なら、今のセリカテラーちゃんと同じく、私達アビドス高校を激しく憎悪していると思いますが……。でも、それと何故ハルカさんが関係してくるんですか? ハルカさんは私達アビドスを憎んでなんて……」

 

ノノミが胸元に手を当て、ますます困惑を深める。アヤネも必死に思考の糸を繋げようと首を傾げた。ターゲットがアビドスへの怨恨を持つ者だけなら、ハルカが狙われる理由がまるで見えてこない

 

「私達も、あのセリカがどうしてハルカに目をつけたのか、その正確な動機までは知らない。……けど、ひとつ確実に分かったことがあるわ。あのセリカには、他人の内にある『憎しみ』や『ネガティブな感情』を呼び覚まして、それを使って人を文字通り狂わせて操る力があるみたい」

 

カヨコがホワイトボードに書かれた「セリカテラー」の文字を冷たく見つめながら言い放つ

 

「くふふ、ハルカちゃんってば、普段はアビドスに対して憎しみとかは全然ないんだけどね〜。でも、アルちゃんに害をなす人とかには、それこそ元理事の怨念なんておままごとに見えるくらい、似たような……ううん、それ以上のドロドロした凶悪な感情を、いつでも爆発させられるように内側に飼ってるからね〜」

 

ムツキのその言葉に、教室内の誰もがハルカの普段の「あの激しい暴走状態」を思い出し、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。セリカテラーは、ハルカの内側にあるその「壊れた心の隙間」と、世界への憎悪のポテンシャルを、正確に見抜いて利用したのだ

 

「そういう訳で、私達も一方的に襲われたのよ」

 

カヨコがひどく疲弊した様子で深く溜息をつき、自身の愛銃である拳銃のボルトをカチャカチャと虚しく引いた。スライドが金属音を立てて噛み合うが、弾倉はすでに空だ。彼女たちの衣服の焦げ跡や擦り切れた繊維からは、あの冷え切った路地裏で放たれたであろう、どろりとした神秘の不快な臭気が微かに漂い、教室内の空気をじわじわと侵食していく

 

「まぁ、私達もセリカちゃんの雰囲気がいつもと全然違うから、最初から本気で、それこそヘイローを壊す気で挑んだんだけど……完全にやられちゃったんだよね〜。どんなに弾を綺麗にヘッドショットで当ててもびくともしないし、傷口が一瞬で黒いもやと一緒に塞がっちゃうんだもん。おまけに私達、別の不条利な任務の帰りだったから、そこまで弾薬とか重爆薬とかの手持ちが残っていなかったのも痛かったかな」

 

ムツキはいつものように悪戯っぽく両手を頭の後ろで組み、肩をすくめて見せた。だが、その軽口とは裏腹に、彼女の白く細い指先は未だに未知の圧倒的な暴力に対する身体的恐怖で僅かに強張っており、引き金の感触を思い出すように何度も震えていた

 

「ええ……。それにあの子、信じられないことに、さっき貴方たちが中で深刻そうに話していた通り、どんなに弾を当てようと、私があの時点で用意できた最高火力の爆発物を直接至近距離でぶつけようと、まるで最初から何もなかったかのようにダメージが消えてしまうのよね」

 

アルが悔しそうに美貌の眉をひそめながら補足した。だが、その言葉が彼女の口から滑り出た瞬間、アヤネ、ノノミ、そして並んで立つシロコとクロコの脳裏には、全く同時にひとつの強烈な疑問が浮かび上がっていた

 

(この人たち……一体、何時から私達の、このアビドス最高機密の会話を外で盗み聞きしてたの……?)

 

四人の瞳が同時に便利屋の3人に向けられ、教室の中に一瞬だけ妙に冷めた沈黙が流れた。しかし、ハルカが連れ去られ、事態がキヴォトス規模の大火に発展しかねない今、そんな細かいプライバシーの侵害を突っ込んでいる場合ではないのは全員が理解していた

 

アヤネは小さく咳払いをして、その疑問を心の奥へ追いやる

 

「私達は確かに一度は敗北したわ! でも、ただでやられるような無様な真似は、この無法地帯のカリスマ、陸八魔アルの名前を変えてもしないわよ! これを見てちょうだい!」

 

アルは一転して不敵な笑みを浮かべ、フンスと形の良い鼻を鳴らしながら、完全なドヤ顔で自身のスマートフォンを対策委員会の面々の前に突き出した

 

液晶画面に映し出されていたのは、アビドス自治区の広大なデジタルマップの最新ホログラムだった。そこには、かつてカイザーPMCが遺跡の採掘を行っており、対策委員会が何度も泥沼の戦いを繰り広げた、あの忌まわしき旧基地の周辺を示す座標に、小さく緑色に明滅する『草のマーク』のアイコンが浮かび上がっていた

 

「ええっと……これは、一体何ですか?」

 

アヤネが眼鏡の位置を指先で直しながら、身を乗り出して画面に顔を近づけた。アルは待ってましたと言わんばかりに、マントを劇的に翻して胸を張った

 

「ふふん、それはうちの大事な社員……つまりハルカの現在地、GPSの電波よ! あのセリカが、ハルカの胸ぐらをつかんで闇の中に連れ去るまさにその瞬間、私のハードボイルドな直感が閃いたの。ここで彼女を無策で逃がしたら、もう二度とハルカの元へ辿り着く手はないって。だからセリカがハルカを強引に連れ去るまさにその瞬間、私のこの手で、彼女の黒い外套の裏に追跡用の発信機をくっつけてやったの! **……あ、いや、正確には先生に頼んで事前に用意してもらっていた、**ミレニアム特製の超小型発信機を、相手に一切気づかれずに叩き込んでやったのよ!」

 

「……要するに、先生の備えが優秀だっただけなんだけどね」と、カヨコが静かに補足を挟む。

 

それでも、普段の経営難で右往左往しているドジな姿からは到底想像もつかないほど、冷徹で迅速、なおかつ完璧なアルの機転と作戦の成功(と、ほんの少しの幸運)。これには対策委員会のメンバーも心底驚いた表情を浮かべた。

 

「アルちゃん、すごいです……!」とノノミが両手を叩いて感嘆の声を漏らす。

 

「くふふ〜、みんな驚いたー? 普段はちょっとドジで可愛い私達のアルちゃんだけど、こういう命が懸かったここ一番の非常事態の時は、バシッとやる時はやるんだからねー?」

 

ムツキが我が事のように誇らしげに、クスクスと笑いながらアルの背中をバシバシと力任せに叩く

 

「うん。うちの社長は普段は本当に救いようがないくらいのドジだけど、こういう壊滅的な非常事態の時だけは、信じられないくらい頼りになるんだよね。伊達に便利屋をやってないというか」

 

カヨコも呆れ半分、けれど確かな信頼が半分入り混じった優しい笑みを浮かべて同意した。だが、身内に散々褒めちぎられた当の本人は、感動するよりも先に顔を真っ赤にして、恥ずかしさとプライドから猛反論を始めた

 

「ちょっと2人とも! さっきからドジドジって連呼するんじゃないわよ!? 私がそんなにいつもいつも、ドジばかりしてるわけないでしょう!? 私の辞書にドジなんて言葉はないのよ!」

 

「えー? だってこの前だってさ、事務所の帰り道に『すっごく毛並みの良い可愛い白猫ちゃんがいる!』って言って、大喜びで銃も放り出して暗い路地裏を全力で追いかけ回したじゃない。で、捕まえてみたらただの白いレジ袋が風に揺れてただけだったよね。あの後、事務所の誰もいない隅っこで、膝を抱えて体育座りしながら『私のバカ、私のバカ……』って夜中までめちゃくちゃ落ち込んで泣いてたよねー?」

 

「な、何でそれをあんたが知ってるのよぉぉぉ!? 誰も見てないはずでしょ!? あの時は完全に一人きりだったはずよ!?」

 

「くふふ、全部バッチリ、物陰から動画に撮って保存してあるよ〜ん。カヨコにも共有済み!」

 

「ちょっと、消しなさいよそれぇー!」

 

大慌てでムツキのスマホを奪おうとドタバタと暴れるアルと、それを軽くいなしながら楽しそうにからかうムツキ。カヨコの深いため息。そんな便利屋68の、いつもと変わらない騒がしくも温かいやり取りを見ているうちに、先ほどまで世界の終焉を突きつけられたかのように重苦しく、窒息しそうだった教室の空気が、少しだけ柔らかく解きほぐされていくのを、その場の誰もが感じていた

 

「あはは……。相変わらず賑やかですね。では、便利屋の皆さん、私達がちょうど今話し合っていた情報を共有しますね。セリカちゃん、そしてセリカテラーちゃんについてです」

 

アヤネは小さく苦笑しながらも、すぐに真剣な表情へと戻り、ホワイトボードに書かれた「セリカテラー」の赤黒い文字を指差しながら、彼女たちが導き出した能力や危険性、そして「神秘の反転」がもたらす肉体構造の変化について説明を始めた

 

便利屋の3人がアヤネの理路整然とした解説に「テラー化……神秘の反転……」と深刻な表情で聞き入る中、クロコだけは輪から離れた窓際で、腕を組んだまま一人、底の知れない思考の深淵へと沈んでいた

 

窓の外には広大なアビドスの砂漠が容赦のない朝の陽光に白く灼かれ始めており、その果てしない静寂が、彼女の胸中にある嵐をより一層際立たせていた。

 

(まだ、決定的な確証があるわけじゃない……。だけど、もし……もしもあのセリカテラーが、本当に私の居た世界の、あのセリカなのだとしたら──)

 

クロコの脳裏に、二度と思い出したくもない、血と砂に塗れたあの破滅の時間線の光景が、鮮明なカットバックとなって蘇ってくる。心臓が早鐘を打ち、指先がかすかに震えた

 

クロコのいた世界でのセリカは、この世界のように、暴走し狂気に陥ったホシノのテラー化を止めることができなかった。防衛戦の最中、あまりにも無惨な選択だったが、世界を崩壊させないために、やむを得ずホシノのヘイローをクロコの手で割るしか道は残されていなかった。あの時の、ガラスが砕けるようなあまりにも呆気ない音と、光を失った先輩の瞳は、今でもクロコの悪夢に何度も登場する

 

その後、世界の崩壊はさらに加速した。絶対的な精神的支柱であり、心の拠り所であった先生は敵の襲撃により重傷を負い、意識不明のまま目覚める気配すらすでに失われていた。アヤネもまた、ホシノテラーとの過酷な戦闘の末に重体となり、集中治療室のベッドの上で、自らの生命線である医療機械のプラグを静かに切った

 

そんな絶望のどん底の最中、セリカは何者かによって突如として誘拐され、アビドスから行方不明になったのだ

 

残されたノノミも、すべての生きる希望を完全に失ってしまった。彼女たちは誰を責めることもなく、ただ静かに、自らその命を絶つ道を選んで、砂の海へと消えていった

 

クロコは、その3人のあまりにも悲痛で、救いのない最期を、この目で看取った。だが、どれだけ探しても、セリカの行方だけは見つけることができなかった。砂漠の果てを彷徨い、カイザーや悪徳企業の拠点をどれだけ力任せに潰しても、髪の毛一筋ほどの痕跡すら見つからない

 

だからクロコは、セリカもきっと誘拐された直後に激しい拷問か何かでヘイローを割られ、とっくに砂の下に埋もれて冷たくなって死んでしまったのだと、そう思い込んで納得するしかなかった。自分だけが、世界にただ一人残された、色彩の哀れな怪物なのだと

 

もしも、あの時に誘拐され、歴史の闇に消えてしまったセリカが、二ヶ月以上もの長い期間、あの暗く冷たい監禁部屋で生き延びていたのだとしたら

 

飢えと、渇きと、終わりのない恐怖の中で、ただひたすらに仲間の助けを、対策委員会の皆がドアを蹴破って入ってくる瞬間を、待ち続けていたのだとしたら

 

誰も来ない部屋の片隅で、最後には絶望の極致に至り、精神が擦り切れて色彩の悍ましい呼び声に応じて反転してしまったのだとしたら──

 

『誰も、助けに来てくれなかった』

 

ホシノが静かに語った回想の中で、セリカテラーが悲痛な叫びと共に吐き捨てたあの言葉のピースが、あまりにも残酷な形で、パズルのようにピタリと辻褄が合ってしまう。胸の奥が、焼け付くように激しく痛んだ。自分がもっと早く彼女を見つけていれば、という後悔の念が泥のように湧き上がる

 

だが、どうしても一つだけ、決定的な矛盾が存在する。クロコの記憶と、セリカテラーの認識には、埋めようのない歪な溝があった

 

あのセリカテラーは、倒れたホシノに対して、明確な敵意と憎悪を向けてこう言っていた

 

『私達を見捨てて、自分だけ逃げ出した』と

 

その言葉だけは、どうしてもおかしい。辻褄が合わない

 

確かにあの世界での小鳥遊ホシノは、亡きユメ先輩の痕跡を追いかけるようにして精神的に暴走し、アビドスを飛び出してしまった。だが、それは決して、残された対策委員会のメンバーを憎んで見捨てたわけでも、恐怖から逃げ出したわけでもない。むしろ、彼女たちをこれ以上の戦火に巻き込まずに守るために、独りで全ての重荷を背負おうとした結果の悲劇だった。クロコたち残されたメンバーも、その不器用な優しさは痛いほど理解していたはずだった

 

それが、なぜ──

 

なぜ今のセリカテラーの中では、ホシノやみんなが『自分たちを見捨てて逃げ出した卑劣な裏切り者』ということになっているのだろうか。なぜ、あれほど慕っていた先輩を、あれほどの憎悪の目で見つめることができるのか

 

誘拐されていた二ヶ月以上の空白の期間、あのセリカの身に、一体何が起きたというのか。誰が、彼女の記憶を、彼女の優しかった心をそこまで歪めて、偽りの絶望を植え付けたのか

 

(誰かが……あの子の心を、故意に塗り替えた……? )

 

クロコはきつく奥歯を噛み締め、その鋭い水色の瞳に、静かな、しかしマグマのように激しい憤怒の炎を宿らせた。もし、悲劇に便乗してあの子の心を弄んだ黒幕が本当にいるのだとしたら、決して容赦はしない

 

(……もう、理由なんてどうでもいい。誰がセリカをあんな目に遭わせたのかなんて……。今はただ、助けるだけ)

 

隣に立つシロコもまた、同じ未来を見据えるように静かにコクりと頷き、愛用の銃のボルトを引いた。金属音が重なり、二頭の狼の覚悟が静かにシンクロする

 

ハルカが連れ去られたという、カイザーの旧基地の座標。そこに眠る真実と、囚われた二人の仲間を救い出すため、クロコは愛用のライフルのグリップを、軋むほど強く握り直した

 

(待ってて、セリカ。今度こそ……絶対に──)




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