南海家本邸、その一室。
柔らかな陽光が差し込むはずの部屋は、昼だというのにどこか薄暗かった。
ベッドの上では、龍が天井を見つめたまま、微動だにしていない。
「……龍くん、少しだけでも食べよう?」
氷華は、できるだけ優しい声で問いかける。
だが返事はない。
視線だけが空虚に宙を漂っている。
「今日はちゃんと温かいうちに作ってもらったんだよ? お粥、前より食べやすいと思うから……」
スプーンを口元へ運ぶ。
龍は抵抗しない。
ただ、自分から食べようともしなかった。
「……」
氷華は小さく唇を噛む。
最初の頃は、龍が暴れる可能性も考えられていた。
錯乱して泣き叫ぶのではないか、と。
だが実際は違った。
龍は壊れていた。
壊れているのに、静かすぎた。
話しかければ視線を向けることはある。
触れれば反応も返る。
けれど、そこに“意思”がない。
まるで、人形だった。
「……お嬢様」
部屋の隅で控えていた使用人が、気遣わしげに声をかける。
「少し、お休みになられては」
「大丈夫です」
即答だった。
「でも……」
「龍くんを、一人にしたくないんです」
使用人は困ったように視線を伏せる。
ここ一か月、氷華はずっとこんな調子だった。
学校以外の時間、そのほとんどを龍のために使っている。
食事も。
着替えも。
夜中に目を覚ませば様子を見に行き、眠れない日はそのまま隣に座り続ける。
まだ十二歳の少女が背負うには、あまりにも重すぎた。
「……氷華」
不意に、低い声がした。
振り返ると、父――南海雅臣が部屋の入口に立っていた。
「お父様」
「少し来なさい」
静かな声音だった。
氷華は一瞬だけ龍を見る。
龍は変わらず、空虚な目で天井を見つめている。
「……すぐ戻るから」
返事はない。
廊下へ出ると、雅臣はしばらく沈黙したまま歩いた。
やがて、人目のない場所で立ち止まる。
「……限界だ」
「え……?」
「龍君との婚約は解消する」
氷華の肩が、ぴくりと震えた。
「百済家は事実上崩壊した。今の彼に、嫡流としての立場はない」
「……」
「それだけではない。今の龍君を、お前一人に背負わせるわけにはいかない」
「背負うって……私は、そんな」
「氷華」
雅臣は娘を真っ直ぐ見た。
「お前、最近ほとんど眠れていないだろう」
「それは……」
「食事の量も減っている。顔色も悪い」
図星だった。
氷華自身、自覚はあった。
それでも。
「……でも、龍くんを一人にはできません」
「氷華」
「だって、龍くんにはもう誰もいないんです……!」
思わず声が震えた。
「お父様も見たでしょう!? 龍くん、誰にも反応しないんです! でも、私が話しかけた時だけは……少しだけ……!」
「それでもだ」
雅臣は厳しく言い切る。
「お前はまだ子供だ」
「……っ」
「龍君を救えなかった時、お前自身まで壊れる」
氷華は俯いた。
胸が苦しい。
わかっている。
父の言葉は正しい。
けれど。
「……それでも」
小さな声で、氷華は言った。
「私は、龍くんのそばにいたいです」
雅臣は目を閉じる。
長い沈黙の末、深く息を吐いた。
「……好きにしなさい」
「お父様……」
「ただし、無理だけはするな」
その言葉だけを残し、雅臣は去っていった。
廊下に一人残された氷華は、ぎゅっと胸元を掴む。
「……どうして」
婚約は解消された。
もう、自分は龍の“許嫁”ではない。
なのに。
どうしてこんなにも、離れたくないと思ってしまうのか。
どうして、彼を誰にも渡したくないと思ってしまうのか。
「……だめ」
その感情に、氷華は蓋をする。
考えてはいけない。
これは家族に向けるものじゃない。
今の龍には、自分しかいない。
だから支えたいだけ。
そう、自分に言い聞かせた。
――だが。
その日々は、少しずつ氷華を削っていった。
◇
「……龍くん?」
返事はない。
窓の外では、冷たい雨が降っている。
今日も龍は、ほとんど何も話していない。
「龍くん、こっち見て?」
反応は薄い。
視線がゆっくり動き、また止まる。
胸が痛かった。
一か月。
毎日、毎日、龍の傍にいた。
けれど龍は戻ってこない。
「……っ」
疲れが限界に達していた。
心が擦り切れていた。
そして。
「……お兄ちゃん」
ぽつりと。
無意識に、その言葉が零れた。
瞬間。
空気が変わった。
「――え」
氷華の息が止まる。
ベッドの上の龍が。
初めて。
はっきりと、氷華を見た。
「りゅ……龍くん?」
瞳が合う。
今までの空虚な視線ではない。
ちゃんと、“見ている”。
氷華の心臓が激しく跳ねた。
「お、お兄ちゃん……?」
恐る恐る、もう一度呼ぶ。
龍の視線が揺れる。
まるで、必死に何かを探すように。
「……ぁ」
掠れた声。
一ヶ月ぶりだった。
龍が、自分の意思で声を出したのは。
氷華の目に涙が滲む。
「龍くん……!」
駆け寄り、手を握る。
龍はその手を振り払わなかった。
違う。
今までと違う。
そこに、確かな反応がある。
「お兄ちゃん……私、ここにいるから……」
その言葉に。
龍の指が、かすかに動いた。
縋るように。
氷華は、理解してしまった。
――自分が、“
そうすれば龍は、壊れずに済む。
繋ぎ止められる。
「……大丈夫」
氷華は泣きそうな顔で微笑んだ。
「私がいるからね、お兄ちゃん」
それは、壊れかけた少年を救うための言葉。
けれど同時に。
南海氷華という少女自身を、静かに歪め始める呪いの言葉でもあった。