劣等生と落伍者(Re:)   作:百済 影炎

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第十話 空白

 南海家本邸、その一室。

 柔らかな陽光が差し込むはずの部屋は、昼だというのにどこか薄暗かった。

 

 ベッドの上では、龍が天井を見つめたまま、微動だにしていない。

 

「……龍くん、少しだけでも食べよう?」

 

 氷華は、できるだけ優しい声で問いかける。

 だが返事はない。

 視線だけが空虚に宙を漂っている。

 

「今日はちゃんと温かいうちに作ってもらったんだよ? お粥、前より食べやすいと思うから……」

 

 スプーンを口元へ運ぶ。

 龍は抵抗しない。

 

 ただ、自分から食べようともしなかった。

 

「……」

 

 氷華は小さく唇を噛む。

 

 最初の頃は、龍が暴れる可能性も考えられていた。

 錯乱して泣き叫ぶのではないか、と。

 

 だが実際は違った。

 

 龍は壊れていた。

 壊れているのに、静かすぎた。

 

 話しかければ視線を向けることはある。

 触れれば反応も返る。

 

 けれど、そこに“意思”がない。

 

 まるで、人形だった。

 

「……お嬢様」

 

 部屋の隅で控えていた使用人が、気遣わしげに声をかける。

 

「少し、お休みになられては」

 

「大丈夫です」

 

 即答だった。

 

「でも……」

 

「龍くんを、一人にしたくないんです」

 

 使用人は困ったように視線を伏せる。

 ここ一か月、氷華はずっとこんな調子だった。

 

 学校以外の時間、そのほとんどを龍のために使っている。

 

 食事も。

 着替えも。

 

 夜中に目を覚ませば様子を見に行き、眠れない日はそのまま隣に座り続ける。

 

 まだ十二歳の少女が背負うには、あまりにも重すぎた。

 

「……氷華」

 

 不意に、低い声がした。

 

 振り返ると、父――南海雅臣が部屋の入口に立っていた。

 

「お父様」

 

「少し来なさい」

 

 静かな声音だった。

 

 氷華は一瞬だけ龍を見る。

 龍は変わらず、空虚な目で天井を見つめている。

 

「……すぐ戻るから」

 

 返事はない。

 

 廊下へ出ると、雅臣はしばらく沈黙したまま歩いた。

 やがて、人目のない場所で立ち止まる。

 

「……限界だ」

 

「え……?」

 

「龍君との婚約は解消する」

 

 氷華の肩が、ぴくりと震えた。

 

「百済家は事実上崩壊した。今の彼に、嫡流としての立場はない」

 

「……」

 

「それだけではない。今の龍君を、お前一人に背負わせるわけにはいかない」

 

「背負うって……私は、そんな」

 

「氷華」

 

 雅臣は娘を真っ直ぐ見た。

 

「お前、最近ほとんど眠れていないだろう」

 

「それは……」

 

「食事の量も減っている。顔色も悪い」

 

 図星だった。

 

 氷華自身、自覚はあった。

 

 それでも。

 

「……でも、龍くんを一人にはできません」

 

「氷華」

 

「だって、龍くんにはもう誰もいないんです……!」

 

 思わず声が震えた。

 

「お父様も見たでしょう!? 龍くん、誰にも反応しないんです! でも、私が話しかけた時だけは……少しだけ……!」

 

「それでもだ」

 

 雅臣は厳しく言い切る。

 

「お前はまだ子供だ」

 

「……っ」

 

「龍君を救えなかった時、お前自身まで壊れる」

 

 氷華は俯いた。

 

 胸が苦しい。

 

 わかっている。

 父の言葉は正しい。

 

 けれど。

 

「……それでも」

 

 小さな声で、氷華は言った。

 

「私は、龍くんのそばにいたいです」

 

 雅臣は目を閉じる。

 

 長い沈黙の末、深く息を吐いた。

 

「……好きにしなさい」

 

「お父様……」

 

「ただし、無理だけはするな」

 

 その言葉だけを残し、雅臣は去っていった。

 

 廊下に一人残された氷華は、ぎゅっと胸元を掴む。

 

「……どうして」

 

 婚約は解消された。

 

 もう、自分は龍の“許嫁”ではない。

 

 なのに。

 

 どうしてこんなにも、離れたくないと思ってしまうのか。

 

 どうして、彼を誰にも渡したくないと思ってしまうのか。

 

「……だめ」

 

 その感情に、氷華は蓋をする。

 

 考えてはいけない。

 

 これは家族に向けるものじゃない。

 

 今の龍には、自分しかいない。

 だから支えたいだけ。

 

 そう、自分に言い聞かせた。

 

 ――だが。

 

 その日々は、少しずつ氷華を削っていった。

 

     ◇

 

「……龍くん?」

 

 返事はない。

 

 窓の外では、冷たい雨が降っている。

 

 今日も龍は、ほとんど何も話していない。

 

「龍くん、こっち見て?」

 

 反応は薄い。

 

 視線がゆっくり動き、また止まる。

 

 胸が痛かった。

 

 一か月。

 

 毎日、毎日、龍の傍にいた。

 

 けれど龍は戻ってこない。

 

「……っ」

 

 疲れが限界に達していた。

 

 心が擦り切れていた。

 

 そして。

 

「……お兄ちゃん」

 

 ぽつりと。

 

 無意識に、その言葉が零れた。

 

 瞬間。

 

 空気が変わった。

 

「――え」

 

 氷華の息が止まる。

 

 ベッドの上の龍が。

 

 初めて。

 

 はっきりと、氷華を見た。

 

「りゅ……龍くん?」

 

 瞳が合う。

 

 今までの空虚な視線ではない。

 

 ちゃんと、“見ている”。

 

 氷華の心臓が激しく跳ねた。

 

「お、お兄ちゃん……?」

 

 恐る恐る、もう一度呼ぶ。

 

 龍の視線が揺れる。

 

 まるで、必死に何かを探すように。

 

「……ぁ」

 

 掠れた声。

 

 一ヶ月ぶりだった。

 

 龍が、自分の意思で声を出したのは。

 

 氷華の目に涙が滲む。

 

「龍くん……!」

 

 駆け寄り、手を握る。

 

 龍はその手を振り払わなかった。

 

 違う。

 

 今までと違う。

 

 そこに、確かな反応がある。

 

「お兄ちゃん……私、ここにいるから……」

 

 その言葉に。

 

 龍の指が、かすかに動いた。

 

 縋るように。

 

 氷華は、理解してしまった。

 

 ――自分が、“(那由他)の代わり”になればいいのだと。

 

 そうすれば龍は、壊れずに済む。

 

 繋ぎ止められる。

 

「……大丈夫」

 

 氷華は泣きそうな顔で微笑んだ。

 

「私がいるからね、お兄ちゃん」

 

 それは、壊れかけた少年を救うための言葉。

 

 けれど同時に。

 

 南海氷華という少女自身を、静かに歪め始める呪いの言葉でもあった。

 

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