事故から九日後。
白い天井が、ぼやけた視界の中に浮かんでいた。
鼻を突く消毒液の匂い。
規則的な電子音。
身体のあちこちに走る鈍い痛み。
「……っ」
微かに呻いた瞬間、傍らから椅子の軋む音がした。
「――龍くん?」
聞き慣れた声だった。
霞んだ視界の先。
ベッドに縋るようにしていた少女が、弾かれたように顔を上げる。
青みがかった銀髪。
泣き腫らしたエメラルドグリーンの瞳。
「龍……っ、龍くん……!」
「……氷華、ちゃん……?」
掠れた声だった。
次の瞬間、南海氷華は堪え切れないように龍の手を握った。
「よかった……っ、本当に……っ、目、覚まして……!」
震える声。
ぼろぼろと零れ落ちる涙。
龍はぼんやりと瞬きをした。
「……僕、どれくらい……?」
「九日……」
「九日……?」
「ずっと眠ってたの……。お医者様も、いつ目を覚ますかわからないって……」
氷華は言葉を続けようとして、途中で唇を噛んだ。
龍はまだ上手く働かない頭で、ゆっくり記憶を辿る。
崩れる天井。
轟音。
熱。
誰かの叫び声。
そして――。
「お父さんと、お母さんは?」
ぴたり、と。
病室の空気が止まった。
氷華の肩がびくりと震える。
「……氷華ちゃん?」
「っ……」
彼女は答えられなかった。
ただ、俯いたまま龍の手を強く握る。
「……そっか」
静かな声だった。
あまりにも静かすぎて、逆に氷華の顔が歪む。
「ち、違……っ、まだ……!」
そこで、病室の扉が開いた。
入ってきたのは、白衣姿の医師だった。
年配の男性医師は、目を覚ました龍を見ると安堵したように息を吐く。
「百済君。意識が戻ったようで何よりです」
「……先生」
医師は少しだけ視線を伏せた。
「いいですか、落ち着いて聞いてください。君のお父様とお母様について、話さなければなりません」
氷華が「やめて」と言いたげに顔を上げた。
だが、龍は小さく頷く。
「……聞きます」
医師は数秒沈黙し、それから口を開いた。
「お二人は、崩落事故の際、君を庇われました」
「…………」
「救助時には、すでに――」
その先は、最後まで聞かなくてもわかった。
病室は静まり返っていた。
氷華は泣いていた。
医師も、言葉を探しているようだった。
けれど、龍だけは。
「……そう、ですか」
静かだった。
泣き叫ぶことも。
取り乱すことも。
現実を否定することもない。
ただ、布団の上で拳を握り締める。
爪が掌に食い込むほど強く。
「龍くん……?」
氷華が不安そうに名前を呼ぶ。
龍は少しだけ視線を落とした。
「……最後まで、僕を守ったんだ」
掠れた声だった。
「お父さんも、お母さんも」
「龍くん……っ」
「僕、生き残っちゃったんだね……」
その一言に、氷華の表情が凍りつく。
「違う!」
思わずというように、彼女は叫んでいた。
「そんな言い方、しないで……!」
「……氷華ちゃん」
「龍くんが生きててよかったって、みんな思ってる! 私も……っ、私は……!」
涙で声を詰まらせながら、氷華は必死に言葉を続ける。
「だから、自分だけ残っちゃったみたいな顔、しないで……!」
龍は少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように小さく笑う。
「……ごめん」
けれど、その笑顔はあまりにも弱々しかった。
今にも壊れてしまいそうなほどに。
医師は一度咳払いをすると、慎重に話題を変えた。
「……もう一つ、問題があります」
「……
医師と氷華が同時に顔を上げる。
「妹さんには、まだ何も伝えていません」
「…………」
「現在の精神状態は比較的安定しています。ですが、強い精神的ショックは命に関わる可能性がある」
龍は静かに聞いていた。
医師は続ける。
「こちらとしても、伝える時期は慎重に判断したい。無理に今すぐ知らせるべきでは――」
「僕が行きます」
即答だった。
氷華が息を呑む。
「龍くん!?」
「僕が、那由他に話します」
「だ、だめ……! 今の龍くん、そんな状態じゃ――」
「でも、僕しかいない」
その言葉に、氷華が詰まる。
龍は俯いたまま、静かに続けた。
「那由他にとって、お父さんとお母さんは家族で……」
一度、言葉が止まる。
「……僕は、お兄ちゃんだから」
その瞬間。
氷華は初めて理解した。
目の前の少年は、まだ壊れてはいない。
けれど今、壊れないように必死に立っているのだと。
自分が泣けば。
自分が倒れれば。
きっと、妹はもっと傷つく。
だから龍は、泣かない。
自分と同い年の少年でしかないのに。
誰よりも傷ついているはずなのに。
“兄だから”という理由だけで、立とうとしている。
氷華は唇を噛み締めた。
「……私も行く」
「氷華ちゃん?」
「龍くん一人じゃ、行かせない」
涙の残る瞳で、氷華は真っ直ぐ龍を見る。
「龍くんが倒れそうになったら、私が支えるから」
龍は少しだけ目を伏せ、それから微かに笑った。
「……ありがとう、氷華ちゃん」